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2008年1月29日

水伝論争と自虐史観論争は似てる

そう言えば、1月 23日の 「プラシーボとしての水伝」 に、山辺響さんがとても納得しやすいコメントをつけてくれたのだった。

「あたかも科学であるような体裁を繕おうとするから問題になる」というのである。科学を無理矢理共犯者にしたてようとするから、科学が怒ってしまうというわけだ。

山辺響さんの、絶妙の喩えを以下に引用する。

要は、私が愚にもつかぬ主張をしていたところで放置されるだけだが、「takさんも同じように主張しているとおり」などとよけいなことを付け加えれば、takさんにご迷惑がかかるかも、という話ではないかと。

うぅむ、なるほど。

ただ、Wikipedia によると、水伝の発信源である江本勝氏自身は AERA のインタビューに答えて、水伝は "「科学」ではなく「ファンタジー」「ポエム」 " と認めているという。しかし、"いずれは証明されるとも述べており、事実ではないとは認めていない” ということなので、なかなか微妙なところだ。(参照

「科学でない」と言いながら、「いずれは証明される」などと、まだ科学の文脈で往生際の悪いことをおっしゃる。水伝信奉者に共通するこのあたりのいい加減な曖昧さが、純粋な血を引く科学君にとっては我慢のできないところであるようなのだ。

つまり、科学でもないのに科学のような体裁を取ろうとした、あるいは、現状の科学では理解不可能だろうが、科学ももう少し進化すればわかるだろうという(エラソーな)言い方をしたために、科学君の方がむっときてしまったというわけだ。

そう考えると、科学君の気持ちもよくわかるというものである。科学君は、「俺はそんなこと、一言も言ってねぇだろ、コノヤロー!」とか、「いくら進化したって、そんなのはウチの家風じゃねぇ!」とか、立腹しているのである。

ただ、私は水伝信奉者の気持ちもよくわかるのである。「確かに、科学じゃない。科学かどうかなんて、そんなのも興味がないし、どうでもいい。ただ、自分の信じてる現象を語るために、科学っぽいレトリックを借用しただけだ」というのが、彼らの心情だろう。

純血科学君には悪いけど、水伝信奉者は科学(みたいなもの)の言葉を勝手にメタファーとして使っているだけなのである。科学用語に著作権なんてないんだから、いいだろうよと。

しかし科学とメタファーは本来馴染みにくいものだから、科学君としては「おいおい、いい加減にしろよ」と言いたくなってしまうのも無理からぬところである。「お前のイベントの後援名義に、俺の名前を勝手に使うんじゃないよ」と。

このあたり、幻影随想の黒影さんが、「科学というモノサシ」 というエントリーで、うまい分析をされている。疑似科学を科学の立場から批判することは、「科学」という共通のモノサシを持っていない疑似科学信奉者にとって、次のような作用であるという。

・ よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・ そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・ さらには自分のモノサシ (価値判断基準) まで否定された

に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

なるほど、よく言えていると思う。要するに持っているモノサシが違っていて、そのモノサシのお墨付き度合いに、格段の差があるのだ。国家認定モノサシと、怪しげな新しいモノサシとの対決である。どっちが強いかは目に見えている。

疑似科学に対して科学の視点で真っ正面から批判することに、私はある種の「苛立ち」というか、徒労感を感じていた。ある意味、横綱が素人に本気で相撲を挑むようなものである。しかも、自分の土俵で。

そんなようなこともあって、件の 「プラシーボとしての水伝」というエントリーを書いた。黒影さんの指摘は、このエントリーで書ききれなかったものである。

黒影さんと私とは立脚点が違っているから、論の全体が共通するわけではないけれど、「モノサシの違い」ということについては、「わが意を得たり」という気がする。これが、この不毛な論争のキモである。

いわゆる「自虐史観」に対して「どうして自分の国をそんなに悪く言わなければならないんですか?」と、情緒的愛国者の視点から批判することにも、私は同じような苛立ちを感じてきた。それについては、"なるほど、そりゃ「自虐史観」じゃない" というエントリーで述べた。

「疑似科学信奉者」対「疑似科学批判者」の対決は、「(いわゆる)自虐史観」対『自由主義史観」の対決と同様に、初めからすれ違いばかりで、交わるところがない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

 出来事のプロセスを紐解くことで“科学的に”立証することと、結果を期待して“想像力豊かな”プロセスを組み立てる、という違いを感じました。

 と書いているアタクシも、「水伝の世界」に限ったことではなく、“想像力豊かな”プロセスを日常でやってます。
 子どもに『道具を大切にしろ』とか、『残さず喰え』と話してますんで、その背後に控えている宗教観とか生活信条とかを素直に表現していたら、もっとスマートだったのに…。


 「水に話しかける」ことは滅多に(ぜ~んぜん!)しませんが、煮えている鍋に「煮えたか?」と語りかけることはあります。

投稿: オッチャン | 2008年1月29日 12:43

オッチャン:

>煮えている鍋に「煮えたか?」と語りかけることはあります。

あはは (^o^)
言霊 (ことだま) の世界ですね。

私もパン生地をこねる時に、こねながら 「♪ よ~し、よしよし、おいしくなれよ~ ♪」 なんて語りかけてます。
(ウチは天然酵母でパンを作ってますんで)

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2005/10/post_90cb.html

少なくとも、「こんちくしょう、手間かけさせやがって!」 なんていうより、おいしくできるような気がしてます。

これって、パンからの伝言?

単に気分の問題だとしても、この程度なら、結果オーライだと思ってます。

投稿: tak | 2008年1月29日 13:57

> 「確かに、科学じゃない。科学かどうかなんて、そんなのも興味がないし、どうでもいい。ただ、自分の信じてる現象を語るために、科学っぽいレトリックを借用しただけだ」 というのが、彼らの心情だ

全くその通りだ、と思います。水伝の良し悪し、好き嫌いは別としても、
水伝を「ニセ科学」とするのは不適切です

投稿: ふま | 2008年1月29日 21:31

ふま さん:

>全くその通りだ、と思います。水伝の良し悪し、好き嫌いは別としても、
>水伝を「ニセ科学」とするのは不適切です

そのように受け取られたのだとしたら、私の筆力不足です。
反省します。

投稿: tak | 2008年1月30日 01:09

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/searchdiary?word=*%5B%BF%E5%C5%C1%5D
より
>水の結晶の話は「仕組みはわからないけれども事実なのだ」という立場をとり続ける……のには理由があります。

>それは、江本氏がこの実験を「波動ビジネス」の裏付け(または波動を信じさせるための導入部)として使っているからです。

「ふま」氏は「ふま 比ヤング」などでググると、いろんな掲示板・コメント欄(ニセ科学批判・ニセ科学批判批判等の立場に関係なく)で暴れ回っている方です。

投稿: 泉谷 | 2008年1月30日 02:02

江本氏がニセ科学として使っている、というのはいいとして、「水伝を良しとする人達が水伝は科学だと考えているか?」と言えば、違う場合のほうが多いでしょう。

その意味で、単純に「ニセ科学」と言うのは、相応しくない訳です。

投稿: ふま | 2008年1月30日 11:45

(例えば、江本氏らが)水伝をニセ科学として使用することを抑止する目的のためには「水伝は科学でない」と指摘すれば済む話です

それをわざわざ「水伝はニセ科学だ」と妥当性の怪しいことを言う必要はない。もしも言うのなら、誤解のないように「水伝がニセ科学か、どうかはともかくとして、江本氏自身は、水伝をニセ科学として使っているようである」などと言えばいいでしょう

投稿: ふま | 2008年1月30日 11:53

あとですね。

科学者の多くが水伝を嫌っている、ということはありません。あのようなものに興味はありません。

一部の科学者と科学君が、水伝を嫌っているだけで。

投稿: ふま | 2008年1月30日 12:14

泉谷 さん:

確かに、江本氏はご自身の 「ロマン」 を自ら裏切るビジネスをされていると言っていいでしょうね。

でも、水伝ビリーバー (あるいは 「いい話かも」 と思う人) が 100人いるとして、江本氏の商品を実際に買う人は、1人いるかなあ?
(よくわからんけど)

実際に 「あまりにも売れない」 から、需要と供給の関係を無視したべらぼうな値段が付いてるんでしょうしね。

私の印象としては、「ずいぶん金のかかる都市伝説だなあ」 というところです。ちゃんとした需要のあるものなら、私だったら、こなれた値段にして、数で稼ぎます。

「波動測定器」 なんてものを買わされる危険性よりも、交通事故にあう危険性の方が高いということは、確実ですね。

だからと言って、江本氏は罪がないというわけじゃ、決してありませんけど。

投稿: tak | 2008年1月30日 12:35

ふま さん:

以下の類のコメントは、歓迎しません。

(1) 日本語として微妙に意味通じないコメント
(2) あまり当たり前すぎて今さら書くまでもないコメント
(3) 一見すると上記 2つの合わせ技っぽい無意味なコメント

投稿: tak | 2008年1月30日 15:38

レスありがとうございます。

ところで、kikulogを覗いていたら、こんなblogがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/omamemama2000/29855730.html

このコメント欄を読むと、世の中takさんや私のような
「『水からの伝言』なんかに騙されるわけないじゃん」
というお利口さんばかりじゃないんだな、ということに驚愕するばかりです。
「波動測定器」は買わされなくても、怪しげかつ高価な浄水器やマイナスイオングッズを買わされる人は
必ずしも少なくないように思います。

投稿: 泉谷 | 2008年2月 1日 21:05

泉谷 さん:

リンク先、行ってみました。

授業で水伝使うのは、ちょっと止めて欲しいなあ。
騒動の元です。

でも、おまめママさんは、別に高いもの買わされそうにはないんじゃないかと感じました。
旦那に 「やさしい言葉かけてくれないと、アタシ、真っ黒になるよ!」 と、したたかな手に出そうで、その辺り、安心だと思いましたけどね。

投稿: tak | 2008年2月 1日 22:14

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