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2008年2月に作成された投稿

2008年2月29日

ペットを飼うと心臓発作リスクが減る

米国脳卒中協会(ASA)によると、ネコの飼い主は心臓発作リスクが低いのだそうだ。

さらに「どのような動物でも、飼い主がその動物を大切に思っていれば、健康によい効果をもたらすはず」との医学者の見解も紹介されている。これは決して「トンデモ」というわけでもなさそうなのである。(参照

このニュースから読み取れるのは、猫を飼っている場合のみが統計的にまともなデータとして発表されているが、他の動物の場合でも同様の効果があるはずだと、医学者たちは見ているようだということである。

我が家では、猫を 2匹飼っている。以前はそれに加えて犬も 1匹いた。さらに、私が子供の頃は我が家には猫が何匹いたかわからないほどだった。私にはどうやら、犬猫好きの血が流れているらしい。

その犬猫好きの私の感覚で言うと、ペットと接するというのは、確かに「癒される」ことに間違いはない。しかし、実を言うと「癒される」ばかりではない。ペットというのは実に手のかかる存在なのである。飼い主は「癒し」と引き換えに「世話」という結構な負担を強いられる。

まず基本的に、餌を与えなければならないし、餌を与えるのだからその結果として、糞の始末も日常的にしなければならない。抜け毛のかたまりは室内に漂うし、蚤やしらみの対策もしてあげなければならない。病気になれば、人間と違って健康保険も利かないから、結構な出費である。

それだけではない。急ぎの仕事であせってパソコンに向かっているときなど、猫が甘えてひざの上に乗ってきて、喉をゴロゴロ鳴らしながら頭を摺り寄せてこられると、かわいいにはかわいいが、邪魔でしょうがない。相手も生き物だから、こちらの都合だけの思い通りにはいかないのである。

こうしてみると「世話」の負担と、その結果として享受できる「癒し」の効果というのは、案外チャラなんじゃないかと思う。そして、さらに言うならば、飼い主に強いられる「世話」の負担すらが、実は「癒し」の効果を発揮しているんじゃないかということだ。

「癒し」の効果を一方的に 受け取るだけでは、実はあまり健康の役には立たないような気がする。「世話」をするからこそ、心理的にちょうどいいストレスを感じ、体を動かすことによる運動効果も発揮され、結果、心臓発作リスクも軽減されるんじゃなかろうか。

人間、受け取るだけではだめで、「愛を与えること」が必要ということなのだと思うのである。

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2008年2月28日

「ザッハリッヒ」という言葉

読まなくてもいいお話、私の200話」の管理人で、またの名をブログ界の清少納言とも発せられる朱鷺子さんが、「ザッハリッヒ」という古代語、じゃなかった、ドイツ語を使ったエントリーを書いておられる(参照)。

多分、今の若い人たちの、100人中 99人は聞いたこともない言葉だろう。

小学校を卒業する前にビートルズに夢中になった世代の私だが、自分の文章の中で「ザッハリッヒ」という言葉を使ったことは、今日という日まで、多分一度もない。中学か高校でビートルズに初めて触れた団塊の世代でも、使う人は多くなかったと思う。

多分、戦中派のその中でもモダン派の間では、かなり流行した言葉なんじゃないかと思う。私としては、かなり年上の、しかもインテリが、時々 「そういうのを、ザッハリッヒっていうんだよ」とか、「そりゃあ、ザッハリッヒだな」なんて言うのを憶えている程度のことだ。

初めのうちは、それは「情緒がない」とか、「身も蓋もない」というような意味の言葉と思っていた。

ある時、思い立って調べてみて、それはドイツ語で「即物的」という意味だと知った。なるほど、即物的すぎてにべもないというような意味なのだろうと、得心した。しかしそうしたネガティブなニュアンスのほかに、「ザッハリッヒ」にはポジティブなニュアンスもあるらしい。

調べてみると、「事象的、事物に即した、実務的な、要を得た、本質的ななどと解釈すると、随分と聞こえが良い」と解説している、ドイツ在住の方のブログがあった(参照)。なるほど、これなら、そうありたいものだという気持ちにすらなる。

私はドイツ語はからきしで、お恥ずかしいことにドイツ語の辞書も持ってないのだが、念のため、ウェブ上の独英辞書で調べたら、ザッハリッヒ = sachlich の英訳は 形容詞として factual(事実上の、事実に基づく)、副詞として objectively(客観的に)ということになっていた。

ある種の中立的言葉というのは、解釈次第でポジティブにもネガティブにもなる。この「ザッハリッヒ」というのは、ある意味、論理的な客観性を重視するドイツ精神を象徴する言葉でもあるらしい。単に「即物的」と解するのは申し訳ないことのようなのだ。

ちなみに、ケーキのザッハトルテ(sachertorte)は、そもそもの始まりはザッハーという名前のホテルの名物ケーキだったんだそうだ。"Sach" の部分は共通しているが、意味的に関係があるのかどうかわからない。ご存知の方がいたら、ご教授願いたい。

ところで、先にあげた「身も蓋もない」という言葉だが、これは器の身(本体)も蓋もないということで、要するに、何もかもさらけ出している状態というのが語源のようだ。いわば、すっぽんぽんである。

「身も蓋も人もない」なんて地口を言う人がいるが、これは、「三(み)も二(ふた)も一(ひと)も」という洒落である。人もなければ、すっぽんぽんでないだけ、いいかもしれないが。

私なんか、「身も世もなく取り乱す」というのを「身も世も何時もなく……」(三も四も五もなく)とか言うし、「四の五のぬかすんじゃない!」に至っては「四の五の六の七の……」なんて言っちゃう。前者はまだおもむきが感じられるが、後者は、かなりナンセンスなザッハリッヒだな。

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2008年2月27日

「ありがとう」 を言うナルシシズム

あちこちで「ありがとう問題」が盛り上がっていて、私まで先日一言書いてしまった(参照)が、他にもちょっと面白い指摘がある。

"店員に対して「ありがとう」を言える自分って、カッコいい!" と感じるナルシシズムが、底流にあるんじゃないかというものだ。うん、これって結構言えてるかもしれない。

先日のエントリーにも書いたが、私自身、結構気軽に「ありがとう」を言う人である。そして、言われてみれば、「ありがとうを言える俺って、かっこいいかも」という感慨が心の奥に存在することは、決して否定できないと思う。

だがあまりこの感慨にこだわって、私を「やらしいナルシスト!」みたいに思わないでもらいたい。確かにそんなような感慨がなくもないことは認めるが、私がよく「ありがとう」と言う主な理由が、ナルシシズムというわけじゃないのだ。

別に「ありがとう」の言葉を発するたびにナルシシズムに酔っているわけじゃない。一応、ちゃんと感謝し合える方が当たり前だし、気持ちいいよねということで、自然に身に付いているという感覚の方がずっと勝っている。

だが、「その当たり前で気持ちいい社会を作るために、率先垂範して自然に身につけた俺って、かっこいいかも! と思ってるんじゃないの?」 とまでからまれたら、「はいはい、おっしゃる通りですよ。そんな感覚だって、確かになくはないですよ」と言うしかない。

で、その上で言うのだが、人間「かっこいい」と思えることをしたくて「かっこ悪い」ことはしたくないのは、ごくフツーのことなのである。大抵の行為は、ちょっとしたナルシシズムから発するといってもいいぐらいのものだ。

そりゃ、何かするたびにナルシシズムに酔いまくられたら、周りの人間は付き合いきれないが、それをきちんと昇華した行為なら、ちゃんと好意的に受け止められるものだ。

中年過ぎてハーレイ・ダビッドソンを乗り回すナルシシズムと、店員に「ありがとう」というナルシシズムは、根っこの部分で似ていると私は思う。で、私は多くの中年ハーレイ・ライダーたちの、マナーの良いライディングを好ましく見ている。

ハーレイ・ダビッドソンの、あの一見押し出しの強すぎるデザインと、ライダーたちの好ましいマナーが補完しあって、「あいつら、目立ち過ぎといえばいえるけど、でも、存在としてはなかなかいけてるじゃん」と、思わせてしまうところがある。

そうしたような感慨も含めて、相手と時と場所に応じて、感謝の言葉のバリエーションを上手に使い分けられるようになりたいと思うのだ。変な言い方かもしれないが、ハーレイ・ライダーたちの外見よりも自然にね。

そうすれば、ひょっとして「ありがとう」が気に障るかもしれないというようなケースでは、ごく自然にあっさりとした「どうも」だけで済ませられるようになるだろう。さらに、ちょっとした表情と軽い会釈だけで、十分に感謝の意を伝えられる達人になれるかもしれない。

そのレベルまで到達するには、ちょっと人生経験が必要で、ぎこちない時期が長く続くかもしれないけれど、それはそれで、見習い期間として認めてあげるという共通認識が必要だと思う。なにしろ、"日本語の 「ありがとう」 は難度が高い" のだから。

だから、「ありがとうが大嫌い」 なんてあまり声高に言わないでねと、お願いしたい。ちょっとキザに聞こえる見習い期間の 「ありがとう」も、そのうち身に付いて、自然に聞こえるようになるだろうから。

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2008年2月26日

モバイル・ブロードバンドを始めた

今月 16日に「モバイル・ブロードバンドは迷うなあ」という記事で、モバイル PC のインターネット接続を PHS からブロードバンドに換えたいのだが、迷っていると書いた。

しかし、この記事を書いたことで踏ん切りがついてしまい、このほどえいやっとばかりに、E-Mobile に切り替えたのである。

E-Mobile とはいえ、私が申し込んだのは @nifty Mobile BB というサービスだ。これまでが同様に Nifty の @nifty Mobile P というサービスなので、単に Nifty の中で乗り換えをしたというだけである。

とはいえ、これまでのサービスが 128kbs のナローバンドなのに比べて、今度のは都心での計測で平均 1.2 mbs は出ているので、まあまあブロードバンドの名に恥じないスピードになっている。

実感として一番ストレスの減ったのは、電車などで移動している際のインターネット接続だ。これまでの PHS の場合は、高速で移動していると、次の中継基地を探すことだけに手間がかかっているようで、コンテンツの送受信が一向にはかどらなかった。それが、Mobile BB だとかなり楽に接続できる。

それに E-Mobile の接続エリアは最近かなり拡大したようで、全国の大都市圏はほとんどカバーされているようだ。とくに首都圏は北関東地域の県庁所在地に至るまで、さらに全国ベースでみても、用事のありそうなところはほぼ大丈夫のようだ(参照)。

あとは私の実家のある山形県庄内地域がカバーされるのを待つばかりなのだが、これにはちょっと時間がかかりそうだ。だから、田舎に行く場合は、一般電話回線やケータイでダイヤルアップするのを覚悟しなければならないだろう。

でもまあ、そんなことは年に 2~3回しかないだろうから、普段のモバイル接続のストレスが軽減されることのありがたさの方がずっと勝っている。当面はこれでいけるだろうと思っている。

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2008年2月25日

「春一番」 の大混乱

一昨日の 23日、関東に春一番が吹いたというニュースがあったのだが、その直後に急に風向きが変わって、より強い北寄りの風が吹いたために、情報がかなり混乱している。

ブロゴスフィアにも「なんて寒い春一番だ」とか「冷たい春一番が吹き荒れた」とか、ちょっと困った記述がどっさり見られる。

ニュースでも、「春一番 首都圏につめ跡 恐風」(東京新聞)とか、「春の嵐、列島に猛威・関東で春一番」(Nikkei Net)など、見出しを見る限りでは、昼過ぎに吹いた春一番と、その後に猛威をふるった強烈な北西風とが、ずいぶんごっちゃにされている。

念のために復習しておくと、春一番の定義は「立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強風」である。南寄りの風だから、暖かいのである。冷たい北寄りの風は、そりゃ春一番じゃないのだ。

一昨日の関東地方における天気の推移をレビューしてみよう。この日の朝から吹いていた南寄りの暖かい風は、昼下がりの 13時 24分に 15.9メートルに達し、基準値の風速 8メートルを超えたため、昨年より 9日遅い「春一番」と認定された。

しかしその後、寒冷前線の通過に伴って急に風向きが変わり、より強い北西風となった。この日の暖かい陽気は午後 2時頃までしかもたず、その後の北西風の最大瞬間風速は 27.9メートルにも達した。なんと倍近い、台風並みの風速である。

この日の東京都心は暖かい南風のせいで、午後 1過ぎに 4月上旬にあたる 17.0度の気温を観測していた。ところが北西風に変わった後の午後 3時の気温は 6.8度と、わずか 2時間のうちに、一気に10度以上下降している。

後になってから吹いた冷たい北西風が春一番よりずっと強烈だったのは、印象とか体感だけではなく、こうして数値的にもはっきりと裏付けられる。

この急激な気象変化により、人間の感覚にもニュースにも、かなり混乱をきたしてしまったのは、最初に触れた通りである。大きな被害が発生したのは、より強烈な北西風に変わった午後 2時半頃より後に集中しているのだが、これが「春一番」が吹いたという事実とごっちゃに報道されている。

これについては、気象予報士の森田正光さんも、ブログで次のように警鐘を発している。(参照

話がややこしくなりますが、北西風の最大瞬間風速と、春一番をごちゃごちゃにしては、誤解を受けます。何度も言いますが、こういった誤解を解くのが我々、お天気キャスターの仕事なのです。

こうした誤解は、本当に解いておいていただきたい。そうでないと実害はないかもしれないが、冒頭に触れたように「冷たい春一番が吹き荒れた」といったようなトンチンカンが続出してしまう。

念のため、だめ押ししておくが、春一番は暖かい風であり、冷たい春一番というのはあり得ないのである。そして、一昨日は春一番が吹くには吹いたが、その直後により強烈な北西風に変わったのであり、伝えられた被害の多くは、春一番によるものではないのである。

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2008年2月24日

日本語の 「ありがとう」 は難度が高い

私自身はかなりよく 「ありがとう」 という方なので、Yahoo 知恵袋の "店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか" というスレッドには、一瞬くらっと来た。

私がくらっと来ただけでなく、この質問に対しては、あちこちで攻撃の炎とまで行かなくても、疑問の声が上がっているようなのだ。

ごく単純に考えれば、感謝の意を示すことになんの問題もない。客と店員との間に感謝の意のキャッチボールがあっても、全然おかしくない。逆に、感謝の意を表されることに、なんでまたそんなにねじくれた感慨をもつ必要があるのかということになる。

しかしもう少しつっこんで考えてみると、日本語の微妙な「あや」という問題に突き当たる。日本語というのは、なまじニュアンスが豊富すぎるが故に、なんでもかんでも「ありがとう」で済ませれられるといわけにもいかないところが、確かにあるのだ。

その点、英語は単純で簡単である。アメリカを旅行すると、そこらじゅう "Thank you" という言葉であふれている。アメリカの親は、人にものを頼むときには "please" の一言を添え、何かしてもらったら "thank you" を言うように、しっかりと子どもにしつける。

だから、レストランで注文するときにも "please" と言い、注文した料理が運ばれてくれば "thank you" と礼を言う。店で買い物をして支払いを済ませ、品物を受け取る際には、客の方も "thank you" という。

"Please" と "thank you" は、人間関係を円滑にする単純な記号のようなものだから、陰影に富んだニュアンスはとくにない。そんなものがあったら使いにくくてしょうがないから、ばっさりと省いてある。だから、どんな場面でも自動的に適用して OK だ。

ところが、日本語の 「ありがとう」 は、なかなか大変といえば大変なのだ。時と場合によっては、「ありがとう」だけだと、もしかしたらちょっとだけ目上目線を感じさせて、「エラソー」に聞こえてしまうことだってあるかもしれない。とはいえ「ありがとうございます」は大袈裟すぎて不自然だったりすることもある。

「ありがとう」イコール "thank you" ではないのだ。これが、まったくイコールだったらどんなに気楽に感謝し合えるだろうかと思うのだが、日本語と英語とでは言葉の成立するメンタリティの部分からして違うところがあるので、イコールはあり得ない。

結局、感謝の意を表するため、あるいは単に人間関係を円滑にするためには、英語なら "thank you" で済むところを、日本語になると、「ありがとう」と言ったり、「ありがとうございます」と言ったり、あるいは「どうも」だけで済ませたり、軽い会釈だけにとどめたり、はたまた「すみません」なんて変化技を使ったり、なかなか難しいのである。

これらを相手と時と場所に応じてきちんと的確に使い分けられたら、そりゃもう、日本語の達人と言ってもいいぐらいなのである。

あるいは関西弁の「おおきに」や 東日本の「どうも」がカジュアルな軽い感謝の意を示す定番になったりすることもあるかもしれない。私が現在居住している茨城県つくば周辺のネイティブ茨城弁スピーカーの間では、「どもねー」なんていうのが定番だったりしているし。

私は自分の生まれた庄内の「もっけだの」が好きなのだが、これは残念なことに、かなり地域限定だからなあ。

それからちょっと蛇足かもしれないが、本当に心から感謝していることを伝えるには、スタンダードの「ありがとう」に「本当に助かりました」という一言のバリエーションを添えると、とても効果的な場合がある。

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2008年2月23日

「情報共有」と "information sharing"

「情報共有」ということについて、もしかして私は、ちょっとした誤解をしていたんじゃなかろうかと、最近思い始めている。

「情報共有」 は大切だといわれているが、単純に「皆で同じことを知っている状態」という意味だとしたら、実はそんなことはあまり意味のあることじゃあるまいと気付いたのだ。

このことに気付くきっかけになったのは、「情報共有」という日本語と "information sharing" という英語のニュアンスの違いを改めて考えてみたことだ。

普通、"information sharing" という英語を日本語に訳すときは「情報共有」という言葉に置き換えられ、その逆もまた普通である。それはもう翻訳作業の定番で、単に機械的に置き換えられるだけだ。しかしよく考えれば「共有」と "sharing" はちょっと違うだろう。

"Share" という動詞は、「共有する」と訳される時も確かにあるが、本来の意味は「分かち合う」ということだ。とすれば、"information sharing" の本当の意味は「情報を分かち合うこと」になる。

適当な漢字の熟語がないから、仕方なく「情報共有」と言いならわしているが、本来なら情報をうまい具合に分割して、各々がその得意な部分を担当し、総体として一つの意味あることとして機能させるように、有機的な共同作業を行うことと言った方がいいだろう。

「皆で同じ情報を持つ」なんていうのは、幻想である。それぞれが担当分野においてきちんとした解釈をもって情報を編集し、それを次に手渡すということを連続させ、どんどん「生きた情報」として育てていくというのが、本来の "information sharing"  なのだと、最近は思うようになった。

「同じ知識を皆で持ち合いましょう」なんてことでは、その知識は密度が薄まり、しかも総体としても硬直してしまって、何の役に立たないだろう。結果として、「情報は共有しました。だけど、大したことはできませんでした」ということになってしまう。

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2008年2月22日

自分の思い入れと世間の評価のギャップ

長いことブログをやっている人の少なからずは感じていると思うのだが、それぞれのエントリーに対する自分の思い入れと世間の評価というのは、あまり連動しないようなのだ。

ネタ切れでしょうがなくテキトーに書いた記事が、なぜか複数の個人ニュースサイトに紹介されて、どっとアクセスが集中したりする。

昨日の昼過ぎ、当サイトのアクセス分析を眺めて、びっくりしてしまった。いつもの 2日分のアクセスを半日で稼いでしまっている。さらにお昼の 12時台は、9.25秒に 1ヒットの割でアクセスが集中していた。皆さん、お昼休みにネット・サーフィンしてるんだなあ。

何事かとリンク元を調べると、複数のニュースサイトに 2月 20日付の「日本に世界遺産が 14件もあったなんて」という記事が紹介されていることがわかり、またまたたまげてしまったのである。

というのは、この記事、ネタに困ってしょうがなく書いた、いわゆる「埋めグサ」なのだ。だって、読んでみればわかると思うけど、ほとんど内容ないでしょ。

日本に世界遺産が 14件あるなんてことは、ちょっと調べれば誰でもわかることだし、わかったところで、別段「目からうろこ」ってほどの衝撃の事実でもない。後は煎じ詰めれば、自分はそのうちの 7件しか訪れてないが、他も是非行ってみたいぐらいの、どうでもいいことしか書いてない。

これのどこが受けたんだか、さっぱりわからない。

自分では何気なく書いた記事なのに、他人に指摘されて、瓢箪から駒みたいな思わぬ価値に気づくなんてことも、確かにあるにはある。逆に、自分としては渾身の力作のつもりなのに、結果的にはスベリまくりだったということもある。

しかし、この記事に関しては、十分客観的にみても、やっぱりつまらんと思うがなあ。ニュースサイトからのリンクで何千人来てくれても、全員に「なんだ、つまんないじゃん」と思われるのが関の山だ。リピーターになってくれるのは一人もいないだろう。

私は時々、「世間」というものがすごくわからなくなってしまったりする。ちなみに、私は 2年前に "「世間」と「ネット」はよく似てる" という記事を書いていて、これは結構ニュースサイトでも取り上げられ、自分の思い入れとの間のギャップはなかったのだが。

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2008年2月21日

よく転ぶ人は好きですか?

フツーに平坦な道で、目の前を歩いていた女性が、何の前触れもなくいきなりずってんどうと転んだりすることがある。

世の中には「よく転ぶ人」というのが存在する。作家の森茉莉という人も、生前はよく転ぶ人だったと伝えられる(参照)。何もないところでも、とにかく転ぶのである。

よく転ぶ人が何もつまずくもののないところでもいきなり転ぶのは、「空間認識と肉体感覚のずれ」によるものだと、どこかで聞いたことがある。実際に歩いているポイントと、自分の歩行のリズムが微妙にずれてしまって、そのずれに対応できなくて転んでしまうものらしい。

これを聞いて、「なぁるほど!」と思った。私は「よく転ぶ人」というわけでは決してないが、そう言われれば身に覚えがないわけじゃない。それは、長い階段を大急ぎで駆け下りる時の感覚である。

私は階段を駆け下りるのがかなり速い。というか、階段は駆け下りるものだと思っている。重力によって加速度のついた自分の体重を、いちいちステップごとに自分の膝で受け止めるなんて、体にいいはずがない。

だから、加速度は加速度としてそのまま自然に開放したい。そうなると、とにかく足を高速回転させて駆け下りるしかないのだが、それで危険を感じることはほとんどない。足の回転がどんなに速かろうと、そのリズムと階段のステップがきちんと調和している限りは、決して転がり落ちたりはしない。

しかしたまにぼうっとしたときなど、ふと気づくと自分の足の動きと階段のステップとの調和が、微妙にずれかけていることがある。幸いなことに、これまでのところは咄嗟の微修正を効かせて、派手に転がり落ちるなんてことは経験せずに済んでいる。

これはひとえに、私のリズム感の良さによるものだと思っている。私は反復横とびにしろ、陸上のハードル走にしろ、そしてもちろん音楽にしろ、リズム感の要求されるものはたいてい得意なのである。

そしてこのリズム感というのは、自分の体内の感覚だけの都合ではなく、外界との関係性の、不断のアジャストメントによって成立するものだと気づいた。つまり「リズム感のいい人」というのは、外界をスムーズに認識し、それを自分の身体感覚にしっくりインポートできる人でもあるようなのだ。

しかしいくらリズム感がよくても、長い階段を駆け下りるときに、たまに外界と自分の身体感覚との間にちょっとした「ズレ」を感じて、ひやっとしてしまうことがある。そして外界認識の苦手な人というのは、フツーの平坦な道でも、それと同じことをやってしまうようなのだ。

つまりよく転ぶ人というのは、「そこにいても、そこにいない人」なのだ。当人の意識は、ちょっと別のところにいるのである。別のところの歩き方で歩いてしまうのだから、転ぶのも当然である。

世の中には「よく転ぶ女の子が好き」という男が結構いる。なるほどねという気がする。夢見がちな少女を守ってあげたいという本能が働いてしまうのだろうね。

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2008年2月20日

日本に世界遺産が 14件もあったなんて

先日、広島への出張のちょっとした空き時間で、安芸の宮島を駆け足で訪れた時、厳島神社が世界遺産に登録されていることを、恥ずかしながら初めて知った。

で、日本には世界遺産がどのくらいあるのかと思って調べたら、文化遺産が 11件、自然遺産が 3件、合わせて 14件もあるのだった。

屋久島、白神山地、法隆寺、姫路城が真っ先に登録されたことは知っていたが、その後、そんなに増えていたとはちっとも知らなかった。Wikipedia によると、現在登録されている日本の世界遺産は次の通りである。

文化遺産

  • 法隆寺地域の仏教建造物 - (1993年12月)
  • 姫路城 - (1993年12月)
  • 古都京都の文化財 - (1994年12月)
  • 白川郷・五箇山の合掌造り集落 - (1995年12月)
  • 原爆ドーム - (1996年12月)
  • 厳島神社 - (1996年12月)
  • 古都奈良の文化財 - (1998年12月)
  • 日光の社寺 - (1999年12月)
  • 琉球王国のグスク及び関連遺産群 - (2000年12月)
  • 紀伊山地の霊場と参詣道 - (2004年7月)
  • 石見銀山遺跡とその文化的景観 - (2007年6月)

自然遺産

  • 屋久島 - (1993年12月)
  • 白神山地 - (1993年12月)
  • 知床 - (2005年7月)

私は結構な旅好きで、仕事の関係でも案外日本中のあちこち行っているようだが、14件の登録のうち、半分の 7件しか訪問したことがない。

まだ行ったことのないのは、文化遺産では、姫路城、白川郷・五箇山の合掌造り集落、紀伊山地の霊場と参詣道、石見銀山遺跡とその文化的景観の 4件、そして自然遺産では、登録された 3件のどれも行ったことがない。

文化遺産 11件のうち、7件には既に行ったわけだが、このくらいは、ちょっと旅行好きの人なら特段珍しいことでもないだろう。それよりも、自然遺産のどれにも行ったことがないというのは、我ながら口惜しい。

屋久島と知床はちょっと遠いが、東北に生まれながら白神山地ならそれほど遠くでもないのに、行ったことがない。ブナの原生林なら、栗駒や朝日山系のキャンプで何度も満喫しているが、その総本山みたいな扱われ方の白神山地にも行ってみたいものである。

文化遺産の中では、紀伊山地の霊場と参詣道には、是非行ってみたいと念願しながら、この年までまだ行けていない。日本と世界の最も行ってみたいのはどこかとの質問に、「熊野とトランシルベニア」 と、20年以上答え続けてきて、まだ行けていないのである。

とりあえず、今年は熊野に是非行ってみたいものだと思っている。

【2月 22日 追記】

このネタ切れでしょうがなく書いた 「埋めグサ」 のエントリーが複数のニュースサイトで紹介され、アクセスが殺到したのに驚いていしまい、こんなの を書いた。よかったらどうぞ。

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2008年2月19日

想念の具象化 その2

またまた懲りずに 「トンデモ」 を書く。一昨年の 9月 25日に、私は「想念の具象化」というタイトルのエントリーを書いている。

私は 平成 15年 7月まで、1年に 1度以上車のタイヤがパンクしてしまう男だった。しかしその後、自分の想念を変えてみたら、3年以上パンクしないでいると書いたのである。

本当に、それまで私の車のパンクは年中行事だったのである。釘を踏んだり、ガラス片が突き刺さったり、タイヤの側面がちょっとした障害物に当たって破れたり、そんなことが、確実に 1年に 1度以上あったのだ。それで、私は普通の人でも、少なくとも 2年に 1度ぐらいはパンクを経験するものだと思い込んでいた。

ところが、近所のタイヤ屋のおやじさんが、「パンクなんて、しない人は一生に一度もしませんよ」と言う。「そういう人は、パンクなんてしないものと思い込んでて、『近頃のタイヤは進化したから、パンクしなくなったねぇ』なんて言いますね。実際は、決してそんなわけでもないんですが」

彼の言葉は、私にとっては驚きだった。パンクしないと信じている人は、磨り減って使い物にならなくなった時が、唯一のタイヤ交換の機会なのだそうだ。それは単に「卵と鶏」の関係かもしれないが、私はちょっとした気まぐれで、それに賭けてみることにしたのである。

その日から私は、「年に 1度はパンクするものだ」という思い込みを捨て、「パンクなんてしないものなのだ」という想念に切り替えた。すると不思議なことに、たったそれだけのことで、実際にパンクしなくなったのである。

一昨年 9月 25日のエントリーの段階で、3年以上パンクしなかった。そんなことは初めての経験だったので、感動のあまりブログに書いたのだが、その後、記録は更新され続けて、本日、平成 20年 2月 19日まで、約 4年 8ヶ月もの間、1度もパンクしないで済んだのだ。

ということは、今朝、パンクしてしまったというわけなのだが、私としては本当に本当に久しぶりのパンクで、なんだか懐かしい気持ちにすらなってしまった。結果としては、単に想念を変えてみるだけで、パンクの頻度がそれまでの 5分の 1近くにまで低減したのである。これって、驚くべき効果ではないか。

まあ、今朝になって久しぶりのパンクを味わってしまったということは、「パンクなんてしないもの」という私の想念が十分でなかったからか、あるいは単なる偶然の産物と取るかは、そんなことはどっちでもいいのだが、私としては前者でいきたいと思うのである。

よし、今日からは、より強固な想念を抱こう。そうすれば、今度は 10年ぐらいパンクしないで済むかもしれない。

「パンクなんてしないもの」と思い込むことは、とてもお手軽なメソッドであり、多分そう思い込むことによって、無意識のうちにパンクを避ける運転をすることにつながることもあるだろう。少なくとも、ポジティブな想念は精神衛生にもいい。

たまたま道路に落ちている釘を、数センチの差とかで偶然にうまく避けていたのかどうかまでは、わからない。もしそうしたことがあったとしても、「想念」 との因果関係は実証不能なので、突き詰めても意味はない。

因果関係は実証不能だが、「想念を変えたら、その日から急にパンクの頻度が激減した」というのは、紛れもない事実なので、私としては個人的にハッピーになっているということだ。少なくとも、「パンクはするものだ」という想念に戻る理由はない。

それに「パンクしない想念の波動を移しこんだ空気」とかいうものを、高い値段で販売しようなんていうつもりは毛頭ないので、「反疑似科学」 の人も、どうかあまりマジに突っ込まないでいただきたい。神社で交通安全祈願をしてもらってお守りをもらうよりも、ずっと安上がりなのだから。(何しろ、「ただ」 だし)

そういえば、ジャズピアニストの山下洋輔氏が以前、「私の乗った飛行機は絶対に落ちない。なぜならば、私が念力で飛ばしているからだ」というようなことをエッセイに書いていたのを思い出した。うん、この気持ち、わかるなあ!

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2008年2月18日

最大多数の最大幸福

2月 5日の "「かれ」 と見える 「われ」" というエントリーに、きんめさんがとても興味深いコメントを付けてくださった。

で、またしても、「疑似科学」とか「トンデモ」と思われかねない話をする。ただ、これは「水伝」とは違い、「科学」 とは初めから一線を画しておくので、そのあたりよろしく。

このエントリーで私は、『無門関』 の第九則、「大通智勝」という公案について触れて、「私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである」などと、かなり気負ったことを書いた。まさに「トンデモ」に近い。

この「トンデモ」に対して、きんめ さんが、次のようなコメントを付けてくれた。

ちょうど昨晩、友人とそんな話しをしてました。

東洋医学をやってたので、人も宇宙も相似性をもったものと規定して、例えば人の変化は宇宙全体の変化につながり、逆に宇宙の変化は人の変化につながるなんて事はあるよねぇと。(ここでの宇宙はまぁ”世界”って感じではあるんですが)

だったら、とことん自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になるねぇと。

「我が意を得たり」というようなコメントで嬉しくなったのだが、その後、仕事が忙しくなって、このテーマについて語るだけの体力がなくなってしまい、手付かずになってしまっていた。他人はどうだか知らないが、私の場合、知力は体力に規定されがちなのだ。

で、近頃ちょっとネタ切れなので、仕方なく体力を振り絞ってこのテーマについて書く。いかんせん、疲れ気味なので、大したことは書けないが。

「全体」と「個」は、ときに、フラクタル(自己相似)として語られる。全体の中に個の構図があり、個の中にも全体の構図はあるというコンセプトである。カール・ポランニーは 「木を見れば森が見える」と語ったというが、1本の木の本質を本当に見抜くことができれば、そりゃあ、森だって見えるだろう。

1本の木の中に、森の構図はきちんと宿っているはずだからである。ならば、「自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になる」というのも、十分にあり得る。

それどころか、1人の人間をとことん愛してしまえば、全人類を愛することだってできる。そうできないのは、それは「愛している」のではなく、単に「執着している」だけだからだ。そんなこともあって、仏教では「愛」という言葉はあまり好まれない。

言い方を変えれば、人類愛につながらない愛情は、それは「愛している」のではなく、単に相手を「縛っている」のである。同様に、全人類の幸福につながらない幸福は、それは「幸福」 の名に値しない。

「最大多数の最大幸福」という民主主義の理念は、そうした視点から見れば、怪しすぎるものである。「あり得ない」とすら言えるかもしれない。しかし、こうした「信心」の世界のコンセプトを限定的に現世に反映させようとしたものと考えれば、なんとなく落ち着くものがある。

「限定的に」 というのは言うまでもなく、政治家や役人を初めとして、大多数が既得権の確保に汲々としたり、権謀術数によって他人を蹴落としたがる現状によるマイナスが大きいからである。信心を忘れたら、世の中こんなものである。

悲しいことに人間は、「愛」より「執着」が、「自分の幸福」より「相手の不幸」が、より好ましく思えたりするものである。だから面白いといえば、そうに違いないんだが。

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2008年2月17日

当たり前でない状況での当たり前

沖縄の米兵による少女暴行事件に関して花岡信昭氏が産経新聞に書いた "「反基地」 勢力が叫ぶいかがわしさ" という記事があちこちで槍玉にあがっている。

少女に対して 「知らない人についていってはダメ」という「しつけ」が徹底していなかったことが無念だと結ばれた記事だ。

花岡信昭氏については、私は初めからあまり信頼していない。目上の他人に対していきなり 「センスが悪い」 というのもなんだから、「かなりセンスの違う人だなあと思う」 程度に言っておくことにする。ずいぶん思い込みだけでものを言う人のようだとは、以前に分析済みだ (参照)。

「せっかく思いついたことだから、今ここで言わずにはおれん」 という体質は、一昨日に触れた鳩山邦夫氏と共通すると思う。ただ、花岡氏の今回の発言の場合は、鳩山氏ほどエキセントリックじゃなく、つい「そりゃ、そうだ」と言いたくなりそうな内容だけに、もう一つ始末がむずかしい。

花岡氏は、"「反米」「反基地」 勢力が気勢をあげているのは、なんともいかがわしさがにおう" とし、「この事件を政治闘争の具にするというのでは、被害少女への思いやりを欠くというものだ。こういう事件を前にしては、人間の尊厳に対してどこまでも誠実でありたい」と書いている。

そりゃ私だって、この事件を政治的なプロパガンダに、必要以上に利用するのはいかがわしいと思う。しかし、この事件そのものが政治的な意味合いを非常に色濃く持っているのだから、ある程度は政治的なマターとして取り扱わなければならないというのは、当然のことじゃないか。

それに、「被害少女への思いやりを欠く」なんてことを記事の前半で書いちゃった以上は、「しつけ」 云々の話で記事を締めるなんてことは、して欲しくなかったものである。ここで、花岡氏自身の偽善が透けて見える。

事件として起きてしまった以上、どちらかが 100%悪いなんてことはない。そんなのは当たり前だ。「知らん人に軽々しく付いていくな」というのが当然というのと同じぐらい当たり前なのである。

それだけに、花岡氏が "日本の安全保障は米国の「核の傘」が基本" と、当たり前に思っているなら、「街で拾った少女を無理矢理に性的対象にするのはダメ」というのも当たり前なのであって、その当たり前を米国に対して要求するのも当たり前なのである。

そして、この事件が起こってしまったという特殊な状況にある以上、当面はこっちの当たり前の方がより強調されなければならない。

「知らない人についていってはダメ」というのは「普段の当たり前」なのであり、同じ当たり前でも、当たり前でない状況においては、ちょっと使い分けなければならない。当たり前でない状況において、いけしゃあしゃあと「普段の当たり前」を述べてもしょうがない。

泥棒を前にして、「ごめんね、こっちが鍵をかけわすれちゃったから、つい、あんたに出来心をおこさせちゃったんだよね」なんて言うのは、よっぽどの聖人君子である。私は花岡氏がそれほどの聖人君子だとは思っていない。

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2008年2月16日

モバイル・ ブロードバンドは迷うなあ

いやはや、近頃疲れがたまっていて、昨夜もブログの更新なんてものをする気になれず、いつベッドに入ったのか記憶にないほど、いつの間にか眠ってしまっていた。

で、今日は自宅でデスクワーク。仕事がオフというわけじゃないが、どこにも出かけなくて済むだけ、疲れが取れそうだ。

ところで、近頃インターネット関連で迷っていることが 2つある。モバイルのインターネット接続をどうするかということと、「知のヴァーリトゥード」を独自ドメインにしてしまおうかどうかということだ。どちらもとくに緊急を要しないことだけに、いつまでもだらだらと迷っている。

現在、モバイルのインターネット接続は、Nifty Mobile P というのを使っている。完全定額制で、月額は契約当時は確か 9,000円ぐらい取られていたような記憶があるが、現在は 6,825円まで下がっている。

これは PHS サービスで、日本中のフツーに人が暮らしている地域なら大体カバーされている。出先や出張先で、ひょいとスタバなんかに入ってインターネット接続し、和歌ログの更新なんかをするのに重宝している。

ところが、スピードが 128kbs しか出ないので、ブロードバンドに慣れてしまった身としては、いかにも遅い。それに移動しながらの接続に弱いので、電車の中でブログの更新をしようなんてことになると、それはそれはもう、ストレスの固まりと化してしまう。

それで、モバイルでもブロードバンド接続できるサービスを物色しているのだが、いずれも一長一短あって、なかなか決めかねているのだ。

E-mobile というサービスは、定額で料金も月額 5,000~6,000円で済みそうな上に、ブロードバンドの名に恥ずかしくないスピードも出ているみたいなので、かなり魅力的なのだが、カバー地域がまだ日本全国に及んでいないのがネックだ。

とはいえ、大都市圏とその周辺はほとんどカバーされているので、地方都市への出張とかでなければ、ほとんど問題ないのだが、私の実家の酒田市が全然カバーされていないのが痛い。

実家の父は IT にはからきし弱いので、電話回線は昔のままである。だから、今の PHS を解約して実家に帰ってしまったら、ダイヤルアップで 56kbs のスピードに甘んじるしかない。今さら、その速度は勘弁してほしい。

ケータイ・キャリアのデータ通信サービスは、カバー地域は問題ないが、au 以外は月額 1万円ぐらいかかる。au なら 6,000円ちょっとだが、安いだけにユーザーが多いためか、接続がやたらと遅いらしくて評判がよろしくない。

そんなわけで、うじうじと迷い続けているわけだ。今ケータイで使っているソフトバンクモバイルが、月額 5,000~6,000円の定額でサービスを開始してくれたら、今日からでも始めるのになあ。

それから、そろそろ見栄を張って、「知のヴァーリトゥード」 と ブログの "Today's Crack" を独自ドメインで運営してもいいかなあなどと思っているのだが、そうしないと致命的な不都合があるわけでもないので、これもまだウジウジしている。

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2008年2月15日

鳩山邦夫さんて、変な人だね

全員無罪となった鹿児島の「志布志事件」は 「冤罪とは呼べない」という鳩山法相の発言が、かなり話題になっている。

極めて冷静に受け取れば、確かに「厳密な意味での冤罪」ではないだろう。一度も有罪判決を受けていないのだから、「罪」を着せられたわけじゃない。「疑い」が晴れただけだ。

ただ、これは「言葉の解釈上の問題」 あり、法律で「冤罪とは」という定義がなされているわけでは、多分なさそうだし、広義にとるか狭義にとるかで、受け取り方はかなり違う。

後になって鳩山法相自身が「釈明」で語ったように、「冤罪」という言葉の厳密な定義を問題にしたいというなら、単純な理屈としてわからないこともない。ただ、彼自身が語った釈明の言葉というのは、東京新聞のサイトから引用すると、次のようなことである (参照)。

「冤罪という言葉は、全く別の人を逮捕し、服役後に真犯人が現れるなど百パーセントぬれぎぬの場合を言い、それ以外の無罪事件にまで冤罪を適用すると、およそ無罪というのは全部冤罪になってしまうのではないか」

なるほど、言いたいことはわかった。しかし、「無罪が全部冤罪」になったとして、そこにどんな不都合があるというのだろう? 一度逮捕、起訴されている限りは、「無罪になったんだから、冤罪だったんだ」という言い方をしても、とりたてて誰の不利益にもならない。

さらに釈明の中で、彼は「(冤罪とは)百パーセントぬれぎぬの場合」と言っている。この発言からは、「裁判所の判決は無罪でも、本当のところはわからんぞ」というニュアンスすら感じられる。もしそういう意味で言っているのだとしたら、法務大臣としては失格である。

苦労して無罪判決を勝ち取った人に対して、むちゃくちゃ失礼な言い方だ。釈明しようとして、言えば言うほどヤバくなるタイプの人である。

鳩山法相という人は、過去の発言をみても、「友達の友達がアルカイダ」とか、「アメリカ国防総省からご馳走になってた(これって、スパイじゃん?)」とか、 「なんでまた、ここでそんなこと言わなきゃなんないの?」と、思われるようなことを、得々として言う人である。

サッカーで、「ボールを受けちゃったから、適当に思いきりキックしておいた」みたいな感じの発言である。そこには「意図」とか「戦略」とかいうものが感じられない。ただ言ってみたかった、目立ちたかったというだけである。

決して馬鹿じゃないんだろうが、頭の中の回線の具合がちょっと普通じゃないんだろうなと思われる。

【同日 夜 追記】

鳩山氏が社民党の保坂展人氏への答弁として、発言を陳謝したという。

「今後、冤罪という言葉は公式の場では一切使うまいと思う。被告の方々が不愉快な思いをしたとしたらおわびしなければならない」 というのだが、なんという的外れな 「陳謝」 であろうか。

今後、公式の場で 「冤罪」 という言葉を使わなければならないケースが生じたら、どんな言い換えをするのだろうか? 「ぬれぎぬ」 とでも言うのだろうか?

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2008年2月14日

MS-IME で登録単語が消えるバグ

私は日本語入力システムとしては ATOK を贔屓にしているのだが、いつも持ち歩いているモバイル用では、仕方なく MS-IME を使っている。ちょっと型が古くで、HD の容量が少ないため、我慢しているのだ。

ところが、先日、この MS-IME でちょっとしたトラブルに見舞われた。

ある文書を作成していると、単語登録しておいたはずのフレーズが変換できないのである。いつもは、例えば「よろしくお願いいたします」なら 「よろおね」 で変換できる。また、HTML の面倒なタグの連なりのいくつかも登録してある(こんなだから、タグをまともに覚えられないのだが)。

ところが、800以上登録してある単語(あるいはフレーズ)のいくつかが、急に変換できなくなったのだ。

思い返せば、これまでにもこうしたことは 2~3度あったような気がする。その度に、何かの手違いで削除してしまったのかと、あまり気にもせずに改めていちいち登録をやり直していた。

しかし、今回はいくらなんでも気にかかって、「辞書ツール」を開いてみた。すると、あろうことか、50音の「せ」以降の読みで登録した単語が、すべて消えているではないか。おそらく、登録した半分以上が消えてしまっているのだ。

幸いにも、以前に登録単語をテキストベースで出力する機能を使って作成しておいたファイルがあったので、それを読み込ませ、かなりの登録単語(あるいは登録フレーズ)は復活させることができたのだが、それでも、最近登録した単語は生き返らなかった。

これはかなりむっとくる不具合である。インターネットを検索してみると、世の中には MS-IME の登録単語が消えてしまって、泣きの入っている人がかなり多いということがわかった(参照)。

登録単語というのは、ユーザーの財産である。長い期間をかけて自分専用に作り上げてきたものだから、他のものでは代替が利かないのだ。それが、こんなに簡単に消えてしまうようでは、安心して使うことができない。せいぜい自衛手段として、テキストベースで出力して、バックアップをこまめに取っておくしかない。

(登録単語のバックアップは、MS-IME の「辞書ツール」を開き、「ツール - 一覧の出力」で保存することができる)

それにしても、Windows というのはやっぱりアメリカ人なのである。日本語入力システムにおける単語登録なんていうのは、ほんの付け足しぐらいにしか思っていないのだろう。だから、こんなにも簡単に登録単語が消えるというバグをほったらかしなのである。

蛇足だが、Windows をそのまま英語で使っている米英のユーザーは、単語や面倒な固有名詞の登録をどうやっているのだろうと、気になった。

以前聞いたところでは、入力の面倒な長くてややこしいスペルは、"nn1" とか "nn2" なんていう適当なものを入力しておいて、あとで一括置換するというのだが、それだとなんだか面倒な気がする。私が日本人だからだろうか。

【同日午後 追記】

nlog(n) さんの 昨年 10月 24日付の記事によると、この不具合は MS-IME のユーザー辞書ファイルの最大サイズが 64KB に設定されているためで、いわば「仕様」なんだそうだ。

しかし、nlog(n) さんも指摘しておられるように、何の警告表示もなく、登録単語がいきなりごっそり消えるのを「仕様」といわれてもなあ。私はこういうのを「バグ」と言うのだと思うが。

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2008年2月13日

季節予報はビミョー

昨日は風呂に入ると、もう目を開けているのも億劫になり、ばったりと気絶するかのごとき眠りに落ちてしまった。

今年になってから、三が日は休んだものの、それ以外は 1日しか休みが取れていない。ああ、毎週でなくていいから、2週間に 1日は何もすることのない休日が欲しいものである。

というわけで、今日は日付の変わった直後の更新はならず、そのかわり、少しは睡眠不足を補うことができた。それで、朝の常磐線の中でこのエントリーを書いている。今日のジョーバ・ン線運動は、帰りの車内だけにしておこう。

ところで、今日は「この冬一番の寒気」というのが、上空に入ってきているそうなのである。梅の蕾が膨らんできているというのに、妙に寒く感じるのは、歳のせいでも、ジョーバ・ン線運動で体脂肪が減ってきているせいでもなく、単純に気温が低いからのようだ。

思えば、昨年の 11月に発表された季節予報では、暖冬か平年並みになる可能性が高いということだった。ラ・ニーニャ現象が発生すると、厳冬になる確率が高いのだが、それでも寒気を供給する北極圏が地球温暖化の影響でそれほどの力を持っていないので、厳冬にはなりにくいと説明されていたはずだ。

と思ってよく調べたら、昨年 11月に発表されたのは、11月から 1月までの 3ヶ月の予報だった。うぅむ、急に寒くなったのは 1月の松の内を過ぎてからだから、もしかしたら、そんなには外れていないかもしれない。微妙なところである。

いずれにしても、気象庁の発表する 3ヶ月の季節予報の実績は、当たったのが 50%に満たないのだから、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のレベルと思っていればいいのだが。

昔、生ものを食う前に「天気予報、天気予報、天気予報」と、三度唱えるまじないがあった(その心は 「当たらない」)が、これからは 「季節予報、季節予報、季節予報」と唱えるといいと書いたのは、去年の 8月のことだ(参照)。

昨年の 11月、この冬の季節予報発表直後に、「寒い冬になってもたじろがないように、今から覚悟だけは決めておこう」と書いている(参照)。今となれば、覚悟を決めておいてよかったと思うのである。

季節予報の結果がビミョーだろうが外れようが、あきらめずにシステムの改良を重ねていくうちに、そのうちに当たる確立が 60%を越すようになって、「お、3シーズンに 2度は当たるようになったじゃないか」なんていわれる日がくるのだろう。

ただ、そうなればなったで、今度は外れたときのダメージが大きくなる。今なら外れても、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」 で済ませられるが、なまじ当たりだすと、外れたときにクレームが多くなるだろう。ああ、人間の業は限りないものである。

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2008年2月12日

ラーメン vs カレーライス

煩悩則道場の ululun さんが、 「カレーライスは日本の国民食から外れつつあるのか」という疑問に、とても論理的なアプローチをされているが、結論は「わからない」だそうだ。

私の直観的な印象は、「ラーメンばかりもてはやされすぎで、カレーへの関心が逸らされている」というものなのだがどうだろう。

近頃、うまいラーメン屋が確かに増えた。私の学生時代は、ラーメンなんていうのは「街の中華料理屋」で供される、いわゆる「中華そば」が主流で、客としてもとくに「うまさ」なんてものは求めてなかったような気がする。腹が満たされさえすればよかったのだ。

ところがいつの頃からか「ラーメン道」みたいなものがもてはやされてきて、いわゆる「中華そば」のイメージは廃れ、「ラーメン専門店のラーメン」というのが幅をきかせてきた。街を歩けばそんなような店が増えて、競合も激しくなった。おかげでラーメンの世界は裾野が広がり、ピークも高くなった。

ところがその一方で、「カレーライスは取り残されつつある。カレーの世界は今でも、ラーメンが既に過去のものとしてしまった「中華そば」的なレベルから脱していない。「街の食堂の定番メニュー」に過ぎないのである。

「こだわりのカレー」というのを供する店もあるにはあるが、多くはその店の代表メニューというわけではない。中村屋の「カリーライス」にしても、今イチ、インパクトには欠けるきらいがある。

「カレー専門店」というのも、確かにある。しかし、ラーメン専門店ほどの激しい競争に晒されていないから、店ごとのこだわりというのがほとんど感じられない。わずかに「ココイチ」がチェーン店としての存在感を発揮しているが、ラーメンの世界ほどのレベルには至っていない。

この原因は、多くのカレーが「子供の味」に終始しているからだと思うのだ。インパクトに欠けるのだ。多くの店でいうところの「辛口」を注文しても、ちっとも辛くないじゃないか。カレーはいつまで経っても、「黄色いあんかけめし」から脱却できていない。

私は「辛くてうまいカレー」が食べたいのである。ココイチで言ったら 7辛レベルのもので、初めて「カレーを食った」という気がするのだ。カレーにこだわる客のニーズに応えるカレー店が少なすぎだ。

それから「ご当地ラーメン」があっても「ご当地カレー」というのがないというのも、カレーのマーケティングの限界を示している。イメージにラーメンほどの膨らみがない。

願わくは、本場もんの味を出せるインド人の店で修行した日本人が、「インド料理レストラン」ではなく、「昼飯に気軽に食える本物のカレー」といったようなマーケティングをしてくれることだ。そこからカレーの世界はどっと広がって、今のラーメンに対抗できるものになるような気がする。

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2008年2月11日

駆け足で厳島神社に参拝

広島への出張を終え、日付の変わる直前に自宅にたどり着いた。今回の出張はかなり変則的で、先方へのアポイントは 10日午後だったのだが、広島へは前日夜に到着した。時間的にはかなり無駄の多いスケジュールだ。

週末は雪になるという予報だったため、万一に備えて早めに到着したということもある。

本来なら、10日の早朝に出発して、その日の夜は広島に泊まりという予定にしたかったところである。ところが、今日は水戸で仕事が入っているので、どうしても10日中に帰っておかなければならないという都合もあった。

10日の早朝に発って、日付の変わる頃に帰り着くという手もあったわけだが、それだと、あまりにもタイトすぎて、何かあったら対応ができない。というわけで、前日のうちに広島入りというスケジュールを選択したわけだ。

昨日の午前中は何もすることがなかったため、ふと思い立って厳島神社に参拝することにした。晴れ男の私でもあるので、前日の寒々しさとはうって変わり、例によって上々の天気。広島駅に近いホテルから、1時間足らずで宮島の桟橋に着いた。こんなに近いとは知らなかった。

三連休の中日ということもあり、午前中から観光客がかなり多い。フェリーの桟橋では「牡蠣祭り」なんていうのが開催されていて、大変な長蛇の列である。何かよほどのことかと思ったら、土手鍋に並んでいるのだった。すごい。厳島神社を前にして、土手鍋でそんなに時間を潰すというメンタリティが、私にはちょっと理解不能である。

こちらは、午前中に厳島観光をちゃちゃっと済ませなければならないから、急ぎ足である。土産物屋のびっしりと建ち並ぶ参道を過ぎると、ポスターなどで見慣れた海中の大鳥居が見えてくる。300円の拝観料を払って、赤い柱の回廊に歩を進める。

かなりの人出だが、周り中、関西弁と中国語ばかりのような気がする。両方とも、とにかく声が大きいからよく聞こえる。

厳島神社そのものは、あっという間に見終えてしまった。世界遺産という割には、あっさりしたものである。まあ、世界遺産というのは、この宮島の自然をも含めたものだというから、厳島神社だけだとこんなものだろう。周辺の塔や堂閣、宝物殿もさっさと見物し終えて、早々に帰ってきた。

昼前に桟橋に戻ると、土手鍋に並ぶ列は朝の何倍にも延びていて、人また人でごった返している。まったく何事かと思うほどである。日本人は土手鍋に、こんなにまでご執心なのか。ますますもって、よくわからん。

駆け足の観光だったが、印象に残ったのは、あっけらかんとした世俗っぽさだ。土産物屋が元気である。もっと気合いを入れてじっくりと廻れば、また別の印象があるのだろうが、たった 3時間の滞在なので、申し訳ないが、思い入れが残るというほどのこともない。同じ駆け足なら、私としては奈良と京都の方がずっといいなあ。

これで、日本三景の二つは見物した。残りは天橋立である。いつ行けるだろうか。

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2008年2月10日

MS オフィスでなくてもいいんだけど

昨日、新幹線で広島に発つ前に秋葉原のヨドバシカメラに寄ったら、"JUST Suite 2008" のプロモーションをしていた。一太郎を初めとするオフィス・ソフトのセットだそうである。

MS オフィスとの互換が、かなり高いレベルで実現されているとの触れ込みで、しかも値段が安いのだから、かなり魅力的だ。

JUST Suite 2008 の値段は、MS オフィスのユーザー対象の特別優待版で 18,000円だそうだ。MS オフィスの Power Point の入ってるやつは、確か 40,000円ぐらいだから、かなりお買い得である。JUST Suite があれば OS オフィスの読み書きはできるのだから、割り切っちゃえば安い方がいいに決まっている。

いや、近頃では JUST Suite に限らず、Lotus なんかは無料ソフトとして展開しているし、Star Suite という手もある。何も高い MS オフィスなんか買わなくても、十分に用は足りるのである。

普通のユーザーは、Word や Excel でなければならない理由なんてほとんどない。どうせてんこ盛りの機能のうち、10分の 1 も使ってないのだから、互換ソフトで十分だ。

問題は、その辺のパソコンを買うと、初めから Word と Excel がプレインストールされたりしていることだ。安いソフトで十分なユーザーほど、高い MS オフィスのインストールされたマシンを軽い気持ちで買っちゃうというのが、市場の閉鎖性を高めているような気がする。

で、私自身の都合を言ってしまうと、日本語入力システムの ATOK は好きだが、一太郎は昔から性に合わないのだ。残念ながら。ワークシートなんかは別に Excel でなくてもなんでもいいのだけれど、Word だけはちょっと離れられないのが悩みである。

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2008年2月 9日

安物の中国製ダウンウェア

巷は中国製毒餃子の話でもちきりだが、問題は食品ばかりではない。衣料品は口に入るものではないだけに、それほど騒がれないが、やっぱり問題が多いと言わざるを得ない。

私は中国製の安物のダウン・ジャケットやダウン・コートは買う気がしない。中身が見えないだけに、ちょっと気持ち悪い。

最近、中国製のダウン・コートなどで「臭いが気になる」という苦情が増えている。薬品系の目にしみるとか鼻の奥を刺激するとかいうような類ではなく、むっとするような有機的な臭いで、甚だしくは吐き気を催すほどだという。

そんな臭いのなら、購入するときに気付きそうなものではないかと、普通は思うだろうが、店で買うときには気付かないことが多いのだそうだ。着用して体温で暖まると、なんだかむっとしてくるというのだから、始末が悪い。

ダウンにはグース・ダウン(ガチョウの羽毛)とダック・ダウン(アヒルの羽毛)があり、一般的にはグース・ダウンの方がずっと高級だと言われている。しかし中国製はダック・ダウンが圧倒的に多い。食料としてのアヒルからむしった羽毛が豊富に供給されるのだろう。

しかし、ダック・ダウンはグース・ダウンより臭いがきついと言われ、きちんとした洗浄が必要になる。だから、臭いのきついダウン製品というのは、羽毛がよく洗われていないことを示す証拠でもある。

いい加減な洗い方で残ってしまった不純物といえば、まず考えられるのが、アヒルの体から分泌される脂分である。水鳥は自分の体から出る脂分を体中の羽根にすりこんで水を弾いているのだが、そうした脂分は有機物であるだけに、特有の臭いがある。

脂分が残っているとすれば、他の不純物だってこびりついている可能性があり、衛生的にみてもちょっとどうかと思う。ウンコなんかついてないことを願うばかりだ。

臭いはきつくないとしても、安物のダウン衣料品は、生地の織目の隙間からダウンやフェザーが飛び出してきて、中に着ている服にびっしりとついてしまうという苦情も多い。ダウン・ウェア用の生地というのは、目のびっしりとつんだものが望ましいのだが、適当な安物の生地を使うとこうなる。

本来なら、一度不織布などで包んでから、衣料品の中に詰め込むという手順を踏めば、ダウンが飛び出すという不具合は滅多になくなる。しかし、中国製の安物にそこまでのていねいな処理を要求しても無理だろう。

今や日本で流通する衣料品の約 80%が中国製と言うのだから、中国製を避けたら着る物がなくなってしまうのだが、安物のダウンウェアはお奨めしない。

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2008年2月 8日

ずっと気にかかってた看板

近頃、ヘビーなテーマで書きすぎたせいか、ちょっと息切れがしてしまった。で、息切れのタイミングにふさわしい軽いネタを仕入れておいたので、今日はそれを放出したい。

前から気にかかっていたのだが、言い出せなかったことがある。だって、この看板の顔が、見ようによっては、ちょっとコワそうだし。

それは、上野駅の階段に掲げてある電光看板である。かなり大きくて、こんなのである。

080208

あるラーメン屋さんの看板だ。大層おいしいという評判である。私自身は味わったことがないのだが、食べたことのある人はみんな「おいしい」と言っているので、本当なのだと思う。私もそのうち食べたいと思いながら、昼時は行列が並ぶという噂に恐れをなして足が向かないでいる。

そんなわけで、私はその味にイチャモンをつけようというのではない。決してそんなつもりはない。ただ、ずっとずっと前から疑問だったというだけのことなのだ。

何が疑問なのかというと、"東池袋本店に通い続けて「20年」 その間食べたラーメン 1000杯 ついに上野に暖簾分け" というコピーについてなのだ。20年通い続けて、1000杯のラーメンを食べたというのである。その「1000杯」の文字は、一段と大きなフォントで強調してある。

しかし 20年で 1000杯といえば、10年で 500杯、1年で 50杯である。1年は 52週とちょっとだから、平均すれば 1週間に 1杯も食べてないことになる。その程度のことで、暖簾分けなんてしてもらえるのかなあ。

私は個人的に 10000杯(1万杯)の書き間違いかもしれないと思っているのだが、それだと 1日に 1杯以上ということになるし、本当のところはどうなんだろう?

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2008年2月 7日

ヴィトンの価値が変容する日

ルイ・ヴィトンは、おそらく日本市場に限った話だと思うのだが、「最も大衆的な高級品」などと言われている。

日本国内において全世界売り上げの約 4割に達する 1500億円以上の売り上げを誇り、並行輸入、渡航先での購入を含めると、日本人向けの販売は約 6割になるという。

何しろ、ルイ・ヴィトンの名は誰でも知っているし、あのモノグラムを見てすぐにヴィトンとわからない者は少ない。日本女性の 3人に 1人が所有しており、20代女性に限れば ほぼ半数が所有しているというのだから、すごい。(個人的には「狂気の沙汰」と思うが)

日本におけるこの特異な「ヴィトン人気」は、冒頭に挙げた「最も大衆的な高級品」という不思議なイメージに支えられるところが大きいだろう。つまり、「高級品」でありながら「大衆的」という二面的な価値観が特徴である。

単に「高級」というだけでは、これほどまでに売れない。「大衆性」という要素があればこそ、誰でも安心して、所有していい気持ちになれるのである。この二面性は、日本におけるヴィトンの成功のキーポイントと言える。しかし、いずれこの二面性が崩れてしまう日がくるかもしれないことも、覚悟しなければならない。

ヴィトンの製品のあの「素晴らしい」値段というのは、「モノ」としての価値を買うのではなく、言い古されたことだが、「満足感」を買うのである。その満足感は、「これは高級ブランドですよ」という看板からくる。

メーカーは、単なる塩化ビニール・バッグの高級ブランドとしてのイメージとステイタスを維持するために莫大な金を使い、その金は製品の値段に含まれる。つまり消費者はメーカーに対して、「未来永劫に、このステイタスを維持してくれるだろうな」という委託金を預けているようなものだ。

その信用委託の崩れる日が来るとしたら、ブランドの価値は一体どうなるだろう。

ルイ・ヴィトンは今、中国でのマーケティングに力を入れている。さらにインド市場の可能性にも注目しているらしい。とくに中国はいまや、世界一の「成金市場」である。経済成長とともに、ヴィトンの売り上げは急増し、そのうち、確実に日本での売り上げを抜くだろう。

ヴィトンの最重要市場は、日本から中国に移る。中国から大挙して押し寄せるツアー客が皆、あの特徴的なモノグラムのバッグをぶら下げて、辺り構わぬ大声で会話しながら街を歩き、電車に乗り込んでくるだろう。

その時、ヴィトンの価値の二面性は変容するかもしれない。それは日本の消費者にとって、「最も大衆的な高級品」というより、「あまりにも大衆的過ぎる高級品」になってしまう可能性がある。既に今でもその萌芽は見え隠れしているが。

20年以上前にヴィトンを購入した消費者は、既に「委託金」として預けた金額の元は十分取った。むしろお釣りがくるぐらいだろう。しかし、今後ヴィトンを買う人は、「子供や孫の代にまで残せる高級品」という謳い文句を、そのまま信じていいものだろうか。

確かに「モノ」としては残せるだろう。しかし「ステイタス」という情報を発信できる品物としては、子供や孫の代まで残せるだろうか。申し訳ないが、私には疑問である。

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2008年2月 6日

「何でこんなことがわからん?」

「何でこんなに当たり前のことが、わからないんだ」 と、腹を立てる人がいる。自分には 「当たり前」 でも、他の人にはそうでないこともあるということを、彼は理解していない。

そんな人ほど、「わからせるための説明」 は下手である。そして時には、いくら説明してもわからないということもある。

昔気質の職人ほど、弟子には懇切ていねいに仕事を教えるということをしない。「こんな当たり前のことは、見て盗んで覚えろ」 と言う。これも一つの教育論である。教えなくても伸びる弟子は、大変な才能を発揮することが多いし、懇切ていねいに教えなければわからないような弟子は、結局のところ、ハイレベルな職人になる可能性が低い。

しかし、何でも 「見て盗んで覚えろ」 と突き放すのも考え物である。「見て盗んで覚える」 ことのできる才能あふれる弟子に、最初からエッセンシャルな技術を筋道立てて教えると、とても短期間のうちに優秀な職人になる。

昔ほど職人やものづくり技術者志願の若手がいない今の世の中で、昔流の教え方 (教えないやり方) を踏襲しすぎると、優秀な職人・技術者が激減してしまうおそれがある。裾野が広くないと、ピークも高くなりにくいから、それは社会的損失である。

そのため、最近のもののわかった親方あるいは指導者は、「最初からきちんと教える」 というメソッドを重視する傾向がある。そのため、元々才能のある新人は驚くほど上達が早い。やはり、「きちんと教える」 に越したことはないのである。

職人仕事だけでなく、礼儀作法、マナー、望ましいコミュニケーションの仕方、円滑な人間関係の構築の仕方など、社会生活という範疇においても、「初めからきちんと教えておく」 ということは大切だ。それがないと、「あいつは常識がなくて、箸にも棒にもかからない」 なんて言われてしまう。

ただ、最初に触れたように、社会的な問題の 「当たり前」 というのはたった一通りというわけではない。いろいろな当たり前がある。だから、一つの価値観だけを押し付けないということは、前提としておかなければならない。

そして、あるシチュエーションにおいてもっとも妥当と思われる 「当たり前」 を、いくら懇切ていねいに説明してもわからない (あるいは、「頭でわかっても実行できない」) ということもある。

理解力は人並みなのに、どうしてもわからないというのは、どうしてもわかりたくない事情があるのである。問題は、その 「どうしてもわかりたくない事情」 というのを、当の本人が明確にわかっていないということだ。精神分析でいうところの 「無意識」 の領域である。

だから、そうした人には、いくら 「その状況で最も当たり前で最も妥当なこと」 でも、押しつけてはならない。押し付けられると、ますますおかしなことになる。どうせ身に付かないし、プレッシャーに負けそうになって、「自分は社会生活不適格ではないか」 と悩むことになる。

気の毒な彼または彼女が、「当たり前のことをわかる」 ようになるためには、「どうしてもわかりたくない事情」 を取り除く手伝いをしてあげなければならない。悪いことに、当の本人はその事情を自分で意識していないのだから、それは周囲がわからせてあげる必要がある。

しかし、さらに悪いことに、当の本人は、その事情を自分でもよくわかっていない上に、それをわかろうとすることにも猛烈な抵抗をするのである。「わかりたくない事情をわかりたくない自分」 というのも、金輪際わかりたくないのである。

こうなると、残されるのは精神分析的アプローチか、宗教的アプローチかのどちらかである。精神分析的アプローチが発見されていなかった昔は、宗教的アプローチしかなかった。それもほとんどは 「まじない」 のレベルのメソッドだった。それでも 「効くときは効く」 のだから、たとえ迷信でも退けるほどの理由はなかったのである。

だったら、精神分析的と宗教的の二つのメソッドをうまく組み合わせたら、多くの悩める人を救えるかもしれない。しかし問題なのは、まともな宗教よりも、怪しげな手法で人を洗脳してしまうカルトの方が、このメソッドの有効性にきっちりと気付いているらしいということである。

だから私は、「狂信」 ではなく、穏やかな 「信心」 の方に信頼をおきたいと考えるのである。狂信と精神分析は結構金がかかるが、穏やかな信心は安上がりで、それに副作用も少ない。

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2008年2月 5日

「かれ」と見える「われ」

昨日(参照) は、煎じ詰めれば「個人という幻想」ということについて書いたようなつもりになっているのだが、その関連で、もうちょっと補足しておきたいことが見つかった。

それについては既に書いている(参照)のだけれど、ココログの方にはまだアップしてないので、改めて触れておきたいと思う。

それは、「大通智勝」 という禅の公案である。このブログではお馴染みの禅の公案集『無門関』の第九則だ。

ある僧が興陽の清譲和尚に「大通智勝如来 (だいつうちしょうにょらい)が十劫(こう)もの長い間、道場で座禅を組んだのに仏道を悟れなかったのはなぜか」と問うと、清譲和尚は「そんなのは言うまでもない。『かれ』が成仏しなかったからだ」と答えたというのである。

大通智勝如来というのは、仏の智恵に大きく通じて勝る如来という名の如く、最高級の悟りを得た存在なのだが、十劫というとてつもなく長い間、道場に結跏趺坐しても、悟りを得られなかった時期があったというのである。

十劫というのは一劫の 10倍という長い時間である。5倍してちょっと擦り切れさすと、落語の「寿限無」になる。ちなみに、一劫がどのくらいの長い時間かというのは、件の記事の 2日後、こちら に書いておいた。

本題に戻る。僧の質問への清譲和尚の回答は、正確には「伊(かれ)が成仏せざるが為(ため)なり」 というものだった。この答えを、「大通智勝如来といえども、迷っている間は『悉有仏性』という釈迦牟尼仏の教えに気付かなかった」と、私はずっと解釈していた。

しかし、そればかりでは一面的すぎる理解だったようなのだ。この「伊(かれ)が成仏せざる …… 」の「伊」というのは、普通は三人称代名詞と考えられているが、本来は人称に捉われない言葉のようなのだ。

手元にある 『携帯新漢和中辞典』(三省堂)で引いてみても、最初に「コれ、コの」 、二番目に「カれ」が出てくる。 少なくとも、一人称と三人称に近い使われ方はされてもいいようだ。さらにネットで検索してみると、"元代の戯曲における二人称をあらわす 「伊」" という研究も見つかった (参照)。

とすれば清譲和尚の答えは、表向きの意味の裏に、「それは、お前(あるいは「私」でもいい)が悟らないからでもあるのだよ」という諭しを込めていると受け取らなければ、表面的理解に終わってしまう。ああ、大通智勝如来がそんなに難儀したのは、とりもなおさず、私が悟らなかったからでもあったのだ。

私が悟りを開いた瞬間、大通智勝如来が悟るのである。私は個人としての私であるばかりでなく、森羅万象につながった普遍の私でもある。私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである。大変申し訳ないことなのである。

禅というのはなかなか厳しいもので、森羅万象の責任は自分にあり、その責任逃れはできないことになっている。本来なら、私ごときの理解のレベルでは、うかつにさわれないほどのものなのだが、私はその辺りは、ずいぶん無鉄砲なのである。

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2008年2月 4日

"Individual" の意味

「個人」を英語で "individual" という。この単語は、文字通り受け止めれば「分割不能」の意味というのは、ご存知の通りだ。

学校ではその語源について、「社会を分割(divide)していき、これ以上分けられない最小単位に達するのは、"個人" というレベルだから」と、フツーは教わることになっている。

このことを知ったとき、私はもやもやっとした違和感に襲われた。その違和感の正体が何であるかは、当時は知るよしもなく、「西洋的な考え方としては、そうなるのかなあ」と、納得しようとした。

で、無節操なことに、そのように一度納得してしまうと、"individual" という単語に関しては、私は西洋人になってしまったのであった。社会を構成する最も重要な要素は「個人」であると、疑いもなく思うようになった。

そのように単純素朴に納得していた私の目の前に、ある日、滅茶苦茶エキセントリックな米国人が登場した。30年以上前に知り合った Ron である。彼は "individual" という単語を「個人」(each person)と解釈するのは大きな誤解であると、情熱を込めて主張するのだった。

「"Individual" という言葉の語源を知ってるか?」と、彼は問いかける。「それはね、divide できないという意味なんだよ」

「うん、わかってるよ。だから、一人一人の人間なんだろ?」 と私は面倒くさそうに言う。

「違う違う、分割できないのは、人類なんだよ。我々は、一つのファミリー以上のものなんだ。だから、一つ(whole)なんだ。結びついてる (united)んだ。So, We are individual. (だから、我々は individual なんだよ)」

"We are individual." を、「我々は (単数形の) 個人なんだ」 と訳すと、ナンセンスになる。彼は、「我々人類は、分割不可能なんだよ」 というニュアンスを訴えたかったんだろうと思う。なかなか興味深いが、それを英語でコミュニケートするというのは、とても疲れた覚えがある。

私は Ron が何か得体の知れない新興宗教にかぶれていて、私を勧誘しているのかと警戒していたから、極力まともに取り合わないようにした。

「それは、我々の考えている君たち西洋人のコンセプトとはかなり違うようだね」

「そりゃ、違うさ。我々は、大きな誤解をしていたんだ」 Ron はあくまでも大まじめに主張する。

後でわかったことだが、彼は新興宗教というよりは、東洋思想にかぶれていて、極端に個人主義に振れてしまった西洋思想からの脱却を図っていたのだった。だから、東洋人でしかも禅坊主の孫であり、なおかつ合気道なんていう「神秘的武道?」をやっている tak-shonai という男なら、話が通じると思ったらしい。

ところが間の悪いことに、私は変なカルトはご免だと警戒ばかりしていたので、けんもほろろに軽くあしらってしまった。今から思うと、Ron には申し訳ないことをしてしまったのである。

彼はその後しばらくして、米国に帰ってしまった。おそらく、多くの日本人は不幸なことに東洋の心を忘れてしまっていると嘆きながら。

ふいに、エキセントリックな米国人、Ron のことを思い出してしまったのは、「根元的存在のビヘイビアとしての複数」という自分の過去ログをたまたま読み返したからである。私は、このエントリーで次のように書いている。

日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

そうか、あの時 Ron の言っていたのも、このようなことだったかもしれないと、30年も経ってから思い至ったのである。複数の人間のように見えているのは、単に「見かけ」だけであり、根元は分けられない「一つの存在」なのだと。

ただ、「一つである根元」が、その派生する仮の姿としての「個人」を現出させているのだとしたら、せっかくの派生なのだから、見かけ上だけでもせいぜい多様性を発揮してみるのも一興ではないかと、私は考えている。

一つの価値観だけで全てを規定するというのは、考え物だ。多元的な価値観を自由に適用してこそ、世界というのは面白いんじゃないか。それに、いくら「多元的」でも、根っこの部分が「一つ」なら、元々「素敵な根元的予定調和」なんだから、喧嘩にもならないしね。

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2008年2月 3日

「水伝」については、はい、これで終わり

初めは正直言って「馬鹿馬鹿しい」ぐらいに思っていた「水伝論争」だが、なかなかどうして、面白いことになってきている。

で、私自身の考えを整理してみたら、ずいぶん単純なことなのだった。要するに、「愛と感謝の想念は好き」だけれど、「"水商売" はうっとうしい」というだけのことなのである。

私は実を言って、「水からの伝言」という本を読んだことはおろか、見たこともなければ、江本勝氏という人に興味をもったこともない。ただ、一見ファンタジックなことを言いつつ、変な商売にまで歩を進めている人らしいという認識があるのみである。

で、私はこの江本氏に代表されるような存在が、ご当人たちには恐縮だが、ちょっとうっとうしいのである。「愛と感謝の想念」は大切だが、それを説くのに、そんな水の結晶とか「波動」なんていう話を持ち出さなくてもいいじゃないかと、内心ではむかついていることに気付いたのだ。

ただ、ここで誤解を恐れずに言うのだが、「愛と感謝の想念」を注ぎ込んだ水が、「とてもいい水」になっていても、それは全然不思議じゃないとは思う。結晶の形が美しいかどうかは知ったことじゃないが、もしかしたら美しくても、それはそれでいいかもしれんぐらいには感じている。

"「科学的法則」 が、いつもは(この「いつもは」という部分は強調しておきたい)この世界で淡々と働いている" ということに信頼をおきながらも、時にはそれ以上の法則が働くこともあるなんてことを、私は本気で信じている。

だから、他人から「科学の当事者」と勝手に規定される(参照)のは、実害があるわけじゃないから別にいいんだけど、「やっぱり少しだけ心外かも」なんて感じているわけだ。

科学以外の法則が働くことがあるという私の信念は、改めて説明するのは面倒だが、これまで「哲学・精神世界」というカテゴリーで書いてきたエントリーのいくつかを読んでいただければ、共感するかどうかは別として、「そんなような、ちょっと変な信念もっちゃってる人なのね」ということぐらいはわかっていただけると思う。(読めと頼んでるわけじゃないけど)

ここで江本氏の話に戻るが、彼の論理はあまりにも単純すぎて、ファンタジーの世界での「出来具合」としても、「ちょっと待て」といいたくなる程度のものでしかないと思っている。この程度のコンセプトの持ち主に、人生相談を持ちかけようとは思わない。

それに、やや繰り返しになるが 「愛感謝」を説くのに「水の結晶」なんていう道具立てを使おうとは、私なら決して思わない。

「水伝」はちょっとセンセーショナルで、確かに世の中の話題にはなるだろうが、別のプロセスでより効果的に説けることを、怪しげな道具立てで語ったせいで、結局は「愛と感謝の価値」まで損ねてしまうことになりかねないと、私は危惧する。

現実に「水伝」の単純ビリーバーたちの中には、科学の立場からの水伝批判によって、「愛と感謝の大切さ」まで否定されたような気分になり、その結果、自ら「愛と感謝」を忘れて感情的反応を示したりする人もいるのが、ちょっと残念だ。

水の結晶の形ぐらい、どうだっていいじゃないか。大切なのは「愛と感謝」の方でしょ。「健康のためなら命も惜しくない」みたいなエキセントリックな態度は、洒落だけにしときたいものだ。

それから、これはもしかしたら薄っぺらな処世術に過ぎないのかもしれないので、余計なお世話かもしれないが、科学の立場からの水伝批判者の方にも、いわゆる "yes, but" のレトリックぐらいは学んでもらいたいと思ったものである。

「あなたのいう『愛と感謝』の大切さは、とてもよくわかる。だけどそれと水の結晶というのは、科学の立場からすると、全然関係ないんだよね」というような言い方だったら、それほど角が立たずに済むんだよね。

「いや、"水商売" のトンデモな連中には、そんな生やさしい言い方じゃ通じん」と反論されるかもしれないが、連中にはどんな激烈な言い方をしたって、どうせ同じである。しかし大多数の「穏健水伝ビリーバー」とは、それで何の問題もなく握手できると思うよ。

だます連中はどうせ宗旨を変えないのだから、彼らと争うよりも、マーケットの方の常識と握手する方が賢い。穏健ビリーバーとまで争う必要はない。逆効果である。科学とファンタジーは、使う筋肉が違うんだから、無理矢理同じ土俵に上がって角突き合わす必要はないのである。

というわけで、水伝については、とりあえずこれで終わりにしたいと思う。

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2008年2月 2日

「変てこな写真」コレクション

私は 「和歌ログ」 というサイトもやっていて、これは毎日毎日、写真 1枚と 和歌 1首のセットでアップしていくというものである。

毎日何かの写真をアップしなければならないので、いつもコンパクト・デジタルカメラを持ち歩くのが習慣になってしまった。それで、時には変てこな写真も撮ってしまうのである。

で、そんな写真がかなりたまってしまったので、その内のいくつかを紹介してみよう。

まず、つい最近撮ったのが、あるそば屋の看板である。そば屋の看板には、「そば」 というのを変体仮名で書いてあることが多く、「ば」という字は「者」の崩し字で、「む」という字に似ている。

しかしこれは、どう見ても 「む」 そのものである。ちょっと困ったことなのである。この看板を請け負った看板屋さんは、もしかしたら、あちこちのそば屋さんを「そむ屋」にしてしまっているかもしれない。

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で、お次は今をときめく食品の表示ラベルである。これは、別に偽装表示というわけではない。しかし、偽装表示よりもずっと「トンデモ」には違いない。

何しろ 「消味期限」 なのである。この食品は、陳列されてから 4日経つと、味が消えてしまうものらしい。早く食べないと、味がしなくなってしまうのだから、文字通りの「賞味期限」といえるかもしれない。

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次は、あるスーパー銭湯のトイレで見つけた貼り紙である。「このトイレットペーパーは芯がありません。最後までご利用いただけます」 と書いてある。

うん、芯のないトイレットペーパーは、我が家でも使っている。ボール紙の芯なんて、別に要らないのである。そして、その方が資源節約にもなろうというものである。

しかし、「芯がない」ということと、「最後までご利用」いただけるというのは、一体どう結びつくのだろうか。普通は芯があろうがなかろうが、最後まで使う。もしかして、このスーパー銭湯の経営者は、ボール紙の部分まで使わないと、最後まで使ったとは認めないという頑固者なのだろうか。

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昔、ビニール袋のことを「ナイロン袋」と言ってしまうジイサンやバアサンが、少なからずいた。しかし、最近はいくら何でもいなくなったと思っていた。

しかし、そうではなかった。この食品の袋はどうみてもビニールなのだが、製造者はそうは思っていないらしい。

「お客様へお願い」という表示に、「ナイロン袋を開かれましたら … (中略) … 以内にお召し上がりください」と、ていねいに表示してある。なかなかのものである。

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最後はかなり有名な風景である。東京新橋から「ゆりかもめ」に乗ってレインボーブリッジを渡る直前に見えるビルだ。「YOKOSO」と書いてあるので、「ようこそ」と歓迎の意を表しているのだと信じている人も多い。しかし、そうではない。

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どうやら、これは「横浜倉庫」という会社のビルのようなのだ。それで「ヨコソウ」なのである。別に歓迎してもらっているわけじゃなかったのだ。

世の中には、不思議なものがいくらでもある。

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2008年2月 1日

「百尺竿頭」の意味

「百尺竿頭」 という禅語がある。地上に立てられた百尺の竿の先ということだが、この言葉はたいてい 「百尺竿頭進一歩」 という七文字で掛け軸に書いてあったりする。

百尺といえば約 30メートルの高さということになるが、そこから一歩進めというのだから、禅というのは、よほど無茶をいうものである。

この禅語、普通は 「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)より一歩を進む」と読む。「百尺」は「ひゃくせき」と読んだりもする。

30メートルの高さの竿の先から一歩踏み出したら、落ちるに決まっている。しかも、昔の中国の度量衡では、1尺というのは 36センチぐらいだったという説もあるから、約 36メートルの高さから一歩踏み出せというのである。死ぬ確率がますます高いのである。

ところが、私はつい最近まで、この「百尺竿頭進一歩」という禅語の意味を誤解していたのだ。「百尺竿頭」というのは、高く立てられた竿の先のような、「にっちもさっちも行かない不安定なポイント」という意味だと思っていたのである。

「そんな不安定な危ない場所にいるよりは、一か八か空中に踏み出してみる方がましだ」というようなことだと、私は解釈していた。もちろん、「不安定な危ない場所」というのは、日常生活を送る娑婆のことだ。安定しているように見えても実は不安定なのだと解釈したら、ずいぶんもっともらしい。

ところが、本来の意味は違っているようなのだ。「百尺竿頭」とは、「到達すべき最高点、向上しうる極致のたとえ」という意味だったのだ(参照)。とんでもない間違いをしていたものである。

「不安定な危ないポイントにいるよりは、一か八か、リスクを冒した方がいい」というようなことなら、「俺だって、しょっちゅうしてるかも」ぐらいに思っていたのだが、リスクを冒すという行為の前提が「最高点まで上りつめる」ということだったら、話は全く別である。

「最高点まで上りつめた」と、満足しているだけではだめで、そこからさらに、空中に向かって一歩踏み出せと言っているのである。こんなことなら、「しょっちゅうしてる」どころじゃなく、途中の三十尺付近にも到達していない。

ただ、「たとえ最高点に到達したと思ったとしても、さらに常識外れのダイビングをしなければならない」というぐらいの意味に拡大解釈すると、私のような向こう見ずの人間には、ちょっと心強い言葉になる。しょっちゅう常識外れをするお墨付きをもらったような気分になる。

まあ、禅語は「しょっちゅう常識外れをしろ」と言っているわけじゃなく、「さらなる向上のためには、恐れずに命をかけて踏み出さなければならない時がある」と言っているわけなのだが。

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