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2007年9月28日

死刑をめぐる煩悶

今週の "死刑で罪は償えるのか" と、"死刑の 「目的」" という 2つのエントリーについたコメントにレスしているうちに、私自身の死刑に関する考えがかなり整理された。

私は一貫して 「被害者遺族の復讐的意味合いの死刑要求」 に疑問を呈したのだが、逆に肯定的コメントが多いのに驚いた。

光市母子殺人事件の被害者の夫である本村洋氏の、かなり本気の死刑要求に私はどうしても違和感を覚えてしまい、「私だったらそうはしない」 という態度表明をしたのだが、寄せられたコメントの過半数は、遺族の復讐的意味合いでの死刑要求は当然のことというご意見だった。

「目には目を」 的なコンセプトが私の想像以上に当然と見なされていることに、私は少なからず戸惑ってしまったのである。まず私は、もしかして自分が偽善的なことを言っているのではあるまいかと疑ってみた。

もし自分の身内が殺されたら、本当は復讐したいのに、犯人をなぶり殺してやりたいのに、その感情を偽善的な理性で抑圧して、「死んで償うより、生きて償ってもらいたい」 などというきれい事を言っているのではあるまいかと、自問自答した。

その結果、やっぱり私は、復讐的な意味合いでの死刑は、本心から望まないだろうということを確認してしまったのである。

なぜか。私はこれに先立つ 2つのエントリーを書いた時点では、その理由を自分でも明確に意識していなかったのだが、自問自答のうちに、何となくわかったような気がした。

正直言って、私はいくら復讐とはいえ、人を殺すのが 「コワい」 のである。そう、コワくてしょうがないのだ。

争った相手の腕を脱臼させてしまうぐらいで十分に気持ち悪いのに、階段からたたき落としてしまったぐらいで十分わなわなするのに、こともあろうに殺してしまったりしたら、どんなにぞっとするだろう。

私は幸いなことに人を殺したことがないが、そのおぞましさはかなりリアルに想像できる。もしかしたら、前世で人殺しをしたのかもしれないなんて思ってしまうほどだ。

そして、いくら国家が私になりかわって 「代理復讐」 としての死刑を執行してくれるといっても、私はそんな夢見の悪いことを敢えて望まない。要するに私は、その程度の 「根性なし」 なのである。

人は、それは私が肉親を殺されたことがないので、傍観者的なスタンスだからこそ言えるのだと指摘するかもしれない。自分が被害者遺族の立場になったら、本当に 「復讐を望まない」 などと言えるかと、疑うかもしれない。

しかし、私の感じ方は、それとは逆なのだ。

自分とは無関係な殺人事件の裁判で死刑の判決が出ても、私は冷静に 「ふ~ん、それは妥当な判決だよね」 などと思っていられる。しかし、もし自分が被害者遺族だったとしたら、そんなに冷静ではいられない。

被告に死刑が宣告されたら、果たして溜飲が下がるだろうか。「それみたことか。死刑執行の日まで、せいぜい怯えるがいい、苦しむがいい」 と、なぶるようなまなざしでいられるだろうか。人間とは、そんなに物理的なまでに単純明快な生き物だろうか。

実際には、死刑が執行されるまで、私の方がまともな精神状態ではいられないだろう。そして、執行されたらされたで、その後はずっと夢見が悪いだろう。決して胸のつかえがとれたような思いにはならないだろう。

私は多くの人がなぜそれほどまでに 「復讐的意味合い」 での死刑を望むのか、わからない。「当事者でないから、そんなことが言えるのだ」 との指摘には、同じ言葉を返したい。そして、「本当にそんなに当然のごとくに、おぞましさにおぞましさで報いたいか」 と付け加えたい。

命のやり取りに直接関わることが、どんなに身の毛のよだつことか、想像できないのかと。

私なら、そんなに夢見が悪く、気分の晴れないことはしたくない。忠臣蔵の復讐劇をみて単純に感動できるのは、その敵討ちが、「ひとごと」 だからである。自分の身にふりかかったら、果たしてどうだろう。大石内蔵助の煩悶がどれほど辛かったか、想像もできない。

これには、私の中にある仏教的倫理観が影響しているのかもしれない。業を以て業に報いることにより、さらに増幅した業が自分に返ってくるのを、私は本心から畏れる。できれば自分の関与できる時点で、その業の応酬を断ち切りたい。そうでないと、いつまで経っても因果の渦の中で心休まる時がない。

ここでもう一度確認しておきたいが、私は決して死刑廃止論者ではない。死刑制度には、漠然としたものではあるが、犯罪抑止効果があると思っている。

この矛盾の解決手段として、もし私が被害者遺族の立場にあって、被告に死刑宣告が下ったとしても、それは私の望んだことではなく、国家が勝手に決めたことだということにしておきたい。それは、対社会的に意味のあることであって、私とは無関係なことだと。

ある意味、とてもズルイ態度かもしれず、それはそれで、ちょっと煩悶したくなる結論ではあるが、自分が決して被害者遺族になどならないと信じて、これ以上深く考えないことにする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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哲学・精神世界」カテゴリの記事

コメント

オッチャンです。

本村さんのおっしゃることも理解します。
(加害者に対して)極刑を望まれることも解ります。


ただ、アタクシが当事者(被害者遺族)であるとしたら、極刑が落とし所ではありません。
心から「ごめんなさい」と言ってくれるかどうか、己の身勝手が(自身に)どんな結果をもたらしたか、じっくり反省して(自発的に極刑を)受け入れてもらいたい。


反省が微塵もなければ、やっぱり排除の方に向いてしまうのかなぁ…?


さびしいけど…。

投稿: オッチャン | 2007年9月28日 01:49

オッチャン:

本村さんの気持ちもわかるけど、自分だったら落とし所が違うなあという気持ち。早く言えば、私もそうです。

>反省が微塵もなければ、やっぱり排除の方に向いてしまうのかなぁ…?

複数の殺人を犯した凶悪犯が全然反省しなければ、フツーの裁判だったら、どうのこうの言わなくても、まず死刑でしょうね。

で、私なんか 「当然かもね」 なんて割り切っちゃいますからね。直接自分に関係あったら、わなわなしちゃうでしょうけど。

我ながら、身勝手な話ですね。

投稿: tak | 2007年9月28日 12:29

うむむ。
先日「復讐による殺人アリでしょ」と述べさせて頂きましたが、確かに、自分の中の「復讐の観念」を仔細に検討してみると、案外薄っぺらなものであることに気がつきました。
復讐を決意したリアルな体験がないのはもちろん、誰かが復讐を遂げたのを直接見聞きしたこともありません。せいぜいテレビや漫画で見ただけです。
現実には、いくら犯罪者とはいえ人ひとり殺める(=死刑)というのは大変なことですものね。
私も含めて「悪い奴はぶっ殺せよ」と、軽ーく考えている人が多いのは、いわゆるヴァーチャル感覚というもののなせるわざなのかも。

なにやら養老先生の御説を思い出してしまいました(^^;

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年9月28日 23:33

 前にもコメントしました。僕も他人事として死刑をみるときと当事者としてみるときは全然違うと思います。今回の事件でもし彼が死刑にならなかったら、僕は部外者としても割り切れないものを感じるでしょう、ちょうどずっと解けない数学の問題のように。ニュース見ながら「なんでやねん」くらいの独り言は言うはずです。そして三日も経てば、そんなことも忘れてしまうでしょう。僕とは全く係わり合いのないことですから。

 僕も庄内さんと一緒で少し変わっている(失礼!)のかもしれないですけど、今ひとつ本村さんの、と言うか世間の言動で解せないものがあります。それは、犯罪者に対して謝罪や償いを求めることです。ここでいう償いというのは、損害を賠償するという意味ではなく、反省という意味に近いと思います。断言できるのは、もし僕が本村さんでも犯人が死刑になってくれたらいいなと思うことはあるかもしれませんが、謝罪や反省を求めることはありません。これはかなり自信があります。

 彼が反省するかどうかは完全に彼個人の問題であって、被害者であろうと一切無関係です。仮に彼が心底反省したとして被害者は何が嬉しいのでしょうか。僕だったら全然嬉しくないです。もし犯人が目の前に現れたら、もう容易に想像できます、激しい怒りが湧いてきて、絶対に殴りたくなります。土下座をするなら、その頭を蹴ってしまうかもしれません。犯人の反省などどうでもいいのです。本当の償いは、死んだ者を元通りよみがえらせることだけだと思います。それができないなら、死刑になろうと無罪になろうと、幸せになろうと反省しようと関係ありません。ただ生涯僕の視界には入ってほしくないし、記憶からも消えて欲しいと思うでしょう。

 本村さんと庄内さんと僕と全く異なっています。でも、ここには議論の余地はありません。みんなそう思ってしまうんですから。誰が正しいということはありません。本当に百人百様ですね。

投稿: naoki | 2007年9月29日 01:38

はじめまして。
私は自分の中にかなり矛盾があることは認めた上で、死刑廃止を希望している者です。
ただ、廃止論者というほど、声高にこの件について表で述べたことはありません。
ある意味、今回の takさんの一連の死刑エントリーに触発され、初めてこのコメントで死刑について漠然と思ってることを書いてみたくなりました。

抑止効果と復讐について一点ずつ。

思い切り暴論極論なんですが、まず抑止効果については、その効果を最大限活かす死刑の手法として、死刑が確定した途端からご飯抜き刑ってのを望みます。
ふざけてるようだけど、この刑罰は絞首刑のように半ば自動的に処罰されるのと較べ、物凄く苦しいものではないかと思います。受刑者はご飯を抜かれてから死ぬまでの猶予期間において、自分が犯した罪に対する反省とは無関係に、否応なく自身の生物としての死というものをじりじりと実感しなければならないでしょう。ま、冤罪受刑者にはむごすぎる刑ですが、受刑者には筆記権だけは与え、何か書きたいことがある者は書く、またその書かれたものの閲覧は受刑者のプライバシーを守れる厳しい約束(特にメディアに流したら厳罰に処せられるような)を交わした上で閲覧可能とするという形が取られていれば、もちろんその場に至ってもウソをつく人もいるでしょうけど、ある「希望」のようなものは受刑者にも被害者遺族にも担保されるような気はします(希望に括弧を付けたのはそれ以外に良い言葉が思い当たらなかったからで、本来ここで使うべき言葉ではないかもしれません)。
それとこの刑罰は絞首刑のようなボタンを押す者といった存在が必要なくなるため、少なくとも裁判長→法務大臣止めで、死刑を執行する気持ち悪さを感じなければならない人の数は減ります(ただ、死体処理の仕事は絞首刑よりきつそうですが)。と同時にそれは裁判長と法務大臣が感じる死刑に対する責任(リアリティ)を増させるものだと思います。でも、彼らは要職にある人たちなので、より一層のことその責任の重さをしっかりと受け止めてほしいんですね(特に冤罪者を作らないように)。

長くなってしまってるので、復讐については簡単に。
takさんは自分が被害者遺族になられたときに、人を殺すという行為の気持ち悪さから「私だったらそうはしない」と態度表明されていて、私もたぶんそんな感じだろうな〜と思いつつ、でも、こればかりはその当事者になってみないことには自分の心理がまるで読めないというのが最終的な本心です。
ただ、「復讐的意味合いでの死刑要求は当然」というコメントが多い背景には、遺族にとってはこれで話を手打ちにする儀式的意味合いにおいて、死刑は必要とされるのかな?と思っています。そして、儀式って得てして、ただ虚しいだけじゃないですか。それをわかっていても、古くから儀式好きなのが日本人の民族性なのかな〜と(そこに日本で死刑が廃止されない要因の一つがあるのではないか?と)。

・・とここまで書いて、冒頭に書いた抑止効果と復讐について、あまり触れてないことに気づいてしまいましたが、それを直すと全文書き換えになりそうなので、申し訳ありませんが、このままでコメントさせていただきます。

投稿: traceraser | 2007年9月29日 04:11

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>私も含めて「悪い奴はぶっ殺せよ」と、軽ーく考えている人が多いのは、いわゆるヴァーチャル感覚というもののなせるわざなのかも。

というか、そういう文化に制約されているのかもしれません。「凶悪犯は死刑、敵討ちは美徳」 という文化ですね。

江戸の昔の敵討ちというのは、あれはむしろ、一種の 「強制的義務」 みたいなものですから (しないと後ろ指さされるし)、敵を討たなければならない当事者の身になると、なかなか不自由なものだったんじゃないかとも想像するんです。

投稿: tak | 2007年9月29日 18:41

naoki さん:

>本当の償いは、死んだ者を元通りよみがえらせることだけだと思います。それができないなら、死刑になろうと無罪になろうと、幸せになろうと反省しようと関係ありません。ただ生涯僕の視界には入ってほしくないし、記憶からも消えて欲しいと思うでしょう。

「償い」 という言葉がよくないのかもしれないと感じました。

私は 「贖罪」 という言葉に言い換えて、こだわっています。「贖罪」 が成立するのは、罪を犯してしまったからでして、もちろん、それを帳消しにすることはできません。その上での 「贖罪」 です。

「お前の殺した、私の愛する人を、元のままに生かして返せ」 という要求は、無茶です。無茶な要求からは何も生まれず、空しいだけです。悲しい境涯になって、その上で、自ら業を重ねるようなことは、私はしたくありません。

宗教というものに意味があるとすれば、凶悪犯が贖罪を遂げられるように祈ることによってのみ、業の応酬がなくなるということだと思います。

投稿: tak | 2007年9月29日 19:05

traceraser さん:

>思い切り暴論極論なんですが、まず抑止効果については、その効果を最大限活かす死刑の手法として、死刑が確定した途端からご飯抜き刑ってのを望みます。

確かに、暴論極論かも ^^;)
最強 (最凶?)の刑罰ですね。

「楢山節考」 を思い出しました。確か、「飯を食うな!」 というのが、殺し文句なんですよね。(別の小説だったかな?)

>ただ、「復讐的意味合いでの死刑要求は当然」というコメントが多い背景には、遺族にとってはこれで話を手打ちにする儀式的意味合いにおいて、死刑は必要とされるのかな?と思っています。そして、儀式って得てして、ただ虚しいだけじゃないですか。

なるほど! かなり言えてるかもしれません。

投稿: tak | 2007年9月29日 19:07

表現が下手クソなので書き込みを躊躇したんですが、やはりわかり難くなっちゃってごめんなさい。(^^;

色々と考えさせられました。
これからも楽しみにしています。

投稿: きーやん | 2007年10月 2日 10:44

きーやん:

こちらこそ、よろしくです。

投稿: tak | 2007年10月 3日 20:11

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