統計と直観
Diamond Online に、立正大学経済学部教授の林康史氏の「人は統計的な発想が苦手だ」という興味深い記事がある。
確かに、統計学的手法による論理的な推論と、人間の直観的な判断は、時として相容れない場合があるので、私のような直観タイプの人間はよほど気をつけなければならない。
例えば、次のような問題があるので、ちょっと考えてみよう。
例えば、Aさんに子どもが2人いるとする。うち1人は女の子であることがわかっている。残りが男の子の可能性はどうだろうか。
直観的には、「半々」 と答えたくなるだろうが (少なくとも、私はそうだった)、正解は違う。残りが男の子の可能性は、3分の 2だ。その理由は、次のように述べられている。
世の中の2人キョウダイ (兄弟・姉妹) すべてを調べると、2人の性別の可能性は4通りで、「男・男」:「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1:1(「男・男」:「男・女」:「女・女」=1:2:1)である。
ここで、Aさんの子どものうち1人は女であるから、「男・男」の可能性はない。したがって、Aさんの子どもの性別の可能性は、「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1(「男・女」:「女・女」=2:1)。つまり、残りが男の子の可能性は、3分の2だ。
と、ここまで読んでみて、正直に告白してしまうが、私は確かに理屈としては理解できたものの、実感としては、まだぼんやりとしていた。正解はまだ霧の中でちょっとだけ先にあって、しっかりとこの手で掴んだような気になれなかったのである。お恥ずかしいことに。
ところが、世の中には、私以上にこの問題を理解できない人が多いようだ。林氏は、ある新聞への寄稿でこの例題とその正解について触れたのだそうだが、その新聞の編集部には、その日のうちから「答えは2分の1ではないのか」という猛烈な抗議の電話が押し寄せた。
ついにデスクが音を上げてしまい、「読者が納得しやすい説明をしてください」と泣きついてきたのだそうだ。
そこで、林氏は、次のように言った。
「間違う人の多くは、『今後、生まれる子どもの性別』と勘違いするようです。もちろん、それは1対1です」
「なぁんだ、そうか!」 ここまで読んで、私の頭の中の霧はさっと晴れた。上記の論理的説明も、何の問題もなく、しっくりと理解できた。「なぁるほどね!、もう、このパターンの論理では、錯覚しないですむぞ」
もし、このきっかけでもまだしっくり来ない人は、上記の記事の 4ページ目の懇切な説明を読めば、きっと理解できるだろう。林氏も、さすがに 「これでわからなかったら、もう知りません」と言っている。
林氏は、「言い方を変えると理解できるというのも、行動経済学・心理学の教えるところ」と述べておられるが、まさにその通りである。
一つの視点からのみの説明を、いかにていねいに繰り返そうとも、しっくりとこないものには永遠にしっくりこない。しかし、別の視点からの説明をちょっと付け加えてもらうだけで、突然、頭の中に電気が灯る。
要するに、どこに視点をおくかである。人に説明するのが下手な人というのは、マルチ視点でのものの見方のできない人である。最もシンプルでわかりやすい視点はどこにあるかをすぐに発見できる人は、ものごとの説明も上手である。
(関連で、「どうして鏡に映ると左右が反転して見える?」という記事で「視点」について触れているので、興味があればご覧いただきたい)
ただ、しょっぱなの例題に戻るが、私には、きょうだいの 2人目が男である可能性が 2分の 1だろうが、3分の 2だろうが、正直なところ、「それがどうした?」というレベルの事象に思えてしまって、心の底からの興味の対象にならないのである。
私は統計的な結論は、ごく身近な例には必ずしもその通りの確率で現われるものではないということを、経験則として知っている。身近にみられる(あるいは、意識的に関わってしまう)実感的現象が「完全に平均的」ということは、それほど多くない。
それらは「常に特殊」である。世の中というのは、なかなかうまくかき混ぜられないのだ。そして、うまくかき混ぜられないからこそ、世の中は面白いのである。林氏のいう「認知的不協和」も、まんざら根拠のないわけじゃない。
林氏の記事の、「ひき逃げ事件のタクシー問題」の確率論は、つまるところ「目撃者の証言は、それほど当てになるものではない」ということの認識につながりさえすれば、十分なことである。いかに数字を突き詰めても、それがそのまま犯人検挙につながるわけでもない。
統計を無視せよというのではなく、その有効性は十分に認めながらも、それでも、すべてのトランザクションは個別なのだということも、しっかりと認識しておかなければならない。
統計的手法の適用はとても有効だが、身近で起こった重大問題のソリューションに、それを単純に適用しさえすればいいというわけでもない。直観派としては、それだけはごく控えめにではあるが、確認しておきたいと思う。
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コメント
うーん、林さんは「問題の出し方が悪い」という批判に対して強硬に反論してますが、私もやっぱり問題文がちょっぴり意地悪だと思います。
「二人キョウダイが順序を問わず女・男の組み合わせになる可能性は?」という質問なら殆どの人が正解に辿り着いたんじゃないかなぁ。
似て非なるものに「3囚人問題」がありますね。
3人の囚人のうち2人がくじ引きで(笑)死刑になる。くじ引きは既に終了している。囚人Aが「BとCのどちらかは死刑になるはず。BとCのうちで死刑になる奴の名を教えてくれ」と看守にせがむと、「Bは死刑になる」と耳打ちされた。Aは「これで残るは自分とC。助かる確率が3分の1から2分の1に増えた」と喜びますが、それは錯覚で、実はAが助かる確率は依然として3分の1です。
こっちは直感に真っ向から反するのでかなりの難問ですね。
投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年12月15日 10:52
問題文が意地悪に感じられますがこの手のものはこんなもんでしょう(笑)
囚人の奴はくじを終了しているってことがポイントですね。一人が確定してるとはいえ最初の確率3分の1は変わりませんから
本人の心情としてはどうしても50%になりますけどね(笑)
投稿: はじ | 2007年12月15日 12:36
いわゆる統計を出すためのアンケートって、極めて無神経で、不親切で、論理的な説明が無くて、グレーゾーンを設定していないものがあったり、設定していてもその中で、グラデュエイションまで設定しているものは少ないですよね。
いわゆる○×の二択は、どれだけ意味があるものやらわかりません。
この質問も、どうかな~?
前提条件というか、自明のものとして男女比は50%と50%に設定していますね。
正確にはそうじゃない。
まあ、それはいいとして、本当にふたり子の場合、25%の4例に分かれますかね?
実証・検証されていないと思いますよ。
ひょっとしたら、二人の場合は必ずしも男女比は半々ではないかもしれない。
こどもを二人産む夫婦には、固有の傾向があるかもしれない。
さらに、この質問ではふたりですが、この夫婦がさらにこどもを有無かも知れないし、その際の男女比も・・・。
数学的な確率論としての問題設定なら、こうなるのかも知れませんが、それならそうと説明しテックれないとね。
私、まだわかっていないのかな?
自信はありません。
間違っていたら、指摘してください。
投稿: alex99 | 2007年12月15日 16:02
>「二人キョウダイが順序を問わず女・男の組み合わせになる可能性は?」
ああ、そうか。「但し、一方は女だと分かっている」と付け加えないといけませんでした。
とにかく、これって「全人類の中から任意の二人を選んで、一方が女のとき他方が男である確率は?」と位相的に同値で、この問題文だったら割と簡単なのに、「キョウダイ」と言われた途端、一姫二太郎やら授かり物やらといった言葉が頭をよぎって混乱してしまいますよね(^^;
投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2007年12月15日 17:31
おぉ、この話題、案外盛り上がっちゃいましたね。
Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:
一瞬だまされかけましたが、『今後、生まれる子どもの性別』ではないと同様のトリック(?) ですね。
はじ さん:
>囚人の奴はくじを終了しているってことがポイントですね。一人が確定してるとはいえ最初の確率3分の1は変わりませんから
ロシアン・ルーレット式だったら、もっと手に汗握りますがね。
もう一度、Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:
>これって「全人類の中から任意の二人を選んで、一方が女のとき他方が男である確率は?」と位相的に同値で、この問題文だったら割と簡単なのに、「キョウダイ」と言われた途端、一姫二太郎やら授かり物やらといった言葉が頭をよぎって混乱してしまいますよね(^^;
純粋な確率論から目をそらすための、意地悪なトリックとしか思えませんよね ^^;)
投稿: tak | 2007年12月15日 20:00
alex さん:
私も、このちょっとエラソーな確率論には、似たような反感を覚えたので、本文の最後の方で、疑問を呈するような書き方をしました。
世の中は、そんなにうまく均等にかき混ぜられたりはしないと、私は思ってます。
ウチは三人娘で、男の子はいないし、少なくとも私の身近な友人は、子供は男の子だけとか、女の子だけというのが、とても多いです。
「お前は、少数派とばかり気が合うんだよ」 と言われれば、それまでですけどね。
投稿: tak | 2007年12月15日 20:07
確率論的に考えるか独立事象ととらえるかの話で、この問題の出し方の場合は間違いというのは乱暴だと思います。
1/2という答えには2種類あります。単純に半々だから1/2ってのと、独立事象であると判断しての1/2。
前者は考えが足りないと言えなくもないけど、後者を否定するのは難しい。
問:ある部屋に生きたネコと死んだネコの入った箱が同じ数ずつある。その中から無作為に2つを選んだ。
一方ををあけるとそのネコは死んでいた。もう一方のネコが生きている確率は?
答:2つ一組に考えると(生・生)(生・死)(死・生)(死・死)だから2/3。
ではこの残ったひとつを元の部屋に戻しましょう。他の箱のネコが生きている確率は変わらず1/2ですが、この箱だけは2/3です。何故でしょう?
答の段階で元の部屋と切り離しているんですね。いったん切り離したものを元に戻してはいけない(戻せない)ってだけの話です。
切り離されていないと考えると答は1/2のままで変わらず、部屋に戻しても問題はありません。
で、切り離されたと考えるべきかって事です。
想定のレベルによるので絶対ではなく、元の設問ではこれをクリアしてないってのが私の考えですが、間違ってますかね?
なんかシュレディンガーのネコが思い起こされたのでネコにしたけど、やっぱり…。あとちょっとずれてる気もするけど、せっかく書いたから。
投稿: cent | 2007年12月15日 20:45
cent さん:
>切り離されていないと考えると答は1/2のままで変わらず、部屋に戻しても問題はありません。
>で、切り離されたと考えるべきかって事です。
元々、確率論てのは、切り離したとか離さないとかいうことは、想定してないんじゃないでしょうか。
そして、独立事象か否かというのも、関係ないということなんじゃないでしょうか。
独立事象は、白か、黒か、あるいはグレーか、どの程度のグレーかで、はっきり認識されますが、確率論は、あくまでも確率ですから、ある意味、とても抽象的なフィクションだといってもいいんじゃないでしょうか。
投稿: tak | 2007年12月15日 21:55
「Aさんに子どもが2人いるとする。うち1人は女の子であることがわかっている。残りが男の子の可能性はどうだろうか。」
確率論的な、というか数学的ないわゆる「厳密な条件の提示」という観点から文章を捉えるなら、この問の答えは2/3になるかもしれません。
ただ、数学の問題だと捉えずに、日本語の文章読解として上の文を読むと、「Aさんの2人の子供のうち片方は女の子で、その『女の子とわかっている方の子』ではない方の子供の性別は?」を聞いているような文章として読むのが自然な気がするのですが。
そのように国語的ないわゆる「行間を読む」に近い作業を伴ってしまうと、答えが1/2になります。
で、問題文が自然な日本語で書かれているとどうしてもそのように読んでしまいたくなります。
だから何となく2/3という答えの方が不自然で、1/2と答えたくなります。
「問題の出し方が悪い」というのは多分そういう感覚になるからなのだと思うのですけれども。
ただこれを言い始めると、答えが2/3とする問題は「2/3と答える方が自然だと読めるような文章」で書くべきだと思うのですが、私にはそのような上手い文章がなかなか考えつかないんですよね・・・。
と言うようなことを先月Blogで書きました。
ああ、なんと同時多発的な(笑)。
というわけで宣伝(コラ
http://kazahana.at.webry.info/200711/article_3.html
投稿: 風花 | 2007年12月17日 09:25
風花さん:
>ただ、数学の問題だと捉えずに、日本語の文章読解として上の文を読むと、「Aさんの2人の子供のうち片方は女の子で、その『女の子とわかっている方の子』ではない方の子供の性別は?」を聞いているような文章として読むのが自然な気がするのですが。
うぅむ、このケースに関しては、「日本語の文章読解」 と捉えること自体がナンセンスだと思いますよ。
「問題の出し方自体が、ちょっと意地悪」 という指摘がかなりありますが、この問題は 「直観と確率はかくも違う」 ということを認識させるための 「役割」 (?) も担っているようなので、あえてこうした問い方をすることに意義があるのだという気もします。
もう一つの意義は、数学者が得々としてエラソーに振る舞うベースを作るということかもしれません。
>ただこれを言い始めると、答えが2/3とする問題は「2/3と答える方が自然だと読めるような文章」で書くべきだと思うのですが、私にはそのような上手い文章がなかなか考えつかないんですよね・・・。
冒頭で 「これは確率論の問題です」 と断りさえすればいいという気もしますがね。
投稿: tak | 2007年12月17日 09:51
これ、面白いんで後でトラックバックしておきますね。林さんの説明は「確かにその通り」なのだけど……。基本的には、↑の「風花」さんに賛同します。
投稿: 山辺響 | 2007年12月17日 10:52
自分のところには書かなかったんですが、「残りが」男の子の可能性、という問題なのだから、風花さんのおっしゃるように、問われているのは「女の子ではない方の、もう1人の子供の性別」ですよね。残りが1人で性別が未知であるという点において、「今後、生まれる子どもの性別」と等価なんですが……林氏、分かりやすく説明しようとして墓穴を掘っている気がします。
彼が期待する答えを導くのであれば、「1人は女の子であることが分かっている。ではこのとき、この家族の子供のうち少なくとも1人が男の子である確率は?」と書くべきであろうかと(これだと身も蓋もありませんが(^^;)。
「確率論の問題です」と断っても、事態は変わらないような気がします。「なお問題文の解釈は出題者の意図に沿うものとする」とでも断っておくべきかなぁと。
投稿: 山辺響 | 2007年12月17日 16:22
山辺響 さん:
トラックバック、ありがとうございます。
まあ、結局は、前のコメントでも触れましたが、「数学者が得々としてエラソーに振る舞うベースを作る」 ための設問というのが、一番大きなことなのかもしれませんね。
で、コメントがいくつも付くうちに、なんだか論点が逸れてしまっているような気がしちゃってます。
私は設問のレトリックとか、確率論とか独立事象とか、そんなものはどうでもよくて、具体的な問題解決には、確率論でエラソーな理屈ばかり述べていても、全然役に立たないんだよということを言いたいんです。
改めて書くんですけど、確率とか統計というのは、抽象的なフィクションであって、具体的な問題解決にあたっては、「すべてのトランザクションは個別である」 との認識に立たなければ、お話にならないということを、私はこのエントリーで言いたかったんですよ。
投稿: tak | 2007年12月17日 18:51
失礼します。
こちらの記事と引用元、それに寄せられたコメントやトラックバック記事を読んで、私も記事を書いたのでトラックバックさせていただきました。
この記事の内容と直接的に関わりがあるような内容ではないのですが、記事作成に当たってのヒントを頂きましたので。
「確率論は、もうごちそうさま」という記事も書かれてるのに、お気にさわってしまったらすいません。
投稿: 風花 | 2007年12月18日 20:11
あれ、トラックバックできてない。
この記事と、山辺響さんの記事にトラックバック送ったんですが、どちらもできてないようです。
BIGLOBEのBlogとココログの間ってトラックバックできないのかな・・・。
投稿: 風花 | 2007年12月18日 20:28
風花 さん:
私は 「ごちそうさま」 なんですが、まだ噛みしめ足りなかったという人に文句を言うつもりはありませんので、お気になさらないでください。
それから、当ブログのトラックバックの表示は、私の承認の後になりますので、よろしく。
ちょっとエラソーに見えるかもしれませんが、トラックバック・スパムが多すぎて、野放しにしておくと、まともなトラバがずっと下の方に隠れてしまうので、やむを得ずそうさせていただいております。ご理解のほどを。
というわけで、風花さんのトラバは、さっそく表示させて頂きました。
投稿: tak | 2007年12月18日 21:48