« 養老先生の煙草論 | トップページ | 福田新政権への期待と不安ですと? »

2007年9月26日

死刑の 「目的」

私は今月 23日の 「死刑で罪は償えるのか」 というエントリーで、光市母子殺人事件の被害者遺族、本村さんの「人の命を奪った者は命もって償うべき」という主張に、かなり控えめながら、しつこく疑問を呈しておいた。

ところが、私の疑問とは反対のコメントが 2つ続けてついて、戸惑ったのである。

2つのコメントは、死刑と被害者遺族の救済は不可分であると読み取れるようなものだ。それを読んで、正直なところ私は驚いてしまった。私は、死刑判決と被害者遺族の救済は別問題だろうと思っているので。

まず最初に、以下のようなコメントがついた。

死刑判決は、犯罪者が「自分はいつ死刑執行されるのだろう」と毎日おびえながら暮らす中で、他人に命を奪われることの理不尽さ、恐怖等についてわが身をもって気付かせ、心から反省させることが目的と思います。
そして、謝罪と後悔の念の中で死刑執行されるからこそ、遺族も納得し、救われるのでしょう。

しかし、死刑判決を受けた全ての犯罪者が「謝罪と後悔の念」を抱くという保障はない。そうした効果が「死刑の目的」であるというなら、多くの死刑廃止論者の主張する「人道的理由」などからではなく、効果の保障されないことで人の命を奪うのは、如何なものかと思わざるをえない。

「謝罪と後悔の念」という論理を厳格に解釈するならば、死刑執行は受刑者にそうした気持ちが生じるまで待たなければならない。しかしそれならば、殺されたくない受刑者は、いつまで経っても謝罪の念を表明しないだろう。

こうしたパラドックスが想定される限り、「死刑は受刑者に反省させるため」というのは、少なくともナンセンスに陥る場合があると言わなければならない。そうでなくても、「おぉ、死刑にしてくれ」と開き直る宅間某の例も実際あるし。

2番目についたコメントは、正直言って今イチ意味不明なところがあるのだが、どうやら死刑の目的は、犯罪者に 「死の恐怖を思い知らせること」によって、被害者遺族の納得と救いが生じるという主張なのではないかと読み取れなくもない。

しかし、犯罪者が「死の恐怖」 を思い知ったところで、被害者遺族が「納得と救い」を得られるとは、私には到底思えない。また、死刑になることによって罪の「償い」が達成されるとも信じられない。

近代以前の武士社会においては、「切腹」が最大の詫びと償いの象徴という時代があった。近代以前のみならず、太平洋戦争終結直前に「一死をもって大罪を謝し奉る」と割腹した阿南惟幾陸軍大臣のケースにも、贖罪的シンボルとしての意味が読み取られる。

しかし、現代の死刑はそれらとは決定的に違う。現代の死刑は、自発的に「死んでお詫び仕る」という、ある種の崇高さを伴っているわけではない。

そうこうしているうちに、Reiko Kato さんから、ようやく論理に破綻のないコメントをいただいた。彼女は、受刑者が反省するとか、恐怖を味わうとか、そんなことはどうでもいいことで、死刑の意味は凶悪犯罪者の「社会からの排除」であると指摘している。

なるほど、それなら意味が通る。

彼女はさらに、自身のブログにおいて死刑には殺人の抑止効果があるという説も紹介している。複数の研究成果が、1件の死刑執行によって、複数の殺人の抑止効果があると指摘しているらしい(参照)。どんな計算によるのかは知らないが。

確かに、死刑という制度に目的があるとすれば、この犯罪抑止効果というものがまず挙げられるだろう。

ただその効果を本気で狙うならば、現在の手法よりもずっと「見せしめ性」の高いやり方、つまり晒し首にするとか、十字架に貼り付けるとか、公開銃殺刑とかを採用する方がずっと効果的なはずだ。しかし、それは今の日本ではいくら何でも通らない。

ここで言えるのは、「死刑」という制度はとても複雑で気の滅入る問題を多く含んでいるということに止まる。私は既に述べているとおり、死刑廃止論者ではない。しかし、個別の裁判において、被害者遺族が被告を死刑にせよと強硬に主張することには、どうしても違和感を覚えるのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« 養老先生の煙草論 | トップページ | 福田新政権への期待と不安ですと? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

最初にコメントしたたもです。

Reiko さんの意見に同意します。

遺族にしてみれば、加えて受刑者に死への恐怖と、自分の行いへの後悔を感じてほしいというところではないでしょうか。

投稿: たも | 2007年9月26日 08:06

たも さん:

>遺族にしてみれば、加えて受刑者に死への恐怖と、自分の行いへの後悔を感じてほしいというところではないでしょうか。

確かに、心情的にはそう願う遺族が多いと思います。

しかし、単に 「復讐」 的な意味合いで死刑を望む遺族もいるでしょうし、そのあたりの心情は人それぞれですので、法律も介入できないところだと思います。

投稿: tak | 2007年9月26日 09:54

私は庄内さんのご意見に同感です。
Reiko さんの意見にも同意します。

アイヒマン裁判の記録映画を観ましたが、一人二人の殺人ではなく、ホロコーストという民族殲滅というスケールの行為を行ったケースであっても、アイヒマンの殺人鬼というよりは感情の希薄な能吏型の性格のせいもあったのか? どうしてもこの男を殺さなければならない!という気持ちはわき起こりませんでした。
知人にアウシュヴィッツの生き残りがいるのですが。

庄内さんの分析のように、死刑制度の存廃とは実に複雑な要素を含む問題ですね。

投稿: alex99 | 2007年9月26日 12:41

alex さん:

本当に複雑な問題だと思います。

>アイヒマンの殺人鬼というよりは感情の希薄な能吏型の性格のせいもあったのか?

そうなんですよね。単なる職業的任務としての殺人 (そんなことがあっていいものかどうかは別として) と考えると、わけわからなくなります。

それを言い出すと、死刑を執行する仕事の人 (死刑執行令状に署名する法務大臣を含めて) はどうなるんじゃと。

政治犯の死刑を宣告した人間や執行した人間は、政治体制が変わってしまったら、裁かれなければならないでしょうか?

死刑制度が不必要とか、人道的にあってはならないなどとは思いませんし、個別の死刑判決が出されると、あっさり 「まあ、妥当かもね」ぐらいに思って、滅多に憤ったりはしません。

しかし、被害者遺族が 「死をもって償え」 と要求する権利があるかといえば、何度も言いますが、私は激しく疑問なのです。

私の信条から言えば、むしろ 「生きて償え」 の方が妥当という気がするのです。「死の恐怖」 にせきたてられた強制的な悔悟の念よりは、ずっとまともな償いになりそうな可能性があると思えます。

もちろん、生きて償われるかどうかの保障はありませんし、実際は償われない確率の方がずっと高いのでしょうが、少なくとも可能性を抹消したくはないと思います。

投稿: tak | 2007年9月26日 13:17

takさま、はじめまして。RYOと申します。

死刑の是非や意義については人の数だけ意見がありますから、論じることに意味があるとは思いません。

「身内が理不尽に殺された。復讐(同じ苦しみを与える=死)したいが日本は法治国家・・悔しい」
と言う人のため、国家が代わって実行する。

上記以外の意味などないのでは?

精密機器部品の集まりである自動車でも、数万台に1台は欠陥品があると聞きます。
同じように、人であろうとも欠陥品は「ある」と思います。
育った環境など後天的なものではなく、芝居がかった言い方をすれば「生まれついての悪」と言うのでしょうか。
人の死にエクスタシーを感じるような。
詫間某や光市母子殺人事件の元少年が、例えばそうなのかもしれませんね。

学のある人は戦争だのアウシュビッツだのと難しく考えがちですが、「愛する家族を理不尽に殺したゴミは死ね」
と、学のない私は考えます。

長文失礼しました。

投稿: RYO | 2007年9月26日 16:39

RYO さん:

>死刑の是非や意義については人の数だけ意見がありますから、論じることに意味があるとは思いません。

死刑の是非や意義に限らず、人の数だけ意見があればこそ、論じることに意味があるのではないでしょうか。

>「身内が理不尽に殺された。復讐(同じ苦しみを与える=死)したいが日本は法治国家・・悔しい」
>と言う人のため、国家が代わって実行する。

>上記以外の意味などないのでは?

死刑は国家による代理復讐ですか?
そうだとしたら、「余計なお世話」 というケースも生じると思いますよ。

それから、天涯孤独の人 (肉親のいない人) ばかり何人も虐殺した人は、死刑にできなくなりますね。

投稿: tak | 2007年9月26日 21:24

>私の信条から言えば、むしろ 「生きて償え」 の方が妥当という気がするのです。

これも同感ですね。
ただ、そう言う私もいざ実際に肉親を殺されたら復讐心の塊になり、仇討ちの旅に出るかも知れません。(笑)

そこで赤穂浪士の時代のように「敵討ち」制度の導入はどうでしょうか?
相手が強ければ「返り討ち」もあるかも知れませんから、充分な仇討ち資金捻出のための「仇討ちローン」などが出たりして。(笑)

投稿: alex99 | 2007年9月26日 22:42

alex さん:

>そこで赤穂浪士の時代のように「敵討ち」制度の導入はどうでしょうか?

光市の本村さんは、もし被告が死刑にならいのなら、自分が殺すから釈放してもらいたいというようなことを言ったようですね。

そんなことを、あのマジな顔で言っちゃったら、ちょっとヤバイ気がします。

投稿: tak | 2007年9月26日 23:48

 はじめまして、いつも楽しく拝見しています。今回は死刑という面白いテーマであり、私もこの場を借りて意見を述べたいと思います。

 まず、本村さんの反応は、ごくごく正常なものだと思います。教祖でも哲学者でもない、一般の生活者が家族二人の命を奪われたときの反応はだいたいあんなものです。彼は何の衒いもなく、ただ思ったことをそのまま口にしているんだと思います。ただ、もし私が彼なら犯人に謝罪や償いは求めません。単純に犯人のみじめな死を望むだけです。では、なぜ彼はそれを求めるのか。それは、犯人のみじめさを倍加させるためだと思います。訳もわからず死刑にされたのでは、みじめさが足りないとお考えなんでしょう。つまり、彼の言う「謝罪や償い」は調味料に過ぎないのです。彼の言動は、自分の愛するものを殺したものがみじめに死ぬことを望むという生理的反応そのものです。

 それより私が気になるのは、この事件の報道のされ方です。識者と呼ばれる人たちが弁護団の手法を罵っています。確かに私も彼らの言うことは支離滅裂だと思います。ただ、弁護人とは本来できる限り被告人の刑を軽くすることだけを考えるものです。支離滅裂であろうが、被告人の刑を軽くするためであればどんな手法も許容されるべきであり、それが被告人の権利を守ることだと思います。それを、識者とは言え全くの部外者が、一個の裁判の弁護団を集中的に攻撃するのはどうなんでしょうか。

 何かだんだん眠くなってきましたけど、とにかく僕が嫌だなと思うのは、失敗したものに集中砲火を食らわす世間の風潮です。死刑囚は格好の餌食です。あの神戸のいじめの加害者もネットに親兄弟の情報までもがさらされているそうです。他人の罪を罵る前に自分の日々犯している罪にもっと目を向けてほしい。

ああ支離滅裂ですみません~ おやすみ。

投稿: naoki | 2007年9月27日 00:47

naoki さん:

のっけから言葉尻を捉えるようで、恐縮ですが、

>今回は死刑という面白いテーマであり、

う~ん、私にとっては 「面白い」 というより 「気の滅入る」 テーマです。

>彼の言う「謝罪や償い」は調味料に過ぎないのです。彼の言動は、自分の愛するものを殺したものがみじめに死ぬことを望むという生理的反応そのものです。

そう言い切っていいものか、私は (一応) 疑い、ためらいます。(おっしゃるとおりかもしれませんけどね)

私の考えでは、愛する者を殺した犯人の死がみじめあればあるほど、自分もみじめになると思うのです。
(「ざまあみろ」 という感情は、その瞬間は痛快な幻想を伴っても、後になってからとても空しいんですよ。少なくとも私は)

同じ死ぬのなら、何かきちんとした落とし前をつけてから死んでもらいたいものです。
(自分が空しくならないためにも)

>それより私が気になるのは、この事件の報道のされ方です。

ここより先のあなたのご意見には、とても共感できます。というか、はっとさせられるものがあります。

とくに、

>他人の罪を罵る前に自分の日々犯している罪にもっと目を向けてほしい。

これですね。(はっとしちゃいましたよ)

投稿: tak | 2007年9月27日 11:32

純粋に論理的に考えるなら、危険な奴を社会から排除するという目的は死刑によらずとも終身刑によって達せられます。また、死刑による威嚇によって凶悪犯罪が減るという説に対してはその効果に疑問が投げかけられています。
それでもなお死刑制度があるのは何のためか。私は結局「復讐」に行き着くのではないかと思います。
文明の精華ともいえる刑法典ですが、生きた人間のための法である以上、「彼奴だけは生かしておけぬ」という粗野な、しかし自然な感情も、計算に入れられている、と。言い換えればもともと刑罰には教育だけでなく応報の意味も含まれているという訳です。
復讐による殺人は歴史と共に古く、カタキを殺したいというのはごく自然で普遍的な感情です。
ですから、木村さんの発言は裁判には直接影響を与えないかも知れませんが、死刑制度の存続ないし廃止を考える上では、大いに参考になると言えるのではないでしょうか。

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年9月27日 13:08

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>純粋に論理的に考えるなら、危険な奴を社会から排除するという目的は死刑によらずとも終身刑によって達せられます。

終身刑という可能性について、Reiko Kato さんのエントリーでは、

>手紙その他の方法で社会に影響を与える可能性(ヤクザの親分が子分に指示を与えるとか)、脱獄の可能性などのリスクを完全に排除できない上、犯罪者を何十年も養うために税金が投入されるのも納得がいかないところ

と述べられています。
確かに言えてると思います。「社会からの排除」 を徹底するには、死刑が一番でしょうね。論理的には。

>死刑による威嚇によって凶悪犯罪が減るという説に対してはその効果に疑問が投げかけられています。

これは、調査をするにしてもどこかにアナロジカルな要素を加えなければならないので、どんな結論が出たとしても、疑問をさしはさむ余地はあるでしょうね。

最も単純に考えれば、「つかまって死刑になるのは嫌だから、人殺しはやめとこう」 と思う人が、「俺は死刑になりたいから人を殺しまくるぞ!」 という人よりもずっと多ければ、それは抑止効果といえるでしょう。

で、私は、「やめとこう」 と思う人の方がずっと多いという印象をもってますので、数字を挙げて証明はできませんが、表面的な抑止効果はあると、個人的には思っています。

ただ、「やめとこう」 と思っている人のほとんどは、多分、死刑制度がなくても殺人を犯さない穏やかな人だろうと仮定して、「死刑になりたいから殺すぞ」 という人が、殺人を犯す可能性がとても高いという要素を勘案すると、逆効果という見方もできるでしょう。

ただ、それでもやはり 「抑止効果」 というのは、なくはないだろうと、私としては思っています。「死刑になりたいから殺しまくるぞ」 という人間は、今のところは極めて少数だと思うので。
そして、そんなに死にたければ、自殺する方が早いので。
(ざっくりとした印象的にすぎない言い方で恐縮ですが)

>それでもなお死刑制度があるのは何のためか。私は結局「復讐」に行き着くのではないかと思います。

「それでもなお」 というのは、少しだけ論理の飛躍だと思います。「抑止効果」 という要素が、まだ完全に否定されていないので。

その上で、「応報」 というコンセプトについて語るとすれば、死刑の最も古典的な意義の中では、その要素は非常に大きかったろうと、私も確かに思います。

ただ、それが感情的な要素を重視した 「復讐」 なのか、「因果応報」 という視点から、「目には目を」 という社会維持のための客観的決め事じみたものなのか、あるいは、これら二つの要素が渾然一体となっているのかは、地域と時代によってさじ加減が違うと思います。

>カタキを殺したいというのはごく自然で普遍的な感情です。

私が一貫して激しく疑問に思っているのは、まさしくこのことで、それが 「自然で普遍的な感情」 とは思えないのです。私自身は、ぶん殴りたいとか、腕の一本も折ってやりたいとかぐらいは思うかもしれませんが、「殺したい」 とまでは、到底思えません。

「殺す」 って、正直言ってコワイです。相手の腕を脱臼させるだけでも、相当気持ち悪いのに。

プリミティブな感情ではあるかもしれませんが、普遍的とは言えないと思うのです。ここに激しく疑問に思う人間がいるというだけで、「普遍的」 ではないという証明になるかもしれません。

>木村さんの発言は裁判には直接影響を与えないかも知れませんが、死刑制度の存続ないし廃止を考える上では、大いに参考になると言えるのではないでしょうか。

いや、私は本村さんの発言は、結構影響を与えると思いますよ。改正された制度のもとに、あれだけ声高に、社会にも注目されながら発言しているわけですし。

死刑制度の存続や廃止を考える上では、… う~ん、どうなんでしょうね?

投稿: tak | 2007年9月27日 15:02

やはり、この話題は熱くなりがちなので注意が必要ですね(汗

>>手紙その他の方法で社会に影響を与える可能性(ヤクザの親分が子分に指示を与えるとか)、脱獄の可能性などのリスクを完全に排除できない上、犯罪者を何十年も養うために税金が投入されるのも納得がいかないところ

私も心情的には、「こんな悪い奴を何十年も税金で養うなんてひどい無駄だなあ」と思うことは思うのです。
しかし、同じ目的を達する上でできるだけ軽い刑を選ぶというのが近代刑法のセオリーですので、社会からの排除という目的なら終身刑があれば十分で、死刑が存在する理由はないわけです。
子分に指示を与えたり脱獄したりといったことは死刑囚以外にも当てはまりますし、そういった心配を断ち切るためにいっそのこと死刑にしてしまえというのも少々乱暴な話です。

>最も単純に考えれば、「つかまって死刑になるのは嫌だから、人殺しはやめとこう」 と思う人が、「俺は死刑になりたいから人を殺しまくるぞ!」 という人よりもずっと多ければ、それは抑止効果といえるでしょう。

でも、「何人殺しても獄門台に晒されるのは一度っきりでい!」という悪人哲学もありますし(--;


>>カタキを殺したいというのはごく自然で普遍的な感情です。

>私が一貫して激しく疑問に思っているのは、まさしくこのことで、それが 「自然で普遍的な感情」 とは思えないのです。

ですから、結局ここに行き着くと思うのですね。
現在のところ復讐アリの人が大勢を占めているので死刑という制度があるわけで、「自分は犯人の死を望むことはない」、という考えの人が増えてくれば変わっていくのでしょう。
私はどちらかというと前者なのですが、「生きて償わせるべき」という考え方も、もちろん理解はできます。理性的で立派だとも思います。
ただ、自分の身に降りかかったときのことを考えると、やはり犯人には死刑になって欲しいです。こういう感情は、プリミティブなだけに理屈ではどうしようもない拭いがたいものなんですよね。

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年9月27日 16:00

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>ただ、自分の身に降りかかったときのことを考えると、やはり犯人には死刑になって欲しいです。こういう感情は、プリミティブなだけに理屈ではどうしようもない拭いがたいものなんですよね。

う~ん、前のレスに後から書き足したんですが、私は、端的に言うと、

「殺す」のって、コワイ!

んですよ。

ですから、殺すまでの復讐ってしたくないし、国家が 「代理復讐」 で殺してくれても、やっぱり夢見が悪いと思うんです。

自分とは直接関係のないケースでの死刑判決には、「ふ~ん、妥当かもね」 と冷静でいられても、もし自分に直接関係があったら、冷静ではいられないと思うんですよね。

その意味で、「死んで償われる」 より、「生きて償われる」 方を望むし、たとえ償われなくても、死刑で無理やり殺すのは、気持ち悪いです。

投稿: tak | 2007年9月27日 16:11

なるほど~。
たびたび丁寧なレスをいただき、誠にありがとうございます。
それにしても、tak さんと私とで、死刑存続という結論は同じなのに、犯罪抑止効果についてはそれぞれ肯定・否定、復讐機能については否定・肯定と、正反対なのは面白いですね。

余談ですが、実はこちらのブログを毎回「言えてるなあ」と感服しながら見ているのですが、このエントリで初めて自分とは全く違う意見を拝見し、別の意味で感服いたしました。世の中、色んな考え方があるから面白いのですもんね。

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年9月27日 16:46

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>世の中、色んな考え方があるから面白いのですもんね。

本当ですね。
結論が共通していても、辿る筋道が違うと、その結論の実体もちょっと違うという、不思議な現象。

投稿: tak | 2007年9月27日 20:46

はじめまして。
読んでいていくつか疑問というか腑に落ちないというかそういった点があったので・・・

「生きて償え」ですが・・・そもそも償えるんですか?
いや、生きて本気で後悔して必死に反省して真摯に祈り続ければ償いができるんですか?

個人的にはできないと思います。
なぜなら殺人とはもう終わってしまったものだからです。
もちろん死んだ人間の周りにいた人たちの悲しみとかそういったものはありますが、「暴行された」「殴られた」「詐欺にあった」といった罪とは違い、もうすでに本人は終わってしまっているのです。
たとえ生前のその人がどう考えていようがそんなことはまるで「関係することができません」死んだ人間がどう思うかなんてただの妄想でしかないわけです。
だって死んだら何も考えられないし伝えられないわけですから。
死刑は償いではなく、ただこれ以上のマイナスを出さないための物でしかないのではないでしょうか・・・・

とまぁこの辺はただの僕の意見なのでどうでもいいのですが、本当に気になったのは「自分で犯人を殺すと真顔で言っちゃうのはやばいと思う」という一点。
このやばいって、「そんなこという本村さんがやばい」といっているのか「死刑否定論者とかにつけこまれるから公共の場で流すべきではなかった」といったような意味なのかどちらなのでしょうか?
ちょっと文脈から読み取りづらかったし、きになったもので・・・

ついでに言うと、今本村さんはつけこまれないように、常に冷静で居続ける努力をしているらしいですが・・・・救われませんね、遺族にこれだけの労力を強いなければならない今の現状が・・・・その上であの弁護ですし、ホント色々救われません。
唯一の救いは差し戻しなのでもうすでに死刑になることがほぼ決まっていることだけな気がします・・・・まぁ、それも一審二審で無期判決出たあたりの絶望を考えると切なくなりますが

投稿: エア | 2007年9月27日 22:49

あぁすみません、ほかの記事よく読んでいませんでした・・・・上のほうの文章は忘れてください。ここで書くべき文章ではなかったです。すみませんでした

投稿: エア | 2007年9月27日 22:53

エア さん:

気になさらないでください。
こちらも、とりとめもなく書き散らかしてるので。

>それも一審二審で無期判決出たあたりの絶望を考えると・・・

無期懲役では、途中で死なない限り、いずれ必ず出所してきますからね。それを望まない人も多いでしょう。

投稿: tak | 2007年9月28日 12:20

なぜかトラックバックが反映されません。コメント欄で報告いたしますが、再度リンク&コメントさせていただきました。

http://www.mypress.jp/v2_writers/reiko_kato/story/?story_id=1661285

投稿: Reiko Kato | 2007年9月30日 13:45

Reiko Kato さん:

>なぜかトラックバックが反映されません。

恐縮です。毎日毎日、あまりにもスパム・トラバが多く、まともなトラバが影に隠れてしまうので、やむなく承認の上で公開されるという方式にしてあります。

さっそく公開にしましたので、よろしく。

論理性と感情の狭間の整合性をどう取るかというのは、なかなか難しいですね。

投稿: tak | 2007年9月30日 20:09

>私の信条から言えば、むしろ 「生きて償え」 の方が妥当という気がするのです。「死の恐怖」 にせきたてられた強制的な悔悟の念よりは、ずっとまともな償いになりそうな可能性があると思えます。

はて?別に遺族は「死の恐怖を与える」ことは求めてないと思いますけどね。
悪いことをしたらそれと同価値の罰を受けるべきで、それが凶悪事件の場合死刑というレベルに達した、というだけだと思いますが…

投稿: 通りすがり | 2007年10月21日 00:45

通りすがり さん:

>はて?別に遺族は「死の恐怖を与える」ことは求めてないと思いますけどね。

そもそも、私自身も同じ疑問を抱いていることは、このエントリーの本文からの流れをお読みになれば、わかるはずです。

>悪いことをしたらそれと同価値の罰を受けるべきで、それが凶悪事件の場合死刑というレベルに達した、というだけだと思いますが…

一見単純明快ですが、その実、よくわからないです。

1人殺しただけではなかなか死刑にならず、2人以上殺さないと、死刑にならないというのと、「同価値の罰」 というのは、どう結びつくのでしょうか?

罰で死ぬ場合は、1人の死に対しては重すぎて、2人以上の死に値するということでしょうか?

投稿: tak | 2007年10月21日 04:21

 通りすがりに失礼します。

殺人を犯した人物の動機が内因的ならばその人物には社会に出てきてほしくはないです。現状では死刑以外では社会復帰できるので死刑を望みます。優しくないので。

私は刑罰は社会に対して不適応をおこした者を排除する機構だと考えます。当然不都合はありますが(刑の妥当性とか)。

投稿: kuro | 2008年3月 1日 14:12

kuro さん:

>殺人を犯した人物の動機が内因的ならばその人物には社会に出てきてほしくはないです。

動機が内因的か外因的かは、どうしたら本当のところがわかるんでしょうか。
どこからが内因的でどこからが外因的という線引きが可能なのでしょうか。

>私は刑罰は社会に対して不適応をおこした者を排除する機構だと考えます。

社会に対する不適応ということでいえば、私だって決してきちんと適応しているわけじゃないという自覚があります。

投稿: tak | 2008年3月 1日 23:41

遺族が、犯人を死刑にしてくれという気持ちは理解出来る。
生きて償えという、理念も理解出来る。
極刑による犯罪の抑止効果は、方法によっては効果があると理解出来る。

理解出来ないのは、制度として成り立っている日本の死刑制度が、きちんと履行されない事にある。
法務大臣が判を押すのを拒むのは信条的には理解出来るが、それは職務であり義務ではないのか?と疑問に思う。その責を負って大臣にご就任されたのではないのかと。

ただ、被害者家族が声高に「死刑にせよ」と叫べるのも、誰かの命を奪う事を他人任せにしているからだという気もしないではない。

個人的には死刑反対ではない。
ただ、制度として、執行の決定権を被害者家族にゆだねたらいいと思っている。
「許せない」というなら、執行の最終決定を下せばいい。
「許し、生きて償え」という、決定もまた被害者家族が決めたらいい。
死刑判決までは充分に検討されるべきで、それは司法の領分として、それから後の、「執行」と「特赦」の特権を被害者家族に委ねてしまうというのはやはり非人道的だろうか。

投稿: きんめ | 2008年3月 3日 15:42

きんめ さん:

なるほど、かなり説得力があるご意見ですね。

>被害者家族が声高に「死刑にせよ」と叫べるのも、誰かの命を奪う事を他人任せにしているからだという気もしないではない。

自分で執行請求しろと言われたら、「死刑にしろ」 と声高に要求した遺族の、果たして何割が即座に対応できるでしょうね。

逆に、死刑制度反対の遺族は、いつまでも執行させなければいいんですけどね。

投稿: tak | 2008年3月 3日 16:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 死刑の 「目的」:

» 死刑の目的 [ちりんのblog]
目的と言われると難しいが、社会の秩序を守る制度として、人を殺した人は死ぬことになっている、という約束事があり、私的復讐が禁止されているということに、死刑の意義があるのだと思う。ある人を殺したいと思ったとして、それを実行に移す際に、それだけの重みがある行為... [続きを読む]

受信: 2007年9月27日 01:50

» 続・死刑の意味するもの [[晴]晴れの日もある]
takさんに過分な褒め言葉をいただいた。 [続きを読む]

受信: 2007年9月30日 13:40

« 養老先生の煙草論 | トップページ | 福田新政権への期待と不安ですと? »