純正律と平均律
「追憶の荻窪ロフト '75」というエントリーで書いた通り、私は一時、ライブハウスで歌を歌っていたほどだから、歌は少なくとも下手ではないと自認している。
しかし、高校の頃に、一度明らかに音痴になったことがある。自分の発する音がずれていると感じられて仕方がなかったのだ。
今から思うと、これはどうも 「平均律」 というのを意識しすぎたことによる音感の混乱だったと思う。
それまで私はしごくお気楽に音楽に接していた。だから歌うのも楽しかった。ところが、高校になってから音楽の教師がピアノの専門家だったために、「平均律」の音階というものを押し付けられたあたりから、やたらややこしくなってしまった。
最初、私はこの音楽教師の方が音痴なんじゃないかと、マジに思った。彼の平均律に立脚した歌唱スタイルが、まったく奇異に感じられたためである。ところがそのうちに、そのような音階の方が正しいような気がしてきてしまった。なぜって、ピアノ伴奏に合ってしまうからである。
「平均律」というのは、1オクターブを均等に 12等分して、移調や転調をしやすくしたもので、人間の耳に心地よい「純正律」からは少しずれている。
ところが、その頃ギターに凝ってチューニングをきっちりしようなどとしたこともあって、意識的であるとないとに関わらず、私の耳は平均律の方向に進んでしまったようなのだ。それで、「本来持っていた純正律的音感」と「後から理屈で身に付けようとした平均律的音感」が体の中でケンカしてしまったわけなのである。
自分の中で純正律と平均律が整理のつかない状態で絡まり合っているので、自分の出している音が本来の音程からどうしてもずれているように感じられる。無理に合わせようとすると、ますますずれてしまう。そもそも「本来の音程」という正解が見つからないのだから、どうしようもない。
時を経て、私は今では純正律と平均律の「ちょうどほどよい折衷的音程」を出せるようになってしまった。
日頃、どうしてもピアノやギターを伴奏に歌うので、平均律でいかなければならない。しかし、それでは少々気持ちが悪い。そこで、いわばナアナアのところで両者の折り合いを付けて切り抜ける術を、いつの間にか身に付けてしまったわけだ。これがなかったら、私はずっと音痴のままだっただろう。
理想から言えば純正律の方がいいに決まっている。しかし、平均律でないと、手間と金がかかってしかたがない。これはまるでアナログレコードとCDみたいな関係のような気がする。
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