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2008年3月27日

信心と方便

信心深い人の中には、病気になったりすると「神様が私に病気を与えて、私の生活習慣の至らないところに気付かせてくれたのだから、ありがたい」 なんて言う人がいる。

そんなことを聞くと、私だって決して信心がないわけじゃないが、「そんなうっとうしいことをする神様なら、いらん!」と思ってしまう。

「神様が病気を与えてくれて ……」みたいなことを言うのは、私の単なる印象だが、熱心なクリスチャンに多いような気がする。その敬虔さは尊敬に値するが、自分もそうなろうとまでは思わない。

人間の至らなさに気付かせるために、わざわざ病気にしてしまうというのは、全知全能の神にしては芸がなさすぎる。実際のところは、自分の生活習慣に問題があったから、自然の摂理として、自分で勝手に病気になったというだけの単純なことである。

病気の製造元を神様に帰すのは神様に申し訳がなかろう。神様はきっと「おいおい、わしはお前を病気にした覚えなんかないぞ」と言うに違いない。

しかし、この誤解もケース・バイ・ケースである。「自分のこれまでの至らなさに気付かせていただき、既に気付いたのだからありがたいことで、この病気もすぐに治る」と信じて療養すれば、悲観しながら医者にかかるよりも、ずっと治りが早いだろう。

感謝の心に満ちたポジティブな想念を持つ患者が、悲観的な患者に比べて病気の治りが早い傾向にあるというのは、身近な経験知だけでなく、いくつかの調査でも実証されている。

「神様が病気を与えて ……」というのは、方便というものである。方便というとなんだか軽く聞こえるが、法華経のなかには「方便品」という重要な記述があって、なかなか奥が深いのである。ここで論じると長くなるので、こちら をご覧いただくと、糸口にはなる。

方便というのは人間を究極的真理に導くための門のようなものと思えばいい。ということは、方便は便利だが、それ自体は真理ではないのである。そして真理ではないが、まんざらでたらめというわけでもない。

古き良き時代には、かなりテキトーな方便でも、要するに「ありがたい」とさえ思わせてしまえばこっちのもので、病気もひどくならずに、たいした問題もなくことが済んで、丸く収まっていた。ところが、今の世の中はなかなかうっとうしいことになっている。

「人の至らなさに気付かせるために病気を与える神」の代理人、あるいはその神そのもののような顔をして、信心をぼろい商売にしてしまう者が後を絶たないのである。何しろ病気というのは信心の入り口みたいなものだから、あそこが痛い、ここが苦しいと言っている人に神懸かり的なことを言えば、イチコロなのだ。

今の世の中に生きる我々は、用心しなければならない。方便は方便として、そのからくりを理解した上で、その方便のいいところを抽出して有効活用するほかない。実はそれこそが方便の肝要で、これができないと、方便が迷信に堕落してしまう。

一応、「ありがたさ」がいいらしいということはわかる。しかしその一方で、「病気を与える神」は単なる方便の産物で、下手するとうっとうしいことになるということも理解しなければならい。

となれば要するに、「ありがたさ」だけ残して「病気」は忘れればいいのである。「病気を与える神」を否定するあまり、「ありがたさを教える神」まで否定しては、「羮に懲りて膾を吹く」ということになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

 うまく、方便を語ってくれる人が訪問してくれれば、その話は大いに聞く価値がある思うのだけど、世の中なかなかそういう人は向こうからはやってこないようになっているらしいです。

 希望や気づきを与えてくれるような方なら、こちらも誠実な対応が出来るというものなんですけどねぇ。

投稿: きんめ | 2008年3月28日 09:22

きんめ さん:

すてきな方便は、それだけでうれしくなりますが、独りよがりの勝手な小理屈は勘弁してもらいたいですね。

方便の達人になりたいものです。

投稿: tak | 2008年3月28日 19:49

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