確率論は、もうごちそうさま
3日前の 「統計と直観」 で取り上げた話題が、妙に心の琴線に触れるところがあったようで、反響の大きさに驚いている。
私は、林氏のおっしゃる統計とか確率とかいう分野のコンセプトというか、「やり口」はわかったつもりになったので、「はいはい、じゃあ、それはそうしておきましょう」と思っている。
あの設問の回答として、「残りが男の子の可能性は、3分の 2」というのは、十分理解した。確かにあのコンテクストの中では、あの回答が導かれるのだということは、一定の論理の筋道としてわかった。
だが、それは「直観派」を自認する私が、林氏の統計的手法に全面的に屈服したということではないのは、3日前のエントリーを最後まで読めばわかってもらえると思う。林氏の論理は十分に尊重しながら、結局は「それがどうした?」ぐらいにしか思っていないのである。
統計とか確率の分野でメシを食っている人は、それはそれでがんばってください、しかし、私の方法論は、そうしたものではないので、時々都合のいいときには援用させてもらうかもしれないけど、基本的には必要以上の関心は払わないし、過大な尊敬もしないよと、煎じ詰めればそういうことを言っているのが、あのエントリーである。
件のエントリーの一つのコメントに対するレスとして、私は「(林氏氏があの設問を引っ張り出してきたことの意義は) 数学者が得々としてエラソーに振る舞うベースを作るということかもしれません」と述べた。実はこれは、あのエントリーを書く前から、密かに思ってはいたものの、のっけからは書かなかったことである。
そしてそれを伏せた上で、「しかし、具体的な事象に対峙するにあたっては、すべてのトランザクションは個別であるとの認識に立たないと、確率論を振り回すだけでは、手も足も出ないよね」ということを書いたのである。
繰り返すけど、世の中はそれほどうまく均一にはかき混ぜられないのである。だから身の回りに起きる事象は、常に確率論を裏切って特殊性をもった傾向で現れるという印象がある。
野球中継の解説者が、打率 2割 5分前後の打者がバッターボックスに入ったとき、「彼は今日はここまで 3打席無安打ですから、確率的には、そろそろヒットが 1本出てもいい場面ですよ」 なんていう、林氏が聞いたら怒りまくりそうなことを言うことがある。
単純な確率論から言ったら、その打者の第 4打席目でも、ヒットの出る確率はやはり 2割 5分前後である。これから生まれる子(既に生まれている子ではない)の性別が男である確率が、上に男の子が 3人続いていようが、あるいは女の子が 10人続いていようが、やはりほぼ半々であるのと同じ理屈である。
しかし実際には、その日、その打者は多分調子が悪いんだろうから、ノーヒットで終わる可能性の方がずっと高い。そして、たまに調子のいい日にマルチヒットを打つこともあって、結果として 2割 5分前後の打率を残すのである。
世の中というのは、何事もこうした特殊な現れ方をしてくれるからこそ、あるいは、そう感じられるからこそ、少なくとも私は、その事象に関わり合う意義を見いだすのである。その時、私は確率なんていう概念を忘れている。
ところが、(文系?)読者のコメントは、 林氏の確率に関する論法への直反応的なものがほとんどだった。私が戸惑ってしまったのは、まさにこのことについてである。
私としては、林氏の 「やり口」 については、「はいはい、十分論理的だよね、わかった、わかった」 で、既にさっさと片付けてしまってある。彼の提示した土俵の上で、ああでもないこうでもないと、これ以上言うのは、もはやうっとうしいだけで、何物も生み出さない。
林氏の、確かにちょっと意地悪っぽいトリックをちりばめたレトリックにかかずりあって、ああだこうだと重箱の隅をつつくようなことをするほど、私は暇じゃない。
個別の事象における切実な問題解決をしようと思ったら、エラソーな確率論を振り回して得々としたり、あるいは、ある事象出現の確率が 2分の 1か 3分の1かなんていう、「解釈次第」とか「設定条件次第」みたいなことを延々と論じていてもしょうがない。
「具体的な人間」 というものを洞察しないと、ことは始まらないのである。私は、そのことをこそ言いたかったのだ。
私はあのエントリーの最後で。「一種のフィクションをエラソーに振り回す学者」に、密かにあかんべえをしたつもりだったのである。あるいは、そのあかんべえの仕方が、ちょっと控えめすぎたのかもしれないが、私は別に林氏に恨みはないから、念入りにする必要もないしね。
山辺響さんが私へのアンサー・エントリーとして書かれた 「統計学者の苦手なもの」の前日に、「ケータイ小説」というのがあり、私はそれにとても共感してしまった。そして私は、山辺響さんが「ケータイ小説」に感じておられる、ごく自然な無関心と似たような感覚を、林氏の「やり口」に感じている。
要するに、私には確率論で得々としているようなヒマも、電車の中で「ケータイ小説」なんか読むために金を払うつもりも、どちらもないのだ。だって、個別性の濃い問題の解決や、もっと面白そうな本に関わっているだけで、手一杯なんだもの。
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コメント
確率の低いものに賭けないと元が取れません。
競馬のことですが。
文系アタマですので、丁半で生きています。
確率を決断の決め手にしていたら勝ち目がないなあと思っています。
ほぼ、霊感(ヤマ感)で生きている。
これがよく当たるのでありました。
確率以外のファクターで物事が動いている。
確率というのは、結果論でしょ。
投稿: osa | 2007年12月18日 00:22
ora さん:
見事な割り切り方ですね。
>確率というのは、結果論でしょ。
まさにそうですね。統計的数字を変えるには、別に世の中を変えなくても、統計の条件設定をちょっと変えればいいだけのこと。
それで真っ先に思い浮かぶのが、気象庁の季節予報の 「やり口」 です。
この冬の気温の予報は、平年並みとなる確率と、平年より高くなる確率がいずれも 40%で、合計 80%。そして、平年より低くなるという確率が 20%でした。
だから、平年並みか暖冬になるだろうというんですが、もし結果的に厳冬だったりしても、「20%の方の可能性が出たんだ」 と言い訳できます。
結局、確率論でものを言ったら、特定の未来に対しては、何も言ってないのと同じことです。実際、季節予報は、「統計的」 には当たらなかったことの方が多い (50%を越してる) ようだし。
となると、気象庁の季節予報に関しては、低い確率として提示された傾向の方が、結果としてはよく現れるという 「統計的事実」 が厳としてあるわけで、なかなか面白いロジックになります。
このエントリーへの反応をみると、どうやら文系は統計が嫌いという傾向があるみたい (この言い方も矛盾ぽいけど ^^;) ですね。
投稿: tak | 2007年12月18日 13:56
一応理科系の人間です。専門家ではありませんのでうまく言えないかも知れませんが、説明できればと思って書いてみます。
統計的な手法の場合、これらの個別案件がどう出るかを予想するのですが、それらが過去の事象であった場合には、それらの起きた事は確率とは言わないのだろうと思います。
例えば2割5分の打率の選手が次にヒットを打つ確率は2割5分ですが、その人が実際にヒットを打ったとすると、それが偶然起こったことなのか、それとも他の何か理由があって、そうなったものなのか?を論じることになります。
この打者が何本続けて打てば、「偶然ではなかった」と考えるかという事を「有意差」と言う考え方で表します。
1回のヒットなら25%は偶然。2回連続なら25%*25%で6.25%。3回連続ならさらに25%掛けて1.5625%。これだけ続くとそれは偶然であったという考えを捨てましょう(本当に偶然
だったという可能性はとても小さい)他の理由があったと考えた方が良さそうですよ。と言う言い方になります。
このケースは単純ですから、ただ確率を掛けていくだけですが、本当はもっと難しくて、例えば
「うちの近所の池には毎年1000羽以上の鴨が来ているが今年は5羽しか来なかった。」と言う事象について有意差を求めると、たぶん「偶然そうなった」事を捨てる事はできないと言う結果が出るはずです。
有意差検定は実際には非常に難しくて、専門家ではない僕の理解を超えていますが大まかに言えばこういう話し方になるようです。
やっぱりダメですね。こんな説明じゃぁ文系の人を説得できませんね(汗)失礼しました。
投稿: fujioka | 2007年12月18日 23:26
こんばんは。
コメント欄にリンクを張ってよいのか分かりませんが、
リンク先のコメントの50番以降、非常に興味深い議論が繰り広げられていました。
ずいぶん昔に読んだのですが、文系頭のよい体操になったうえ、takさんのおっしゃるような、
結局、確率で得られた数字だけ取り上げてみてもたいした意味を持ち得ない、
という印象を抱かせる議論になっています。
三囚人問題については目からうろこが落ちました。
「もうごちそうさま」とおっしゃっているのにネタを投下してしまって、ごめんなさい。
http://www.copipe.org/main.php?postid=547
投稿: hrk | 2007年12月18日 23:54
いや~!
先日からコメントを寄せられた全ての方に敬意を表します。
もちろん大変勉強になりましたし、こういう問題で、これだけのご意見があること、およびそれぞれに納得できることに感激しました。
ただやはり、学者が「設問」を投げかけるのであれば、引っかけ気味ではなく、親切に、論理的に、できるだけ説明的にやって欲しいと思います。
それが「フェアー」と言うものだと思います。
投稿: alex99 | 2007年12月19日 00:40
fujioka さん:
なるほど、「有意差」 ですね。ふむふむ。
(と言いながら、実は、頭の中ぼんやり ^^;)
で、文系としては、数学的に検証するよりも、個別に調べる方がずっと早いという気が・・・
投稿: tak | 2007年12月19日 11:36
hrk さん:
うぅむ、リンク先、長かった。
で、この程度のことなら、長々いわなくても、当たり前ということのような気もします。
そして、それがわかったところで、繰り返しになりますが、「それがどうした?」 と思うんですよね。
投稿: tak | 2007年12月19日 11:37
alex さん:
>もちろん大変勉強になりましたし、こういう問題で、これだけのご意見があること、およびそれぞれに納得できることに感激しました。
alex さんは、私よりずっと数学的思考への親和性をおもちですね。
私は、どっちかというと、疲れました ^^;)
>ただやはり、学者が「設問」を投げかけるのであれば、引っかけ気味ではなく、親切に、論理的に、できるだけ説明的にやって欲しいと思います。
それが「フェアー」と言うものだと思います。
元々、自分がエラソーに得々とするための文章なので、あえてアンフェアー気味なんだと思います。
一緒にお酒を飲もうという気には、させてもらえないお人ですよね。
投稿: tak | 2007年12月19日 11:43
先日は一見でメアドもごまかしてる者の駄文にレス頂きありがとうございました。レスにレスして長引かせるのもと思ってましたが、こちらにも挨拶だけ。
私があの文で気になったのは自分が正しいと信じて疑わない傲慢さとでもいうものでした。
どうもそういうものが気になる性質らしく、「絶対」とか「あたりまえ」という語には過敏に反応してしまいます。
理系教育を受けたけど、本質的には文系なんだろうと思ってます。
投稿: cent | 2007年12月20日 02:29
cent さん:
>私があの文で気になったのは自分が正しいと信じて疑わない傲慢さとでもいうものでした。
「あの文」 て、どの文を指しておいでですか?
自分の文章が傲慢に見えたのかなあと、気になっております。
投稿: tak | 2007年12月20日 16:24
失礼しました。あの文とは林康史氏の発言のことです。自分が間違っている(説明不足)というようなことを考えもしない(無自覚である)のが気になったのです。
読み返して、唐突な話題変化で誤解をまねく表現だと気づきました。傲慢という言葉もよくないですね。
takさん自身に関しては、ほぼ真逆な印象を持ってます。立場の違う意見も受け止めて、その立場で考えることの出来る柔軟な思考をお持ちだと。
今回のエントリーのようなクールな発言に時々引っかかりそうになりますが、解って書いてるんだろうなって思ってます。
訪問が2,3日おきな事もあってレスが遅れた事、文章力のなさで長文にして解りにくい事も重ねてお詫びします。
投稿: cent | 2007年12月22日 00:49
cent さん:
ひとまず安心。
私の結論: 統計とか確率とかって、単純な話以外は、よくわからんということです。
突き詰めると、疲れそう ^^;)
そして、個別のケースに関しては、統計や確率で突き詰めても、あまり役に立ちそうに思われないという印象です。
投稿: tak | 2007年12月22日 08:01