今週の "死刑で罪は償えるのか" と、"死刑の 「目的」" という 2つのエントリーについたコメントにレスしているうちに、私自身の死刑に関する考えがかなり整理された。
私は一貫して 「被害者遺族の復讐的意味合いの死刑要求」 に疑問を呈したのだが、逆に肯定的コメントが多いのに驚いた。
光市母子殺人事件の被害者の夫である本村洋氏の、かなり本気の死刑要求に私はどうしても違和感を覚えてしまい、「私だったらそうはしない」 という態度表明をしたのだが、寄せられたコメントの過半数は、遺族の復讐的意味合いでの死刑要求は当然のことというご意見だった。
「目には目を」 的なコンセプトが私の想像以上に当然と見なされていることに、私は少なからず戸惑ってしまったのである。まず私は、もしかして自分が偽善的なことを言っているのではあるまいかと疑ってみた。
もし自分の身内が殺されたら、本当は復讐したいのに、犯人をなぶり殺してやりたいのに、その感情を偽善的な理性で抑圧して、「死んで償うより、生きて償ってもらいたい」 などというきれい事を言っているのではあるまいかと、自問自答した。
その結果、やっぱり私は、復讐的な意味合いでの死刑は、本心から望まないだろうということを確認してしまったのである。
なぜか。私はこれに先立つ 2つのエントリーを書いた時点では、その理由を自分でも明確に意識していなかったのだが、自問自答のうちに、何となくわかったような気がした。
正直言って、私はいくら復讐とはいえ、人を殺すのが 「コワい」 のである。そう、コワくてしょうがないのだ。
争った相手の腕を脱臼させてしまうぐらいで十分に気持ち悪いのに、階段からたたき落としてしまったぐらいで十分わなわなするのに、こともあろうに殺してしまったりしたら、どんなにぞっとするだろう。
私は幸いなことに人を殺したことがないが、そのおぞましさはかなりリアルに想像できる。もしかしたら、前世で人殺しをしたのかもしれないなんて思ってしまうほどだ。
そして、いくら国家が私になりかわって 「代理復讐」 としての死刑を執行してくれるといっても、私はそんな夢見の悪いことを敢えて望まない。要するに私は、その程度の 「根性なし」 なのである。
人は、それは私が肉親を殺されたことがないので、傍観者的なスタンスだからこそ言えるのだと指摘するかもしれない。自分が被害者遺族の立場になったら、本当に 「復讐を望まない」 などと言えるかと、疑うかもしれない。
しかし、私の感じ方は、それとは逆なのだ。
自分とは無関係な殺人事件の裁判で死刑の判決が出ても、私は冷静に 「ふ~ん、それは妥当な判決だよね」 などと思っていられる。しかし、もし自分が被害者遺族だったとしたら、そんなに冷静ではいられない。
被告に死刑が宣告されたら、果たして溜飲が下がるだろうか。「それみたことか。死刑執行の日まで、せいぜい怯えるがいい、苦しむがいい」 と、なぶるようなまなざしでいられるだろうか。人間とは、そんなに物理的なまでに単純明快な生き物だろうか。
実際には、死刑が執行されるまで、私の方がまともな精神状態ではいられないだろう。そして、執行されたらされたで、その後はずっと夢見が悪いだろう。決して胸のつかえがとれたような思いにはならないだろう。
私は多くの人がなぜそれほどまでに 「復讐的意味合い」 での死刑を望むのか、わからない。「当事者でないから、そんなことが言えるのだ」 との指摘には、同じ言葉を返したい。そして、「本当にそんなに当然のごとくに、おぞましさにおぞましさで報いたいか」 と付け加えたい。
命のやり取りに直接関わることが、どんなに身の毛のよだつことか、想像できないのかと。
私なら、そんなに夢見が悪く、気分の晴れないことはしたくない。忠臣蔵の復讐劇をみて単純に感動できるのは、その敵討ちが、「ひとごと」 だからである。自分の身にふりかかったら、果たしてどうだろう。大石内蔵助の煩悶がどれほど辛かったか、想像もできない。
これには、私の中にある仏教的倫理観が影響しているのかもしれない。業を以て業に報いることにより、さらに増幅した業が自分に返ってくるのを、私は本心から畏れる。できれば自分の関与できる時点で、その業の応酬を断ち切りたい。そうでないと、いつまで経っても因果の渦の中で心休まる時がない。
ここでもう一度確認しておきたいが、私は決して死刑廃止論者ではない。死刑制度には、漠然としたものではあるが、犯罪抑止効果があると思っている。
この矛盾の解決手段として、もし私が被害者遺族の立場にあって、被告に死刑宣告が下ったとしても、それは私の望んだことではなく、国家が勝手に決めたことだということにしておきたい。それは、対社会的に意味のあることであって、私とは無関係なことだと。
ある意味、とてもズルイ態度かもしれず、それはそれで、ちょっと煩悶したくなる結論ではあるが、自分が決して被害者遺族になどならないと信じて、これ以上深く考えないことにする。
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