2,000円の政教分離
石川県白山市長が白山比咩神社の大祭の関連行事に公用車で出席し祝辞を述べた件で、高裁の違憲判決が出たのが今月 7日だったが、白山市は上告を決めたようだ。
元々、16,000円の公費を返還しろという訴えに対し、判決は 2,000円返還しろというものだが、金額以上の大騒ぎになっている。
このニュースのあらましは、こちら と こちら で読むことができるが、リンク先はそのうち消えてしまうだろうから、肝心な部分を引用しておこう。(改行は tak-shonai による)
問題になった白山比咩神社「御鎮座二千百年式年大祭奉賛会発会式」は 05年 6月、同市内のホールで開かれた。角市長は随行の市職員と公用車で訪れ、祝辞を述べた。
昨年 6月の金沢地裁判決は、式が神社とは別組織の大祭奉賛会の行事で、神社外の施設で行われたことを挙げ 「宗教色は希薄で出席は儀礼の範囲内」 と認めていた。
だが控訴審判決は一転、大祭奉賛会を宗教団体、発会式を宗教行事と認定。
とまあ、要するに、こうした経緯なのである。地裁判決は慣例重視、高裁判決は政教分離原則の厳格な適用という色彩なのである。
公用車運転手の超過勤務手当 2,000円を返還せよという、大問題の割にはちゃっちい判決だったこともあって、角市長は 7日の高裁判決直後は、「2,000円やそこらで上告して金つこて……、市民になお迷惑がかかる」と、上告には消極的だったようだ。うんうん、そうだろうなあ。気持ちよくわかる。
しかし、神社仏閣のおかげで観光収入の大きい自治体は全国にあり、今回の判決が判例となると全国の自治体に与える影響が大きいというわけで、上告に踏み切ったようだ。上告を勧める投書が多数寄せられたという背景もあるという。
そもそもこの訴訟を起こしたのは同市在住の池上宏さん (69) という人で、「市長の行動は公私混同」と主張している。そして控訴審判決でも請求額約 16,000円に対し、2,000しか認められなかったわけだが、「違憲判断を勝ち取ることが出来たので満足」と語っているという。
原告の「市長の行動は公私混同」という主張だが、はっきり言って、「公私混同」という言い方は当たらないと思う。もし角さんが白山市長じゃなくて、その辺のおっさんだったりしたら、この会合へのお呼びがかかったかどうかはとても疑問だ。その意味で、半分は公務である。
「半分は公務」という微妙な言い方になるのは、「政教分離」という原則があるからである。そしてこの原則があるからこそ、神社側も「大祭奉賛会」という形式的には別個の組織を作ったのだろう。
そして、この別組織は神社側だけの勝手な都合ではなく、白山市の中にも強い意向があったのだと思う。公的色彩の入った大きなイベントとすることで、観光収入も増えることだろうし、このせいでアンハッピーになる人は、池上さんみたいな人を除いてはあまり多くないだろうし。
問題は、「神社とは別組織なんだから、いいじゃん」と取るか、「別組織とはいえ、それは名目上の隠れ蓑で、実質は神社と一心同体じゃん」と取るかである。高裁は「神社と一心同体」と見て、政教分離の原則に反するとしたわけだ。
でも、気持ちはわかるけど、そうした 「厳格な」 見方を認めてしまったら、「便宜上の別組織」がすべてダメになってしまうような気がするがなあ。プロ野球選手の節税だけが目的の個人会社とか、もっと言っちゃえば、「独立行政法人」 という名の実質お役所とかね。
で、最後に個人的な感想を述べるとすれば、えぇと、まあ、何というか、恐縮だが、「池上さん、ずいぶん暇なのかなあ?」といったような感じのものだ。 (暇じゃない人だったら、ごめんなさい)
あと、それから、角市長もタクシーで行くというぐらいの慎重さをもてばよかったのに、つい、いつもの癖が出ちゃったのね。
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- 常磐線の衝突炎上事故の、わけのわからなさ(2021.03.28)
- 新宿西口で「地下鉄入口に車突っ込む」というニュース(2021.03.13)
- 「コロナ禍での大学中退・休学」って数字の問題(2020.12.19)
- 首塚移転の日の地震が話題(2020.11.26)
- 若者相手の寸借詐欺は、今も多いようだ(2020.11.01)
コメント
政教分離を考える上では、アンハッピーになる人が多い少ないと言うことは関係ないと思っています。
少数派の意見を大切に考えるというのが本当の民主主義だと子供のころ学校で教えてもらいましたから(^-^)
池上さんがどうなのかは知りませんが、キリスト教徒やユダヤ教徒、イスラム教徒そのほかの宗教を信じている人たちにとってはとても容認できる問題ではないのだろうと思います。
これらの宗教の信者の歴史から考えると、もちろん暇だからなどと言うことでなく、場合によっては命がけで守ると言うほど気合いと根性の入った話のはずなのだと思います。
なぁなぁで済ませて言い話も多いでしょうが、政教分離に関しては人数でも金額でもない次元で考えて、きちんとけじめを付けなければならないのだと思います。
で、私はと言えば、
神も仏も信じぬ大馬鹿者でございます(^^;)
投稿: 蝠樂亭 | 2008年4月19日 23:24
蝠樂亭 さん:
う~ん、
それでも、私は個人的には、「暇なのかなあ」 と思います。
投稿: tak | 2008年4月20日 00:13
私も個人的な感想で言うのですが
本来、いろいろな制度というものは何のためにあるのだろうと考えてしまう訳です。みんなが幸せになる為のものじゃないのかなと。
杓子定規な解釈というのは清廉潔白なのかもしれないですが、度を超えない程度のゆるやかさというものはあってもいいのかなと思ってしまいます。
投稿: きんめ | 2008年4月21日 11:42
きんめ さん:
>杓子定規な解釈というのは清廉潔白なのかもしれないですが、度を超えない程度のゆるやかさというものはあってもいいのかなと思ってしまいます。
私もそう思って、この記事を書きました。
「正しいけど、うっとうしい」 ってことはあるんですよね。
投稿: tak | 2008年4月21日 12:01
はじめまして。
政教分離、といいますが、
史上はじめて憲法に「政教分離」を明記したアメリカの大統領は就任式で聖書に手を置くし、
ヨーロッパにはキリスト教なんちゃら言う政党は山ほどありますよね
日本人は、字面だけ輸入して誤解してるような気がするんですが、
西洋人の言うところの「政教分離」って、カルト的な新興の団体(彼らの文脈での邪教、
というか)が政治に介入してくるのはちょっとな、という意味であって、
西洋人自身の精神・文化に深く根付いた宗教(キリスト教)の考え方とか儀礼とかを
政治の場から排除するなんて意味合いはそもそもないと思うんですよね
(てか、不可能)
日本であれば、政治団体作って活動してるとこはまぁ別として、
伝統的神道・仏教の行事に政治家が顔出すくらいは「政教分離」的には本来OKだろ、
と思う次第。冠婚葬祭、全て関わってくるわけですし…
でなければ、例えば天皇は神道の総元締ですから、元旦にエライおじさん達が挨拶に行く
のも政教分離に反し、そもそも国家の最高法規である憲法で天皇を国家の象徴として
位置づけることすら政教分離に反し…ということにもなりかねないですよね
「政教分離」って、そういう意味じゃないと思うんですが。
投稿: matsukawa4 | 2008年4月21日 13:04
matsukawa4 さん:
おっしゃるとおり、政教分離の意味を、政治が特定宗教団体と癒着するのは止めとこうよとか、特定宗教に肩入れして、他の宗教を圧迫するのはだめよとか、その程度のことに収めないと、そもそもの話、ムリですね。
というわけで、あれだけ癒着してる政党もあるのに、「16,000円の訴訟を起こして、2,000円の勝訴ねぇ」 と思うわけですよ。
この程度の裁判対策で多額の税金使ってるんですから、もし最高裁で判決がひっくり返ったら、今回の原告に裁判費用を負担させろなんていう訴訟が起きたりして。
投稿: tak | 2008年4月21日 13:25
>西洋人の言うところの「政教分離」って、カルト的な新興の団体(彼らの文脈での邪教、
というか)が政治に介入してくるのはちょっとな、という意味であって、
これはまぁ政教分離の起源から考えれば、全然違いますよね。あくまでもその文化における主流である「教会」と世俗権力の分離ですから。
ただ現代的な文脈においては、(露骨にそういうレッテルは貼られないにしても)カルトないし邪教と見なされるような少数派を抑圧するための方便として「政教分離」が逆用される例はあると思いますが。
原告はよほど暇な人なんじゃないか、というのは私もまったく同感です。ただ、暇な人たちがしょーもないことをあれこれ気にしてくれているから、多忙な我々も安心して多忙なままでいられるのかな、という気も少しするのです。
投稿: 山辺響 | 2008年4月21日 15:02
>度を超えない程度のゆるやかさ
について、全くおっしゃる通りで、
この手の政教分離の件では「法の番人」最高裁で有名な判例があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%9C%B0%E9%8E%AE%E7%A5%AD%E8%A8%B4%E8%A8%9F
裁判要旨の1をご覧ください。今回の件も上告すれば覆るでしょう。
例えばクリスマスの行事で公金を多少使って開催しても
私(=仏教徒)は容認できます。
「諸条件に照らし相当とされる限度」内ですよ。
限度がどの程度かどうかの判断基準は曖昧ですけれど・・。
例えば、「霊なんてものはあり得ない」と、
完全に宗教を否定する人にとっては
戦争の慰霊祭自体が政教分離法則から逸脱すると感じるでしょう。
言い出したらきりが無い。
厳格すぎる政教分離は逆に問題になる。
「西洋」と言ってもフランスでは
政治や公の場から宗教色は「完全排除」です。
公共施設や公教育から宗教的シンボルを排除しなければならない。
そこから始まったのが「公立学生のスカーフ禁止」騒動なのですね。
件の池上さんは暇人というより、
(市長か市に恨みを持つ?)クレーマーだと私は思いますよ。
投稿: リュウT | 2008年4月21日 15:11
山辺響 さん:
>>西洋人の言うところの「政教分離」って、カルト的な新興の団体(彼らの文脈での邪教、
というか)が政治に介入してくるのはちょっとな、という意味であって、
>これはまぁ政教分離の起源から考えれば、全然違いますよね。あくまでもその文化における主流である「教会」と世俗権力の分離ですから。
起源から言えば、まさにその通りで、その昔は教会が世俗の世界でも権力をもってましたからね。
祭政一致というのは、私なんか案外ノスタルジックな感じで見つめたりしてるんですが、今の世の中でそんなことしたら、うっとうしいでしょうね。
イランなんかでは、今でも祭政一致で行ってるんでしょうけど、ダライ・ラマ師ぐらいに物わかりのいい指導者でないと、何かと大変だろうなあ。
>ただ、暇な人たちがしょーもないことをあれこれ気にしてくれているから、多忙な我々も安心して多忙なままでいられるのかな、という気も少しするのです。
私もそう思います。
だから、私はこの記事を書くにあたって、池上さんが 「悪い」 とは絶対に書かないように気をつけました。
で、かくも微妙な表現になったわけですわ。
投稿: tak | 2008年4月21日 18:59
リュウT さん:
リンク先の件は、私が若かりし頃に注目された裁判です。
私、「地鎮祭ぐらいしたっていいじゃん」 と思ってました。
「地鎮祭しないで何かあったら、『それみたことか』 と言われちゃうぞ。そうなったら、どうしてくれる?」 ってな感じです。
いわば、安い保険です。
フランスの例は、やっぱり問題ですよね。
フランス人って、案外極端に振れたがるから、ちょっと要注意なところがあったりします。
池上氏が 「クレーマー」 であるかどうかは、判断の分かれるところでしょうけど、フツーの人にとっては、ちょっと迷惑であることは否めないでしょうね。
地方都市の役所の限りある予算とマンパワーを、こんなことに割かなければならないんですから。
でも、まあ、ちょっとした授業料と言えないこともないし、その辺は微妙です。
投稿: tak | 2008年4月21日 19:11
私の言いたいこととかなりずれているようなので、申し訳ないのですがもう少し書こうと思います。
政教分離とか池上さんがどうとかと言う話ではなくって、
人のいやがることをするのは良くない。とか、
強い者は弱い者をいじめてはいけない。とか、
そういう話なのです。
強い者、多数派に属していると、それが弱い者いじめであることに気付かないことが多いのでしょうが、弱い者からすると耐え難いほどの苦しみや恨みに繋がっていると言うことがよくあることで、学校でのいじめ問題や、世界の紛争の多くの根っこにはそういう事があるのではないかと思います。特に宗教が絡むととんでもない状態に陥るものですよね。
多数派であればあるほど人には優しくしようよ。
本当にいやがっている人がいるなら「大した話じゃないじゃないか」などと言わずにやめようよ。と言うところに私の意見の根っこがあります。
投稿: 蝠樂亭 | 2008年4月21日 22:49
蝠樂亭様
>強い者は弱い者をいじめてはいけない
おっしゃるとおりです。
市長と市民で、強い者は市民なのです。
今回は「一市民による市長へのいじめ」ですよ。
「市長の嫌がることをするのはよくない」と思いますよ。
少数派、多数派に関わらず、私達は嫌なことも受け入れ、
折り合いをつけて生活しています。
少数派が嫌がることを聞き入れたら
多数派により多くの迷惑や不利益になるという事もあります。
どこかで折り合いをつけなければなりません。
例えば・・
少数派の意見を全面的に受け入れたら行政は成り立ちません。
鉄道、道路、飛行場、発電所、工場、火葬場等々、
どこにも建設できなくなります。
折り合いをつけてもらうという妥協が必要になります。
大抵、話合いで解決し、裁判に持ち込むことは滅多にありません。
今回の話で、その折り合いの場所が
「諸条件に照らし相当とされる限度」ですね。
しかも、神社側もわざわざ別組織にして
宗教から切り離すという妥協もしているのです。
あえて申しますが、
「この程度の事」が我慢できないという理由で
裁判に訴え、紛糾するというメンタリティの方が
世界の紛争の根っこではないでしょうか。
もし、こういうイベントに市長が出席できなくなった場合、
貴方のおっしゃる多数派から恨まれるのは、池上さんなんですよ。
池上さん自らが恨みを作り出す行為なんです。
>多数派であればあるほど人には優しくしようよ。
少数派になればなるほど優しくなくていいのでしょうか?
少数派でも優しくしようよ。・・と申し上げたいのです。
tak様
blogコメント欄をお借りし恐縮です。
投稿: リュウT | 2008年4月22日 10:12
蝠樂亭 さん:
>人のいやがることをするのは良くない。とか、
>強い者は弱い者をいじめてはいけない。とか、
>そういう話なのです。
そういう話は、言うまでもなく、よくわかりますよ。原則論として。
ただ、今回の場合は、不幸な人のために使えたかもしれない (お役所のことだからわからないですけどね ^^;) かなりの金額が、たった 2000円返せという判決のために使われてしまったということがあるわけです。
心情論はわかりますが、費用対効果の視点でみると、どうなんでしょう?
池上さんは、かなりいやな思いをしたのかもしれませんが、それ以上に、死ぬほど辛い思いを強いられている人のために割かれるべき金と時間を割くほどのことでしょうか?
ある意味では、池上さんは、個人的ないやな思いを晴らすために、金と時間を弱者から奪ったということもできるんじゃないかなあ。
投稿: tak | 2008年4月22日 11:09
リュウT さん:
市長と市民のどちらが強いかは、保留しておくとして、総論的には貴方のご意見に賛成です。
むしろ、より上手に代弁してくれて感謝です。
投稿: tak | 2008年4月22日 11:13
リュウT さん:
巧く言えないのですが、
僕は池上さんはごく普通の善良な市民(ただ宗教的にかなり異質の)だという前提で(もちろんまったく存じ上げませんが)書いています。
書いていたら、かなりくどくなりましたがもう少しお付き合い願います。
>市長と市民で、強い者は市民なのです。
確かにそういう見方もありますが、その場合の市民は「多数者である市民」ですね。
だから、
>今回は「一市民による市長へのいじめ」ですよ。
>「市長の嫌がることをするのはよくない」と思いますよ。
この部分はちょっと無理があると思います。
>少数派、多数派に関わらず、私達は嫌なことも受け入れ、
>折り合いをつけて生活しています。
>少数派が嫌がることを聞き入れたら
>多数派により多くの迷惑や不利益になるという事もあります。
僕もそのとおりだと思います。
でも
>少数派の意見を全面的に受け入れたら行政は成り立ちません。
>鉄道、道路、飛行場、発電所、工場、火葬場等々、
>どこにも建設できなくなります。
>折り合いをつけてもらうという妥協が必要になります。
これらは行政としてどうしてもしなくてはいけないことですね。
けれど今回の話は「市長が自分の車で行けば何も問題ではなかった」のですから、ちょっと違う感じです。
>大抵、話合いで解決し、裁判に持ち込むことは滅多にありません。
善良な市民である方が裁判にまで持ち込むというのはかなりの覚悟が必要だとも言えます。
>今回の話で、その折り合いの場所が
>「諸条件に照らし相当とされる限度」ですね。
そこで、「市長が自分の車で行けば何も問題ではなかった」と思うのです。
>しかも、神社側もわざわざ別組織にして
>宗教から切り離すという妥協もしているのです。
妥協点はそこだけではなかったのだろうと思います。例えば、
神社が神社の宗教行事として行っていたとしても、「市長が個人として行けば何も問題ではなかった」と思います。
「市長でもある個人として」であれば祝辞を述べても他の宗教の信者としても許せる範囲だったでしょうね。
>あえて申しますが、
>「この程度の事」が我慢できないという理由で
>裁判に訴え、紛糾するというメンタリティの方が
>世界の紛争の根っこではないでしょうか。
ここは強い者の論理だと思います。
例えば、学校でのいじめで、「これくらいのことで自殺なんかするなよ。そういうメンタリティだから学校や俺たちが迷惑するじゃないか」と言っているのに近い感じです。
>もし、こういうイベントに市長が出席できなくなった場合、
>貴方のおっしゃる多数派から恨まれるのは、池上さんなんですよ。
>池上さん自らが恨みを作り出す行為なんです。
公務出席ではなく。と言う形もあり得るのだと思います。
>多数派であればあるほど人には優しくしようよ。
>少数派になればなるほど優しくなくていいのでしょうか?
>少数派でも優しくしようよ。・・と申し上げたいのです。
ここは大賛成です。
投稿: 蝠樂亭 | 2008年4月22日 23:02
takさん:
おっしゃることは確かにその通りだと思いますが、最初から市長が私人としていけばよかったはずと言う視点ではないと思います。
公務出席ありきから始めるとこうなってしまうのでしょうが、スタートを変えればみんな仲良くできる落としどころもあり得るのではないでしょうか。
そこのところで「もうちょっと考えてあげれば良かったのに」と思っているのです。
投稿: 蝠樂亭 | 2008年4月22日 23:06
蝠樂亭 さん:
>>市長と市民で、強い者は市民なのです。
>確かにそういう見方もありますが、その場合の市民は「多数者である市民」ですね。
私自身は、市長と市民のどちらが強いかというのは、保留しておきました。
その上で言いますが、「『多数者である市民』 が市長より強い」 というあなたの論調は、軽薄な決めつけだと思いますよ。
>>今回は「一市民による市長へのいじめ」ですよ。
>>「市長の嫌がることをするのはよくない」と思いますよ。
>この部分はちょっと無理があると思います。
この発言は、無理を承知で、形式上、あなたの論理の上に乗っかった話ではないですか。
>人のいやがることをするのは良くない。とか、
>強い者は弱い者をいじめてはいけない。とか、
というコメントを、単に裏返して言っただけでしょう。
まあ、リュウT さんとしても、あなたが、「そりゃ、揚げ足とりだ!」 と思ってくれることを想定しての発言だったと思いますよ。
ところが、あなた自身がそれに対して「少数派の市民は弱者である」 という疑わしい前提のもとに 真っ正面から「無理がある」 とおっしゃってしまったので、この議論はナンセンスにおちいってしまったような気がします。
少なくとも、私はしらけました。いうわけで、もう、このへんで止めときましょう。
とりあえず、多数派も少数派も、人にはやさしくしようという結論が出たと言うことで、よしとしましょうよ。
で、本当に問題なのは、この結論の運用なんですけど、それはまた、場を改めて語りましょう。
投稿: tak | 2008年4月22日 23:46
蝠樂亭 さん:
もう止めときましょうと言いましたが、そのコメントを書いている間に私あてのコメントがアップされたようですので、一応レスしときます。
>公務出席ありきから始めるとこうなってしまうのでしょうが、スタートを変えればみんな仲良くできる落としどころもあり得るのではないでしょうか。
上のレスにも書きましたが、その運用はとても難しいんですよね。
「みんな仲良くできる落としどころ」 を創出するために、みんな少しずつ我慢したりしてるわけです。
今回のケースでは、より頭痛いのは市の側だと思いますよ。
裁判を担当する職員なんか、どんだけムカムカしてるか。
投稿: tak | 2008年4月23日 09:08
>市長と市民で、強い者は市民なのです。
私の言葉足らずなので補足しておきます。
市長は市民に対して監査請求もできなければ訴訟も起こせない。
権力行使なんて当然できない。
そういう意味で市長は弱い立場です。
「池上さんの考え方は間違っている」なんて言えません。
「私の主張が通らず、遺憾に思います」です。常に受け身。
ま、別の意味では市長の方が強い時もあるので
一概にどちらが強いとは言えませんね。
もちろん、ここでいう「市民」は多数、少数の関係ありません。
>「少数派の市民は弱者である」という疑わしい前提
私的には
「少数派の市民は弱者且つ善良である」という疑わしい前提
と思います。
以上、私もこれで終了します。
長々とコメント欄を使わせていただきありがとうございました。
投稿: リュウT | 2008年4月23日 12:21