ディベートって、役に立つのか?
「ディベート甲子園」 と呼ばれるコンクールがあって、正式名称は「全国中学・高校ディベート選手権」というらしい。
今年は 8月 4日から 6日まで開催され、中学の部は創価中学、高校の部は創価高校が優勝した。どちらも上位常連校だが、そろって優勝したのは今年初めてのようだ。
創価中学と創価高校がディベートに強いと聞くと、「その卓越したディベート・テクニックを、折伏に活用してるんだろうなあ」と、つい考えてしまうのは、人情というものである。しかし、ちょっとググってみたら、「創価エリートは現場で折伏なんかしません 涼しい部屋から指令を出すだけです」なんていうコメントが見つかった (参照)。
ふぅん、なるほどね。本当か嘘かしらないが、エリートは現場になんか出ないというのは、どこの世界でもありがちなことで、ちょっと説得力がある。
そもそも、ディベートが現場での折伏に有効かどうかというのは、大いに疑問がある。論理的には誰がどうみても折伏側の勝ちなのに、折伏される側が理屈もへったくれもなく、「とにかく、俺は絶対に嫌だ!」と言い張り、暴れまわって逃げてしまえば、結果的には折伏は成功しなかったということになる。
現実社会では、整然とした理屈よりもメチャクチャの方がずっと強かったりするのだ。(創価学会の理屈が整然としているかどうかというのは、私はかじったことがなくて知らないので、また別の問題としておく)
ディベートは所詮「ルールに沿ったスポーツ」なのだ。ボクシングのようなものである。ボクシングの強いものは、実際の喧嘩でも確かに強いだろうが、揉み合ううちに不意の頭突きをくらったり、ドスで刺されたりしても、「反則だ!」とは主張できない。
実際の議論で「そんなこと言うなら、貸した金返せ」とか 「過去の悪事をバラすぞ!」とか裏で脅かされても、「反則だ!」と言えないようなものである。そこまで陰険に走らなくても、理屈で勝ち目がないので情に訴えて意見を通してしまうようなことは、世の中にいくらでもある。
それに、ディベートは結局、机の上のシミュレーション・ゲームなのである。実際の世の中がディベートの筋書きのように進むとは限らない。いくらスーパーコンピュータで膨大な計算をしても、気象庁の季節予報は当たらない場合の方が多いというようなものである。
「ディベート力は絶対に必要か」というテーマでディベートし、「ディベート力は必ずしも必要じゃない」と主張する側が勝ったりしちゃったら、どうしたらいいんだろう。
結論。ディベート力は、そりゃ、ないよりはあった方がいい。ずっといい。しかし、ディベートに強ければ世の中で主張を通せるというのは、とくにアジア的社会においては完全に幻想だ。
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コメント
ぼくもそう思っていました。
連日の会議でずっと勝ち進んでいるのですが、勝因は「理屈」ではなくて、話し方とか声の出し方とか、もっと別のことですね。
だいたい日本人は理屈で動いてないのじゃないでしょうか?
「ホントらしく見えるもの」に弱い。
まるで本質を突いていると思わせることがテクニックといえばテクニック。
投稿: osa | 2007年9月 5日 23:15
osa さん:
>連日の会議でずっと勝ち進んでいるのですが、勝因は「理屈」ではなくて、話し方とか声の出し方とか、もっと別のことですね。
まさに、その通り。
下手に理屈に自信があると、他の要素をおろそかにするので、単に生意気に見えるだけで、議論の現場では勝てません。
「口惜しかったら、声の大きさで勝負してみろってんだ」 てなことで、案外渡って行けたりするのが、現実世界の恐ろしいところです。
投稿: tak | 2007年9月 6日 00:02