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2007年11月26日

「名言」 の捏造疑惑を巡る冒険

「晴れの日もある」 の記事で、藤子・F・不二雄「名言」の捏造疑惑が取り上げられている。(どんな「名言」かは、こちら を参照)

要するにクリエーションにおいて、作者の「体験」と「取材」のそれぞれの重要度に関する話で、藤子氏の発言が本当に捏造かどうかは別として、ちょっと考えさせられる。

漫画とか小説とか、どちらかといえばストーリー・テリング系のクリエーションには、作者の「人生経験」が反映され、それがとても重要なポイントになるという指摘は、世間には多い。関連的には、芸能関係でも「遊びは芸の肥やし」なんて言われているし。

それに対して、藤子氏の「名言」は冷や水を浴びせているのだ。

私なりにその 「名言」 を煎じ詰めてみると、「フツーの人間の体験による『創造の引き出し』なんて、たかがしれているのだから、むしろ、引きこもりのオタクが、その独特の感性で(体験ではなく)「取材」して創造した作品の方に魅力を感じる」といったようなことになると思う。

なるほど、なんとなく「言えてる」かもしれないという気はする。繰り返すけれど、これが本当に藤子氏の発言なのか、または指摘されているように「捏造」なのかは別としてである。

私も「遊びは芸の肥やし」系の話は、要するに「遊び好きの芸人の免罪符」という部分が大きいと思っている。世の中には「飲む、打つ、買う」をしなくても名人上手といわれた役者や噺家はいくらでもいるし、書斎に閉じこもりがちだったという作家も多い。

その意味では、「読者と同じものしか見ないで何が作家か」という意見にも頷けるものがある。しかしよく考えてみれば、「体験か取材か」という二者択一は、本当はこの議論のキモじゃないのだと気付く。この 2つは、決して対立事項じゃない。

私自身の経験でいえば、気を入れた「取材」をすることによってかなりの「体験」をすることができる。だが、ベースとなる「体験」が希薄だと、「取材」した事項への「思い入れ」(「共感」「反感」を含む)も希薄になりがちということも、確かにある。

まあ、当たり障りのない結論としては、「体験も取材もどちらも大切だよね」ということになるのだが、ちょっとだけ当たり障りのあることを言わせてもらえば、「いくら体験や取材を重ねても、『インスピレーション』のないやつは、まともなクリエーションができない」ということになる。

本当に大切なのは、インスピレーションなのだが、それを生かすには、やはりある程度の体験と取材はあった方がいいかもしれない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

オッチャンです。ご無沙汰いたしております。

 話がズレるかもしれませんが、『取材』する意欲があれば、『体験』する機会が増えます。なにをって、知りたい気持ちがなければ『取材』なんかしないし…。

 まぁ…、『知りたいという意欲』があれば、なんでも『体験』として記憶に蓄積できます。


 行きたい取材と、行かされる取材、情報を吸収して血肉にするか、情報をただ持ち帰るか…。
 あ、そのどちらでも、『体験』はできるのか…。

投稿: オッチャン | 2007年11月29日 13:12

オッチャン:

>『取材』する意欲があれば、『体験』する機会が増えます。なにをって、知りたい気持ちがなければ『取材』なんかしないし…。

まったくその通りなんですね。

ただ近頃は、インターネットでちょいちょいっという感じの 「取材」 というのも増えてるんで、その辺は要注意です。

「体験なしの取材」 とでもいうんでしょうかね。それでも、「想像力」 があれば 「疑似体験」 ぐらいのレベルにはもっていけるんでしょうけど。

投稿: tak | 2007年11月29日 16:42

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