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2007年12月に作成された投稿

2007年12月31日

年の瀬に、健康について考えた

平成 19年も、いよいよあと 24時間を切ってしまった。長年寝たきりだった母が、5月に亡くなってしまい、それからあっという間に年の瀬を迎えたような気がする。

そうこうしているうちに、今年も当コラムの「毎日更新」を達成。これで 4年連続、掛け値なしの毎日更新となった。

2年とか 3年とか連続更新を達成した頃は、「我ながら、よくもまあネタ切れもせず……」と思っていたが、4年も続けてしまうと、ネタだのなんだのいう以前に、我が身が健康であることがありがたい。

私の場合は、この "Today's Crack" だけではなく、もう一つ 「和歌ログ」という文芸サイトまでやっていて、こちらも 4年以上、毎日毎日和歌を一首ずつ詠み続けるという酔狂だ。どちらか一つなら、多少寝込んでも毎日更新は続けられるだろうが、2つを継続するとなると、やはり、ネタ以前に健康の勝負である。

今でこそ風邪をひいても一晩ぐっすり寝ればなんとかなると思いこんでいて、実際なんとかなるぐらい丈夫なのだが、子供の頃はけっこう虚弱児だった。すぐに腹をこわしてしまう子で、運動も苦手だった。運動会ではいつも、ビリから二番目だった (もっと遅い子もいたのだ)。

丈夫になったのは、中学校 2年頃からである。その頃、我が家が引っ越しをし、本来なら転校しなければならなかったのだが、なんとなくそれは嫌だったので、越境通学をしたのである。約 4キロの道のりを、毎日重い鞄をぶら下げて、1時間近くかけて歩いて通った。

あんまり真面目な生徒じゃなかったので、帰り道は必ずどこかに寄り道をするから、往復すれば 10キロ近くになる。時間にして 2時間ほどだ。とくに朝は遅刻しないように早足で歩いていたから、自然に体が鍛えられてしまったようなのである。

春から秋まではまだいい。問題は冬である。庄内のこととて、しかも今のように地球温暖化に至っていない頃だから、冬の間は根雪になっている。そしてしょっちゅう吹雪である。よくまあ、毎日通ったものだ。

で、気付いてみると、私はいつの間にか健康になっていて、無欠席で皆勤賞をもらった。苦手だった運動会でも、先頭でゴールのテープを切るようになっていた。いかに女の子たちにアピールするような形でテープを切るかを、余裕を持って練習できるようになっていたのだから、変われば変わるものである。

で、この実体験からも言えるのだが、歩くということは、本当に健康にいいようなのである。近頃は、どこに行くにも車で行くようになってしまったが、改めて、なるべく歩こうと思うのである。

こうして毎日ブログを更新していて、頭の方はなかなか呆けないだろうけれど、体の方の健康も、可能な限りは維持したい。寝たきりの母の介護は少しだけさせてもらったが、自分が寝たきり老人になるのは、真っ平ご免なのである。

とまあ、55歳にもなると、たまにこんなことを考えてしまう。それにしても、私の子供の頃の 55歳の男といったら、それなりに老人じみていたがなあ。自分がなってみると、まだまだ青くささが抜けきらない。

というわけで、大晦日のお約束の言葉を述べる段になった。明日は元旦だが、喪中のため新年らしい挨拶は控える習わしなので、今日のうちに、この言葉をしっかりと発しておこう。

皆様、本当に本当に、よいお年を!

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2007年12月30日

「正しい和食」 その後

昨年の 12月は、農水省による 「正しい和食認証制度」 の話題に花が咲いていた (参照 12)。予算が 2億何千万円だかついたはずなのに、あれから一体どうなったんだろう?

そう思って調べてみたら、どうやら今年 3月頃に「認証制度」から「推奨マーク制度」にトーンダウンして落ち着いたようなのだ。

農水省のサイトで調べてみると、「日本食レストラン認証有識者会議」というのが、平成 18年 11月 22日の第 1回目を皮切りに、今年 3月 16日まで、3回開催されている。面白いことに、第 3回目は、名称が「日本食レストラン推奨有識者会議」に変更されている。

米国からは「スシポリス」との猛反発を受け、国内からも「税金使ってやるほどのことか」とか、いろいろな疑問の声が上がったことを背景に、4ヶ月足らずのうちに「認証」を「推奨」に格下げして落としどころを作ったようなのだ。

有識者会議の議論の模様は、「第1回海外日本食レストラン認証有識者会議における論点別にみた発言の概要」という報告書をみるだけで、想像がつく。要するに、いろいろな意見がバラバラ出過ぎて、まとまりがつかなくなったもののようなのだ。

「実は日本でもきちんとした日本料理の定義はないし、認証自体は難しい」なんていう、そもそもぶちこわし的な意見が冒頭で出されており、さらに、「国際問題にならないように留意したい」という慎重意見もある。

また「現在の日本食のトレンドがフュージョンであるとすれば、それを抑えるような認証はさけるべき」というちょっとペダンチックな指摘が出される一方で、「認証にはある程度、権威を持たせるべき。中途半端はよくない」というかなり強硬な意見もみられる。

というわけで、有識者懇談会は第 3回目の会議終了と同時に、認証制度をマイルドにした推奨計画に変更するよう松岡利勝農水相に提言し、使命を終えたもののようなのである。

この方向性は、第 2回目会議を終えて、第 3回目の予定を決めた際には、もう見えていたのだろうね。事前に有識者会議の名称が変わっていて、会議終了と同時に提言を行い、プレス発表までしちゃってるぐらいだから。(日本語では、こういうのを「できレース」という)

共同通信によると (元記事は削除されてるので、こちら から孫引きさせていただいた)、

提言によると、推奨マークは各国の日本食レストランから申請を受けて審査し、合格すれば交付する。(1)コメ、みそなど主要な食材 (2)調理技術 (3)味付けや盛り付け-などを総合判断する。

ということになったらしい。いつの間にか「日本食レストラン海外普及推進機構 (JRO)」なんていう組織が港区芝公園の一等地に設立されていて、「海外の日本食レストランに対し一定の推奨を行う取組」を開始している。ああ、また役人の天下り先が一つ増えている。

まあ、それはそれでいいけど、実際に「推奨を受けたい」なんていう申請がどのくらいあがってくるものか、私ははなはだ疑問である。

本当にどこに出しても恥ずかしくない日本食レストランなら、わざわざこんな「推奨マーク」なんてもらわなくても、既に十分な「のれんの力」を持っている (船場吉兆のことは、ちょっと忘れていただきたい)。他の二流店と同じマークなんて付けたら、その他大勢と同列視されかねないから、「そんなものいらない」ということになる。

オートクチュールのブランドが、「ウールマーク」なんて付けないのと同じことだ。

実際には、このマークを欲しがるのは基準すれすれの二流店だろう。そうなると、マーク自体の「ブランド力」が、それほど大したものじゃないということになるのは目に見えている。要するに「あんまり意味ないよね」ということだ。

イタリア料理とタイ料理では、こうした認証制度があるらしいのだが、そんなものが実効的に機能している例を、私は 1件も知らん。あるいは、私が知らないというだけなのかもしれないが、私のような者でも知っているようでなければ、そもそも意味ないだろう。

こういうことは、ミシュランみたいな民間活力に期待する方がいいような気がするがなあ。(私は別にミシュランびいきってわけじゃないけど)

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2007年12月29日

「日本三大」検定にチャレンジしてみた

ネタに困って、日経トレンディの "「日本三大」検定" というのをやってみた。「日本三大ほにゃらら」に関する 5カテゴリー・25問である。

これは「品格ある大人ならぜひとも知っておきたい基礎知識」なんだそうだ。この程度の雑学知識で「品格」とは、ちょっと眉唾だが、とりあえずチャレンジしてみた。

で、結論。私の成績は 76点(全国平均55点)で、全国順位は 1107人中 66位 だそうだ(12月28日23時58分現在)。これって、結構上位になるのかしらん。(証拠画像はこちら

講評を読んでみると、"6割以上正解したあなたの「日本三大」レベルは上出来。立派な知識人と胸を張っていいでしょう" とある。へぇ、6割以上の正解程度で「上出来」とか「立派な知識人」とかは、かなり大甘なんじゃなかろうか。

内容をみると、私は建築と景色・自然に詳しくて、観光のカテゴリーに弱いようなのである。さらに神社・仏閣のカテゴリーでは、5問中 3問しか正解していないのも、神社仏閣好きを自認する私としてはちょっと不本意である。

しかしよく考えてみると、観光、景色・自然、建築、文化、神社仏閣という 5カテゴリーって、なんだか無理矢理分けているような気がする。果たして、これでいいんだろうか? だって、どれもみなオーバーラップして、整然とは分類しきれないように思うのだが。

まあこの際、余計な詮索はしないで、「立派な知識人」ということで気をよくして、新年を迎えようと思う。

 

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2007年12月28日

ついに地デジに浸食された

今年の 3月 1日に、私自身は積極的に地デジ難民の道を選びたいのだが、家族がそれを承知しないという記事を書いた(参照)。

それきり地デジのことは忘れていたのだが、一昨日帰宅すると、リビングルームに大画面液晶テレビが鎮座ましまして、その中で色鮮やかな画面が踊っていたのである。

近頃、妻と娘たちが地デジ対応大画面テレビについて、いろいろ「あれがいい、これがいい」とか、「どこそこの店が安い」とか、謀議をこらしているのには気付いていたのだが、どうやら速攻で買ってしまったようなのだ。油断も隙もありゃしない。

どうせ私に相談しても「そんなの 2011年になってから考えればいい」とか、「どうみても 2011年の完全地デジ移行は無理そうだから、その後でも十分大丈夫」 とか言うのが目に見えてるので、しびれを切らしてしまったようなのだ。近頃、彼らも仕事を持っているので、自由になる小金があるし。

で、せっかく買った地デジ対応大画面テレビなのに、家族で何を見てるのかというと、デジタル放送ではなく、AI ちゃん (リンク先、ご機嫌な音が出るので注意)の DVD でノリノリになっている。う~ん、AI ちゃん、いいなあ。フツーのテレビ番組だったら興味ないけど、つい、私も一緒にノリノリになっちゃったじゃないか。

というわけで、この絶妙の戦略(?)のおかげで、この大画面テレビにとっての最大の難関と目されていた私も、さしたる抵抗を示すわけでもなく、ごく自然に我が家のリビングルームに溶け込んでしまったのであった。

で、家族が寝静まった後に、こっそりとリモコンを手にしてカシャカシャやってみたのだが、何が何だかわからない。アナログとはチャンネルが違ってるみたいで、今自分の見ているのが、どこの局のなんという番組だか、さっぱりわからない。NHK だけは、何とか雰囲気でわかるけど。

今まではビデオの操作がわからなくて、見たい番組の録画は家族に頼んでいたけれど、今度は見たい番組(格闘技とかね)にチャンネルを合わせることも家族に頼まなければならないのだろうか。やれやれである。大晦日までに慣れるかなあ。

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2007年12月27日

年賀状に書き添える手書きの一言

【お断り】

年賀状に添える手書きの一言の 「文例集」 を期待してやってきた方には、はなはだお生憎様ですが、それを求めてこの記事を読んでも、得るものは何もありません。

このブログは、書店の実用書のコーナーに並ぶような内容とは無縁です。文例を期待するなら、とっとと こちら に飛んでください。ありきたりで差し障りのないのがたっぷり紹介されてます。

文例以外の何物かを期待される方のみ、以下に読み進んでください。


今年もずいぶん押し詰まってきたような気がしてはいるのだが、いつもの年と比べると、何だか切羽詰まった気がしない。

何でだろうと考えてみると、これは一重に、年賀状を作らなくていいという、今年の特殊事情によるものだと気付いた。5月に母が亡くなったので、まだ喪中なのである。

「新年のご挨拶を失礼させていただきます」という喪中葉書は、先月のうちにさっさと出してしまった。おかげで、今年の暮れは「あぁ、まだ年賀状を作ってなかった!」という強迫観念にさいなまされずに済んでいるのである。

思えば、年賀状を作るというのは、一仕事なのである。私は案外年賀状に凝ってしまう方なのだ。デザインは PC 上でやるので、実際の仕事に取りかかれば、半日足らずでできてしまうのだが、その構想と素材集めには 1ヶ月以上かけてしまう。

そして、できたデザインを 200枚以上印刷するのが、また結構な手間暇なのだ。最近のインクジェット・プリンターがいくら高性能になったとはいえ、印刷は 1枚当たり 10秒ぐらいはかかる。

それに、はがきというのは結構な厚みがあるので、時々プリンターの送りがうまくいかなくなって、止まってしまう。その度に詰まった葉書を引っ張り出して、セットし直す。さらに、一度に 30枚ぐらいしかセットできないので、付きっきりで葉書を補充してやらなければならない。

そして、宛名印刷もかなりの手間がかかる。移転や住所表示の変更通知の来ている先はきちんと修正し、喪中の知らせが来ている先には出さないように、きめ細かくチェックしなければならない。

そして、最終段階として、一言二言、手書きで短い言葉を書き添える。これがあるのとないのとでは、えらい違いなのである。

考えてもみるがいい。業者からの営業年賀状ですら、気の利いたのは何か一言書いてあったりする。それなのに、親戚とか友人からのものが、いかにもコンビニで買ってきたありきたりのデザインで、手書きの一言が何も書いていなかったりすると、「フン!お前って、そういうやつか」 みたいな気がしてしまう。

ところが、200枚からの賀状に、それぞれ気の利いた一言二言を手書きするというのは、これはもう、かなりの重労働なのである。最後の方になると、ただ何か書いているというだけのことで、「気の利いた」という形容詞なんか、どっかに飛んでしまっている。「気の利かない」一言になりかねない。

「手書きの一言が全然ない年賀状って、もらってもあまりうれしくないですよね。でも、その一言が『お元気ですか?』だけっていうのも、ちょっと悲しいものがありますよ」 と、仕事関係の女の子が嘆いていた。

「あぁ、私宛のって、きっと最後の方の、力尽きた時に書いたんだなあっていうのは、わかるような気もするんですけどね」

うんうん、わかる。どっちの気持ちもよくわかるぞ。

「で、私、今年はその人宛のは、『元気です』 って返そうと思ったんですけど、かなり年上の先輩だし、どうしようかなぁって、悩んでるんですぅ」

うぅむ、そんなことで悩む必要はないと思うがなあ。

いずれにしても、今日の教訓は、「年賀状の手書きの一言で、『お元気ですか?』だけというのは、いくらなんでもまずい」ということだ。芸も愛想もなさすぎる。

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2007年12月26日

「動悸、息切れ、気つけ」を巡る冒険

子供の頃からずっと気にかかっていることなのに、よく調べもしないで、ずっと気にかかりっぱなしということがある。

私は「動悸、息切れ、気つけに救心」という CM の「気つけ」というのが何なのか、ずっと気にかかっていた。何しろ「気つけ」である。結構すごい感じの言葉じゃないか。

この CM を聞くたびに気にかかりはするが、普段はころりと忘れてしまっていて、改めて調べてみようという気にもならない。しかし、昨日ようやく思い出して調べてみた。救心製薬のサイトに行ってみると「どうき・息切れ・気つけって?」というページがあり、きちんと解説されていた。

救心製薬による 「気つけ」 の解説を引用してみよう。

言葉の定義としては ‘気絶したものを生き返らすこと' あるいは ‘疲れて元気がない者の気持ちを引き立てる' とされています。医学的には心不全やショック状態において、心機能の低下や血行動態不全による循環血液量の減少が起こり、脳への酸素供給や栄養分の補給が低下して、気が遠くなったり、意識が低下するのをクスリなどにより改善させることを意味します。一種の脳貧血状態や疲れて元気のない状態に対して、気力を回復させたり、頭の働きをハッキリさせる効果のことです。

ふぅん、わかったような気もするが、私はそういう「一種の脳貧血状態」とかになったことがないから、ピンと来ない。「疲れて元気のない」 という状態は、たまになったりもするけれど、私の場合、気力というよりは、単純に体力の消耗によるものだから、一晩寝れば済んでしまう。

いや、しかし、この程度の解説ならば、別に救心製薬のサイトまで行かなくても、元々ぼんやりとはわかっていたように思う。私が長年ずっと気にかかっていたのは、どうも「気つけ」の意味そのものじゃないような気がする。

と、ここまで考えて、ようやくわかった。私がずっと気にかかっていたのは、「動悸、息切れ、気つけに救心」という言い回しそのものについてだったのだ。

考えてもみるがいい。「動悸」と「息切れ」は、望ましくない状態である。救心を飲んで、この望ましくない状態を改善するというのは、わからなくもない。しかし 3番目の「気つけ」というのは、前の 2つとは性格を全く異にする。

救心を飲んで「気つけ」を治すなんてことじゃない。「気つけ」そのもののために救心を飲むのだろう。すると、レトリックがおかしいじゃないか。

前者は否定的、後者は肯定的で、文脈が正反対なのに、一つの流れで言ってしまっている。私が長年にわたってしっくりこないものを感じていたのは、まさにこの文脈の混乱によるものだったような気がする。

救心製薬さん、このおかしな言い回し、なんとかしてもらえないだろうか?

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2007年12月25日

意識化しないと、見えるものも見えない

"Christmas" の表記で、「"Xmas" は間違い」と指摘する人がずい分多いけど、決して間違いってわけじゃないのになあと、私は長年にわたって思っていたのである。

ところが、これ、「"X’mas" は間違い」ということだったのだ。ずっとアポストロフィに気付いていなくて、今年のイブに初めて気付いた。

つい最近までずっと、「どうして日本人は 『"Xmas" という表記は間違い』 だなんて、いい加減なことをヒステリックに言いたがるんだろう?」 と、不思議に思っていたのだ。そりゃ、省略せずにきちんと "Christmas" と表記するのが一番なんだろうけど、広告とか、スペースが限られてる場合は、そんなに目くじら立てなくてもいいだろうにと。

実際、"Xmas" という表記は、英語圏でもよく見かける。Goo 辞書で引いてみても、以下のように説明されている (参照)。

Xmas  クリスマス ((ギリシア語のΧΡΙΣΤΟΣ (Christ) の頭文字より

英語できちんと書けば  "Christmas" なのだが、聖書が一番初めに書かれた時の文字はギリシャ文字だったので、それにちなんだ "Xmas" でも、かなり大手を振って許されてしかるべしという感じのようなのである。だったら、それでいいじゃないかと、ずっと思っていた。

ところが、本当に最近も最近、今年のクリスマスイブになって初めて気付いたのだ。私がこれまで 「"Xmas" は間違い」 なんていい加減なことを言ってるんだと思いこんでいた指摘は、「"X’mas" は間違い」 と、極めてまともなことを言っているのだった。

申し訳ないけど、私は本当に、このアポストロフィの存在にはずっと気付いていなかったのだよ。

で、それと気付いて改めて見回してみると、なるほど、日本においては "X’mas" という誤表記が、あるわ、あるわ、ずいぶん多いのだ。こんなに誤表記が多いとは、本当に気付いていなかった。

意識化しないと、見えるものも見えないという好例である。あるいは、私がそそっかしいだけということなのかもしれないが。

それにしても、なんでまた日本人は、要りもしないアポストロフィを X の後に付けるようになったんだろう? 省略したのだから、付けるのが当たり前 ("isn't it?" みたいに) とでも、勝手に気を利かしてしまったんだろうか? それとも、単に「見た目」を整えちゃったんだろうか?

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2007年12月24日

「本音と建前」 と日本社会

私はこの欄で「本音と建前」について何度か書いている (参照)。そして、本音と建前の区別があるのは日本だけだなんていうのは、大変な誤解であると、何度も強調している。

日本人がこうした誤解を捨てきれないのは、日本人自身の本音と建前の取り扱いが、ちょっと独特だからだろうと思う。

日本人は、「それはあくまで『建前』 ですから ……」なんて言い方をよくする。しょうがなく「建前」で一応書いてあるだけで、本当は違う基準と論理で動いてますから、あんまり気にしなくていいですよってな感じだ。「建前」は単なる飾り物で、本当に大切なのは「本音」の方である。

ところが、西欧社会ではちょっと違う。「建前」はあくまでもきちんと守るべきものであって、裏に回ると、そりゃあ「本音」の方がちょくちょく顔を出してしまうこともあるが、それはいざとなったら、「建前」の最たるものである法律で裁かれるという合意がある。

こんな風に、法律は日常生活で重要な役割を果たすから、ちゃんと整備されなければならない。都合が悪くなったらちょくちょく修正される。

日本では「本音」が顔を出してちょっとやらかしてしまったぐらいのことで、いちいち民事訴訟を起こしていたら、裁判官が何万人いても足りない。それに、日本では法律というのもかなり日本的建前論で運用されることを前提としているようなところがあるから、結局「示談」をすすめられてチャラになることが多い。

法律はおろか、憲法だって「あくまでも建前」だから、第九条も運用次第である。実情に合わなくなったから変えてしまおうなんてことには、なかなかならない。

食品の「偽装表示」も、この「本音と建前」のあいまいな手法から、必然的に出てきたもののように思う。「杓子定規でやってもしょうがないですから、ま、そこはそれ、運用のしかたで適当に……」というのが、これまでの日本的ビジネスである。

建前をきちんと守れるものなら、それが一番楽と言えば楽なのである。しかし、なかなかそうはいかないところがある。前にもちょっと触れた(参照)が、ビジネスのサプライチェーンというのは、生態系のようなところがある。一部分を一見都合良さそうに変えると、他の部分でバランスが崩れてガタガタになってしまうことがある。

日本的「あいまい運用」のビジネス手法は、コンプライアンス(法令遵守)とはちょっと相容れないところがあるのだが、これまでは、それによって絶妙にリスクを分担してきたところがある。本音と建前というか、自然の摂理というか、まあ、そのあたりは日本独特といえるかもしれない。

コンプライアンスという錦の御旗の元に、あいまい性を排除し、一度決めた建前はきちんと守れと言い、本音なんてことを持ち出されたら「それは契約違反」と突っぱねることは、1社内で完結するのであれば、案外容易なことである。

しかし、サプライチェーンは生態系である。その中のある企業が、得意先企業のコンプライアンスを全面的に認め、建前重視のビジネスを開始したら、それによって急に増大したリスクというツケを、今度は原材料サプライヤーに押しつけなければならない。

そんなことを繰り返していたら、サプライチェーン全体がジリ貧になるので、実際は「ま、そこはそれ、運用で解決しましょう」ってなことにした方がいいと思われてきた。あまり角を立てずに済むし。

日本では「建前」を軽視することに関する罪悪感が小さくて、「本音」の方が大手を振って歩きすぎるために、こんな風に、社会全体の「あいまい性」が強くなるという傾向が、確かにある。

何とかしなけりゃいけないが、あんまり急激にやりすぎると生態系が破壊される。なかなか大変な問題なのである。

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2007年12月23日

「洗練された米語発音」 とビジネスの関係

まだ読んではいないのだが、「洗練された米語発音がビジネスを成功させる」 という本が、ネットで紹介されていた。

著者の村川久子さんは、TOEFL や TOEIC 関連の書籍の著者として有名で、また、その厳しい教育姿勢故に、軍隊授業とも鬼軍曹とも呼ばれているらしい (参照)。

まだ読んではいないくせに、ネットで紹介されている目次にざっと目を通しただけで、中身はかなり想像できるような気がする。こんな目次である。(以下引用)

第1章 世界中のビジネス現場にて(英語会話の基本は大きな声)
日本語英語は通用しない
決め手は音
アメリカ人でも発音は気にしている
アメリカ英語とイギリス英語)
第2章 アメリカ英語の発音について(アメリカ英語は腹式呼吸で発音
イントネーション
通じる発音を)
第3章 洗練されたことばとは(洗練された米語を身につけ世界で成功する
ディスクリミネイション
ビタミン剤を注入しよう)
第4章 ビジネスで成功しよう(より速く読み、速く書く
リーサミット市との国際交流に学ぶ
主張する文化)

確かに腹式呼吸による大きな声と、歯切れ良い発音とイントネーション、そしてスピードというのは、ビジネス成功の大きなファクターになるというのは、私も賛成するところだ。それさえあれば必ず成功するというわけではないが、ないよりはずっといいということである。

私自身、自分で言うのもなんだけれど、英語の発音はかなりいい方だと思っている。とてもスマートでお上品な東海岸式のアイビーリーガー英語ではないが、少なくとも、日本人が陥りがちなカタカナ発音からは、すっかりかけ離れている。

若い頃からアメリカン・ミュージックにどっぷりと浸かって育った賜物である。英国人(スコットランド人とかも含めて)からは、私の英語は American Influence (アメリカ的影響) が強過ぎると必ず指摘されるが、これは、半分ほめて半分けなされているのである。

その私の経験から言うと、発音以外では同程度の英語能力をもつ 2人の日本人を相手にしたら、米国人のほとんど (多分 99%) は、より米国的発音のできる方を、スマートだと思ってしまうようだ。

実際、私は大抵の場合、同席している他の日本人よりも、頻繁に米国人に話しかけられる。「こいつ、話せるやつ」と思われてしまうようなのだ。発音が日本人離れして米国式であるというだけで、実力以上のアドバンテージを得てしまうのである。

本当のところ、私はちょっと発音がいいだけで、そんなに抜群の英語使いというわけじゃないから、そんな状況で無理して会話を弾ませようとするおかげで、かなり疲れてしまうのだが。

だから経験則として、米語発音でバシバシ推し進められたら、それは国際ビジネスの成功に役立つということは、自信を持って言える。しかし、それはそれで、かなり癪に障ることでもある。

それは、「そこまで米国人の単細胞に迎合しなけりゃいかんのか」という思いである。訥々とした英語で、とても深いことを言ったとしても、連中の多くは、きっとわかりゃしないのだ。表面しか見てないから。

そんなことだから、イラク情勢だって見誤るのである。ふん!

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2007年12月22日

ぼんやりのすすめ

昨日の "UFO の 「確認」 を巡る冒険" というエントリーに、alex さんから 「言語が思考を規定する」 とは、直接には言ってないけど、そういう意味合いのコメントをいただいた。

それは私も常々思うことなので、同感のレスも付けたのだが、改めて独立エントリーとして論じてみることにする。

alex さんのコメントは、次のようなものである。

言葉というものは、国民性そのものですから、あいまいな言語を持つ日本人は、思考があいまいな国民である・・・と言ってもいいと思います。

まあ、日本語があいまいな言語で、それに規定されて日本人の思考もあいまいになりがちというのは、否定しないけれど、その「あいまいさ」故に、日本独特の「美」というものもあるのだということは、私は忘れないようにしたいと思う。

それに、あまり分析的でないが故に、論理とはまた別の、包括的な「直観」ともいうべき方法論が働きやすいということもある。だから私は「日本語のあいまい性」については、いい面もあるし、悪い面もあると、ニュートラルな立場である。

そして、いい面は積極的に活用したいとも思っている。そう思っていなければ、「和歌ログ」なんていう別サイトを作って、毎日毎日和歌を詠むなんて酔狂なことはしない。

それはそれとして、日本語のあいまい性については、確かに困った面もあるのである。論理的であるべき場面で、全然論理的じゃないということが多すぎる。昨日触れた「未確認飛行物体(UFO) の存在を確認していない」という政府答弁なんて、その最たるものだ。結局、意味のあることは何も言っていない。

言葉によって思考が規定されるのは、私自身がよく感じることである。私は日本語の共通語と庄内弁のバイリンガルである。この 2つは、スペイン語とイタリア語、ドイツ語とオランダ語なんかよりずっとかけ離れているのだから、「バイリンガル」という価値があると思う。

私は、共通語では思考可能な論理的な事項が、庄内弁では考えられないのだ。そして庄内弁で思考していると、我ながら「俺って、何ていいやつなんだ!」と思えてしまう。庄内弁では、邪念を抱きにくいのである。

考えてみれば、邪念のほとんどは自分だけに都合のいい「屁理屈」の産物だから、理屈に弱い庄内弁では取り扱いにくいのである。庄内弁に限らず、それは多くの方言で似たようなものなんじゃないかと思うのだ。

古来からの日本語だって、それは似たようなものだったと思うのだが、幸か不幸か、明治維新の文明開化以後、「共通語」(初めは「標準語」なんて言われてたのかな)というのは、西欧的論理への対応をかなりの水準で図ってきたのである。

元々の日本語や漢語では表現できなかった概念を、外国語の翻訳語(多くは新語)として日本語化してきた。おかげで、日本人の思考もかなり論理的になってきたのである。

しかし、所詮は明治以後の付け焼き刃だ。それらは日本人の遺伝子にしっくり馴染むものではないようなのである。その証拠に、一見理屈の通っていそうな日本語でも、英語に翻訳してみるとまったくのナンセンスで、意味のあることは何も言ってないというのが、いくらでもある。

日本人は依然として論理の取り扱いは苦手なのだ。外交に弱いのも当然である。そしてさらに悪いことに、近頃の西欧的影響にどっぷりつかった社会構造が、ネイティブな日本語の手に負えないものになりつつあるということがある。

だから我々は、「カタカナ言葉の氾濫は見苦しい」との批判を重々承知しながらも、敢えてカタカナ言葉を多用してしまうのである。だって、カタカナ言葉でないと、どんぴしゃりで表現できないことが多すぎるのだもの。

そんなわけで、現代社会への適応には、かなり意識的な言語訓練が必要になっているということが言えるのだと思う。それがないと、論理で適応するのが困難になり、どう対応していいかわからなくなる。つまりしょっちゅうパニくることになる。

そんなこんなで、近頃の若者は容易に「切れる」のだ。ちょっと複雑な状況にどう対応していいかを、言語を介して自覚的に把握できないから、切れてみせるしか自己防衛の手段がないのである。

ものごとをあんまり突き詰めて考える必要のなかったのどかな時代には、「切れる」必要なんてなかっただろうと思うのだ。「切れる」なんて手続きなしでも、経済的な不幸、物質的な不足故に、必然的かつ合理的(?)に犯罪や暴力行為に走れた。因果関係が単純である。しかし、「切れる」という現象には、因果関係にちょっとしたミッシングリンクがある。

今は、経済的、物質的には案外恵まれていたとしても、結構切れてしまう。そしてその裏返しなのだけれど、「考えにふけりがちな子」というのは、なかなか切れないよね。切れる必要がないから。

よく考える子というのは、逆に一見「ぼんやり」にすら見える。で、このとりとめもない内容のエントリーのタイトルを、「ぼんやりのすすめ」 ということにしたいと思う。

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2007年12月21日

UFO の 「確認」 を巡る冒険

今月 7日に "「確認する」 という動詞を確認してみる" なんて記事を書いたので、今回の 「未確認飛行物体 (UFO) の存在を確認していない」 という政府答弁を、もうちょっと深く「確認」してみたくなった。

純粋に「言葉」としての見地から見ると、この答弁、かなりビミョーだよね。

文字通りに読み解くと、「未だ確認されていない飛行物体の存在を、確認していない」 ということになるから、言葉としてナンセンスである。それは既にあちこちでのブログでも指摘されている。

しかし、私の 7日の記事でも指摘したとおり、日本語の「確認」というのは、イメージとは裏腹に、意味的にはとてもあいまいな言葉である。だからきちんと解釈するには、深読みが必要になる。

"UFO = Unidentified Flying Object" の「未確認飛行物体」という訳語にしてもかなりあいまいで、本来なら「未特定飛行物体」の方が正確だ。UFO というのは、「正体が特定されていない(つまり、正体不明の)飛行物体」のことである。

だから、政府は「正体不明の飛行物体(UFO)の存在は、確認していない」といえばよかったのかもしれない。これがより正確な言い方だ。しかし、「未確認飛行物体」というのは、不正確とはいえ、既に定着した訳語なのでしょうがないといえばしょうがないし、「正体不明」と言い換えても、突き詰めてみると、やはりおかしいところはおかしい。

これには、2通りの解釈があるだろう。まず一つ目は、「正体不明の飛行物体が存在するかどうか(つまり、「ある」のか「ない」のか)を、確かめていない」ということである。7日の私の記事でいえば、"verfy" してないということだ。もし本当にそういう意味だったら、政府答弁としてはかなりずさんだ。これが揚げ足取りでないことを望むばかりである。

2つめの解釈は、「正体不明の飛行物体が本当に存在するとは、確認(confirm) していない」 ということだ。より明確に言えば、「確認できる範囲では、UFO は存在しない」ということになる。この解釈だと、政府はすべての飛行物体の正体を特定しているようなのである。すごいじゃないか。

しかしそこには、「特定できるもの以外は見逃してるだけだろう」という疑念がつきまとうのが、論理的必然というものである。あくまでも言葉の論理としてであって、私は別に UFO の存在に固執してるわけじゃないのだが。

さらにより詳しく文脈を読み取ると、「地球外から飛来してきたと思われる正体不明の飛行物体は、確認できる範囲では存在しない」ということのようなのだが、「地球外から飛来してきたと思われる」かどうかは、どんな理屈でもつくから、思う方の勝手だしね。

要するに、今回の政府答弁は、まともなことは何も言ってないのと同じなのである。それだけに、町村官房長官が「私個人はあると思う」なんて発言するとか、いろんな人がいろんなことを言う余地がいくらでも残されていて、面白い。

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2007年12月20日

うぅ、だるい

うぅ、だるい。どうやら、風邪を引いてしまったようだ。いや、もしかしたら、かの有名なノロウィルスのせいかもしれない。

尾篭な話で恐縮だが、昨日からちょっと下痢っぽいかなと思っていて、それでも「すぐに収まるさ」と高をくくっていた。しかし、それがだんだんしんどくなってきてしまったのだ。

昨日は夜に妻と待ち合わせて食事をする予定にしていた。ちょっとつらいかなと思ったが、久しぶりの夫婦水入らずのデートなので、予定通りにでかけた。しかしこちらは食欲がないので、「悪いけど、もりそば 1枚ぐらいにしたいから、そば屋にして」 と、手打ちそば屋に入ったのだ。

ところが、もりそば 1枚を食うのに、こんなに苦労したことはない。いつもは、「そばは別腹」なんて言って、いくらでも食べられるのに、1枚平らげるのがやっとで、あとはさっさと帰りたい一心である。

ところがその時、妻は鍋焼きうどんを注文していた。昨夜のあの寒さだから、鍋焼きうどんを食いたくなる気持ちはわかる。十分にわかる。ところが鍋焼きうどんは熱いのだ。熱くて少しずつしか食えないのである。

私はいくら腹具合が悪いからとて、もりそば 1枚は既に食い終わって、「あぁ、早く帰って、風呂に入って寝たい」と切望しながらぐったりしている。妻は、「食べるの遅くてごめんね、ごめんね」なんて言いながら、うどんを 1本ずつすすっている。

妻の食べるのが遅いのは今に始まったことじゃないが、食い終わるのがあんなに待ち遠しかったことはない。待っている間にも、私はどんどんぐったりしてくる。ああ、助けてくれ。せっかくの久しぶりのデートなのに、ぶち壊しである。申し訳ないことであった。

ようやく帰宅して、9時半には寝て、久しぶりに 10時間寝た。おかげで、夕べよりは少し楽になった気がする。

そして、今日はどうしても休めない仕事があって、東京都内に出てきている。因果なことである。仕事を終えたら、さっさと家に帰って、風呂に入って寝てしまおうと思う。医者は嫌いだから、行かない。

というわけで、今日はこんな愛想のない記事で失礼。皆様も、体には十分気をつけていただきたいということで。

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2007年12月19日

関東の冬景色

近頃、目を覚まして窓を開けると、外はびっしりと霜が降りている。「あぁ、関東の冬景色だなあ」と、しみじみ思ってしまう。

私は筑波の里に越してくるまで、霜の降りた光景なんて、見たことがなかった。だから、この土地で最初の冬、一面の霜野原を見たときは、雪が降ったものと勘違いしたほどだ。

生まれて高校 3年まで過ごした庄内の地では、霜なんてものはほとんど降りない。もしかしたら、年に何度かは降りていたのかもしれないが、少なくとも私は一面の霜野原というのは、自分の生まれた土地では目撃したことがない。

何しろ、庄内の冬は風が吹くのである。シベリアからやってくる、あの冬の季節風である。しかも関東に吹くような空っ風ではない。たっぷりと湿り気を含んだ上に、毎日台風かと思うような強風である。あんなに風が吹いていたら、霜どころではない。

そう思いながら家を出て、車を運転しながらいつもの TBS ラジオを聴いていると、気象予報士の森田正光さんが、まさに霜関連の話をしていた。前夜ばったりと寝てしまって、日付の変わった直後の更新ができないと、それはそれで、おもしろい情報に出くわす。

森田さんいわく、霜柱は関東地方でよく見られるが、実は世界でも珍しい現象なのだそうだ。注意しなければならないのは、「霜」と「霜柱」は、気象の世界では別物なのだということ。霜は空気中の水分が急激に冷やされて凍ったものだが、霜柱は地中の水分が凍って地面にせり出してきたものだ。

で、霜は世界中あちこちでみられるが、霜柱のできる条件に合致する地域は、それほど多くないというのである。地表の温度が 0度以下にならないといけないが、あまり寒いと霜柱どころでなく凍土になってしまうし、風が強くてもいけない。

なるほど、私が一面の霜野原をみて「あぁ、関東の冬景色だなあ」と思うのは、単なる個人的印象ではなかったのである。

それからちょっと余談だが、冬になると、部屋や車のドアを開けようとしたときに、ビシッと静電気が走ることがある。私なんか割と静電気に弱い方で、かなりストレスなのだが、これを解消する方法というのを発見した (参照)。

要するに、金属のノブを触る前に、壁に触ればいいのだそうだ。屋外だったら、塀とか電柱とか。金属は電気を通しやす過ぎるので、触ったときにビシッとくるのだが、木材とか壁とかは、ゆっくりと静電気を逃がしてくれるので、体には感じないもののようだ。

なんだ、それだけのことかと思うほど、なんてことのない話だが、世の中で実際役に立つのは、「なんてことのない」ことの方が多い。面倒くさい手順なんか、踏んでられないから。

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2007年12月18日

確率論は、もうごちそうさま

3日前の「統計と直観」で取り上げた話題が、妙に心の琴線に触れるところがあったようで、反響の大きさに驚いている。

私は、林氏のおっしゃる統計とか確率とかいう分野のコンセプトというか、「やり口」はわかったつもりになったので、「はいはい、じゃあ、それはそうしておきましょう」と思っている。

あの設問の回答として、「残りが男の子の可能性は、3分の 2」というのは、十分理解した。確かにあのコンテクストの中では、あの回答が導かれるのだということは、一定の論理の筋道としてわかった。

だが、それは「直観派」を自認する私が、林氏の統計的手法に全面的に屈服したということではないのは、3日前のエントリーを最後まで読めばわかってもらえると思う。林氏の論理は十分に尊重しながら、結局は「それがどうした?」ぐらいにしか思っていないのである。

統計とか確率の分野でメシを食っている人は、それはそれでがんばってください、しかし、私の方法論は、そうしたものではないので、時々都合のいいときには援用させてもらうかもしれないけど、基本的には必要以上の関心は払わないし、過大な尊敬もしないよと、煎じ詰めればそういうことを言っているのが、あのエントリーである。

件のエントリーの一つのコメントに対するレスとして、私は「(林氏氏があの設問を引っ張り出してきたことの意義は) 数学者が得々としてエラソーに振る舞うベースを作るということかもしれません」と述べた。実はこれは、あのエントリーを書く前から、密かに思ってはいたものの、のっけからは書かなかったことである。

そしてそれを伏せた上で、「しかし、具体的な事象に対峙するにあたっては、すべてのトランザクションは個別であるとの認識に立たないと、確率論を振り回すだけでは、手も足も出ないよね」ということを書いたのである。

繰り返すけど、世の中はそれほどうまく均一にはかき混ぜられないのである。だから身の回りに起きる事象は、常に確率論を裏切って特殊性をもった傾向で現れるという印象がある。

野球中継の解説者が、打率 2割 5分前後の打者がバッターボックスに入ったとき、「彼は今日はここまで 3打席無安打ですから、確率的には、そろそろヒットが 1本出てもいい場面ですよ」なんて、林氏が聞いたら怒りまくりそうなことを言うことがある。

単純な確率論から言ったら、その打者の第 4打席目でも、ヒットの出る確率はやはり 2割 5分前後である。これから生まれる子(既に生まれている子ではない)の性別が男である確率が、上に男の子が 3人続いていようが、あるいは女の子が 10人続いていようが、やはりほぼ半々であるのと同じ理屈である。

しかし実際には、その日、その打者は多分調子が悪いんだろうから、ノーヒットで終わる可能性の方がずっと高い。そして、たまに調子のいい日にマルチヒットを打つこともあって、結果として 2割 5分前後の打率を残すのである。

世の中というのは、何事もこうした特殊な現れ方をしてくれるからこそ、あるいはそう感じられるからこそ、少なくとも私は、その事象に関わり合う意義を見いだすのである。その時、私は確率なんていう概念を忘れている。

ところが、(文系?)読者のコメントは、 林氏の確率に関する論法への直反応的なものがほとんどだった。私が戸惑ってしまったのは、まさにこのことについてである。

私としては、林氏の「やり口」については、「はいはい、十分論理的だよね、わかった、わかった」 で、既にさっさと片付けてしまってある。彼の提示した土俵の上で、ああでもないこうでもないと、これ以上言うのは、もはやうっとうしいだけで何物も生み出さない。

林氏の確かにちょっと意地悪っぽいトリックをちりばめたレトリックにかかずりあって、ああだこうだと重箱の隅をつつくようなことをするほど、私は暇じゃない。

個別の事象における切実な問題解決をしようと思ったら、エラソーな確率論を振り回して得々としたり、あるいは、ある事象出現の確率が 2分の 1か 3分の1かなんていう、「解釈次第」とか「設定条件次第」みたいなことを延々と論じていてもしょうがない。

「具体的な人間」というものを洞察しないと、ことは始まらないのである。私は、そのことをこそ言いたかったのだ。

私はあのエントリーの最後で。「一種のフィクションをエラソーに振り回す学者」に、密かにあかんべえをしたつもりだったのである。あるいは、そのあかんべえの仕方が、ちょっと控えめすぎたのかもしれないが、私は別に林氏に恨みはないから、念入りにする必要もないしね。

山辺響さんが私へのアンサー・エントリーとして書かれた 「統計学者の苦手なもの」の前日に、「ケータイ小説」というのがあり、私はそれにとても共感してしまった。そして私は、山辺響さんが「ケータイ小説」に感じておられる、ごく自然な無関心と似たような感覚を、林氏の「やり口」に感じている。

要するに、私には確率論で得々としているようなヒマも、電車の中で「ケータイ小説」なんか読むために金を払うつもりも、どちらもないのだ。だって、個別性の濃い問題の解決や、もっと面白そうな本に関わっているだけで、手一杯なんだもの。

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2007年12月17日

自民の落ち目がはっきりしちゃった

共同通信社の今月の調査によると、福田内閣の支持率は 35.3%と、11月上旬の調査に比べて 11.7ポイント落ち込み、初めて支持と不支持が逆転したという (参照)。

ある意味、ちょっとだけ期待されていたかもしれない福田さんだが、あまりの逆境に手も足も出ないという状態のようだ。

しかし、内閣支持率なんていうのは、大抵低いものなんである。小泉さんの時が異常に高かっただけのことだ。福田さんの支持率は、下がったとはいえまだ 3分の 1 を上回っているのだから、それほど騒ぐほどのことじゃない。

それよりも注目すべき数字は、政党支持率の方だと思う。こっちの数字では、自民党が 13.0ポイント減の 25.2%で、民主党の 28.5%を下回った。前回の民主党の支持率は 16.3%だったから、数字だけを見ると、自民党支持者の 3割ぐらいがどっと民主党に移ったということになる。

これまでの大雑把な傾向は、与党の支持率は多少の波があってもほぼ一定で、野党同士が限られた票の食い合いをするというものだった。野党第一党が与党の支持層を大幅に浸食するなんて事は、あまりなかったと思う。

さらに、望ましい政権の枠組みについての回答は、「民主党中心」が44.7%で、「自民党中心」の28.5%を大きく上回ってしまっている。これだけ差がついたというのは、画期的といっていいほどの変化である。

私は今年 7月の参院選挙直後、"近頃 「いい目」 を見てなかった保守王国" というタイトルで、自民党の退潮は一時的な「逆風」によるものなんかじゃないと述べた。これまで自民党を支えてきた田舎の選挙民の意識が変わってしまっていることが、大きな要因である。

これまで 「保守王国」と呼ばれてきた地方の選挙区の多くで、自民党の現職がボロボロに負けたというのは、これは実は大変なことなのである。地方は、今や「保守王国」なんかじゃなくなったのだ。

これまで何がどうあっても自民党に票を投じてきたじいさんばあさんは、今や足腰立たなくなって、投票所に行くのがおっくうになったのである。変わって、不承不承に投票所に足を向けることになった彼らの息子たちの世代は、いまや、「都市労働者」なのだ。

たとえ農業所得があったとしても、彼らのほとんどは兼業だから、サラリーマンとしての給与所得の方が上回っている。だから、毎月ごっそりと源泉徴収され、税徴収制度の問題は、しっかりと身を以て感じている。

そして、気分だけは都市労働者だが、本当の都会の連中に比べると、所得水準はずっと低いので、自民党政治に対しては不満こそあれ、恩義なんてものはほとんど感じていないのだ。

プロ野球で、阪神が優勝しそうになると、あちこちからにわか阪神ファンがわらわらと湧いてきて、中日が優勝しそうだと、今度は「俺流ファン」が次々に手を挙げ始める。

そんなようなもので、民主党が勝ちそうになると、いつの間にか何年も前から民主党を支持していたような顔をする者が次から次に出てくる。人間、どうしても勝ち馬に乗りたいもののようなのである。

近く解散総選挙なんかがあったりしたら、自民党、マジに危ない。

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2007年12月16日

こんなんで、「日本語マスター」 なのか?

昨日夜の 8時頃帰宅して、当サイトのアクセス解析画面をのぞいたら、"「なおざり」 と 「おざなり」"、"「森」 と 「林」 の違い" というページに、異常なアクセスが集中している。

この 2つのページ、普段でも 1日に 40~50 件のアクセスはあるのだが、昨日は半日で それぞれ 600件以上のアクセスがあった。

ウチのサイトの特定ページにアクセスが集中するのは、テレビのクイズ番組がきっかけということが多い (代表例は、これこれ)。

しかし、テレビがきっかけの場合は、放送された直後に爆発的なアクセス (数秒に 1件というレベル) があり、その後、すぐに終息する。だが、昨日のケースでは、1分に 1件程度のアクセスが長時間続き、日付が変わってもなかなか下火にならない。

こうしたケースは、ニュースサイトに取り上げられたというのが多いが、今回はそうでもない。リンク元を調べると、Goo の検索エンジンからのものがほとんどを占めている。で、いろいろ調べてみたら、「似ているようで実は違う…違いを説明できないものランキング」 という Goo のランキングページが火種になったのだとわかった。

違いの説明しにくいもののランキングで、そのトップ 5は、卵と玉子ファスナーとチャックとジッパーおざなりとなおざりパフェとサンデー豚まんと肉まん というものである。3番めに上げられた 「おざなりとなおざり」 は、検索すると、ウチのページがトップに表示される。

さらに、ベスト 30 ギリギリにはいったのが、森と林 で、これも、検索すると、ウチのページがトップである。ウチのサイトは、なかなか捨てたものではないのである。

ちなみに、この Goo のランキングに挙げられた 30 のうち、私が違いを説明できなかったのは、「リンスとトリートメント」だけで、他はかなりきちんと説明できた。

リンスとトリートメントは、「同じじゃん!」と思ったが、実は微妙な違いがあるようなのである。私は髪の毛を洗うのに固形石けんを使っちゃう人だから、そんなのは全然知らなかった。まあ、英語の意味でベタに答えておけば当たりだったのだが。

このページには 「これらの違いをすぐに言えた人は、かなりの日本語マスターかも」 と書いてあるのだが、
コンソメとブイヨン
ハイブリッドカーとエコカーアルカリ乾電池とマンガン乾電池液晶テレビとプラズマテレビ の違いを説明できることが、「日本語マスター」 と言えるのかどうか、私にはちょっと疑問である。

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2007年12月15日

統計と直観

Diamond Online に、立正大学経済学部教授の林康史氏の「人は統計的な発想が苦手だ」という興味深い記事がある。

確かに、統計学的手法による論理的な推論と人間の直観的な判断は時として相容れない場合があるので、私のような直観タイプの人間はよほど気をつけなければならない。

例えば次のような問題があるので、ちょっと考えてみよう。

Aさんに子どもが2人いるとする。うち1人は女の子であることがわかっている。残りが男の子の可能性はどうだろうか。

直観的には「半々」 と答えたくなるだろうが(少なくとも、私はそうだった)、正解は違う。残りが男の子の可能性は、3分の 2だ。その理由は、次のように述べられている。

世の中の2人キョウダイ(兄弟・姉妹)すべてを調べると、2人の性別の可能性は4通りで、「男・男」:「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1:1(「男・男」:「男・女」:「女・女」=1:2:1)である。

ここで、Aさんの子どものうち1人は女であるから「男・男」の可能性はない。したがって、Aさんの子どもの性別の可能性は、「男・女」:「女・男」:「女・女」=1:1:1(「男・女」:「女・女」=2:1)。つまり、残りが男の子の可能性は、3分の2だ。

と、ここまで読んでみて正直に告白してしまうが、私は確かに理屈としては理解できたものの、実感としてはまだぼんやりとしていた。正解はまだ霧の中でちょっとだけ先にあって、しっかりとこの手で掴んだような気になれなかったのである。お恥ずかしいことに。

ところが世の中には、私以上にこの問題を理解できない人が多いようだ。林氏は、ある新聞への寄稿でこの例題とその正解について触れたのだそうだが、その新聞の編集部には、その日のうちから「答えは2分の1ではないのか」という猛烈な抗議の電話が押し寄せた。

ついにデスクが音を上げてしまい、「読者が納得しやすい説明をしてください」と泣きついてきたのだそうだ。

そこで、林氏は次のように言った。

「間違う人の多くは、『今後、生まれる子どもの性別』と勘違いするようです。もちろん、それは1対1です」

「なぁんだ、そうか!」ここまで読んで、私の頭の中の霧はさっと晴れた。上記の論理的説明も、何の問題もなく、しっくりと理解できた。「なぁるほどね!、もう、このパターンの論理では錯覚しないですむぞ」

もし、このきっかけでもまだしっくり来ない人は、上記の記事の 4ページ目の懇切な説明を読めば、きっと理解できるだろう。林氏もさすがに 「これでわからなかったら、もう知りません」と言っている。

林氏は、「言い方を変えると理解できるというのも、行動経済学・心理学の教えるところ」と述べておられるが、まさにその通りである。

一つの視点からのみの説明をいかにていねいに繰り返そうとも、しっくりとこないものには永遠にしっくりこない。しかし別の視点からの説明をちょっと付け加えてもらうだけで、突然、頭の中に電気が灯る。

要するに、どこに視点をおくかである。人に説明するのが下手な人というのは、マルチ視点でのものの見方のできない人である。最もシンプルでわかりやすい視点はどこにあるかをすぐに発見できる人は、ものごとの説明も上手である。

(関連で、「どうして鏡に映ると左右が反転して見える?」という記事で「視点」について触れているので、興味があればご覧いただきたい)

ただ、しょっぱなの例題に戻るが、私には、きょうだいの 2人目が男である可能性が 2分の 1だろうが、3分の 2だろうが、正直なところ、「それがどうした?」というレベルの事象に思えてしまって、心の底からの興味の対象にならないのである。

私は統計的な結論は、ごく身近な例には必ずしもその通りの確率で現われるものではないということを、経験則として知っている。身近にみられる(あるいは、意識的に関わってしまう)実感的現象が「完全に平均的」ということは、それほど多くない。

それらは「常に特殊」である。世の中というのは、なかなかうまくかき混ぜられないのだ。そして、うまくかき混ぜられないからこそ、世の中は面白いのである。林氏のいう「認知的不協和」も、まんざら根拠のないわけじゃない。

林氏の記事の「ひき逃げ事件のタクシー問題」の確率論は、つまるところ「目撃者の証言は、それほど当てになるものではない」ということの認識につながりさえすれば、十分なことである。いかに数字を突き詰めても、それがそのまま犯人検挙につながるわけでもない。

統計を無視せよというのではなく、その有効性は十分に認めながらも、それでもすべてのトランザクションは個別なのだということも、しっかりと認識しておかなければならない。

統計的手法の適用はとても有効だが、身近で起こった重大問題のソリューションに、それを単純に適用しさえすればいいというわけでもない。直観派としては、それだけはごく控えめにではあるが、確認しておきたいと思う。

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2007年12月14日

「ガラパゴス化」 再考

一昨日の 「ガラパゴスという言葉」 を書いてしまってからまた、マーケティングというものについて、いろいろ、つらつらと考えてみた。

マーケティング、とくに SCM(サプライチェーン・マネジメント) 関連の話になると、何につけても「標準化」ということが強く求められるが、それもモノによりけりなのだと思う。

私は本業の方で、繊維業界の SCM 推進なんて国レベルの業務に参加したりしているので、あんまりこういうことを言っちゃうとまずいのかもしれないが、何が何でも SCM で、標準化させないと始まらないという考え方には、疑問を感じてしまうのだ。

SCM の世界では、生産プロセスの原料から小売店頭まで、サプライチェーンの情報を共有しなければならず、その情報共有のためには、業務プロセスや言語、情報フォーマットなどは、すべて標準化されていなければならないということになっている。

途中に少しでも方言が入ってしまうと、そこから先の情報は、デジタル・ネットワークにおける共有が不可能になってしまうのだ。

例えば、繊維の世界では、アパレル・メーカーが織物のメーカーや問屋に発注した織物を、「やっぱり要らない」なんて言って、引き取らない (ということは、金も払わない)なんてことが日常茶飯事である。これを業界用語で「未引き取り」なんていう。

こうした前近代的な商習慣をなくして、合理的なものにしないと、SCM は成立しない。だから、「取引近代化」なんてことが、このポストモダンの世の中で、何十年も叫ばれたりしている。

ところが少なからぬ中小アパレル・メーカーは、この「未引き取り」があればこそ、ビジネスチャンスを創出している。大手アパレル・メーカーが引き取らなかった織物を、安く買いたたき、流行のデザインに仕立てて、短サイクルで供給してしまうのだ。

大手のそれなりのブランドの洋服とまったく同じ織物で、それよりちょっとだけ目新しいデザインの洋服を、お手軽にちゃちゃっと作っちゃうのだから、地域の「二番店」と言われるレンジの洋服屋なんかでは、ありがたかったりする。それで商売になる。

だから、こうしたマーケットでは、あまりにも SCM が進展して、「未引き取り」がなくなってしまうと、ビジネス・モデルが崩壊してしまうのである。SCM のない方が、ビジネスはしやすい。

市場というのは、ある意味、生態系のような様相を呈している。その時々で、それなりのバランスが取れている。その中の一部を「改善」しようとすると、それを機にバランスの崩れが次々に発生してしまい、新たなバランスがとれるまでは、とてもアンバランスな状態になる。

サプライチェーンの一部に、米国で成功を収めたモデルを適用しようとすると、外来種が入ってきたときのような混乱を生じる。多くは日本のマーケットに適応できずに姿を消すが、時には大きな力を発揮して、競争に打ち勝ってしまうこともある。そんなときには、在来種は絶滅に瀕したりする。

日本というのはただでさえ特殊なところのある市場なのだから、単純に海の向こうのビジネスモデルを適用しようとしても、うまく行くはずがない。逆に、既存の生態系(?)が余計がんばってしまったりする。

それに、なにしろ生態系じみているのだから、多様性が確保されていないと、市場そのものが活気を失ってしまいかねない。

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2007年12月13日

銀座の歩道にはガードレールがない?

先日、車を運転しながらラジオを聞いていると、銀座の街づくりの話になった。地元の人の言うところによると、銀座の歩道にはガードレールがないのだそうである。

車で乗り付けてそのまま店に入れるようにするためで、つまり、ガードレールがないというのは、銀座のステータスなのだと言っていた。

その時は、「ふぅん、なるほどね。さすが銀座ってわけね」なんて、何の疑いもなく聞いていたが、あとで思い出して、「待てよ、なんだか眉唾だなぁ」と思い始めたのである。だって、日本中にガードレールのない歩道なんて、いくらでもある。何も銀座に限ったことじゃない。

例えば、私がいつも仕事で出没する神田のあたりも、歩道にガードレールなんてない。この街は、中小企業と問屋の集積した、ステータスとはあまり関係のない雰囲気である。

この街で歩道にガードレールがないのは、ある意味では便利である。建ち並んだ中小企業、問屋に乗り付けた商用車が、台車に乗せた荷物を車に積み込んだり、あるいは車から降ろした荷物を店に運び込んだりするのに、ガードレールは邪魔になる。

ガードレールがない街はステータスがあるなんていうのは、そりゃ、銀座地元民の我田引水である。それに、銀座だって大通りからはずれた小路なんかでは、歩道と車道の境目にちゃんとガードレールがあるじゃないか。

それにしても、何でもかんでも、もっともらしく言ってみるものである。信じ込むやつが結構いるのである。私だって、もう少しで信じるところだったじゃないか。

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2007年12月12日

「ガラパゴス化」 という言葉

「ガラパゴス化」という言葉がある。日本の多くのツール、システム、政治経済の制度までが、世界の主流からはずれて、特殊な進化を遂げているという意味で用いられる。

試しにググったところ、「日経エレクトロニクス」04年 3月 15日号の携帯電話に関する記事(参照)辺りが、その端緒のようだ。

この言葉、やはり、日本の携帯電話について語るときによく用いられるようだ。日本の「ケータイ」は、ものすごく薄くて小さくて高機能なのだが、世界の標準からみるとかなり特殊な規格のようで、日本のケータイ・ベンダーの世界市場でのシェアも驚くほど小さい。このままでは国際競争に勝ち残れないと、警鐘が鳴らされている。

ケータイだけではなく、日本の流通システム、商慣習から、大きな意味での市場のあり方、経済システム、政治状況まで、ガラパゴス化はかなり進展していて、世界の常識から見ると特殊な発展を遂げているとの指摘は、とても多い。なにしろ、かなり前から「日本の常識は世界の非常識」と言われていたし。

日本のガラパゴス化を支えているのは、一重に 1億 2000万人を擁する市場規模と、日本語という世界的にはとても特殊な言語だと思う。日本語は最大の非関税障壁になっている。

国際市場でいかに評価の高い製品、システムでも、日本語化されていなければ、日本市場への参入は至難の業である。PC という市場でも、DOS-V で日本語対応が OS のレベルで標準対応されるまでは、ほとんど NEC「キュッパチ」の独占市場だった。DELL や HP の安い PC を気軽に買えるようになったのは、ここ数年のことである。

英語は実質的な国際語だが、日本人はこの国際語を必死になって学ぶ必要がない。なぜならば、このそれなりの規模をもつ日本市場においては、日本語の読み書きができれば、ほとんどのことはできてしまうからだ。

母国語さえできれば、大抵の用は足りてしまうというのは、英語圏以外では日本と、あとはせいぜい中国ぐらいのものだと言われる。他の国では、最新の情報を得ようと思ったら、英語の新聞、雑誌、書籍を読まなければならない。ところが日本では、大抵の情報はちょっと待てば日本語に翻訳されてもたらされる。

そんなわけで、自動車やエレクトロニクスなど、輸出産業と言われる産業を除けば、気心の知れた市場さえ相手にしていればなんとか食っていける。わざわざ英語を使って国際競争のまっただ中に飛び込む必要はない。

しかし日本もそのうち人口減少時代に入る。人口減少に伴って、国内市場の規模だって当然縮小する。そうなれば、海外市場に打って出ざるを得ないという状況になる。

その日は必ず来るのだから、日本もガラパゴス化をのほほんと謳歌するパラダイス鎖国状態から脱却して、国際標準に準拠したシステムを整えなければならないという指摘は、最近あちこちでなされている。

しかし、海外に市場を求めなければならないほど、国内市場の規模がシュリンクするのは、少なくとも何十年か先の話である。何十年か先の国際標準というのは、今の標準とは、多分違っているだろう。

あまり早めに国際標準準拠なんてことをしてしまうと、本当に必要になった時には、それがレガシー・システムになっていたなんてことになりかねない。

それに、外資が日本に進出して、国際標準とやらを押しつけてきても、ウォルマートが未だに日本市場に根付けないように、いくら外圧でも、日本市場の特殊性を根本から変えるのは大変だ。不可能ではないにしても、めちゃくちゃ時間がかかる。

現場の感覚では、多分、日本の内側からの自律的な国際標準化が軌道に乗るまでと、同じぐらい時間がかかるだろう。てことは、案外 「自然に成り行きまかせ」 というのが正解なんじゃなかろうかという気もするのである。

国際化はもちろん必要である。しかし、ガラパゴス化を心配するあまり、さしあたりあまり国内ニーズのない国際標準化なんてことを、無理にあせってする必要は、一般的には、まだないんじゃないかと思う。

むしろ、ガラパゴス化の中で創出されたものが、そのユニークさ故に国際市場で評価され、インターナショナル・スタンダードになってしまわないとも限らない。アニメとかね。

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2007年12月11日

厨房のゴキブリ

「ケンタッキー・フライド・ゴキブリ騒動」の高校生が、通っていた都内の某有名私大付属高校を、「社会的責任を感じた」と自主退学しちゃったそうだ。(参照

てことは、もう彼は「高校生」じゃなくなったわけだ。余計なことを mixi なんかに書いたせいで、人生狂っちゃったようだ。

私がここで「余計なこと」と言ったのは、まさに「余計なこと」だからである。飲食店でバイトをしたことがある者は、その厨房の多くがゴキブリの巣窟になっているということぐらい、普通に知っている。しかしだからといって、余計なファンタジーを衆目に触れるところで書いていいってわけじゃない。

飲食店の厨房がゴキブリだらけなのは当然のことで、あまりにも当然のことである上に、それほど気分のいい話題でもないので、ことさらに公衆の面前では話題にしないだけのことである。それにそんなことを気にしていたら外食ができなくなっちゃうので、あえて「忘れたフリ」をするというところもある。

私も学生時代、いろいろな飲食店でバイトをしたが、ゴキブリの出ない厨房なんてなかった。印象としてはネコぐらいの大きさのネズミがはね回っていることすら、それほど珍しくなかった。

最もすごかったのは、飲食店スタッフという仕事ではなく、某大型店舗の掃除夫のバイトをしたときである。朝一番、開店前の店舗の掃除をするのだが、テナントとして入っていた某レストランを掃除するために厨房に足を踏み入れると、「床一面のゴキブリ(実は床だけじゃないけど)」が、サァーっと潮の引くように物陰に逃げ込むのであった。

あれほどの大群のゴキブリは、調理や皿洗いのバイトをしていては、なかなかお目にかかれるものではない。それを目撃できるのは、朝一番に厨房に足を踏み入れる掃除夫の特権(?)である。でも、フツーは、あまりそれを外部で得々と語ったりはしない。

(私は今、それをやっちゃってるわけだけれど、まあ、時効だから勘弁してもらいたい)

この高校生、じゃない、元高校生は、よほど育ちが良すぎたんだろうか、ゴキブリが厨房にあふれているのが、とても珍しくて、舞い上がってしまったんだろうね。それで、ちょっとしたファンタジーを書いてみたくなったんだろう。それがどんな反響を呼んでしまうかには、あまり思いをいたすこともなしに。

要するに、苦労が足りなかったってわけだ。その分、今苦労をすることになったわけだが。

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2007年12月10日

「鏡衆」 が台頭してるんだってさ

電通消費者研究センターが、またまた目新しくてかつ怪しげな通俗マーケティング用語を発表してくれた (参照)。

互いに共振する消費者 「鏡衆(きょうしゅう)」 が台頭し、世の中を動かし始めているんだそうだ。電通のニュースリリースを見て、共感を覚えるようなら、あなたも立派な鏡衆だ。

このリリースは、今年 7月と 9月の 2回実施された「電通・新大衆調査」によって見えてきた「情でつながろうとする新しい大衆意識の芽生え」と「お互いに影響を与え合いながら共振する消費者 = 鏡衆」の台頭という現象をレポートしたものだそうである。

調査結果のポイントは、1に "情動化社会"、2に "「共振する消費者」の台頭" だそうだ。

「情動化社会」とは、「情報化社会」のもじりなのかもしれないが、以下のような現象なんだそうである

現在の消費者が、様々な社会現象的ブームにひかれるのには確固たる合理的理由はなく、「何か引きつけられるものを感じるから(44%)」「わくわく・エキサイティングな気分になれるから(32%)」など情緒的なものに突き動かされている様子がうかがわれます。

ふぅん、そんなことは別に「現在の消費者」でなくても、今に始まったことじゃないと思うがなあ。それとも、電通はこれまでの「社会現象的ブーム」が「情緒的なもの」よりも「合理的理由」によって生まれたとでも位置づけているのだろうか。

リリースはまた、次のように述べている。

また、3~5年前と比べて強くなった気持ちとしては、「価値観を共有できる仲間がほしい(35%)」「人とつながって心情や気持ちを交換・交流させたい(32%)」が上位となり、皆と共有できる目標や価値観が無くなってきた中で、情でつながろうとする人々の姿が読み取れます。

「3~5年前と比べて強くなった気持ち」といっても、どれくらい顕著に強くなっているのかが示されていないので、なんだかわけのわからないレポートになっている。

もしも、一気に 10ポイントぐらい上昇しているのなら、「へぇ、そうか!」と思うが、それは「3~5年前には、この 2つの項目が、そんなに低かったのか」 という驚きの方が強いためだろう。つまり、特筆するほどのお話かなあと思うのだ。

共通性探しの時代には、「人からの影響を取り入れてうまくレスポンス&発信していく『共振力』が重要」 になってくるのだそうだ。このあたり、具体的にどういうことを言っているのか、よく読み取れない。

気分としては、「他からの影響を上手に咀嚼して自分のものとして消化し、さらに他に向けて発信する影響力をもつ」という自律的なことよりも、「とにかく『空気を読む』ことに専念し、付和雷同して、空気を読めない者にも押しつける」というベクトルの方が強いように思う。

読むべき空気の「場」が広いか狭いかは、その時々で変わるだろうし、もしかして、その「場」というものがフツーの場なのか、非フツーの場なのかが、とても重要なファクターだったりするかもしれない。

薄っぺらな読み方をすれば、「鏡衆」というのは、いつの時代にも存在する「流行に弱い人たち」の別の言い方に過ぎず、深読みすれば「ファシズムの大衆心理」を想起させる「郷愁」あふれる理論になってしまうかもしれない。

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2007年12月 9日

「学力低下」と「ゆとり教育」

OECD が国際的に実施した学習到達度調査(PISA)で、日本の高校生の「学力」低下が浮き彫りになったという。とくに、読解力、応用力の低下が問題だという(参照)。

このニュースが流れてから、またぞろ「ゆとり教育」が悪者にされているが、ちょっと気を付けて考える必要があると思うのだ。

学校の週休二日制がいけないというなら、フィンランドがあんなにまで成績がいいという事実を、どう考えればいいのか。フィンランドの学校はずっと前から週休二日制で、授業の進め方も、日本の「ゆとり教育」に近いシステムだという (参照)。

今回の学力低下の指摘もあり、「ゆとり教育」 は見直される方向に進んでいるが、今後「すし詰め教育」を復活させたとしても、PISA での日本の高校生の成績が劇的に上がるとは、私には思えない。

まず、基本的なところから考えてみよう。PISA というのは、"Programme for International Student Assessment" の略である (なぜか英国式スペルだ)。公式な日本語訳というのは確定していないようで、ニュースでもなんとなく「国際的な学習到達度調査」なんて言われている。

だが、この訳し方はオブラートかぶせすぎじゃなかろうか。いっそ直訳で、「国際的学生査定活動」と言えばいい。文字通り、学生または生徒の資質査定プログラムじゃないか。各国の学生、生徒が「使えるかどうか」を「査定」しているのである。

で、この「使えるかどうか」を見定める基準というのが、日本国内の受験勉強の基準とは、ちょっと違うようなのだ。日本の高校生が日頃取り組んでいるのは、国内の大学受験でいい成績をとるためのトレーニングであって、PISA 向けのトレーニングとはかなり違う。

講道館柔道の猛稽古を積んだ日本選手が、国際柔道の大会では外国選手に負けてしまうようなものである。

試しに、○×式を多用し、単純計算や丸暗記がものを言う試験ならば、日本の高校生は、多分今でもトップクラスだと思う。(もしかしたら、韓国の方が上かも知れないけれど)

これまでは、日本の高校生も「詰め込み教育」による基礎学力の高さで、応用問題にもなんとか対応できていた。ところが、昨今の「ゆとり教育」で、教育そのもののコンセプトが代わり映えしないまま、授業時間数だけが削減されてしまったのだから、そりゃ、総合的な学力が落ちるのは当然だ。

講道館柔道だって必死の猛稽古によって、まるで別種目みたいな国際柔道の大会でも上位を取れているのである。講道館柔道のシステムそのままで稽古量を減らしたら、日本の柔道は国際大会でメダルを取れないだろう。そんなようなことを、日本の教育はやってしまったのだね。

「ゆとり教育」をやめて進学塾みたいな詰め込みをやればいいということでは決してない。根本的には、単純計算が得意で歴史の年号なんかをチマチマ暗記しているやつと、読解力、応用力があり、ものごとをきちんと論理的に自分の言葉で説明できるやつと、どっちが「使えるやつ」かということである。とくに国際舞台において。

最近、フィンランドの教育システムが注目されている。フィンランドでは、「勉強する」という言葉の代わりに「読む」をよく使うんだそうだ。「テスト前だから読まなくちゃ」なんてことになるらしい(参照)。

そう言えば、私は「勉強」なんてほとんどしなかったけど、手当たり次第に本を読んでいたよなあと思う。

おかげで、田舎の名ばかりの進学校で、高校 3年の 2学期の終わりの成績は、350人中 278番まで下がっていたが、12月と 1月の、正味たった 2ヶ月の受験勉強をしたら、なんなくワセダに入れた。入試の時に問題用紙を見て、「何年も受験勉強ばかりして、こんな簡単な試験に落ちるやつがいるのか !?」 と、本気で思った。(イヤミに聞こえたら、ごめん)

どうやら、よく読んでいれば、受験勉強用のキャパシティも自然に身に付くようなのだ。受験勉強で応用力がつくかどうかは知らないが。

そういえば、5年半以上前に、これと似たようなことを書いているのを思い出した。(参照: 「ゆとり教育」論議への疑問

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2007年12月 8日

言わなくてもいいことを言っちゃうと

北京五輪組織委員会 (BOCOG) が、表彰式の女性プレゼンターを募集するにあたり、「極めて明確な条件と要求」をアナウンスしたことが話題になっている。

その 「極めて明確な条件と要求」 とは、「選手にメダルを授与するため身長が 168 - 178センチ」であることだという。(参照

体重に関する明確な条件はないが、「概して言えば、太り過ぎはだめ。プロポーションはよくなければならない」んだそうだ。

さらに、その他の目安として、「18 - 25歳の大学生で、支給されるユニフォームのサイズに合うこと、健康で練習に参加でき、五輪精神やオリンピック・ムーブメントについて明確に理解していること」が挙げられた。

この声明を発表したのは、同委員会の趙東鳴・文化活動部長という人らしい。これに対して、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ (本部ニューヨーク)が敏感に反応し、「女性差別だ」と批判する手紙を、同部長宛に出したことを明らかにした(参照)。

「女性差別」批判に関するニュースの見出しは、"「美人の起用」は差別と批判 五輪メダル授与者選考で" ということになっている。

とはいえ、ニュースで読む限りは、趙東鳴部長のコメントには、「プレゼンターの条件は "美人" であること」という文言は見当たらない。ただ、長身でプロポーションがよく …… 云々」 とあるだけだ。

しかし実際には、「長身でプロポーションがいいけど、顔の造作は明らかに不細工」という女性が選ばれることはないだろう。きっと、それなりの美人が選抜されるんだと思う。

このケースで問題なのは、一重に「選考の第一条件は容姿」なんてことを、アナウンスしちゃったことだ。これでは「女性差別」と批判されても仕方がない。フツーの世の中では、こんな条件なんてものを声高に言わなくても、結果としてそれなりの容姿の女性が選ばれてしまうものなのである。

そこはそれ、阿吽の呼吸だ。要するに趙東鳴部長は「言わなくてもいいこと」を言っちゃったのである。「言わなくてもいいことを言っちゃう」というのは、往々にして「言うべきことを言わない」よりも、もっと好ましくない結果につながることがある。世の中とはそういうものである。

私の知っている某社の社長も「ウチの女性社員の採用基準は "見た目" が第一」と、言わなくてもいいことを公言する一人である。「社内にいる女の子がブスよりゃ美人の方が、男の社員のやる気も出るってもんだろうよ」だそうだ。

確かにこの会社の OL の容姿は、平均点が(とびきりってわけじゃないが)高いような気がする。ただ、そのことが男性社員のやる気を左右するほどのことかというのは、私はかなり疑問である。というか全然関係ないんじゃないかと思う。

正直に言うけど、そりゃ、私だって美人は好きである。しかし、こんなことを堂々と公言する社長の会社に、居心地よく勤められちゃう美人というのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。私としては、進んでお付き合いしたいとは決して思わないのである。

それに、最も重要なポイントとして、そんなところがこの会社の限界という見方をされても仕方ないわけである。

本日の結論。女性に限らず、男だって「容姿も能力の一部」というケースも時にはあるだろうが、それは一般的な仕事の場においては「言う必要のないこと」である。繰り返すが、それを言っちゃったら「言うべきことを言わない」よりもまずいことになりやすいのである。

そもそも「選手にメダルを授与するため」に、身長が 168 - 178センチでなければならないなんていうのは、ほとんどお笑い草である。だって、メダル受賞者の身長は、多分、150センチぐらいから 220センチぐらいまでの幅があるだろうから

このくらいの身長の女性が、趙東鳴部長の「好み」なのかもしれないね。

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2007年12月 7日

「確認する」 という動詞を確認してみる

橋下徹弁護士が、大阪府知事選に出るの出ないのと報道が迷走した挙句、結局出ないということに落ち着いた(参照)。

【12月13日追記: で、なんだかんだあって、やっぱり出るんだって。いい加減にしてもらいたいなあ】

毎日新聞は 「自民党幹部が 3日、橋下氏と会い、立候補の意志を確認した」 とまで報じていたようだが、このレトリックについては、「2通りに解釈できる表現」との指摘がある。

日本語のマチガイを論じる 「気になってならない」 というブログに注目しているのだけれど、このブログの 12月 6日付のエントリーで、「確認した」との言い回しについて次のように指摘されている。

「立候補しますか」 と問うだけで、返事がなくても立候補の意思を確認したことになります。

立候補する意思があったことが確認できた場合も立候補の意思を確認したことになります。

このように、意思があるのかどうか「聞いただけ」でも、あるいは一歩進んで「意思がある」と確かめられた場合でも、どちらも「確認した」という言葉が使えるとおっしゃっているわけだ。

うぅむ、確かにそれはその通りで、とても微妙な問題だと思う。「確認する」という動詞には、この言葉のもつ表面的な明快さとは裏腹に、とても曖昧なニュアンスがある。

ある事項について、「本当かどうか、ちょっと確認してみて」と頼み、しばらくしてから「確認しました」という返事が来ても、その時点では、それが本当だったのかどうか、わからない。「調べてみました」とか「よく聞いてみました」というだけのことだったりする。

「確認が取れました」という返事だと、まあ、「確認しました」よりは少しだけ確証がありそうな気がするが、それで 「で、結局、本当だったのか?」と改めて「確認」したくなるのが人情というものだ。

とにもかくにも、「確認する」というのはとてももっともらしく便利な言葉だけれど、その実、とても不確実である。

私の個人的な方法論かもしれないが、何を言っているんだかわからない曖昧な日本語を検証するときには、英語に訳してみると、どこが曖昧なのかを特定しやすい。そこで、ちょっとその作業をしてみよう。

「確認する、確かめる」という意味の英語の動詞に、"confirm" と "verify" がある。このどちらを使えばいいのか、まずそれが問題になる。「日向清人のビジネス英語雑記帳」というサイトに、この 2つの動詞の意味を説明したページがあり、次のように書かれている(参照)。

普通、confirm は「既に成立しているものにつき、駄目押しで再確認する、あるいは事実に相違ないと認める」ニュアンスがあるのに対して、verify は 「事実として確定されていないものにつき、それが成立しているかを検分して確定する」というニュアンスで使われていると思います。

かなりややこしいけれど、手っ取り早く言えば、「そうなのか、そうじゃないのか」と確かめるのが "verify" で、「そうなんだよね」と確かめるのが "confirm" である。今回の例でいえば、「立候補しますか」と尋ねるのが "verify" で、「立候補するよね」と確かめるのが "confirm" である。

日本語の「確認する」には、 "confirm" と  "verify" のどちらの意味もあり、文脈によって判断しなければならないのが辛いところだ。そして、毎日新聞は英語の "confirm" の意味で、「立候補の意志を確認した」と報じたわけだ。(結局はガセネタだったわけだが)

【12月 13日追記: で、ガセじゃなかったじゃん。毎日さん、よかったね】

ちょっと関連して、英語の "persuade"  という動詞についても述べよう。これを英和辞書で引けば 「説得する、説き伏せる」という意味なのだが、注意しなければならないのは、本当の意味は「説得に成功する」とか、「説き伏せて、相手の考えを変えることに成功する」ということなのである。

だから、"I persuaded him, but he didn't change his mind."  ("Persuade" したけど、彼は考えを変えなかった)という英文はあり得ない。もし、そう言ってしまったら、「じゃあ、全然 "persuade" してないじゃないか」とつっこまれることになる。

こういう場合は、"I tried to persuade him, but he didn't change his mind."  ("Persuade" しようと試みたけれど、彼は考えを変えなかった)みたいな言い方にしなければならない。

日本語の「確認する」や「説得する」には、英語の "confirm" や "persuade" のような明確な使い方に馴染まないところがある。この曖昧さが、ある時は日本語の美しさになるのだが、論理的な話をするときには、ちょっと気を付けなければならない。

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2007年12月 6日

「セレンディピティ (偶然幸福発見能力)」

「気絶の如き眠り」 というのが時々あるが、昨夜がそうだった。この "Today's Crack" の更新は、たいてい前夜のうちに書き終え、日付が変わった直後、あるいは、翌朝目覚めてから、おもむろにサーバにアップすることが多い。

ところが、昨夜はどのようにしてベッドに入ったのかすら覚えていない。

で、今朝は「午前中の空いた時間に、なんとかちゃちゃっと更新しとかなければなあ」なんて思いながら家を出た。ネタさえあれば、電車の中でノートパソコンを開いて書き上げることはできる。ところが、今日はそのネタすら思い浮かばない。まあ、こんな日もある。

駅に向かう車の中で、TBS ラジオを聴いていると、月尾嘉男氏が「セレンディピティ」ということについて話をしておられた。恥ずかしながら初めて聞く言葉である。Wikipedia では次のように説明されている (参照)。

セレンディピティ(英:serendipity)とは、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。(平たく云えば、「ふ」とした偶然をきっかけに、幸運を掴む事。)

要するに、「予期せぬ好結果」を見出す能力ということのようだ。日本語で言えば「瓢箪から駒」というのが、やや近いか。Wikipedia には、「偶然幸福発見能力」と8文字熟語として表現されることもある」という説明もある。なるほどね。

今朝のラジオでは、ペニシリンとポストイットが例として挙げられた。フレミング博士はブドウ球菌の培養をしていたのだが、アオカビが混じってしまって失敗した。ところがそれによって、アオカビの成分にブドウ球菌を死滅させる力があることに気づき、抗生物質ペニシリンの発明につながった。

ポストイットの例は、既に有名な話である。接着力が弱すぎて失敗作だと思っていたのが、その接着力の弱さゆえに新たな用途を開拓できて、ヒット商品になった。

ものごとがうまくいくかどうかは、「どの視点からみるか」によって、8割方決まってしまうのだそうである。

これを聞いていて、「セレンディピティ」というのは、以前に書いた「正常化の偏見 (normalcy bias)」(参照)というのと、表裏一体の関係にあると思った。

人間は、悪いことばかり恐れて取り越し苦労をしていては何もできないから、「自分だけは大丈夫」との確信に基づいて、いろいろなことを行う。それを「正常化の偏見」という。何の根拠もない確信だが、これがなければ、自動車の運転も、海水浴もできやしない。

「自分だけは大丈夫」 というストレートな思い込みと、予期せぬ好結果という、ちょっとねじれた話は、一見反対のことのように見える。しかし、予期せぬ好結果を生かすも殺すも、ある物事が失敗にみえても、「まてよ、これって、もしかしてイケてるかも」と思い返すオプティミズムがあるかどうかによる。

なるほど、人間はペシミスティックであるよりは、多少ノー天気でいるぐらいの方がいいのかもしれない。私にしてもブログを更新せずに寝てしまったおかげで、こんなにいいネタに巡りあえたのだしね。

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2007年12月 5日

「ロボット・ギター」という発想

ギブソンが "Robot Guitar" という新製品を発表した。面倒くさいギターのチューニングを、自動でやってくれるのだという(参照)。

その CM を こちら 見られるのだが、なんだかマーケティング発想的にずれてるような気がするなあ。それとも、米国で "Robot" というと、どうしてもこうなっちゃうのか。

そもそもの話から入れば、音階というのは「純正律」と「平均律」というのがあって、ピアノなんかではプロの調律師でも、その二つの微妙な「妥協」によって、自然に聞こえるピッチにするのだという。(これに関しては、以前「純正律と平均律」というタイトルで書いている)

だから、周波数だけを問題にして、完全にデジタルに「平均律」で調整してしまうというのも、なんとなく「f 分の 1 のゆらぎ」がなくなってしまうような気がして、「大丈夫なのかなあ」という気もする。

とはいいながら、ギターのチューニングは、確かに面倒くさい。亡くなった高田渡にしても、以前、雑誌のエッセイの中で、チューニングを自動でやってくれる装置がないかなあとぼやいているのを見たことがある。

それにいくらデジタルでぴっちりとチューニングしても、ギターというのは弾いているうちに、チョーキングなどで無理矢理引っ張ったりするので、絶対に微妙にずれてくる。その「ズレ」がいい味になったりしちゃうかもしれない。

前置きが長くなったが、私が冒頭で「マーケティング発想的にずれてる」と書いたのは、この製品の CM についてである。

CM は、ギター工場の終業で、多くの労働者の中に混じって、この「ロボット・ギター」が出口に向かい、守衛に呼び止められると、あっという間にペグが廻ってチューニングされ、そこで退出を許可されるというものだ。

ふぅん、これって技術者系には受けても、ミュージシャンの心の琴線に触れることはないと思うがなあ。

「ロボット・ギターって、こんなにコンパクトで、こんなにすごい技術なんですよぉ!」というメッセージは伝わるかもしれないが、実際のユーザーであるミュージシャンに「おぉ、使えるじゃん!」というメッセージを発信していないと思う。

あるいは、この CM は第一弾で、今後シリーズで「おぉ、使えるじゃん!」に近付いて行くのかも知れないけれど、それにしても、 "Robot Guitar" というネーミングからして、ハードウェア発想が過ぎるような気がするがなあ。

ヤマハだったら、絶対に別の商品名にしちゃうと思う。欧米と日本の感覚の差なのかなあ。

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2007年12月 4日

「謝罪会見」 を巡る冒険

不眠症カフェ」 の alex さんが、ここ一連の「謝罪会見」オンパレードに、「そんなに 『謝罪』 させたいのか? 日本人は」と、疑問を呈しておられる。

確かに、形ばかりの「謝罪」で頭を下げるところを見せられても、彼らの「誠実さ」を見せられているような気はしないしね。

向こうだって嫌々ながら仕方なく詫びているのが見え見えなのに、日本人はそれを見ないことには気が済まないのである。昔から「そんなことをしたら、世間様に顔向けできない」と言われたものだが、何かあると、その「世間様」の代表みたいな顔をしたがる人が、その辺にいくらでもいるのである。

以前私は、西欧人と日本人の「謝るツボの違い」について書いている。西欧人の多くは、道を歩いていてちょっと肩がぶつかっただけでとても丁寧に詫びるが、大きな法的問題に関したこととなると、軽はずみな謝罪は頑としてしない。

逆に日本人は、混雑した電車内でかなりなぶつかり方をしても「済みません」の一言もない場合が多いが、何か重大なことをしでかしてしまったら、とにかく大げさに平身低頭しておきさえすれば、少しは情状酌量してもらえると思っている。

それが高じてか、日本人の多くは他人が何か悪事をしでかしたときには、そいつに平身低頭して謝られないと、気が済まなくなっている。その悪事がテレビに乗って公共に流されるようなものだったりしたら、別に直接被害をこうむったわけじゃなくても、日本中が、とりあえず謝られる側に身を置きたがるのである。

私なんか、朝青龍や亀田大毅に謝られたところで嬉しくも何ともないし、そもそも謝られるような悪さを、彼らにされた覚えもない。だから「こいつら、謝り方下手だなあ」とは思っても、だからといって腹が立つということもない。

多くの日本人が何かというと「謝罪」を求めるのは、結局のところ、自分は謝られる権利があると思っているからである。なんでそんな権利があるかというと、なんとなく自分も関係者の一人のような気になっているからである。

日本人は何かに成功すると、「おかげさまで」という。自分一人の力で成功したんだなんて顔をしていたら、そいつは総スカンを食う。殊勝な顔をして「これもひとえに、皆様のおかげです」と言わなければならない。それがあって、初めて周囲に「よかったね」と祝福してもらえるというお約束になっている。

成功するのが「皆様のおかげ」なら、反対にヤバイことに手を染めてしまったら、それは「皆様」を裏切ってしまったことになる。だから謝らなければならない。範囲がちっとも明確でない「世間の皆様」という存在に対して。

「お前が成功するとしたら、それは俺たちの好意や応援のおかげなんだし、それを裏切ったら、とりあえずは詫びを入れに来い」ってなもんである。明確にそう意識していなくても、無意識でそう思っているから、何だか知らないけれど、執拗に「謝罪」を迫るのである。

西欧のキリスト教文化圏では、成功を収めると、まず最初に神に感謝する。その次に、具体的に協力してくれた人たちの名前を挙げて感謝する。不特定多数の「皆様のおかげ」なんてことは、あまり言わない。

とにかく、まずは "Thank God!" である。英和辞書的には、この言葉の訳語は単に「ありがたい!」である。普通の文脈でこれを「神様、ありがとう」なんて訳したら、ちょっと奇異な感じがするだろう。それでも文字通りに受け取れば、まず感謝するのは、神に対してであることには違いない。

そしてその裏返しとして、罪を犯してしまったら、神に「懺悔」する。感謝するのも懺悔するのも、とりあえずは神に対してである。

このことに気付くと、そうか、日本では「世間様」が「神様」なんだとわかる。キリスト教文化圏における「神」の役割を、「世間様」が果たしているのだ。だから、西欧での(神に対する)「罪」は、日本では(世間に対する)「恥」に相当するのである。だから、神に懺悔する代わりに、「謝罪会見」をしてまで世間に詫びなければならない。

これって、謝罪会見で平身低頭するという「恥ずかしい姿」を自ら進んで見せることによって、その前に犯したチョンボによる「罪 = 恥」をチャラにしてもらうという、とてもプリミティブかつ民俗的儀礼行為なんじゃないかなあ。

だからその程度のフォークロア的な問題を妙に近代的に解釈して、「謝罪になってない」だの「誠意が見えない」だのと立腹してみせるのは、どうも違うような気がするのである。

「おかげさま」は、とても美しい言葉である。しかしそのベクトルが裏返ると、ちょっとへんてこなややこしいことになる。

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2007年12月 3日

お父さんの中にいるサンタクロース

私の 「知のヴァーリトゥード」というサイトには、街にジングルベルの流れる季節になると妙に賑わうページがある。「サンタクロースは本当にいる!」というページだ。

普段は 1日に 2~3 アクセスあれば上等のページに、11月末からは 30~40 のアクセスがコンスタントに集まる。

12月中旬になると、1日のアクセスが 100を超える。そして、25~26日を過ぎて、大晦日、正月になると、いつもの 1日あたり 2~3 アクセス戻る。もろに「シーズンもの」である。

しかしこのページは、私のサイトの中で最も美しいページである。子供に「サンタクロースって、本当にいるの?」と聞かれたら、「サンタクロースは、本当にいるんだよ」と、こんなふうに答えてあげればいいという、私の心からの提案だ。

目には見えなくても、サンタクロースは、普遍的存在として、世界を包む愛として、「いる」のである。そして、子どもたちに届けられるクリスマスプレゼントは、たとえ直接的には父親や母親がどこかのお店で買ってきたものであったとしても、それは紛れもなく「サンタクロースからのプレゼント」なのだ。

それは、田舎のおじいちゃんからの贈り物が届くとき、それは、宅急便のお兄さんが届けてくれているとしても、紛れもなく「おじいちゃんからの贈り物」であって、宅急便のお兄さんはその仲立ちをしてくれているだけであるのと同じ事だ。

お父さんが買ってきたものだったとしても、お父さんは「サンタクロースからのプレゼント」を届ける「仲立ち」をしているのである。

そのことを話してやれば、たとえ子供と一緒にクリスマスプレゼントの買い物に行って、子供の目の前でそれを買ったとしても、それはやっぱり「サンタクロースからのプレゼント」なのだ。

だから、クリスマスプレゼントをしてあげる親は、「俺が買ってやってるんだ」なんて思ったら大間違いである。そんなのだったら、買ってやらない方がましだ。サンタクロースの愛を我が子に届けるために、その仲立ちをさせてもらってるんだと思うのが正解なのである。

そう思うことで、子供だってお父さんの中にサンタクロースの大きな愛を見いだす。目には見えないものが、心で見えてくる。そうなってしまえば、「サンタクロースって、お父さんなんだね!」ということでも、十分に OK なのである。

サンタクロースの愛は「ユビキタス(遍在)だから、お父さんの中にあってもそれは当然のことなのだ。

なお、ここでは便宜上「お父さん」で語らせていただいたが、お父さんのない子は、お母さんでも、あるいはお父さんかお母さんの代わりの人でも、誰でもサンタクロースの愛の仲立ちになれることは言うまでもない。

詳しくは、改めて「サンタクロースは本当にいる!」をご覧いただきたい。

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2007年12月 2日

「日米関係良くない」 が 2割超す?

"「日米関係良くない」 が 2割超す 内閣府 「外交に関する世論」" というニュースがあるんだけれど、この種の世論調査の意味というのが、今でもよくわからない。

決して「意味がない」と言ってるわけじゃない。だが、それをどう解釈していいのかというのが、今イチよくわからないのである。

この調査は内閣府によって、10月 4~14日、全国の成人 3000人を対象に実施され、有効回収率は 58.6%だったんだそうだ。てことは、1758人分の回答を分析しているというわけだ。日本の総人口の、たった 0.0015%である。

そんなんで何がわかると言いたくなりそうだが、統計の専門家によれば、この程度のサンプル数で、傾向値は十分に導き出せるらしい。となれば、選挙の開票速報で、開票率 1%で「当選確実」が出るというのも、驚くほどのことではないのだろう。

この調査では、現在の日米関係を「良好」と思わない人が 20.4%に達したんだそうだ。「良好だと思う」と「まあ良好だと思う」の回答を合わせると76.3%なので、「良好と思わない人」は少数派なのだが、昨年同時期の調査の 2倍近くに増えたというのが注目ポイントだ。

で、こうしたニュースを聞くと、よくまあそんなに「良好と思う」とか「思わない」とか、偉そうに判断して答えられる人(街場の外交評論家?)がいるもんだなあと、私なんかごく素朴に感心してしまっていたのである。

「現在の日米関係は良好か?」 なんて聞かれたら、私なら手に余る。そんな重大な問題を的確に判断するに十分な材料を、素人の私が持ってるはずないじゃないか。辛うじて言えるのは、「決して険悪ってわけじゃないよね?」という程度のことである。

ところがこうした調査の常道としては、私みたいな反応は、ほとんど「まあ良好だと思う」という回答に組み込まれてしまうんだろうなあ。それはまあ、仕方ないことだろうとは思うけど。

しかし「良好と思わない」と答えた 20.4%の人に、「じゃあ、日米関係は『険悪』ってことですね?」と再確認したらどうなるだろう。日本の成人の 5人に 1人が、「日米関係は、『険悪』だ」と、本気で考えているんだろうか。

で、念のため、内閣府のサイトで昨年度の(今年度のはまだサイトに載ってなかったので)調査結果(参照)を調べてみると、こんなふうなことになっている。

現在の日本とアメリカの関係は全体として良好だと思うか聞いたところ,「良好だと思う」とする者の割合が 82.7%(「良好だと思う」36.0% +「まあ良好だと思う」46.7%),「良好だと思わない」とする者の割合が 11.6%(「あまり良好だと思わない」9.8% +「良好だと思わない」1.8%)となっている。

なんだ、「良好だと思わない」という回答の中身は、「あまり良好だと思わない という、いわば曖昧な回答がそのほとんどを占めているんじゃないか。

てことは、「それほど『蜜月関係』ってわけでもないみたいだよね」という程度の印象で答えたサンプルの多くは、「あまり良好だと思わない」 に組み込まれているのだろうと、想像するに難くない。

このケースに関しては多分、「まあ良好」という答えは「険悪ってわけじゃない」というのとそれほどの違いはないだろうが、「あまり良好だと思わない」という答えは「ちょっと険悪」というのとはずいぶん違うだろう。

それは、「非常にいいってわけでもない」程度のことなんだろうと思う。これが「まあ良好」とどう違うんだと言われたら、ものすごく微妙だ。

はっきり言って、判断基準が楽観的か悲観的か、あるいは単に、米国好きか嫌いかという程度の違いなんじゃなかろうか。だって、繰り返すけど、的確な判断を下す材料なんて持ってないんだもの。素人なんだし。

今回の結果にしても「良好だと思わない」という中身は、「あまり良好だと思わない」(≒ 「非常にいいってわけでもない」)が圧倒的多数なんだろうと思われる。それが新聞の見出しになると、"「日米関係良くない」 が 2割超す" になってしまうというのは、ちょっと恐い。ニュースとはそういうものと知りながらも。

この調査では、いろいろな国に対する「親近感」と、その国との「関係」の 2点を質問しているようだ。個人的には、「素人に聞くんだったら、親近感について聞く程度に止めて欲しいよなあ」と思ってしまう。

「内閣府ともあろうものが、外交関係が良好かどうかなんてことを素人に聞いてくるより、専門家の視点できちんと判断しろよ」と言いたくもなる。

好意的に判断すれば、時系列変化に沿った世論推移というのが重要なポイントなんだろう(きっとそうなんだろう)。そして「親近感」 というイメージ的なものより、「関係」という具体的な言葉で質問する方が、直近の要素がよりタイムリーに反映されやすいんだろう。それは十分に理解できる。

そして、政府としては「私どもが思ってるわけじゃ決してないんですけど、国民全体としてのおたくの国に対する意識って、近頃、こんなんですよ」と、外国に対する微妙なメッセージを送ることができる。多分、これも(日本政府の期待としては)大きいんだろう。

それでも、「日米関係は良好か?」なんて正面切って聞かれたら、私なら悩む。ましてや「現在の日本とアフリカ諸国との関係は全体として良好だと思うか」(昨年度の調査報告をみると、こうした質問もあるようなのだ)なんて聞かれても、笑っちゃうしかないよなあ。

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2007年12月 1日

「偽装表示」 を巡る冒険

オッチャン (これは普通名詞でなく、固有名詞の 「オッチャン」)が、メルマガで「コンプライアンス」について書いている(参照)。

コンプライアンスは、近頃「法令遵守」と訳されていて、企業がこれをおろそかにすると、大変なペナルティを課せられるというのは、一連の食品不祥事の例をみればわかる。

それにしても、食品関連の偽装表示はめちゃくちゃ多い。シューマイの崎陽軒の「原材料表示ミス」なんて、「使用量の多い順に原材料を表示するよう定めた JAS 法の規定を知らなかったことによる誤り」なんて言っているが、そんなこと食品メーカーが知らないわけなかろう。

素人の私だってその程度のことは知っているからこそ、乾麺のそばを買うときは、原材料表示で「そば粉、小麦粉」の順に書いてある製品を買うのである。これが逆だと、単に「そば粉がちょっと混じった色付きうどん」になっちゃうからだ。まあ、表示そのものが信じられるかどうかは別として。

崎陽軒は、タマネギと干しホタテ貝柱、小麦粉とグリーンピースの表示順を逆にしていたらしいが、そりゃ、その方が「見た目がいい」から、わざわざそうしていたに決まっている。一昨日のエントリーで紹介した「ラクーン」の表示で 「タヌキ隠し」するのと同様のメンタリティである。

しかしこうした 「姑息な偽装表示」(「姑息」の原義を十分知った上で、敢えて使う: 参照)と比べて、一連の消費期限(あるいは賞味期限)の偽装に関しては、私はちょっと割り切れないものを感じてしまうのだ。

あれらは、消費期限(あるいは賞味期限)の過ぎた食品を、「もったいないから」と、再利用しているのである。美しきとは言わないが、リサイクルなのである。昔ならそんなことは当たり前にしていた。

この背景にあるのは、「あえて早めの消費期限(あるいは賞味期限)を表示しがち」という業界の体質である。もし何かあって、消費者から 「味が変わっちゃってる」なんてクレームが来たらうっとうしいから、安全のため「大事をとって」早めの期限を表示しちゃうのである。

アパレル・メーカーが、水洗いしても大丈夫な製品に、敢えて「ドライクリーニング」という表示をするのと同じである。それで、ドライ表示でも水洗いできちゃうという 「エマール」 なんて洗剤が登場するのである。表示なんて、大体において「建前」が 90%だと思えばいいので、実は別にエマールでなくても洗えちゃったりすることもある。

で、食品メーカーは当事者だけにそうした事情がわかってるから、「どうせまだまだ安全なんだから、捨てるのはもったいない」気がして、ついついリサイクルしてしまう。つまり「安全のために大事をとった表示」が逆に自縄自縛要素となって、「危険でややこしいこと」に手を染めてしまうのだ。ああ、ばかばかしいなあ。

それだったら「大事をとり過ぎない表示」というのをすればいいと思いがちだが、それはそれでなかなか匙加減が難しい。世の中の仕組みって、本当にうっとうしいのである。

でも、偽装表示された「白い恋人」や「赤福」を食っておなかを壊したなんてことは聞いたことがないから、これまでの表示は、多分、必要以上に「大事とりすぎ」だったんだと思うがなあ。

それからオッチャンの指摘しているように、人というのは、他人の罪はとがめても、自分のいろいろなイリーガル行為(スピード違反とかね)は棚に上げてしまいがちである。反省。

ただ、道路の制限速度、あれこそ「不必要に大事とりすぎ」である。だって、10キロぐらいは時速オーバーしないと、後ろから煽られて、かえって危ないのが実情なんだもの。

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