死刑で罪は償えるのか
光市母子殺人事件の裁判が、世間の注目の的で、あちこちのブログでも、いろいろな視点から語られている。
被告人のいかにも無反省な態度、被害者遺族の強硬な死刑要求、世間の反感買いまくりの弁護団の法廷戦術、どれをとっても、私には極端すぎるように思える。
三者がそれぞれ「極端すぎ」なのだが、まず第一に、被告人の態度があんな風に超不愉快な極端さなのは、これはもう仕方がない。あんなような子だからこそ、あんなような犯罪に手を染めてしまったのである。それはもう、動かしようのない既成事実である。
被告が「反吐の出そうな嫌な奴」というのは、前提として織り込むしかない。彼に対して「誠実に反省しろ」とか、「自ら進んで罪を償え とか要求しても、始まらない。ナンセンスである。今さら急に「普通の感性」を持てという方に無理がある。
それから、弁護団の手法がいくら気に入らないからといって、それに対してヒステリックにどうこう言うのも憚られる。公式的に言えば、彼らは彼らで被告人に対する判決を少しでも軽くするのがビジネスなのであり、「死刑廃止」という主張が極端に混じり込んでいるのは見え見えではあるけれど、かといってその手法が明らかに違法というわけでもない。
この 2つの要素は、どうしようもないことなのである。で、消去法的にいって変わり得る可能性があるのは、被害者遺族の態度だけなのである。そして、本村さんがあのように極刑を要求するのは、玄倉川さんの表現を借りれば、「復讐の鬼」と化している(参照)ように見える。
この事件をきっかけとして本村さんは犯罪被害者の権利確立に尽力されており、それはそれで尊いことである。しかしそのことと、この裁判において被告の死刑を執拗に求めることは、私の考えでは結びつかない。
凶悪犯罪裁判の被告に死刑を求めることは、被害者及び遺族の「希望」ではあり得ても、「権利」かと言えば、それはちょっと別だ。
本村さんが「人の命を奪った者は命もって償うべき」として、被告の死刑を強く求めるのは、無理からぬことではある。それを否定するつもりはない。しかし、被告が死刑になったからといって、その罪は果たして本当に償われるのだろうか。そして本村さんはそれで気が済むのだろうか。
私は死刑に決して反対ではない。積極的な賛成論者ではないが、かといって、強力に反対するための根拠をもっているわけでもない。だから、今回のケースで死刑にすべきでないと言うつもりはない。
しかしそれでも、被告が死刑になったからといって、その罪は償われるのだろうかと疑うのだ。私は死刑というのは決して「償い」ではなく、純然たる「罰」(あるいは「見せしめ」なのだと認識している。
さらにその上で、本村さんが最も重い「罰」を要求する気持ちもわかる。同情もする。それでも、もし自分が本村さんの立場になったとしても、あのような主張はしないだろうと断言する。
自分がその立場にないから、気楽なことを言えるのだと言われるかもしれない。確かに、私は妻子を殺されたわけじゃない。その意味では幸せである。だからといって、「私ならそうはしない」という自由を持たないわけじゃない。
そしてさらに、これだけは言っておかなければならないが、私は本村さんを非難しているわけでもない。本村さんはご自分の意志であのような行き方を選択されたのだから、それはそれで尊重する。私はただ「私ならそうはしない」と言うだけだ。
犯罪者が罰せられるのは、対社会的な問題であり、刑罰と被害者の救済は別の問題だ。凶悪犯罪の判決として、無期懲役なら被害者は救われず、死刑なら救われるということはない。あるとしたら、被害者の「納得の仕方」の違いだけだ。
死刑なら納得できるというのは、ある種の幻想だろう。もっともそれこそが「納得」であり、「救い」 なのだと言われれば、それに対して言い返そうとまでは思わないが、それでも、「幻想」による納得や救いでは、本当の救いにはならないと、私は心の中で呟くだろう。
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コメント
死刑判決は、犯罪者が
「自分はいつ死刑執行されるのだろう」と毎日おびえながら暮らす中で、他人に命を奪われることの理不尽さ、恐怖等に
ついてわが身をもって気付かせ、心から反省させることが目的と思います。
そして、謝罪と後悔の念の中で死刑執行されるからこそ、遺族も納得し、救われるのでしょう。
宅間某のように反省もないままに死刑執行されても、到底納得なんてできないでしょう。
投稿: たも | 2007年9月23日 18:05
たも さん:
>謝罪と後悔の念の中で死刑執行されるからこそ、遺族も納得し、救われるのでしょう。
死刑という制度が、その 「謝罪と後悔の念」 が受刑者に必ず伴うことを保障できない限り、つまり、宅間某のようなケースを防止できない限り、あなたのおっしゃる 「死刑の目的」 は、達成されないことがあるということになります。
となると、目的が必ずしも達成されないことがあるにもかかわらず、人の命を奪っていいものかという疑問が生じ、死刑に反対せざるを得ません。
私は、「死刑の目的」 というものが果たしてあるのかどうかということには、疑問を感じています。ただ単に、「最も重い罰」 という意義があるにすぎないのではないかと思うのです。
もし 「目的」 というものがあるとすれば、それによる (漠然とした) 犯罪抑止効果という、ある意味、副次的なことに止まるのではないかという気がします。
投稿: tak | 2007年9月23日 21:00
遺族にとっての死刑以外、死刑の目的はないと思います。
人を殺すときに死刑の恐怖なんて、誰も思い浮かべないと思うから。
それを前提で、法律として、肯定か否定かといえば、個人個人で見解があるんだと思います。
それと、宅間は自殺を選ばず、国に自らの殺人を委嘱したんだと思います。
何れにせよ、司法関係者が法は法に非ずでは困るなと。
投稿: きーやん | 2007年9月24日 13:29
きーやん:
>遺族にとっての死刑以外、死刑の目的はないと思います。
>人を殺すときに死刑の恐怖なんて、誰も思い浮かべないと思うから。
すみません、意味がわかりません。
死刑の目的は、遺族以外には無関係ということですか?
被害者の遺族にとって、被告を死刑にすることが目的になるということですか?
殺人者に、殺される恐怖を思い知らせるのが、遺族にとっての目的ということですか?
よくわからないので、「前提」にしようがないんですけど。
投稿: tak | 2007年9月24日 22:37
こんばんは。
http://www.mypress.jp/v2_writers/reiko_kato/story/?story_id=1659452
でリンク&コメントいたしましたが、私は社会からの排除以外に意味はないと思っています。当人が反省しようがしまいが、そんなことはどーでもいいです。というか、本当の意味で反省することなんか、どうやったって期待できないと思っています。
投稿: Reiko Kato | 2007年9月25日 02:07
Reiko Kato さん:
>私は社会からの排除以外に意味はないと思っています。
なるほど。
>当人が反省しようがしまいが、そんなことはどーでもいいです。というか、本当の意味で反省することなんか、どうやったって期待できないと思っています。
そう割り切るしかないですよね。
そりゃ、反省はした方がいいんだろうけど、それは当人任せのことで、刑法では担保できないですからね。
投稿: tak | 2007年9月25日 07:32
keikoさんのご意見に賛成。
一つ疑問があります。
殺人者が殺人をやる時はなんらかの精神錯乱があると思います。したがって殺人後に異状がないなら、「殺人時に責任のとれる状態でなかった」とかの屁理屈は受け入れないとしてはいかがでしょうか。
投稿: 悪乗り爺 | 2007年9月26日 07:56
悪乗り爺 さん:
二つのほぼ似たコメントのうち、後でアップされたものの方がより端的に伝わると判断して、勝手ながら、前のコメントは消させていただきました。
で、おっしゃる意図は、私には屁理屈とは思われませぬ。かなり共感してしまいます。
普段はほとんどフツーに生きている人に限っていえば (つまり、継続的に精神異常の状態にあるのでなければ)、殺人を犯すほどの精神錯乱に一時的にしろ陥ったということは、セルフコントロールができなかったということで、その一点だけをとってみても、私の考えでは、十分に罪なのだと思ってしまいます。
投稿: tak | 2007年9月26日 13:00
罰で罪は償えない。
償いの機会さえも与えない死刑は
究極の罰でしかない。
投稿: tac | 2019年3月18日 22:07
>罰で罪は償えない。
一般的には 「刑に服して罪を償う」 という言い方もありますが、それは幻想だとおっしゃりたいのですね。
>償いの機会さえも与えない死刑は
>究極の罰でしかない。
実際には死刑執行までにかなりの期間があるようですが、それも 「償いの機会さえも与えない」 と言い切っていいわけですか?
そしてあなたはそもそも 「罰で罪は償えない」 と言い切っておられるのですから、それを肯定すれば、別に死刑でなくても 「償いの機会さえも与えない」 ということになりますから、そうした理由で死刑が 「究極の罰でしかない」 という根拠が、しっかりとは腑に落ちません。
投稿: tak | 2019年3月19日 18:30