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2007年10月に作成された投稿

2007年10月31日

亀田問題って、なんでそんなに面白いのか

日本中でまだくすぶり続けている例の 「亀田問題」 だが、これって、どうしてこんなにも注目されるのか、今イチわからなかった。

単にバカ親父に踊らされた 3兄弟と、それに便乗した TBS を初めとするマスコミ、ボクシング業界の悪のりが、自然に破綻したというだけのことの、何がそんなにおもしろいのか。

これって結局、閉塞状況にうんざりしているフツーの日本人たちが、鬱憤晴らしをするための、格好の材料なのだと思い至った。

自分が絶対的正義の立場に立って、つい最近までヒーロー面をしていた連中に、一転して「詫びを入れろ」と迫り、さらに形だけの詫びに対しては「誠意が感じられない」とまで居丈高になるというのは、これはとてつもない快感なのだね。

約 2年半前の JR 西日本福知山線の事故のときは、マスコミがその快感に悪のりしすぎて、逆に世間の反感を買った(参照)。しかし、今回の亀田問題は、マスコミもフツーの日本人も、一体となって亀田叩きに走っている。まあ、それまでの前フリが前フリだったから、仕方のないところもあるけれど。

しかしよく考えれば、糾弾すべきより重要な案件は他にいくらでもある。社会保険庁問題、防衛省問題、某宗教団体と某政党の政教非分離問題、その他もろもろ。

どうして世の中は、亀田問題なんていうおバカなことにそんなにまでエネルギーを注いで、もっと大事な問題に切り込まないのかというのは、もっともな疑問である。

しかし、人間というのは重要な問題には切り込まないものなのだ。そして、崩れかけた壁に対しては、勝ち誇ったように蹴りを入れたがるのである。だってその方が楽だし、気が晴れるし、快感だし、大きなベクトルに乗っかってるから、反撃を食らうリスクも小さいし。

世間とはそういうものなのである。それに対して冷静な批判を浴びせても、あまり大きな意味は発揮できない。

それは、他の閉塞状況で感じている鬱憤を晴らすための、代償行為なのである。実際には、亀田問題なんてどうでもいい。しかし尻馬に乗って騒げば、快感を得られるのである。だったら、尻馬には徹底的に乗るのである。世の中全体がそれに飽きてしまうまで。

というわけで、気を付けなければならないのは、「せめて自分だけでも、もうちょっと冷静でいよう」と思い続けることぐらいなんじゃなかろうか。一時的な快感は我慢しても、あとで内心忸怩たる思いをしなくても済むように、せいぜい調子に乗りすぎないことだ。

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2007年10月30日

京都に行きたい病

今月 25日に大阪、29日に名古屋に日帰りのとんぼ返り出張をして、またぞろ「京都に行きたい病」がぶり返してきた。

東海道新幹線で大阪に行くと、その手前の京都で停車したときに「ああ、ここで降りてしまいたい」といつも思う。名古屋に行けば、「ああ、一駅先の京都に行きたい」になる。

京都に行って何をするのかといえば、神社仏閣巡りである。私は神社仏閣が大好きなのである。

奈良と京都は神社仏閣の二大巨頭で、それぞれの良さがある。より古い郷愁的なものを感じさせるのは、やはり奈良である。奈良と京都の違いは、フィレンツェとパリの違いみたいなものだという人がいて、乱暴な言い方だとは思うが、なるほど、言いたいことはわかる気がする。

奈良のお寺さんの特徴は、靴を脱がずに拝観できるところが多いということだ、順路に沿って自然にサクサクと拝観が進み、あっという間に外に導き出される。

奈良の街は夕方を過ぎるとさっさと店じまいしてしまうので、そのくらいサクサクと見学しないと、夕飯を食いっぱぐれてしまうから、そのようなシステムなのかもしれないと思ってみたりする。

その点、京都のお寺さんはまったりとしたものである。何しろ靴を脱いで上がり込めるところが多いから、いつまででも気が済むまで座っていられる。

近頃では、仕事上の出張にかこつけて、もう一日滞在を延ばして京都見物をする程度なので、あまりゆっくりと京都の雰囲気を味わっている暇がない。最近で京都に行ったのは、昨年の十月の大原行きと、一昨年の八月の貴船から鞍馬に抜けたハイキングぐらいのものだ。

昨年、大原に行ったときは、三千院はさすがに人が多かったが、その奥の勝林院まで行くとひっそりとしている。例によって上がり込んで、ご本尊の阿弥陀如来と向き合い、しばらく座っていた。

ああ、京都のお寺に行くと、こんなことばっかりしてるから、本当に時間ばかり経ってしょうがない。そのうち、3~4日かけてゆっくりとあちこち廻ってみたいものだ。

で、この時、阿弥陀如来と向かいあって 30分ほど座ってから、さて帰ろうかと振り向いた時、思ったことがある。阿弥陀仏と向かい合って振り向いた時、阿弥陀仏の視線でお堂の外を眺めると、なるほど、そこは浄土なのであった。

仏の視線になれたのは、ほんの一瞬のことであったのだけれど。

(大原のお寺さんで、まったりと座って時間をたくさん潰してしまったときのことは、昨年 10月 15日のエントリーに写真入りで書いてある。勝林院の阿弥陀如来の写真もある)

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2007年10月29日

ハロウィーンの換骨奪胎

日本でもハロウィーンが、だんだん浸透し始めているらしい。そういえば、ショッピングセンターやコンビニでは、あのアカカボチャのジャック・オ・ランタンが山積みされて売られている。

でも、一体どんな形で浸透しているんだろうか? 子どもたちが "Trick or treat" と言って近所を回っている風でもないし。

日本に西洋の風習が定着するのは、商業主義的な思惑と一致したときで、まず最初に、そして最も大規模に定着したのが、クリスマスである。なにしろ、「クリスマス商戦」 という言葉があるぐらいだから、この行事は本来のイエス・キリストの生誕を祝うという意義なんぞすっかり忘れ去られて、商売の道具にされているのだ。

その次に思い浮かぶのが、バレンタインデーだ。これも、本来の意義はどうでもよくなって、チョコレートを贈る日ということになっている。そしてその関連の「ホワイトデー」なんて、由来が怪しすぎるのだが、なにしろ「お返し需要」の名目で商売するためだから、固いことは言わないのである。

そして、第三のイベントが、ハロウィーンである。これが日本市場に定着し始めるのに、戦後約 60年を費やしてしまったのは、一重に、これをどうやって商売に利用するか、こなし方がわからなかったからである。ジャック・オ・ランタンなんて、チョコレートほど数が売れるとは思われないし。

ところが近頃になって、ようやくこなし方が見えてきた。それはパーティ需要である。何でもいいから、仮装パーティを開かせてしまえばいいのだ。その関連で、仮装関連の商品が売れる。パーティ会場などのサービス業も潤う。

私はずっと前から、ハロウィーンの仮装は西欧の顔立ちの子にしか似合わないものだと思っていた。それは当然で、西欧のイメージのお化けを可愛くこなしたのが、ハロウィーンの仮装の定番だからである。あんなのを、のっぺりしたアジア人の顔立ちでやっても、ちょっとなあという感じなのだ。

ところが、さすが日本の商業主義である。ハロウィーンの仮装は、もう西洋のお化けでなくてよくなったのだ。ちょっと変わった格好さえしていれば、何でも OK ということのようなのである。単にハロウィーンという名前の仮装大会ということになったようなのだ。

うちの娘も、こないだハロウィーン・パーティ用の仮装グッズを買ってきた。それは西洋のお化けとは全然無関係の、日本のアニメ趣味である。なるほど、こうして日本の商業資本は、難易度が高くてなかなかこなせなかったハロウィーンを、ようやく換骨奪胎して商売にできたようなのだ。

そういえば、クリスマスでもバレンタインでも、こうして換骨奪胎してローカライズしてきたのだから、何も驚くにはあたらないだろう。(でも、やっぱりちょっと驚くけど)

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2007年10月28日

「落ちる」ってそんなに悪いことじゃない

昨日、カーラジオを聞きながら出かけると、TBS ラジオの永六輔さんの番組に、無着成恭さんが出演しておられた。

無着成恭さんが住職を勤められる国東市の妙徳山泉福寺で、改修中の仏殿(重要文化財)が落慶式を迎えるそうである。で、今回はこの「落慶式」という言葉についてだ。

永六輔さんが突然、「どうして『落慶式』には『落ちる』なんていう縁起の悪い字が使われるんだろう?」と言い出された。なるほど、言われてみればもっともな疑問である。神社仏閣では「落慶式」というが、一般の建造物でも「落成式」なんて言うし。

で、この番組のよろずご用聞き、とくに言葉に関する調べものを一手に担当するはぶ三太郎さんが、さっそく調べてきた。「落」という字には、「完成する」という意味があるのだそうだ。

帰宅してから自分でも調べてみると、手持ちの『新漢和中辞典』(三省堂) には、「工事ができあがる。また、それを祝う式」とあり、『明鏡国語辞典』(大修館)には「おさまりがつく。できあがる」とある。

「落」の文字と「完成」という字義とは、なかなか結びつかないが、「おさまりがつく」という意味合いからすると、「なるほど」という気がする。要するに、「落ち着くべき形に落ち着く」ということから、「完成」という意味合いになるんだろう。

ここで、ちょっと唐突に連想してしまったのが、キリスト教の「主の祈り」というものだ。これは、キリスト教における代表的な祈祷文で、イエス・キリスト自身が、「祈りたい時にはこう祈りなさい」と教えたとされる、次のような祈りである。

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
アーメン

ここで私が注目してしまうのは、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」という部分である。「み心」というのは、言うまでもなく神の意志である。天において成就している神の意志を、そのまま地上にも反映させてくださいというのだ。

天から地に向かうのだから、垂直方向、しかも上から下への反映である。つまり、落ちてくるのだ。なるほど、完成とは落ちてくることであったのか。天啓のように降り注いでくるものであって、人間技でこねくりあげるものじゃないのだ。

これがわかったら、受験生のいる家庭でも、今日からは「落ちる」を禁句にする必要なんてない。落ち着くところに落ち着くのが、一番いいのだ。

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2007年10月27日

「駅前留学」の幻想

英会話の NOVA が、ついに会社更生法適用を申請した。要するに倒産である。

私は前から NOVA は「英会話」という名の粗悪品を売りまくる会社だと思っていたので、潰れるのもしょうがないという気がしている。少なくとも「駅前留学」というキャッチコピーは、「よく言うよ!」のレベルだし。

私は以前、外資系の団体に勤めていたことがあって、そこを辞めてからも、せっかく身につけた英語力を錆び付かせるのはもったいない気がして、英語に触れる機会を維持するために、街の英会話スクールにでも通おうかと思った時期がある。

で、私の利用する常磐線沿線のいくつかの英会話スクールに当たってみた。

英会話スクールというのは、契約の前に講師とインタビュー(面接)をして、どのレベルのクラスに入ればいいかを見極めてもらうのが通例のようなのだ。私は 2校ほどインタビューしてもらったのだが、向こうから丁重にお断りされてしまった。

自慢するわけじゃないのだが、「あなたの英会話力は高すぎて、当校には、あなたのレベルに見合うクラスがありません」ということだったのである。それでもせっかくだから、そのスクールの最も高いレベルの授業というのを見学させてもらったのだが、正直なところ「なるほど、これじゃ、馬鹿馬鹿しいわい」 と思ってしまった。

まともな英会話のレッスンをするというよりは、授業時間の半分以上は、グループ・レッスンを受ける生徒がつっかえつっかえでようやくしゃべる怪しげな英語を聞かされて、イライラするだけである。はっきり言って、個人レッスンでなきゃ意味がないなと思った。(でも、それじゃ高いしね)

で、最後に NOVA に行ってみたのである。NOVA なら一応最大手だし、レベルの高いクラスがあるかもしれないと思ったのだ。

ところが、とんでもなかったのである。他の英会話スクールは、とりあえずこちらのレベルを見極めるためにインタビューをするのだが、NOVA の場合は、そんなことよりもまず契約させようとする。

そして、その授業料が高いのである。少なくとも、私がインタビューしてもらった 2校と比較して、2割ぐらいは高いんじゃないかという印象だった。その時は、かの有名な回数券なんていう話は全然出なかったし。(まだそのシステムがなかったのかな?)

「契約の前に、レッスンを見学させてもらいたい」と要求すると、「今の時間は初級者クラスしかやってない」などと言って、なんとなく見せたくなさそうなそぶりである。てことは、私の通える時間には私のレベルに見合うレッスンがないのに、とりあえず契約だけはさせようとしていたのである。そりゃないだろうよ。

というわけで、私の NOVA に対する印象は決定づけられてしまったのである。

まあ、NOVA に通ったおかげで、海外旅行をしたときに入国審査や通関、レストラン、買い物などで、多少は話が通じたという経験をした人があるかもしれないが、その程度は、あんな高い授業料を払わなくても身に付くものである。

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2007年10月26日

「諦める」 を巡る冒険

「NHK 短歌」 という雑誌に、歌人の藤井常世さんが「諦める」という言葉の原義について書いておられる。

「諦める」の元々の形は「あきらむ」で、『古語大辞典』を引くと「明らむ」の表記はあっても、「諦む」はないそうだ。どうやら「ギブアップ」するということとは違うようなのだ。

「明らむ」の意味は、(1) 目で見てはっきりさせる、十分に見定める (2) 明るくする、晴らす、さっぱりさせる (3) 事情や理由をはっきりさせる (4) 事情や理由を説明する、弁明する、などとあるそうだ。私は古語大辞典を持ってないので、孫引きだが。

私のもっている三省堂の 『例解古語辞典』 には、(1) はっきりと見る。明らかに見きわめる (2) 物事をはっきりさせる (3) 心をさばさばさせる (4) 道理などをよくわきまえる とある。3番目の 「心をさばさばさせる」 には、なるほど、すっぱり諦めてしまうのが一番のような気もする。

後世になって、「あきらむ」に「諦」の字を当てて、ギブアップしちゃうという意味をもたせたのは、もしかしたら、仏教哲学の影響かもしれない。仏教では「四諦」が悟りの第一歩のように言われている。人間存在の道理を明らかにすると、現世的欲望は諦めることになるのだ。

現代では「諦める」というのは非常にネガティブなこととされていて、成功を勝ち取るためには、「ネバー・ギブアップ」というアティテュードがとてもポジティブで望ましいということになっている。

しかし、それとは対極的で、しかも非常に深遠な価値観というものがあるのだということを、我々はしっかりと認識しておいた方がいい。「ネバー・ギブアップ」は、それはそれでとても大切なことだが、奥底のところできちんと「あきらめ」がついていないと、人間は薄っぺらになる。

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2007年10月25日

"FLEECE AND GO" はちょっとなあ

昨日、たまたまユニクロの新しいテレビ CM を見て、ちょっと絶句してしまった。キャッチコピーは、"FLEECE AND GO" だという。

「フリースを着て出かけよう」 という日本語がついているが、これ、ちょっとなあ。"Fleece" を動詞で用いると、「フリースを着る」 という意味じゃなく、ヤバイ意味になるのだよ。

"Fleece" という単語は、名詞では「フリース」そのものだ。元々の意味は、刈ったばかりの羊毛のことである。羊毛は絡まり合って生えているので、刈ったばかりだと、いわゆるフリースの生地みたいにぞろっとつながっているのである。

そして動詞で使うと、「羊の毛を刈る」という意味になってしまう。さらにスラングなのだけれど、「羊とプードルとフリースの三題噺」 という記事でも書いたように、「だまして巻き上げる」という意味もあるのだ。(参照

羊さんがせっかく 1年かけて生やした羊毛を、あっという間に身ぐるみ剥いで丸裸にしちゃうのだから、まさに「だまして巻き上げる」なんだろうと、このスラングのニュアンスもわかるような気がする。

てことは、"FLEECE AND GO" というキャッチコピーは、「羊の毛を刈って行っちゃいな」または「うまく巻き上げて行っちゃいな」という意味になっちゃうのだよ。

Engrish ネタが、また一つ増えてしまったようだ。大丈夫かなあ、ユニクロさん。パリとか、ロンドンとかにも出店するらしいけど。

この類で最高傑作とされるのは、JAS の "Akita to Okinawa, Non Stop Fright" というやつである。「秋田、沖縄まで "絶え間ない恐怖"」 というのだから、なかなかのものだ。もちろん、"flight" (飛行) と "fright" (恐怖) の取り違えなのだが。

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そのほかでは、街中あちこちでみかける "Flesh Juice" (肉体ジュース)も、私なんか、かなりわなわな来るのだけれど。

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2007年10月24日

市場における信頼関係の危機

バイトやパートというのは、企業にとって雇っている間は「使用人」であっても、すぐにそうではなくなる。大事に使っておかないと、辞められてから悪い評判をまき散らされる。

最近、食品メーカーの不祥事が多いが、そりゃ、世間様に言えぬことをバイトやパートにさせているのだから、すぐにバレて当然だ。

大分前のことだが、自分の勤めている衣料品会社が、「中国製」と書かれたラベルを切り落として、日本製を装って流通させていると、あるパートのおばちゃんから電話で相談を受けたことがある。いくら何でもそんなデタラメをしてはならないと進言した部長は、ささいな落ち度を理由にクビになったそうだ。

そのパートのおばちゃんは、辞めさせられた部長を慕っていたので(別に色恋沙汰ではないようだが)、その会社の社長一族の横暴なやり方にブチ切れていて、「こんな会社、潰れちゃった方がいいんです。社長一族なんて、路頭に迷えばいい。私は他に勤め口がいくらでもあるから」と言うのである。

原産国表示を偽るのは明らかな不正であり、そんなに腹に据えかねるなら、公正取引委員会に内部告発したらいいとアドバイスしてあげた。その会社がその後どうなったか、追跡してないので知らないが。

とまあ、かように、使用人は会社にとって時限爆弾なのである。なにしろ、不正な仕事の実行部隊なんだから、証拠をしっかりと握っている。今は個人が情報発信する手段に事欠かないから、そんな単純明快な不正は簡単にバレる。

会社経営を安泰にしたいなら、不正に手を染めず、従業員を大事にすることだ。

さらに、使用人になる以前の問題もある。就職試験の面接で、女性にセクハラまがいの質問をして不愉快な思いをさせるので有名な企業があった。

そんなことをすると、その女性の周辺に会社の悪評判が広まる。私の所まできちんと聞こえてくるし。「あぁ、あの部長はね、昔からスケベで女癖が悪いんだよ」という評判に拍車がかかる。

そして、面接試験で嫌な思いをして不合格になった女性は、「前はあの会社のファンだったけど、もう、絶対に買わない!」 ということになる。その女性だけでなく、家族親族、友人関係に至るまで、買わなくなる。

そして、以前は個人の周辺だけで済んだが、今は下手したらブログなんかに書かれてしまいかねない。

雇ってしまえば使用人だが、雇う前は「お客様」なのである。その「お客様」にセクハラしちゃったら、お客を失うのである。で、雇ってしまってからやるのもやっぱりヤバい。例の競馬の調教師と女性騎手の一件もあるし。雇用関係がなくなったら、そりゃもう、敵でしかなくなる。

昔は、辞めた会社の悪口は言わないのが美徳みたいなところがあったが、今は全然違う。バイトやパートでヤバイ仕事の実行部隊をさせられた経験のあるものは、そこらじゅうにいて、その中には、口の軽いのもいくらでもいるのである。

市場における信頼関係が損なわれているのは、中国ばかりじゃないのだ。

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2007年10月23日

「初音ミク」 を巡る冒険

近頃よく目にする「初音ミク」というのが、昨日あたりようやく、PC にアイドル声で歌を歌わせる「ボーカロイド」ソフトだと知った。

で、ekken さんが「初音ミクに魅力を感じないのは、流布している音のほとんどがカラオケだから」と喝破しておられる。そして、「(それとは)関係ないと思う」との指摘もある。

ekken さんは、"ニコニコの関連動画を見ても、(オリジナルらしい楽曲も数点あるようだけど)その多くは「ミクにhogehogeを歌わせてみた」というものばかりで、それを聴いても「コンピュータが歌うヘタクソなカラオケ」程度にしか感じなかった" と書かれている。

そして、"初音ミクが非オタク層を含む多くの人に「これはすごい!」と思われるようになるためには、ヴァーチャルアイドルカラオケごっこからの脱却、つまり、優れたコンポーザーによる多くのオリジナル作品が必要なんだと思う" と指摘されているわけだ。

それに対して、「それは仕様?」の名鏡恵 さんは、"程度の低い音楽や既存曲のカラオケでミクを『調教』することが、傍から見ていかにくだらなく馬鹿げたことであったとしても、数年後にはその技術は何かの礎になっているはずなわけですよ" と、プログラマらしい見地から反論しておいでだ。

で、ここらで私の考えを書かなければならない順番なのだろうが、残念ながら、私は「初音ミク」というソフトを触ったことがないので、どのようなメソッドでどの程度のことができるのか、よくわからない。それでも、少なくとも、カラオケに合わせて歌わせる程度よりはるか上のレベルのことができるものとは、想像できる。

既に、ekken さんのおっしゃる「優れたコンポーザー」(あるいは、優れたアレンジャー)が出現して、単なるカラオケ以上のオリジナル作品を創造してもいい段階に達しているのだと思う。要するに、「仕組みはできて、コンテンツが足りない」という状況なのだろう。

私は自分のサイトで、出身高校の校歌など(応援歌や旧制中学時代の校歌も含め)をアレンジして、器楽曲として聴けるようにしてある(参照)。旧制中学時代の校歌なんて、ずいぶんダサダサの歌だと思っていたが、弦楽四重奏風にアレンジしたら、結構聞けるので、我ながら驚いている。

この試みで、器楽曲としてあるのは、私の持っている音楽ソフトの限界で、ボーカルまでは入れられないからだ。ボーカルを入れられるソフトがあれば、ぜひ使ってみたいと思っていたが、「初音ミク」ちゃんの声では、申し訳ないけど、興醒めなのである。

せめて、混声四部合唱風のボーカルが入るようなのがあれば、ちょっと高くても使ってみたいものだ。さらに、ロバート・ジョンソン風とか、エラ・フィッツジェラルド風とかの歌ができれば、もろに使ってみたい。

追憶の荻窪ロフト '75」という記事で告白しちゃったので、古くからの読者はご存知だろうが、私は元、シンガー・ソングライターで、結構評判のよかったオリジナル曲もかなり持っている。で、自分の曲のカラオケを作ってみようとも思っていたのだが、いっそ、ロバート・ジョンソンの声で歌まで吹き込んでしまってもおもしろいだろう。

それだけじゃなく、エラ・フィッツジェラルドの声で、超絶スキャットなんかが作れたら、ものすごく嬉しいかもしれない。だがフェイクを効かせるのは、なかなか大変だろう。そうなると、今の段階ではクラシック風とか、唱歌風とか、グリークラブ風とか、せいぜいアイドル風とかが現実的なところなんだろうなあ。

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2007年10月22日

まったくもう、昭和なんだから!

ちょっと前のラジオで、何の番組だか忘れたが、キャスターが 「電車の中で、OL が上司の悪口を言ってるのを聞いて、ものすごいショックを受けた」 とこぼしていた。

どんな悪口かというと、「まったくもう、課長って昭和なんだから!」 という言い草だったんだそうだ。なるほど、ショックかもね。

私なんか、今でも「平成○○年」と言うべきところを「昭和…」と言いかけてしまうことがよくある。それほど昭和ってヘビーな時代なのだ。それを「昭和なんだから」という一言で没イメージのシンボルみたいな言い方をされたら、そりゃもう、がっくりくるのも無理もない。

この話を聞いて私は、「その OL たちだって、高卒の新入社員でもないかぎり、ほぼ確実に昭和生まれのはずじゃないか」と思った。つまり、多少の自虐的ニュアンスを込めた物言いかと深読みし、それなら十分許せると感じたのだが、どうもそうじゃないらしい。

彼女らは、自らも(多分)昭和生まれのくせに、完璧に「忌み嫌うべき傾向」として「昭和」を名指ししているようなのだ。これはちょっと捨て置けない気がする。

とはいいながら、平成の御代ももう 19年である。間もなく平成生まれの成人が出現するのだ。そして既に成人した 20代前半の連中にしても、物心ついたときには平成の御代になっていたのである。彼らはもっぱら平成のムードの中で育ってきたのだ。

となると、彼らの考え方では「古くさい価値観」はすべて「昭和」で片付けられてしまっていたとしても、不思議はない。ある意味、直近の時代ほど因習的に感じてしまうのだ。

昭和、しかも戦後生まれの私の世代にとっては、明治という時代は「気骨のある輝かしい世代」で、大正は「大正デモクラシー」に代表されるように、ちょっとモダンな感覚をうかがわせる。

ところが同じ昭和でも、戦前ということになると、とたんに落ちる。大した情報も持ち合わせていなかったくせに、妙につけあがって「鬼畜米英」「打ちてし止まん」などと言い出した愚かしい時代というイメージがある。申し訳ないけど。

もしかしたら、平成メンタリティの若い連中は、やたらと面倒な理屈をこねたがる昭和世代(会社の上司というのだから、多分戦後世代だろう)を、私が戦前生まれの頑固親父に感じるのと共通した違和感をもってみているのかもしれず、逆に戦前派を見る目は、私が明治や大正世代を見る視線に近いのかもしれない。

つまり、ちょっと前の「戦前派」みたいなイメージが、平成世代にとっては「昭和」なのだと思えば少し理解できる。まあ、確かに「比較的近くて、ちょっと違う」という価値観の方が、むっときやすいのは確かだけどね。

それから話しは変わるが、中学生の 2割が「死んでも生き返る」と思っているというニュース(参照)が話題になっている。これについて一言触れようと思ったが、以前に似たような問題について書いていて、そっちを読んでもらう方が手っ取り早いので、敢えて新しい記事は書かないことにする。(参照 : 「人は死んでも生き返るか?」)

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2007年10月21日

喪中と年賀状

今年も残すところ 2ヶ月余りになって、なんだかいつもの年以上に気ぜわしい気持ちになるという、一種のタイムラグを感じている。

というのも、例年は年末年始休暇に入ってから年賀状を書き始めるという呑気さなのだが、今年は 5月に母が亡くなったので、そろそろ喪中葉書を作り始めているからだ。

例の「喪中につき新年のご挨拶をご遠慮致します」とかいう欠礼の挨拶葉書だが、田舎の父は宛名を全て手書きで書く人だから、こちらが早めに文面をパソコンで作成・印刷して、送ってやることにしたのである。

いざ文面を作成して、100枚の葉書を印刷してみると、母がこの世からいなくなってしまったのだという事実が、改めて確認される。7年以上、言葉を発することもできないままの寝たきり状態が続いて、ある程度の覚悟はしていたのでそれほどのショックというわけではないのだが、親が片方しかいないという境遇は生まれて初めてなので、まだ慣れきっていない。

というわけで、来年正月用の年賀状は、作らなくて済むのである。私は案外年賀状には凝る方で(参照)、実際に作り始めるのはぎりぎりのタイミングになるとはいえ、デザインの素材集めは秋口からぼちぼちと取りかかっていたので、今年はなんだか妙な気持ちである。

ところで、私は喪中葉書を出して年賀状は出さないということになるのだが、年賀状を受け取る分については、別に問題ないらしい。喪中葉書は、文面からしても文字通り「こちらからは年賀状を出しませんよ」というお知らせであり、それ以上のものではない。

「そっちも私には年賀状を寄こすな」という意味ではないというのが、「礼法」の世界においては常識らしい(参照)のだが、なにしろ「礼法の常識」が「世間の常識」というわけではないので、話しはややこしい。

以前、喪中の家についうっかり年賀状を出してしまって、後でやんわりとだが怒られてしまったことがある。その時も「別に怒られる筋合いはない」なんて反論はしないで、甘んじて怒られていた。

礼法の常識と世間の常識の狭間をぬって、なんとか礼を尽くそうとすると、年賀状ではなく「寒中見舞い」の形でお悔やみを述べるというやり方があるそうである。そして喪中の家に年賀状が来た場合の返礼としても、寒中見舞いの形で出せばいいらしい。

ああ、なんだか面倒なことである。

私は来年正月に年賀状が来ても別に怒らないし(というか、むしろ嬉しいかもしれないし)、それに、既に喪中葉書を出した人にまで、返礼としての寒中見舞いを出すなんてことはしないからね。

喪中葉書を出しそびれた先から年賀状が来た場合は、時と場合によって判断するけれど、そんなのは商売上の顧客対策的なものを除けばほとんどないだろうから、あんまり気にしないことにする。

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2007年10月20日

車とステイタス

我が家の末娘は、酒田に里帰りすると、道路を行き交う車が茨城県のつくば周辺に比べて、平均的にずっと小さいのに驚くという。

これはなにも地域経済格差で、酒田の人が高級車を買えないというばかりではない。多分、酒田の人間は、あまり車にステータスシンボルとしての意義を求めないのだと思う。

確かに、酒田に帰って車を運転していると、行き交う車は軽自動車がとても多い。クラウンとかレクサス系とかのレベルの車種は本当に少ないし、さらにベンツとかになるとほとんど見かけない。

一方、茨城県の道路を走ると、押し出しの立派な車がとても多い。若いフリーターのおねえちゃんが、シーマで通勤していたりする。ジャージ姿のおっさんがベンツでホームセンターに乗り付けて、安売りのトイレットペーパーをごっそり買い込む姿は、なかなか壮観だ。

私はここに、車への関わり方の両極端をみる思いがする。

酒田の人たちにとっての車は、まさに「下駄代わり」という言い方に近い。公共交通機関があまり整備されていないから、どこに行くにも車を使うしかなく、1人 1台に近い普及率である。車は全然特別のものじゃないので、手軽で燃費のいい軽自動車が最も現実的な選択肢になる。

高級車に乗っていても、あまり羨望の目で見られることもない。かえって、「メンテや税金が高くて大変だね」なんて思われるのがオチだ。酒田は商業都市だけに、見栄を張らない現実主義が優勢である。

それに比べて茨城の人というのは、案外見栄を張るのが好きなんじゃないかと思う。檜造りの豪邸とかベンツとか、とにかく「立派な押し出し」が大好きという印象がある。

私は以前、8人乗りのエスティマ・ルシーダに乗っていた。排気量は 2500 cc だったと思う。家族 5人に、犬 1匹、猫 2匹を乗せて、里帰りしたりオートキャンプをしたりしていたから、物理的にこのくらいの大きさが必要だったのだ。

やがて、子どもたちが育ってあまり家族全員揃っての遠出をしなくなり、犬も死んでしまったので、2代目イプサム(2000 cc) に乗り換えた。さらに、娘たちがそれぞれ自分の車を持つようになったので、最近は、マツダのデミオ(1300 cc)に乗っている。

以前、近所のオッサンに「小さな車に乗り換えると、寂しくないですか?」と声をかけられた。こちらは、むしろコンパクト・カーの取り回しの楽さ加減にご機嫌だったので、「はあ?」ってな感じだったのだが、思い返して、茨城の人は車をそういう目で見ているのだなと、納得した。

私は何年茨城に住んでも、茨城気質にはなれないみたいなのだ。

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2007年10月19日

野間道場保存運動が前進

昨年 7月に「都心の一等地の剣道場は無駄か?」という記事を書いた。くまさんという方からの情報で、講談社の敷地内にある野間道場が、取り壊しになると聞いたからである。

ずっと気になっていたのだが、うれしいことに、くまさんたちの保存運動が実を結びかけているようだ。まだ最終決定じゃないようだが。

野間道場については上記のリンクで、私の昨年 7月の記事と、そこからのリンクを辿ってもらえばわかると思うので、ここではあえてくどくどとは書かない。ただ、日本の剣道界のモニュメントであるばかりでなく、建築史的にも非常に貴重な建造物であるとだけ繰り返しておこう。

で、その貴重な建造物である野間道場の保存に、かなり現実的な希望が出てきたようなのだ。日刊スポーツのサイトに、昨日付で 【“剣士の聖地” 「野間道場」 解体に待った】 という記事が出ている。

講談社創設者の野間清治氏の故郷である群馬県桐生市の市民団体が、移築受け入れに積極的な姿勢を示しているというのである。ただ、桐生市には土地はあっても金がないので、全国の剣士から募金を集めることになりそうだという。

移築と建築には、約 2億円かかると見込まれるが、全国の剣士 200万人が、1人 100円献資すれば OK という計算だ。200万人のうち、仮に 10%しか募金に応じなかったとしても、1人 1,000円である。

いや、最悪、1万円出す人が 5千人、5千円出す人が 1万人いれば、あとは、50万人が 200円ずつ出せば 2億円になる。剣道界にしてみれば、ちょろいとまでは言わないが、そんなに大変な話ではないだろう。

それにしても、仮にも出版という文化産業におけるメジャー企業である講談社が、自社の財産であり文化遺産でもある野間道場の保存に積極的な姿勢を全然示していないということが、私は個人的にはちょっと信じられない。「お荷物」と取るか「財産」と取るかの違いなのだろうが。

自分がもっている文化遺産をドブに捨てるようなことを平気でする出版社というのが、信用に足るだろうかという気もする。講談社のサイトの「文化事業」というページをみると、「へぇ、この程度しかやってないの?」と驚いてしまうし。

野間道場に関する講談社の姿勢をみると、文化産業を担う企業としてイメージダウンなんじゃないかと、つまり、かなり恥ずかしいことなんじゃないかと、もっと言えば、逆宣伝してるんじゃないかと、私なんか、部外者の気楽さかもしれないけれど、思ってしまうがなあ。

逆に言えば、きちんと保存していろいろなプロモーションに使えば、企業の宣伝、イメージアップにつながるだろうに。有効活用すればかなりの価値を生む貴重な財産なんだと、講談社側がちっとも気付いていないらしいことに驚く。

後々になって、こんなにも貴重な文化遺産のケアを、やっかい払いの如く地方都市の市民団体に押しつけた企業なんだと言われるだろうことが、本当に気の毒である。

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2007年10月18日

テレビショッピングという世界

近頃めっきり物欲がなくなったので、個人的には全然ピンと来ないのだが、「テレビショッピング」が注目なのだそうだ。

お昼の番組で、じゃパネットたかたの高田社長が登場するのだけじゃなく、世の中には 24時間モノを売るだけのテレビ局というのがあって、結構稼いでいるらしい。

テレビショッピングの最大手は「ショップチャンネル」という局で、その次が「QVC」というのだそうだ。なんでも、ケーブルテレビや衛星テレビで配信され、日がな一日、モノを売りまくっているらしいのだ。

テレビショッピングで売れるものの代表は、ファッション、ジュエリー、コスメ、健康関連、家電その他もろもろなのだそうだが、代表的なヒット商品は、ダイソンの掃除機 とか、松下の ジョーバ とか、ビリーズ・ブートキャンプ とかなんだそうだ。

私なんかは、家の中を使いもしないものであふれさすのはごめん被りたいので、なるべくものを買わないようにしているのだが、世の中には、わざわざテレビを使ってまで買い物をしまくりたい人がいるらしいのである。さすが「世の中」である。

テレビショッピングの番組をみて買い物をする層というのは、大体女性が 90%以上で、年齢は 30代から 70代、とくに 40~50代以上のシニア層が多いらしい。で、まあ、ケーブルテレビとか、衛星テレビとかを引いて、しかも日がな一日テレビを見ていられる層だから、ちょっとした小金持ちというところである。

こうした小金持ちのオバサン(おばあさん?)にモノを買わせるには、その商品のストーリーをいかに熱く語るかという、パフォーマンスの力が大きいようだ。いかに値打ちのある希少な宝石か、いかに効果的なダイエットができるか、掃除機の排気がいかにきれいか等々。

リアルのショップ、とくに百貨店では、いかに著名ブランドのショップを引っ張ってくるかでしのぎを削っているが、テレビショッピングの世界では、ブランドはそれほど重要ではない。それよりも「単品力」である。それは、いかに魅力的なストーリーで語られる商品かということである。

なるほど、あの高田社長の語り口に代表されるような、ガンガン来るストーリーが重要なわけだ。そういえば、ジャパネットたかたで売られるロイヤルゼリーなんて、あんまりブランドは意識しないものなあ。それより、あの超ハイテンションのパフォーマンスがキーポイントなわけだ。

ややもすると、「次代は "ブランド" から "単品" へ」なんていうキャッチフレーズをつくって市場を煽りたがるエセ・マーケッターが出てこないとも限らないが、よく見れば「ブランドという幻想」から「単品力という幻想」に興味が移りつつあるというだけの話で、要するに、「幻想」 には変わりがない。

ただ、「ブランド」 のもつ幻想性があまりにも行きすぎたきらいがあるので、より現実味のある「単品力のストーリー」の方が新鮮に見え始めているということだ。この傾向をじょうずに使えば、成功するベンチャービジネスが出てくるかもしれない。

ただこの分野、参入障壁が案外高い。カタログ販売ならば、カタログのページ数を増やせばいいだけだが、テレビショッピングは、1日 24時間という時間に決定的に制約されている。それだけに時間あたりの売り上げというのが生命線になる。

一説では、1分あたり 20万円以上の売り上げがないと成立しないらしい。よっぽど煽らないといけないみたいなのだ。煽る方も煽られる方も大変だなあ。

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2007年10月17日

亀田家の 「ちょっと変な家族愛」

近頃ブログが書きにくいのは、何を書こうとしてもなんだか、大衆迎合主義みたいな論調に陥ってしまいそうになるからでもある。

例の亀田問題にしてもそうだ。私は元々、亀田親父的なキャラは社会の害毒だと思っているから、そう書きたいのだが、注意しないとマスヒステリーと区別つかなくなってしまう。

亀田問題に関しては、私は一貫して 「あまり興味ない」 というスタンスである。あのスタイルにはまったく魅力を感じない。好んで関わろうという気になれない。というよ

本来ならこの問題に関しては、これで十分で、「以上、終わり!」 でいいのだが、そのくせに、我ながらブログで過去に結構触れているような印象があって検索してみたら、以下の 4エントリーが見つかった。

亀田の試合なんて、見なかったけど (2006/08/03)
今頃になって亀田の試合を冷静に語る (2006/08/09)
「こういう性格だから」 という自己正当化 (2006/08/10)
ボクシング業界のしがらみ (2007/10/12)

昨年 8月の亀田興毅の「疑惑の判定試合」がらみで、まとめて 3本書いているのだが、8月 3日と 10日のエントリーは、要するに亀田親父批判である。そして、今月 12日に書いた大毅がらみでも、 "残された道は、早めの 「親父離れ = 亀田家離れ」 しかないだろう" という結論になっている。

こうしてみると、私は「問題は亀田親父」というトーンで一貫しているようだ。JBC の処分が発表されてからのメディアは「親父離れ促進」という論調が強まっているが、そんなの、あの親子が出てきた頃から言うべきことだったじゃないかと思う。

ところが、個別の問題としてそれを言い過ぎると、冒頭で触れた「マスヒステリー」になってしまうので、なかなか言いにくい。だから「そんなの、私は去年から言ってただろう」 と、ちょっとだけ自慢しておくだけにしておこう。

で、より慎重な論点の発展のさせ方といえば、「ちょっと変な家族愛」という方向なのだろうが、それも、下手するとマスヒステリーになりかねない。何だか週刊誌広告の見出しで、あの沢尻エリカの母親がどうのこうのという話もあったようだしね。

ああ、私はこうした問題では個別のケースにはあんまり興味ないけれど、「傾向記事」 的な視点からは結構興味持ってしまうみたいなのだ。そしてちょっと首を突っ込んでみて、それでますます嫌ぁな気分になってしまったりしている。

まあ、「ちょっと変な家族愛」というのは、社会心理学的な視点からすれば、ずいぶんまとまったことが書けると思う。近頃はそんな事例には事欠かないから、他ではもういろいろ書かれてることだろう。

それならそれで、別に私まで書くこともないだろう。あまり気分のいいテーマじゃないし。でも、もしかしたら書いてしまうかもしれない。気分悪くしながらも。因果なことである。

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2007年10月16日

機械と職人技のパラドックス

宮大工のかんなをかける技術は、ミクロン単位の正確さを誇り、木工機械よりずっと優秀だと言われている。

私はこれまで、木工機械の方が精密な加工ができるのだろうが、そんな精巧な機械はべらぼうに高額になるので、(失礼ながら)宮大工の方が安上がりなのだと思っていた。

つまり、いくらなんでも、ものすごい金をかけてものすごい優秀な工作機械を作ってしまえば、人間技よりも精巧な物作りができるのだが、そこまで大金をかけるよりも、職人芸でこなす方が低コストなので、現状は手作りに頼っているのだと思っていたのである。

ところが、実はそうじゃないらしい。機械はまだ、想像を絶する職人技に追いついていない部分が多々あるようなのだ。まるで、スーパーコンピュータがまだ将棋で人間に勝てないというのと、相似形をなすような関係である。

東京大田区は、「ものづくり」に秀でた元気な中小企業の集積があることで知られている。バネとか、ファンとか、ノズルとか、注射針とか、とにかく、最新鋭の製品に欠かせない精密な部品の生産を得意とする企業が、少なからず存在する。

そうした中小企業には、ものすごいまでの技術の持ち主がいるらしい。工業製品の宮大工みたいな存在だ。中には、「神の手」 と称されるほどの壮絶な職人技もある。

例えば、コンピュータ制御で製作した精密なファンが、現場でどうしても回らないという不具合が生じる場合がある。ところが、「神の手」 をもった職人は、そのファンを触ってみただけでミクロン単位のゆがみを検出し、ハンマーで 1~2回、コンコンと叩くだけで、立派に回るものにしてしまったりということがあるというのだ。

驚くべき壮絶技術である。

しかし、こうした壮絶技術は、伝承しなければ消えてしまうのである。そして、今まさに、消滅の瀬戸際に立たされている技術も少なくないのだ。何とかして次代に伝えなければならない。

いつの日か、機械の性能が全面的に職人技の壮絶技術を上回る時が来るまで、なんとかしてそれを絶やさないようにしなければならない。職人技を上回る可能性のある最初の工作機械は、重要なポイントで職人技の要素を注入して作られるだろうからだ。

壮絶技術の職人技をきちんと伝承しなければ、機械が職人技を上回る日は永遠に来ないかもしれないのである。不思議なパラドックスである。

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2007年10月15日

純正律と平均律

追憶の荻窪ロフト '75」というエントリーで書いた通り、私は一時、ライブハウスで歌を歌っていたほどだから、歌は少なくとも下手ではないと自認している。

しかし、高校の頃に、一度明らかに音痴になったことがある。自分の発する音がずれていると感じられて仕方がなかったのだ。

今から思うと、これはどうも 「平均律」 というのを意識しすぎたことによる音感の混乱だったと思う。

それまで私はしごくお気楽に音楽に接していた。だから歌うのも楽しかった。ところが、高校になってから音楽の教師がピアノの専門家だったために、「平均律」の音階というものを押し付けられたあたりから、やたらややこしくなってしまった。

最初、私はこの音楽教師の方が音痴なんじゃないかと、マジに思った。彼の平均律に立脚した歌唱スタイルが、まったく奇異に感じられたためである。ところがそのうちに、そのような音階の方が正しいような気がしてきてしまった。なぜって、ピアノ伴奏に合ってしまうからである。

「平均律」というのは、1オクターブを均等に 12等分して、移調や転調をしやすくしたもので、人間の耳に心地よい「純正律」からは少しずれている。

ところが、その頃ギターに凝ってチューニングをきっちりしようなどとしたこともあって、意識的であるとないとに関わらず、私の耳は平均律の方向に進んでしまったようなのだ。それで、「本来持っていた純正律的音感」と「後から理屈で身に付けようとした平均律的音感」が体の中でケンカしてしまったわけなのである。

自分の中で純正律と平均律が整理のつかない状態で絡まり合っているので、自分の出している音が本来の音程からどうしてもずれているように感じられる。無理に合わせようとすると、ますますずれてしまう。そもそも「本来の音程」という正解が見つからないのだから、どうしようもない。

時を経て、私は今では純正律と平均律の「ちょうどほどよい折衷的音程」を出せるようになってしまった。

日頃、どうしてもピアノやギターを伴奏に歌うので、平均律でいかなければならない。しかし、それでは少々気持ちが悪い。そこで、いわばナアナアのところで両者の折り合いを付けて切り抜ける術を、いつの間にか身に付けてしまったわけだ。これがなかったら、私はずっと音痴のままだっただろう。

理想から言えば純正律の方がいいに決まっている。しかし、平均律でないと、手間と金がかかってしかたがない。これはまるでアナログレコードとCDみたいな関係のような気がする。

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2007年10月14日

流行の先取り/時代の先取り

私の先輩 O氏は、早稲田で最初にダウンパーカで通学した人である。自分でそう言っているだけだが、多分本当だろう。

そして私は多分、早稲田で最初にデイパック、今ではごく当たり前になってしまったティアドロップ型のリュックを背負って通学した男である。約 35年前のお話だ。

当時は学生といえばキャンバス製かナイロン製のショルダーバッグと決まっていて、リュックを背負うのは、山登りの時と相場が決まっていた。たまに街でみかけても、きちんと両肩を通して背負うスタイルには、ずいぶん抵抗があったようで、たいてい片方の肩だけを通してぶらさげていた。

アメリカンタイプのデイパックを、街でもきちんと両肩を通して背負うというスタイルは、当時まだ珍しかったのである。教授には 「君はいつもハイキングみたいな格好だねえ」 なんて言われたが、何のことはない、あっという間に学生の定番になってしまった。

そして私の妻は、多分、日本で 50番目以内に「スナグリ」を導入した母親である。「スナグリ」 というのは、赤ん坊を手を使わなくても体の前の方で抱っこするように固定する道具である。

今でこそ、それが当たり前になってしまったが、25年前の日本では皆、赤ん坊は紐で背中におんぶしていたものなのである。だから、知らない人から 「それはどこで売っているんですか?」 とよく聞かれたものだが、当時はどの店でも売ってなかった。通信販売で、わざわざヨーロッパ製を取り寄せたのである。結構高い買い物だった。

当時はインターネットもなかったから、外国製を通信販売で購入するというのは、面倒くさい仕事だったが、軽い気持ちでやってしまった。

その意味では、我が家はずいぶん時代を先取りしていたのである。流行の先取りではなく、時代の先取りをしたというのは、まあ、どうでもいいことだけど、内心自慢なのである。

【2024年 3月 28日 追記】

本文中の「スナグリ」のリンクは既に切れてしまっているようなので、新たに 2012年 12月 18日付のコンセント社のプレスリリースへのリンクを設定しておく。我が家ではコンセント社がライセンスを得て取り扱いを開始する 20年も前に個人輸入して使っていたわけだ。

ちなみに「スナグリ」は、スミソニアン博物館に永久展示されているのだね。スゴい!

 

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2007年10月13日

蕎麦は禅的食物かもしれないが

虎ノ門から新橋に向かってちょうど中間あたりの歩道橋の左側に、「竹泉」 という蕎麦屋がある。知る人ぞ知る本陣坊グループの一つで、結構うまい蕎麦が食える。

今回は別に本陣坊の宣伝をするわけじゃない。かなり前、竹泉で目撃したおもしろいお話を紹介しようと思うのである。

あれは私がまだ繊維業界紙の記者をしていた頃だから、少なくとも 17~8年前のことである。もしかしたら、その頃は、この西新橋の店が、本店格の 「本陣坊」 を名乗っていたかもしれない。とにかく、このグループ、本店があちこち変わるという変なクセがある。

その日は変則的なスケジュールのせいで、昼飯をまともに食っている暇がなく、午後 2時を過ぎたあたりで、ようやく時間ができた。

で、この竹泉という店に入ったのである。人気店だから昼時は行列ができるのだが、その時分はさすがに空いていた。私は三色蕎麦を注文したと思う。ゆずきり、田舎、せいろの 3種類のそばが、きちんとこちらの食べるタイミングに合わせて供される。

私が注文してすぐに、米国人とおぼしき若い男女 4~5名が来店して、隣の席に着いた。そのうちの 1人がやたらと日本通らしい仕切屋で、何の相談もなく、さっさとせいろそばを人数分注文した。

そして彼は、蕎麦がいかに日本的なるものを代表する食べ物であるかを、とうとうと力説し始めた。「蕎麦と禅ブッディズムには共通点がある」 などと言っている。ふむふむ。日本かぶれもここまでくれば立派なものだ。

程なくして彼らの席に注文の品が届き、それぞれが神妙な顔をして蕎麦を手繰り始めた。なにしろ、「禅ブッディズム」の神髄たる食い物である。それなりのリスペクトを表して頂かなければならない。彼らの日本理解にかける真摯な態度がうかがわれた。

その真面目さは大いに評価するのだが、しかし、それにしてもなんだか変だ。どうも雰囲気がおかしい。このぬぐいがたい違和感は、一体何だ? 

落ち着いて観察してみて、その正体がようやく知れた。彼らは全員、音を立てず、必死に「もぐもぐ」と蕎麦を食っていたのである。さしもの日本通のリーダーも、蕎麦を「つるつる」とすすることまでは知らなかったようなのだ。

その後、私も中国系米国人に蕎麦を食わせてやったことがあるのだが、「音をさせても一向に構わない。いや、むしろ多少の音を立てるのが蕎麦の食い方だ」と、いくら説明しても、「本当か、からかってるんじゃないか?」と、なかなか信用してくれなかった。

さらに、「こうして食うんだ」と実際に音を立ててすすってみせても、彼はついに真似をすることすらできなかったのである。「麺類をすする/すすらない」 というカルチャーギャップは、日本人が想像する以上に大きいようなのだ。

とはいえ、蕎麦をことさらに音を立ててすするようになったのは、ラジオが普及した昭和中期以後からだという説がある。ラジオの中継では身振りが見えないので、噺家が蕎麦をすする音を大きめに演出したのが、そもそもの始まりらしい。

だから、実際に蕎麦を食うときは、「ズルズル」ではなく「ツルツル」ぐらいがちょうどいいようだ。

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2007年10月12日

ボクシング業界のしがらみ

スポーツ新聞の一面は、亀田大毅の「無様な」 敗戦の話題でもちきりだ。もともと実力差は明白だったので、こんなところだろう。

前チャンピオンとのリターンマッチを年内にも要求されている内藤としては、「楽して勝つ」 がテーマだったと思うが、まさかプロレス技でくるとは思わなかったに違いない。

内藤としては、弱小ジム所属の悲哀を内心感じていたことだろう。興行権を挑戦者側の協栄ジムに握られ、チャンピオンは自分なのに、挑戦者の亀田大毅の方が 10倍とかいわれるファイトマネーを取っている。

それに、亀田側の「最年少チャンピオン記録 狙い(どうせ勝てないのに)の都合で、無理矢理なスケジュールを押し付けられる。まあ、どうせ近いうちに前チャンピオンとのリターンマッチをするなら、早いとこ片付けといた方がいいということで受けたのだろうが。

今回の試合では、亀田の「投げ技連発」という無茶な反則と試合後の態度が非難の的になっているが、少なくとも、反則連発は予定の戦略だったのだろうと、わたしはマジに疑っている。試合経過で敗色濃厚になったら、明らかな反則で失格になることを狙っていたのではないかと思う。

その上で、「あれは負けやない。こっちがちょっと熱くなってしまっただけや」と後で言い訳をする。こうして亀田の「不敗神話」を守るというストーリーだ。

ただ、反則の仕方が中途半端だったのか、レフリーが協栄ジムに余計な気を使ってしまったのか、「失格」とはならずに、反則による減点なんかなくても覆らないほどの、「大差の判定負け」という結果が出てしまった。

思惑はずれもいいところだろう。あんなに明々白々な反則を連発したのに、これでは、イメージが地に落ちただけ踏んだり蹴ったりである。

思えば、大毅もかわいそうなものである。兄や弟ほどのボクシングセンスがあるわけでもないのに、「亀田三兄弟」 戦略に否応なく組み込まれて、ボクシング漬けの日々を強要されている。それを拒否したら、家族から排除されてしまう。年端も行かない少年としては、従うしかない。

ある程度のところで芸能界への転進というルートもあっただろうが、今回のイメージダウンでそれも難しくなった。残された道は、早めの 「親父離れ = 亀田家離れ」 しかないだろうと思うぞ。まあ、どうでもいいけど。

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2007年10月11日

アパレル業界のしがらみ

衣類を購入する消費者は、自分の購入するブランドにしっかりこだわっている層と、それには全然こだわらず、その時々で気に入ったものを買う層に大別される。

ブランドにこだわっている層は、話がそれほど込み入らない。彼らの多くは「プロの消費者」で、ポリシーがしっかりしているからだ。

ところが、その時々で、ぱっと見で買ってしまう消費者というのは、時々話が面倒になることがある。私はアパレル業界の仕事をメシの種にしているので、いろいろな話を耳にする。

衣料品の内側に縫い付けられているケアラベル(洗濯方法などを表示したもの)には、製造メーカー(または、所属する団体)の名前と連絡先(主に電話番号)が明示してある。クリーニング店などで何か問題が発生した場合には、そこに連絡してどちらに責任があるかを確かめたりする。

で、この電話番号を頼りに電話してきて、「とても気に入っているので、同じものを買いたいんですけど、直接送ってください」なんてことをおっしゃる消費者が案外多い。しかし、それは実は無茶な話だ。

無茶だという理由は、2つある。まず、アパレル・メーカーは原則として消費者に直接小売をしないということが挙げられる。消費者だって、メーカーに直接注文するなんておかしいと思わないだろうか。例えば松下電器に「ウチに直接冷蔵庫送って」なんて注文はしないろう。洋服だと平気で注文してみるというのは、なかなか興味深い現象である。

直営店展開を主力にするところを別にすれば、アパレル・メーカーが直接消費者に(おおっぴらに)小売りしてしまったら、主力顧客である小売店の頭越しに商売してしまうことだから、怒られてしまう。それに、消費者からの 1着ずつの注文にいちいち対応していたら、効率が悪くて仕事にならない。

中には「直接だから、安く売ってほしいいんですけど」なんていうあつかましい消費者もおいでだが、いちいち在庫を確認して、1着だけピックアップして、きちんと箱詰めして、宅配便の伝票を書いて、代金回収のリスクを考えたら、逆に、多少高く売っても元が取れない。

無茶であるということの 2番目の理由は、「3年前に買った服がとても気に入っているんだけど、擦り切れちゃったから、同じものを送ってもらいたい」なんていうオファーが多いことだ。

アパレル・メーカー、とくに婦人服メーカーは、毎シーズン新作を展開して、売れ残りはできるだけ早めに処分してしまう。だから 3年前の商品なんか、残っているはずがないのだ。そんなに前の在庫をいつまでも残しているようでは、利益が出ない。

「好評の商品だけ、たくさん作ってたくさん在庫してくれればいいじゃないの」という消費者の声もある。もっともなことである。しかし、メーカーとしては、売ってみないとどれが好評かはわからない。わからないものを見込みで大量に作るというリスクはおかしたくない。

「好評な商品は、次のシーズンにもまた作って売ってくれればいいじゃないの」という声もある。しかし今年好評だったからといって、来年も売れるとは限らないのが、ファッションの怖いところなのである。「私がまとめて 200着買ってあげるから、また作って」とでも言ってもらわない限り、生産にはなかなか踏み切れない。

というわけで、アパレル業界というのはある種の矛盾を含んだ業界なのだ。

何しろ「既製服」なのである。どうしても気に入ったものを長く着続けたいという向きは、カスタムメイドで作ってもらうしかない。既製服というのは、そうした細かい要望に応じない代わりに比較的安い値段で提供されるのだと、割り切ってもらうしかないのである。

ここでふと気がついた。「私は Windows XP でいいのに」 と言っても、ほぼ自動的に Vista を押し付けられる業界に、アパレル業界はどこか似ている。ただ、アパレル商品は選択の幅が非常に広いという救いがあるだけ、ずっとましなのだが。

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2007年10月10日

「陸山会」 の 1700万円

民主党小沢代表の資金管理団体 「陸山会」 が、マンションの部屋を財団法人などに賃貸していたことがわかり、政治資金規正法に抵触しているかもしれないという。(参照

それにしても、1700万円とは、赤坂と麹町の 3部屋を 6年間も貸したにしては、安すぎるじゃないか。私しゃ、その方が納得いかん。

上記のリンク先(Yomiuri Online)によると、3部屋は、それぞれ、10万円、7万円、20万円で貸していたという。都心の一等地のマンションを貸すにしては、ものすごい太っ腹な破格値だと思ったら、テナントはみな、小沢氏の身内みたいなものじゃないか。

これでは確かに、政治資金規正法で禁止している「運用」とは言えないという理屈も、通らないではないような気がする。本気で「運用」しようというなら、無関係の企業にもっと相場通りの家賃で貸すだろう。自民党がこれでもって攻め立てようとしても、ちょっと迫力不足になるかもしれない。

ただ、どれも 6年間貸していたとすると、単純計算では 2664万円ということになり、報道されている 1700万円を、約 1000万円上回ることになるのだが、その辺は、どうなってるんだろう。政治の世界というのは、とにかく、わけわからん。

で、このニュースで私が一番たまげてしまったのは、お金の話ではない。資金管理団体の「陸山会」という名称なのだよ。これって、田中角栄の「越山会」のパクリみたいなもんじゃないか。越後の国が陸奥の国に変わっただけだ。

こうしてみると、小沢さんという人は、やっぱり骨の髄まで田中角栄の直系なのだなという気がする。多分、地方に金をばらまいていく手法を取りたいのだろう。「構造改革」なんてことを言い出して、地方においしい目をみせる気のない自民党に取って代わるために。

それにしても、「陸山会」ねぇ。まあ、確かに趣味の問題に過ぎないんだろうだけど、私としては、ちょっと引いてしまうなあ。どうしても、下駄はいてステテコに腹巻きで、池の錦鯉に餌を撒くオッサンというイメージなのだよ。

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2007年10月 9日

「取調べ可視化」 を巡る冒険

近頃 「取調べ可視化」 というのがトピックになっているらしい。警察での容疑者取調べの様子を、ビデオに録画しておくということだ。

警察での取り調べは、密室で行われる。そして供述調書は警察の係官が書き、後で容疑者がそれを読んで、「はい、私は確かにこう供述しました」とサインする。

これって、かなりアブナイお話である。容疑者が話したとおりに係官が調書を書くなんて事は、まずあり得ない。ワセダ速記の名人とかいうなら別だが。フツーは、容疑者の言ったことを適当に整理して調書を「作成」することになる。

その「供述調書作成」の過程で、容疑者の供述の、些細だが実は後になって重要なファクターとなるかもしれない部分は削り取られ、作成者側の都合のいい思い込みが混じりこみ、さらに、容疑者が絶対に使わないであろう専門用語に置き換えられ、「もっともらしい」調書になる。

その各部分だけをみれば、回りくどい話し言葉を簡潔な書き言葉に置き換えただけなのだろうが、全体を通してみると、元の供述とはかなりニュアンスの違ったものになるということが、いくらでもあると思うのだ。

私は業界記者の経験が長いので、新聞記事なんていうのは元ネタがどんなものだろうと、書きようによっていろいろなニュアンスにしてしまえるということを、体で知っている。

さらに、こちらが取材を受けた場合、意図した内容と微妙にずれた記事になっているという経験も、いくらでもある。むしろ、こちらの意図がストレートに表現されているということの方が珍しい。

とくに、三段論法なんてほとんど伝わらない。「A=B で、さらに、B=C であり、よって、A=C である」 という論理は、単なる数式なら誰でも知っているが、それを日常の事例で語ると、こちらがいくら論理的に語っても、記事になると字数制限のためもあって、単なる印象論で済まされたりする。

また、「必ずしも、そうしたことがないとも言えない」なんて言い方をついしてしまうと、記事の段階では「必ずあるだろう」になってしまったりする。こちらは「だから気をつけないとね」と言ったつもりなのに、反対にそうした状況を期待しているようなニュアンスになる。それを読む読者は、「そんなの、ありえねぇよ!」と思い、反感さえ覚えるだろう。

人の言った言葉を要領よく正確に文章化するというのは、実はかなり難しいことなのだ。

だから、「供述調書」なんていうのもそのほとんどは、取り調べられる側のウソと取り調べる側のウソが交錯して織りなされたフィクションと思って間違いない。それだけに、そのフィクションのどのあたりが問題なのかを検証する材料として、録画があるというのは望ましい。少なくとも、ありもしないことを無理やり自白させられるなんてことはなくなるだろうし。

警察はこれまでの誘導尋問や (ちょっとした、あるいはギリギリの) 暴力などの手法が使えなくなるので、抵抗が大きいだろうが、時代が変わったんだから、今の時代に最適化した取調べのテクニックを磨けばいいだけのことだ。

取調べの録画をうまく使えば、場当たり的な言い逃れに終始する容疑者の信用置けないキャラを浮き彫りにするというやり方だってできるだろうし。

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2007年10月 8日

iGoogle が、かなりいい

ここしばらく、ホームページ (ブラウザを開いたとき、最初に表示されるページ) は、Goo に設定していたが、ふと思い立って、iGoogle をカスタマイズしてみたら、なかなかいい。

こんなページがあったら、さぞかし便利だろうにと漠然とイメージしていたものに、具体的な姿を与えるとこうなるという感じだ。

最初にホームページというものを設定したのは、日本人の多くがそうであるように、Yahoo だった。ほどなく、My Yahoo で自分流にカスタマイズしたのだが、なんとなくどんくさい感じがする。

コンテンツが豊富なので、不便はないのだが、なんとなくとりとめがない。使い続けているうちに、一見バラエティが豊富にあるように見えるだけで、本当に必要なものを選ぼうとすると、案外選択肢が少ないということがわかる。

で、次に Goo になった。Yahoo よりはシンプルなのだが、カスタマイズできないのが辛い。それでも、見かけ上のカスタマイズで満足したような錯覚に陥るよりは、まだましだというわけで、結構長い間使い続けた。ニュースと天気予報と路線検索と Goo 辞書がサクサクできるというだけで、なかなか重宝した。

そして、この度の iGoogle である。基本的なコンセプトは、自分の気に入ったガジェットを選んでちりばめればいいので、本当に必要なものだけ置いておくことができる。今まで Goo で重宝していたニュースも、路線検索も、Goo 辞書も、ガジェットになっているので、そのまま使える。

それに、使わないものは表示しなければいいので、画面がとてもシンプルだ。タブを使えるので、一つの画面に多くのガジェットをすし詰めにしておくこともない。私は "English" というタブをこしらえて、英語関連のガジェットをひとまとめにした。近頃英語を使うチャンスが減ったが、時々このタブを開くようにすれば、英語力がそんなに錆び付かなくてすむかもしれない。

これまでの Google はシンプルすぎておもしろみがないのが欠点といえばいえたが、iGoogle ではスキンを設定して好きな画像をトップにおけるので、見た目の楽しみもある。

以前の私なら、動作の重くなる元凶である画像なんて、金輪際表示したくなかったが、最近は FTTH で通信速度が速くなり、マシンの性能も余裕があるので、宗旨替えして、ちょっとオモムキのある画像を表示したりしている。(デスクトップの壁紙は、今でも設定していないが)

Google は、もしかして PC ユーザーのかなり深いところまでサービスを浸透させることができるかもしれない。

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2007年10月 7日

べったら市を巡る冒険

毎年 10月 19、20日の 2日間は、「日本橋べったら市」が開かれる。宝田恵比寿神社の恵比須講のイベントとして行われるもので、とにかくべったら漬の屋台がぎっしり建ち並ぶ。

べったら漬というのを知らない人も多いが、大根の浅漬けで、味は甘辛く、とにかくやたらとべたべたしているのが特徴だ。

作り方の詳しいことは知らないが、食えばかなり旨い。私は大好きである。ググってみると、製法は 「大根を甘酒で漬け込んだもの」とか、「水飴と麹で漬け込む」 とかあり、まあ、大差ないが諸説あって、よくわからない。

とりあえず、塩漬けとかぬか漬けとかのように、家庭で気軽にできる漬け物という位置づけではない。あんまり日持ちもしないし、日常食というよりは、元々は土産物的な感覚に近かったかもしれない。

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日本橋界隈には、既にべったら市の開催を告げる旗が何本も立っていて、だんだん気分が盛り上がってきている。なにしろ、今年のべったら市は初日が金曜日だから、夕方以後は大変な混雑になるだろう。

べったら市はべったら漬を売る屋台だけが並ぶわけではない。焼き鳥とかビールとかの屋台もかなり混じっていて、会社帰りのオッサンたちが繰り出すと、ちょっとディープな雰囲気になる。

で、べったら市初心者に忠告だが、べったら市で売られるべったら漬はかなり高いので、雰囲気につられて気軽に衝動買いしてしまうと、後で複雑な気分になる。大きさにもよるが、1本で 2,000円ぐらいはフツーと心得ておけば、まず間違いだろう。

スーパーで買えば、普通の沢庵よりは高いけれど、せいぜい数百円というところだろうから、べったら市の値段は、「ご祝儀相場」もいいところだ。まあ、確かにスーパーで売ってるのよりは多少はおいしいかもしれず、縁起物とか雰囲気代とかいうこともあるから、そのあたりは考え方次第だが。

ともあれ、べったら市でべったら漬を買って帰るということは、一種の祝祭的な行為なので、値段をどうこういうのは、江戸っ子の風上にも置けないということになる。私は江戸っ子じゃないので、決してそんな高い買い物はしないのだが。

多分、大阪人もそんなべらぼうな値段のべったら漬は決して買わないだろう。こうしてみるとべったら市は、江戸の気質に乗っかった、非常に「江戸的」なお祭りと言えると思う。

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2007年10月 6日

ブログは踊り場にある?

今頃はハワイで楽しんでおられるはずの alex さんが、日本を発つ直前の今月 2日に、「ブログの衰退と読書」という記事を書かれた。

世間ではブログというメディアは重要性を増す一方と言われているが、そんな中で「ブログの衰退」を見抜く眼力は、さすがのものだと思う。確かに、近頃おもしろいブログが減った。

もしかしたら、ブログ全体はまだまだ成長過程にあるのかもしれないが、私が毎日巡回したくなるようなブログは、減少傾向にある。少なくとも、alex さんや私のような視点では、ブログは踊り場に来ているのだと思う。

一時、ブログ・ブームと言われた頃は、本当に我も我もとブロガーになりたがった。テクノラティなんかのブログ検索でさがすと、一つのトピックでいくらでもおもしろい記事にぶちあたったものだ。

ところが、最近では様相が違う。あるトピックでブログ検索をしてみても、ヒットするのは新聞社のサイトの記事をコピペしたようなのばっかりで、ちっともおもしろくない。たまにクールな視点のブログを見つけても、更新頻度がまばらで、いつも読みに行こうという気にならなかったりする。

ブログ・ブームと言われたのは大体 3年ぐらい前のことだと思うが、このくらいの時間が経過してしまうと、大方のブロガーは、書きたいことを書き尽くしてしまったんじゃないかとも思われる。

かなりおもしろい記事を頻繁に書いていたブロガーが、急に更新しなくなる。更新しても 4~5日に一度だったりする。急に仕事が忙しくなったんだろうか。あるいは、体調でも崩したんではあるまいかと心配するのだが、どうやらそういうことでもないことが多いような気がする。

何となく、頻繁に更新する意欲が失せてしまったような案配なのだ。かく言う私なんかも、以前は毎日毎日書きたいことがあふれ出んばかりにあって、それを書かないうちは眠れないというようなことがあったが、最近では、無理矢理引っ張り出さないと書けないというような日もある。

それでも、もう日課みたいなもので、何とかかんとか、それらしいことを書いてしまわないと、なんだかやり残したことがあるような気がして、安心して眠れなかったりする。おかげで、こうして 4年近くも掛け値なしの毎日更新を続けている。

ところが、ブロゴスフィア全般を眺めると、書く方の意欲が衰えれば他のブログを巡回する意欲も衰えるようで、私のところも、昨年末まではもう、アクセスが一本調子でどんどん増え続けていたが、近頃では安定期に入ってしまったようで、横ばい状態だ。「書く」と「読む」とは、経済の需要と供給の如くバランスしているようだ。

もう、こうなったら、「長く書き続ける」というのも一つの才能なんだと、自分を褒めてしまおうと思う。踊り場だろうがなんだろうが、私としては、まだまだ書き続けるぞ。

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2007年10月 5日

「よいプレゼン」 とは

時々、あちこちで、「よいプレゼンとは?」 という話題になり、それぞれの視点で、いちいちもっともな、いろいろなことが語られる。

私は近頃、集中的にいろいろなプレゼンの場に立ち会う機会があった。そして「よいプレゼン」とは、「センスのあるプレゼンターが、自分で作成したもの」 という結論に達した。

世の中には、パワーポイントのファイルをプロジェクターで映し出して、何やらもぞもぞと説明すれば、それがプレゼンだと思っている人がいる。そしてそのパワーポイント・ファイルは、部下に作らせたものを使っているのが見え見えというケースが結構ある。

そんなプレゼンは、大体において PC の操作を部下に任せている。自分はステージに立ち、決まったセリフを述べつつ、区切りごとに「はい、それじゃ次の画面、お願いします」なんて言ったりしている。

私はこれがものすごく気にくわない。パワーポイントの画面を変えるぐらい、エンターキー一発なのだから、自分でやれよと言いたくなる。そんなことを人任せにするぐらいだから、ファイル作成だって、絶対に人任せにしている。

そんなことで、自分の言葉でプレゼンができるわけないじゃないか。こうしたスタイルのプレゼンは、99%退屈である。言ってることは案外まともでも、印象に残らず、説得力もない。

中には自分の言葉どころか、決まった台本の棒読みなんていう場合もある。そして大体において、その読み方は哀れなほど下手くそである。下手くそだからこそ、台本をあてがわれるのだ。だったらわざわざ人間が出ばってこないで、上手なナレーションを録音しといて自動で流せよ。

あるいは、確かに自分で制作したファイルを使っているのだろうと思われるケースもある。さすがに、画面の行ったり来たりが自由自在だ。しかし、以前作ったファイルを使い回しているだけというのが見え見えということが、かなり多い。

「あ、この画面は時間の関係でちょっと飛ばしますね」 とか言って、どんどん先に行ってしまい、当人だけはわかっているが、聞いている者は話に付いて行けなくなったりする。あるいは「この画面は、私の好きな画面なんですが」 なんて言って、映し出された詳細なマップやチャートを延々と説明したりする。

しかしその画面は(延々と説明されるぐらいだから)、大体において細かすぎて、後ろの席からは字が読めなかったりする。それで「字が小さくてわかりづらいと思いますので、お手元の資料をご覧ください」 なんて言い出す。それじゃ一体、何のためのプロジェクターなんだと言いたくなるではないか。

結局、魅力あるプレゼンテーションというのは、魅力あるプレゼンターが、自分の言葉で語る内容を、手際よく簡潔に画面に映し出しているというものだ。そうしたプレゼンは往々にして、パワーポイントなんてなくても、十分に説得力がある。

要するに、パワーポイントなんて補助的手段なのである。まずパワーポイントありきで、決まり文句ばかり画面に映し出し、わかりきったことを、あるいはどうにもわかりにくいことを、ぼそぼそしゃべりさえすればいいというものではないのである。

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2007年10月 4日

ビニールも塩ビもビニールのうち

シャネルの 「ネイキッド・バッグ」 なるものが、一部で熱烈に話題になっている。なんでもテロ対策で最近とみに厳しくなった空港の手荷物検査に対応し、中身が見えるスケスケのビニール素材にしたんだそうだ。

素材はビニールとはいえ、値段はシャネルらしく、12万円というのが笑える。

「テロ対策で厳しくなった空港の手荷物検査云々」 というのは、当然にも、取って付けたようなジョークのようなものなんだろうなあ。だって、それだったら、飛行機に乗るわけでもないのに、その辺にお出かけするときに持つ意味がないから。

要するに、単に「見せたがり」なのである。おへそだろうがブラのひもだろうが胸の谷間だろうが、バッグの中身だろうが、「見たきゃ、見れば?」ってなものである。で、意識して見せているくせに、露骨に見られると不愉快そうに睨み返す。

このあたりが、今をときめく 「女王様メンタリティ」 における基本の基本である。

ネットの世界での反応をみると、「だって、それって要するにビニール・バッグでしょ?」という疑問というか、冷笑というか、そんなトーンが多い。確かに、海水浴に持っていく 500~600円ぐらいのビニール・バッグと比べたら、そりゃあちょっとは細部に金をかけて、オシャレな作りになってるんだろうが、それにしても 12万円とはね。

で、この 要するにビニール・バッグでしょ?」という反応だが、私としては、同じことをあのルイ・ヴィトンのバッグにも言ってみたい気がするのである。だって、あれって要するに 「塩ビ」 でしょ。

塩ビ、塩化ビニール、PVC、ポリ塩化ビニル …… どう言い換えようと、塩ビは塩ビ。どんなものかは、Wikipedia でどうぞ(参照)。「スモモもモモも桃のうち」 というが、塩ビもビニールもビニールのうちである。(組成的には別物だけどね)

塩ビのバッグが 30万円とか 40万円とかするなら、ビニール・バッグが 12万円でも、まんざらおかしくないかもしれない。でも、実際に市場で売れているのは、せいぜい 5000円ぐらいの安物コピーらしい。「安物」とはいえ、利益率から言ってもかなりおいしいと思うけど。

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2007年10月 3日

"Baby in Car" を巡る冒険

車のバックウィンドウに、よく "BABY IN CAR" というステッカーが貼られていたりする。「赤ちゃんが乗ってるから、気を付けてね」ということなのだろうが、英語としてちょっとね。

英米では "Baby On Board" というのが一般的なのだそうだ。なるほど、これなら 「車内に赤ちゃんがいるよ」 ということになる。

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Wikipedia によると、この Baby On Board ステッカーは、1984年に英国の セイフティ・ファースト社が売り出したのが元祖だそうで、米国にまで渡ってずいぶん流行したもののようだ。ところが、米国では 1985年以後、急速に廃れてしまったらしい。

その廃れた原因というのが、イミテーションの氾濫というのがおもしろい。Wikipedia では、"Baby I'm Bored" (ベイビー、俺、退屈しちゃった), "Pit Bull on Board" (とっても意訳だけど 「猛犬注意」), "Mother-In-Law in Trunk" (トランクの中に義母がいるよ) などの例が紹介されている。最後のは穏やかじゃない。

で、英国にも "Princess on Board" (王女が乗ってます) とか "Little Person on Board" (小さな人が乗ってます) などのバリエーションがあるという。前者はプリンセス・ダイアナを想起させて、かえって危ないような気がするが。

この言葉が一躍有名になったのは、テレビアニメのシンプソンズで "Baby On Board" という歌が流行ったからとも解説されているが、私はその歌を聞いたことがない。それから、このステッカーは、死んだ赤ん坊を悲しむあまりに作られたという都市伝説まであるらしい。ふ~ん、ずいぶん奥が深いのね。

で、まあ、"Baby in Car" は、Engrish の類であることが判明したわけだが、日本では  "Baby On Board" と表示してもあまりぴんと来なかったりすることがあるだろうから、私は "Baby in Car" でも、この際、許す。

Download

でも、許すとか許さないとかいう以前に、「???」 になってしまったのが、上野駅構内にある某定食屋の壁に書かれている "How many foods did you eat today?" というものである。

「あなたは今日、いくつの食物を食べましたか?」 … うぅむ、一体、これは、何と答えたらいいんだ。「食物」 って、一体、どうやって数えるんだ? 「どんだけ食べたの?」 ということなら、普通は "How much....." になるのだろうけど。

さんざん悩んだ挙げ句、もしかして 「何回食事をとりましたか?」 というつもりなのかなあと思い当たった。それなら、"How many times did you have meals today?" だろうけどなあ。結局、何を聞かれてるんだか、よくわからん。

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2007年10月 2日

選挙の馬鹿馬鹿しさの根源は公選法

先月 19日に "「選挙に Web を使わせろ!」 キャンペーン " という記事を書いたのだが、あまりにも反響が少なくてずっこけてしまった。

で、ちょっと意地になってしまって、今度は「選挙で Web を使わせろ! -ネット選挙運動解禁キャンペーン公式サイト」なんてサイトを立ち上げてしまったのである。

で、基本的にはのんびりと、ゆる~く、しかし執拗に、ネット選挙運動解禁の日まで、このキャンペーンを展開したいと思っているので、よろしく。

ネット選挙解禁というテーマでは、Oh My News の一連の特集記事がとてもわかりやすくまとまっているので、件の公式サイトからリンクを張っておいた(参照)。全部読むのはなかなか時間がかかるが、お暇なときにでもクリックしてご覧いただきたい。

その一連の記事の第 1回目に、"原則禁止”の公選法を打ち壊そう" という記事がある。これを読んで、公選法というものがどうしてあんなにも変なのか、「なるほど」と理解できた。

私は以前、「日本一シュールな法律条文」というエントリーで、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」(公選法 第141条の3)という条文を槍玉にあげた。こんなおかしな条文を書いた役人の頭の中をのぞいてみたいとまで書いた。

しかし公職選挙法というのは、最初から最後までほとんどこのトーンで構成されているようなのである。つまり日本では、「選挙運動は、原則として、しちゃいけない」のだ。そして、公選法の中で「ただし、これとこれなら、こういう条件の下にやってもいいよ」という理屈になっている。

多くの先進国では(あぁ、本当はこういう言い方、嫌いなんだけど)、選挙運動は原則自由で、その上で法律で禁止事項や制限事項が決められているようだ。だから、新しい手法が出現すれば導入しやすいし、それに、わかりやすいし、お上の匙加減次第で取り締まるという嫌なことも生じにくい。

ところが日本ではまったく逆で、「本来、なんにもしちゃいけないんだけど、これとこれだけは、特別に許してあげるからね」という「お上の御慈悲」みたいな論理なものだから、おかしなことになってしまうのだ。

本来、法律というのはしちゃいけないことを明確にして、それが犯されたら罰則を与えるというのが本筋だと思うのだが、公選法というのは、「お上が許したことしか、やっちゃダメ」というコンセプトなのだ。道理で妙に窮屈なわけだ。

私が槍玉にあげた連呼に関しても、要するに、「選挙カーでは選挙運動しちゃいけないんだけど、特例として、連呼だけは許してあげる」ということなのだ。どう言い換えようが、やっぱり十分に変だけど。

で、公選法には「選挙運動はしちゃいけないけど、特例として、ウェブを使ってもいいよ」という条文がないので、せっかくの便利な道具が使えないのだ。ちなみに「選挙カーに大型液晶画面を取り付けて、演説を流していいよ」という条文もないので、将来的に液晶大画面がめちゃくちゃ安くなったとしても、多分、できないのである。

総務省の運用上の見解では、ウェブは「公職選挙法が公示・告示後の配布を制限している『文書・図画』 にあたる」と考えられていて、その範疇で許されるのは「枚数を制限されたビラやハガキなどで、それ以外は "原則禁止" (つまり、ウェブも禁止)」ということになるのだそうだ。

「文書・図画」の配布枚数が限られているのは、資金の潤沢な候補と貧乏な候補との間の公平を期すためだそうだが、紙の枚数を制限したところで費用に大した違いは生じないというのは、印刷の発注をしたことのある人ならよく知ってることだろう。

それに、その趣旨からいったら、ウェブを使えばコストなんてめちゃくちゃ安くなるし、資源節約にもなるのだから、いっそ推進すべきだろうにね。それに、ウェブ上にテキストや画像で表示したら公選法で制限されている「文書・図画」にあたり、禁止ということになるが、「音声」で流しちゃえば、全然問題ないんだそうだ。Wave ファイル万歳!

このあたり、なんでもかんでも「原則禁止」のくせに、「音声ならいいよ」という条文があるわけでもないのに、なんで OK なのか、その辺の総務省の理屈がさっぱりわからないのだけれど、とにかく、問題なしという見解が出されているんだそうだよ。なんか、頭悪いんじゃないの?

そんなことだから、実際の選挙では、グレーゾーンの中でうまくやるのが当選への近道ということになる。で、妙にすれっからした「選挙のプロ」が幅をきかせることになり、フツーの人間の常識が通じなくなる。

 

というわけで、8月 3日の「やっぱり変だよ、公職選挙法」というエントリーでも触れたのだが、とにかく公職選挙法こそが、日本の政治の最も守旧的な要素のようなのである。私がしつこく書き続けている「選挙カーの連呼」の馬鹿馬鹿しさと、選挙運動にウェブが使えない馬鹿馬鹿しさは、根っこが同じみたいなのだ。

ああ、ほんとに馬鹿馬鹿しい。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「

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2007年10月 1日

眠りのパラドックス

はっきりと季節が変わってしまったと実感したのは、我が家の猫がまん丸くなって寝ているのを見たときである (参照)。

夏の間、猫は風通しのいい日陰を選び、長々と寝そべっていた。ところが昨日、猫は日当たりのいい場所で丸くなっていたのである。猫の寝姿は、季節の風物詩だ。

私は時々、猫がうらやましい。猫は好きなだけ寝ているのである。猫が動くのは、寝るのに飽きた時だけで、飽きない限り、いつまででも寝ている。しかも、猫というのは延々と同じ姿勢で寝ていても、疲れることがないようなのだ。

実は、私は近頃とても眠い。月末も、たまった原稿を一気に仕上げるために、夜明け前の 4時頃まで起きていた。滅多に 12時前に寝ることがないとはいえ、4時頃まで仕事をするというのは、私にとってはかなり珍しい。

こんなに根を詰めて文章を書くという仕事をすると、いくら寝付きのいい私でも、目が冴えてなかなか寝付けない。それで、ぬるま湯に30分ぐらい浸り、思いっきり頭の中身をぼぉっとさせてから、ベッドに倒れ込んだ。日曜日で、午後に出かける用があるとはいえ、少なくとも、10時過ぎまでは寝ていられると思っていた。

ところが、何と悲しいことであろうか。8時ちょっと過ぎには目が覚めてしまったのである。4時間足らずしか眠っていない。しかし、再び寝ようとしても、もう眠りに落ちることができないのだ。

「寝るのも体力」 というのを聞いたことがある。年を取ると早起きになるのは、寝るための体力がなくなってしまうからだというのだ。おいおい、ついに私も体力不足で寝ていられなくなったのだろうか。

寝たきり老人というのは、あれはあれでずいぶん辛いことなのかもしれないと思い至った。こうなったら、私は寝たきりにみせかけて、夜中にこっそり徘徊しまくる年寄りになってやろうかと、ふと思ったが、それはそれでさぞ難しいだろう。

仕方なくぼうっとした頭のままでベッドからはいずり出ると、世界は晩秋の肌寒さである。そしてそのひんやりとした空気の中、猫がベッドの隅に丸くなっていたのだった。道理で寝ている足許がずっしりと重かった。まったくもう。

それにしても、我が家の猫は、猫としてはそろそろ高齢者の部類に入るはずである。それでも、寝るだけの体力はいつまでも衰えない。猫は寝るのが仕事だからしょうがないのだろうか。

昼に某会合に出席、夕方に帰宅してメールチェックのために PC に向かうと、受信が完了する前に椅子に座ったまま眠りこけていた。こんなことなら、ベッドで熟睡すればいいようなものなのに、なぜかあまり横になろうという気にもならない。体の中に眠りのパラドックスが渦巻いている。

思えば近頃 8時間以上ぐっすりと眠ったことがない。若い頃は起こされない限りいつまででも寝ていられたのに。そういえば小学 6年の時、土曜の夜 9時頃に寝て、日曜の夕方 5時頃まで目が覚めなかったということがある。起きてトイレに行ったら、膀胱の中に貯まりに貯まった小便が、いつまでも止まらなかったのを覚えている。

あのときは、せっかくの休日を無駄にしてしまったのが口惜しかったが、今となっては、休日をすっかり棒に振るくらい、思い切り眠ってみたい。切実に眠ってみたい。どうせ眠れないけど。

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