「水伝」については、はい、これで終わり
初めは正直言って「馬鹿馬鹿しい」ぐらいに思っていた「水伝論争」だが、なかなかどうして、面白いことになってきている。
で、私自身の考えを整理してみたら、ずいぶん単純なことなのだった。要するに、「愛と感謝の想念は好き」だけれど、「"水商売" はうっとうしい」というだけのことなのである。
私は実を言って、「水からの伝言」という本を読んだことはおろか、見たこともなければ、江本勝氏という人に興味をもったこともない。ただ、一見ファンタジックなことを言いつつ、変な商売にまで歩を進めている人らしいという認識があるのみである。
で、私はこの江本氏に代表されるような存在が、ご当人たちには恐縮だが、ちょっとうっとうしいのである。「愛と感謝の想念」は大切だが、それを説くのに、そんな水の結晶とか「波動」なんていう話を持ち出さなくてもいいじゃないかと、内心ではむかついていることに気付いたのだ。
ただ、ここで誤解を恐れずに言うのだが、「愛と感謝の想念」を注ぎ込んだ水が、「とてもいい水」になっていても、それは全然不思議じゃないとは思う。結晶の形が美しいかどうかは知ったことじゃないが、もしかしたら美しくても、それはそれでいいかもしれんぐらいには感じている。
"「科学的法則」 が、いつもは(この「いつもは」という部分は強調しておきたい)この世界で淡々と働いている" ということに信頼をおきながらも、時にはそれ以上の法則が働くこともあるなんてことを、私は本気で信じている。
だから、他人から「科学の当事者」と勝手に規定される(参照)のは、実害があるわけじゃないから別にいいんだけど、「やっぱり少しだけ心外かも」なんて感じているわけだ。
科学以外の法則が働くことがあるという私の信念は、改めて説明するのは面倒だが、これまで「哲学・精神世界」というカテゴリーで書いてきたエントリーのいくつかを読んでいただければ、共感するかどうかは別として、「そんなような、ちょっと変な信念もっちゃってる人なのね」ということぐらいはわかっていただけると思う。(読めと頼んでるわけじゃないけど)
ここで江本氏の話に戻るが、彼の論理はあまりにも単純すぎて、ファンタジーの世界での「出来具合」としても、「ちょっと待て」といいたくなる程度のものでしかないと思っている。この程度のコンセプトの持ち主に、人生相談を持ちかけようとは思わない。
それに、やや繰り返しになるが 「愛感謝」を説くのに「水の結晶」なんていう道具立てを使おうとは、私なら決して思わない。
「水伝」はちょっとセンセーショナルで、確かに世の中の話題にはなるだろうが、別のプロセスでより効果的に説けることを、怪しげな道具立てで語ったせいで、結局は「愛と感謝の価値」まで損ねてしまうことになりかねないと、私は危惧する。
現実に「水伝」の単純ビリーバーたちの中には、科学の立場からの水伝批判によって、「愛と感謝の大切さ」まで否定されたような気分になり、その結果、自ら「愛と感謝」を忘れて感情的反応を示したりする人もいるのが、ちょっと残念だ。
水の結晶の形ぐらい、どうだっていいじゃないか。大切なのは「愛と感謝」の方でしょ。「健康のためなら命も惜しくない」みたいなエキセントリックな態度は、洒落だけにしときたいものだ。
それから、これはもしかしたら薄っぺらな処世術に過ぎないのかもしれないので、余計なお世話かもしれないが、科学の立場からの水伝批判者の方にも、いわゆる "yes, but" のレトリックぐらいは学んでもらいたいと思ったものである。
「あなたのいう『愛と感謝』の大切さは、とてもよくわかる。だけどそれと水の結晶というのは、科学の立場からすると、全然関係ないんだよね」というような言い方だったら、それほど角が立たずに済むんだよね。
「いや、"水商売" のトンデモな連中には、そんな生やさしい言い方じゃ通じん」と反論されるかもしれないが、連中にはどんな激烈な言い方をしたって、どうせ同じである。しかし大多数の「穏健水伝ビリーバー」とは、それで何の問題もなく握手できると思うよ。
だます連中はどうせ宗旨を変えないのだから、彼らと争うよりも、マーケットの方の常識と握手する方が賢い。穏健ビリーバーとまで争う必要はない。逆効果である。科学とファンタジーは、使う筋肉が違うんだから、無理矢理同じ土俵に上がって角突き合わす必要はないのである。
というわけで、水伝については、とりあえずこれで終わりにしたいと思う。
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コメント
はじめまして。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/
はお読みになっているでしょうか?
水伝批判の総本山(?)のようなサイトですが、
庄内さまがこのエントリで主張されていることが
ほぼ完璧な形で達成されていると思います。
既にご存知でしたら申し訳ありません。
投稿: t_u | 2008年2月 3日 07:08
ハイ、ありがとうございました。
考えるきっかけを、たっぷり与えてもらいましたので、大きく感謝です。
また、現実の自分と照らし合わせて、一喜一憂、考える葦の生活です。
投稿: オッチャン | 2008年2月 3日 09:33
江本さんという人間を知ったのは、このブログからですが、水という生きてるもの全てが必要とするもので具体的に示したから賛否両論なんですね。もっと、ウヤムヤな抽象的なたとえだったら道徳的に絶賛されたのでしょうか?。
疑似科学は、それこそ後出しジャンケンそのものであると私は感じてます。科学的に証明されないものもあって良いと思うが、あたかも立証されたような言い方は嫌いですね。学生時代(takさんの後輩です。大久保ですが)は、実験のデータ・データで明け暮れ、数値が全てでした。予測があって実証が無いという事は発表できませんが、実証があって予測を付け加えるというのは禁じ手という事を教え込まれました。
社会人になって某ゼネコン研究所でコンクリートを毎日毎日練りに練って、水対比(スランプ値)や水の硬度、PH値(PH7が中性)など、様々な検証を繰り返してました。しまいには、水のORP値という今話題の酸化還元水の装置まで導入してシコシコとコンクリートを練ってました。昔取った杵柄で、今もコンクリート練りは、そんじょそこらの若者には負けません。水の結晶である氷についてもかなり実験しました。結晶を美しく造りたいなら結晶の核になるものを超微粒子として急速に凍結すれば美しいものが出来ます。発生途上に、残業残業で安月給でコキ使いやがって、コノヤロォー、上司はもう帰って、今頃、呑んでんだろうなぁチクショーと、悪態をつきながらイヤイヤやっても綺麗な結晶が出来ます。別に美しい心が無くても美しい結晶は、いくらでも出来ます。と言ったら、夢も希望もなくなりますね。
昔、バカ売れした「気配りのすすめ」とか、最近では、人間の品格とか女性の品格とか、ごく当たり前の普通の事が羅列してあるだけの高価な書籍が売れに売れるというのは不思議ですね。特に女性の品格の著者の方に言いたい。品格ある女性なら、あんな書き方はしないのになぁ。と品行も品性のかけらも無い私は思う。
投稿: やっ | 2008年2月 3日 11:13
t_u さん:
ご紹介のページ、恥ずかしながら知りませんでした。
読んでみて、田崎晴明さんという方の誠実さを感じました。
科学者としての立場から、これほどまでにクールな水伝批判をされていることに敬意を表します。
投稿: tak | 2008年2月 3日 19:26
オッチャン:
こちらこそ、いつもありがとうございます。
時々、コメントからちょっとしたヒントをもらってます。
投稿: tak | 2008年2月 3日 19:27
やっ さん:
おぉ、大久保でしたか。
>残業残業で安月給でコキ使いやがって、コノヤロォー、上司はもう帰って、今頃、呑んでんだろうなぁチクショーと、悪態をつきながらイヤイヤやっても綺麗な結晶が出来ます。
わはは (^o^)
笑いました。
はからずも、「実証で反論しろ」 という 「反論への反論」 に答えちゃってますね。
「女性の品格」 は、読んでません。
「国家の品格」 を読んでちょっとこけちゃって以来、「~~の品格」 は敬遠してます ^^;)
投稿: tak | 2008年2月 3日 19:35