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2007年10月21日

喪中と年賀状

今年も残すところ 2ヶ月余りになって、なんだかいつもの年以上に気ぜわしい気持ちになるという、一種のタイムラグを感じている。

というのも、例年は年末年始休暇に入ってから年賀状を書き始めるという呑気さなのだが、今年は 5月に母が亡くなったので、そろそろ喪中葉書を作り始めているからだ。

例の「喪中につき新年のご挨拶をご遠慮致します」とかいう欠礼の挨拶葉書だが、田舎の父は宛名を全て手書きで書く人だから、こちらが早めに文面をパソコンで作成・印刷して、送ってやることにしたのである。

いざ文面を作成して、100枚の葉書を印刷してみると、母がこの世からいなくなってしまったのだという事実が、改めて確認される。7年以上、言葉を発することもできないままの寝たきり状態が続いて、ある程度の覚悟はしていたのでそれほどのショックというわけではないのだが、親が片方しかいないという境遇は生まれて初めてなので、まだ慣れきっていない。

というわけで、来年正月用の年賀状は、作らなくて済むのである。私は案外年賀状には凝る方で(参照)、実際に作り始めるのはぎりぎりのタイミングになるとはいえ、デザインの素材集めは秋口からぼちぼちと取りかかっていたので、今年はなんだか妙な気持ちである。

ところで、私は喪中葉書を出して年賀状は出さないということになるのだが、年賀状を受け取る分については、別に問題ないらしい。喪中葉書は、文面からしても文字通り「こちらからは年賀状を出しませんよ」というお知らせであり、それ以上のものではない。

「そっちも私には年賀状を寄こすな」という意味ではないというのが、「礼法」の世界においては常識らしい(参照)のだが、なにしろ「礼法の常識」が「世間の常識」というわけではないので、話しはややこしい。

以前、喪中の家についうっかり年賀状を出してしまって、後でやんわりとだが怒られてしまったことがある。その時も「別に怒られる筋合いはない」なんて反論はしないで、甘んじて怒られていた。

礼法の常識と世間の常識の狭間をぬって、なんとか礼を尽くそうとすると、年賀状ではなく「寒中見舞い」の形でお悔やみを述べるというやり方があるそうである。そして喪中の家に年賀状が来た場合の返礼としても、寒中見舞いの形で出せばいいらしい。

ああ、なんだか面倒なことである。

私は来年正月に年賀状が来ても別に怒らないし(というか、むしろ嬉しいかもしれないし)、それに、既に喪中葉書を出した人にまで、返礼としての寒中見舞いを出すなんてことはしないからね。

喪中葉書を出しそびれた先から年賀状が来た場合は、時と場合によって判断するけれど、そんなのは商売上の顧客対策的なものを除けばほとんどないだろうから、あんまり気にしないことにする。

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コメント

>いざ文面を作成して、100枚の葉書を印刷してみると、母が7年以上、言葉を発することもできないままの寝たきり状態が続いて
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私の母が今、こんな状態で、いずれはと覚悟していますが、悲しいですね。

今は施設で面倒を見てもらっていますが、それ以前は、私が世話をしていましたが、介護とは極度に過酷な労働で、私自身も死にかけました。

投稿: alex99 | 2007年10月21日 12:20

alex さん:

>私の母が今、こんな状態で、いずれはと覚悟していますが、悲しいですね。

>介護とは極度に過酷な労働で、私自身も死にかけました。

それは大変ですね。
うちの父も、「1時間続けて何かをし続けることができないし、3時間連続して寝ることもできない」 と言ってました。

お母様も、ご自分の体も、お大事になさってください。

投稿: tak | 2007年10月21日 17:07

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