トイレ友達とメール友達
日経 BP に、「爆発的広がりを見せるソーシャル・メディア(前編): 中身の無いコミュニケーションがなぜ若者に広がっているのか?」という小林雅一氏の興味深い論考がある。
「Twitter」や「リアルタイム日記」などのツールで、どうでもいいお話の交換をしあう風潮についての考察だ。
私は似たような現象として、若い女の子たちが、どうでもいい内容のケータイ・メールを頻繁に交換し合うのを、一時は不思議に思っていた。しかし小林氏によると、最近は女子高校生の間でメールの交換は減りつつあるという。
それに取って代って、種々の「リアルタイム日記」サービスの利用が増えつつあるらしく、そのファクターは、ブームプランニング・コーディネーター、相川麻子氏のコメントとして、以下のように説明されている。
メールは送られると返さねばならない煩わしさがある。これに対しリアルタイム日記は,自分が言いたいことを言って,見たい人だけ見てくれればいいので気が楽だ。といっても一方的な自己表現ではなく,日記を読んだ人がレスポンスを書き込むこともできる。そこに一言書いてあることのうち,気になったものを翌日の学校で話題にしたり,あるいはヘコんでいたら 『大丈夫?』 という電話をかけたり,そういうきっかけにもなってるようだ。
要するにこれって、「女の子ツール」 なんだなと思う。私が高校生の頃のいにしえの話でいえば、「トイレ友達」 みたいなもんだ。
女の子って休み時間になると、「トイレ行こう」なんて、ごく自然に誘い合って連れ立ってトイレに行くという、私からみると、摩訶不思議な存在だった。で、たまにそういう「トイレ友達文化」に馴染まない子がいると、その子は、ちょっと一風変わった存在になりかねないのだった。
あれって、学校のトイレへの往復という超日常を共有し合うことによって、「つながり感 をもつという文化だったんじゃあるまいかと思うのだ。大切なのは「つながり感」であって、それさえ確保できれば、そのための手段や内容は問わない。当時は休み時間に連れ立ってトイレに行くというのが、最も有効なツールだったのだ。
そうしたメンタリティが、近頃ではケータイという便利すぎるツールを得てしまったために、「頻繁なメール交換」という「行きすぎ」にまでたどり着いたんだとみている。
マンモスが牙が大きくなりすぎて滅んだように、進化というのは不便なエクストリームに至っても止められない。それで「頻繁なメール交換」が、いくらうっとうしくても、なんとなく強制されたようにレスを付け合うということになっているんだと思っていた。
で、このリアルタイム日記というのは、それをちょっとだけ緩和することのできるツールになるのかもしれない。あるいは、進化のベクトルが邪魔してそうはならないかもしれないけれど、できれば楽になるといいね。
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コメント
ども。いつも読み逃げしてます。なんというか、いつもほんとおもしろいです。
mixiやブログでも一部のブログは誰が訪問したか、足跡が残るので結局「足跡ついてたのに何でコメントくれないの?」ってなことになって結局その場合は「トイレ友達」ですね。でそれがやはりめんどくさくなってmixiを脱退する人とか相次いでるようで、「mixi病」とか言われるのがそのめんどくささを気に病んだ状態だそうで。
まー僕もここよく読み逃げしてますが、書き手なら書いて書き逃げ(?)、読み手は読んで読み逃げのできる距離感ってのはあった方がいいのになって思います。ん。いや、僕は男だからかそんな「トイレ友達」的関係に苦しんだ事ありませんが。
投稿: Komiken | 2007年8月10日 14:30
Komiken さん:
>書き手なら書いて書き逃げ(?)、読み手は読んで読み逃げのできる距離感ってのはあった方がいいのになって思います。
まさにそう思います。
そうでないと、面倒くさくて長続きするはずないですね。
投稿: tak | 2007年8月10日 18:08