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2008年5月に作成された投稿

2008年5月31日

「信仰」と「信心」は似て非なるもの

「信仰」と「信心」とは、どうやら似て非なるもののようなのだ。読売新聞の調査によると、日本人のうち、特定の宗教を信仰しているのは 26%で、無宗教は 72%なのだそうだ。

そのくせ、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人は 56%と、半数以上を占めたという。(参照

私は 3年近く前に「投票と信心」という記事を書いている。「支持政党なし」という比率と、「宗教を信仰していない」という比率が、とても似通っているということに注目して、「日本人は旗幟鮮明にすることを好まない」と書いたものだ。

この時の記事の元にしたデータは、NHK 放送文化研究所の 『放送研究と調査』 (1999.5) からの孫引き(参照) だが、それによると具体的に信仰する宗教をあげた人は 35%で、宗教を信仰しない人は 56%だった。

とすると、このほぼ 10年の間に、日本人はより不信心になったようにみえる。ところがそのくせ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人は 45%に止まり、そうは思わない人が 49%となっている。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は 94%に達し、前述の如く「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も 56%と多数を占めた。

私はこのブログを書くにあたって、日本人の宗教心について触れるときには「信仰」という言葉を使わず、特別な理由がない限り「信心」ということにしている。これは、かなり意識してのことである。

多くの日本人は「信仰深い」とは決して言えないが、「信心深い」日本人はいくらでもいるのだ。これは単なる言葉のアヤではない。

今回の読売新聞の調査について、宗教学者の山折哲雄氏は紙上で次のように解説している。

日本人の信仰は多くの神々を信じる多神教だ。日本の豊かな自然は人間をその懐に包みこんで、神や仏といった人間を超えた存在を感じさせる力を持っている。日本人は唯一の超越的な神を信じる一神教を求める必要はなかった。

多神教が「感ずる宗教」だとすれば、一神教は「信ずる宗教」だと言える。

なるほどうまい表現である。

その上で山折氏は、日本人が明治以降キリスト教的な考え方を受け入れてきたために、「宗教を信じることとは、一神教を信じることなのだ、という価値判断をしてしまっている」と指摘し、「この尺度は改める必要があるのではないか」と述べておられる。

そして、「今回の調査からは、日本人の高い宗教心、信仰心がうかがえると言ってよいのではないか」としている。かなり意表を突いた逆説的結論だ。

ただ、「日本人の高い宗教心、信仰心」と言ってしまうと、違和感を覚える人が多いと思われる。そこで私は、「信心」と言い換えているわけだ。日本の神道というのは、「信仰する宗教」ではなく、「信心する宗教」なんだと思うのである。

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2008年5月30日

これでいい? これがいい?

繊維業界の専門紙に 「繊研新聞」 というのがある。その 5月 29日付の 1面に、良品計画の金井政明社長の文章が載っている。

タイトルは "「これがいい」より「これでいい」 理性的満足感を提供" というものだ。うむ、なるほど、「無印良品」というブランドのコンセプトとして、わかるような気がする。

この記事の中で金井社長は、次のように述べている。

当社がめざしているのは「これがいい」というように嗜好性を誘導するモノづくりではなく、「これでいい」という理性的な満足感をお客様に提供すること。つまり、「が」ではなく「で」 だ。

まあ、しょうがないなというあきらめとか、不満足とか、我慢で消費が起こりうるかというと、これは無理。したがって、我慢とか不満足のない「これでいい」を作ることをビジョンにしてきた。(中略)豪華でも高級でもないのに、「それでいいよね」と言って買ってもらえる商品になってきた。

で、まあ、言いたいことはとてもよくわかるのだけれど、その上で私は、「これでいい」というレトリックにちょっとひっかかってしまうのだ。それって、やっぱり卑下しすぎじゃないか。

私としては、無印良品の商品を買う顧客というのは、決して「これでいい」ではなく、むしろ「これがいい」と思って買っているんじゃないかと思う。「安かろう悪かろう」という商品ではないんだし。ただ安いものが欲しいんだったら、他にもっと安いものがいくらでもある。

もとより「不満足とか我慢ではない」と、同社長はおっしゃっているわけだが、それでも、「これでいい」というのはどうみても消極性の残る選択である。しかし私の見るところ、無印良品の主力顧客はむしろ、積極的な意志で選択していると思うのだ。

彼らは、高級品や豪華な品物の代替品として無印良品を選択しているわけではない。むしろ、存在感を主張しすぎる高級品や豪華な商品には魅力を感じないのだ。ラグジャリー商品と並べて「どっちでも好きな方をあげる」と言っても、無印良品を選んじゃう人のような気さえする。

だって、そりゃ、ライフスタイルだもの。身の回りがシンプルなもので統一されているのに、何か一つだけ妙に浮いたのが混じっているんじゃ、落ち着かないだろう。

"豪華でも高級でもないのに、「それでいいよね」と言って買ってもらえる" ではなく、豪華でも高級でもないから、そんな空虚な方向を向いたマーケティングの産物ではないから、「だからこそ、これがいい」ということがあり得る時代なのではないか。

さらに、無印良品は環境的な配慮も徹底するという。だったらさらに、「これがいい!」で選ぶ人が増えるだろう。プリウスを買うのに「これでいい」なんて人がいないのと同じことだ。

私は無印良品のコンセプトには少なからぬ好感を持っているのである(その割にはあまり持ってないけど)。だからこそ、「これでいい」なんて言わずに、「これがいい」として選ばれる商品なんだという自負ぐらい持ってもらいたいのだ。

足なり直角靴下」なんて、まさに「これがいい!」で選ばれそうな商品だと思うがなあ。私も早速、無印良品ネットストアで注文してしまった。届いたら、モニタリング記事を書いてみようと思う。

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2008年5月29日

都市の薄皮

私は常磐線取手駅近くに借りた駐車場まで車で行き、そこから駅まで 5~6分ほど歩くのだが、その最短ルートが、都市計画の一環で道路工事中になってしまった。

そのため、ほんの少しだけ遠回りを強いられている。本来の最短ルートは、傾斜地がくずされて土砂と瓦礫の山になっている。

05construction

先日、かなり日が暮れてからこの工事中の場所にさしかかり、ふとした気まぐれで、回り道をせずにそのまま突っ切ってみようと思い立った。時間にすればわずか 1分ぐらいの短縮なのだが。

私はガードレールをまたぎ、工事中の区域に足を踏み入れた。急に暗くなる。思いの外の暗さである。足下は舗装を剥がれ、荒れた山道以上にでこぼこである。そりゃそうだ。そこは既に 「道」 じゃないのだから。下手すると、穴に落ちかねない。足首をひねらないように、慎重に歩を運ぶ。

周囲は土が盛られて見通しがきかないため、駅から 2~3分の場所という気がしない。21世紀の関東近郊の都市とは、さらに思われない。昔話に出てくる奥州安達ヶ原の、山姥の住処もかくやと思われるほどの異様さだ。まさに非日常の「異界」である。

この「異界」をわずか 1分足らずで抜け出して、いつもの道に出れば、そこは国道 6号線で、ガソリンスタンドやファミレスの明かりが輝いている。しかし私の靴は赤土だらけになってしまっっている。ガードレールを結界として、世界が違うのだ。

思えば、舗装を剥がして土を盛り、視界を遮るだけで、都市はかくも簡単に「異界」に姿を変えるのである。我々の日常生活は、「異界」を薄皮で覆い、その上に辛うじて成立しているのだ。それは四川大地震の光景を見てもよくわかる。

日常の薄皮一枚を隔てたところに、「異界」は存在しているのだという意識を、心の片隅にでいいから、常に置いておこうと思ったのであった。

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2008年5月28日

E-mobile で、ライフスタイル一新

新しいハードウェアの導入によって、ライフスタイルが変わってしまうということがある。例えば、洗濯機の普及は、それまでの家事のスタイルを一変させた。

それまでは、たらいで時間をかけて、ごしごし手洗いしていたのだが、放っておけば洗濯が仕上がるようになったのだから。

洗濯機の普及は、かなり広い範囲での例だが、私の個人的なライフスタイルも、E-mobile という小さなデバイスの導入でかなり変わってしまった。「モバイル・ブロードバンド」の触れ込みで、注目されているアレである。

それまでは、モバイル通信には PHS のデータカードを使っていた。これは 128kbps というスピードで、64kbps の ISDN が 「速い」 と言われていた頃の感覚からすれば十分と思われたのだが、実際にはあまりにも重くて、メールチェックなら OK だが、インターネットのブラウジングやサイト更新をしようとすると、とんでもないストレスだった。

だから、私は自分のサイトやブログの更新はできるだけ自宅で済ませていたのである。夜中、日付の変わる頃に書き始めて、書き上がる頃には翌日になっているので、サクっとアップしてからベッドに入っていた。

これは、はっきり言って寝不足の元である。寝る直前まで PC のディスプレイに向かうのは、寝付けなくなる原因という説もあるが、私は全然そんなことはない。なにしろ、ディスプレイに向かいながらでも、いつの間にか眠ってしまうこともあるほどだから。しかし、毎日毎日、午前になってから寝るというのは、長い間には結構負担になるものだ。

ところが近頃は、E-mobile がある。電車の中で更新しても、サクっとアップロードできるのである。これはありがたい。というわけで、近頃私は、朝、電車の中で "Today's Crack" の更新をするのがほぼ日課のようになってしまった。

常磐線取手駅から上野駅まで、ほぼ 40分ぐらいなので、これだけあれば余裕をもって更新できる。ブロードバンドだから、接続待ちの無駄な時間もないし。

問題は、「ジョーバ・ン線運動」が、帰りにしかできなくなって、体重がなかなか減らなくなってしまったことぐらいである。

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2008年5月27日

大きなお世話も時には必要

作家 曽野綾子さんが産経新聞の一面に連載する 「小さな親切、大きなお世話」というコラムがある。

その 5月 23日付で彼女は、「世間の青少年の犯罪者が、自分は親から虐待を受けたり放置されたせいで罪を犯すようになったというのを聞くと、腹が立ってくる」と書いている。

この文は、「私は円満でない家庭に育ったので、多分ひね曲がった根性は残ったのだが」という節の後に続いており、さらに段落を変えて、「ひずんだ家庭の体験があればこそ、私は自分の家庭がとにかく穏やかであることを望んだ」と続けている。

つまり彼女は、「円満でない家庭で育ったのであれば、逆に穏やかな家庭を作ろうと努力することこそが望ましいソリューションであり、そのことを、犯罪を犯した理由にするなどというのは、言語道断」と言いたいのだろう。確かにそれは「正論」である。

しかし世の中というのは、正論が通らないところなのである。正論がすいすいと通るようなら、誰も苦労はしないのだ。そして正論が通らない不条理の世の中であるから、生きていて面白いのだとも言える。

彼女ぐらいに強い自我を持っていれば、親に十分な愛情を注がれなかったら、それを反面教師にすることぐらいは、むしろ容易なことだろう。家庭の問題を自分の非行の理由にするなんて、甘えるにもほどがあるということになる。

しかし、誰もがそのような強い自我を持っているわけではない。多くの人間の自我は、風に吹かれる柳のように、ただ揺れ動いていて、いつも正しい選択ができるとは限らない。逆に「そうなりたくない」と思う方向にこそ、強く引かれていってしまうようなところがある。

不幸は甘美な罠なのである。自分以外の誰かのために自分が不幸になれば、自分は弱者と規定されるから、たとえ罪を犯したとしても、自分の意識の中ではむしろ「被害者」であり、 「無罪」であり得るのである。甚だ勝手な理屈だが、元々不条理の産物だからしょうがない。

あるいは罪を犯すという惨めな境遇にまで追いつめられたればこそ、自分は無実であり得るとも言える。自分が罪を犯すまで追いつめられなかったら、誰かさんに元の罪を着せるわけにいかなくなるから、それは大変な「不都合」ということになるのだ。

子が罪を犯すのは、親に向かっての「お前らの罪に気づけよ!」と叫ぶサインという場合がある。体を張っての不条理なサインである。世の中には、論理的なソリューションを実行できず、こうした不条理なサインでしか自分の葛藤を表現できない子どもたちが、大勢いるのである。

私が昨日のエントリーで、「不良を讃えるドラマ」に関して「功罪相半ばする」として、一方的に批判しなかったのは、こうした理由があるからだ。ある視点からは、仲間由紀恵はフィクションとしての観音菩薩であったりする。

子どもたちの「不条理なサイン」を、彼らのもがき苦しむ煉獄まで降りていって理解してやるというのは、やはり観音菩薩の行なのであって、必ずしも「不良を讃える」とか「甘やかす」とかいうわけでもなかったりする。それは、時には最大級のお世話でもあり得る。

観音菩薩は三十三身に身を変えて、時には地獄の底まで降りていって、衆生を救い給うのである。地獄の底まで降りていくのに、正論もへったくれもないのである。

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2008年5月26日

不良を讃える学園ドラマの功罪

"「ごくせんは不良を讃えるな」和田秀樹さんがコラムで異論" というのが、「痛いニュース」で話題になっているのを見つけた。(参照

精神科医の和田さんが「この手の『秀才=悪』『不良=心はきれい』という図式は、ある種の青春ドラマのステレオタイプのようになっている」 と、雑誌コラムで指摘したらしい。

実は私はあまりテレビを見ないので、「ごくせん」という番組も当然ながら、何かの偶然でちらっとしか見たことがない。その上であえて言うのだが、「うん、確かに『秀才=悪』『不良=心はきれい』 というステレオタイプは、あるだろうな」と思う。

これは大衆ドラマでは、ある意味、仕方のない構造である。昔から「強欲な悪代官 vs 純朴で善良な農民」とか「悪徳商人 vs 純朴で善良な町人」とか、そんな構図がもてはやされてきた。

で、現代社会の矛盾の縮図である「学校」を舞台とした学園ドラマでも、「陰険な秀才 vs (心ならずもワルとして振る舞ってはいるが、実は)純朴で善良な不良」という構図が必要なのだ。学園ドラマでの秀才は、悪代官や悪徳商人同様に、「悪の支配階級でなければいけないのである。

と、ここまでを前提としておいて、敢えて言わせてもらうが、私は「水戸黄門」なら見る気がするが、ここで話題とされているようなタイプの学園ドラマは、見る気がしないのである。描かれている「秀才」も「不良」も、カリカチュアされすぎていて、リアリティがない。

「水戸黄門」などの勧善懲悪時代劇なら、それでも許せるが、学園を舞台とした現代のドラマでは、それをテレビで見るであろう現実の秀才もワルも、あるいは元秀才も、元ワルも、あまりにもいじらしすぎる。

記事の中でも、東京・多摩地区のある市立中学校校長が、頭がいい真面目な子がバッシングの対象になる「現代型のいじめ」という問題を指摘している。「金八先生」がもてはやされた 20年ほど前から言われているらしい。

大人の社会では、勧善懲悪ドラマの余波で悪く言われるかもしれないお役人や議員の先生は、大衆からある程度離れたところにいる。ところが、学校では同じ教室にいるのである。

これでは秀才もワルも、ストレスが大きすぎてあまりにも気の毒である。それで、頭のいい子の親はこぞって「有名私立」という無菌室に入れたがり、公立校は先に触れた「(心ならずもワルとして振る舞ってはいるが、実は)純朴で善良な不良(プチ不良を含む)」ばっかりになる。

それで実は純朴で善良な子も、公立校でイジメの対象とならないために、時には心ならずもワルとして振る舞わなければならなくなる。そして、そのセイフティネットは、テレビの中に「学園ドラマ」としてきっちりと張られている。

「俺たち、ワルっぽく見えるだろうけど、本当は、純朴で善良なんだからね」というメッセージを、テレビが代わってどんどん発信してくれる。「だから、俺たちのことをきちんとわかってくれさえすれば、俺たちだって、ちゃんと心を開いてやるからな!」

というわけで、下手すると「わかってくれるまで心を開かない」タイプの子ができてしまう。わかってもらえないのは、わかってくれない大人が悪いのであって、自分からは決して説明したりしないというタイプの子が、昔からいる。学園ドラマは、そういう子の免罪符になっているかもしれない。そうした意味で、功罪相半ばするところである。

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2008年5月25日

たまには肩の力を(さらに)抜いて

昨夜は高校の昭和 46年卒業組で首都圏在住者の定例会(飲み会)があり、今年は私が幹事を務める順番だったので、まあ、無事に終わってほっとしている。

二次会までセットして、帰宅がかなり遅くなり、朝も久々に寝坊してしまったので、日曜の更新が日が暮れてからになってしまった。

以前にも書いたことがあるが、私のサイトのアクセスは、完全にウィークデイ型である。どうやら、出社して会社のパソコンのスイッチを入れて最初に巡回するか、あるいはお昼休みに巡回するか、どちらかのパターンにしてくれている人が多いようなのだ。

だから平日の朝、8~9時台と、お昼の 12時台のアクセスが非常に多い。そして、土日、祝日のアクセスはがくんと落ちる。

だったら、私も土日、祝日はブログの更新を休もうかなんて思ったこともあるが、どうも「毎日更新」するカラダになってしまっているようで、更新しないとなんだか忘れ物をしたような気になって落ち着かない。それでいつの間にか、もう 4年半も毎日更新を続けている。

ここまで続けてしまったのだから、一応自己記録更新は続けていきたいような気もするので、なんだかんだといいながら、こうして書き続けている。さらに私の場合は、もう一つのブログ「和歌ログ」も、同じく 4年半毎日更新している。

一つのブログを毎日更新している人はいくらでもいるだろうが、毛色の変わった 2つのブログを、4年半も毎日更新している人は、そんなにはいないだろうから、この希少価値を損なうのはもったいないというような気持ちで、なんとか続いているような気がする。

これまで「土日はどうせアクセスが少ないんだから、軽く流しておこう」みたいなことを意識したこともあったが、どういうわけか、そうした気持ちとは裏腹に、週末ほど気合いの入ったエントリーを書いてしまいがちな傾向がある。更新は「出たとこ勝負」なので、なかなか都合よくはいかない。

とはいえ、今日は少し疲れ気味なので、こんな具合のちょっと肩の力の抜けた記事にさせて頂いた。たまには力を抜かないと、長く続けられるものじゃない。

読者諸兄は、「肩の力なんて、ほとんどいつも抜いてるんじゃないか」なんて思われているかも知れないが、「さらに、いつも以上に抜く日も必要」という意味に考えていただければ幸いだ。

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2008年5月24日

「残業」と「超過勤務」の微妙な違い

最近、「残業手当」があちこちで話題になっている。マクドナルドの「名ばかり店長」や、トヨタの「カイゼン」活動にも残業手当が支払われるようになったという。

まあ、考えてみればごく当然のことなのだが、これまでの日本人のメンタリティでは、支払わないことが許容範囲内だったのだ。

私なんかも勤め人時代は「サービス残業」が普通に考えられていた。とはいえ、私の場合はかなりドライに割り切っていて、勤務時間が終わればさっさと帰ってしまう人だった。昔からチームで動く仕事というよりは、「会社内個人商店」みたいな仕事が多かったから、それでなんの不都合もなかった。

それにこう言っちゃ何だが、私は仕事はかなり早い方だから、てきぱきこなしてしまえば、残業するほどのことはほとんどなかったのである。そしてたまに勤務時間内に終わらないことがあっても、夜遅くまで残らなければならないことなんて、滅多になかった。元々「会社内個人商店」的発想だから、残業手当が欲しいと切実に思ったこともない。

ところが、チームで動くことが必須のサラリーマンが、どうしても勤務時間内に仕事を終えることができなければ、残業手当をもらうのが当然である。それは議論以前の問題だ。ところがこれまではこうした残業でも「サービス残業」で対応することが多かったし、おそらく今でもそうなのである。

唐突だが、私はこれは「言葉」の問題が大きいと思っている。我々は少なからず言葉に縛られた存在である。

英語で「残業手当」のことを "ovetime allowance" という。"allowance" には「許容」という意味もあるので、下手すると日本人は「サービス残業」のことと誤解してしまうが、この場合は「給与」とか「支払い」とかいう意味合いである。

つまり、英語では直訳的には「超過時間給与」というのだ。はなはだドライで割り切った言い方である。契約した勤務時間を超えたら、それなりの手当がついて当然という考え方だ。

一方、日本語の「残業」という言葉は、「残って仕事をする」という意味合いで、契約時間を超過して云々というニュアンスはかなり薄まってしまう。「仕事が終わらなかったんだから、残ってこなすのも仕方ないじゃん」ということになりがちだ。

ところが、米国では、アシスタントのおねえちゃんが、書類コピーの途中で勤務時間が終わったら、もうそのままに放り出して帰ってしまうのが当然のことなのである。ボスが「最後までコピーしてよ」と要求したら、それなりの  "ovetime allowance" が発生する。

それしきのことで余計な支払いが生じるぐらいなら、そのまま帰ってもらって、翌日の朝イチで仕上げてもらう方がずっと楽なので、誰も文句を言わないのである。

日本でもようやく、「残業手当」というのはとりもなおさず「超過勤務手当」なのだという認識が一般化しようとしている。これは国際常識からすれば、「いいこと」というよりむしろ「当然のこと」ということになるだろう。

しかしそのために日本の産業の目に見えない微妙な国際競争力が、またまたそがれることになる。というか、これまでは日本が勝手にハンディキャップをもらって競争していたとも言えるのだが。

ちなみに私なんかワンマン・カンパニーなので、毎日が「サービス残業」である。

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2008年5月23日

どうして夏時間導入に反対なの?

朝のラジオを聞いていたら、時計を 1時間勧める「夏時間」導入に関するアンケートをしていて、その結果は、賛成はわずか 20数パーセントで圧倒的に不評だった。

賛成の理由は、エネルギー節約とか、時間の有効活用とか、アフターファイブが長くなるとか、既に言い尽くされているもの。

一方、反対の理由として挙げられたのは、「これ以上早起きしたくない」「4時に仕事を終えても、飲み屋が開いていない」「結局、サービス残業が増える」など、なんとなく生活実感的なものが多い。

しかしよく考えてみれば、「これ以上早起きしたくない」と言っても、早起きするのは最初の 1日だけで、あとは同じ。逆に冬時間に戻るときに 1時間寝坊ができるから、それでチャラだ。「4時に飲み屋が開いてない」というのは、時計自体が進んでるんだから、ナンセンスな錯覚である。

ただ、「サービス残業が増えるだけ」というのは、いかにもありそうな気がする。このあたりが一番の問題だろう。要するに、日本人のメンタリティの問題である。

結局、日本人は「嫌々ながらだらだらと仕事をすることから逃れられない民族」なのだなあと思うのである。1時間早く仕事を始めたのだから、たとえサービス残業をするにしても、1時間早く終えることができるはずなのである。1時間分の仕事が増えたというならともかく。

そこにあるのは、「だらだらと会社にいるのが、嫌だけど、案外心地よい」とか、「自分だけ『お先に失礼』と言って先に退社しにくい」とか、そういった風土というか、とにかく不思議な何物かである。

自分の仕事をさっさと終えるのが有能である証拠であり、その有能さを周囲がフツーに評価する風土が醸造され、さらに「会社を終えたら、プライベートタイムでしたいことがたくさんある」という人間が増えれば、夏時間導入は大歓迎なはずなのである。

ところが、現状は「自分だけさっさと帰るやつは勝手なやつ」とか「会社から出ても、飲む以外することないし」とか思っている人間が多いのか、あるいは、見えない圧力によってそう思わされているのか、とにかく、そういうことなのである。

もうおわかりかと思うが、個人的には、私は夏時間導入に大賛成なんだがなあ。

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2008年5月22日

庄内平野と検索エンジンのコラボ

「Yahoo! 検索 スタッフブログ」 によると、毎年この時期に、「庄内平野」 をキーワードとした検索が急上昇するのだそうだ (参照)。

表示されたグラフをみると、なるほど、毎年 4月から 6月にかけてのみ、検索数が異常に増えている。この怪現象の要因は、小学校の教科書にあるらしい。

小学校社会科の教科書の序盤に、「米づくりのさかんな庄内平野」という記述があり、そのために、毎年この時期になると「庄内平野」がものすごい勢いで検索されるようなのだ。時間帯による検索のピークをみても、午前 9時頃と午後 2時頃というのだから、この推測は多分当たっているのだろう。件のブログには以下のように記されている。

その理由とは、全国の小学5年生の社会科の授業で
ほぼ一斉に「庄内平野での米作り」を教えているため。
おそらく学校内のパソコンで授業中に生徒が検索したり、
先生が授業前の予習として調べた結果、検索数がこの時期に急増しているのでしょう。

ふぅむ、なるほど。今の世の中では、小学校の授業中でもインターネットを使うことがそれほど珍しいことじゃないらしい。それに熱心な先生は常にネットで検索して最新情報を仕入れようとしているようなのだ。

というわけで、試しに私も Yahoo で(いつもは Google 派なのだが)「庄内平野」をキーワードに検索してみた。

結果は こちら である。おぉ、なるほど。私の検索した時点では、トップにランクされるサイトが「庄内平野の米づくり」という JA 全農山形のサイトである。そのほかにも、「庄内平野といえば、米作り!」 といったサイトがずらりと並んでいる。

ちなみに、Google でもトップは JA 全農山形だった。なんだか、農協と教科書と検索エンジンがコラボレーションしているような案配なのである。おかげで庄内米のブランド価値が上がろうというものだ。広告費に換算したらどんなことになるだろう。

ちなみに、たまには「庄内平野」だけでなく「庄内拓明」でも検索してくれるとありがたいのだが。

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2008年5月21日

遺影に使える写真をもってますか?

母校の高校の昭和 46年卒業組で、首都圏に在住する者たちが、毎年 5月下旬に集まって例会を開いている。そして、今年は私がその例会の幹事の順番になっている。

例年 20名ぐらい集まるのだが、今年はそれを少しだけ下回りそうだ。それぞれいろいろな都合があるものである。

いつも出席する常連が、今年は 3~4人ほど欠席である。欠席の理由は、米国駐在になってしまったとか、仕事の都合でその日は日本にいないとか、経営する店の閉店イベントとか、親の介護で手が離せないとか、なかなかバラエティに富んでいる。だがよくみると、「ああ、俺たちもそんなような年になったのかなあ」 と思わせるものが多い。

その代表格が、「死んでしまった」というものだ。数年前から、同級生の訃報がぽつぽつと入ってくるようになったが、今年はこの会の常連の一人が、通勤途中に倒れて急死したという。いたましいことである。そのほかにも、脳梗塞で入院したとかいう話が複数伝わってくる。

最近、結婚式に出席する機会が減って、葬式に出席する機会がぐっと増えた。結婚式なんて、年に一度もなくなったが、葬式は 3ヶ月に一度はある。若い頃は年に 3回以上結婚式に出て、そのうちの 1度ぐらいは司会を引き受けていたのに、近頃とんとお見限りである。

葬式に出ると、まず正面に飾られた遺影が目に入る。この遺影が、いかにも故人の人柄をうかがわせるようなよく撮れたものだと、追悼の気持ちにも実が入るというものである。

そして、参加したもの同士で「君は遺影にできるようなまともな写真があるかい?」ってな話になる。考えてみると、私は「和歌ログ」をやっているせいで写真はよく撮る方だが、自分が個人的に写してもらうなんてことは滅多にない。

たいていの人も、何かの機会に撮った集合写真やスナップぐらいはもっているが、遺影に使えそうな写真なんてないようなのだ。それで、「そろそろ俺たちも『あの時』用の写真を撮っといた方がいいんじゃないかねぇ」なんて話になってしまうのである。

生前に自分の墓を建ててしまう人がいる。また、生前葬なんてものをする人も希にある。しかし、そういうことをした人に限って、なかなか死なないそうである。それなら、元気なうちに遺影用の写真を撮ってしまっても、もしかしたら長生きできるかも知れない。

かといって、改まって個人的な写真を撮ってもらうなんていうのも、なかなかうっとうしい話で、私もまだそれ用の写真なんてない。

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2008年5月20日

すべての無駄遣いは 「必要な無駄遣い」?

業界団体事務局というところには、時々、要りもしない荷物が届くことがある。どっかの役所や団体主催のイベント・ポスターとか、そのキャンペーン用パンフレットとかである。

で、余計なポスターを貼る壁のスペースもないし、パンフレットだって引き取り手がほとんどないから、結局捨てることになる。

先日も関係先の某団体事務局に、某独立行政法人から、某イベント用に作成したはいいが、多分大量に不良在庫として残ってしまったのであろう冊子が、段ボール 2箱分、有無を言わさず送りつけられた。

申し訳ないがはっきり言わせてもらうと、配布されても誰も喜ばないような、制作者の都合のみで作られた代物である。

こんなもの送りつけられても、誰ももらってくれず、団体所属企業に 1部ずつ送りつけようとすれば、かなりのコストがかかる。それに、たとえそうしたとしても、送りつけられた先で、あっという間にゴミ箱行きになるのが見え見えである。

放っといてもスペースを無駄に取るだけなので、当然ながら「捨てちまおう」ということになる。で、段ボール箱から出して、いくつかの山に分けてビニール紐でくくり、ゴミの日に出すという、余計な仕事をすることになる。考えれば、いや、考えるまでもなく馬鹿馬鹿しいことである。

つまり、この冊子は何割か(あるいは半分以上?)を捨てるために、高いコストをかけて製作されたわけである。さらに自分で捨てるのは忍びないので、わざわざ佐川急便に運賃を支払って、関係諸団体に送りつけ、他人の手で処分してもらっているのである。

とまあ、今回は一つの馬鹿馬鹿しい例を紹介したが、行政や公的団体というのは、詳細に見るとものすごく無駄なことをしている。何のために無駄をしているのかというと、結局は役人や職員を食わすためである。

役人や職員が食えると、少しは他にも利益が廻る。その利益が巡り巡って経済発展に役立つのかもしれない。しかし、それなら初めからもっと意味のあることで金を使って、ストレートに経済発展させたらいいじゃないかと思う。

しかしそれはそれで、今度は「意味のあること」の見極めというのが、とても難しい話になるのだ。「見極め作業」をするための「諮問会議」とかいう名のセレモニーのために、またまた余計な金を使うことになる。

そして、そのセレモニーで「意味のあること」と答申されたので、大変な意気込みで実施された事業が、結果として本当に意味のあることだったというのも、実はそれほど多くはないのである。なかなか悲しいものがある。まあ、「諮問委員」自体がお役所の人選なのだから、しかたないことなのだけれど。

そんな余計な上にさらに余計なことで金を使うぐらいなら、テキトーに使う方がまだましというのも仕方のないことなのかもしれない。経済というのは、かなりの比率の無駄遣いを当初から織り込んで廻っているもののようで、それをすべて切りつめると、大変なデフレになってしまうだろう。

あるいは、「すべての無駄遣いは、『必要な無駄遣い』である」とも言えるのかもしれない。なにしろ経済は「複雑系」だから。しかし、それは少なくとも 「エコ」 じゃないよね。

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2008年5月19日

四川大地震とオリンピック

中国政府や中国人のメンタリティについて、批判的なことを何度か書いてきたが、地震という天災に見舞われてしまったら、そんなことは言っていられない。気の毒な限りである。

私は小学校 6年生の時に新潟地震に遭ってから、地震にはかなりトラウマがある。他人事と思えないところがある。

思い起こせば、あの新潟地震だって、東京オリンピックの約 4ヶ月前だった。あの地震で、私の住んでいた酒田は「震度 5」と発表された。当時は震度 5 に弱とか強とかいった区別はなかった。

しかし私は今でも、あれは震度 5 なんてレベルではなかったと思っている。あれから 震度 5 クラスの地震には何度か遭遇したが、揺れのレベルが違った。立っていると周囲の壁に叩きつけられそうになったのをはっきりと覚えている。

何で「立っていると」という条件付きの記憶なのかというと、実は私はそのとき、廊下に立たせられていたのだった。這うようにして教室に戻り、たまたま欠席していた最前列の子の机の下に潜り込んだのだが、その子が欠席していなかったら、自分の席まで辿り着けたとは思えない。

天井裏から落ちるゴミで教室がもうもうと煙るのを机の下で見ながら、「思えば短い一生だった」と、本気で思った。そしてそう思った子が、4ヶ月後の東京オリンピックの入場式をテレビで観ながら、本気で感動していた。あれは大いなる救いだった。

オリンピックは確かに救いだったが、中国の場合は聖火リレーをわずか 3日間だけ休むという。日本だったら、3日間といわず、大幅縮小するところだろう。このあたりが国家的威信をかけた中国政府の思い入れがうかがわれる。

そして、その思い入れと中国民衆、そして世界の意識のずれが、またうかがわれてしまう。

3ヶ月後では、四川の民衆はまだあれだけの被害から立ち直るまでには至らないだろう。その中で、北京オリンピックは開催される。四川の人たちにとって、それは救いとなるだろうか。私以上に大きなトラウマとなって残るのではなかろうか。

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2008年5月18日

ウンコ強さについて考える

元フォーククルセーダーズの一員にして、精神医学者の北山修氏によると、日本人は世界で最も厳しいトイレット・トレーニングをする人たちなのだそうだ。なるほど、そうだろう。

トイレット・トレーニングとは即ち、ウンコとオシッコをきちんとするしつけである。なにしろ、日本人は清潔好きだからなあ。

赤ん坊がいつまでもおむつ離れをしないと、母親はかなりシリアスに心配する。というか、ストレスに感じるようである。

逆に、ほかの子より速く「ママ、ウンチ~」と言えるようになると、母親は「あ~ら、よく言えたわねえ!」と、大喜びでアヒルかなんかの顔のついた赤ん坊用便器に座らせ、その子は「ママの自慢」になる。

欧米の子なんて 2歳ぐらいになっても、おむつカバーの中をたっぷんたっぷんにしながら、平気な顔して遊んでいたりする。オシッコ強いし、ウンコ強い。

パリの街を歩くと、「フランス人って、ウンコ強いなあ」としみじみ思う。私は初めてパリに行ったとき、舗道で犬の糞を踏んづけた。それ以後、あまりきょろきょろ上を向かずに、しっかりと足元を見て歩くようになった。

パリジャンたちは犬の散歩をさせ、舗道でウンコをさせたまま置き去りにして平気である。そして長いフランスパンを買って知り合いに会うと、そのパンをむき出しのまま犬がウンコする舗道の街路樹に立てかけて話し込んだりしている。

あいつら、かなりのウンコ強さだ。さすが根が牧畜民族である。そしてヴェルサイユ宮殿の庭で、知らん顔してウンコやオシッコをしていただけのことはある。

ウンコ強いか弱いかというのは、民族性にかなりの特徴を浮き立たせるかも知れない。日本人はウンコをさっさと始末したがる。昔は肥料にしていたにしても、日常生活の表舞台からは遠ざけていた。そうした習性が、かなり潔癖な国民性というものを醸造したと考えるのは、間違っていないと思う。

日本人はとにかく(論理としてというよりは、多分にイメージとしての)清潔好きである。あまり必要もなさそうなサニタリー商品がどんどん売れる。そのせいで、免疫が弱まるなんて指摘されたりしている。

またその一方で、「臭いものには蓋」とか言って、嫌なものはとりあえず遠ざけ、逆に抜本的対策は講じないなんていう国民性を生み出したんじゃないかという気もする。また、すぐに「水に流す」とかして、あまり根に持たない淡泊な性格になったのかもしれない。

厳しいトイレット・トレーニングは、表向きの清潔好きと、その裏返しの「テキトーに間に合わせる」という、表裏一体の国民性を醸造したようだ。まあ、これは「卵と鶏」の関係かも知れないが。

北山修氏は「日本の母親がトイレット・トレーニングにもっと大らかになったら、日本人は変わるかもしれない」と言っていたが、そのあたりは、なかなか大らかにはなりにくいんじゃないかと思うなあ。

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2008年5月17日

日本は高級車と軽自動車の市場になるのか

日本の自動車保有台数が、初めて減少に転じたそうだ(参照)。オイルショックでも、バブル崩壊直後でも、前年同月比が 3ヶ月連続減少なんていうことはなかったのに。

これは、新規購入が廃車に追いついていないということを示す数字だろう。買う人よりも手放す人が多くなったのだ。

私の父は 77歳だが、2年ほど前に購入した車を「人生最後の車」と思っている。この車を乗りつぶすまで乗り、廃車にしたら、その後は運転免許を返上するという。今でも、年間で 数百 km しか乗らないようなのだが。

昨年までは今年 3月の運転免許更新をしないつもりでいた。高齢者になると、運転免許更新にいろいろな検査が必要になり、時間がかかる。しかし母の看護のために、そんなに長く家を空けているわけに行かなかったのだ。

ところが、昨年 5月に母が亡くなったために、「もう一度だけ、免許を更新してみよう」と思い立ったそうだ。更新にあたって、視力だのなんだの、もろもろの検査を受けたところ、実年齢より 10歳以上若いと言われて、ご機嫌になっていた。これなら、あと 5年は車を運転しても大丈夫だろう。

ところが、世の中は高齢化の波にもまれて、車を運転できなくなった層が増えており、彼らは次々に車を手放して、運転免許の更新もしなくなっている。団塊の世代が 70歳を超える頃になったら、この動きはますます加速するだろう。

一方で少子化はずっと前から続いているので、新たに運転免許を取得する人数はそうそう増えるわけがない。さらに運転免許は取得しても、車を購入できるとは限らない。低所得の若年層はかなり増えている。車の台数は減るに決まっているのだ。

それでも、3ヶ月前までは日本人の保有する自動車台数は増え続けていたというのだから、思えば自動車市場はずっと「ビミョーにバブル」だったのだ。バブルさ加減がビミョーだったために、思い切りはじけずに済んでいたのだ。

こうした状況は今後も続くだろうから、自動車業界は利益確保のために、1台売れば利益の大きい高級車の開発に力を入れるだろう。ただ、それだけではマーケットが限定されるので、一方では低価格の大衆車にも力を入れなければならない。

これまで日本の自動車市場は、カローラを代表とする「性能のいいコンパクトカー」が主力だった。この構造が今、崩れつつある。極端にいえば、高級車と軽自動車の市場になる。そして、それは日本経済全体を象徴することにもなるのだろう。

「優秀な普及品」を得意としてきた日本の産業界は、その性格を根底から変えることになる。

8割が中国製といわれるようになった衣料品市場では、既にその傾向が顕著になっている。「ブランド品」と「廉価品」が増えて、それなりの値段で品質は高級品なみという定評のあった国産品(いわば「カローラ」みたいなもの)のレンジが、極端に薄くなっている。

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2008年5月16日

ただ者ではない「くいだおれ人形」

先週の土曜日、車を運転しながらカーラジオで 「土曜ワイド」 を聞いていたら、ゲストで登場した豊竹咲大夫さんが、「くいだおれ人形は二代目由良亀の作」と言っていた。

二代目由良亀とは、昭和の人形浄瑠璃の頭(かしら)制作者。道理でくいだおれ人形、案外端正な顔立ちである。

私は大分前から、くいだおれ人形はコミカルなイメージの割に、よくみると小津安二郎の映画に出てきそうな顔立ちだと言っていた。原節子の婚約者といった役どころでも、別に違和感がないほどの、「昭和のハンサム顔」 と思っていたのである。

で、咲大夫さんの言葉を頼りにググってみると、Wikipedia の「くいだおれ」の項に、確かに次のような記述が見つかった。

くいだおれ人形作者である二代目由良亀(藤代亀太郎)は、淡路島洲本市由良町出身で、淡路人形浄瑠璃の頭(かしら)の製作に携わっていたが、昭和21~23年頃(1946-1948年)に大阪に出、人形浄瑠璃の人形製作者となり、後身をも師事している。

(中略)

くいだおれ人形は昭和24年(1949年)に由良亀が淡路島から大阪へと出た頃、アルバイトで製作したもので、本業の浄瑠璃の頭(かしら)製作者としても秀作を残している。

なるほど、人形浄瑠璃の人形師の制作によるものならば、端正な顔立ちというのも頷ける。さすが道頓堀である。さらに、私が感じていた「昭和のハンサム顔」というよりも、本来の素性は、より古典的ともいうべきものだったのだ。

それにこの人形、案外「小顔」でスタイルがいい。これもよく見れば、文楽の人形と共通したプロポーションである。ただ者ではないとは薄々感じていたが、それほどまでとは知らなかった。

国の指定する重要文化財というほどのものではないかもしれないが、大阪府が何らかの文化財指定してもいいほどのものだと、私なんかは思ってしまったのである。

【2025年 3月 25日 追記】

18年近く経ってしまってからの追記で申し訳ないが、この記事を書いてからほぼ 1ヶ月後にこんなニュースがあったようだ(参照)。

080516

 

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2008年5月15日

はてぶ界隈に足りないフェミニンさ

ご存知の方はとっくにご存知なのだが、私は "Today's Crack" というブログの他にもう一つ、"和歌ログ" という酔狂なブログを毎日更新している。

和歌ログへのアクセスなんて、"Today's Crack" の何十分の一というささやかなものだが、私にとっては大切なメディアである。

人間の脳に譬えると、多分 "Today's Crack" は左脳で「和歌ログ」は右脳ということになるのだろう。私は自分の脳を左右バランスよく鍛えておきたいので、どちらも捨てるわけにいかない。しかし、自分が晩年になったら、残るのは「和歌ログ」の方なんじゃないかという気もしている。

世の中には「はてな」というサービスがあって、その中の「はてなブックマーク」(通称: 「はてぶ」 )というソーシャルブックマークが、あちこちで毀誉褒貶の中にある。なかやっかいな代物のようなのである。

私は市場調査(?)的な意味合いもあって、公開された他人のはてぶはありがたく利用させてもらっているが、自分でやろうとは決して思わない。人に薦められたこともあるが、どうしてもその気になれない。

どうしてなのか、自分でもなかなかわからなかったが、近頃ようやくわかったような気がしている。はてぶ、ちょっと左脳が勝ちすぎという印象なのだ。さらにそれの裏返しで、時々右脳が盛り返しすぎで、ヒステリックになっちゃう気もする。つまり、とても分裂的な印象なのだね。

私としては、右脳と左脳の働きがあまり両極端にならずに、うまくフュージョンしてバランスされているというポジションにいたい。時によってどちらかの要素が極端な形で現われるというようなのは、できれば避けたいのだ。

私は感情的過ぎる人は苦手だが、それと同様に、論理的すぎる人も苦手なのである。どちらとも一緒にお酒を飲みたいとは思わない。二つのファクターがうまくバランスしている人とは、おいしくお酒が飲めると思っている。

それと相似的な意味合いで、フェミニンすぎる人も苦手だし、マチョすぎる人も苦手だ。やっぱりこの方面でもうまくバランスしてもらいたいと思っている。

そして、ネットの世界においても、似たような感覚をもっている。はてぶの表向きの顔、論理的過ぎる雰囲気には、ちょっと付き合いきれないと感じている。トマホークかざして、理屈に合わないファクターをバサバサ切り捨てるというのは、私の趣味じゃない。

さらに、その論理性という表向きの雰囲気がぐらつくと、今度はやたらとヒステリックで感情的なファクターが垣間見られるというのも、ますますそこから離れた所にいたいという理由になる。

うーん、実はまだうまく言えた気がしないのだが、さらに妙な言い方をしてしまうと、はてぶ界隈、致命的にフェミニンさに欠けている気がしてしまっているのだよ。私の偏見だったら幸いだけど。

男にもフェミニンさは必要なのだ。それが欠けると、ちょっとやぁなやつになっちゃう。

というようなわけで、急に飛躍させて締めてしまうが、私は最終的には「ブロガー」としてよりは、むしろ「ネット歌人」として死にたいと思っているようなわけなのである。へぼ歌人から抜け出すには、まだ手間がかかりそうだけどね。

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2008年5月14日

"reservation" か、"appointment" か

「エイゴの時間」というサイトに、なかなか興味深い記事を見つけた。"♪reservation or appointoment? ~ 予約" という記事である。

美容院の予約は "reservation" なのか、それとも "appointment" なのかという、日本人の感覚では微妙に迷ってしまいそうなテーマを、明快に解説している。

この 2つの単語、「リザーブ」「アポイント」と短縮されて、日本語にも入り込んでいる。それぞれ、「予約」「面会の約束」というような意味で使われている。

普通、歯医者や美容院の予約などは、日本語で「予約」という単語で言い習わされていると思う。それに引きずられて、米国でこの方面の予約をするときも、"reservation" という単語をつい使いそうになってしまうが、普通の英語では "appointment" の方を使う。

使い分けのルールは案外単純で、"reservation" は「スペース」の予約、"appointment" は「人」の予約なのだそうだ。なるほど。英語をしゃべったり書いたりするときは、単純な和英直訳感覚に引きずられてはいけないのである。

レストラン、旅行、ホテル、劇場などの予約は、テーブル、座席、部屋などの「スペース」を予約するので、"reservation" を使い、人と面会を約束をするときは、"appointment" を使う。

そして、歯医者、美容院などの「予約」も、歯科医師、美容師という人間にやってもらうことになるので、"appointment" なのだ。カタカナの 「アポイント」だと「面会の約束」というニュアンスが強いので、違和感を生じることもあるかもしれないが、外来語は外国語そのものじゃないので、割り切らなければならない。

それにしても、英語というのは「パーソナル感覚」が強い。日本人が歯医者の予約をするときは、「歯科医師」という人間を予約しているというより、歯科医の椅子を予約しているという感覚が強いようなこともあるが、英語だと「歯科医師という人間」とのパーソナルな「アポイントメント」なのである。人間対人間なのである。

ここで心配になるのが、軽薄な西洋かぶれがこの例を取り上げて、西洋の方が人間重視で、日本は軽視しているなんてことを言い出しかねないんじゃないかということだ。そこまで危惧するのは考え過ぎかもしれないが。

この場合の 「パーソナル感覚」というのは、個人としての相手の労働時間を買うという、むしろビジネスライクな感覚なので、いわゆる「ヒューマン感覚」とは違う。だから、日本文化が人間軽視というわけでは決してないということを、我々自身の名誉のために、念のため書き添えておく。

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2008年5月13日

Mac ユーザーになりたい

先週末から天気がぐずついていて、昨日までは「肌寒い」なんて言っていたが、今日は「寒い!」と言い切りたい天気である。

先週の金曜日まではアンダーシャツなしで直接シャツを着て、夏用のジャケットを着ていた。今週はアンダーシャツを復活させて、冬用のジャケットである。

近頃は天気が極端から極端に振れるから、油断がならない。ちょっと前まで 25度以上の夏日が連続していたとは、到底思われない。北海道で軒並み 30度を超えたなんていうのは、あれは夢じゃ。一夜のはかなき夢じゃわいなあ。

 05office_mac

で、今日の話は天気のことではなく、Office:mac 2008 のことである。今日買った「週刊アスキー」に広告が出ていたのだが、そのキャッチフレーズで、ちょっとこけそうになった。

「シンプルにいこう」というのである。よく言うなあ。マイクロソフトさん、お願いだから、口ばっかりじゃなく、本当に「シンプルに」行ってもらいたいものなのである。

憎まれ口はこの辺にして、なんで Office:mac 2008 が気になったのかというと、私は心の底では Mac が欲しいからなのである。仕事でもなんでも、OS は MS の方が当たり障りがないので、MS-DOS の時代からずっとアップルを横目で眺めてきたが、本当はとても気になっていたのである。

14年前、それまで使い続けていたワープロ専用機の OASYS を卒業してパソコンを買おうと決心したとき、私はよっぽど Mac を買おうかと迷ったのである。しかし当時の勤め先のマシンが、MS-DOS から Windows 3.1 に変わったばかりだったので、互換を考慮して富士通の DeskPower なんていうのを買ってしまったのだ。

あれからずっと Windows の悪口を言いながらも、Vista に至るまで、ほとんどすべてのバージョンを使い続けている。そして内心では、「自分は、本来ならば Mac ユーザーであるべきだった」 との思いを捨てきれないのである。

周り中が Windows でも、Mac を使うためのハードルが、近頃目に見えて低くなっている。知人でも、プライベート・マシンは Mac にしたという人が、ちらほら現れていて、MacBook Air を買った S 氏などは、あちこちで自慢げに見せびらかしている。うらやましいなあ。

ただ、実際に Mac にしちゃうとなると、ここまで Windows で引っ張ってきてしまった私としては、まだまだクリアすべき要素がたくさんある。Mac 本体と Mac 用のアプリケーションを一通り買いそろえるのは、かなりの出費だろう。

Mac 本体だけを買って、実際に使うのは Boot Camp 上の Windows アプリケーションばかりというんじゃ、単にファッションだけのためにレンズの入ってない眼鏡をかけてるようなものだしなあ。

いつか思わぬ臨時収入でもあったら、さりげなく Mac を買ってしまって、じっくりとアプリケーションを買いそろえていき、ある日気付いてみたら、どこに出しても恥ずかしくない Mac ユーザーになってましたというのが私のビジョンなのだが、問題は、その臨時収入がいつ入ってくるかということなのだ。

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2008年5月12日

映画の字幕と知的レベル

映画字幕で業界が四苦八苦 若者の知的レベル低下が背景か?」というニュースで、なんだかとても複雑な気分になった。

速く読めない、漢字が読めないという問題だけでなく、そもそも字幕以前のケースもあるらしい。「ソ連」や「ナチス」を知らないので、内容が理解できないとか。

だがしかし、これって「知的レベル低下 という次元の問題なのだろうか? 速読のできないやつや漢字の読めないやつなんて、昔からいくらでもいたので、別に今に始まったことじゃない気もするし。

同じようなことが、「大学生の知的レベル低下」というテーマとしても語られる。これにも私は疑問がある。「大学生の知的レベルが低下した」というよりは、「昔は大学に入れなかった連中が、今は大学生になっちゃってる」という方が正しいんじゃないかと思うのだ。

同様に、昔は洋画なんて見なかった層が、今は気軽に観るようになったとも言える。昔の洋画好きはしょっちゅう字幕で観て、そういうものだと思っていたから、知らぬ間に「字幕スタイル」に慣れていた。

単純でファンタスティックな「娯楽大作」に慣れきった若い層が、たまにちょっと複雑なストーリーの映画を観たら、そりゃ、ついて行けないのも当然だ。

ただ、繰り返すが、「若者の知的レベル低下」というのは、本当にそうかなあと思う。モノ知らずは、昔の方がずっと多かったと思うのだ。

1975年にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結したというニュースが流れた日、私はたまたま実家にいたのだが、母がニュースを聞きながら
「ベトナムって、どこ?」と聞いた。私は腰が抜けるほど呆れた。

それまで毎日のように大きなニュースになっていたベトナム戦争が、どこで戦われていたかを知らずに、母は 10数年生きていたのだ。高等女学校を卒業した母が。

「えぇと、あの、南の方で、インドシナ半島というところにあって、昔は『フランス領インドシナ』と言われていたところ」と説明すると、母は、「ああ、なんだ、『ふついん』か」 と、すました顔をして納得した。途中のごちゃごちゃは一切抜きにして、気が晴れたようであった。さすが、「母は強し」である。

「仏印」 …… ああ、そうか、母の時代にはそう習ったのか。そして戦後 30年間、母の頭の中の世界地図にベトナムはなく、ただ仏印があったのだ。きっと、アフリカ大陸の国境線も、ものすごく少なかったろう。高等女学校時代は、それで十分だったのだ。

そしてきっと、現代は常識といわれることの範囲が広がりすぎて、フツーの人間のリソースを超えかかっているのだ。だから、覚えなくても別に不便のないことを覚えることを要求され、知らずには済まないことがおろそかにされてしまうのである。

そして映画の字幕で言えば、洋画業界のマーケティング・ターゲットが、多分ちょっと広がりすぎているのだ。

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2008年5月11日

賞味期限切れのヒラリー

米国の民主党大統領指名候補者は、いよいよバラック・オバマ氏で決まりのような雰囲気になってきた。ここまで来てしまうと、ヒラリーの逆転は難しいだろう。

ブッシュの任期が 2年前だったら、そりゃもう、圧倒的大差でヒラリーが大統領になっていただろうに、運命とはわからないものだ。

2006年の中間選挙は、ブッシュ対ヒラリーの対決みたいな様相を呈していて、ジョージ・ブッシュのイラク政策失敗とヒラリー人気で、民主党が上下両院で多数党となった。そして今だから言ってしまうが、この頃が、ヒラリーの一番いい時期だった。

私はこの中間選挙の結果を受けて、「どのように振る舞い、何を言えばスマートに見えるかを熟知しているヒラリー・クリントンと、どのように振る舞い、何を言えば馬鹿に見えるかを知らないジョージ・ブッシュとでは、勝負は目に見えていた」と書いている (参照)。この件に関しては、これ以上の総括を私は知らない。

その上で、私は次のようにも書いている。

彼女のインタビューなんかを聞いていると、何を聞いたらどう答えるかというのが、大体想像通りだったりして、意外性というのはほとんどない。アメリカのベビー・ブーマーズの最大公約数的な 「スマートさ」 というのを、意識して身につけているだけという気がしないでもない。

(中略)

私はビル・クリントンが大統領に選出される前、彼を 「アメリカの口先男」 と呼んでいた。同じように、今のうちに言っておこう。「ヒラリーは、ただスマートなだけ」 と。

私は案外直観だけでものを言っちゃう傾向があるのだが、ヒラリーのケースについては、その直観が当たったみたいな気がしている。

ヒラリーの野心満々さが世界中に決定的に印象づけられたのは、3年前の自伝 "Living History" の発売の頃だった。この自伝が出た 2005年 6月に、私はちょうどアメリカにいた。発売前から、テレビではこの本のプロモーションがガンガンに流されていた。

6月 9日の発売当日、11時開店の書店には、9時から行列ができたそうである。政治家の自伝でそんな大騒ぎになるなんて、日本じゃ絶対に考えられない。で、その日私はシカゴの空港にいたので、空港内の書店で、全然並ぶこともなくサクサクと立ち読みできた。

この時のことは、"Today's Crack" がココログに移行する 1年前、"ヒラリーの「あざとい」自伝" という記事で、次のように書いている。

あまりの話題なので、空港の書店でちょっと立ち読みしてみた。

「私はファーストレディとして生まれたわけでも、上院議員として生まれたわけでもない。ましてや、民主党員として生まれたわけでもない」

ちょっと立ち読みしただけなので、細部は違っているかもしれないが、彼女の自伝はのっけからこんな調子で始まる。これで、買って帰る気がしなくなった。

ベビーブーマー的スマートさはあるけれど、スーザン・ソンタグをいやらしくしたような、かなりあざとい書き出しである。マーケティング的分析で練りに練った上で、印象的な「つかみ」として採用された文章だったのだろうが、個人的にはうんざりするスタイルだ。

私はこの時の記事を、「多分、彼女は米国で初の女性大統領になれるだろう。しかし、それは米国社会の底の浅さを物語るものでもあるような気がする」と結んでいる。

この 3年前の直観は、どうやら外れそうだ。米国初の女性大統領になるのは、ヒラリー以外の誰かだろう。米国社会は、それほどまでには底が浅くなかったというより、ただ単に、彼女の賞味期限切れのためのような気がするのだが。

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2008年5月10日

大根役者と千両役者

福田首相という人は、状況の先の先まで鋭く読むことのできる人だなあと、私は近頃、えらく感心しているのである。

前々回の自民党総裁選を降りたのだって、「どうせすぐにお鉢が廻ってくる」 と読んでいたのだろうし、今回の対中国媚びへつらいも、将来の国益を見越してのことだろう。

中国は今、世界中から批判を浴びている。各国の聖火リレーで、超特大の赤い国旗を掲げて気勢を上げていた中国人留学生たちも、「俺たちの国って、実はこんなに嫌われてたのか」 と、内心はかなりのショックだったろうと思う。

こうして集中砲火を浴びる中国に、涼しい顔をして、いけしゃあしゃあと好意的なコメントを述べておけば、ちょっとした恩を売ることができる。

向こうが実際に恩義に感じてくれるかどうか、あるいは多少は恩義に感じたとしても、その恩義をいつ忘れるかわかったものではないということは全然別として、少なくとも 「恩を売った」 という気になることはできる。

中国が近い将来、世界最大の経済市場になることは明らかだ。その有望な市場に対して、否定的な態度でいることはない。今のうちから、きっちりとお客様扱いしておくに越したことはない。相手がどんなにつけあがろうとも、お客様は神様だから、奉っておけばいい。

今回のパンダの問題にしても、「2頭で年間 1億円は高すぎる」 などというけちな連中もいるが、日本は弱小国じゃあるまいし、出そうと思えば 10億円だってポンと出せる。1億円ぐらいでガタガタ言われることはない。

だから、中国中央テレビのインタビューには、「メディアの一部でいろんなことを言う人がいるが、これはごくごく少数派。ほとんどはかわいいパンダを見たいと思っており、手放しで喜んでいる」 と、心にもない外交辞令で応えておいた (参照)。

まあ、リップサービスが過剰なのは、そこはそれ、相手は神様なのだから、大目に見ればいいだろう。福田さん、役者である。ただ、結局は大根役者のレベルでしかないというのが悲しい。大根役者というのは、「消化がいいから当たらない」 というココロである。

そこに行くと、千両役者は天皇陛下であらせられる。

7日の会見で胡錦濤氏は、「上野動物園のパンダのリンリンが死んだのは残念です。日本の人に引き続きパンダを見て喜んでもらえるように、共同研究用にパンダのつがいを提供することにしました。日本の子どもたちに見ていただきたい」 と述べた。

う~ん、「提供することにしました」 は、誤訳と信じたい。本当は 「貸与することにしました」 だろうから。あるいは、現代中国語では 「提供」 という語に 「金取って貸す」 という意味もあるのだろうか。

そしてこの発言に対し、陛下は 「子どもたちが喜ぶと思います」 と応えられた。さすがだなあ! しかしこのウィットの妙を指摘している人は少なく、見たところでは、わずかにカトリック生活の Christina さんぐらい (参照) というのが残念だ。

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2008年5月 9日

食べ残しを捨てりゃいいってものでもない

資料的裏付けは見つけていないが、日本では輸入される食料品とほぼ同じ量の食品が、残飯として捨てられているという説がある。

捨てるためのみに食料を輸入しているというわけでは、決してないにしろ、捨てられる残飯がため息の出るほど多いというのは、この国に暮らしていての実感である。

船場吉兆の「客の食べ残し使い回し」のニュース(参照)を聞いて、複雑な気分になってしまった。船場吉兆を責める前に、私は「食わないもの(あるいは「食わせないもの」)までも食卓に出される文化」というものを、悲しく思ってしまったのである。

使い回しにしていたのは、刺身のつまなどだそうだ。あれなんか、ほとんどの人は食わないものなあと思う。私は食いたいけど。

私はお偉方という立場にいないから、料亭で食事をすることなんて滅多にないが、それでも年に数回はそういうところでメシを食うことになる。で、そういうところでは、ほぼ 100%、刺身が供される。

刺身の盛りつけは、大体において刺身を食い終わらないとツマの大根が食えないようになっている。大根を大葉かなんかでカバーして、その上に刺身が乗っかっているからだ。

で、当然ながらまず刺身を食う。刺身を食い終えて、さあ、大葉と大根を食おうと思っていると、仲居さんが出てきてさっと皿を下げてしまう。下げていいか聞きもしないで。

その場の雰囲気によっては、「あ、まだ下げないで」と小声で言うこともあるが、多くの場合はこちらがそれをいう間もなく、電光石火の早技でさっと下げられるので、仕方なくツマを食うのを諦めている。とてもとても残念である。

私としては刺身だけ食うと口の中に生臭さが残るので、ツマを食って中和したいと思っているのだが、現代日本の底の浅い文化は、それをさせてくれない構造になっている。

下げられた大根は無惨にも捨てられてしまうのかと思っていたが、船場吉兆は、それを再利用していたわけだ。大根を大葉でカバーしているのは、一応気休めの衛生を確保するためだったのかもしれない。

というわけで、私としてはなるべく刺身のツマは食うようにしているのだが、多くの人は、どうせ食わないものを再利用しているということに関して憤慨しているのである。私はそれが、悲しい気がするのである。

船場吉兆を擁護するつもりはさらさらないが、「それ言うなら、ちゃんとツマまで食えよ!」 と言いたいのである。「大事な食い物、無駄にするなよ!」 と。

さらに言うならば、食いきれないほどの量の食い物を供するという文化に、疑問を呈したいのである。中国あたりでは、ゲップが出るほどの大量の料理を出さないと、けち扱いされるらしいが、それは、貴人の食べ残しを使用人が食うという「裏の文化」があってのことだ。

私も貧乏学生時代、厨房のバイトをしていた頃は、手つかずに戻ってきた料理は構わずどんどん食っていた。客と調理場では感覚が違う。従業員感覚としては、確かに「もったいない」と思うのだ。だからといって、食べ残しを客に出していいというものではないのだが。

それでも、「高い金を出してるんだから、食い物の使い回しなんかするな!」というのは、「高い金を出してるんだから、ちゃんと捨てろ!」ということの、別の言い方である。ちゃんとツマまで食わずにそれを言うのは、かなり傲慢な話だと、私は思ってしまうのだ。

立食パーティで、あっという間に食い物がなくなってしまうことがある。出席者の多くは文句を言うが、私なんか、それは好ましいことだと思っている。メシなんか、慎ましやかの方がずっといいじゃないか。私は捨てられるとわかっているメシを残して帰る方が、ずっと気持ちが悪い。できることなら、ちゃんと食って供養してやりたい。

そして最後に自信をもって断言しておくが、客の食い残しの使い回しは、船場吉兆だけではないはずだ。ゴキブリが一匹見つかれば、隠れたところに百匹はいるのである。我々も使い回しを食わされたことは、一度や二度じゃないはずなのだ。

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2008年5月 8日

パンダと キティ、ドラえもん

いやはや、驚いた。日本中この話題でもちきりだが、中国からパンダを 2頭借りるのに、年間 1億円を払うんだそうだ。

「友好のシンボル」なら無料と思っていた私が馬鹿だった。恥ずかしながら甘すぎた。しかし「貸すから金寄こせ」で「友好」とは、なんだか割り切れない感覚だなあ。

これまでも中国は「友好のシンボル」として、何頭かパンダを日本に貸し出していた。日本側は「友好のシンボル」を真に受けていたが、その割には、向こうはその時々で「日中友好」を強調したり、「反日」 盛り上がったり、ずいぶんなご都合主義だなあと思っていたわけだ。

ああ、これでわかった。パンダが日中の「友好のシンボル」というのは、単なる名目で、実際は単なる「レンタル契約」というビジネスに過ぎなかったのだ。それならば日本人も、パンダを見るたびに「日中友好」なんてことを条件反射的に思い浮かべる必要は、全然ないわけだ。金払って借りてるだけなんだから。

その上でさらに思ってしまうのだが、1億円も払ってパンダを借りるというのに、日本は「ドラえもん」でも「キティちゃん」でも、ほとんど無料で貸し出しているようなもんじゃないかということである。だって、向こうじゃ知的所有権無視で使いまくりだし。

それを考えると、パンダのレンタル料 1億円なんて踏み倒してしまっても、貸し借り関係は日本側が圧倒的に貸しを作ってるという状態じゃなかろうか。

いやいや、日本は中国人の発明した「漢字」というものを無料で使いまくりだから、それでも貸し借り関係は圧倒的に中国優位だという立場もあるかもしれない。戦争中の植民地支配のどうのこうのも考えろとか。

しかしそこまで無理矢理にさかのぼると、今度は中国のチベット問題が出てくるだろうから、両刃の剣である。止めといた方がいいんじゃないかなあ。

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2008年5月 7日

連休の渋滞のピークがばらけたらしい

連休明け初日。いつもの田んぼの中の抜け道を通って取手駅に向かうと、交通事故が 2件。車が 2台、田んぼの中に落ちていた。

帰省の U ターンラッシュの中をくたくたになって帰ってきて、ゆっくり寝る間もなく仕事に向かう途中だったのだろうか。いずれにしても、連休明けは頭がボケている。

ところで、ゴールデンウィークの帰り車の渋滞は、今年は当初の予想ほどではなかったらしい。ところによっては気が抜けるほどスムーズな流れだったと、今朝のニュースで伝えられていた。日本人も、ようやく真剣に渋滞を嫌悪して、避けようとする意識が出始めたらしい。

私は 30年以上、少なくともお盆の時期には車で帰省しているが、いわゆる帰省ラッシュとか U ターンラッシュとかいうものに巻き込まれたことが、ほとんどない。今回の母の一周忌の帰省にしても、渋滞の定番ポイントを避け、しかも帰りは夜間の移動にしたので、「渋滞って何?」 というほどサクサク移動できた。

そりゃ、途中で少しは渋滞にはまったことはあるが、それはその地点ではいつも起きている短距離の通勤渋滞とか、突発的な事故渋滞とか、農家のじいさんが運転する軽トラが、稲藁を山ほど積んで先頭をトロトロ走っていたとかいうものである。

それらを別とすれば、私は 10km 以上続く渋滞で往生したという記憶がない。不運にして高速道路で「○○より渋滞、*0km」とかいう表示が出ていたら、次の出口でさっさと降りて、一般道の抜け道を通って移動する。探せば抜け道はいくらでもあるものである。

抜け道が遠回りになって、時間的にはせいぜい数十分程度の短縮にしかならなかったとしても、のろのろと動いたり止まったりを繰り返しているよりは、精神衛生的にも燃費的にもずっといい。

私は渋滞を嫌悪しているのある。混雑の中で身動きの取れない状態になるのが、何より嫌いなのだ。だから、渋滞に巻き込まれないよう、あらゆる方策を駆使して移動するのである。

ところが世の中には、渋滞をそれほど苦にしない人もいるようなのだ。いや、そりゃ 「苦にしない」 といえば語弊があるだろうが、少なくとも、私が 「死ぬほどいや」 と思っているほどには、シリアスに避けたいとは思っていないような気がする。「仕方ないね、覚悟しなきゃ」 ぐらいの意識なんじゃないかと思うのだ。

そんなわけで、連休の両端の日中に、30km だの 40 km  だのという気の遠くなるような渋滞に、自ら進んで飛び込んで行くのである。避けようと思えば避けられるのに。

以前、TBS の永六輔さんの番組で、永さんが「どうしてみんな、混むところに出かけたがるんだろう」と言うと、アシスタントのはぶ三太郎さんが「僕、混んだところに出かけるの、好きですよ。だって、楽しいじゃないですか」と言っていた。さすが、熱狂的巨人ファンである。

なるほど、少なからぬ日本人は、人混みが好きなのだ。そしてその行き帰りの渋滞にしても、それに伴う付帯事項として十分に許容範囲なのだ。多数派の中に埋没するのが、意識的か無意識的かは別として、安心感をもたらすということがあるのかもしれない。

しかしここに来てようやく、「渋滞、死ぬほどいや」という人が増えてきているようだ。そのせいで、高速道路の渋滞予報が少しは外れるという事態が生じているのだろう。

しかし、そのために渋滞のピークがばらけて、渋滞を避けたつもりだったのに、思いの外に混雑したなんてことが、これから生じるかもしれない。私としては、混むときは思いっきり混んでくれる方が、対策を立てやすいのだが、これからは裏の裏まで読まなければいけなくなるのかなあ。

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2008年5月 6日

水は、話しかければおいしくなる

フジテレビが 「あっぱれさんま新教授」という番組で、「話しかければおいしくなる水学」なんていうのをやったそうで、「水伝」関連がまたぞろ話題になっている。

過去に何度かこの問題に触れたせいで、一部では水伝シンパに色分けされているらしい私としては、ちょっと見過ごせない気がする。

で、ますます水伝シンパと思われてしまいかねないリスクを、私はこれから好んで冒そうとしている。どんなことかというと、「水は、話しかければおいしくなる可能性が高いよ!」と言ってしまうことである。ああ、なんて向こう見ずな私。

ただ、結晶がきれいとか美しいとかいう問題に関しては、私は「どーでもいいわ」という立場である。明確に批判しないのは「ぬるい」と思われるかもしれないが、私ってば、こういうの、明確に批判するのも気恥ずかしいのである。で、批判よりつれない「冷淡」で、まかなおうと思っているのである。

ちなみに、コンクリートの研究という仕事で、水や氷についてもかなりの実証的研究をされたというやっさんが、私の過去記事に、以下のような明快なコメントを付けてくれている。(参照

結晶を美しく造りたいなら結晶の核になるものを超微粒子として急速に凍結すれば美しいものが出来ます。発生途上に、残業残業で安月給でコキ使いやがって、コノヤロォー、上司はもう帰って、今頃、呑んでんだろうなぁチクショーと、悪態をつきながらイヤイヤやっても綺麗な結晶が出来ます。別に美しい心が無くても美しい結晶は、いくらでも出来ます。

ということなのだそうだ。水の結晶が美しくなるかどうかは、心根の問題ではなく、単純な物理条件に左右されるようなのだ。そりゃそうだろう。水伝に命を懸けたければ、物理条件をコントロールしながらやればいい。もちろん、そんな物理条件なんてネグレジブルと言ってしまえるほどの、圧倒的な感謝の気持ちでね。

ここまで述べた上で、「水は話しかければおいしくなる」ということを、私はあえて肯定しちゃおうと思うのである。私は以前、「パンからの伝言」という記事で、次のようなことを書いている。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

ここまで書いてしまった以上、「水に話しかけても、おいしくなんてならない」とは言えないじゃないか。

まず、「おいしい」とはどういうことか、そこから入らなければならない。まず前提として確認しておきたいことは、「おいしいと感じればおいしい」ということだ。「おいしい、おいしくない」なんていうのはかなり主観的な問題で、結晶が美しければおいしいなんていうわけでもないのである。

その証拠にフジテレビの件の番組では、「水にはうるさい」と豪語する長谷川初範氏が、利き水に見事に失敗している。きれいな結晶という水も、単なる水道水も、区別がつかなかったというのである。そりゃ、ちょうどいい具合に冷やした水を飲んだら、よっぽど軟水と硬水の差でもない限り、区別するのは難しい。

感覚というのはこれほどまでに曖昧なものなのだから、自分でサイドストーリーを作ってしまったら、それに影響されて、大したことのない水でも極上の水に感じられたりしてもちっとも不思議じゃない。

そして一番簡単なギミックは、水に語りかけて、すっかり感情移入してしまうことだ。そうすれば簡単に「おいしい水」、あるいは「おいしいと感じられる水」になる。「おいしい」と感じさえすれば、それは彼にとっての「おいしい水」なのだから、「文句あるか」である。

A, B, C 3種類の水の、A だけに思い切り感情移入し、それを第三者がこっそりすり替えて、「あなたが思いを注ぎ込んだ水ですよ」として B の水を差し出したら、多分、満足しておいしく飲めるだろうとさえ思う。

要は「気分の問題」なのだが、だからといって、軽々しく扱ってはならない。世の中というのは、案外「気分」で動くものだというのは、日常的に感じることだし。

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2008年5月 5日

E-Mobile モニター 酒田周辺篇

母の一周忌で、昨日から酒田に来ている。昨日の酒田は気温が 28度を超えて、日本一暑い地域になっていた。

ところで、酒田は今年 4月から E-Mobile のサービスエリアに入ったので、楽にブロードバンド接続ができると楽観していたのだが、そういうわけにも行かないのである。

実家について、メール・チェックのために E-Mobile で接続しようとしたら「圏外」という表示なのである。おいおい、話が違うじゃないか。仕方がないので、外に出て車の中で試したら、アンテナの線が 1本も立たないけれど、かろうじて接続できた。ただし、スピードはやたら遅い。

というわけで、和歌ログの更新まではできたが、手のかかる "Today's Crack" の方の更新は諦めて、いつの間にやら法事になだれ込み、いつの間にか終わってしまった。そして、「ありゃ、更新がまだじゃないか」ということに気付いた。

それにしても、E-Mobile のサービスエリアの地図を見ても、私の実家は赤く塗りつぶされた範囲のど真ん中である。ここでこんなに接続状態が悪かったら、はずれの方に行ったらまったく接続できないんじゃなかろうか。

E-Mobile さん、確かに接続できない訳じゃないけど、この程度では「サービスエリア」とは言えないんじゃなかろうか。先日は E-Mobile をさんざんほめておいたが、酒田周辺に関しては、もうちょっとしっかりと電波を飛ばしてもらいたいものである。

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2008年5月 4日

油揚げとパンツの地域格差

所変われば品変わるというが、私が 37年前に上京して一人暮らしを始めたとき、面食らったのが「油揚げ問題」である。

関東では「油揚げ」といえば薄いもので、厚いのは「厚揚げ」だが、私の田舎、庄内では、厚いのが「油揚げ」で、薄いのは「薄揚げ」というのである。

つまり「油揚げ」のデフォルトが、関東では薄いのに、庄内では厚い。そして、そのデフォルトを基準とするから、関東では庄内の油揚げを「厚揚げ」と称し、反対に庄内では関東の油揚げを「薄揚げ」と称するのである。

私が大学に入った頃、食料品の買い出しはまだ近所の商店街でするというのが一般的だった。スーパーなんてものは発展途上だったし、コンビニなんて影も形もなかった。だから、「油揚げ」を買うには近所の豆腐屋さんに行けばよかったのである。

18歳の私は、豆腐屋の親父さんに「アブラゲ 1丁ください」と言った。すると、親父さんは、「ハイ、アブラゲ 1丁!」と威勢のいい声で、あろうことか、「薄揚げ」を紙にくるんだのである。

「あの、薄揚げじゃなくて、油揚げなんだけど」と恐る恐る言うと、「ん? あんた、関西の人?」と聞かれた。

「いや、関西じゃなくて、東北だけど」
「ああ、そう、いやね、関西じゃ、油揚げのことを薄揚げっていうと聞いたから」
「ウチは、関西じゃないけど、油揚げっていったら、こっちのことだよ」

私は豆腐を油で揚げた分厚いやつを指さした。

「あぁ、これはね、関東じゃ『厚揚げ』っていうんだよね」
「へぇ~~? ウチの田舎と逆じゃん」
「どうも、そうみたいだねぇ。所変われば品変わるってぇけど、ホントだね」

というわけで、それをきっかけに、私はその親父さんと顔なじみになり、以後は「厚揚げちょうだい」と言うと、「おぉ、あんたも東京暮らしに馴染んだね なんて言われたものである。

で、油揚げ問題は簡単に解決したが、今でも馴染まないのは、「パンツ問題」なのである。

どうも、日本のスタンダードとしては、「下着のパンツ」は、最初の「パ」にアクセントを置き、一方、いわゆる「ズボン」の「パンツ」のことは、平板アクセントで言うらしいのだ。

ところが、庄内では下着のパンツのことを、平板アクセントで「パンツ」と言っていた。じゃあ、ズボンの方は頭にアクセントを置いていたのかといえば、決してそういうわけじゃなく、そもそも当時はズボンのことを「パンツ」なんて言わなかったのである。ズボンはズボンだったのだ。

だから、私の頭の中には、平板アクセントの「下着のパンツ」しか存在しなかったのである。後になってズボンのことも「パンツ」と言うようになっても、私にとっては外来語というよりは、むしろ英語そのものだったから、オリジナルのアクセントそのままに、頭にアクセントをおいていた。

ところが、世の中ではどうやら、これが逆のようなのである。関東では古くから下着のパンツの場合は、頭にアクセントを置いていたようなのだ。

そしてズボンのパンツのことは、平板アクセントで言うのである。多分、「クラブ」を平板で言うノリなんだろう。最近の若い子は「ビデオ」でも「ゲーム」でも平板で言いたがる傾向がある。

だが、その辺の若い女の子が、いけしゃあしゃあと平板アクセントで「パンツ」なんて言うのを聞くと、私にとってはもろに「下着のパンツ」に聞こえてしまうのだ。心の底で、ちょっとドギマギしてしまうのである。

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2008年5月 3日

梅のホンコン

ゴールデンウィークで、ようやく個人的にもオフの日が巡ってきた。そして明日からは母の一周忌に出るため、なんとか渋滞をすり抜けながら移動しなければならない。

妻が車で移動中のおやつ代わりに、「梅の香巻」を買ってきた。30年近く、我が家の定番オカキの地位を占める商品でる。

メーカーは、新潟県の亀田製菓。米どころだけに、なかなかおいしいあられ、おせんべいを作っている。そしてこの「梅の香巻」(念のため、読みは「うめのかまき」と確認しておく)は、紀州産南高梅を使用し、「甘ずっぱい梅にパリパリの焼海苔」で、なかなかいけるのだ。

05umenoka 

で、この 「梅の香巻」(くどいようだが、読みは 「うめのかまき」)を、私は当初「梅の香港」(念のため、「うめのホンコン)」 というものだと思っていた。なかなか洒落た名前のオカキだと思っていたのである。

この勘違いに気付いたのは、このオカキが我が家の定番になって数年経ってからである。妻はそれまで、私が 「梅のホンコン食いてぇ」 なんて言うのを、できの悪いオヤジギャグと思ってスルーしていたフシがある。娘たちはといえば、幼すぎてなんだかわからなかったらしい。末娘なんて、まだ生まれていなかったし。

だが、とりあえず写真をみてもらいたい。ちらっと見ただけだったら、10人中 7~8人は 「梅のホンコン」 と思ってしまうだろう。(思わないかな?)

袋詰めのオカキの商品名を、じっくりと確認する人なんか希だろうから、私は今でも、これを「梅のホンコン」と信じている人が、日本中に 100万人は下らないはずだと推測している。

試しにググってみたら、あの桜塚やっくんも、梅の香巻について 「多分これ、日本一美味しいね(^0^)/」 とブログで書いていて (参照)、その記事に付いたコメントに、"「梅の香港」おL1しL1ですよねッ!!!私も大好きでス☆★食べ始めたら止まりませーん" というのがあった。

この 「梅の香港」 という勘違いだけで、私はこの軽~い書き込みをしたギャルに、心から共感してしまったのである。インターネットというのは、嬉しい発見に満ちている。

そして、「梅のホンコン」 に限らず、多くの人はたいてい一つや二つの勘違いというのを、長年にわたってしているものなのである。

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2008年5月 2日

ヨッコイ、ショーイッツァン!

近頃、どの新聞も活字がまたまた大きくなった。いつ頃だったか忘れたが、前にも「活字が大きく読みやすくなった」と宣伝されたことがあって、今はそれよりもまた大きくなったというわけだ。

ちょっと見ると、なんだか異様に字がでかいような気がするのである。

こんなに活字がでかくなってしまったのは、日本の人口で最大の勢力を誇る 「団塊の世代」 が、」いよいよじいさんばあさんの域に突入してしまったからである。さすがに「数の力」というのは大きい。

軒並み老眼になってしまった団塊の世代に、新聞社は合わせざるを得ないのである。なぜなら、彼らは誰か一人が 「新聞の字が小さくて読みにくい」と言い出せば、声を合わせて「そうだ、そうだ」と言いたがる傾向があるからである。こんな風にして、昔からあっという間に「トレンド」やら「ニーズ」やらを形成してしまう人たちなのである。

だから「ウチの新聞は活字が大きくて読みやすくなりました」と 1社が宣伝すると、あっという間に他社の新聞もみな活字が大きくなって、特定の社のアドバンテージではなくなってしまう。すべて「右へ倣え」ということになる。

今は新聞社のお偉方もみな、団塊の世代だから、そうならざるを得ないのである。「ウチの新聞は、活字は昔のままの大きさで、情報量をしっかりと確保しています」なんてことを訴求するようなことにはならない。

「多様性の時代」なんて、通俗マーケッターは言いたがるが、そんなことはない、今こそ「画一化の時代」というのが言い過ぎならば、少なくとも「類型化の時代」なのである。

団塊の世代だけではない。新入社員の格好を見てみるがいい。ほとんど全員、コムサ(あるいはそのコピー)の黒スーツで、髪の毛を微妙にツンツン立てて、昼休みのビジネス街をつるんで歩いている。

「多様化」なんてことを真に受けて、本当に好きなような生き方をしてみるがいい。この国では、「KY」とか言われて排除されてしまう。

ところで、団塊の世代もいい年になったので、玄関で靴をはくだけで 「どっこいしょ」 なんて口にするようになった。つい口をついて出るようなのである。「どっこいしょ」 が多いほど年寄りじみているなんて言われるが、それはちょっと酷だという気がする。

知り合いの女性が「ウチの旦那、何かするたびに 『ヨッコイ、ショーイッツァン!』 ってかけ声かけるのよ。もう、オヤジ丸出し!」と言っていた。私なんか「お、それいいじゃん!」と思ってしまったんだが、オヤジかなあ。

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2008年5月 1日

ガソリンがまた高くなるので

私は茨城県つくばの里、つまり、車で動かないと人間の暮らしができない地域に住んでいるので、ガソリンはそりゃあ、安い方がいいに決まっているのである。

てことは、暫定税率復活というのは、バッドニュースである。日本中の田舎にとっても、バッドニュースなのだ。

1ヶ月間、ガソリンがリッター 120円台で入れられた。これでも、ちょっと前までは 100円以下だったことを思えば、かなり値上がりしているのである。とはいえ、原油高騰のおり、なんとか一息つけた。しかし、それも短い夢で終わろうとしている。

田舎の人間にとっては、ガソリンがリッター当たり 150円以上というのは、かなり痛いのである。できることなら、120円台で据え置いてもらいたかったのである。そして田舎の人間というのは、とりもなおさず、これまでの 「保守王国」 を支えてきたのである。

「暫定税率は必要」なんて、ものわかりのよすぎることを言っているのは、車なんて必要ない都会の人間だけである。田舎の人間は、いくら道路ができても、自分が運転するためのガソリンが買えなければ、どうしようもないのである。

車を運転しなければ、CO2 は減るだろう。そりゃ、素晴らしい。だったら、道路も造らなければいいのである。道路が要らなければ、税金も要らないのである。

長い間自民党の支持基盤であった「保守王国」の土台がガタガタになっているというのは、既に何度も触れた。一昨日は「既にぶっこわれている自民党」と書き、昨年夏には "近頃 「いい目」 を見てなかった保守王国" という記事を書いた。この保守王国の屋台骨崩壊は、今回の暫定税率復活で決定的となった。

「暫定」のはずだった税率を恒久的なものと考えて、その上で何の疑いもなく毎年使い放題の予算を組んできた自民党政権が、どうかしていたのである。無駄遣いを抑制すれば、なんとでもなるのに、そうしなかったのがいけなかったのである。

そして自民党は今、さらに我と我が首を絞め続けているのである。私は自民党に義理なんてないから、どうでもいいのだ。この国も、少しは政権交代が可能な国になれば、代議士も官僚も、少しは目が覚めるのである。

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