よく転ぶ人は好きですか?
フツーに平坦な道で、目の前を歩いていた女性が、何の前触れもなく、いきなりずってんどうと転んだりすることがある。
世の中には「よく転ぶ人」というのが存在する。作家の森茉莉という人も、生前はよく転ぶ人だったと伝えられる(参照)。何もないところでも、とにかく転ぶのである。
よく転ぶ人が、何もつまずくもののないところでもいきなり転ぶのは、「空間認識と肉体感覚のずれ」によるものだと、どこかで聞いたことがある。実際に歩いているポイントと、自分の歩行のリズムが微妙にずれてしまって、そのずれに対応できなくて転んでしまうものらしい。
これを聞いて、「なぁるほど!」と思った。私は「よく転ぶ人」というわけでは決してないが、そう言われれば身に覚えがないわけじゃない。それは、長い階段を大急ぎで駆け下りる時の感覚である。
私は階段を駆け下りるのがかなり速い。というか、階段は駆け下りるものだと思っている。重力によって加速度のついた自分の体重を、いちいちステップごとに自分の膝で受け止めるなんて、体にいいはずがない。
だから、加速度は加速度としてそのまま自然に開放したい。そうなると、とにかく足を高速回転させて駆け下りるしかないのだが、それで危険を感じることはほとんどない。足の回転がどんなに速かろうと、そのリズムと階段のステップがきちんと調和している限りは、決して転がり落ちたりはしない。
しかしたまにぼうっとしたときなど、ふと気づくと自分の足の動きと階段のステップとの調和が、微妙にずれかけていることがある。幸いなことに、これまでのところは咄嗟の微修正を効かせて、派手に転がり落ちるなんてことは経験せずに済んでいる。
これはひとえに、私のリズム感の良さによるものだと思っている。私は反復横とびにしろ、陸上のハードル走にしろ、そしてもちろん音楽にしろ、リズム感の要求されるものはたいてい得意なのである。
そしてこのリズム感というのは、自分の体内の感覚だけの都合ではなく、外界との関係性の、不断のアジャストメントによって成立するものだと気づいた。つまり、「リズム感のいい人」というのは、外界をスムーズに認識し、それを自分の身体感覚にしっくりインポートできる人でもあるようなのだ。
しかし、いくらリズム感がよくても、長い階段を駆け下りるときに、たまに外界と自分の身体感覚との間にちょっとした「ズレ」を感じて、ひやっとしてしまうことがある。そして、外界認識の苦手な人というのは、フツーの平坦な道でも、それと同じことをやってしまうようなのだ。
つまりよく転ぶ人というのは、「そこにいても、そこにいない人」なのだ。当人の意識は、ちょっと別のところにいるのである。別のところの歩き方で歩いてしまうのだから、転ぶのも当然である。
世の中には「よく転ぶ女の子が好き」という男が結構いる。なるほどねという気がする。夢見がちな少女を守ってあげたいという本能が働いてしまうのだろうね。
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