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2008年1月に作成された投稿

2008年1月31日

「波動測定器」を巡る冒険

何しろ伝聞(あるいは、伝聞の伝聞? その辺、不明瞭)なので、真偽のほどは明らかでないのだが、世の中には「波動測定器」というものがあるらしい。

で、もちろんそれは、かなり「トンデモ」っぽいのだが、それを巡る現象というのは、なかなか興味深いものがある。

ああ、私は「水伝」を巡る「科学 vs 疑似科学」のマターなんて、元々それほど興味がなくて、深入りするつもりもなかったのだが、ちょっと覗いてみたらその周辺事情が存外面白いので、今月、これで 4本もそれ関係の記事を書くことになってしまった。

だが、私がブログで関わっているのは、疑似科学の「周辺」というつもりなので、そりゃ、疑似科学批判の方々みたいに、先鋭的に切って捨てるみたいな書き方はしない。それで、こんな 批判も受けてしまうのである。

まあ、確かにこの件に関する私のエントリーのトーンが無責任に見えても、そりゃしょうがないのだけれど、別に私は「科学」にも「疑似科学」にも、全然「当事者」としてなんかタッチしてないのだから、どちらにも義理立てする必要がないのである。

件のブログは、 「結局のところ、ニセ科学を肯定する側も批判する側も、根底の部分では科学に基本的な信頼を置いている」ということを前提としているようだ。「そうしないと、ふつうの生活が成り立たないから」だそうだ。

ただ、それってちょっと我田引水っぽい。こう言っちゃなんだが、私はそれほど「科学に信頼をおいている」というわけじゃない。(いや、それじゃ語弊があるから、「科学以上に信頼をおいているものだっていくらでもある」と言い換えさせてもらおう)

それでも科学的法則は、別に私が信頼をおこうがおくまいが、信頼のおきかたが中途半端だろうが、絶大な信頼をおいている人と区別なく、いつもは淡々と働いてくれているので、ふつうの生活はできているのだけれどね。

ただ正直に言ってしまうと、私が出張先で必ずと言っていいほど(天気予報が何を言っていようと)天気に恵まれるのは、一重に自分が「晴れ男」だからなどと、かなり非科学的なことを相当本気で信じている。

だって、これほどの確率で天気に恵まれたり、一度なんか、大型台風さえ予想進路を大幅に外れて避けて通ってくれたり(参照)したのは、「自分が晴れ男だから」と説明するのが最も端的にわかりやすいじゃないか。

だから、科学に関する「当事者意識のなさ」を「不誠実」呼ばわりされても、ちょっとなあというところなのだ。もしかしたら、私の立場は見方によっては水伝信奉者の方により近く見えたりなんかするかもしれないので、その辺り、どうぞよろしく。

何しろ私は、5年ちょっと前に、少なからぬキリスト教聖職者が聖母マリアの処女懐胎に懐疑的であるというニュースを聞いて、本気で驚いてしまったという人間である。「よくまあ、自分自身が信じてもいない教義を、いけしゃあしゃあと説くことができるものだ」と、難じているのである。(参照 その下に表示される記事にも注目!)

おっと、横道に逸れてしまった。「波動測定器」の話をしようとしていたのだった。

これは大分前に聞いた話なので、冒頭でお断りしたように、伝聞だか、そのまた伝聞だか、その辺りは私もはっきりしないため、話半分で流してくれていいのだけれど、波動測定器というものを入手した方がおられるのだそうだ。まったく物好きなことである。

で、その波動測定器で、あるお寺さんの御守りを測定したら、ものすごく針が振れて、その近くにある別のお寺の御守りではさっぱりだったんだそうだ。針の振れなかった方の寺の坊主は、あまり評判がよろしくない生臭坊主だったという。

それから、その波動測定器の持ち主の信仰する宗派の最も重要とされるお経の経本を測定したら、「針が振り切れるほど波動が高かった」のだそうだ。それがどういう意味をもつのだか、私にはよく理解できないのだが、その測定器の持ち主はとても気分よくしたらしい。

で、それを聞いた私は、これこそ「都市伝説」というか、現代の民間伝承というに値するかもしれないと、とても興味深く思ったのだった。測定結果とやらが、その測定器の持ち主の主観丸出しっぽいのが、かなり気にかかったのだけれど、そうした怪しさも含めてますます面白い。

私は、民間伝承はフォークロア資産としてしっかりと保存しておきたいと願うものである。しかも、「生きたフォークロア資産」 として伝えるためには、本当にそれを信じる人がいてくれないと困る。そうでないと、「死んだ資産」 になってしまう。

それを信じる人が多少いたところで、迷信だらけの世の中になるなんて心配はいらない。人間はそれほどお馬鹿じゃないから、科学とファンタジーはきちんと語り分けできるのである。いわば使う筋肉が違うのだ(たまに同じ筋肉を使う人がいるので、困るのだけど)。筋肉はバランス良く鍛えた方がいい。

というわけで、その測定器が 5000~6000円ぐらいで買えるのなら、私もぜひ 1台欲しいと思ったのだが、伝え聞くところによると、200万円近くするとかいうので、「それじゃ、売れんわ!」と、ちょっとむかついた。「もっと量産努力して、コスト下げろよ!」と。

まあ、実際には「あまりにも売れない」から、需給を無視した高い値段を設定せざるを得ないということもあるのだろう。つまり、まともなマーケットが形成されていないということだ。惜しいことである。

できれば、一家に 1台ぐらいまで普及させ、同じものをみんなで測定して、その結果の違いを自慢し合える世の中になったら、波動のコンセプトもしっかりと定着(風化?)するのだろうに。

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2008年1月30日

パンからの伝言?

昨日のエントリーへのオッチャンからのコメントにレスを付けていて、私の中にも 「水伝信奉メンタリティ」 があることに気付いた。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

こんな風に、食べ物に関する作業をする時、とくにパン作りとか味噌の仕込みとか、発酵作用に依存したものを作る際には、いい想念を込めるのが望ましいというのは、私のこの方面の師匠である食工房の Mikio さんからの口伝である。

断っておくが、「いい想念を込めれば、必ずおいしくできる」と教わったわけじゃない。だが確かに少なくとも「こんちくしょう、手間かけさせやがって!」なんて言いながらやるよりは、ずっといい具合に仕上がる気がする。単に「気分の問題」と片付けるにしても、まあ、気分のいい方が、ムシャクシャしてるよりはずっといいのである。

発酵食品というのは微生物の働きに依存するので、無機質である「水」を問題にするよりは、ちょっと信憑性があるかもしれない。ただ作り手の想念そのものが直接微生物に作用するのかどうかとなると、そこが議論の分かれ目だ。

測定可能で、しかも再現性がなければならないという科学の立場からすれば、いい想念をもつことによって、具体的にいいレシピにつながり、作業もうまくいって、その結果、微生物の作用に良好な環境が作られやすいのだと考えるのが自然だろう。それが常識というものだ。

ただ、日常生活の中でそれをじっくりと科学的に検証するというのは、面倒だし金もかかるので、「いい想念を込める」という、まあ「心がけ」のレベルでさっと語ってしまう方が、手っ取り早いし、安上がりで、しかも実際に効果的なのである。

科学的には「心がけ」なんてものがどうであろうと、ほぼ同一の条件下でほぼ同一のプロセスを辿れば、ほぼ均一な結果が得られるという結論になるだろう。しかし実際のパン作りの場面では、同一条件なんてことはまずあり得ない。

気温や湿度はその度に違うし、酵母の状態だって常に理想的にピンピン元気というわけじゃない。だが、こちらは工業生産をしているわけじゃないのだから、その時々のデータを詳細に記録していくのも億劫だし、第一、詳細な測定ができる機器を買うのも馬鹿馬鹿しい。

というわけで、結局は「勘と経験」の勝負なのだ。そして「勘と経験」がうまく働くためには、経験則で言っちゃうけど、やっぱり「いい心がけ」でいる方がいい。ずっといい。そして「いい心がけ」の呼び水になるのは、やはり「ポジティブな言葉」である。

この辺のプロセスは、物理学や化学ほどの純粋な「科学」ってわけじゃないが、科学的手法でも十分に検証可能なことだと思う。

ただ、それを 「酵母にやさしくしてあげたから、酵母が喜んだ」みたいなレトリックで語ったとしても、あながち責められるようなことじゃないだろう。人間の日常会話がすべて自然科学の文脈で語られなければならないとしたら、そりゃあまりに窮屈すぎる。

というようなわけで、私は「水からの伝言」についても、科学としてはトンデモだとは思うが、「有害無益」とまで決めつけるのは、ちょっとためらわれるのである。少なくとも、社会生活を送るのに望ましい(あるいは、少なくとも余計な軋轢を軽減させる)「心がけ」の(文字通り)「呼び水」にはなることもあるだろうから。

「科学を道徳の根拠にしてはいけない」という批判もあるが、個人的にはそれは取って付けた理屈のように思われる。望ましい道徳の根拠が科学だったとして、何の不都合があるだろう。その逆では確かに困るが。

あるいは「道徳の根拠が『疑似科学』では困る」 と言えば、説得力が増す。だがそれもケース・バイ・ケースだ。結果的に当人にとって望ましく、周囲にも軋轢の少ない道徳が形成されたのであれば、その結果は尊重しつつ、放っといてあげようというのが、23日のエントリーで、私が述べたことである。

ちょっと視点を変えよう。世の中には拝み屋にかかったおかげで病気が治ったという人が、実際にいる。この場合、現実に病気が治ったというなら、医者のおかげだろうが拝み屋のおかげだろうが、どっちでも構わないじゃないかというのが、私の立場である。「その治り方は間違ってる」とは、私には到底言えない。

「病気治し」と称して法外な金額をふっかけるインチキ宗教を別にすれば、大抵の巷の拝み屋に払う金額なんて、せいぜい「ささやかな御奉納」程度のものだ。それでずっと昔からやってきているのである。べらぼうな金額を要求したら、医者との競合に負ける。

ただ、私自身は病気をこじらせたら拝み屋じゃなく、(仕方なく)医者にかかるし、人にもそう勧めるということは、念のため明らかにしておきたい。

さらに念のため繰り返し付け加えるけど、水伝を初めとする「疑似科学」に狂信的になるあまり、道徳の授業やボロイ商売に結びつけるのは、やはり困る。そして、科学と見紛うようなスタイルと仕掛けで語られるのも問題だ。その程度の「歯止め」は社会的に共有したいものだし、それは既にある程度されてるんじゃないかなあ。

ただ、たとえ正統派の科学であっても、あまりにも極端な応用をされたら、それは「正しさという名の暴力」になりかねない。さじ加減を上手にすれば疑似科学だって役に立てられるし、それを間違ったら、正統科学でも大迷惑なことになる。

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2008年1月29日

水伝論争と自虐史観論争は似てる

そう言えば、1月 23日の「プラシーボとしての水伝」に、山辺響さんがとても納得しやすいコメントをつけてくれたのだった。

「あたかも科学であるような体裁を繕おうとするから問題になる」というのである。科学を無理矢理共犯者にしたてようとするから、科学が怒ってしまうというわけだ。

山辺響さんの、絶妙の喩えを以下に引用する。

要は、私が愚にもつかぬ主張をしていたところで放置されるだけだが、「takさんも同じように主張しているとおり」などとよけいなことを付け加えれば、takさんにご迷惑がかかるかも、という話ではないかと。

うぅむ、なるほど。

ただ、Wikipedia によると、水伝の発信源である江本勝氏自身は AERA のインタビューに答えて、水伝は "「科学」ではなく「ファンタジー」「ポエム」 " と認めているという。しかし、"いずれは証明されるとも述べており、事実ではないとは認めていない” ということなので、なかなか微妙なところだ。(参照

「科学でない」と言いながら、「いずれは証明される」などと、まだ科学の文脈で往生際の悪いことをおっしゃる。水伝信奉者に共通するこのあたりのいい加減な曖昧さが、純粋な血を引く科学君にとっては我慢のできないところであるようなのだ。

つまり、科学でもないのに科学のような体裁を取ろうとした、あるいは、現状の科学では理解不可能だろうが、科学ももう少し進化すればわかるだろうという(エラソーな)言い方をしたために、科学君の方がむっときてしまったというわけだ。

そう考えると、科学君の気持ちもよくわかるというものである。科学君は、「俺はそんなこと、一言も言ってねぇだろ、コノヤロー!」とか、「いくら進化したって、そんなのはウチの家風じゃねぇ!」とか、立腹しているのである。

ただ、私は水伝信奉者の気持ちもよくわかるのである。「確かに、科学じゃない。科学かどうかなんて、そんなのも興味がないし、どうでもいい。ただ、自分の信じてる現象を語るために、科学っぽいレトリックを借用しただけだ」というのが、彼らの心情だろう。

純血科学君には悪いけど、水伝信奉者は科学(みたいなもの)の言葉を勝手にメタファーとして使っているだけなのである。科学用語に著作権なんてないんだから、いいだろうよと。

しかし科学とメタファーは本来馴染みにくいものだから、科学君としては「おいおい、いい加減にしろよ」と言いたくなってしまうのも無理からぬところである。「お前のイベントの後援名義に、俺の名前を勝手に使うんじゃないよ」と。

このあたり、幻影随想の黒影さんが、「科学というモノサシ」というエントリーで、うまい分析をされている。疑似科学を科学の立場から批判することは、「科学」という共通のモノサシを持っていない疑似科学信奉者にとって、次のような作用であるという。

・ よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・ そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・ さらには自分のモノサシ (価値判断基準) まで否定された

に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

なるほど、よく言えていると思う。要するに持っているモノサシが違っていて、そのモノサシのお墨付き度合いに、格段の差があるのだ。国家認定モノサシと、怪しげな新しいモノサシとの対決である。どっちが強いかは目に見えている。

疑似科学に対して科学の視点で真っ正面から批判することに、私はある種の「苛立ち」というか、徒労感を感じていた。ある意味、横綱が素人に本気で相撲を挑むようなものである。しかも、自分の土俵で。

そんなようなこともあって、件の 「プラシーボとしての水伝」というエントリーを書いた。黒影さんの指摘は、このエントリーで書ききれなかったものである。

黒影さんと私とは立脚点が違っているから、論の全体が共通するわけではないけれど、「モノサシの違い」ということについては、「わが意を得たり」という気がする。これが、この不毛な論争のキモである。

いわゆる「自虐史観」に対して「どうして自分の国をそんなに悪く言わなければならないんですか?」と、情緒的愛国者の視点から批判することにも、私は同じような苛立ちを感じてきた。それについては、"なるほど、そりゃ「自虐史観」じゃない" というエントリーで述べた。

「疑似科学信奉者」対「疑似科学批判者」の対決は、「(いわゆる)自虐史観」対『自由主義史観」の対決と同様に、初めからすれ違いばかりで、交わるところがない。

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2008年1月28日

「ナムル」を通じたリレーションシップ

先日の夕食で妻が、「あなたの好きなの作っといたわよ」 と言って、もやしとわかめのナムルをたっぷり出してくれた。しかし、私はナムルが好きだなどと態度表明した覚えはない。

それで誤解を解いておこうと思い、「ナムルって、別に好きじゃないよ」と、軽く言ったのだが、それがややこしいことになった。

いや、別に夫婦喧嘩をしたとかいうわけじゃない。我々は、そんな些細なことで喧嘩になるほどヤワな夫婦ではない。ことの次第はこんな風だったのである。

妻: 「あら、だって、あなた野菜好きじゃない」
私: 「野菜は好き、キムチも好き。だけど、野菜をナムルという調理法で食べるのは、別に好きってわけじゃないよ」
妻: 「でも、前に作った時も、喜んで食べてたじゃないの」

韓流ドラマには全く興味を示さないが、韓国風の料理はちょくちょく作る妻は、怪訝そうな顔つきで言う。そういえば以前、「ナムルって、作るの簡単で栄養もあるし、それに案外おいしいでしょ」と言われた時、ぱくぱく食べながら「ウン」なんて生返事しちゃったような気がする。

あの時は、「なんじゃ、こりゃ? 変なの」と思いつつも、食って食えないものじゃなかったので、まあ、フツーに食いながら、つい適当に誤解を招く返事をしちゃったのである。ああ、げに恐ろしきは生返事である。

私: 「そりゃ、せっかく作ってもらったんだから、喜んで食べるさ」
妻: 「無理しなくていいのよ。嫌いなら嫌いって言ってくれても」
私: 「無理なんかしてないよ。ただ、嫌いじゃないけど、決して『好き』ってわけでもないから、誤解だけは解いておきたいと思ってさ」

この辺りから、食べ物に関する、なんというか、人生観というほどのものでもないが、お互いの感じ方の違いが浮き彫りになってくる。

妻: 「嫌いではないの?」
私: 「嫌いな食べ物なんて、ひとつもないよ。それは知ってるでしょ」
妻: 「じゃ、『好きじゃない』なんて言わなくていいじゃない」
私: 「嫌いなものはないけど、好きなものはある。で、ナムルは、その『好きなもの』リストの中には入ってない。そういうこと」

妻: 「じゃ、ナムルは何なの?」
私: 「フツーの食べ物」

と、ここまで来て、自分でも初めて気付いた。私にとって「好きな食べ物」というのは、ある種特別な位置づけで、思い入れのあるものである。それだけに、その中にナムル程度の「フツーの食べ物」は加えたくないと、まあ、そういう(それだけの?)ことなのだ。

そして、そうした単に個人的な思い入れにすぎないことを、軽い気持ちで口にしてしまったために、妻は危うく気分を害しそうになってしまったというわけなのである。

「フツーの食べ物」という私の結論を聞いて、妻は最後にこうつぶやいた。

「ふぅーん、何だか、つまんないの」

というわけで、私は今でもまだ結論づけられないでいる。「ナムルは別に好きってわけじゃない」というのは、言わなくてもいい余計なことだったのか。それとも、一応誤解を解いておくために、言っておくべきことだったのか。

人間同士のリレーションシップというのは、なかなかむずかしいものである。とくに、妻との間の食べ物に関する関係は、本当にむずかしい。そういえば、過去にもこんなことを書いた。

夫婦間の理解不能な言葉のやりとり (H17.8.8)
話してみないとわからない (H17.8.10)

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2008年1月27日

ガソリン国会で何が悪い?

民主党がガソリンの暫定税率撤廃を求めている件で、もののわかったふうな顔をした人たちが、「国会を『ガソリン国会』に貶めてはならない」 などとおっしゃっている。

「ガソリン国会」でも、別にいいではないか。小泉政権の時が「郵政民営化国会」だったんだし、どこが違うというのだ。

暫定税率撤廃は単なるポピュリズムだとおっしゃる方も多い。彼らは、車の必要のない都市生活者なのだろう。大都市圏をちょっとはずれて、車がなければ人間の暮らしのできない地域に住んでいる人間にとっては、「ガソリン国会」大歓迎である。

暫定税率を撤廃したら道路建設ができなくなるというが、そんなことはない。他のことに関しては、国の税金の無駄遣いにかなり厳しいことを言う人が、ガソリン税率だけは妙にものわかりのいいことを言うのが、私にはわからない。

ガソリンの値段が高くなって自動車に乗る人間が減ったら、価値のない道路を造ることになる。儲かるのは土建屋だけである。ガソリンの値段を高く保つのはエコのためだが、一方で無闇に道路を建設して自然破壊をするというのでは、理屈がメチャクチャである。

道路工事関連の丼勘定加減をきっちりと吟味したら、暫定税率なんて廃止しても全然大丈夫だろうと、私は別に数字的根拠はないが、思い切って言ってしまう。職員宿舎とかレクリエーションの道具なんか買ってたのもばれちゃったし。

ゴキブリが 1匹見つかったら、100匹いると思った方がいい。道路建設族の利権のためにどんな無駄遣いが行われているか、調べたらどんどん出てくるだろう。

それに、暫定税率を維持したせいで景気が減速されて他の税収が減っちゃったら、何の意味もない。ガソリンの値段を下げて景気を刺激した方が、税収入が上がって、暫定税率廃止のかなりの部分は補われちゃったりして。

そもそもの話が、「暫定」と名の付くものを 30年近くも引っ張ってきて、なおかつまたまた雰囲気だけで延長しようなんていう根性が卑しいのである。

選挙の争点はわかりやすい (ような気がする) 一点に絞った方がいい。それは小泉政権の時の最大の教訓である。郵政民営化が、果たして国民生活のために役に立ったのかどうか、そんなことは誰にもわからない。わからない話で、小泉政権はあれだけ大勝したのである。

民主党は、ぶれずにガソリンでどんどん押していけば勝てる。それはごく単純な話である。あまり早くから妙な妥協的姿勢を見せたら、それだけで政権交代は遠のく。

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2008年1月26日

ジョーバ・ン線運動

近頃、ダイエットがうまくいっていて、1週間で 3kg 体重が減った。やっているのは、「ジョーバ」 ならぬ 「ジョーバ・ン線運動」 である。

1週間に 4日以上は乗る JR 東日本常磐線快速電車は、他の路線よりもかなり揺れが激しい気がする。この揺れを、せっかくだからフィットネスに利用しようと思い立ったのだ。

私がこの快速電車に乗るのは、取手駅から上野駅までの、約 42分間である。どちらも始発と終点だから、その気になれば、たいていは座席に座ることができる。とくに並行して走るつくばエクスプレスが開通してからは、座れる確率が格段に高くなった。

しかし、私は今週の月曜日に「よほどのことがない限り、常磐線では座席に座るまい」と、悲壮な決心をしたのである。あまり体を甘やかすと、体重が減らない。体重が減らないと、動くのがおっくうになる。動くのがおっくうになると、ますます運動をしなくなる。この悪循環を断ち切らなければならぬ。

というわけで、私は取手から上野までの往復を、ずっと立っていることにしたのである。しかも吊革にもポールにも、どこにもつかまらない。そしてなお、体のバランスを取りにくくするために、荷物は網棚に載せ、胸の辺りで腕組みをして、両腕の動きでバランスを取ることもできなくするのがミソだ。

そして、どんなに揺れても、できるだけ両足をステップさせない。つまり、一度立った位置から、足を動かさないのである。ということは、膝と腰の動きでバランスを取るしかなくなる。

これは、案外運動になる。吊革につかまらなくても、手に荷物を持っていると、その荷物を微妙に動かしてバランスを取っているものだと気付いた。さらに荷物を持っていなくても、電車が揺れるたびに、両腕は無意識に微妙な動きをしてバランスを取っている。

このバランスを取る働きに、腕組みをすることで封印を施してしまうのである。するとまあ、常磐線というのは、とてつもなく揺れるものだということに気付く。とくに上りより下りの線路の方が揺れる。時々は暴力的なほど揺れる。

常磐線電車の中で立って腕組みをしていると、こうした暴力的なまでの揺れに体が反応して、かなり必死にバランスを取らなければならない。それは音に聞く「ジョーバ運動」に近いのではないかと思われる。それで、「ジョーバ・ン線運動」と名付けたのである。

1週間で 3kg も体重が減るという効果には、我ながらびっくりである。単に脂肪が落ちただけではない。体全体の筋肉が増強された気がする。

とにかく、歩いていても体が軽い。駅の階段の 2段飛びなんか、楽々である。上り坂も加速しながら行ける。エレベーターなんか乗る気がしない。ちょっと前までは、常磐線の行き帰りは座席に座って居眠りでもしなければ体がもたないと思いこんでいたが、まったく逆だ。「ジョーバ・ン線運動」している方が、ずっと疲れないのである。

揺れの激しい電車は、福音である。通勤や通学のためだけの、非生産的な時間をフィットネスに利用すれば、他の貴重な時間を使って運動なんかしなくて済む。

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2008年1月25日

漢字の読みをめぐる冒険 2

昨日のエントリーに続いて、漢字の読みにこだわってみる。日本語って、日本にやって来る外国人に気の毒なほど難しいと思っていたが、日本人自身にも本当に難しい。

例えば、昨日ちょっと触れた「音読み」と「音読」というのがあって、これ、ちょっとした送り仮名の違いで、読みも意味も違ってくる。

「音読み」は、うーん、何と言ったらいいのかなあ、Wikipedia では、「字音による読み方 (中国に由来する漢字の読み方)」と説明されている (かえってわからなくなりそうだけど)。そして「音読」(おんどく)となると、「音読み」という意味もあるにはあるが、一般的には声に出して読むことだ。

そして「音読」の反対語は、その意味によって「黙読」と「訓読」の 2つあることになってしまう。「訓読」の方は、音読みしても意味が 2つあるなんてことはなく、その点では単純明快でありがたい

昨日のエントリーでは、「大勢に迎合して」なんていう言い回しをしたが、この「大勢」というのも、ちょっとややこしい。「たいせい」と読むと、"(1)物事のなりゆき。また、世の中のなりゆき。「―が決する」「―に従う」 (2)大きな権勢" ということで、「おおぜい」と読むと "たくさんの人。多人数" ということになる。(いずれも Goo辞書より)

私の昨日のエントリーの場合は、「たいせい」と読む方の、(1) の意味なので、よろしく。

「大事」と書いても、「だいじ」と「おおごと」ではニュアンスがかなり違う。どちらにもとられかねない文脈では、「大切」と使い分ける方が安全だ。妙に誤解されたら 「大事(おおごと)」だから。

これらは、「工場」と書いて「こうじょう」と読んだり「こうば」と読んだりするよりは、もうちょっと微妙に要注意の言葉である。

表記に気を使ったせいで、読み方まで変わった例もある。「人事」と書くと、今どきはたいてい「じんじ」になってしまうから、「ひとごと」と読ませたい場合はあえて「他人事」と書くようになり、ひいては「たにんごと」なんていう妙な日本語が、今では大手を振るようになったことは、以前に書いた。

「他人事」で「たにんごと」?

それでまた思い出してしまったが、「一段落」 と書いて 「ひとだんらく」 と読むのは、今ではかなり広まってしまった。昨日触れた「実は…間違えて音読していたコトバランキング」の中にも登場しているが、これも、私は前に書いた。

「ひと段落」をめぐる冒険

それから、ちょっと困るなあと思ってしまうのは、「汁」と書いて「つゆ」とも「しる」とも読ませてしまうことである。「味噌汁」の場合は 「みそしる」だが、「蕎麦汁」の場合は「そばつゆ」と読んでもらいたい。しかし、何となく勢いで「そばじる」なんて読まれそうなリスクをひしひしと感じるので、私は普段「そばつゆ」とかな書きしている。

固有名詞なんかになったら、もうどうしようもない。私の生まれた山形県にも、「寒河江(さがえ)」「左沢(あてらざわ)」「余目(あまるめ)」「遊佐(ゆざ)」「温海(あつみ)」なんていう難読地名がごろごろしている。極めつけとして 「土生田(とちゅうだ)」なんてのもある。

車で里帰りする時、同乗者に「今、どの辺りまで来てるの?」と聞かれて、「まだ、土生田(とちゅうだ)」 なんて答えたりすると、もろにトンチンカンである。

日系ブラジル人の知り合いがいる。30歳を過ぎて来日した彼は、ひらがなとカタカナは問題なく読めるが、漢字はお手上げだそうだ。

「困るのは、1つの字に、いろいろな読み方があることね。日本人は、どうしてすぐに正しい読み方ができるのか、不思議でたまらない」 と、彼は言う。

「そりゃあ、ほとんど決まりきった読み方があるから、そんなには迷わないよ」
「でも、人の名前とか、土地の名前とか、すごく難しいでしょ」
「あっ、そればかりは、日本人でも聞かなきゃわからない」
「なぁんだ、そうだったの。今まで、日本人はすごいなあと思ってた!」

いくら生まれついての日本人でも、「幸子さん」が「さちこさん」か「ゆきこさん」か判断するのは、振り仮名に頼るしかない。

それから、これは昨日のエントリーにふさわしい例だが、「消耗」の本当の読み方は「しょうもう」ではなく「しょうこう」だというのは、寿司でいえば「ウニの軍艦巻」ぐらいのレベルかな。

思えばなかなか大変な国語文化である。

【同年 9月 30日 追記】

上述の山形県の地名「土生田」は、「とちゅうだ」だとばかり思っていたが、正しくは「とちうだ」なんだそうだ。耳で聞いた限りでは「とちゅうだ」としか聞こえなかったので、長らくそう信じていた。反省。

お詫びして訂正します。

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2008年1月24日

漢字の読みをめぐる冒険

実は…間違えて音読していたコトバランキング」というのが話題になっていて、自慢じゃないが、私は全部正しく読めた。

その上で、「なんでここで、『音読』 と言わなきゃいけないの?」 と、何となくしっくりこないのである。音読するときと黙読するときで、読み方が変わっちゃうわけじゃあるまいしね。

もしかしたら、「音読み」というつもりだったのかなあと思ったが、ざっと見たところ、「徒となる」「異にする」「あり得る」「祝詞」「月極」と、30のうち 5つも訓読みがあるから、それも違うだろうし。

まあ、細かいことはさておいて、ここに挙げられたうちのトップ・ツー、「依存心」と「間髪を入れず」は、本来の読み方を知ってはいるけれど、実際に使うときは、大勢に迎合して、「いぞんしん」「かんぱつをいれず」と言ってしまったりする。そうでないと、通じない場合もあるので。

また「祝詞」については、「のりと」という由緒正しい読みの他に、「しゅくじ」という読みも別に間違いというわけじゃない。ただ、その場合は「祝辞」という表記の方が一般的だが。

そして、「女王」と「一段落」 については、私も過去に触れたことがある ("「女王」は「じょおう」か「じょうおう」か" "「ひと段落」をめぐる冒険") ので、興味がある方は参照されたい。

さらに、もうちょっと突っ込みたいのは、ここに挙げられた程度の読みは、寿司でいえば、せいぜい「玉子焼き」か「しめ鯖」ぐらいのレベルで、世の中には、もっと度肝を抜くようなのがいくらでもある。

例えば「独壇場」は「どくだんじょう」じゃなく「どくせんじょう」ということになっている。これだと、寿司でいったら、「はまち」程度かもしれない。「どくだんば」なんていう人もいるが、そんなのは論外ね。

ただ、これには少し複雑な事情があって、本来は「独擅場」と表記していたものらしいのだ。それが「独壇場」と誤表記してしまった("へん" の違いに注目)のが一般的になってしまい、読みもそれに引かれて「どくだんじょう」でいいということになっている。

さらに今をときめく「捏造」である。これ、今どきは誰でも「ねつぞう」と読むが、本来は「でつぞう」なんだそうだ (決して鼻が詰まってるわけじゃない)。こうなると「大トロ」クラスかもしれない。ただ、「ねつぞう」もちゃんと慣用読みとして認知されているから、あまり気にする必要もない。

これ、ATOK だと、ちゃんと「でつぞう」で 「捏造 に変換してくれるが、MS-IME だと、少なくとも 2003バージョンでは「出つ増」になってしまう。MS って、やっぱり根はアメリカ人だからなあ。

それから「洗滌」が「せんじょう」じゃなくて「せんでき」だというのは、医療業界なんかでは常識らしい。 これはさすがに MS でも変換できたので、「中トロ」程度か。これも慣用読みで「せんじょう」も認知されていて、さらに「洗浄」という表記の方が一般的だし、あまり気にしなくてもいいだろう。

ああ、日本語って本当に難しい。

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2008年1月23日

プラシーボとしての水伝

近頃ブロゴスフィアでは、またぞろ「水からの伝言」が大きなトピックになっているようで、驚いてしまった。なんだか時間が逆戻りしてしまったような錯覚すら覚えてしまう。

こんなの、むきになって言い合うような問題じゃないと思うのである。「科学じゃない」というのは、既に大方のコンセンサスのようだし。

言葉をかけたぐらいのことで水の結晶が影響を受けるなんてことは、そりゃあないだろう。精神世界大好きの私だって、そのくらいの分別は持っている。しかしその一方で、そうしたファンタジーを馬鹿馬鹿しいと切り捨てるつもりもない。

そうしたファンタジーを作り出したり信じたりし、さらに、それによっていい心持ちになってしまったりする人間の心理というものを、無闇に否定するよりも、むしろ、人文学的興味の対象として捉えたいと思うのだ。

私自身、あくまでもファンタジーとして、さらに仮定法に則って、「もし本当にそうだったらおもしろいかも」ぐらいのことは、ちょっとだけ思ったりしないでもない。仮定法をかなぐりすてるほどの勇気はないけれど。

世間では、仮定法なしでもろに信じている人が結構多いのが問題視されているのだけれど、個人的なファンタジーとして楽しんでいる分には、私は放っておいてあげたいのである。彼らが科学の常識に対して、牙を剥いて総攻撃をかけてきているわけでもないのだし。

それに、彼らがどう信じようと、科学的法則そのものが変わってしまうわけでもないのだから、その点に関しては安心していい。

私としては、こういうのは 「心の安定のためのプラシーボ(偽薬)」だと思っている。小麦粉を腹痛の特効薬だと思い込ませて飲ますと、本当に治っちゃったりするようなもので、「水伝」を信じて、常に感謝の思いで心の平安を得て、安らかな生活を送れるというのなら、それはそれで、そっとしといてあげたいと思う。

私にとっては、大学受験に天神様のお守りをぶら下げていく受験生をほほえましく思うのと、大差ないことである。

とはいえ、水伝の類をあまりにも狂信的に世の中に広めようというのは、かなりうっとうしいし、困りものだ。ただ、それは水伝に始まったことじゃないし、世の中にはもっとずっと困りもののカルトがいくらでもある。その意味では、水伝なんてまだ罪が軽い方だろう。

しかしながら (「とはいえ」、「ただ」、「しかしながら」 と、"however" を 3つも続けるレトリックは、我ながら心苦しいが)、学校の教師が授業で水伝をもっともらしく教材にするというのは、やはり止めておいてもらいたいとも思う。

ちょっと話はずれるが、常に感謝の思いで道具や機械を使うと、故障や不具合が減って長持ちすることがあるというのは、経験的に本当のことである。しかしそれは、そうした気持ちで常日頃から大切に使うからであって、人間の思いが直接機械に働きかけて性能を上げるというわけじゃない。

感謝の言葉をかけた水を飲み続けて健康になったという人がいたら、それは、いい結晶になった水のおかげというより、そうした自分の心持ちのおかげで、過剰なストレスが軽減されたせいなのだろう。それは、科学的にも十分にあり得る。

水に自分の心持ちを投影することで (あるいは投影できるというつもりになることで)、望ましい方向にセルフコントロールできるとしたら、とてもお手軽で有効なことだと思う。「非科学的だ」という理由で、そうしたツールを取り上げようとするのは、ちょっと野暮かもしれない。

水伝の「プラシーボ効果」の方を、科学的な視点で事例研究してみるというのも一興かも知れない。やり方は結構難しいだろうけど。

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2008年1月22日

ブログの影響力は捨てたもんじゃない

昨日 (1月 21日) 付の朝日新聞、P38 右肩の記事にお気付きだろうか。"絶滅危機種、使ってません/毛皮の 「ロリス」" という見出しの写真入り記事である (参照)。

私の 17日付の記事 "「ロシアリス」 を 「ロリス」 って言うなよ!" が、何らかのきっかけを作っちゃったような気がする。

「ロリス表示問題」 について、真正面から問題提起したのは、私のエントリーが多分日本で最初だ。それがきっかけとなって、朝日が業界団体に取材したのだろう。なにしろ、それまでは、この問題にはほとんど誰も気付いていなかったか、少なくとも表立って問題にしようとはしていなかったのである。

近頃、ブログが面白くなくなってきたとか、アクセスも減り気味だとか、いろいろなことが言われている。私も以前に「ブログ限界論」という話題について書いている(参照)のだが、これにはいろいろな見方があって、一律には語れない。

ちなみに今回の例はかなり面白い。私の「ロリス表示問題」のエントリーには、1件のコメントもトラックバックも付かなかった。私としては案外気張って書いた記事なのに、この反響のなさには、ちょっとだけ拍子抜けしていたのである。

ところが、その 4日後に全国紙の記事になるというのは、どうやらブロゴスフィアと既成メディアというのは、興味の対象がちょっとだけ違うようなのである。

それについては以前から感じていて、ブロゴスフィアでは、PC/ソフトウェアの問題や特定のちょっかい出しやすいニュース、それから(これは私の得意技でもあるのだけれど)言葉のウンチクなどについて、ちょっと歯切れよい論調の記事を書いたりすると、すぐにアクセスが増える。

ところが、今回のようなファッション系、業界系のマター、マイナーなニュースの分析なんかだと、からきしなのである。「はてぶ」 やニュースサイトなんかからは、近頃無視されまくりである。

どうやら、私の書く話題というのは、ブロゴスフィアの主流からは、ちょっとはずれているようなのである。(ほんのたまに、あざとく狙い澄ましたトピックを書くことはあるけれど、今回はとくにそういうわけじゃないからね)

ブログの影響力の低下というのは、実は、ブロゴスフィアで注目されるトピックが、あまりにもこの世界に最適化されすぎているからじゃなかろうかという気がする。ブロゴスフィアの主流と世間との間に、ズレが生じているのかもしれない。

こんな言い方をすると、もしかして反発があるかもしれないが、あちこちでブックマークされまくりのアルファブロガーの記事よりも、ブロゴスフィアではあまり注目されていない極私的ブロガーの記事の方がずっと面白かったりする。

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2008年1月21日

ヒラリーのイメージチェンジ

1月 7日の 「裏目に出ているヒラリーの戦略」 という記事に、alex さんが "ヒラリーはここで、発想の転換をはかって、
「みんなにいじめられている可哀想な女」 を演じればいいのに" といったようなコメントを寄せてくれた。

でなんと、ニューハンプシャーではそれが功を奏し、ネバダでも勝ってしまった。

ヒラリーは、明らかにイメージチェンジをしているように見受けられる。これまでの「鼻につくほどスマートな女」というイメージに、「ちょっとエモーショナルな部分だって、持ち合わせてるのよ」というスパイスをまぶし始めている。

こういう感じに、アメリカ人というのはちょっと弱いのだよね。おかげで、ヒラリーの支持率はかなりアップしたようだ。さらにロサンジェルスのファーストフード店でタコスにかぶりついて見せて、今までのお高く止まったイメージをかなぐり捨て始めてるし(参照)。

問題のインタビューで「目を潤ませ、涙がこぼれないように上を向いた」(参照)と報道された場面にしても、ABC のビデオ "Teary Hillary" (「涙ぐむヒラリー」 それにしても、うまく韻を踏んだな)を見ると、決して上なんか向いてない。しっかりと相手を見てものを言っている。このあたりの自己演出は、さすがにうまい。

これまであまり強調していなかった「パーソナル」な思いの部分を表に出し、それに続いて、「大事なのは選挙ゲームじゃなくて、国や子どもたちの未来に関わること」と、自然に、しかも潤んだ声で、テーマを広げている。これはかなりうまいやり方だった。

このあたり、やっぱりこのオバサンは、どのように振る舞えば大衆に受けるかを知っている。ちょっとウルウルしちゃったのはハプニングだったとしても、それを咄嗟にうまく利用して、その後は十分に意識して振る舞っている。

さらに、件のビデオに引き続いて表示される "Hillary Won't Iron Your Shirt"(ヒラリーはあんたのシャツのアイロンかけなんかしないよ) というビデオでは、「俺のシャツにアイロンをかけろ」と叫んで演説の妨害をする父権主義者(?)の馬鹿オヤジが映し出されて、かえってヒラリーの点数を上げる結果になっている。

このおかげで、「チェンジ、チェンジというけど、その実体は何なの?」と、オバマ氏の痛いところを突いたヒラリーの演説と、アンチ・ヒラリーの馬鹿オヤジが総スカンをくらってしまうのが全世界に放映されちゃったし。

今月初めまでオバマに向いていた風向きが、はっきりとヒラリー方向に変わり始めている。

私は 1月 7日の記事で、「(ヒラリーは)今のうちに戦略を切り替えないと、民主党の指名を受けることすら難しくなる」と書いた。ということは、やや反語的ではあるが、この時点でヒラリーはまだまだ終わってしまったわけではないと、私は見ていたのである。

ところがその後、多くのニュースやブログで、「民主党はもはやオバマ氏で決定!」みたいな早急な論調が目立ったので、私は自分の書き方が少し甘かったのかと思ってしまった。しかし、米国大統領選挙というのは、ああやってセンセーショナルな報道を繰り返して煽るのが常套手段なのだね。

実際は、ヒラリーが素早くイメチェンを図り始めたために、私の慎重な見方の方が(現時点では)正しかったじゃないかということになる。というわけで、私の面目は保たれたが、しかしそれはそれで、本当はヒラリー嫌いの私としてはちょっと癪に障る。

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2008年1月20日

工場という単語は factory か mill か ?

オッサンになっても英語感覚を失わないために、RNN 時事英語辞典というサイトによく行く。その中の 「きょうの時事英語」 1月 16日付に、「製紙工場」というのがある。

再生紙の古紙割合偽装問題で話題になった「製紙工場」を、英語では、"paper mill" という。"paper factory" ではない。

日本の中学高校英語では、ごく単純に「工場は英語で "factory" という」と教わった。で、ちょっと詳しく勉強すると、"mill" という単語も、工場という意味で使われると知った。"Mill" というのは、あの 「コーヒー・ミル」の「ミル」と同じ単語である。

水車小屋の粉ひきも、"mill" という。だから、高校大学時代には、私は、いわゆる「工場」と書いて「こうじょう」、「こうば」と読む日本の慣わしに置き換えて、"factory" は「こうじょう」で、"mill" は「こうば」みたいなものなのだろうと、勝手に考えていた。

ところが、社会に出て繊維業界で働くようになって驚いたのは、英語のプレスリリースなどに、結構大規模な紡績企業のことを "spinning mill" と書いてあることである。どうやら、"mill" は「こうば」じゃないらしいのだ。

というわけで、"factory" と "mill" の違いというのは、私の中では根本的にはまだ未解決なのだが、ぼんやりとわかってきたのは、素材を作る工場が "mill" で、素材を組み立てて最終製品を作るのが "factory" なんじゃなかろうかということだ。

手元にある The Random House Dictionary で "mill" を引くと、"a factory for certain kinds of manufacturer , as paper, steel, or textiles." (紙、鉄鋼、糸・生地など、ある種の生産のための工場) ということになっている。

一方、"factory" は、"a building or group of buildings with facilities for the manufacture of goods"(製品の生産のための機能をもつ建物、または建物群)となっている。これだけではわかりにくいが、用例として、「自動車工場」のことは "automoble factory" と言って、"automobile mill" とは言わない。

試しに "automobile mill" でググってみると、「もしかして: "automobile bill" 」 じゃないかと聞いてくる。一般的な言い方でない証拠だ。そして、ヒットするページは、中国人が間違って  "automobile mill" と書いちゃったらしいページが多い(参照)。

また、紡績工場のことは "spinning mill" と言うが、縫製工場は "sewing factory" になる。この辺りは明確な区別を知らなくても、"sewing mill" と言っちゃうと、何だか気持ち悪い感じになる。

"Automobile mill" と書いちゃった中国人は、気持ち悪くならなかったんだろうか? と、そこまで考えて、こう言っちゃ悪いけど、命が惜しかったら(今のところは)中国製の車には乗らない方がいいと思ってしまった。

ともあれ、日本人は「こうじょう」と「こうば」を規模で区別するが、英語では "factory" と "mill" を、何を作っているかで区別するようなのだ。こんなことは、学校ではなかなか教えてくれない。

中学高校英語というのは、合わせて 6年も習う割には、ちょっとしたところで使えなかったりする。

ところで、製紙工場を "paper factory" と言っちゃうと、「ペーパー・カンパニー」と同じで、実体のない名目だけの工場みたいな感じになるのかなあ。

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2008年1月19日

我々の現実は実は全て仮想現実?

我々の現実は実は全て仮想現実、研究者が奇抜な論文発表」という記事が、一部で話題になっている。

痛いニュース」では、「マトリックス見すぎ」といったステロタイプな反応に混じって、「俺が20年前から言ってること」なんていう注目すべき(?)コメントも寄せられている。

この論文を発表したのは、はニュージーランド、マッセイ大学のブライアン・ウィットウォース(Brian Whitworth)博士という人だそうだ。

禅宗の坊主の孫である私は、昔から父に「色即是空、空即是色」で育てられてしまったので、「すべて仮想現実」なんて言われても、それほど奇異には感じない。むしろ「さもありなん」という気がするほどである。

件の記事の核心部分を引用してみよう。

ウィットウォース博士は宇宙の物理現象の全ては情報として換言できるとした上で、宇宙は多次元の宇宙的時間軸で動いているシュミレーションの産物であると推論。そう考えることによってビッグバンがなぜ起こったのか、といった物理学上の疑問点も簡単に説明が付くと述べている。

「宇宙の物理現象の全ては情報として換言できる」というくだりは、「そうかもしれんなあ」という気がする。そうであった方が、面倒がなくていいなあとも思ってしまう。ただ、科学的な記事としては、「シュミレーション」ではなく「シミュレーション」と表記してもらいたかったところだが。

とはいえ、ウィットウォース博士のいうところの「仮想現実」が、「コンピュータ内」に作られたものという表現は、かなり注意しなければならないだろう。

実際に博士が「コンピュータ内に作られたもの」という言い方をしているのかどうか、元の論文を読む機会がないのでわからないけれど、もしそうした言い方をしていたとしても、その「コンピュータ」は、我々のイメージするものとは、かなり違ったものなんじゃなかろうか。

PC みたいなものを連想するから、「最悪のクソゲーだな 早くそっちの世界のネコがコンセント抜いてくれ」とか「だったら俺をもう少し高スペックにしといてもらいたかった」とか、それはそれでなかなか面白いコメントが付いているのだが、多分、そうしたもんじゃないのだろう。

ちなみに、博士は次のようなことも言っている。

コンピューター内のシミュレーションでは起こりえないことが、我々の世界で起きることを示すことができれば、それは仮想現実ではなく、現実世界であると証明したことになるだろうとまとめている。

(注) どうでもいいけど、このパラグラフではきちんと 「シミュレーション」 と表記されているのが面妖である。

それにしても、あるものごとが「コンピューター内のシミュレーションでは起こりえないこと」であることを証明するのは、一体どうしたらいいんだろう。証明したつもりになっても、「いや、そうしたことが起こり得るようにプログラムしてあったんだ」と強弁されたら、ナンセンスになる。

この博士、自説を覆す証明が不可能なように、最後にソフィスティックなトリックを仕掛けたような気がする。

あるいは人間というのは、自分の見ている現実が「仮想現実」であることに自ずから気付くようにプログラムされており、そのプログラマーに思いを馳せることができる存在であるとすると、「仮想現実」ではないと証明すること自体がナンセンスになる。

「仮想現実」の奥底に、何だか知らないが「現実」をうかがい知ることができるかもしれない。

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2008年1月18日

「知のヴァーリトゥード」 7年目に突入

うっかり忘れていたのだが、今月の 16日が、私のホームサイト、「知のヴァーリトゥード」の 6周年記念日だったのだ。このサイトも、既に 7年目に突入しているわけだ。

うっかりしついでに、アクセスカウンターの方も 40万を越えているのに気づかなかった。どうやら、15日のうちに越えてしまったようである。

去年の 1月 16日はしっかりと 5周年を意識していて、それなりの記事を書いている(参照)。その前の 4周年の時も書いてあるにはある(参照)のだが、こんな風な内容だ。

この 4年のうちで、1周年目は、17日になってから思い出したように書いただけで、他の年はてっきり忘れてしまっている。

4年目にして、ようやくサイト立ち上げ記念日にこんな記事を書いている。我ながら、ぼうっとした話である。

ただ、今回よく調べてみたら、2周年目は 2年と1週間後に、辛うじてそれらしき記事(参照)を書いている。それほど完璧にぼうっとした話でもない。

とまあ、そういうわけで、私は 6周年を迎えるまでに、きちんと記念日にそれらしき記事を書いたのが 2度、遅ればせながら 1週間以内に書いたのが本日分を入れて 3度、まったく忘れていたのが 1度ということになる。

2年と 1週間目に書いた記事では、私は自分の結婚記念日すらよく覚えていないということを告白している。9月 22日か 23日のどちらかのはずなのだが、実は妻もどちらだか覚えていないみたいである。

「日付は結婚指輪の内側に刻印してあるわよ」 というのだが、改めて自分の指輪をはずして確かめようとまではしない。たとえ外して確かめたとしても、多分、二人ともすぐに忘れてしまいそうな気がする。どうにもアバウトな夫婦である。

ちなみに、私の結婚指輪は結婚式以来はめたことがなくて、どこかの引き出しの奥深くにしまってあるはずなのだが、その引き出しがどれだか思い出せないので、探すには家中の引き出しをひっくり返さなければならない。実質的には紛失したと同じことである。

アバウトさは私の方が上のようで、妻がこの記事を読まないことを望むばかりである。

ただ、私がすべての記念日関係に無頓着かというと、そういうわけでもない。私の運営するもう一つのサイト「和歌ログ」は 平成 15年 12月 2日にスタートしたのだが、毎年この日を「和歌ログ記念日」として、歌に詠み込んでいる。テーマも、最初の歌が落ち葉を詠んでいたので、毎年それを踏襲している(昨年のは こちら)。

和歌ログだけはちゃんと記念日を意識している理由は、「師走二日は和歌ログ記念日」という下の句が決まりきっていて、当日は落ち葉を詠み込んだ上の句だけを作ればいいので、楽だということが大きい。記念日をきっちり意識するにも、その基本はぐうたらなことであったのだ。

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2008年1月17日

「ロシアリス」を「ロリス」って言うなよ!

いやはや、近頃一番驚いてしまったのは、毛皮製品のタグに「ロリス」と表示されていたことだ。ロリスといえば、あの可愛らしい顔のおサルの仲間で、絶滅危惧種じゃないか。

それに、「ロリス」の毛皮は高級品として流通しているようだが、熱帯に棲むおサルの毛皮が、防寒用の高級品になるわけなかろう。

アパレル業界でメシを食っている私としては、これは放っておくわけにはいかないと、さっそく調べてみたのである。そしてわかったことは、毛皮業界で「ロリス」と言ったら、あのおサルの仲間のロリスじゃなく、「ロシアリス」(ロシア産のリス)の略称だというのである。

「ロシアリス、ロリス」 の 2つのキーワードで検索すると、こんなにたくさんのページがヒットする。ほとんどは、「ロシアリス」の略称として「ロリス」という呼称を何の疑いもなく用いている。

これはひどい。ひど過ぎる。業界内部で「ロシアリス」を略して、符丁的に「ロリス」と呼び習わすなら、趣味悪すぎだけど、まあ、今さらしょうがない。しかしそれは業界内部にとどめておくべきだろうよ。

品質表示のラベルに堂々と「ロリス」と表示してしまったら、まったく別の動物を指すことになる。しかも、可愛らしい顔が子どもたちにも人気のおサルさんで、絶滅危惧種の毛皮だなんて誤解されてしまう。いくらなんでも、人騒がせにもホドってもんがあるだろう。

フランスの踊りを 「フラダンス」 なんて言ったら、ハワイの人たちが怒るだろう。毛皮業界は、それと同じことをして本物のロリスの面目を潰しているのである。

まったくもう、「ロシアリス」なら、ちゃんと「ロシアリス」と表示しろよ!(本当はこれも通称で、本来は「キタリス」という種類らしいけど)「ロリス」 なんて書いたら、誰にとってもおいしいところのない、まったく無意味で馬鹿馬鹿しい偽装表示じゃないか。

これはプロでも誤解している人がいる(参照) ぐらいだから、過激な環境団体が誤解して、その結果つるし上げをくらったとしても、それは身から出た錆ってものである。こんな風だから、アパレル業界の体質はいい加減だなんて後ろ指をさされるのである。私は怒るというより、呆れてしまっているのである。

ちなみに、ロシアのリスは腹をすかすと犬をもかみ殺すそうだ(参照)。なんと空恐ろしいことである。

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2008年1月16日

松の内と小正月について

民営化された日本郵政グループが年賀状の販売期間を 1月 18日までに延長したことについて、「年賀状は松の内まででは」、「謹賀新年なんて今さら書けない」 などと、疑問視する声が上がっているという (参照)。

中途半端に延長するぐらいなら、いっそ、旧正月の頃まで延ばせばよかったのに。

参照先のニュースによると、「京の儀式作法入門」などの著者で儀式作法研究家の岩上力さんは、「年賀状は松の内までに出すのがマナー」と言っている。しかし、この「松の内」というのも、関東では 7日までだが、関西は 15日の小正月までとなっている。

さらに、この「小正月」というのだって、問題なのである。小正月の元々の意味は、正月の望の日(満月の日)で、満月の日を月初めと考えていた大昔の名残と言われている。新暦の 1月 15日を小正月というようになったのは最近のことで、これだと満月の日にならない(ことの方が多い)。

それならいっそ、旧暦の小正月(今年の場合は、新暦の 2月 21日になる)まで年賀状を売り続ければいい。必ずしも年賀状に使わなくても、普通の葉書としても使えばいいじゃないか。

ただ、こういうことにしてしまうとお年玉年賀状の抽選が遅くなってしまって、しらけるかも知れないけれど。

ついでだが、春の七草というのはそれこそ新暦の 1月 7日ではなく、旧暦で実施すべきだと思う。新暦の 1月 7日は、大体において小寒を過ぎたばかりのころだから、「春の七草」というには無理がありすぎる。

春の七草を促成栽培でこなすなんて、興醒めではないか。旧暦でやれば今年の場合は 2月 13日になり、立春を過ぎたちょうどいい季節感になる。

旧暦でやるべき行事の筆頭は、何度も書いた(最近のエントリーは こちら)ことだが、七夕である。梅雨も明けない頃の七夕なんて、私には到底信じられない。同様に、寒中の「春の七草」もインポッシブルなのである。

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2008年1月15日

「夜明け」を巡る冒険 2

夜明けということについて、些細なことだが、もうちょっとだけ書いてみる。「夜明け」という言葉が、「新しい時代や事物が始まろうとする時」と、比喩的に使われることがある。

「夜明け前が一番暗い」と言われるのは、主にこうしたケースで、どん詰まりの状況で絶望しないための、ありがたいレトリックである。

しかし、状況が好転してまったく新しいステージに突入する場合、その直前は決して「一番暗い」というわけではなく、客観的にみれば、少しずつ日が射し始めていることが多い。当人がそれに気付かないだけで、状況が一変して初めてそれとわかり、驚いてしまったりする。

実際の夜明けでも、それとちょっとだけ似たようなことがある。夜明けで最初に明るくなり始めるのは、誰しも東の空だと思っているが、実際には違う。反対側の西の空にたなびく雲が、一番先に光を帯び始めることが多いのだ。

それは、再び このページ を見ればわかる。

夜明けの時分は、昨日のエントリーで触れたように、何しろ「太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻」というのだから、太陽は地平線の下にある。だから、東の空を見つめても、太陽は出ていない。

しかし、その東の地平線下にある太陽から発せられた光線は、天空をよぎって西の空にたなびく雲を下から照らしているのである。だから、日の出の直前の空というのは、東よりも西の方が明るいということが多い。嘘だと思ったら、早起きして確かめてみるといい。

朝になって空がほのぼのと明るくなるのを、今か今かと待ちながら、東の空ばかりを見つめていると、背後の西の空が先に明るくなり始めているのに気付かないのである。一つの方向ばかり見つめて視野を狭めていると、ろくなことがないのだ。

時代の変わるのを待つのも、同じことがいえるだろう。視野は広くしておくに越したことがない。

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2008年1月14日

「夜明け」を巡る冒険

「粋な烏は夜明けにゃ鳴かぬ、野暮な烏はべたに鳴く、どっこいしょと飛んでくる」 という小唄がある。(「烏」は「トリ」じゃなく「カラス」なので、そのあたりよろしく)

この歌の文句を聞くと、すぐに思い出されるのが「明烏」という落語で、私は桂文楽の CD を持っていて、時々聞く。

何でまた、粋なカラスが夜明けに鳴かないのかと言えば、「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」という都々逸がわかればピンと来るというものである。野暮を承知で説明してしまうと、朝になってカアカアと鳴き立てるカラスに邪魔されずに、いつまでもしっぽりと二人で布団の中にいたいという意味である。

で、ふと「夜明け」というものについて調べてみたくなったのである。というのは、「夜明け前が一番暗い」という言い回しがあるが、これって、かなり怪しいのだ。実際、夜明け前でも明るかったりするから。

気象庁のサイト(参照)で調べてみると、「夜明け」は「日の出の前の空が薄明るくなる頃」としてあり、「備考」として、 「『薄明』も同じ意味だが、予報用語としては用いない」となっている。あまりにも曖昧な言葉だからだろう。

さらに、「夜明け前」は「日の出の前 2時間くらい」となっているが、「使用を控える用語」と指定されていて、代わりに「明け方」という言葉を用いるということになっている。しかしながら、あの有名なフレーズの「夜明け前」を「明け方」で代替してしまったら、「明け方が一番暗い」というナンセンスになる。ますます怪しい。

それならばと、Goo辞書でしらべてみると、さらに恐ろしいことに、こんなふうになる。

(1)夜が明けること。太陽がのぼる頃。明け方。
「―前」
(2)太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻。明け六つ。
日暮れ(2)
(3)新しい時代や事物が始まろうとする時。
「新日本の―」

それにしても、この「太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻」ってのは、ずいぶん藪から棒である。一体何なんだ? ただ、「明け六つ」なんてあるからには、どうやら江戸時代の時刻計算法に基づいているらしい。

というわけで調べてみると、このページ に詳しく載っている。江戸時代の「日中」というのは、明け六つから暮れ六つまでと定められていて、その明け六つという時刻の定義が、 「太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻」ということのようだ。

「太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻」というのは、季節によって変わるから、江戸時代の時間というのは、決まり切った長さではない。

明け六つから暮れ六つまでの時間を 6等分したのが 一時(いっとき)で、これは現在の約 2時間とされるが、実は、夏の日中の一時(いっとき)は、夜間の一時より長く、冬はその逆になる。なかなか魅力的な変動相場的コンセプトである。

で、この明け六つという時刻は、自分の手の筋の太いものが 2~3本見えるくらいの明るさということのようなのだ。つまり、このくらいのほの明るさになるのが明け六つで、数値的に現わすと、「太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻」ということになる。江戸時代の暦学も、結構もっともらしく進んでいたのだなあ。

というわけで、粋なカラスは、太陽の中心が地平線下七度二一分四〇秒にある時刻になっても鳴かないのである。そして、野暮なカラスはべたに鳴くのだが、「べた」という言葉も、ずいぶん昔からあったのだというのがわかる。

ちょっとした小唄で、ずいぶんいろいろな考察ができるものである。

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2008年1月13日

米国の雰囲気選挙

米国大統領選挙への動向は、オバマ氏の提唱する "Change" という標語がうまく機能し続けるか、単なる雰囲気だけで終わってしまうかというのが、当面の焦点だと思う。

1991年の選挙で、やはり "change" を錦の御旗にして当選したビル・クリントンにしても、結局は何を変えたんだかウヤムヤだし。

ビル・クリントンが変えようとしたのは、今のジョージ・ブッシュの親父のジョージ (西洋人て、親子で同じ名前が多いから面倒だ)時代の、景気後退の雰囲気にも影響された何となく閉塞感のある政治に、ベビー・ブーマーズの価値観で新風を当てようということだったと思う。

しかし、その息子のジョージ・W・ブッシュ(親父はジョージ・H・W・ブッシュね)の場合は、別に声高に "change" と訴えなくても、放っとけば変わらざるを得ない状況を作り出しちゃってるので、やっぱり  "change" だけでは、そのうちボロが出る。アメリカ版バブルも崩壊しちゃってるから、きちんとした経済政策も示さなければならないだろうし。

今のところは、"Change" 一点張りの気楽さで押し通せる立場のオバマ氏の方が、「あるところでは変革して、あるところでは変わらずに」みたいな中途半端を言っているヒラリーよりもインパクトが大きいのだろうが。

しかしそんなこんなで、下手すると「民主党のご両人て、結局、雰囲気だけじゃねぇの?」 ってところに気付かれてしまいかねない。二人とも、実は大したこと言ってないのだ。本当にあの超大国を任せて、大丈夫なのかという気がしないでもない。

今のところ、時期大統領は民主党のオバマかヒラリーのどちらかだと思われているけれど、やっぱり、「雰囲気より実を取らなきゃね」ってなことで、蓋を開けてみるとどんでん返しで、共和党の誰かが勝っちゃうなんてことになりかねない。

とはいいながら、共和党の候補者って、本当に皆、悲しいぐらいにじいさんぽいのだよね。キャンペーン・サイトのウェブ・デザイン (参照) をみると、本当に、一世代ぐらい違う印象を持ってしまう。

で、ひるがえって日本をみると、米国の共和党以上に、見事にじいさんぽいということに愕然としてしまうのだよ。

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2008年1月12日

選挙で Web を使えそうなんだけど

「選挙で Web を使わせろ!」 なんてキャンペーンを細々と展開しているくせに、なんだかつい、反応が遅れてしまったのが、読売新聞の 1月 6日付記事だ。

ネットでの選挙運動、まず HP から解禁 … 自公民方針」という見出しで、次の衆院選から解禁されそうな動きを伝えている。

ようやく日本でも選挙で Web が使えることになりそうで、それはそれはうれしいことなのである。というのは、私なんか日曜日に仕事が入ることが多いので、ほとんどの選挙でウィークデイに期日前投票というのをすることになる。

ところが、投票日前というのは、候補者に関するまともな情報が入手しにくいのだ。新聞にはさまってくる選管による候補者紹介も、「突然候補者が増える可能性があるので、立候補締め切りまでは、出せない」 なんていう理由で、手元に届かない。そんなわけで、判断材料が少なすぎるのだ。

立候補者がそれぞれ ウェブサイトをもって、政策などを訴求していてくれれば、かなり判断材料になると思うのだが、そんな単純なことが、なぜか今はできないのである。馬鹿馬鹿しい限りだ。

ようやくその馬鹿馬鹿しさから解放されることになりそうで、ありがたいことである。以下に、読売新聞の記事のさわりを引用させていただく。

 選挙運動のネット利用をめぐっては、民主党が2006年6月に4度目の議員立法を提出した。ホームページや電子メール、ブログのすべてを解禁する
内容で、これらを使って選挙運動を行う者に、氏名とメールアドレスの表示が義務付けられる。違反した場合の罰則規定も設けている。

 一方、自民党は昨年12月に選挙制度調査会が論点整理を行い、ネット利用解禁について具体案を検討することとした。ホームページの解禁には異論がないものの、他人が候補者の名前をかたる「なりすまし」が容易な電子メールやメールマガジンの解禁には否定的だ。

どうやら、とりあえずはウェブサイトのみが解禁となるようである。多分ブログも大丈夫だろう。しかし、メールマガジンを含むメールの解禁は後回しになるようだ。「なりすまし」による怪文書の横行が懸念されているようなのである。

そんなことを言ったら、ウェブサイトだって巧妙な「なりすまし」ができないことはない。これを防ぐには、選挙管理委員会のポータルサイトから候補者のサイトにリンクを張るとか、なんらかの対策を考えなければならないだろう。

Oh My News では、「ポピュリズムの加速を不安視する意見もあるだろう」と指摘しながらも、「現在の一方向的受動的なテレビ型ポピュリズムよりも、むしろ多角的能動的な検証が行われる期待もできるのではないか。(特に若い世代の)政治への参加意識を高めることにもつながるかもしれない」(参照) と、ポジティブな評価をしている。私もそう思う。

なぜか、ネット選挙に関しては、私は Oh My News と意見が合うみたいなのである。

これに伴い、候補者もこれまでの選挙運動の方法論を見直さなければならなくなるだろう。単に連呼さえしていればいいというわけにはいかなくなる。ネット上で、自分の言葉(らしきもの)によるきちんとしたテキストで、政策を訴求しなければならなくなる。これはかなりの前進である。

インターネットの世界で共感を得られるかどうかが、当選できるかどうかに、ある程度の影響をもたらすようになるかもしれない。

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2008年1月11日

「きっちりやりすぎる」ことの弊害

「情報公開制度」というのがある。大変結構なことである。この制度がしっかりしてなかった頃、行政というのは、もうわけわからん魑魅魍魎の世界だったりしたのだ

現在では、国でも地方公共団体でも、大抵のことは請求さえすれば情報が公開される。だから、いい加減なことはできなくなった。

この制度が充実されることによって、行政に対する「市民の監視」というのが行き届くようになって、テキトーな税金の無駄遣いというのはしにくくなった。少なくとも、表向きはそういうことのはずなのである。

ところが、どんな結構な制度でも、一から十まですべて結構というわけではない。どこかに必ず欠点というのはあるのである。この情報公開制度の充実ということも、いいことではあるのだけれど、やっぱり弊害というのがあると思う。

というのは、行政機関の取り扱う書類、とくに民間からの申請と、それに対する認可、さらに最終的な報告書など、形式上のお約束のきつい類のドキュメントの審査が、最近やたらと厳しくなっているように感じるのだ。

いわば、重箱の隅をつつくようなレベルの「書類上の整合性」ということについて、以前と比べて異常に神経質になっているように思うのだ。

こういっちゃなんだけど、昔の許認可申請だの報告書だのいった書類というのは、一応の体裁さえ整っていれば、そんなに針の先でつつくような面倒なことは言われなかった。ところが、最近は審査が厳しくて、やたらと 「ここを修正しろ、あそこを直せ」 という指導がきつくなった。

で、はっきり言ってそうした「指導」のほとんどは、もう本当に単なる言い回しとか、枝葉末節とか、「強いて突っ込めば突っ込まれるかもしれんけど、そんなヒマな奴がいるんかね」といった類の、いわば「どうでもいい」ことばかりだったりするのである。

「あれ、以前はこれで通っていたはずなんですけど」というようなことも、近頃はごちゃごちゃ修正の指導が入る。直接担当者の段階でようやく OK になったものが、その上の決済のレベルで、さらに枝葉末節のその先の先っぽみたいなクレームがついて、またまた書き直させられたりする。

書面上の修正をするのはいいが、「言い回し」レベルの修正を何度も積み重ねているうちに、実態からどんどん離れて、「あれ、こんなんじゃなかったんだけど」みたいなことになってしまうなんていうことが、案外多かったりする。これって、ちょっと問題だと思うのである。

こういうのは情報公開制度の充実に伴い、お役人たちが必要以上にナーバスになっているせいじゃないかと、私は疑っているのだ。

情報公開なんていったって、公開されるのは、事実そのものじゃなくて、過去のプロジェクトに関する「書類」である。ということは、書面上の辻褄さえ合っていれば、後々になって突っ込まれずに済むのである。

公開された情報に群がって、ああじゃこうじゃとイチャモンを付ける市民、よく「プロ市民」なんて言い方をされる人が、実際に存在する。そういうことを自分でやろうとは、個人的にはあんまり思わないけれど、社会的な必要性は、確かにあるんだろう。

しかし彼らが税金の無駄遣いをのべつ厳しく監視しようとすればするほど、一方では、お役所の中で日がな一日、あまり意味がありそうもない書類の文言をつっつくだけの、時給の高い人が何人も必要になって、そっちの方で税金が無駄に使われるんじゃないかと、私なんかは危惧するわけなのだ。

税金の無駄だけじゃなく、民間プロジェクトの進行が遅れるということもある。実際に、姉歯物件がばれて以来、羮に懲りて膾を吹くみたいなことになり、建築の審査が異常に厳しくなって、建つものも建たなくなっているという弊害もあるようだし、なかなか大変なんである。

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2008年1月10日

風を読む、空気を読む

昨年の流行語大賞で「KY」がいいとこまで行った。言わずと知れた「空気を読めない」のアブレビエーションである。

「読める」じゃなくて「読めない」の意味というのがポイントだ。「空気を読める」は「KYR」なんだそうで、「読めない」方がデフォルトというのが、時代の空気を反映している。

一説によると、「KY」は耳元で囁くと、「空気読め!」という意味に転化するそうだ(参照)。やだなあ、耳元で「ケーワイ!」なんて囁かれたら、マジ気持ち悪いだろうなあ。そんなことをする奴にこそ、そいつの眠っている間に、耳元で何度もうなされるまで囁いてやろう。

「空気を読む」とか「読めない」とか、ここまで猫も杓子も使いたがってしまうと、あまり気持ちのいい言葉じゃなくなってしまう。永六輔さんは、それよりも「風を読む」という言葉を薦めておいでだ。

「風を読む」なんていう朝のテレビショーの中のコーナーもあったらしい(今もある?)が、私は見たことないのでよくわからない。永六輔さんのおっしゃるには、元々は職人の世界の言い回しということだ。

「あいつは腕はいいけど、風が読めないねぇ」なんてな使い方をするらしい。永さんは、早稲田大学のサイトの「校友インタビュー」で、3年ちょっと前にそれを語っている(参照)。多分「KY」なんて言葉の流行するずっと前である。

永さんはインタビューの中で、ボランティアに駆けつける学生たちに向かって「風を読め」とおっしゃっている。その場で今、自分が求められていることは何なのか、それを的確につかむために、「受信するアンテナ」を磨けと呼びかけている。

永さんのおっしゃる「風を読む」ということは、「空気を読む」よりずっとポジティブで創造的なイメージがある。こんなに素敵な言葉があるのに、去年の我々は「空気」なんていうものを読むことばかり求められていたのである。

おぉ、やだやだ。よどんだ空気なんて読むぐらいなら、さっさとその場を抜け出して、新鮮な風を読みたいものである。

とはいえ、「空気を読む」ことをそれほど矮小化したイメージに落とし込むばかりというのも、考え物だ。多分、「風を読む」も「空気を読む」も、言葉そのものにはいいも悪いもなく、ニュートラルなのだ。問題は使い方である。金も使い方できれいにも汚くもなるようなものである。

「風を読む」の関連では「風見鶏」なんていう言い方もある。元首相の某大勲位も、現役時代はそう呼ばれていたが、巧みに時流に乗れるという以上に、時々の権力にうまくすり寄るというような、あまりよろしくないイメージの方が強かった時期がある。やはり、使い方次第なのだ。

問題は「空気を読む」という言葉が、近頃どんどん矮小化したイメージの方に流れがちということだ。冒頭にも触れたが「KY」が「読めない」という意味であるというのも、なにやら言葉のネガティブ・イメージを膨らませている。

というわけで、目先を変えるためにも、当分は「風を読む」という言葉の方を重点的に使ってみようと思っている。

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2008年1月 9日

何故か買うまでに至らないモノ

TBS ラジオの朝の番組で、詩人の荒川洋治さんが、「あれば便利だと思うし、値段だって取り立てて高いわけでもないのに、なぜか買えないものがある」 とおっしゃっていた。

荒川さんの場合は、大きめの付箋だそうである。値段は 20枚 100円程度で、あれば便利そうなのに、なぜか買えないという。

荒川さんは何しろ読書家だから、付箋はやたらたくさん使うそうだ。それでポストイットみたいなのは生活必需品の域にまで達しているらしい。しかし、葉書の半分ぐらいあるメモをたっぷり書き込めそうなものは、なぜかいつも 「買うまでもないか」 という気がして買わずに済ませてしまうという。

要らないのかといえばそうでもない。自分では買わないというだけで、誰かくれるという人があれば、喜んでもらってしまうそうだ。その辺りがかなり微妙である。

それで、私にもそれに類したものがあるかなあと思い返してみたら、あるのである。「欲しいなあ、あってもいいなあ」 と思いながら、なぜか買うまでにいたらない商品。以下にちょっとだけ挙げてみよう。

  • 「超」 整理手帳の革カバー (参照
    私は 「超」 整理手帳を長年愛用しているのだけれど、これのビニール製のカバーは大体 1年で折り目のところがひび割れてしまう。毎年買い換えるからいいのだけれど、この革カバーがあれば、お気に入りのカバーで長持ちさせられると思う。だけど、いざとなると、なぜか買う気になれない。
     
  • 保湿ティッシュペーパー (参照
    私はアレルギー性鼻炎の気があり、季節になると鼻の穴の周りが赤くなったりする。保湿ティッシュを使っている人に聞くと、「一度使い始めたら、普通のティッシュには戻れない」 という。それでも、いざとなると、買うまでには至らない。
     
  • 花粉マスク (参照
    上述のようにアレルギー性鼻炎の気があって、周りでもあの仰々しい立体型マスクをしている人が結構いるのだが、自分が買ってまであれを付けようという気には、なぜかなれない。
     
  • ワイヤレスマウス (参照
    別に嫌いとか抵抗があるとかいうわけじゃなくて、むしろ、コードは邪魔くさいとも思っているのだが (キーボードはワイヤレスだし)、なぜか、いつも買うのはコード付きになってしまう。
     
  • プリンター用のちょうどいい長さの電源コード
    私のデスク周りで、プリンターの電源をつなぐのに、ちょうどいい長さのコードがなくて、無駄に長い延長コードがにょろにょろしている。そのうちきっちりとした長さの電源コードを買おうと思いながら、電気店に行くといつも忘れる。
     
  • マフラー
    去年の冬まで使っていたカシミアのマフラーが、すり切れと虫食いでおシャカになってしまったので、新しいのを欲しいのだが、なければ寒くて死にそうというわけでもないので、つい買いそびれる。

こんなところかなあ。なぜか買うまでに至らないけれど、もらったらうれしいというのは。

よく考えてみればもっとあるかもしれないが、考えないと出てこないのは、多分もらっても使わないものだろうから、絶対に買わないということになるだろうし。

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2008年1月 8日

ネットのトレンドは「陰謀論批判」

今、ネットのトレンドは「陰謀論批判」らしい。いまさら批判しなければならないほどに、陰謀論というのは力を持っているらしいのだ。

9,11 が陰謀だったとか、サンフランシスコとロスアンジェルスと阪神淡路の大地震が、人工地震だったとか、まあ、確かに陰謀論というのは探せばいくらでもある。

私の以前の知り合いにも強烈な陰謀論信奉者がいて、顔を合わせるたびに、湾岸戦争はでっち上げだったとか、ロスアンジェルスと阪神淡路の大地震がどちらも 1月 17日に起きたのは偶然ではないとか、湾岸戦争の始まったのも 1月 17日だとか、様々なファンタジーを真面目に語ろうとしていた。

とにかく、世界のすべての大事件はフリーメイソンの策略のもとに起こされているというのである。ふぅむ、フリーメイソンというのは、大地震や戦争を、時間的にも空間的にもピンポイントで発生させられるほどの素晴らしい技術力と政治力を持ち合わせているのに、それほどの技術力と政治力をもってしても、思い通りの世の中を実現できていないらしい。

それまで大地震なんてなかった阪神地区にあれだけの被害をもたらすほどの地震をピンポイントで発生させられるのだったら、当時、他に地震のターゲットにしていいはずの都市が世界にはいくつもあっただろうに(バ○ダッドとか、ハ○ナとか、カ○ールとかね)、それらよりも、神戸や LA を狙ったというのは、フリーメイソンの頭が悪いとしか思われない。

世の中というのはそれほどまでに複雑系の世界なので、彼らの強烈な意図と力をもってしても、その目的はなかなか達成されないのだね。とにかく、複雑系の世界を単純系の意図で思い通りにしようというのだから、ご苦労なことなのである。

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2008年1月 7日

裏目に出ているヒラリーの戦略

米国大統領選の候補指名争いのニュースを読んでいると、 "change" というキーワードをめぐって、いい年をした大人が「不毛な論争」にうつつをぬかしているように見える。

「自分が変化(変節) ること」と「状況に変化をもたらすこと」の区別を曖昧にしたまま、とりあえず雰囲気論戦に終始している。

ニューハンプシャー州マンチェスターでの民主党政策討論会でヒラリーは、オバマ氏が医療保険改革やテロとの戦いについて、これまで立場を変えてきたと非難し、「昨日も今日も明日も変わらない、頼りになる大統領が必要だ」(訳は Asahi.com の記事より)と攻撃した。

さらに、「変化」を強く提唱する演説上手なオバマ氏に対し、「変化は演説で出来るものではない。私は 35年間、変化を生み出してきた」(同上)と、自らの立場をアピールした。

「昨日も今日も明日も変わらない、頼りになる大統領」が望ましいといいながら、「私は 35年間、変化を生み出してきた」と述べている。「35年間もの長い間にわたって生み出してきたという、その変化って、大したことなかったんだね」 と言われかねない。

もしかして、元の英語では別の単語を使っているのだろうかと、念のため米国のニュースサイトにもあたってみたが、なんのことはない。どちらも "change"である。

ヒラリーともあろうものが、ちょっとした自己矛盾に陥っている。アイオワで次点にもなれなかったことであせっているんだろうか。こんな序盤戦で全然ひねりのきかない個人攻撃をしても、逆効果になりやすいのに。

オバマ氏はヒラリーの「変節漢」と言わんばかりの攻撃に対して、あっさりと "I'm consistent."(私は首尾一貫している)と応え、この方面の文脈では "change" という言葉をうまく避けている。つまり、 "change" という言葉のポジティブなイメージを大切に守ろうとしている。

演説の名手と言われているが、確かにオバマ氏の言葉センスはかなりのもののようだ。これまでのところ、所詮はイメージ構築の第一段階にすぎないのだろうが、まあ、新鮮な雰囲気だけはとても上手に作り上げている。

一方、ヒラリーの場合は、昔から「スマートな女なら、こういう場合はこう言うに決まってる」というような、案外ステロタイプなものの言い方しかできない人である。どのようにすればスマートに見えるかを熟知していて、その通りに振る舞えるが、それ以上のビヘイビアはしたことがない。

だから同じようにスマートなタイプからは共感を得られやすいが、「一ひねり」がない分、懐を読まれやすいし、飽きられるのも早い。

今のジョージ・ブッシュの親父の後に、やはり "change" を旗印にのし上がったのが、ヒラリーの旦那のビル・クリントンである。あの頃、私は彼を「アメリカの口先男」と呼んでいた。そして、ヒラリーのことは一昨年の秋から「ただスマートなだけ」と言っている (参照)。

ヒラリーのこのままのイメージ戦略では、全米の国民に対して「今がスマートな私の賞味期限ぎりぎりです」と訴えているようなものである。ぎりぎりだから、今選んでおこうということになるのか、この先 4年間もたないと思われるか、微妙なところで、これまでのところは後者の目が出てきている。

今のうちに戦略を切り替えないと、民主党の指名を受けることすら難しくなる。

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2008年1月 6日

今年は選挙イヤーなのだね

アイオワ州の党員集会でのオバマ氏勝利が大々的に報じられる米国大統領選挙戦。これから 1年近くにわたって、徐々に既成事実が積み重ねられていく。

日本の選挙みたいに、公示日がいつとかいうのではなく、どんどんお祭り騒ぎが増幅していって、いつの間にか決着がつく。

よくもまあそんなに長い間、選挙戦を戦ってへとへとにならないものである。その辺りからして、米国の政治家は体力がある。いや、実は体力よりも金の力なのかもしれないが。

日本でも、今年は確実に衆議院選挙があるとみられている。なんでもサミットの終わる秋以降が有力らしい。この場合は、衆議院が解散されなければならないので、そのタイミングは首相の鶴の一声で決まる。それまでは、現職議員と立候補予定者はハラハラドキドキだろう。

世間をみると、既に衆議院選挙の前哨戦はスタートしているような雰囲気だ。主だった政党は既にいつ選挙になってもいいような体制を整えつつあるし、立候補予定者もちょこちょこと地元入りして挨拶回りやら演説会やらを始めているようだ。

ここまでくるともう選挙は既定路線だから、解散があまり先延ばしにされると、与党も野党もイラついてしまうようなのである。なにしろ、金が続かなくなる。そのうちきっと「やるならさっさとやってくれ」ということになる。それで首相の腹一つとはいえ、最適のタイミングでの解散というのも、実はなかなか難しいようなのだ。

そこに行くと、米国は 11月の本番選挙というゴール地点ははっきりしているのだが、よくまあ金が続くものである。もっとも金の続かない候補から先にどんどん脱落してしまうのだから、やはり金のあるものが強いみたいなのである。支持者からのカンパが多いというのが、なかなか米国らしいのだが。

米国大統領選挙のシステムというのも、表面的には理解しているつもりだが、実際の勘所というのは、今イチわからないところがある。ある一定のところで、民主党も共和党も雪崩を打つように候補者が決まってしまうのだが、そのポイントがどこにあるのか、よく見えなかったりする。

いずれにしても、これからまだまだ劇場型の選挙が進んでいくことになる。日本の衆議院選挙と重なり合うようで、なかなか見ものだろう。私はどちらでも政権交代したら面白いと思っているのだが。

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2008年1月 5日

寺の境内で煙を浴びたがる老人たち

お香を焚く風習のない神社では見られないが、お寺の初詣では、本堂の前辺りでもうもうと立ち上るお香の煙を浴びて、自分の身に擦り込んでいる人が大勢いる。

あのお香の煙を体の悪いところに擦り込むと、その部分の具合が良くなると信じ込まれているようなのである。

今時の世の中でそんなことを信じる人が、こんなにも多いのかと驚くほど、でかい香炉の周りには人垣ができて、争うように煙を浴びてゴシゴシと擦り込んでいる。日本はまだまだファンタスティックな国である。

ちょっと前までは、母親が息子の頭に煙をゴリゴリとなすり付けるのがとても目立った。息子の頭を少しでも賢くして、学校の成績を上げたいと思っているのだろう。こんなことで賢くなるなら、誰も苦労はしないのだが。

ところが、近頃では少子化のせいか、子供の頭に煙をなすりつけようという母親の姿が目立たなくなってきた。子供としても、そんな迷信のせいで煙をなすりつけられるのはあまりいい気持ちじゃないらしくて、寄りつかなくなってきた。

それに代わって増えたのは、年寄りが煙をすくって腰だの膝だのになすり付けようとする姿である。自分の腰に手が届かなかったりすると、爺さん婆さん同士で、「ほぅら、腰に一杯お浴びなさい」だの「わたしがあんたの膝に擦り込んだげる」だのと、まるで着衣の温泉で背中の流しっこをしているような、鬼気迫るほどにのどかな光景である。

これから年ごとにどんどんこの傾向が増していって、お寺の境内は、腰だの肘だの膝だのに煙を浴びたがる年寄りだらけになるだろう。そのうち、「○○寺の煙」なんていう缶詰めが売り出されるかもしれない。きっと「摩周湖の霧」という缶詰めよりもヒットするだろう。

それにしても、顔に煙を浴びたがる若い娘がいないのは、どういうことなのだろう?

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2008年1月 4日

「殿様問題」 - 敬称の序列

先日車の運転をしながらカーラジオを聞いていると、関西弁では敬称にも序列があって、「やん、どん、はん、さん」の順に偉くなっていくのだと、誰だか忘れたが言っていた。

「番頭はんと丁稚どん」という番組があったが、なるほど、丁稚よりは番頭の方が偉いものというのがよくわかる。

「はん」は「さん」のくだけた言い方で、その「さん」は「様」 から来ているのだろう。そして、「どん」は「殿」だろう。ということは、「様」は「殿」より偉いということだ。これは昔から「殿様問題」と言われていて諸説あり、かなり根が深い。

ごく一般的には、私信の場合、目上の人には「様」を用い、目下の人には「殿」を使うということになっている。やはり「様」の方が「殿」より偉い。

しかしビジネス文書では、目上だろうが目下だろうが、ほとんどの場合「殿」で押し通していいようだ。官庁への提出文書のフォームを見ても、宛名はすべて「殿」とするようになっている。

ある意味、日本の文化は私信においては儒教的で、ビジネス文書においては思いのほか平等のようなのだ。しかしビジネス文書でも、不始末のお詫びをする場合などは「様」にすべきだとの指摘もあり、なかなか難しい。

敬称の使い方が私信とビジネス文書で違い、さらに大抵は「殿」でいいとされるビジネス文書の場合でも、内容によっては「様」にするなど、「殿様問題」というのは、意外に複雑で根深い。

それに、最近の若い人の中には、「殿」の方が偉いと誤解している人がかなりいて、ますますややこしくなっている。多分、見慣れないビジネス文書に使われるので、いかめしい感じがして偉そうに思ってしまうのだろう。いかめしけりゃ偉いってわけじゃないのだが。

こんなのは、「神様」とか「仏様」とは言うけど「神殿(かみどの)」、「仏殿(ほとけどの)」なんて言ったら、神様、仏様に失礼かもってことに気付けば、わかるだろうになあ。(「神殿」は、「しんでん」あるいは「かんとの」「かんどの」「かむとの」 、「仏殿」は「ぶつでん」 と読み、安置する建物の意味になってしまう)

さらに、「阿弥陀様」のことを「阿弥陀殿」、「えべっさん (恵比寿様)」のことを、「えべすどん(恵比寿殿)」なんて言ったら、あんまり御利益なさそうでしょ。

ところで、「やん」というのは「ちゃん」 からきてるのかなあ。

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2008年1月 3日

火の玉と火だるまと火の車と湯たんぽ

民主党の小沢代表が「火の玉になって何が何でも勝利する」とブチ上げたそうで、さっそくあちこちで「火の玉なんて言ったら、玉砕しか思い浮かばない」などと皮肉られている。

そういえば以前、橋本龍太郎元首相が「たとえ火だるまになってでも、行政改革を断行する」と言った時も、さんざん皮肉られた。

橋本さんの場合は、「首相が『火だるま』になってどうする? それを言うなら『火の玉』だろう」 と皮肉られたわけだが、この発言は、「たとえ火だるまとなっても」という文脈なのだから、言葉そのものとしては、別におかしくないと思うぞ。政治家の発言としてはセンスないけど。

小沢さんは「火だるま改革」と揶揄される原因となった橋本さんの発言を憶えていたのかいなかったのか、今回は「火の玉」という言葉を採用したわけだが、そう言えば言ったで「軍国主義的だ」などと言われている。政治家の発言というのは、なかなか難しいものだ。

「火の玉」発言は、小沢さんなりの強烈な決意と悲壮感を表現したものだろうし、彼の顔をみても、それなりに似合わないわけじゃない。しかし、他の民主党首脳の顔を思い出すと、なかなか「火の玉」なんかになりそうのない人たちばかりである。

とくに菅直人さんの顔なんか、火の玉というよりは、湯たんぽのようなイメージなんだけどなあ。案外民主党というのは、火の玉なんかになるよりは湯たんぽでいる方がいいのかもしれないし。

ただ、火の玉とか火だるまとか火の車とか、そんなものじゃない、もっとずっとグッとくる言葉を、どうして小沢さんは探そうとしないんだろうなあと、私なんか思ってしまう。こうした言葉センスのなさこそが、この際言い切っちゃうけど、この人の限界だ。

いずれにしても、あの民主党をまとめあげて「火の玉」にするのは、結構大変なことだろうなあと、つい同情しそうになってしまいもするのだが。

決して民主党の政策に期待するわけじゃないけど、まともな政権交代というものを一度ぐらいは見てみたい気もするので、橋本さんみたいに「火だるま」にならないように、言葉の力を使ってもらいと思う。

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2008年1月 2日

五感を研ぎ澄ますと

昨年、少年少女向けの野外体験学習プログラムというものにちょっと縁があって、さわりだけ付き合う機会があった。

海辺の林の中で、インストラクターが 「目を閉じて耳を澄ませてください。さあ、何種類の音が聞こえるか、指を折って数えてみましょう」 という。試しに私もやってみた。

初めのうちは人間の立てる音しか聞こえない。周りの人間の小さな話し声、林の中の落ち葉を踏むカサコソいう音、そして、遠くの国道を走る車の音。しかし、すぐに驚くほど豊かな音の世界に、自分が包まれていることがわかってくる。

風の音が聞こえる。まるで自然が呼吸をしているように、強く、弱く、常に耳のそばで鳴っている。そして、その奥で通低音のように鳴っているのが、磯に打ち寄せる波の音だ。

小鳥たちの声も聞こえる。ツツピー、ピィ~、チュンチュン、チチチ ・・・。チュンチュンというのはスズメだろうが、その他は何という鳥かわからない。わからないが、鳴き声がそれぞれ違うので 4種類いることはわかる。そして、カアというカラスの声も聞こえる。これで鳥は 5種類だ。

さらに風が少し強まると聞こえる葉擦れの音。それも高い所と低い所では葉の種類が違うから、鳴る音も違う。少なくとも、12種類の音が確認できた。

しばらくして、子どもたちに何種類の音が聞こえたか、インストラクターが聞く。驚いたことに、ほとんどの子は 3~4種類の音しか聞いていない。話し声、足音、車の音、鳥の鳴き声ぐらいのものだ。

多くの子どもたちには、風の音が聞こえていない。さらに、鳥の鳴き声が聞き分けられず、1つの音にしか聞こえていない。葉擦れの音は意識すらされていない。これって、かなりやばいんじゃないかという気がした。

彼らは決して耳が悪いというわけじゃない。自然の音のちょっとした違いが聞き分けられないのは、彼らが普段、自然とあまり接していないので、違いを意識する訓練ができていないのだ。ハンバーガーしか食べていない子が、他の食材の微妙な味わいを理解できないようなものだろう。

私は昨日、約 10キロの道のりを歩いて、初もうでのはしごをした。途中は、車の往来の激しい県道を避け、ほとんど田んぼの中のあぜ道を歩いた。歩いているうちに、自然と対話している自分に気付いた。

日射しは常に変化している。急ぎ足なので太陽が現われれば汗ばむほどだが、雲に隠れればとたんに冷え冷えとする。その雲は、地形にも似た上空の大気の状態を見せてくれている。

風には風の道があり、少し移動するだけで耳のそばでなる風の音が変化する。冬の日射しのもとで、鳥たちは思い思いに鳴いている。冬枯れの時期とはいえ、主要な水路が近付くと水の流れる音がする。世界は豊かさに満ちている。しかしそれは、気付いた者のみにもたらされる豊かさである。

いつのまにかハイな気分になっている。ジョギングをしていると「ランナーズ・ハイ」という状態になることがあるが、山歩きなどをしていてもそうなることがある。「ウォーカーズ・ハイ」とでもいうのだろうか。昨日は久しぶりにそれを体験した。

五感を研ぎ澄ますと、世界はこんなにも豊かなのだ。いにしえの人たちは、現代に生きる我々よりもずっと多くの対話を自然との間でしていただろう。我々の気付かなくなってしまった多くのことを、さも当然のように理解していただろう。

そしてその向こうに、さらに五感以上の何かで感じられる世界が開けてくる。私はそれを「信心」と称している。「信仰」というほど大袈裟なものではない。人間を超えた世界を畏れ敬うという、ほんのちょっとだけ謙虚な心である。

「信仰」というのは、それが嫌いなら強制するものではないが、ちょっとした「信心」はあった方がいいと思う。

2時間 25分の初もうで行脚の記録は、和歌ログ 1月 1日付の記事に書いてあるので、興味のある方はどうぞ。

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2008年1月 1日

年明けのごあいさつ

平成 20年はさりげなく明けた。昨年 5月に母を亡くして、まだ喪が明けていないので、我が家は鏡餅も注連飾りも何もない。だから、今年の年明けはひたすらさりげない。

新年らしい挨拶も控える習わしである。幸多き年となることを、さりげなく祈らせていただくのみである。

ウチのサイトは、ブログの "Today's Crack" を含め、休日には極端にアクセスが減少する。土日ばかりでなく、ゴールデンウィークや盆暮れの連休になると、いつもの 6割ぐらいになってしまうという、典型的なウィークデイ型のサイトである。

ところが、大晦日のアクセス記録をみると、ブログへのアクセスがいつものウィークデイ以上にある。何事かと調べてみると、Yahoo で「あけおめメール」というキーワードで検索した結果のアクセスが、300件ほどになっている。

Yahoo で 「あけおめメール」 のキーワードで検索すると、私の 1昨年 1月 6日付の記事がトップにランクされている。ちなみに、Google でも 5番目だから (いずれも今日の午前 0時現在)、このキーワードで私のブログに辿り着く確率はかなり高い。

件の記事は、年賀状だって元々は、実際に足を運ぶ「年始回り」の代わりとして、無精の結果で広まった風習なのだから、「あけおめメール」はどんどん広まるだろうと書いたものだ。葉書の年賀状を出すよりずっと楽なのだから、広まらないはずがない。楽に勝るものはないのである。

ところが、近頃ではこのあけおめメールが広まりすぎて、ケータイ回線がパンクしそうになるという問題が生じているらしい。ケータイ・キャリアは、年明け直後のあけおめメールのやりとりを控えるように呼びかけている。世の中、なかなか難しいものである。

それどころか、au にいたっては、あけおめメールが不通でも 110番通報しないようにというちょっとシュールな呼びかけをしている (参照)。

なんでも、一部端末ではメールが送れない通信障害が起きた際に、エラーコード「110」が表示されるため、利用者が問い合わせ先と勘違いして、警察に 110番通報する可能性があるのだそうだ。

そんなバカなことがあるか? と思うのは素人の浅ましさである。KDDI によると、昨年 11月の通信障害時に、多くの端末で「送信できませんでした(110)」 というエラーメッセージが表示されたため、全国の警察に約 6400件の間違い電話がかかるトラブルがあったという(参照)。

世の中には、フツーの素人よりもっと浅ましいケータイユーザーが、少なくとも 6400人いるようなのだ。ただ、これを笑ってはいけない。自分だって、いつどこでどんな浅ましい勘違いをしでかさないとも限らないから。

我々は他人ばかりでなく、自分の中の浅ましさをも上手に手なずけて、きちんと大過なく共存していかなければならないのである。これを、新年を幸せに過ごすための教訓としておこう。

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