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2008年1月30日

パンからの伝言?

昨日のエントリーへのオッチャンからのコメントにレスを付けていて、私の中にも 「水伝信奉メンタリティ」 があることに気付いた。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

こんな風に、食べ物に関する作業をする時、とくにパン作りとか味噌の仕込みとか、発酵作用に依存したものを作る際には、いい想念を込めるのが望ましいというのは、私のこの方面の師匠である食工房の Mikio さんからの口伝である。

断っておくが、「いい想念を込めれば、必ずおいしくできる」と教わったわけじゃない。だが確かに少なくとも「こんちくしょう、手間かけさせやがって!」なんて言いながらやるよりは、ずっといい具合に仕上がる気がする。単に「気分の問題」と片付けるにしても、まあ、気分のいい方が、ムシャクシャしてるよりはずっといいのである。

発酵食品というのは微生物の働きに依存するので、無機質である「水」を問題にするよりは、ちょっと信憑性があるかもしれない。ただ作り手の想念そのものが直接微生物に作用するのかどうかとなると、そこが議論の分かれ目だ。

測定可能で、しかも再現性がなければならないという科学の立場からすれば、いい想念をもつことによって、具体的にいいレシピにつながり、作業もうまくいって、その結果、微生物の作用に良好な環境が作られやすいのだと考えるのが自然だろう。それが常識というものだ。

ただ、日常生活の中でそれをじっくりと科学的に検証するというのは、面倒だし金もかかるので、「いい想念を込める」という、まあ「心がけ」のレベルでさっと語ってしまう方が、手っ取り早いし、安上がりで、しかも実際に効果的なのである。

科学的には「心がけ」なんてものがどうであろうと、ほぼ同一の条件下でほぼ同一のプロセスを辿れば、ほぼ均一な結果が得られるという結論になるだろう。しかし実際のパン作りの場面では、同一条件なんてことはまずあり得ない。

気温や湿度はその度に違うし、酵母の状態だって常に理想的にピンピン元気というわけじゃない。だが、こちらは工業生産をしているわけじゃないのだから、その時々のデータを詳細に記録していくのも億劫だし、第一、詳細な測定ができる機器を買うのも馬鹿馬鹿しい。

というわけで、結局は「勘と経験」の勝負なのだ。そして「勘と経験」がうまく働くためには、経験則で言っちゃうけど、やっぱり「いい心がけ」でいる方がいい。ずっといい。そして「いい心がけ」の呼び水になるのは、やはり「ポジティブな言葉」である。

この辺のプロセスは、物理学や化学ほどの純粋な「科学」ってわけじゃないが、科学的手法でも十分に検証可能なことだと思う。

ただ、それを 「酵母にやさしくしてあげたから、酵母が喜んだ」みたいなレトリックで語ったとしても、あながち責められるようなことじゃないだろう。人間の日常会話がすべて自然科学の文脈で語られなければならないとしたら、そりゃあまりに窮屈すぎる。

というようなわけで、私は「水からの伝言」についても、科学としてはトンデモだとは思うが、「有害無益」とまで決めつけるのは、ちょっとためらわれるのである。少なくとも、社会生活を送るのに望ましい(あるいは、少なくとも余計な軋轢を軽減させる)「心がけ」の(文字通り)「呼び水」にはなることもあるだろうから。

「科学を道徳の根拠にしてはいけない」という批判もあるが、個人的にはそれは取って付けた理屈のように思われる。望ましい道徳の根拠が科学だったとして、何の不都合があるだろう。その逆では確かに困るが。

あるいは「道徳の根拠が『疑似科学』では困る」 と言えば、説得力が増す。だがそれもケース・バイ・ケースだ。結果的に当人にとって望ましく、周囲にも軋轢の少ない道徳が形成されたのであれば、その結果は尊重しつつ、放っといてあげようというのが、23日のエントリーで、私が述べたことである。

ちょっと視点を変えよう。世の中には拝み屋にかかったおかげで病気が治ったという人が、実際にいる。この場合、現実に病気が治ったというなら、医者のおかげだろうが拝み屋のおかげだろうが、どっちでも構わないじゃないかというのが、私の立場である。「その治り方は間違ってる」とは、私には到底言えない。

「病気治し」と称して法外な金額をふっかけるインチキ宗教を別にすれば、大抵の巷の拝み屋に払う金額なんて、せいぜい「ささやかな御奉納」程度のものだ。それでずっと昔からやってきているのである。べらぼうな金額を要求したら、医者との競合に負ける。

ただ、私自身は病気をこじらせたら拝み屋じゃなく、(仕方なく)医者にかかるし、人にもそう勧めるということは、念のため明らかにしておきたい。

さらに念のため繰り返し付け加えるけど、水伝を初めとする「疑似科学」に狂信的になるあまり、道徳の授業やボロイ商売に結びつけるのは、やはり困る。そして、科学と見紛うようなスタイルと仕掛けで語られるのも問題だ。その程度の「歯止め」は社会的に共有したいものだし、それは既にある程度されてるんじゃないかなあ。

ただ、たとえ正統派の科学であっても、あまりにも極端な応用をされたら、それは「正しさという名の暴力」になりかねない。さじ加減を上手にすれば、疑似科学だって役に立てられるし、それを間違ったら、正統科学でも大迷惑なことになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

その昔(えっ?10年以上前!)ピザの生地をこねていた経験があります。

 閉店後の夜半に、バイト君と黙々と明日の仕込みで生地をこねる…。今やっておけば明日の仕事が少し楽になる。
 「まかせてくださいよ。店長。」
 「すまんなぁ、ありがとな!」
と掛け合いながら予定量を仕上げました。

 翌日の『ツヤツヤふっくら』生地のすばらしい出来!


 このように『協力しあう良い人間関係の波動』を受けたピザ生地は、翌日見事な仕上がりになるんです。


 どっかぁん!元の木阿弥!!


 この話の集大成が、『ガミラス艦隊』と戦う訳ですか。(なんちゃって話)


日本人の持つ道徳って、結局このことですよね。

投稿: オッチャン | 2008年1月30日 12:28

すみません。最後の1行は、まったく関係ないコメントです。

別の側面を書いているうちに、いつもの『ボケ』が始まってしまい…。

 ゴメンナサイ。

投稿: オッチャン | 2008年1月30日 12:30

オッチャン:

>このように『協力しあう良い人間関係の波動』を受けたピザ生地は、翌日見事な仕上がりになるんです。

わはは (^o^)

私としても、こうしたものの言い方がノホホンとできる世の中の方が、生きていて楽しいですね。

エンジンの調子悪かった車に、思いっきり悪態ついてたら、ますますおかしくなって、それで、「ゴメンゴメン、俺が悪かった、いい子だから機嫌直しておくれ」 と、一言声をかけたら、調子が戻った。

こういう経験を語ってくれた知り合いもいますが、現実に車の調子がよくなったんなら、それで OK じゃん! と思っています。

それをきっかけに、車をいたわって大切に使うようになれば、それでめでたしめでたしじゃん!と。

いくら何でも、それ以後、「車の不具合は、一声かけりゃ直る」 と思い込んでしまった - なんてやつはいないし。

ほとんどの人間は、それほどおばかじゃないから、ファンタジーと科学を、別の文脈で語り分けられるんですよ。使う筋肉が違うというか。
(こんなことを言うと、筋肉でものは語れないと、突っ込まれるか ^^;)

語り分けられないやつは、別に 「波動」 でなくても、ほかの話でもバンバンだまされるから、周囲で気をつけてウォッチしててあげましょう。

投稿: tak | 2008年1月30日 13:51

ファンタジーなら素敵!

あまり深追いして『筋違い』にならないよう、気をつけます。

投稿: オッチャン | 2008年1月31日 01:27

オッチャン:

ファンタジーの中にも、「真実」 てものがあったりするので、なかなかいいもんですよ。

「自然科学的事実」だけが 「真実」 てわけじゃないので。

投稿: tak | 2008年1月31日 10:12

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