大きなお世話も時には必要
作家 曽野綾子さんが産経新聞の一面に連載する 「小さな親切、大きなお世話」というコラムがある。
その 5月 23日付で彼女は、「世間の青少年の犯罪者が、自分は親から虐待を受けたり放置されたせいで罪を犯すようになったというのを聞くと、腹が立ってくる」と書いている。
この文は、「私は円満でない家庭に育ったので、多分ひね曲がった根性は残ったのだが」という節の後に続いており、さらに段落を変えて、「ひずんだ家庭の体験があればこそ、私は自分の家庭がとにかく穏やかであることを望んだ」と続けている。
つまり彼女は、「円満でない家庭で育ったのであれば、逆に穏やかな家庭を作ろうと努力することこそが望ましいソリューションであり、そのことを、犯罪を犯した理由にするなどというのは、言語道断」と言いたいのだろう。確かにそれは「正論」である。
しかし世の中というのは、正論が通らないところなのである。正論がすいすいと通るようなら、誰も苦労はしないのだ。そして正論が通らない不条理の世の中であるから、生きていて面白いのだとも言える。
彼女ぐらいに強い自我を持っていれば、親に十分な愛情を注がれなかったら、それを反面教師にすることぐらいは、むしろ容易なことだろう。家庭の問題を自分の非行の理由にするなんて、甘えるにもほどがあるということになる。
しかし、誰もがそのような強い自我を持っているわけではない。多くの人間の自我は、風に吹かれる柳のように、ただ揺れ動いていて、いつも正しい選択ができるとは限らない。逆に「そうなりたくない」と思う方向にこそ、強く引かれていってしまうようなところがある。
不幸は甘美な罠なのである。自分以外の誰かのために自分が不幸になれば、自分は弱者と規定されるから、たとえ罪を犯したとしても、自分の意識の中ではむしろ「被害者」であり、 「無罪」であり得るのである。甚だ勝手な理屈だが、元々不条理の産物だからしょうがない。
あるいは罪を犯すという惨めな境遇にまで追いつめられたればこそ、自分は無実であり得るとも言える。自分が罪を犯すまで追いつめられなかったら、誰かさんに元の罪を着せるわけにいかなくなるから、それは大変な「不都合」ということになるのだ。
子が罪を犯すのは、親に向かっての「お前らの罪に気づけよ!」と叫ぶサインという場合がある。体を張っての不条理なサインである。世の中には、論理的なソリューションを実行できず、こうした不条理なサインでしか自分の葛藤を表現できない子どもたちが、大勢いるのである。
私が昨日のエントリーで、「不良を讃えるドラマ」に関して「功罪相半ばする」として、一方的に批判しなかったのは、こうした理由があるからだ。ある視点からは、仲間由紀恵はフィクションとしての観音菩薩であったりする。
子どもたちの「不条理なサイン」を、彼らのもがき苦しむ煉獄まで降りていって理解してやるというのは、やはり観音菩薩の行なのであって、必ずしも「不良を讃える」とか「甘やかす」とかいうわけでもなかったりする。それは、時には最大級のお世話でもあり得る。
観音菩薩は三十三身に身を変えて、時には地獄の底まで降りていって、衆生を救い給うのである。地獄の底まで降りていくのに、正論もへったくれもないのである。
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