京都に行きたい病
今月 25日に大阪、29日に名古屋に日帰りのとんぼ返り出張をして、またぞろ「京都に行きたい病」がぶり返してきた。
東海道新幹線で大阪に行くと、その手前の京都で停車したときに「ああ、ここで降りてしまいたい」といつも思う。名古屋に行けば、「ああ、一駅先の京都に行きたい」になる。
京都に行って何をするのかといえば、神社仏閣巡りである。私は神社仏閣が大好きなのである。
奈良と京都は神社仏閣の二大巨頭で、それぞれの良さがある。より古い郷愁的なものを感じさせるのは、やはり奈良である。奈良と京都の違いは、フィレンツェとパリの違いみたいなものだという人がいて、乱暴な言い方だとは思うが、なるほど、言いたいことはわかる気がする。
奈良のお寺さんの特徴は、靴を脱がずに拝観できるところが多いということだ、順路に沿って自然にサクサクと拝観が進み、あっという間に外に導き出される。
奈良の街は夕方を過ぎるとさっさと店じまいしてしまうので、そのくらいサクサクと見学しないと、夕飯を食いっぱぐれてしまうから、そのようなシステムなのかもしれないと思ってみたりする。
その点、京都のお寺さんはまったりとしたものである。何しろ靴を脱いで上がり込めるところが多いから、いつまででも気が済むまで座っていられる。
近頃では、仕事上の出張にかこつけて、もう一日滞在を延ばして京都見物をする程度なので、あまりゆっくりと京都の雰囲気を味わっている暇がない。最近で京都に行ったのは、昨年の十月の大原行きと、一昨年の八月の貴船から鞍馬に抜けたハイキングぐらいのものだ。
昨年、大原に行ったときは、三千院はさすがに人が多かったが、その奥の勝林院まで行くとひっそりとしている。例によって上がり込んで、ご本尊の阿弥陀如来と向き合い、しばらく座っていた。
ああ、京都のお寺に行くと、こんなことばっかりしてるから、本当に時間ばかり経ってしょうがない。そのうち、3~4日かけてゆっくりとあちこち廻ってみたいものだ。
で、この時、阿弥陀如来と向かいあって 30分ほど座ってから、さて帰ろうかと振り向いた時、思ったことがある。阿弥陀仏と向かい合って振り向いた時、阿弥陀仏の視線でお堂の外を眺めると、なるほど、そこは浄土なのであった。
仏の視線になれたのは、ほんの一瞬のことであったのだけれど。
(大原のお寺さんで、まったりと座って時間をたくさん潰してしまったときのことは、昨年 10月 15日のエントリーに写真入りで書いてある。勝林院の阿弥陀如来の写真もある)
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