大人は子どもを通してしか夏が見えない
去年同様、今年も梅雨明けが遅くて、しかも、関東は梅雨が明けても、いわゆる「梅雨明け十日」といわれる、からりとした晴天が続かない。なんとなくぐずぐずしている。
それに今年は 6月が暑くて、7月には台風が来ちゃったから、もうこれからは「残暑」じゃないかなんてことを言う人までいる。
確かに近頃、夏にしらけるのである。いかにも夏らしい夏に遭遇していない気がする。あの、入道雲がもくもくと湧いて、青空に太陽が白いほどに輝き、セミが鳴き、海に波が光る夏はどこに行ったのだ。3000メートルの稜線を、乾いた風に吹かれながら辿る、あの夏は。
と近頃、いつの間にかなし崩し的に秋になってしまっているという、ちょっと味気ない夏を不満に思っていたのだが、ふと思い当たったことがある。近頃、夏が夏らしくないのは、周りに子どもがいないからではないかと気付いたのだ。
真っ黒に日焼けし、麦わら帽子をかぶり、アイスクリームを舐め、庭のビニールプールではしゃぎ、虫取り網を振り回す子どもが、めっきり減ってしまったのである。そうか。あの光景がないと、夏は夏じゃないのだ。
そういえば私自身、もっとも夏らしい夏を過ごしたのは、子供の頃である。長いけれどあっという間に終わる、一年のメインイベントの夏休み。朝起きて昼ご飯にたどり着くまで、まず気が遠くなるほど、永遠に近い時間感覚。そして、夕方までに昼寝をしても、まだ明るい。さらに、夜も長い。
翌朝目覚めれば、またしても圧倒的な青空。気絶しそうな青空。黙っていても流れ落ちる汗を、走り回って何十倍にもして流す。そして、ばったりと寝る。これこそが夏なのである。夏の醍醐味なのである。
そう、大人には自分自身の夏がない。周囲の夏休みの子どもたちを通して、「あの夏」を追体験するだけの存在なのだ。その追体験をさせてくれるメディアとしての子どもたちが、これほどまでに減ってしまっては、もはや日本にまともな夏はないのである。
いやはや、子どもって、うるさいけど必要な存在なのだ。
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コメント
お邪魔します。がんなむぅです。
汗、砂埃、ちょっとばかりの切り傷擦り傷。
家へ帰ってから気付くシャツの染み…。
あの時、真っ黒だったあの娘(こ)は、今では素晴らしいお母さん。
ワタクシは、小僧の『夏休みのしくだい』に付き合うことで、夏を満喫ちうであります。
投稿: がんなむぅ | 2007年8月 5日 01:15
がんなむぅ さん:
ウチの三人娘は皆、二十歳を過ぎてしまいましたので、我が家には今、夏を見せてくれる存在がないのです。
確かに、娘達が学校に通ってた頃は、夏がありましたね。
孫ができるまでには、まだ間がありそうだし。
(高校の同級生で、何人か孫ができたと言うやつがいますが)
投稿: tak | 2007年8月 5日 16:40
昨日、暑いなかを隣駅まで歩いたら、途中にある昔ながらの区民プールから子供たちの歓声が聞こえてきました。夏だなぁ。
投稿: 山辺響 | 2007年8月 6日 09:59
山辺響 さん:
>昔ながらの区民プールから子供たちの歓声が聞こえてきました。
これは、かなり夏そのものの光景ですね。
ただ、こうした施設でも、昔ほど芋の子洗いみたいな混み方じゃない気がします。
投稿: tak | 2007年8月 6日 11:10