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2007年9月に作成された投稿

2007年9月30日

酒田の 「舞娘」

JR 東日本の CM で吉永小百合様が、我が故郷、酒田を歩いておいでである。撮影現場に居合わせたかったなあ(参照)。

こうしてみると、テレビの画面にかの大女優を擁して、見る者をしらけさせない存在感を主張できるだけの風景が、酒田にはちゃんとあったのだなと、ちょっとだけ嬉しい。

「ちょっとだけ」というのは、酒田の街全体は、やっぱりさすがに吉永小百合と張り合うほどの雰囲気は持ち合わせないからだ。狙い打ちしてフレームで切り取った部分だけは、なかなかのものなのだが。

ただそうかといって、酒田の街全体を、東京人の期待に添った「東北に花開いた上方文化の湊町」という色合いで塗りつぶそうとしても、そんなことは空しいし、どだい、できっこない。

酒田のバックグラウンドは、どってことない普通の田舎町でいいのである。その中にちょっと意外なほどハイカラな部分が残っていて、物好きはそれをみて、ちょっとだけどきっとするぐらいでちょうどいいのである。

で、ちょっと気になるところがあった。「酒田の舞娘」の件である。「まいこ」は普通「舞妓」である。そうでなければ「舞子」だ。酒田のはなんで 「舞娘」 なのかというと、

宴会の席などの “芸” ということではなく「その場を華やかにする舞う娘」という意味をもたせるため

なのだそうだ。ふ~ん、そんなことは、私も初めて知った。はからずも、普通の田舎町の中のちょっと意外な要素という意味合いにうまくバランスした表記かもしれない。

それでも、ちょっとなんだかなあ。キャバクラのおねえちゃんじゃあるまいし。私はちゃんと「芸」をみせて欲しいけどなあ。「芸」がなければ、本当の意味でその場を「華やか」にすることなんてできないぞ。

酒田の「舞娘」が、内心ではちゃんと「舞妓」たるべく精進されることを願いつつ、おやすみなさい。ああ、たまった原稿を仕上げるのに手間取って、眠い。

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2007年9月29日

杉村大蔵議員の投票「盗撮」

近頃、死刑なんていう、ちょっと自分にはヘビーすぎるお話にかまけてしまったので、ちょうどいい小ネタに触れるタイミングを逸していたのだが、今さらながら書こうと思う。

この度の総裁選挙における、杉村大蔵議員が麻生氏に投票したのを日テレが「盗撮」しちゃったというお話だ(参照)。

どうやら本当に盗撮して、ニュースショーで流しちゃったらしい。YouTube にも載っけられちゃってる。これに対して、2ちゃんねるあたりで非難囂々ということになってしまったようだ。

しかしこの件、玄倉川さんが指摘しておられる(参照)ように、私も大したことじゃないと思う。少なくとも「やっちゃいけないこと」なんて言って騒ぐのは、かなり気恥ずかしい。だって、相手は日テレと杉村大蔵議員のセットなんだよ。

多分、裏で話がついてたんだろう。状況証拠だが、杉村議員はちっとも怒ってないし、アナウンサーの福沢さんが泣いて謝ったという話も、この件に関しては聞こえてこない。そもそもあの投票の現場にご大層な超望遠レンズをセットしたカメラを持ち込んで、投票ブースを狙うのを黙認している時点で、ほとんど出来レースである。

そして相手が杉村議員だからこそ、「盗撮」して電波に乗せたんである。盗撮された杉村議員は、元々小泉チルドレンの申し合わせにケツをまくって麻生支持を表明していたのだから、実際の投票がばれたところで、痛くも痒くもない。むしろしっかりと話題になったので、どちらかといえば満足だろう。

これは Win - Win の関係である。少なくとも、日テレと杉村議員との間での了解事項としては。

ただ、両者ともちょっとエキセントリックだったため、効果というよりは反感の方がずっと大きかったのが誤算といえば誤算だろう。で、「ありゃりゃ、すべったかな?」 と、ちょっとだけ後悔しているかもしれないというだけの話なんじゃないかなあ。

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2007年9月28日

死刑をめぐる煩悶

今週の "死刑で罪は償えるのか" と、"死刑の 「目的」" という 2つのエントリーについたコメントにレスしているうちに、私自身の死刑に関する考えがかなり整理された。

私は一貫して 「被害者遺族の復讐的意味合いの死刑要求」 に疑問を呈したのだが、逆に肯定的コメントが多いのに驚いた。

光市母子殺人事件の被害者の夫である本村洋氏の、かなり本気の死刑要求に私はどうしても違和感を覚えてしまい、「私だったらそうはしない」 という態度表明をしたのだが、寄せられたコメントの過半数は、遺族の復讐的意味合いでの死刑要求は当然のことというご意見だった。

「目には目を」 的なコンセプトが私の想像以上に当然と見なされていることに、私は少なからず戸惑ってしまったのである。まず私は、もしかして自分が偽善的なことを言っているのではあるまいかと疑ってみた。

もし自分の身内が殺されたら、本当は復讐したいのに、犯人をなぶり殺してやりたいのに、その感情を偽善的な理性で抑圧して、「死んで償うより、生きて償ってもらいたい」 などというきれい事を言っているのではあるまいかと、自問自答した。

その結果、やっぱり私は、復讐的な意味合いでの死刑は、本心から望まないだろうということを確認してしまったのである。

なぜか。私はこれに先立つ 2つのエントリーを書いた時点では、その理由を自分でも明確に意識していなかったのだが、自問自答のうちに、何となくわかったような気がした。

正直言って、私はいくら復讐とはいえ、人を殺すのが 「コワい」 のである。そう、コワくてしょうがないのだ。

争った相手の腕を脱臼させてしまうぐらいで十分に気持ち悪いのに、階段からたたき落としてしまったぐらいで十分わなわなするのに、こともあろうに殺してしまったりしたら、どんなにぞっとするだろう。

私は幸いなことに人を殺したことがないが、そのおぞましさはかなりリアルに想像できる。もしかしたら、前世で人殺しをしたのかもしれないなんて思ってしまうほどだ。

そして、いくら国家が私になりかわって 「代理復讐」 としての死刑を執行してくれるといっても、私はそんな夢見の悪いことを敢えて望まない。要するに私は、その程度の 「根性なし」 なのである。

人は、それは私が肉親を殺されたことがないので、傍観者的なスタンスだからこそ言えるのだと指摘するかもしれない。自分が被害者遺族の立場になったら、本当に 「復讐を望まない」 などと言えるかと、疑うかもしれない。

しかし、私の感じ方は、それとは逆なのだ。

自分とは無関係な殺人事件の裁判で死刑の判決が出ても、私は冷静に 「ふ~ん、それは妥当な判決だよね」 などと思っていられる。しかし、もし自分が被害者遺族だったとしたら、そんなに冷静ではいられない。

被告に死刑が宣告されたら、果たして溜飲が下がるだろうか。「それみたことか。死刑執行の日まで、せいぜい怯えるがいい、苦しむがいい」 と、なぶるようなまなざしでいられるだろうか。人間とは、そんなに物理的なまでに単純明快な生き物だろうか。

実際には、死刑が執行されるまで、私の方がまともな精神状態ではいられないだろう。そして、執行されたらされたで、その後はずっと夢見が悪いだろう。決して胸のつかえがとれたような思いにはならないだろう。

私は多くの人がなぜそれほどまでに 「復讐的意味合い」 での死刑を望むのか、わからない。「当事者でないから、そんなことが言えるのだ」 との指摘には、同じ言葉を返したい。そして、「本当にそんなに当然のごとくに、おぞましさにおぞましさで報いたいか」 と付け加えたい。

命のやり取りに直接関わることが、どんなに身の毛のよだつことか、想像できないのかと。

私なら、そんなに夢見が悪く、気分の晴れないことはしたくない。忠臣蔵の復讐劇をみて単純に感動できるのは、その敵討ちが、「ひとごと」 だからである。自分の身にふりかかったら、果たしてどうだろう。大石内蔵助の煩悶がどれほど辛かったか、想像もできない。

これには、私の中にある仏教的倫理観が影響しているのかもしれない。業を以て業に報いることにより、さらに増幅した業が自分に返ってくるのを、私は本心から畏れる。できれば自分の関与できる時点で、その業の応酬を断ち切りたい。そうでないと、いつまで経っても因果の渦の中で心休まる時がない。

ここでもう一度確認しておきたいが、私は決して死刑廃止論者ではない。死刑制度には、漠然としたものではあるが、犯罪抑止効果があると思っている。

この矛盾の解決手段として、もし私が被害者遺族の立場にあって、被告に死刑宣告が下ったとしても、それは私の望んだことではなく、国家が勝手に決めたことだということにしておきたい。それは、対社会的に意味のあることであって、私とは無関係なことだと。

ある意味、とてもズルイ態度かもしれず、それはそれで、ちょっと煩悶したくなる結論ではあるが、自分が決して被害者遺族になどならないと信じて、これ以上深く考えないことにする。

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2007年9月27日

福田新政権への期待と不安ですと?

今週初め、TBS ラジオのデイキャッチとかいう番組で、「福田新政権への期待と不安」 というテーマのもと、期待と不安のどっちが大きいかというようなアンケートをとったらしい。

こうした調査の常として、不安の方が大きいという声が過半数を占めたようだが、このアンケート、ちょっとナンセンスじゃないか?

今はどうだかしらないが、履歴書を書くとき、自分の長所と短所を自分で記入する欄が、昔はあったりした。これって、とても困る。長所を先に書いたら、短所は書けない。短所を先に書いたら、今度は長所が書けない。だって、長所と短所って自分のキャラの裏表でしかないから。

これと似たような意味合いで、「期待と不安とどちらが大きい?」なんて聞かれても、答えようがない。普通は、「期待が大きいと、不安も大きい」のである。「大船に乗ったつもり」にさせるような人材なんて、ほとんどいないのだから。

だから、こうした調査で「不安の方が大きい」と答えるタイプの人は、新首相が誰になっても、判で押した如くに「不安の方が大きい」と答える人なのである。権力に対してはシニカル以外の態度をしらないというか、天声人語タイプというか。

私なら、この新政権に関して言えば、「あまり大きな期待はしないから、不安もあまり大きくない」と答えるしかない。福田政権というのは、そういうタイプの政権なんだと思う。安倍政権の場合は、当初はとても理念的なことを高々と掲げて、ちょっとだけ期待を持たそうとしただけ、不安も結構大きく、結果的にその不安の方が的中したわけだが。

ただ、安倍内閣に対する不安が的中したといっても、だからといって、日本がガタガタになったわけじゃない。首相が心身症になって、突然ばっくれちゃうという前代未聞の事態になっても、日本ではクーデターが起こるでもなく、株価が乱高下するでもなく、突然他国から攻撃を受けちゃうというわけでもなく、何のことなく 2週間も、のほほんと過ごしてしまった。

そんな時代のことでもあるから、福田さんの 「不安を与えない代わりに、期待もさせない」 という手法の政治がちょうどぴったりなのかもしれない。

ところで、森田正光さんが昨日の朝のラジオでおもしろいことを言っていた。首相就任式の日の天気が、その首相の在任期間と大きな関係があるというのである。

例えば、戦後の代表的な長期政権を率いた佐藤栄作氏、中曽根康弘氏、小泉純一郎氏らの首相就任式当日はとても天気がよく、日照時間は 6時間以上あったのだそうだ。ところだ、短命政権だった羽田孜氏、細川護熙氏らの就任式当日は、天気が悪く、日照時間も 0時間とか、せいぜい 1時間とかだったというのだ。

とくに最近ではほぼ例外なく、天気のいい日に就任した首相は長期政権となり、天気の悪い日に就任した首相は短命に終わっているのである。へぇ、天気の神様に祝福された人は、長期政権を維持できるんだ。そんなこと、初めて知った。

で、ほぼ 1年前の安倍晋三さんの就任式は、台風の影響による土砂降りで、日照時間はゼロだった。あぁ、やっぱりね。そして、福田康夫新首相の場合は、昨日は結構天気がよかったのである。ということは、福田政権は案外長期政権になってしまうのか。

退屈な長期政権が続くと、麻生太郎さんにはちょっと気の毒かも。

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2007年9月26日

死刑の 「目的」

私は今月 23日の 「死刑で罪は償えるのか」 というエントリーで、光市母子殺人事件の被害者遺族、本村さんの「人の命を奪った者は命もって償うべき」という主張に、かなり控えめながら、しつこく疑問を呈しておいた。

ところが、私の疑問とは反対のコメントが 2つ続けてついて、戸惑ったのである。

2つのコメントは、死刑と被害者遺族の救済は不可分であると読み取れるようなものだ。それを読んで、正直なところ私は驚いてしまった。私は、死刑判決と被害者遺族の救済は別問題だろうと思っているので。

まず最初に、以下のようなコメントがついた。

死刑判決は、犯罪者が「自分はいつ死刑執行されるのだろう」と毎日おびえながら暮らす中で、他人に命を奪われることの理不尽さ、恐怖等についてわが身をもって気付かせ、心から反省させることが目的と思います。
そして、謝罪と後悔の念の中で死刑執行されるからこそ、遺族も納得し、救われるのでしょう。

しかし、死刑判決を受けた全ての犯罪者が「謝罪と後悔の念」を抱くという保障はない。そうした効果が「死刑の目的」であるというなら、多くの死刑廃止論者の主張する「人道的理由」などからではなく、効果の保障されないことで人の命を奪うのは、如何なものかと思わざるをえない。

「謝罪と後悔の念」という論理を厳格に解釈するならば、死刑執行は受刑者にそうした気持ちが生じるまで待たなければならない。しかしそれならば、殺されたくない受刑者は、いつまで経っても謝罪の念を表明しないだろう。

こうしたパラドックスが想定される限り、「死刑は受刑者に反省させるため」というのは、少なくともナンセンスに陥る場合があると言わなければならない。そうでなくても、「おぉ、死刑にしてくれ」と開き直る宅間某の例も実際あるし。

2番目についたコメントは、正直言って今イチ意味不明なところがあるのだが、どうやら死刑の目的は、犯罪者に 「死の恐怖を思い知らせること」によって、被害者遺族の納得と救いが生じるという主張なのではないかと読み取れなくもない。

しかし、犯罪者が「死の恐怖」 を思い知ったところで、被害者遺族が「納得と救い」を得られるとは、私には到底思えない。また、死刑になることによって罪の「償い」が達成されるとも信じられない。

近代以前の武士社会においては、「切腹」が最大の詫びと償いの象徴という時代があった。近代以前のみならず、太平洋戦争終結直前に「一死をもって大罪を謝し奉る」と割腹した阿南惟幾陸軍大臣のケースにも、贖罪的シンボルとしての意味が読み取られる。

しかし、現代の死刑はそれらとは決定的に違う。現代の死刑は、自発的に「死んでお詫び仕る」という、ある種の崇高さを伴っているわけではない。

そうこうしているうちに、Reiko Kato さんから、ようやく論理に破綻のないコメントをいただいた。彼女は、受刑者が反省するとか、恐怖を味わうとか、そんなことはどうでもいいことで、死刑の意味は凶悪犯罪者の「社会からの排除」であると指摘している。

なるほど、それなら意味が通る。

彼女はさらに、自身のブログにおいて死刑には殺人の抑止効果があるという説も紹介している。複数の研究成果が、1件の死刑執行によって、複数の殺人の抑止効果があると指摘しているらしい(参照)。どんな計算によるのかは知らないが。

確かに、死刑という制度に目的があるとすれば、この犯罪抑止効果というものがまず挙げられるだろう。

ただその効果を本気で狙うならば、現在の手法よりもずっと「見せしめ性」の高いやり方、つまり晒し首にするとか、十字架に貼り付けるとか、公開銃殺刑とかを採用する方がずっと効果的なはずだ。しかし、それは今の日本ではいくら何でも通らない。

ここで言えるのは、「死刑」という制度はとても複雑で気の滅入る問題を多く含んでいるということに止まる。私は既に述べているとおり、死刑廃止論者ではない。しかし、個別の裁判において、被害者遺族が被告を死刑にせよと強硬に主張することには、どうしても違和感を覚えるのである。

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2007年9月25日

養老先生の煙草論

昨年 4月 7日のエントリーで、私は養老孟司氏 のベストセラー「バカの壁」を本屋でちょっと立ち読みしてみたが、ちっとも買う気になれなかったというようなことを書いた。

で、今回の養老氏の「禁煙運動はナチズム」発言を知るに及んで、なるほど、あの本に魅力を感じなかったわけだと納得した。

私は「バカの壁」の内容に反感を抱いたわけではない。むしろ「言えてる」と思ったのである。しかし、この程度の別段目新しくもないことを、「バカの壁」なんていう傲慢なタイトルで今さら偉そうに書くという感性には、ちょっと引いてしまったのであった。

この本のキャッチフレーズ、"「話せばわかる」 なんて大ウソ!" というのは、わざわざ養老先生に教えてもらわなくても、フツーの大人なら日々感じていることだし、3日ぐらい新聞の政治欄を読めば、子供でもわかることだ。ただ、それを目新しいと感じる日本人が少なからずいたということにも驚くのだが。

で、今回の彼の「禁煙運動はナチズム」発言である。「煙草の害には根拠なし」なんだそうだ。

おいおい、冗談じゃない。私は、そばで煙草を吸われると嫌な思いがするだけでなく、身体的にも確実に異変をきたす。10回に 10回はむせるし、5回ぐらいは激しく咳き込む。ちょっと実験してもらえば(決してされたくはないけど)、すぐに証明される。他人に与える迷惑程度じゃ「煙草の害」とは言えないとでもいうなら、あまりにも無神経すぎるだろう。

それに、煙草を吸う人のそばにしばらくいると、こちらの着ている服まで煙草臭くなって、洗濯するか、一日風通しするかしなければならない。できればクリーニング代を負担してもらいたいぐらいのものだ。これが「煙草の害」でなくて何なんだ?

煙草を吸うやつがいる部屋は、壁から天井からタールまみれになって、掃除が大変だ。これが「煙草の害」でなくて何なんだ? 煙草吸いの多い会議が終わると、会議室が臭くてたまらなくなり、灰皿の始末だけで結構余計な時間が取られ、仕事の効率が落ちる。これが「煙草の害」でなくて何なんだ?

テーブルの上に残された多くの灰皿の始末がどれだけ手間のかかる不愉快な作業か、やったことのない人にはわからないだろう。

養老氏は、喫煙者の健康問題に限って「煙草の害には根拠なし」とおっしゃっているようだが、そう思うなら思うで、全然構わない。私しゃナチじゃないから、喫煙者狩りしようなんてことは全然思わない。

吸いたかったら、どんどん吸えばいい。健康が極度に悪化して医者に煙草を止められても、「煙草の害には根拠なし」と言い張って、頑固に吸い続ければいい。ただし、周囲に煙がもれない部屋で喫煙し、壁や天上にこびりついたタールの掃除や灰皿の始末で、他人の手を煩わせない(要するに「自己責任」ね)という条件付きでの話だ。

私は「煙草の害」の喩えとして、よく電車の中でのウォークマンの「シャカシャカ音」を引き合いに出す。若者のヘッドフォンから漏れてくる「シャカシャカ音」が迷惑だと声高に憤りながら、自分は平気で煙草を吸い放題という人がいる。いい気なものである。

ヘッドフォンからの音漏れを迷惑だと思うなら、彼は少なくとも、公衆の面前で煙草を吸うことを遠慮しなければならない。それは、音も煙も「垂れ流しの迷惑」に変わりがないからだ。それに気付かない人を、私は信じないことにしている。

【9月 26日 追記】

「クローン人間現るッッッ!!の巻き」の 9月 23日のエントリー「禁煙原理主義者による養老発言問題総括」に、とても論理的で妥当な総括が出ているので、参照されたい。

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2007年9月24日

総裁選のねじれ現象

後継総裁は福田さんになったが、福田さんとしてみれば、ここまで派閥横断的な支持を取り付けたのだから、もっと圧倒的な票差で勝ちたかったところだろう。

ところがそうはならなかったところに、今回の総裁選の意味があるだろう。得票率が 63% 対 37%というのは、とても微妙な数字だ。

本当はそんな単純な話ではとても割り切れないのだが、そこを敢えて無理矢理に図式化した言い方をしてしまうと、今回の自民党総裁選は、「日本が大事か、自民党が大事か」という選択において、多くの自民党員が「自民党が大事」という意思表示をしたということになる。

別の言い方をすると、「リスクを取るか、無難を取るか」という選択で、「無難を取る」という方向に傾いたことでもある。しかし、これが果たして本当に自民党のためになる無難な選択であったかどうかというのは、今後の推移を見ないと結論づけられない。

なにしろ、福田、麻生の両氏、お互い、総論と各論にねじれ現象がありすぎなのだ。

参議院選挙で自民党惨敗という結果が出た直後の 7月 30日、私は "近頃 「いい目」 を見てなかった保守王国" というエントリーを書いている。地方の一人区で、軒並み自民党候補者が落選したのは、従来「保守王国」と言われた地方が、近頃の自民党政治でいい目をみた経験を、ちっともしていないことが原因だと指摘した。

で、今回は 2人とも「地域間格差是正」みたいなことを強調し、要するに「保守王国に少しはいい目をみてもらわなきゃ」というような政策を導入することを匂わせた。だが、この問題をより強調していたのは、どちらかといえば麻生さんの方だという印象がある。

私は件のエントリーで「改革推進」と「地方にいい目を見せる」という 2つの政策は相容れないということを、ちょっと遠回しに書いた。この視点からすると、麻生さんの政策では「改革推進」は減速する。まあ、元々「脱小泉」を標榜しているのだから、それはあり得る。

ところが不思議なことに今回は、口先だけでも「小泉、安倍改革路線継承」を謳う福田さんが、自民党内では圧倒的な支持を得た。ふーん。よくわからん。自民党、いつからそんなに全党的に改革路線になったんだ? それに、福田さんのどこが「改革路線継承」なんだ?

要するに、自民党内では「改革」というスローガンが既に錆び付いて口先だけの御しやすいものに成り下がってしまったのか?

世間の空気をみると、「親中派」どころか「媚中派」とまで言われる福田さんを派閥横断で支持した自民党より、秋葉原で麻生さんに圧倒的声援を送った若者の方が、ずっと「右寄り」に見える。前世紀後半では、少なからぬ若者が自民党より右なんてことは、あり得なかった。

こうなったのは、福田さんよりも麻生さんの方がずっと「改革的」に見えるからだ。前世紀後半では、「改革的 = 左寄り」だったが、今ではそれが逆転してしまったかのようにみえる。麻生さん自身も「キャラが立ちすぎて古い自民党に受けが悪い」なんてことを言って、イメージ・プロモーションしようとしているし。

で、具体的には何がなんだかわからないが、イメージ的に言ってしまえば、今回の総裁選の推移と結果をみる限り、自民党は国民の「ニーズ」に即してないということになる。ねじれにねじれすぎている。

あんまりねじれていると嫌になるから、小泉さんにしろ、麻生さんにしろ、国民は「ねじれの少ないわかりやすい」政治家を歓迎したがる。「方向性よりもわかりやすさ」なのだ。わかりにくい政治を戦後ずっと続けすぎたために、日本という国は、こんな風にとても不思議な選択をする国になってしまった。

空気を読める福田さんは、今回の結果でその辺のことをしっかりと感じただろうから、いきなり解散総選挙ということにはならない。やったら負けちゃうし。

福田さんの手法的には、麻生さんもしっかりと手厚く処遇して、挙党一致内閣というポーズを取りたいところだろうが、麻生さん、果たしてそれを受けるだろうか。安易に受けたら、自身の「わかりやすさ」が色あせちゃう。

福田さんは安倍さんと距離をしっかり取って、今回の「いい目」をみたのだけれど、今度は麻生さんがその手に出る番になったのかもしれない。

ああ、政治って面倒くさい。

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2007年9月23日

死刑で罪は償えるのか

光市母子殺人事件の裁判が、世間の注目の的で、あちこちのブログでも、いろいろな視点から語られている。

被告人のいかにも無反省な態度、被害者遺族の強硬な死刑要求、世間の反感買いまくりの弁護団の法廷戦術、どれをとっても、私には極端すぎるように思える。

三者がそれぞれ「極端すぎ」なのだが、まず第一に、被告人の態度があんな風に超不愉快な極端さなのは、これはもう仕方がない。あんなような子だからこそ、あんなような犯罪に手を染めてしまったのである。それはもう、動かしようのない既成事実である。

被告が「反吐の出そうな嫌な奴」というのは、前提として織り込むしかない。彼に対して「誠実に反省しろ」とか、「自ら進んで罪を償え とか要求しても、始まらない。ナンセンスである。今さら急に「普通の感性」を持てという方に無理がある。

それから、弁護団の手法がいくら気に入らないからといって、それに対してヒステリックにどうこう言うのも憚られる。公式的に言えば、彼らは彼らで被告人に対する判決を少しでも軽くするのがビジネスなのであり、「死刑廃止」という主張が極端に混じり込んでいるのは見え見えではあるけれど、かといってその手法が明らかに違法というわけでもない。

この 2つの要素は、どうしようもないことなのである。で、消去法的にいって変わり得る可能性があるのは、被害者遺族の態度だけなのである。そして、本村さんがあのように極刑を要求するのは、玄倉川さんの表現を借りれば、「復讐の鬼」と化している(参照)ように見える。

この事件をきっかけとして本村さんは犯罪被害者の権利確立に尽力されており、それはそれで尊いことである。しかしそのことと、この裁判において被告の死刑を執拗に求めることは、私の考えでは結びつかない。

凶悪犯罪裁判の被告に死刑を求めることは、被害者及び遺族の「希望」ではあり得ても、「権利」かと言えば、それはちょっと別だ。

本村さんが「人の命を奪った者は命もって償うべき」として、被告の死刑を強く求めるのは、無理からぬことではある。それを否定するつもりはない。しかし、被告が死刑になったからといって、その罪は果たして本当に償われるのだろうか。そして本村さんはそれで気が済むのだろうか。

私は死刑に決して反対ではない。積極的な賛成論者ではないが、かといって、強力に反対するための根拠をもっているわけでもない。だから、今回のケースで死刑にすべきでないと言うつもりはない。

しかしそれでも、被告が死刑になったからといって、その罪は償われるのだろうかと疑うのだ。私は死刑というのは決して「償い」ではなく、純然たる「罰」(あるいは「見せしめ」なのだと認識している。

さらにその上で、本村さんが最も重い「罰」を要求する気持ちもわかる。同情もする。それでも、もし自分が本村さんの立場になったとしても、あのような主張はしないだろうと断言する。

自分がその立場にないから、気楽なことを言えるのだと言われるかもしれない。確かに、私は妻子を殺されたわけじゃない。その意味では幸せである。だからといって、「私ならそうはしない」という自由を持たないわけじゃない。

そしてさらに、これだけは言っておかなければならないが、私は本村さんを非難しているわけでもない。本村さんはご自分の意志であのような行き方を選択されたのだから、それはそれで尊重する。私はただ「私ならそうはしない」と言うだけだ。

犯罪者が罰せられるのは、対社会的な問題であり、刑罰と被害者の救済は別の問題だ。凶悪犯罪の判決として、無期懲役なら被害者は救われず、死刑なら救われるということはない。あるとしたら、被害者の「納得の仕方」の違いだけだ。

死刑なら納得できるというのは、ある種の幻想だろう。もっともそれこそが「納得」であり、「救い」 なのだと言われれば、それに対して言い返そうとまでは思わないが、それでも、「幻想」による納得や救いでは、本当の救いにはならないと、私は心の中で呟くだろう。

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2007年9月22日

政治に初めてシャレを持ち込んだ麻生さん

昨日朝の TBS ラジオで 小沢遼子さんが、「麻生さんの『キャラが立ちすぎて……』なんて、そんなの、自分で言うことじゃないでしょう!」 と怒っておいでだった。

でもまあ、あれって一応シャレなんだから、いくら怒るのが仕事の小沢さんでも、そんなところで怒ったら、シャレにならなくなっちゃう。

「腹立ち日記」よりは「キャラ立ち日記」 の方が、まだ楽しいだろうし。…… あぁ、ベタベタの親父ギャグになってしまった。「からたち日記」のシャレだと気付いてくれるのは、最近の若い人の中に何人いるだろうか。

とまあ、くだらない前フリになってしまったが、麻生さんの総裁選に向けての演説、シャレの出来不出来は別として、政治の演説の中にとてもカジュアルなシャレを持ち込んだ日本で初めてのケースとして、案外画期的なことなんじゃなかろうか。この精神は大事にしたいと思うのである。

日本の政治家の演説って、はっきり言ってとてもつまらない。このことについては、私は今年 7月 27日付の「政見放送の違和感」というエントリーでも書いている。彼らは「自分の言葉で語りかける」ということを知らないかのようなのだ。

それに加えて、彼らの演説は、全然シャレがきいていないのだ。アメリカの政治演説なんていうのは、どうせ専属のスピーチ・ライターが書くんだけれど、気の利いたジョークが必ず入っている。ジョークのない政治家は評価されない。

日本の選挙の投票率が極端に低いのは、要するに、政治がつまらないからである。政治がつまらないのは、政治家が「自分の言葉で語りかけない」からだ。つまり政治がつまらないのは、政治家がつまらないからなのだ。

というわけで、私は政治の演説にシャレを持ち込むという革命(?)を行った麻生さんを、画期的な存在と位置づけてみたいのである。小泉さんも「人生いろいろ」なんて言っていたが、あれはかなりすべってたしね。

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2007年9月21日

野球の本質はチマチマした勝負?

私は野球ファンじゃないので、あまり血湧き肉躍る思いはしないのだが、ここに来て、プロ野球のセ・リーグが大混戦の様相である。

ゲーム差 0.5 の中に上位 3チームがひしめく窮屈さだ。それにしても野球の勝負というのは、とても小さな差が最終的に雲泥の差になって現われるという特徴がある。

例えば現在のセ・リーグの順位表をみると、首位が勝率 .555 の阪神で、最下位が勝率 .409 のヤクルトである。つまり、阪神が首位だとはいっても、10回やって 6回は勝てないチームなのであり、一方、どんじりのヤクルトでも、10回やれば確実に 4回は勝つのだ。

それなのに、優勝すればビールをかけ合って大騒ぎになり、最下位になれば監督の責任問題にまで発展する。

これだけわずかな違いにしかならないのは、野球というのはほとんど毎日のように試合をしなければならないからである。

先発投手 6人のローテーションで回すとして、2人は勝てる確率の高い投手を擁していても、残り 4人のうち 2人が勝ったり負けたりで、あまり確実性のない投手、2人があまり勝てない投手だったら、やっぱり、チームの勝率というのは、よくて 5割を越す程度にしかならないのも道理である。

野球の試合が、1週間に  2回とか 3回とかしかなかったら、優勝チームの勝率というのは 7割とか 8割近くになるかもしれない。でも、そうなったら、ペナントレースはつまらなくなるだろう。

チームだけでなく、個人成績でも、10回打って 3回ヒットになれば一流といわれ、2回しかヒットがなければダメ扱いにされる。さらに、100回打って 30回ヒットになるのと、29回しかヒットにならないのとでは、たった 1本の違いなのに、3割打者かそうでないかで、扱いが全然違う。

こうしてみると、野球というのはシーズンを通してみると、ちょっとした数字を効率よく稼ぐために汲々として戦略を立てるスポーツなのだとわかる。

20日現在の成績表をみると、首位の阪神なんかは、総得点が 485点で、総失点が  504点と、取られた点の方が多い。不思議な首位チームである。勝つときは僅差で勝ち、負けるときは大負けしているということだ。だが、戦略的にはそれで正解なのである。

一方、巨人なんかは総得点が 566点とダントツで、総失点の  508点を大幅に上回っているのに、圧倒的に首位を走るというわけにはいかなくて、3位に甘んじている。つまり、戦略が下手なのである。大差で勝ちながら、僅差で負けているのだから。

昨日までの巨人・阪神の 3連戦でも、巨人は 1点差で 2敗し、10点差で 1勝している。あまり利口なやり方とは思われない。勝つにも負けるにも、とてもエネルギーを消耗しているのである。ほぼ勝てると見極めがついたら、余計な点なんか取らずに、さっさと帰って寝ればいいのに。

こうしてみると、こんなにチマチマした勝負を展開するのだから、セ・パ 6チームずつというのでは、スケールが小さすぎる。よくまあ、こんな小さな規模でこんなチマチマした勝負をするのを、そんなに興奮してみていられるものである。

やっぱりアメリカの メイジャーリーグのせめて半分ぐらいの規模がないと、本当にシンパシーをもって付き合う気にはなれないんじゃなかろうかと思ってしまうのである。

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2007年9月20日

本物のフレンチキス

今年 7月 11日のエントリーで、ニューヨークでは 「フレンチキス」 は舌を絡める濃厚なキスではなく、ほんの挨拶代わりの軽いキスのことをいうらしいと書いた。

ところが驚いたことに、日本でも唇をちょっと合わせるだけの軽いキスを、「フレンチキス」と称すると思っている人が多いようなのだ。

件のエントリーで紹介したのは、ニューヨーク在住の日本女性の「英語の間違い経験」というネタで、深い仲でもない男性からの「ほんのフレンチ・キスだから」という申し出を、目を丸くして「No !!!」と断ってしまって、後でバツが悪くなったというお話である。

ニューヨークでは、ほんの挨拶程度の軽~いキスのことを「フレンチキス」というらしいのだが、その日本女性は、日本流の意味でディープキスを求められたと思って、大いにあせってしまったというのだ。

確かに日本では「フレンチキス」といったら濃厚なキスということになっていると、私なんかは信じていたのだが、どうやらそうでもないらしいのだ。「教えて Goo」に、フレンチキスは、舌を入れるキスなのか、軽い唇だけのキスなのか、どちらなのかという質問が寄せられている(参照)。

どうやら、少女コミックスの世界などでは、「フレンチキス = 軽いキス」という解釈がまかり通っているようなのだ。ふ~ん、近頃の少女文化は、ニューヨーク流なのかしらん。

ところがよく調べてみると、ニューヨークという特定の都市ではどうなのか知らないが、フツーの英語文化圏では、フレンチキスはやっぱり濃厚なキスのことをいうんじゃあるまいかという気がするのだ。

"French kiss" のキーワードでググってみたら "French Kissing Tips & Techniques"(フレンチキスのコツとテクニック)というページが見つかって、このページの指南通りにキスをしたら、それはそれは、大変なことになってしまいそうなのである。少なくとも私はこの域に達していないと思う。

詳細は上記のリンクをクリックして、ご自分で読んでいただくしかない。英語としてはそれほど難しいわけじゃないので、高校生レベルの読解力があれば大丈夫だと思う。ただ、"lick" (舐める) とか、教科書にはあまり出てこない単語を知っておかなければならないが。

ここで指南されるテクニックの要点は、

"The tongue has a very sensitive surface, which is why tongue to tongue is the essence of french kissing."

というところにある。「舌の表面はとっても敏感で、それこそが "tongue to tongue" (舌と舌) がフレンチキスのエッセンスである理由」 と言っているのである。やっぱり、フレンチキスは濃厚なキスのようなのだ。

もしかしたら、件のニューヨークの男は、「フレンチキスは軽いキス」だなんて、だまし討ちにしようとしたのだろうか。いやいや、ニューヨークでも日本でも、フレンチキスには 2通りの解釈があるのだろうか。その辺の疑問はまだ解決されていない。

ちなみに、ここで紹介したフレンチキスのレシピの問題点は、際限がないことなのである。まず最初にしっかり歯を磨くということが書いてあり、続いてやさしく肩を抱くとか、鼻をぶつけないようにやさしくキスをするとか、順を追ってとてもていねいに説明してある。

そして、徐々に相手の唇の隙間から舌を侵入させるとか、絡ませるとか、相手の口内のいろんなところを "explore"(探検)するとか、どんどん佳境に入っていって、最後はただひたすら "continue"(続けなさい)で締めくくられているのである。

つまり、どのようにして唇を離すかは想定されていないのだ。本物のフレンチキスとは、かなり恐ろしいものなのである。

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2007年9月19日

「選挙に Web を使わせろ!」 キャンペーン

藪から棒なお話だが、「選挙に Web を使わせろ!」というキャンペーンを、一人で勝手に開始することにした。

21世紀の世の中で選挙キャンペーンに ウェブを使えないというのは、どう考えても理不尽である。おかげで、選挙は金ばかりかかるくだらないものに成り下がってしまった。

lumber-mill さんという方が、私の選挙カーの連呼に疑問を呈したエントリーにリンクしてくれていて(参照)、同時に、「日本では選挙にウェブを使っちゃいけないんだって!(意訳)」 といって Slashdot が呆れている記事も紹介してくれている。確かに、おかしいものね。 

私は昨日のエントリーで、"「選挙にウェブを使わせろ」 と、大袈裟に騒ぐだけでも、やり方によってはかなりおもしろいことになる" と書いた。これは、このところずっと考えてきたことである。どうして誰もやらないんだろうと。

それで、誰もやらないなら、自分で始めてみるのも一興ではないかと、ふと気紛れを起こしてしまったのである。別に命がけでやるわけじゃないから、それほど疲れることもないだろうし、金がかかるわけでもないし、だったら、やらないよりゃやってみる方がましだろう。

というわけで、ちょっとキャンペーン・バナーを作ってみた。

Wfec

このキャンペーンに賛同する方は、このバナーをコピーして、自分のウェブサイトの片隅にでも貼り付けて、時々、選挙にウェブを使わせろというようなことを、ブログの中ででもちょっとだけ書いていただければありがたい。

あるいは、このバナーでなくても、自分でもっと気の利いたデザインのものを作ってもいいし、勝手次第ということにしたい。バナーのリンク先は、このエントリーでもいいし、ご自分で書いたもっとまともなエントリーでもいい。あるいは、別にどこにもリンクしなくてもいい。

こちらも暇じゃないので、公式キャンペーンサイトなんて作るつもりはない。別にそんなもの作らなくても、WEB 2.0 の時代だから、トラックバックで連携しあえるだろう。さらに、「選挙に Web を使わせろ」 というキーワードでググれば、いろんなテキストが検索されるようになったらいいなあと思っている。

ずいぶんユルいキャンペーンもあったものだが、気長に続ければ、もしかして世間に影響力を発揮して、本当に公職選挙法が改正されないとも限らない。

とりあえずのキャンペーンの趣旨は、ごく単純だ。選挙運動にウェブを使えるように、公職選挙法の旧時代的な部分をちょっとだけ手直ししてもらいたいという、実にささやかなことである。

ちょっとだけ具体化させたビジョンは、

  • 選挙運動にウェブを使うことを解禁し、選挙期間中に立候補者の主張をきちんと掲げ、選挙運動の進展をブログなどで候補者自らがリアルタイムでレポートし、支援を呼びかけることができるようにする。
     
  • 選挙期間中に一般市民が特定候補者への支持をウェブ上で堂々と表明し、勝手に応援することができるようにする。

とまあ、たったこれだけのことだ。難しいことでもなんでもない。あるいは、もっと選挙や法律に詳しい方が、より建設的な主張を展開してもいい。いや、むしろそうしていただきたい。私自身は政治や法律には全然トーシロだから。

現行の公職選挙法では、ウェブという最も費用がかからなくて効率のいい手段が、(おおっぴらには) 禁止されているので、選挙が金のかかるものになっている。さらに、基本的にはあのあほらしい「連呼」 をするしかないような仕組みなので、政策論議が行われない土壌になっている。

選挙運動へのウェブ解禁で、こうした土壌が一気に改善されるなんていう甘い期待は抱いていないが、とにかく使えないよりは使えた方がずっといいに決まっている。だったら、使わせてよということだ。

というわけで、ちょっとだけ真面目に呼びかけてみたいのである。賛同者が少しはいてくれるといいんだがなあ。

【追記】

三重大学教育学部の奥村晴彦教授のブログで、日本の公職選挙法が選挙運動にネットを使うことを禁じる前時代的な奇妙さを紹介した欧米の記事を紹介されている (参照)。

このエントリーでも紹介した Slashdot と、BBC のニュースだ。BBC の方は、私も以前に紹介したような気がしていたのだが、自分で見つからなくなってしまったので、改めてご紹介。

リンク先は英語の記事なのだが、要するに、日本の選挙制度と若者の政治意識は、世界でも珍しいというお話。

【10月 1日 追記】

なんだか、あんまり反響がないので、つい意地になって、公式キャンペーンサイトを作ってしまった。ちょっとごらんいただければさいわいである。

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2007年9月18日

福田さんて、「政治オタク」 ?

もう雪崩現象といってもいいほどに、自民党の後継総裁は福田さんで決まりで、ということは当然、次期首相も福田さんで、いかにも正しい自民党らしいイメージになる。

で、この「正しい自民党」ほどおもしろくないものは、近頃ないのである。だから、解散総選挙では、自民党は必ず議席を減らす。

だけども、福田さんは「圧倒的劣勢の中、この程度の議席減で食い止めた」という評価で、なんとか持ちこたえるのである。そして、高くもなければ決して低すぎもしないという支持率のまま、あまり傷つかないうちに自らさっさと退陣するのである。

とまあ、なんとなくそんな先まで見えてきそうなほど、福田さんという人はある意味、安心感のある人なのである。ワセダ出身だけど雄弁会とは関係ないみたいだから、あの独特の嫌らしい雰囲気をまき散らすこともないし。

福田さんのアキレス腱は、親中派というイメージだ。今、中国は世界の嫌われ者的役どころだから、その国にべったりすぎると無用の反発を食らうことになる。まあ、空気を読める福田さんだから、そうしたイメージが膨らみすぎないように注意はするだろうけれど。

とまあ、ここまで書いておいてなんだけど、最初に戻って「正しい自民党」ほどおもしろくないものはないというお話である。

私は、選挙に強い首相というのは「与党内野党的」な人だと思っている。小泉さんがその典型だ。今年 1月 25日の 「安倍晋三改造計画」 というエントリーで、私は次のように述べている。

小泉さんは、確かに 「保守本流」 というポジショニングにはなかった。むしろ、それを 「抵抗勢力」 と位置づけて、自らを与党内野党的なイメージに染め上げ、それによって、従来の野党支持者のかなりの部分までを支持者にすることに成功した。

今の世の中、昔と違って、ある程度の支持率がないと、選挙に勝てない。だから支持率の低い内閣は、いくら保守本流でも、与党の中でも力を持てない。

(中略)

安倍さんは先だっての道路特定財源の一般財源化で、保守本流のくせに抵抗勢力を作ろうなんてしたのかもしれないが、結局は妥協しちゃったので、イメージとしては保守本流というより、自分自身が抵抗勢力と同じ色になっちゃった。

結局、安倍さんは「保守本流」の中で「いい人」でありすぎたために、身内からは見くびられ、大衆からは見放されたのだった。かわいそうに。やっぱり、保守本流の中では「悪い人」でなければ、親分はつとまらない。

福田さんは「悪い人」っぽくはないけれど、身内の中から是非にと担がれたのだから、その中で見くびられることは、当面はあるまい。だけど、「悪い人」にならないと、長続きはしない。

ちなみに、いかにも「保守本流の悪い人」というイメージなのは、今、どういう風の吹き回しか、最大野党の代表なんかやっている。世の中というのは、わからないものである。

話は福田さんに戻すが、この人、大衆人気という点では対中国のスタンスも含め、ちょっと不安なところがある。選挙で大負けしたら、「やっぱり人気の麻生さん」ということになるのだろうが、多分、今度の解散総選挙では命取りになるほどのことはなかろう。

で、「安心だけどつまらない」という政治が、ちょっとの間続きそうなのだ。その間、つまらなさに飽き飽きしたオタクが、気紛れを起こして麻生さん応援団を作って、ムーブメントをおこしたりしたらおもしろそうだけどね。

思うに、「選挙にウェブを使わせろ」と、大袈裟に騒ぐだけでも、やり方によってはかなりおもしろいことになる。

でも、見るからにオタクっぽいのは、むしろ福田さんの方だと思うのだが。この人、「政治家っぽくない」とは言われるが、案外「政治オタク」なのかもしれないし。

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2007年9月17日

「衣替え」 と 「更衣」 の考察

昨日は帰宅して一気に気絶のごとき眠りにおちいり、本日昼近くになって、おもむろに更新作業を開始している。世間一般の 3連休の、最後の日ぐらいはゆっくり休もう。

と思ってはみたものの、9月中旬の休日にはまったく不似合いなほどの暑さである。熊谷では猛暑日復活になるようだ。

このところの雨模様でようやく世界が冷やされて、少しは秋の気配を感じ始めたと思ったのに、またまた強烈に暖め直されてしまっては、元の木阿弥だ。やっぱり、「暑さ寒さも彼岸まで」 というように、彼岸過ぎまで待たなければならないのだろうか。

世間では 6月 1日と 10月 1日を 「衣替え」 とする習慣が残っている。それで高校生なんかは、10月 1日になると一斉に上着を着て通学し始めるようだ。

それを見ていると、気の毒である。今時の 10月 1日なんていうのは、まだまだかなり暑い。ちょっと動くと汗ばんでしまう。そんな中、ムレムレになりやすいポリエステル素材の上着を着せて、思い鞄をぶら下げて通わせるのは、体に悪いと思う。

サラリーマンも同様である。ネクタイを締めてジャケットを着て満員電車の中で汗を流すのは、不合理なお話である。それで、近頃の通勤電車は、10月になっても当然のごとく冷房を入れている。

しかしあれは、ネクタイ、ジャケット着用サラリーマン仕様で、薄着の女の子なんかは、顔色も青ざめて寒さに耐えたりしている。それで、電車とオフィスの冷房対策のためだけに、カーディガンなどを持ち歩くことになる。

思えば、過度の冷房から身を守るために仕方なく持ち歩くカーディガンよりまだ分厚いジャケットを、サラリーマンは浮き世のしがらみで常に着用しなければならないのである。馬鹿馬鹿しい話である。これは、私なんかにはセクハラに思える。

ところで、衣替えとは、宮中から発した習慣なのだそうだ。Wikipedia には、次のように解説されている (参照)。

平安時代から始った習慣で、当時は中国の風習に倣って4月1日と10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを 「更衣(こうい)」 と呼んだ。しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御 (にょうご) に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。

ほほう、なるほど。ただ、ここでいう 「4月 1日と 10月 1日」 というのは、旧暦の話だろうから、新暦で言えば、年によって多少ズレはあるが、大体 5月前半と 11月前半の時期ということになると思う。

で、ここで膝を叩きたくなるのは、私だけじゃないだろう。そもそも、この 「5月前半と 11月前半」 というのが、衣替えの最も現実的なタイミングなんじゃないかと思うのだ。現代の 6月 1日 と 10月 1日という衣替えは、夏服に着替えるのが遅すぎで、冬服に着替えるのが早すぎだ。

冬服に着替えるのが 11月前半というのは、遅すぎると思われるかもしれないが、実際には、この頃まではちょっと体を動かせば汗ばむぐらいのものである。今の世の中に寒がりが多いのは、まともな食生活をしていないのと、体を動かすことが減ったためだと、私なんかは思っている。

それに、近頃では温暖化現象で、実際に 10月一杯は冬服なんて見たくもないという気になるから、イニシエ式がちょうどいい。11月までは薄手の重ね着という方が実際的だ。

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2007年9月16日

安倍さんをボコボコにした 「いじめの構造」

安倍首相がボコボコにされちゃって降板というのは、結局、政治の世界の 「いじめの構造」 だったのだなとわかる。

私は、今年の 1月 25日に 「安倍晋三改造計画」 というエントリーの中で、安倍さんは叩かれやすいキャラだと書いている。つまり、「いじめられっ子」 の素質十分なのだ。

このエントリーの前に、私は 「竹中平蔵改造計画」 というのも書いている。私は、両方のエントリーで、「せいぜい苦み走って、根に持ちそうな強面の風貌を身につけるといい」 と書いている。

この国で自分の主張を通そうと思ったら、ディベート的に論理で勝とうとしても無駄なのである (参照)。それよりも、声の張り上げ方とか、恐そうな表情を垣間見せるとか、裏で恫喝するとか、そんなようなやり方の方がずっと効果的なのだ。悲しいことに。

ところが、竹中さんも、安倍さんも、一見お行儀がよすぎて、周囲から安心して攻め込まれがちだったのである。

ただ、竹中平蔵さんという人は精神的に案外タフで、何を言われても、自分の方が正しいと思いこめる人だったので、潰されずに済んだ。そしてやるだけやったら、ケツをまくってアカデミズムに帰っていった。

ところが、安倍さんはもっとずっとデリケートだった。いじめに遭うと不登校になるようなタイプと言っていい。特集番組で流されたビデオで振り返ると、安倍さん、大分前からいじめられっ子がヘルプを求めるサインを出しまくりじゃないか。

涙目、泣き声、切ない訴え調等々。私はあまりテレビを見ないので、活字媒体偏重だったから、ちょっと気付くのが遅れてしまったのだが、それでもやっぱり、このブログでも無闇に情け容赦なく斬りつけるような書き方は憚られた。

私は 5月 30日の 「動物的ヘジテーション感覚」 というエントリーで、当ブログでは自殺した松岡元農林水産大臣について、ことさらに批判的なことを書く気になれなかったと述べている。「下手にツッコんだら、いかにも壊れちゃいそうで、どうしてもためらわれてしまった」 のだ。

同じようなことを、安倍さんにも感じていた。あんなにまでサインを出しまくっていたことには気付かなかったが、それでも無茶苦茶なことは書いていない。せいぜい 「あまり多くは望めそうにない」 程度の言い方に抑えてある (参照)。

ところが、世間というのは相手が弱みを見せると、かさにかかって攻め込みたくなってしまうところがある。

今になって思えば、心身症の総理大臣を何ヶ月もの間戴いていたのだから、危機管理以前の問題である。危なくてしょうがない。どうしてこんなにまで傷が深くならないうちに、退陣願うことができなかったんだろう。政治の世界というのは、よくよく因果な世界のようだ。

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2007年9月15日

次期総裁に関する世間話

昨日の夕方に高知入りして、そのまま飲み会。ホテルの部屋に帰って、即ダウンしてしまったが、4時前に目が覚めてしまった。

世間は後継首相の話題でもちきりだ。フツーの人の間ではどちらかといえば麻生さんが人気だが、業界では 「あ、そういえば福田さんがいたよね」 でほとんど決まちゃったのね。

この件に関する世間の反応がいろいろあって、なかなか面白い。政治というのは、解釈次第である。

反応その 1 : 「なりたい人よりさせたい人」

前回の総裁選では全然がっついた素振りを見せず、ギラギラ感を極力抑えただけ好印象があるかも。

反応その 2: 「安心感のある人」

政治の楽屋裏の実務体験が長いし、お坊っちゃまの前任者より安心して任せられそうという印象。前任者は成績はクラスの上位 3分の 1 の学級委員という感じだったけど、福田さんは断然トップというイメージ。

反応その 3: 「イデオロギーは関係ないのね」

戦後レジームからの脱却とか、「美しい国」 とか、右よりイデオロギーの前任者から、急に反対側に振れてしまいそうなのだけれど、自民党とすれば、要するに政権党にとどまれさえすればいいのね。

反応その 4: 「少なくとも小泉さん的じゃないよね」

小泉さんは 「自民党をぶっ壊す」 で人気を得たけれど、福田さんは自民党そのものというイメージ。その意味では、昔のまんまの政治に逆戻りしそう。

反応その 5: 「政治のわかりやすさって、なんだろうね」

小泉さんの人気の素は 「わかりやすい政治」 と言われたけれど、終わってみると、なんだかさっぱりわからない。安部さんの場合は、「わかりやすすぎて底が割れちゃった」 ということ。福田さんの場合は、わかりにくそうだけど、説明だけは上手そう。

反応その 6: 「麻生さんは、福田さんの後がいいんじゃない?」

今、首相になったら、火中の栗を拾うみたいなものだから、案外その後になった方が利口なんじゃないの? いやいや、政治の世界は、一寸先は闇だからね。よくわからん。

反応その 7: 「結局、誰がなっても同じじゃん」

決してそういうわけじゃないけど、大して変わりないというのは言えてるかも。

反応その 8: さっさと解散して、民主党に政権渡せ

そろそろ自民党は勤続疲労で賞味期限切れだから、一度小沢さんにやらせたらどう?

というわけで、全体的にはかなりしらけているみたいだ。

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2007年9月14日

最高級牛肉って、本当においしい?

近頃、しゃぶしゃぶをメイン料理にした宴会に出る機会があった。しかも、肉は掛け値なしに最高級 (A 5 ランク) の前沢牛である。

ところが、申し訳ないけれど、私は最高級の牛肉というものに、さっぱり魅力を感じない人なのである。で、宴席ではもっぱら野菜とうどんばかり食べていた。

いや、お付き合いで、その最高級霜降肉を 2枚ばかり食べた。1枚は刺身でポン酢をつけて、もう 1枚は、さっと湯に通して醤油だれにつけて。まあ確かに、舌の上でとろける極上品ではあった。しかし、それだけのことで、3枚目を食おうという気にはなれなかった。

そりゃ、不味いとは思わない。しかし特段うまいとも思わないのである。率直に言うと、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 という感覚なのだ。常温で放っておくと、だんだんベトベトになっていく様を眺めているだけで、なんだか気持ち悪くなってきちゃうし。

廻りの人たちが「おいしい、おいしい」と感激して食いまくるので、だったら、せっかくの肉も彼らに食ってもらう方が本望だろうと思い、私の管轄からはすっぱりと外させていただいたわけだ。

前にも書いたことがあると思うのだが、そんなに舌の上でとろける食感がありがたければ、縁日の綿菓子でも食っていればいいじゃないかと、私は思ってしまうのだよ。だから、マグロの大トロなんかも、ちっともありがたくないのだ。

私は元々、あんまり牛肉を食おうという気にはならないのだが、食うなら食うで覚悟を決めて、米国中西部流のわらじみたいな歯ごたえのステーキをわしわし食う方が、ずっと性に合っている。その気になれば、1ポンド (約 450g) なんて軽い。

BSE の牛肉はもちろん食べたくないが、日本の最高級霜降り肉というのも、十分 「ビョーキの牛」 のような気がしてしまうのだ。少なくとも健康じゃない。超メタボ牛というべきか。あんまり自分の体の構成品に加えたくないと思うのである。

前沢の牛さんたちには、申し訳ないけど。

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2007年9月13日

ベストジーニストの 「綾戸智恵」 さん?

安倍首相の突然の辞任表明には、目が点になってしまったが、アパレル業界では突然の天災のようなニュースのせいで、昨日発表になった 「ベスト・ジーニスト」 が霞んでしまったのが気の毒と、もっぱらの評判だ。

安倍さん、日本のジーンズ業界のために、もう 1日ぐらい待ってくれてもよかったのに。

と思いつつ、発表された今年のベスト・ジーニストの受賞者をみると、一般選出部門は亀梨和也と倖田來未のご両名で、どちらも去年に引き続いて、2年連続の受賞だという。うーん、この 2人、ベクトルが圧倒的右肩上がりの段階を、既に過ぎてしまってるんじゃないかなあ。今回のタイミングの悪さが象徴的だ。

そして、今年のベスト・ジーニストの特徴は、協会選出受賞者が 綾戸智絵北原照久久保京子の 3人で、やや渋めの人選だったということだろうか。

「おや?」 と思ってしまったのは、ジーンズ協議会の公式サイトの受賞者発表で、綾戸智さんの名前が、「綾戸 智」 と標記されていたことだ(魚拓は こちら)。

Wikipedia によると、彼女の本名の表記は 「智恵」 なんだそうで、敢えて本名の智恵さんの方に賞を上げたということなのか。それとも、単なるチョンボだったのか。何だか、よくわからんところである。

Google のニュース検索であたってみると、読売中日日刊スポーツデイリーも、「綾戸智恵」 になっている。プレスリリース通りに書いちゃったということなんだろう。でも、「ジャズ歌手の」 という枕詞付きなんだから、芸名の「綾戸智絵」にすべきだと思うのだが、誰も疑問を差し挟まなかったのかなあ。

とにかく、今年のベスト・ジーニスト、なんだかお気の毒である。特別貢献賞が、ニューアルバム "Denim" を出した竹内まりやというのは、かなり納得だが。

【同日 追記】

「綾戸 智」 という標記の疑問が解けた。SANSPO COM の記事によると、こういうことだそうだ。(以下、引用)

今年デビュー10周年で50歳を迎えた今月10日の誕生日を機に、芸名を綾戸智絵から本名の綾戸智恵に改名したといい「50歳は人生の中間地点。再出発という意味でこれを機に頑張ります」と意気込んだ。

ふーん、そうだったのか。知らなかった。

それならそれで、他のメディアもきちんと触れてもらいたかったなあ。それにしても、「50歳は人生の中間地点」 とは、意気盛んだなあ。ヒップもぷりぷりだそうだし。

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2007年9月12日

「見た目」と「安全」

ちょっと古いニュースだが、今年の春に東京都が 「子ども用衣類の安全確保について」 という報告書をまとめている (参照)。

報告によると、フードやひもが遊具に引っかかって首つり状態になるなどのケースが少なからずあり、安全対策が求められているのだが、実際にはなかなか難しい問題だ。

業界に対しても安全基準の策定などが求められているわけだが、子供服業界ではフードやひも(ドローストリングス)などがデザインポイントになっていることもあって、「あんまり杓子定規にやると、デザインが制約される」という反発の声も上がっている。

私はこの問題で、昔の「白すぎる食品」の問題を思い出した。

あれって、いつ頃のことだったのだろう。白すぎるパンやうどんやかまぼこが問題になったことがあった。要するに、小麦粉や魚肉を漂白して真っ白にしていたのだが、健康への影響を考えたら、漂白なんてしない方がいいんじゃないかという声が上がったのだ。

ところが当時の食品業界の反応は、「消費者は真っ白な食物を求めている」「白くないと売れない」という声が圧倒的主流だった。今では信じられないような話だが。

私なんぞは、「あんまり白い食い物は、かえって気持ちが悪い」と思っていて、わざわざ「漂白剤不使用」という表示のある、自然な色のものを選んで買ったりしていたので、「食品業界って、なんてアホなことを言ってるんだ?」と呆れていた。

結論から言うと、その頃から徐々に食品添加物への関心が高まって、余計なものは入れない方がいいということになり、今ではスーパーの売り場を見ても、パンもうどんもかまぼこも、自然な色の食品が増えている。

要するに、消費者がちょっとだけ利口になったのだ。子供服だって同じような道をたどるだろうと、私は案外楽観的に考えている。

今では、必要もないフードやドローストリングスでコチャコチャ飾ったデザインが人気だが、なまじそんなものが付いているせいで、滑り台に引っかかって首が絞まったり、テーブルの脚に引っかかって、ガラガラドッシーンになったりすることがあるとわかれば、フツーの考えの親なら自然に避けるようになる。

「可愛らしいデザインでなきゃ、売れないんだもの」と言っている業界も、「やっぱり、安全の方が大事だよね」という消費者が増えてくれば、そうしたニーズに応えざるを得ない。そもそも、「可愛らしいって何か」というコンセプトだって、その時々でずいぶん変わるのだ。

要するに、消費者が利口になりさえすればいいのだ。中国製の危ない薬や食品や衣料だって、怪しげな謳い文句や安さに目がくらんだ消費者にも、責任がないとは言えないのだから。

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2007年9月11日

オジサンの半袖シャツ、袖口が広すぎ

私は「クールビズ」なんていう言葉が出てくるずっと前から、夏はジャケットとネクタイを着用しないことに決めてきた。

ネクタイは一年中しないし、6月中旬から 10月に入るまでの約 3ヵ月半は、ポロシャツ 1枚で通す。汗をかいても、布帛 (織物) のシャツより、「べったり感」がなく、快適だ。

それに、ポロシャツというのは半袖の袖口が広くないので、周りに迷惑をかけない。それにしても、オジサンたちが好んで着用する布帛の半袖シャツというのは、どうしてあんなに袖口が広いんだろう。

20081213

あの類の半袖シャツの袖は、腕が 2本通るぐらいの広さである。そして、無闇にきちんとプレスしてあるので、袖口がぴんぴんと両側に広がっている。

あの半袖シャツを着たオジサンに、電車の座席で隣に座られると、こちらはかなり迷惑なのである。私は背が高いので、自然(もしかして自然以上に)座高も高い。だから、こちらの半袖でむき出しになった二の腕の中間あたりに、隣のオジサンの半袖の袖口が当たる。

何しろあの広すぎる上に、プレスが利いてピンピンに張った袖口である。相手がじっとしていてくれればまだいいのだが、新聞や雑誌を読んで、ページをめくろうとすると、当然腕も動くので、半袖の袖口の先っちょで、私の二の腕を絶妙にコチョコチョとくすぐる。

これは、とてもくすぐったいのである。イライラするほどくすぐったいのだ。本当にやめてもらいたい。オジサン、頼むから、そのピンピンに張り出した半袖の袖口を、輪ゴムか何かで縛っておいてくれ。

しかしオジサン、まさか自分の半袖の袖口でこちらの二の腕をくすぐるなんていう変態的行為を働いているとは気づかないものだから、全然平気である。こちらがいくら迷惑そうに腕を動かしても、もぞもぞしても、一切動じない。これって、あまりにもデリカシーなさすぎじゃないか。

日本中のシャツメーカーにお願いしたい。あの外側にピンピンと張った広すぎる袖口の半袖シャツは、何とかしてほしい。迷惑以前に、デザインだってダサダサでおかしいぞ。

【2020年 11月 9日 追記】

この記事は 13年以上にわたってかなりのアクセスを集めるという、妙な「人気記事」である。「オジサンの半袖シャツ」は、それだけ「迷惑なアイテム」なのだろう。

これに関連して 2020年 8月 12日に "電車隣席の「昭和的半袖シャツ」袖口ツンツン問題" という画像入りの記事を書いているので、参照されたい。

070911

 

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2007年9月10日

武道とダンス

中教審が武道とダンスを中学校で男女とも必修にするという答申を出して、どうやら実現されてしまうらしい (参照)。

で、世の中では、安倍内閣の「戦後レジームからの脱却という復古主義」の色合いををダンスで薄めるナンセンスだとか、お約束通りの反論が渦巻いている。

この件に関しては、私はややシニカルなスタンスだが、頭っから反対というわけじゃない。中学で武道やダンスを習うということには、少しはメリットだってあるはずだ。

完全に個人的な趣味だけで言ったら、中学で武道とダンスを習うのも、悪くはないと思う。私が中学生なら、単純に楽しめるだろう。だけど、もちろん楽しめない中学生も少なくないだろうし、さらに、楽しめない大人はもっと多いだろう。

外国を旅行すると、日本人というだけで、何かの武道をやっているものと思われることが、案外少なくない。さすがに「ニンジャ」なんていうのは論外だが、「ジュードー」や「カラテ」を身に付けてるんじゃないかなんて、勝手に思われたりする。

そんな時、「ジュードーは学校で習ったよ」ぐらい言えたら、少しはカンバセーション・ツールになる。多分、その程度では喧嘩になったら使い物にはならないけれど。それから、これからの世の中、ダンスぐらいできた方が何かと役には立つかもしれない。

武道を必修化することの中教審的な意味は、「日本の伝統や文化を知るために役立つ」ということになっている。これを好意的に意訳すると、「礼儀作法が身に付く」というあたりに落ち着くんじゃないかと思う。中教審の具体的な本心は、多分ピンポイントでここにあるのだ。

いくら中教審でも、中学生が週に 1~2時間、授業で武道をやったぐらいで「日本の伝統や文化を知る」ことになるとは、本気で思っていないはずだ。ただ、「礼に始まり礼に終わる」 という武道を必修化すれば、挨拶ぐらいはまともにできるようになるかもしれないと期待しているんだろう。

しかし、実際にはそれだってあぶないものだ。町道場の子供クラスに通う子どもたちを見ても、本当に礼儀作法が身に付くのは一握りである。ましてや、必修化で水で薄めたような指導をしたところで、期待通りの成果なんて現われない。そんなものである。いくら学校で英語教育をしても、なかなか身に付かないのと同じことだ。

それに、学校で武道をやってもすぐさま 「復古調」 の色合いが強まるというほど、今の子どもたちはヤワじゃない。それに今の武道は「スポーツ」なのだから、「伝統文化教育」という旗印にあまり期待してはいけないし、逆に、無闇に反発するほどのことでもない。

それに、私だってこう見えても、ちゃんとした武道の黒帯をもらっているけれど、上下関係が絶対的ないわゆる「体育会的雰囲気」には、かなりの反発を覚える。それだけはきちんと表明しておこう。

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2007年9月 9日

少しは自分で調べて書こう

先月 22日の当コラムにも書いたのだが、中国製衣料品に高濃度のホルムアルデヒドが検出されたというセンセーショナルな報道の余波は、まだくすぶっている。

「ホルムアルデヒドは発ガン物質」 という情報が独り歩きして、中国製の衣類を着ると皆がんになると思った人もいるらしい。

某団体には「家中の中国製衣類を引っ張り出して捨ててしまおうとしたら、結局手持ちの衣類のほとんど全部を捨てなければならないと気付いて、諦めた。どうしてこんなに中国製の衣類ばかり多いのか」 という消費者からの怒りの(?)電話まであった。

確かに、日本で流通している衣料品の 8割近くが中国製と見られている。大抵の人は、手持ちの衣類のラベルを見れば「中国製」 とか "MADE IN CHINA" だらけのはずだ。それらを全部捨ててしまったら、ほとんど裸で暮らさなければならない。

しかし報道を読むと、消費者がこうした過剰反応を示すのは無理もないという書き方がしてある。ほとんどは、中国製衣類から基準を大幅に超える発ガン物質が検出されたと報じているだけなのだ。それを読んだら、不安になるのも当然だ。

不安を煽るだけ煽って、対策をきちんと伝えなかったジャーナリズムは、ちょっとだけ罪だなあと思う。というわけで、私は及ばずながら、先月 22日のエントリーで、「ホルムアルデヒドはとても水に溶けやすい」ということを書いた。要するに、着用前に水洗いするだけでこの問題の不安は解消されるのだ。

確かに中国製品の中にはひどいものが多く、それを糾弾する世論を盛り上げることは重要だ。しかし、消費者レベルで簡単にできる対策があることを知らせるのは、また別の問題である。それをしたからといって、中国を弁護することになるわけでは決してないのだ。

冷静に対策まで書いたら、記事の衝撃度としては薄れてしまうだろうが、読者のためを考えるなら、やはり書くべきだっただろう。こんなことは、もし記者が事前に知らなくても、ちょっとウェブで調べればすぐにわかることなのだから。

今回の騒動は、ジャーナリズムの不勉強と、「マスコミは決して "読者のため" に記事を書いているわけじゃない」という姿勢を垣間見せてしまったと思う。

小泉政権の時から、調べればいくらでも出てきたはずのスキャンダルを、安倍政権になってから急に先を争って書くというのも、似たようなマスコミ体質だ。今なら書き放題に書く方が売れると思うから書くのである。まあ、ある意味では空気を読んでいるのだが。

それから、今回のホルムアルデヒド問題について触れたブログでも、ほとんどは記事をコピペして不安を述べただけで、対策まで調べて冷静に書かれたエントリーは極端に少ない。少しは自分で調べて書いてもいいよねと指摘しても、ウチ、炎上したりはしないよね。

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2007年9月 8日

なんで中州に取り残されたのか

関東直撃の台風 9号が通り抜けた昨日の朝、雨戸を開けると、我が家のベランダに置いてあった金属製のテーブルと椅子が、見事にフェンス際まで吹き飛ばされていた。

これまで何度も台風には遭遇したが、このテーブルと椅子が吹き飛ばされたのは、今回が初めてだ。よほどの風だったようだ。

ニュースをみると、多摩川で中州に取り残されて救助された人が 「相次いだ」 というので驚いた。通報が 15件、救助された人が 31人、救助活動中に流されて行方不明になった人が 1人、そのほか、2人が通報を受けて捜したが発見できなかったという。

しかし、なんでわざわざ台風の日に川の中州なんかに行くんだ?

増水した川を見に川岸まで行くという気持ちは、私もわかる。どのくらいの水かさになっているのか、自分の目で確認したいというのは、人情というものだ。その上で、過去の経験則と照らし合わせて、「このくらいなら、大丈夫」と安心したり、「もしかしたらヤバイかも」と避難の準備をしたりする。

しかし、本来は増水した川というのはその川岸に行くだけでもかなり危ない。それなのに、よりによって川の中州に取り残されるというのは、どうにも理解できなかったが、ニュースを読んでいるうちにだんだんわかってきた。まず、5日に救助された 2人は、自主制作映画の撮影をしていたというのだ (参照)。

Asahi.com によると、5日朝から男女 6人で撮影していて、初めのうちは、ひざの高さ程度の水位だったという。午後 2時すぎ、水位が上がり始めたため 4人が避難したが、2人は「どうしても撮りたいシーンがある」と撮影を続けたというのである。ヘリコプターで救助された男性(44)は 「あっという間に水かさが胸の高さまで増えた。まだまだ大丈夫だと思ったが甘かった」と話したという。

雨の中、川の水がじわじわと増え始めて、緊迫感の溢れるシーンが撮れていたのだろうと、なんとなくその気持ちもわかるような気もする。しかしこの事件のあった 5日は、台風はまだ遠くにあったとはいえ、多摩南部に大雨洪水警報の出された日である。普通だったら、そんな日に中州なんかに行かない。自殺行為である。

ただ、これは特殊なケースで、その他はほとんどが「河川敷で生活していたのではないかと見られている」という(参照)。「わざわざ行った」のではなく、「元々住んでいた」のだ。なるほど、疑問が解けた。

しかしそれにしても、「何で逃げなかったのか」という疑問が残る。ぼんやりしているうちに、水かさが増えて流されたのか、いくばくかの家財道具(?)を運ぼうとするうちに、逃げ遅れたのか、よくわからない。あるいは情報がなくて、上流で大雨が降ったとは知らなかったために、対応が遅れたのかもしれない。

こうした人たちに、事前に避難を呼びかけることはできなかったのだろうかとも思う。もしかしたら、多少呼びかけたところで応じてはもらえなかったかもしれないし、そうすることの優先順位が、行政にとってどのくらいのものだったのかはわからないけれど。

東京近郊の多摩川で、大雨で取り残される人が続出というニュースは、実は都会の縮図を表していたのだった。それを知って、昨日の和歌ログではこんな歌を詠んだ。

都会には川原に住まふ人あるに気付かざるかと野分過ぎたり

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2007年9月 7日

元気のいい台風が来てしまった

今、日付が替わって 7日になったばかりだが、関東平野には、台風 9号の風雨が容赦なく吹き付けている。

九州か四国あたりで体力を使い果たして、すっかり弱った台風ではない。今まさに海からやってきたばかりの、一番元気のいい台風である。この状態で関東直撃というのは珍しい。

やはり威勢のいい状態の台風というのは、雰囲気が違う。まず、音からして違う。ごぅっという風の音が、まるで地鳴りのような勢いである。この音がすると、家が揺れる。九州や四国の人は、慣れているかもしれないが、関東人は肝を冷やす。

熊本の人は、年に何度も一番元気のいい状態の台風を経験する。それでも、山を切り開いた造成地の大型駐車場で、ごぅっという風の音とともに、ずらりと停車してある車の列が一斉にズルっと動くのをみると、青ざめてしまうという。おぉ、くわばらくわばら。

九州や四国の人が体験するような、海からやってきたばかりのイキのいい台風が関東を襲うというのは、温暖化現象で、台風発生のメカニズムとその移動経路が、北に平行移動してしまったんじゃあるまいかなんて、余計なことが気にかかったりする。

それにしても、こうしたフレッシュな状態の台風を迎えると、海洋国家の日本というものを意識する。遙かなる太平洋の燃え上がる息吹を吸収して、それを列島に叩きつける自然の力というのは、わたつみを介して地球的に広がる意識を培養するかもしれない。

台風は今日の朝までが山場だという。大きな被害がなければいいなあ。

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2007年9月 6日

「現代用語の基礎知識」 偉い!

新語辞典の 「イミダス」 と 「知恵蔵」 が 2007年版を最後に、休刊するそうだ (参照)。

この 2つは、どうせ 「柳の下のドジョウ」 を狙った物まね企画だから、消えてしまっても別に感慨はない。その点、しぶとく発行を続ける「現代用語の基礎知識」は、さすが草分けである。根性が違う。偉いのである。

以前は、3年に 1度は「現代用語の基礎知識」を買っていた。毎年買うほどの必要はないが、3年に 1度ぐらいは更新して「本棚の常備薬」みたいな位置づけにしておくと、ふとした書き物の参考資料にするのに便利だったのである。

ところがいつの間にか、物まね企画が出てきたのだ。集英社の「イミダス」の出たのが、1986年だという。朝日新聞社の「知恵蔵」は、その 3年後の 1989年だ。私は書店にこれら後発の 2つが、草分けの「現代用語の基礎知識」を押しのけるようにして平積みにされるのを見て、毎年不愉快な思いをしていた。

あぁ、これからはこの不愉快な思いから解放される。

物まね二番煎じを社是としているようにみえる集英社は、まあ、しょうがない。しかし朝日までが「知恵蔵」なんていうナンセンスな名前の新語辞典を出したのは、不愉快極まるのである。

私は「老舗大好き」の人間である。いや、別に古くからあるというわけじゃなくても構わない。そのジャンルで最初にきちんとマーケティングしたブランドをリスペクトするという態度を貫きたいのである。

悲しいことに、発行部数で後発の 2つの後塵を拝して苦しんでいた「現代用語の基礎知識」だが、2008年版からは、持ち直す。いかに縮小したとはいえ、このジャンルのシェアを独り占めできるからだ。辛抱強く続けるのは、それだけで価値がある。

とはいえ、私自身は新語はインターネットで調べればすぐに解決するので、今後、新語辞典を買うことはないだろうけど。いや、来年版だけは、ご祝儀の意味も込めて「現代用語の基礎知識」を買っちゃおうかな。

ちなみに「イミダス」と「知恵蔵」 は、有料のウェブ版を継続するらしいが、ウェブの世界では無料でいくらでも調べられるので、そんなものに金を払うのは、私の感覚ではナンセンスである。本の形になっているものだからこそ、金を払う気にもなるというものじゃなかろうか。

分厚すぎて邪魔ではあるけれど。

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2007年9月 5日

ディベートって、役に立つのか?

ディベート甲子園」 と呼ばれるコンクールがあって、正式名称は「全国中学・高校ディベート選手権」というらしい。

今年は 8月 4日から 6日まで開催され、中学の部は創価中学、高校の部は創価高校が優勝した。どちらも上位常連校だが、そろって優勝したのは今年初めてのようだ。

創価中学と創価高校がディベートに強いと聞くと、「その卓越したディベート・テクニックを、折伏に活用してるんだろうなあ」と、つい考えてしまうのは、人情というものである。しかし、ちょっとググってみたら、「創価エリートは現場で折伏なんかしません 涼しい部屋から指令を出すだけです」なんていうコメントが見つかった (参照)。

ふぅん、なるほどね。本当か嘘かしらないが、エリートは現場になんか出ないというのは、どこの世界でもありがちなことで、ちょっと説得力がある。

そもそも、ディベートが現場での折伏に有効かどうかというのは、大いに疑問がある。論理的には誰がどうみても折伏側の勝ちなのに、折伏される側が理屈もへったくれもなく、「とにかく、俺は絶対に嫌だ!」と言い張り、暴れまわって逃げてしまえば、結果的には折伏は成功しなかったということになる。

現実社会では、整然とした理屈よりもメチャクチャの方がずっと強かったりするのだ。(創価学会の理屈が整然としているかどうかというのは、私はかじったことがなくて知らないので、また別の問題としておく)

ディベートは所詮「ルールに沿ったスポーツ」なのだ。ボクシングのようなものである。ボクシングの強いものは、実際の喧嘩でも確かに強いだろうが、揉み合ううちに不意の頭突きをくらったり、ドスで刺されたりしても、「反則だ!」とは主張できない。

実際の議論で「そんなこと言うなら、貸した金返せ」とか 「過去の悪事をバラすぞ!」とか裏で脅かされても、「反則だ!」と言えないようなものである。そこまで陰険に走らなくても、理屈で勝ち目がないので情に訴えて意見を通してしまうようなことは、世の中にいくらでもある。

それに、ディベートは結局、机の上のシミュレーション・ゲームなのである。実際の世の中がディベートの筋書きのように進むとは限らない。いくらスーパーコンピュータで膨大な計算をしても、気象庁の季節予報は当たらない場合の方が多いというようなものである。

「ディベート力は絶対に必要か」というテーマでディベートし、「ディベート力は必ずしも必要じゃない」と主張する側が勝ったりしちゃったら、どうしたらいいんだろう。

結論。ディベート力は、そりゃ、ないよりはあった方がいい。ずっといい。しかし、ディベートに強ければ世の中で主張を通せるというのは、とくにアジア的社会においては完全に幻想だ。

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2007年9月 4日

「身体検査」 は、中高年の健康診断

遠藤農水相辞任に関連し、民主党の鳩山幹事長は、「身体検査をしたというのに、なぜこんなに……」と述べたという (参照)。

「身体検査」という言い方も笑わせちゃってくれるけれど、まあ、中年過ぎてからは会社の健康診断で、何もひっかからない人なんて珍しいというのに似ているんじゃあるまいか。

この 「身体検査」 という言葉、確実に今年の流行語大賞の候補になるだろう。政治の世界では、身辺にヤバイ要素がないか調べるなんていう意味で使われているとは、つい最近まで知らなかった。

こう言ってしまっては申し訳ないけれど、詳細な「身体検査」を実施したら、国会議員のお歴々の中で、何の問題もなくクリアできる人なんていないんじゃなかろうか? かく言う我々だって、違法行為をしたことなんてこれまでの人生で一度もないと、胸を張って言える人は極々少ないだろう。

ましてや、利権の渦巻く政治の世界だもの。そうしたどろどろしたものに、まったく巻き込まれていない人なんてあるまい。その中でも、健康診断に喩えて言えば、血圧や血糖値のあまり高すぎない人を選んで大臣に任命するんだろうが、精密検査をしてみたら、ガンが見つかったなんてことがあるわけだ。

昔なら、ある程度は「甲斐性」として目をつむってもらえた。というか、地元への利益誘導の源泉として、むしろ歓迎されてもいた。しかし、これだけの大衆社会、情報化社会になってしまうと、一地域への利益誘導は、全体への不利益誘導という構図が見え見えになるから、スキャンダル化しやすい。

中高年になると、健康診断をしても必ず何かひっかかるようなもので、政治家の「身体検査」でも問題のごく少ない人を選ぼうとしたら、自然、若手中心にならざるを得ないだろう。しかし、それだと経験不足が露呈するし、「お友達内閣」なんて悪口も言われる。

ならばというので、古狸を重用すれば、政治的な高血圧や痛風もちばっかりになる。一体どうすればいいんだ。

これでは大臣のなり手がないと言われるのも道理である。戦後ほとんどの期間を与党として君臨してきた事実上の独裁政権も、こんなふうに金属疲労を起こして、内部から崩れていくんだろうか。

民主党は「政官業癒着」の構造を、国政調査権を使って究明していく方針のようだが、これを本当にきちんとやったら(やれないだろうけど)、自民党は大変なことになる。さらに労働組合とのしがらみにまで拡大したら、民主党だっておかしくなる。

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2007年9月 3日

「サブプライム」という言葉は嫌らしい

米国の金融不安の元凶扱いにされている「サブプライム・ローン」だが、"subprime" という言葉は、"prime(上位)" の 下だから、「中位」とか「下位」とかの意味なのだろう。

この言葉、元々は特殊な業界用語のようで、フツーの英和辞書には載っていない。Goo 辞書でも出てこない (参照)。

手元にある研究社発行のリーダーズ英和辞典は、収録語数 20数万語を誇るが、そこにも出ていない。そのくせ、web 上で検索すると、くさるほど出てくる。"Subprime" でググると、約 1,320万件もヒットするし、「サブプライム」 というカタカナでも、約 292万件ヒットする。(本日時点)

フツーの辞書で出てこないものとしては、最強の言葉じゃないかと思ったが、なんと、Goo 辞書の国語辞書には、新語として出ていた (参照)。以下、引用である。

(1)上部に次ぐ位。
(2)マーケティングなどで,信用リスクの大きい消費者。一般に中低所得者をいう。

なんと、フツーの英和辞書には出ていないのに、国語辞書には、ちゃんとスペル入りで出ているという、非常に希な類の単語なのであった。

元々、この言葉、私はあまり好きじゃない。「本当は "prime" 層だけを相手にしたいんだけど、その下の連中のことは、"prime の下" とでも呼んで、別のカテゴリーとしてマーケティングしとこうか」 といったようなニュアンスで、失礼っぽい感じがプンプン臭ってくる。

慇懃無礼な差別用語とでもいおうか、ストレートな差別用語よりもずっと嫌らしい。こんな嫌らしい意識で運用されてきた山っ気たっぷりの際物分野なんだから、破綻して当然という気がする。

【当日午後、追記】

山辺響 さんのコメントをきっかけに、日本語での似たニュアンスの用例を思いついたので、追記しておこう。「特上」「上」 「並」 で、「並」というのは、実はスタンダードじゃなくて、最低クラス。フツーは「上」を注文しろよなという、無言の圧力。

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2007年9月 2日

脱糞事故をめぐる冒険

またしても JR 西日本、宝塚線である。ただ、今回は脱線転覆事故ではなく、脱糞事故だっただけ、悲劇性は薄い。

申し訳ないことに思い切り笑ってしまったが、同時に身につまされる思いもした。私だって、もし車掌室で降りられない状態で我慢できなくなったら、多分してしまうだろうしね。

そういえば、昔の列車のトイレは、垂れ流しで、ウンコや小便を線路にまき散らしながら走っていた。だから、街や大きな駅に近づくと、車内アナウンスで 「ここから先は、しばらくトイレの使用をお控えください」 とやっていた。

その当時の岡林信康の歌「おまわりさんに捧げる歌」というのがあった。彼はこう歌ったのである

おまわりさん あんたがそこでしたくなれば
きっとするだろう

この歌は、おまわりさんのいつもしているのは、我慢できないでトイレに行く人を捕まえて、垂れ流しトイレの仕組みは放っておくようなものだという歌詞なのであった。

まあ、この歌詞はちょっと極端ではあるけれど、誰しもしちゃいけないところでウンコをしたくなってしまうことがあるというのは、多分ほんとのことである。だから、ウンコをもらしちゃったということを理由に、あの有名な日勤教育というのを課すのは控えといてもらいたい。

懲罰を科すとしたら、自分のウンコをきれいに掃除しないで、次に乗った運転士が臭くて仕事もできない状態のまま放置したという行為にこそ科すべきだろう。

ただ、その車掌は、自分のウンコが、そんなにも耐えきれないほど臭いものとは、気付かなかったのかもしれない。誰でも、自分のウンコの臭いはそれほど苦にならなくても、他人のウンコの臭いは我慢できないのだ。このことについては、詳細な検証もされている(参照)。

この車掌さん、おもらししてしまったことで、ずいぶんあせっていたので、そのことに思い当たらなかったんじゃあるまいか。なんにしても、寛大な処分をお願いしたい。

JR 西日本のお偉方だって、車掌室から降りられない状況でどうにも我慢できなくなっちゃったら、きっとしちゃうだろうし。(というか、もらしちゃうだろうし)

ちなみに、ウンコの臭いとジャスミンの香りとは、同じ物質から発しているというのは、知る人ぞ知る事実である。その臭いの元は、「スカトール」というアルコール系の物質だそうだ。

ジャスミンティーを飲めなくなっちゃった人がいたら、ごめん。そういえば、私の妻は、私がこれを単純に科学的事実として話しただけなのに、聞いた直後にとても怒った。

ある種の事実は、それ自体はニュートラルなものであっても、時に人を傷つけることがあるので、取り扱いには細心の注意が必要である。

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2007年9月 1日

日本語検定のコンセプトって?

昨日の当欄で触れた「日本語検定」だが、紹介した記事の中に出ていた 2級の問題例があまりにも難しかったので、どんなものなのか、公式サイトに行って調べてみた。

なにしろ、その記事のいうには、「受検者全体の合格率が 32.7%」という難関なので、興味をもってしまったのである。

ところが、公式サイトに載っている 「1級  社会人上級」 というページに出ている問題は、全然難しくない。中学生でもわかるんじゃないかというレベルだ。こんなんで合格率が  32.7%なんていったら、日本人のほとんどが日本語の不自由な人になってしまう。

多分、このページに出ている問題例は、受験者を増やすためにハードルを低く見せているんじゃあるまいか。だって、件の記事に載っている問題例は、次のような難問である。(以下引用)

【文の( )中に入る言葉として適切なものを一つ選びなさい】

◇今回のミスを(イ)として、早急に部内の体質改善を進める必要がある。

〈(1)奇縁(2)奇貨(3)奇特〉

◇元政治家が語った人物(ロ)は誠に興味深い。

〈(1)月旦(2)日旦(3)年旦〉

◇党内では、首相の(ハ)は必ずしも行われていないようだ。

〈(1)権威(2)威厳(3)威令〉

これ、公式サイトに載っているあまりにもとっつきやすい問題例と比較して、ギャップがありすぎる。あるいは、公式サイトではわざと易しい問題を紹介して受験者に油断させようとしているのかもしれない。合格率を下げて、検定の権威を上げようという魂胆だったりして。

で、記事で紹介された難問だが、自慢じゃないが、私自身は 3つとも正解してしまった。答えは、(2)、(1)、(3) である。「自慢じゃないが」 と断っておいたのは文字通りのことで、決して自信満々で答えたわけじゃないので、後でちゃんと辞書で確認しておいた。

ただ、「奇貨」だの「月旦」だの「威令」だのというのは、知らなくても全然恥ずかしくない。多分、99%以上の日本人は、一生使わずに済む言葉だ。さすがに ATOK ではすべて変換できたけれど、「奇貨」は何度変換キーを叩いたか数え切れない。

なるほど、こんな難問がぞろぞろ出てくるのなら、合格率が 32.7%というのもうなずける。ただ、そうなると、この日本語検定というもののコンセプトがわからなくなる。

日本語検定の公式サイトでは、この検定について、「自分自身の日本語をとらえなおし、日本語を正しく使えるようにするための一つの手立てとなること、それが願いです」 と、極めて漠然と説明してある。

はっきり言って、これではほとんど何も説明していないのと同じである。「実用的日本語を正しく使えるため」なのか、「日本語の蘊蓄を極めるため」なのか、さっぱりわからない。

公式サイトに紹介された問題例を見る限りでは完全に前者だが、件の記事で紹介された問題例を見ては、後者としか思われない。もしかしたら、「言語明瞭、意味不明瞭」を実現するための検定なのだろうか。

というわけで、日本語検定というもののコンセプトを、もう一度しっかり検討してもらいたいと思ってしまったのであった。

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