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2007年11月25日

コピー問題の割り切れない思い

コピー問題について、私は少しだけ割り切れない印象を抱いている。例えば中国の遊園地で、ディズニーのキャラクターを真似したら、明らかに「コピー」として非難される。

これは、オリジナルがとても有名で、市場において圧倒的な優位性を持っているからだ。いわば「主 ‐ 従」の関係である。

いわゆるシャネル・スーツを模したデザインも、これにあたる。襟なしジャケットが特徴の女性用スーツの「シャネル・スーツ」という名称は、以前は日本では一般名詞に近い形で取り扱われていたが、いつの頃からか、シャネル社が知的所有権を強烈に主張し、「シャネル風スーツ」でも認められなくなった。

しかしこの「オリジナル ‐ コピー」という「主 ‐ 従」の関係の成立しない世界では、知的所有権があまり強烈に主張されないことがままある。

例えば、いわゆる「萌え系美少女」と称される、一群の女の子の絵がある。私には、あれらの女の子の絵の区別がほとんどつかない。商業的な漫画雑誌に載っているものだけでなく、アマチュアの描く絵でも大体似通っていて、明確な差別化ポイントがわからない。

マニアックなファンに言わせれば、「何を言ってるんだ、こんなにも違うじゃないか」ということになるのだろうが、申し訳ないけど、私には 「初音ミク」と「鏡音リン」の差は、今のミッキーマウス1928年の誕生当時のミッキーとの差ぐらいにしか見えないことがある。

音楽では「ブルース」というスタイルがある。狭義の「ブルース」とは 12小節で、コード進行がほとんど(というか、まったく)同じである。そればかりか、メロディだってほとんど変わらない別の曲が、いくらでもある。それでも、特定のブルースの作曲者が別のブルースの作曲者を知的所有権侵害で訴えたなんて話は、聞いたことがない。

さらに、いわゆる自己啓発系の「感動的エピソード」 いうのもある。あれらはほとんど大同小異で、自我に拘りすぎていた人物が、ある時にっちもさっちもいかなくなり、ついに「役に立たないプライド」みたいなものを捨てて、「感謝」や「愛」の念を強烈に意識したとき、再び人生が開けるというものが多い。

こういうのは昔からあって、「成功哲学」を説くような本には、同じようなエピソードが何度も繰り返し紹介されている。実話やらフィクションやらわからないものも多くあり、原典への言及なんてまったく無頓着だから、どの話がオリジナルやら、誰が最初に紹介したやらといったことは、ほとんど問題にされない。

これらはいわば、萌え系文化、ポピュラーミュージック、自己啓発系の世界における「フリーウェア」のようなものである。これらを誰かが独占しようなどとしたら、とんでもないことになるのは、最近の「のま猫」騒動をみても明らかである。

世の中には、コピーが許されない市場と、フリーウェアが大手を振る市場がある。コピーが大きな社会的問題となるのは、次の 2つの場合である。

  • ある特定のオリジナル所有者が大きな既得権を確立している市場で、ゲリラ的なコピーが横行する場合

  • 無名の作者のオリジナルをコピーした作品が、メジャーな市場で商業的成功を収めてしまった場合

要するに、コピーが問題になるのは、ある特定の個人または企業が、独占的利益を得てしまった場合である。逆に萌え系美少女、ブルース、自己啓発系などは、共通項をもつものの無名性集団としての力を維持する方が(今のところ)得策なので、フリーウェアのままでいられるのだろう。

コピー天国の中国でも、もっとこうしたフリーウェアを積極的に利用すればいいのにと思ってしまうのだが、どうしても、圧倒的力をもつオリジナルをコバンザメ的に利用する方がいいんだろうなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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マーケティング・仕事」カテゴリの記事

コメント

コピーライトって、工業的手法で著作物が大量生産されるようになったことに対応するために作られた概念ですよね。
なにしろ、それ以前は、例えば、福沢諭吉翁が若い頃貧しくて書が買えずに手書きで写した話が美談として語られるほどだったわけですものね。

たぶん、ネット時代になって紙やレコードの媒体を必要としなくなりつつある今、著作権を初めとした知的財産権のあり方もさらに一皮むける必要があるのでしょうね~。

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年11月25日 02:19

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>コピーライトって、工業的手法で著作物が大量生産されるようになったことに対応するために作られた概念ですよね。

うぅむ、そうとも言い切れないような気もしますが、近代的な概念としては、その側面も強いことは確かかもしれませんね。

>なにしろ、それ以前は、例えば、福沢諭吉翁が若い頃貧しくて書が買えずに手書きで写した話が美談として語られるほどだったわけですものね。

それは、「書写」 と 「盗作」 とは全然違うというレベルで語られるべきだと思います。今でも、図書館で借りた本の個人的使用のための複写は、許されるんじゃないかと思いますが。
(さすがに、全ページをコピーするより、買う方が安い場合が多いでしょうけれど)

>たぶん、ネット時代になって紙やレコードの媒体を必要としなくなりつつある今、著作権を初めとした知的財産権のあり方もさらに一皮むける必要があるのでしょうね~。

今は、さらに厳格になる方向に進んでいるような気がしますが、疑問点はたくさんありますね。

投稿: tak | 2007年11月26日 21:57

うーむ、福沢翁は本を買わずに友人のを写したのですから、言わばカジュアルコピーであって、現在では非難されてしまうと思います。

仰るとおり、著作権のうち人格権的側面と財産権的側面は分けて考える必要がありますよね。
人格権的側面は大昔からありましたが、経済的側面は近代以前には存在しなかった(あるいは殆ど無視されていた)、ということではないかと。

(いつもコメントで長々と語って済みません(汗))

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年11月27日 00:05

度々すみません。私の読解力不足でした。

このエントリではどちらかというと「マネ」という意味でのコピーの話をされているのですね。

私の方はどうも Winny 問題とかあっちの方が念頭にあったものでちぐはぐなコメントをしてしまいました。

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年11月27日 01:07

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

>福沢翁は本を買わずに友人のを写したのですから、言わばカジュアルコピーであって、現在では非難されてしまうと思います。

「現在では」というのがポイントですね。
書物というのは、歴史的には写本によって普及してきたという側面があるので、当時としては、木版印刷が普及してきていたとはいえ、むしろ「美談」たりえたんでしょうね。

で、現在でも、あまり 「経済的利益」 に頓着しない局面においては、「著作権フリー」 的なことがいくらでもあるということを、指摘しているわけです。

「莫大なお金が入るより、普及することの方がうれしい」 という意識は、結構ありますよね。Linux とか。

>このエントリではどちらかというと「マネ」という意味でのコピーの話をされているのですね。

というより、私としては、「マネによるただ乗り」 という悪質コピーという問題がある一方で、「みんなで使おうよ」 というか、「多少似てても、目くじら立てなさんな」 とか 「これ、共有財産なんだから、勝手に抜け駆けして知的所有権なんか主張したら、ただじゃおかんぞ」 といった認識のフリーウェアみたいなスタイルと、二通りあるみたいだということを言っています。

投稿: tak | 2007年11月27日 10:55

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 庄内拓明さんが「コピー問題の割り切れない思い」で、コピー問題にも(大きく分けて)二通りあると論じておられます。そして、さらにコピーが問題にならない世界について深い洞察をなさっています。... [続きを読む]

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