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2007年12月22日

ぼんやりのすすめ

昨日の "UFO の 「確認」 を巡る冒険" というエントリーに、alex さんから 「言語が思考を規定する」 とは、直接には言ってないけど、そういう意味合いのコメントをいただいた。

それは私も常々思うことなので、同感のレスも付けたのだが、改めて独立エントリーとして論じてみることにする。

alex さんのコメントは、次のようなものである。

言葉というものは、国民性そのものですから、あいまいな言語を持つ日本人は、思考があいまいな国民である・・・と言ってもいいと思います。

まあ、日本語があいまいな言語で、それに規定されて日本人の思考もあいまいになりがちというのは、否定しないけれど、その「あいまいさ」故に、日本独特の「美」というものもあるのだということは、私は忘れないようにしたいと思う。

それに、あまり分析的でないが故に、論理とはまた別の、包括的な「直観」ともいうべき方法論が働きやすいということもある。だから私は「日本語のあいまい性」については、いい面もあるし、悪い面もあると、ニュートラルな立場である。

そして、いい面は積極的に活用したいとも思っている。そう思っていなければ、「和歌ログ」なんていう別サイトを作って、毎日毎日和歌を詠むなんて酔狂なことはしない。

それはそれとして、日本語のあいまい性については、確かに困った面もあるのである。論理的であるべき場面で、全然論理的じゃないということが多すぎる。昨日触れた「未確認飛行物体(UFO) の存在を確認していない」という政府答弁なんて、その最たるものだ。結局、意味のあることは何も言っていない。

言葉によって思考が規定されるのは、私自身がよく感じることである。私は日本語の共通語と庄内弁のバイリンガルである。この 2つは、スペイン語とイタリア語、ドイツ語とオランダ語なんかよりずっとかけ離れているのだから、「バイリンガル」という価値があると思う。

私は、共通語では思考可能な論理的な事項が、庄内弁では考えられないのだ。そして庄内弁で思考していると、我ながら「俺って、何ていいやつなんだ!」と思えてしまう。庄内弁では、邪念を抱きにくいのである。

考えてみれば、邪念のほとんどは自分だけに都合のいい「屁理屈」の産物だから、理屈に弱い庄内弁では取り扱いにくいのである。庄内弁に限らず、それは多くの方言で似たようなものなんじゃないかと思うのだ。

古来からの日本語だって、それは似たようなものだったと思うのだが、幸か不幸か、明治維新の文明開化以後、「共通語」(初めは「標準語」なんて言われてたのかな)というのは、西欧的論理への対応をかなりの水準で図ってきたのである。

元々の日本語や漢語では表現できなかった概念を、外国語の翻訳語(多くは新語)として日本語化してきた。おかげで、日本人の思考もかなり論理的になってきたのである。

しかし、所詮は明治以後の付け焼き刃だ。それらは日本人の遺伝子にしっくり馴染むものではないようなのである。その証拠に、一見理屈の通っていそうな日本語でも、英語に翻訳してみるとまったくのナンセンスで、意味のあることは何も言ってないというのが、いくらでもある。

日本人は依然として論理の取り扱いは苦手なのだ。外交に弱いのも当然である。そしてさらに悪いことに、近頃の西欧的影響にどっぷりつかった社会構造が、ネイティブな日本語の手に負えないものになりつつあるということがある。

だから我々は、「カタカナ言葉の氾濫は見苦しい」との批判を重々承知しながらも、敢えてカタカナ言葉を多用してしまうのである。だって、カタカナ言葉でないと、どんぴしゃりで表現できないことが多すぎるのだもの。

そんなわけで、現代社会への適応には、かなり意識的な言語訓練が必要になっているということが言えるのだと思う。それがないと、論理で適応するのが困難になり、どう対応していいかわからなくなる。つまりしょっちゅうパニくることになる。

そんなこんなで、近頃の若者は容易に「切れる」のだ。ちょっと複雑な状況にどう対応していいかを、言語を介して自覚的に把握できないから、切れてみせるしか自己防衛の手段がないのである。

ものごとをあんまり突き詰めて考える必要のなかったのどかな時代には、「切れる」必要なんてなかっただろうと思うのだ。「切れる」なんて手続きなしでも、経済的な不幸、物質的な不足故に、必然的かつ合理的(?)に犯罪や暴力行為に走れた。因果関係が単純である。しかし、「切れる」という現象には、因果関係にちょっとしたミッシングリンクがある。

今は、経済的、物質的には案外恵まれていたとしても、結構切れてしまう。そしてその裏返しなのだけれど、「考えにふけりがちな子」というのは、なかなか切れないよね。切れる必要がないから。

よく考える子というのは、逆に一見「ぼんやり」にすら見える。で、このとりとめもない内容のエントリーのタイトルを、「ぼんやりのすすめ」 ということにしたいと思う。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

恐縮ながら、またこのテーマを拝借して、ブログを書いてみたいと思います。

YRSK(これは私が商社時代に使っていた社内用語(電報の語数をミニマムにするため)で、「よろしく」の短縮形です。
あんまり短縮効果がありませんね。(笑)

投稿: alex99 | 2007年12月22日 01:24

alex さん:

YRSK は、初めて知りました。
「夜露死苦」 よりはずっと速く書けますね。

そちらのエントリー拝見しました。
(ぜひトラックバックしといてください)

使う言葉によって人格が変わるというのは、実感です。

英語を使うと、話の進め方が手っ取り早くなります。
余計な感情論に過剰な配慮をしなくても、英語の中で既に解決されてるからだと思います。

ただし、色恋沙汰は、日本語では言わなくても済むことをいちいち言語化する必要があるようで、面倒そうですが。

投稿: tak | 2007年12月22日 08:08

I love you で終わらずに、because なになになどと、理屈っぽくなったりして。(笑)

トラックバックはやったことがないのですが、がんばってやってみます。

投稿: alex99 | 2007年12月22日 13:57

すみません。
TB、うまく行ってないようですね。
後で、もう一度試してみます。

_| ̄|○

投稿: alex99 | 2007年12月22日 14:51

こんばんは。
このごろいろんな方のコメントも面白くて。
ぼくは「切れる」について反応しましたが、これには統計的な根拠もあるのですが、実感として、かれこれ27年ばかり、つまり人生の半分(歳がばれますが)を子ども相手に過ごしてきたので、昔に比べると今の子どもは年々羊のように大人しくなってきたと感じているのです。
マスコミの「今の若者」に関する報道も「?」。
悪ガキ相手に怒鳴ることもなくなったし、張り合いがないくらいいうことをきく。
「いい子ちゃん」が多くなった。
相変わらず「切れる青少年」はいるのでしょうが、昔よりずいぶん少なくなったなあというのが、ぼくの印象なんですよ。
日本語の特性から「切れる」状態を考察するのは面白いと思います。
ぼくは、逆に、自分の心理(精神状態)を無条件で理屈なしに包括してしまう日本語に切れる原因があるのではないかと考えています。
たぶん、外国人のほうがたぶんに切れやすいような気もするので、言語によって切れる「心理的なシステム」が異なるという可能性があるのじゃないかとも推測しています。

投稿: osa | 2007年12月22日 23:04

alex さん:

いえ、ウチのトラックバックは、スパムが多すぎるので、承認制を取ってますので、いきなりは表示されないんです。

今しがた表示されるようにしましたので、よろしく。

投稿: tak | 2007年12月23日 18:34

osa さん:

>昔に比べると今の子どもは年々羊のように大人しくなってきたと感じているのです。

確かに、直接的に心開きませんね。

その分、「ミッシングリンク」 経由 (変な表現ですが) のわけのわからん反応というのが、たまにあると、目立つのかもしれません。

>たぶん、外国人のほうがたぶんに切れやすいような気もするので、

外国人の場合は、「単純反応」 が多いみたいな気がするんですよね。

投稿: tak | 2007年12月23日 18:38

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