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2008年2月18日

最大多数の最大幸福

2月 5日の "「かれ」 と見える 「われ」" というエントリーに、きんめさんがとても興味深いコメントを付けてくださった。

で、またしても、「疑似科学」とか「トンデモ」と思われかねない話をする。ただ、これは「水伝」とは違い、「科学」 とは初めから一線を画しておくので、そのあたりよろしく。

このエントリーで私は、『無門関』 の第九則、「大通智勝」という公案について触れて、「私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである」などと、かなり気負ったことを書いた。まさに「トンデモ」に近い。

この「トンデモ」に対して、きんめ さんが、次のようなコメントを付けてくれた。

ちょうど昨晩、友人とそんな話しをしてました。

東洋医学をやってたので、人も宇宙も相似性をもったものと規定して、例えば人の変化は宇宙全体の変化につながり、逆に宇宙の変化は人の変化につながるなんて事はあるよねぇと。(ここでの宇宙はまぁ”世界”って感じではあるんですが)

だったら、とことん自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になるねぇと。

「我が意を得たり」というようなコメントで嬉しくなったのだが、その後、仕事が忙しくなって、このテーマについて語るだけの体力がなくなってしまい、手付かずになってしまっていた。他人はどうだか知らないが、私の場合、知力は体力に規定されがちなのだ。

で、近頃ちょっとネタ切れなので、仕方なく体力を振り絞ってこのテーマについて書く。いかんせん、疲れ気味なので、大したことは書けないが。

「全体」と「個」は、ときに、フラクタル(自己相似)として語られる。全体の中に個の構図があり、個の中にも全体の構図はあるというコンセプトである。カール・ポランニーは 「木を見れば森が見える」と語ったというが、1本の木の本質を本当に見抜くことができれば、そりゃあ、森だって見えるだろう。

1本の木の中に、森の構図はきちんと宿っているはずだからである。ならば、「自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になる」というのも、十分にあり得る。

それどころか、1人の人間をとことん愛してしまえば、全人類を愛することだってできる。そうできないのは、それは「愛している」のではなく、単に「執着している」だけだからだ。そんなこともあって、仏教では「愛」という言葉はあまり好まれない。

言い方を変えれば、人類愛につながらない愛情は、それは「愛している」のではなく、単に相手を「縛っている」のである。同様に、全人類の幸福につながらない幸福は、それは「幸福」 の名に値しない。

「最大多数の最大幸福」という民主主義の理念は、そうした視点から見れば、怪しすぎるものである。「あり得ない」とすら言えるかもしれない。しかし、こうした「信心」の世界のコンセプトを限定的に現世に反映させようとしたものと考えれば、なんとなく落ち着くものがある。

「限定的に」 というのは言うまでもなく、政治家や役人を初めとして、大多数が既得権の確保に汲々としたり、権謀術数によって他人を蹴落としたがる現状によるマイナスが大きいからである。信心を忘れたら、世の中こんなものである。

悲しいことに人間は、「愛」より「執着」が、「自分の幸福」より「相手の不幸」が、より好ましく思えたりするものである。だから面白いといえば、そうに違いないんだが。

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コメント

本当に、ありがとうございます。

 今、若干悩んでいるところに、『価値観の相違』…、←ここまでなら「勝手にやってろ!」ということですが…、をどのように説明するか、があります。


>それは 「愛している」 のではなく、単に 「執着している」 だけだからだ。

 …ずばり、ここです。人でも、物でも、信じる信じないよりも、自己実現ツールとしての『愛すべき相手』であって、『あなたが幸せなら、ワタシも幸せ』という構図が描けない人の多くなったこと!

 重ねて、ありがとうございます。これで、“もやもや”していたところから、少し脱却できそうです。


 それでも、銭に執着できる身分になりたい…、このあたし。

投稿: オッチャン | 2008年2月18日 12:41

オッチャン:

>それは 「愛している」 のではなく、単に 「執着している」 だけだからだ。

これは、かなり自戒の念を込めて書いています。
むずかしいのです。
執着するまいと思うと、人間素っ気なくなって、愛情深い感じがなくなるしね。

四無量心 「慈悲喜捨」 の 「捨」 は、放り出すってことじゃないんだけど、時々放り出したくなるのは、きっと愛が足りないんでしょうね。

投稿: tak | 2008年2月18日 22:44

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