「本音と建前」 と日本社会
私はこの欄で「本音と建前」について何度か書いている (参照)。そして、本音と建前の区別があるのは日本だけだなんていうのは、大変な誤解であると、何度も強調している。
日本人がこうした誤解を捨てきれないのは、日本人自身の本音と建前の取り扱いが、ちょっと独特だからだろうと思う。
日本人は、「それはあくまで『建前』 ですから ……」なんて言い方をよくする。しょうがなく「建前」で一応書いてあるだけで、本当は違う基準と論理で動いてますから、あんまり気にしなくていいですよってな感じだ。「建前」は単なる飾り物で、本当に大切なのは「本音」の方である。
ところが、西欧社会ではちょっと違う。「建前」はあくまでもきちんと守るべきものであって、裏に回ると、そりゃあ「本音」の方がちょくちょく顔を出してしまうこともあるが、それはいざとなったら、「建前」の最たるものである法律で裁かれるという合意がある。
こんな風に、法律は日常生活で重要な役割を果たすから、ちゃんと整備されなければならない。都合が悪くなったらちょくちょく修正される。
日本では「本音」が顔を出してちょっとやらかしてしまったぐらいのことで、いちいち民事訴訟を起こしていたら、裁判官が何万人いても足りない。それに、日本では法律というのもかなり日本的建前論で運用されることを前提としているようなところがあるから、結局「示談」をすすめられてチャラになることが多い。
法律はおろか、憲法だって「あくまでも建前」だから、第九条も運用次第である。実情に合わなくなったから変えてしまおうなんてことには、なかなかならない。
食品の「偽装表示」も、この「本音と建前」のあいまいな手法から、必然的に出てきたもののように思う。「杓子定規でやってもしょうがないですから、ま、そこはそれ、運用のしかたで適当に……」というのが、これまでの日本的ビジネスである。
建前をきちんと守れるものなら、それが一番楽と言えば楽なのである。しかし、なかなかそうはいかないところがある。前にもちょっと触れた(参照)が、ビジネスのサプライチェーンというのは、生態系のようなところがある。一部分を一見都合良さそうに変えると、他の部分でバランスが崩れてガタガタになってしまうことがある。
日本的「あいまい運用」のビジネス手法は、コンプライアンス(法令遵守)とはちょっと相容れないところがあるのだが、これまでは、それによって絶妙にリスクを分担してきたところがある。本音と建前というか、自然の摂理というか、まあ、そのあたりは日本独特といえるかもしれない。
コンプライアンスという錦の御旗の元に、あいまい性を排除し、一度決めた建前はきちんと守れと言い、本音なんてことを持ち出されたら「それは契約違反」と突っぱねることは、1社内で完結するのであれば、案外容易なことである。
しかし、サプライチェーンは生態系である。その中のある企業が、得意先企業のコンプライアンスを全面的に認め、建前重視のビジネスを開始したら、それによって急に増大したリスクというツケを、今度は原材料サプライヤーに押しつけなければならない。
そんなことを繰り返していたら、サプライチェーン全体がジリ貧になるので、実際は「ま、そこはそれ、運用で解決しましょう」ってなことにした方がいいと思われてきた。あまり角を立てずに済むし。
日本では「建前」を軽視することに関する罪悪感が小さくて、「本音」の方が大手を振って歩きすぎるために、こんな風に、社会全体の「あいまい性」が強くなるという傾向が、確かにある。
何とかしなけりゃいけないが、あんまり急激にやりすぎると生態系が破壊される。なかなか大変な問題なのである。
| 固定リンク
「比較文化・フォークロア」カテゴリの記事
- 「三隣亡(さんりんぼう)」を巡る冒険(2025.10.20)
- 銭湯の混浴がフツーだった江戸の庶民感覚の不思議(2025.06.08)
- どうしてそれほどまでに夫婦同姓にこだわるのか(2025.05.13)
- 鯉のぼりは一匹から群れに変化しているらしい(2025.05.10)
- 「くわばらくわばら」を巡る冒険(2025.04.19)







コメント
う~~ん。
一連の食品偽造の構造的な問題点に関連した「建前と本音」の視点から分析した初めての意見・ブログですね。
また、日本人は、欧州文化をわかっていない、なんていうと傲慢ですが、異民族同士の抗争のなかで生きてきた彼等のローマ法以来の「法律」というものの存在と、キリスト教という「宗教」が彼等の基盤ですよね。
そこから読み解いて行かないと、世界がわからない。
それにやはり、日本が、いろんな意味で、世界からは「少数派」であるという意識・理解をしっかり持たないと、これからも対抗できませんね。
投稿: alex99 | 2007年12月24日 14:14
alex さん:
「一連の食品偽造の構造的な問題点」 そのものにフォーカスして書いたわけじゃないですが、関連で言えそうに思ったので、ちょこっと触れました。
日本の 「ムラ社会」 では、みんなで同じ気候条件の下で米を作ってきて、全体と個人の利害が相反するということは滅多になかったので、法律でどうこうする必要がなかったんでしょうね。
言葉で規定しなくても、みんな大体わかってたことが 「本音」 なんでしょうね。お上からの押しつけが 「建前」 で、そんなのは形だけ拝し奉っておけばよかったのかも。
ところが、隣村との水争いは案外しょっちゅうあったようで、雨の少ない地域 (瀬戸内) では、結構、本音と建前を使い分けるネゴシエーション術が発達したのかも。
自然の豊かな所は、相変わらずのほほんとしてますけど。
投稿: tak | 2007年12月24日 15:11