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2008年2月 5日

「かれ」と見える「われ」

昨日(参照) は、煎じ詰めれば「個人という幻想」ということについて書いたようなつもりになっているのだが、その関連で、もうちょっと補足しておきたいことが見つかった。

それについては既に書いている(参照)のだけれど、ココログの方にはまだアップしてないので、改めて触れておきたいと思う。

それは、「大通智勝」 という禅の公案である。このブログではお馴染みの禅の公案集『無門関』の第九則だ。

ある僧が興陽の清譲和尚に「大通智勝如来 (だいつうちしょうにょらい)が十劫(こう)もの長い間、道場で座禅を組んだのに仏道を悟れなかったのはなぜか」と問うと、清譲和尚は「そんなのは言うまでもない。『かれ』が成仏しなかったからだ」と答えたというのである。

大通智勝如来というのは、仏の智恵に大きく通じて勝る如来という名の如く、最高級の悟りを得た存在なのだが、十劫というとてつもなく長い間、道場に結跏趺坐しても、悟りを得られなかった時期があったというのである。

十劫というのは一劫の 10倍という長い時間である。5倍してちょっと擦り切れさすと、落語の「寿限無」になる。ちなみに、一劫がどのくらいの長い時間かというのは、件の記事の 2日後、こちら に書いておいた。

本題に戻る。僧の質問への清譲和尚の回答は、正確には「伊(かれ)が成仏せざるが為(ため)なり」 というものだった。この答えを、「大通智勝如来といえども、迷っている間は『悉有仏性』という釈迦牟尼仏の教えに気付かなかった」と、私はずっと解釈していた。

しかし、そればかりでは一面的すぎる理解だったようなのだ。この「伊(かれ)が成仏せざる …… 」の「伊」というのは、普通は三人称代名詞と考えられているが、本来は人称に捉われない言葉のようなのだ。

手元にある 『携帯新漢和中辞典』(三省堂)で引いてみても、最初に「コれ、コの」 、二番目に「カれ」が出てくる。 少なくとも、一人称と三人称に近い使われ方はされてもいいようだ。さらにネットで検索してみると、"元代の戯曲における二人称をあらわす 「伊」" という研究も見つかった (参照)。

とすれば清譲和尚の答えは、表向きの意味の裏に、「それは、お前(あるいは「私」でもいい)が悟らないからでもあるのだよ」という諭しを込めていると受け取らなければ、表面的理解に終わってしまう。ああ、大通智勝如来がそんなに難儀したのは、とりもなおさず、私が悟らなかったからでもあったのだ。

私が悟りを開いた瞬間、大通智勝如来が悟るのである。私は個人としての私であるばかりでなく、森羅万象につながった普遍の私でもある。私が悟れば世界が悟るはずなのに、世界が混迷を深めているのは、私が迷っているからである。大変申し訳ないことなのである。

禅というのはなかなか厳しいもので、森羅万象の責任は自分にあり、その責任逃れはできないことになっている。本来なら、私ごときの理解のレベルでは、うかつにさわれないほどのものなのだが、私はその辺りは、ずいぶん無鉄砲なのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

>私が悟れば世界が悟るはずなのに

ちょうど昨晩、友人とそんな話しをしてました。

東洋医学をやってたので、人も宇宙も相似性をもったものと規定して、例えば人の変化は宇宙全体の変化につながり、逆に宇宙の変化は人の変化につながるなんて事はあるよねぇと。(ここでの宇宙はまぁ”世界”って感じではあるんですが)

だったら、とことん自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になるねぇと。

超個人主義的全体主義(なんて言葉はないけれど)。

”色即是空、空即色是”みたいなものかな。

投稿: きんめ | 2008年2月 5日 17:33

きんめ さん:

フラクタルですね。

>だったら、とことん自分の周りの小さいレベル(家族だとか)で幸せを追い求めるのは、世界を変える事になるねぇと。

これって、言えてると思います。
逆に言えば、世界の幸せにつながらないのは、本当の幸せじゃないと。

実は以前、おちゃらけたフラクタル論を書いてます。

http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/bitsophy/bit_008.htm

投稿: tak | 2008年2月 5日 23:18

レーニンだったかの著書にも「イワンは人間である」という命題は、イワンという「個」と、人間という「普遍」との矛盾をアウフヘーベンさせたもの云々というくだりがあった気がします。
唯物論者のクセに禅問答みたいなことを言うなぁと思ったものです。

禅よりはかなり浅いですけどね(^^;

投稿: Adrienne ◆HI8ebVe8lo | 2008年2月 6日 11:12

Adrienne ◆HI8ebVe8lo さん:

私、レーニンの著作は全然読んでないですが、その 「イワン云々」 は聞いたことがあります。

ものすごくもっともらしく聞こえて、「なるほどね」 と思いました。「それがどうした?」 ということになると、ぴんとこないんですけど。

投稿: tak | 2008年2月 6日 12:12

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