« お父さんの中にいるサンタクロース | トップページ | 「ロボット・ギター」 という発想 »

2007年12月 4日

「謝罪会見」 を巡る冒険

不眠症カフェ」 の alex さんが、ここ一連の「謝罪会見」オンパレードに、「そんなに 『謝罪』 させたいのか? 日本人は」と、疑問を呈しておられる。

確かに、形ばかりの「謝罪」で頭を下げるところを見せられても、彼らの「誠実さ」を見せられているような気はしないしね。

向こうだって嫌々ながら仕方なく詫びているのが見え見えなのに、日本人はそれを見ないことには気が済まないのである。昔から「そんなことをしたら、世間様に顔向けできない」と言われたものだが、何かあると、その「世間様」の代表みたいな顔をしたがる人が、その辺にいくらでもいるのである。

以前私は、西欧人と日本人の「謝るツボの違い」について書いている。西欧人の多くは、道を歩いていてちょっと肩がぶつかっただけでとても丁寧に詫びるが、大きな法的問題に関したこととなると、軽はずみな謝罪は頑としてしない。

逆に日本人は、混雑した電車内でかなりなぶつかり方をしても「済みません」の一言もない場合が多いが、何か重大なことをしでかしてしまったら、とにかく大げさに平身低頭しておきさえすれば、少しは情状酌量してもらえると思っている。

それが高じてか、日本人の多くは他人が何か悪事をしでかしたときには、そいつに平身低頭して謝られないと、気が済まなくなっている。その悪事がテレビに乗って公共に流されるようなものだったりしたら、別に直接被害をこうむったわけじゃなくても、日本中が、とりあえず謝られる側に身を置きたがるのである。

私なんか、朝青龍や亀田大毅に謝られたところで嬉しくも何ともないし、そもそも謝られるような悪さを、彼らにされた覚えもない。だから「こいつら、謝り方下手だなあ」とは思っても、だからといって腹が立つということもない。

多くの日本人が何かというと「謝罪」を求めるのは、結局のところ、自分は謝られる権利があると思っているからである。なんでそんな権利があるかというと、なんとなく自分も関係者の一人のような気になっているからである。

日本人は何かに成功すると、「おかげさまで」という。自分一人の力で成功したんだなんて顔をしていたら、そいつは総スカンを食う。殊勝な顔をして「これもひとえに、皆様のおかげです」と言わなければならない。それがあって、初めて周囲に「よかったね」と祝福してもらえるというお約束になっている。

成功するのが「皆様のおかげ」なら、反対にヤバイことに手を染めてしまったら、それは「皆様」を裏切ってしまったことになる。だから謝らなければならない。範囲がちっとも明確でない「世間の皆様」という存在に対して。

「お前が成功するとしたら、それは俺たちの好意や応援のおかげなんだし、それを裏切ったら、とりあえずは詫びを入れに来い」ってなもんである。明確にそう意識していなくても、無意識でそう思っているから、何だか知らないけれど、執拗に「謝罪」を迫るのである。

西欧のキリスト教文化圏では、成功を収めると、まず最初に神に感謝する。その次に、具体的に協力してくれた人たちの名前を挙げて感謝する。不特定多数の「皆様のおかげ」なんてことは、あまり言わない。

とにかく、まずは "Thank God!" である。英和辞書的には、この言葉の訳語は単に「ありがたい!」である。普通の文脈でこれを「神様、ありがとう」なんて訳したら、ちょっと奇異な感じがするだろう。それでも文字通りに受け取れば、まず感謝するのは、神に対してであることには違いない。

そしてその裏返しとして、罪を犯してしまったら、神に「懺悔」する。感謝するのも懺悔するのも、とりあえずは神に対してである。

このことに気付くと、そうか、日本では「世間様」が「神様」なんだとわかる。キリスト教文化圏における「神」の役割を、「世間様」が果たしているのだ。だから、西欧での(神に対する)「罪」は、日本では(世間に対する)「恥」に相当するのである。だから、神に懺悔する代わりに、「謝罪会見」をしてまで世間に詫びなければならない。

これって、謝罪会見で平身低頭するという「恥ずかしい姿」を自ら進んで見せることによって、その前に犯したチョンボによる「罪 = 恥」をチャラにしてもらうという、とてもプリミティブかつ民俗的儀礼行為なんじゃないかなあ。

だからその程度のフォークロア的な問題を妙に近代的に解釈して、「謝罪になってない」だの「誠意が見えない」だのと立腹してみせるのは、どうも違うような気がするのである。

「おかげさま」は、とても美しい言葉である。しかしそのベクトルが裏返ると、ちょっとへんてこなややこしいことになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« お父さんの中にいるサンタクロース | トップページ | 「ロボット・ギター」 という発想 »

ニュース」カテゴリの記事

比較文化・フォークロア」カテゴリの記事

コメント

ご紹介ありがとうございます。


最後にこう書きました。

       ~~~~~~~~

欧米社会は、キリスト教が根底にある。

【反省】【謝罪】【懺悔】などは、神に対してのものですね。

日本には神が不在だから、【世間】が代行する。
【世間】=【恥の文化】と言ってもいい。

だから、教会での【懺悔(懺悔)】の代わりに
「世間」対しての【謝罪会見】となる。

       ~~~~~~~~

お互い、同じような事を書いていますね。(笑)

投稿: alex99 | 2007年12月 4日 00:44

 オッチャンとしては、『いつでも人より優位でいたい』意識を持つ人が顕著に増えたことも、大きな要因として考えますよ。

 ちょっと乱暴な言い方ですが、神や仏の存在を考えない(無視した?麻痺した?)輩の横行で、相手を凌駕する方法ばかりを考えている『日本人』の多いこと!

 いまどき、『お蔭様で…』なんて、慣用句に成り下がっています。あと、『ありがとうございます』も。(あぁ、さびしいぃ…)

 オッチャンは心を込めて「ありがとう、お蔭様で」を使ってますとも!(心を込めても慣用句かぁ…)

投稿: オッチャン | 2007年12月 4日 12:45

alex さん:

私もそちらにお邪魔して、コメントのレスを拝見して、「ありゃりゃ!」 と思いました。
(この場合の 「神様」 = 「世間様」 は、結構ユニークな視点と思ったのに ^^;)

どうも、alex さんとは発想の基本に似たところがあるようですね。

投稿: tak | 2007年12月 4日 14:13

オッチャン:

>オッチャンとしては、『いつでも人より優位でいたい』意識を持つ人が顕著に増えたことも、大きな要因として考えますよ。

本当に自信があれば、下座働きでも誇りを持ってできるんですけどね。自信がないと、表面的な立場だけでも有利なところにいて、保身したいのかも。

>オッチャンは心を込めて「ありがとう、お蔭様で」を使ってますとも!(心を込めても慣用句かぁ…)

慣用句であろうがなかろうが、心がこもってれば OK ですよ。立派です!

投稿: tak | 2007年12月 4日 14:19

なるほど!
ちょっと納得してしまいました。
日本では昔から『悪いことしてもお天道様は見ているぞ』と言いますが、この場合のお天道様(神)=世間様なのか・・・。

ちょっと古いけど
『お客様は神様です!』
ってーのも、同じ部類かな?

投稿: いどさん | 2007年12月 4日 17:41

いどさん:

>日本では昔から『悪いことしてもお天道様は見ているぞ』と言いますが、この場合のお天道様(神)=世間様なのか・・・。

この言い方は、私なんか、ちょっと一神教的なニュアンスを感じてしまうんですけどね。
神道の中にある、根元神としての天之御中主神につながる、天照大神の存在みたいな。

多神教といわれる神道ですが、すべて根元神に収束するという意味では、一神教的な側面もなくはないと思ってます。

キリスト教だって、神とキリストと精霊は三位一体と言ってるんだから、神道だって、「八百万の神は一体」 と、乱暴かもしれないけど、言っちゃってもいいじゃないか、なんて。

>ちょっと古いけど
>『お客様は神様です!』
>ってーのも、同じ部類かな?

それは言えるかも。

でも、本当は 「お客様は神様」 じゃなくて、「神様がお客様」 なんですということは、以前に書いていますけどね。

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2006/11/__2170.html

投稿: tak | 2007年12月 4日 22:15

よく謝罪会見にみられる“ご心配をおかけして申し訳有りませんでした”という言葉を恥ずかしげもなく発する心理が分かりませんね。
“あたしゃあ、あんたの(会社の)ことなんかこれっぽっちも心配なんかしてませんよ、そんなに自惚れないでよ”とテレビを見ながら突っ込みを入れてしまいます。

あれって暗に、俺は(うちの会社は)世間に影響力のある存在なんだとでも言いたいのでしょうか。

投稿: 偽浜っ子 | 2007年12月 8日 21:56

偽浜っ子 さん:

>“あたしゃあ、あんたの(会社の)ことなんかこれっぽっちも心配なんかしてませんよ、そんなに自惚れないでよ”とテレビを見ながら突っ込みを入れてしまいます。

わはは (^o^)
そりゃそうだ。

投稿: tak | 2007年12月 9日 05:26

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「謝罪会見」 を巡る冒険:

« お父さんの中にいるサンタクロース | トップページ | 「ロボット・ギター」 という発想 »