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2008年5月 6日

水は、話しかければおいしくなる

フジテレビが 「あっぱれさんま新教授」という番組で、「話しかければおいしくなる水学」なんていうのをやったそうで、「水伝」関連がまたぞろ話題になっている。

過去に何度かこの問題に触れたせいで、一部では水伝シンパに色分けされているらしい私としては、ちょっと見過ごせない気がする。

で、ますます水伝シンパと思われてしまいかねないリスクを、私はこれから好んで冒そうとしている。どんなことかというと、「水は、話しかければおいしくなる可能性が高いよ!」と言ってしまうことである。ああ、なんて向こう見ずな私。

ただ、結晶がきれいとか美しいとかいう問題に関しては、私は「どーでもいいわ」という立場である。明確に批判しないのは「ぬるい」と思われるかもしれないが、私ってば、こういうの、明確に批判するのも気恥ずかしいのである。で、批判よりつれない「冷淡」で、まかなおうと思っているのである。

ちなみに、コンクリートの研究という仕事で、水や氷についてもかなりの実証的研究をされたというやっさんが、私の過去記事に、以下のような明快なコメントを付けてくれている。(参照

結晶を美しく造りたいなら結晶の核になるものを超微粒子として急速に凍結すれば美しいものが出来ます。発生途上に、残業残業で安月給でコキ使いやがって、コノヤロォー、上司はもう帰って、今頃、呑んでんだろうなぁチクショーと、悪態をつきながらイヤイヤやっても綺麗な結晶が出来ます。別に美しい心が無くても美しい結晶は、いくらでも出来ます。

ということなのだそうだ。水の結晶が美しくなるかどうかは、心根の問題ではなく、単純な物理条件に左右されるようなのだ。そりゃそうだろう。水伝に命を懸けたければ、物理条件をコントロールしながらやればいい。もちろん、そんな物理条件なんてネグレジブルと言ってしまえるほどの、圧倒的な感謝の気持ちでね。

ここまで述べた上で、「水は話しかければおいしくなる」ということを、私はあえて肯定しちゃおうと思うのである。私は以前、「パンからの伝言」という記事で、次のようなことを書いている。

我が家では天然酵母のパンを作るのだが、私はパン生地をこねる時、「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」なんて語りかけている。その方がうまいパンができるような気がしている。

ここまで書いてしまった以上、「水に話しかけても、おいしくなんてならない」とは言えないじゃないか。

まず、「おいしい」とはどういうことか、そこから入らなければならない。まず前提として確認しておきたいことは、「おいしいと感じればおいしい」ということだ。「おいしい、おいしくない」なんていうのはかなり主観的な問題で、結晶が美しければおいしいなんていうわけでもないのである。

その証拠にフジテレビの件の番組では、「水にはうるさい」と豪語する長谷川初範氏が、利き水に見事に失敗している。きれいな結晶という水も、単なる水道水も、区別がつかなかったというのである。そりゃ、ちょうどいい具合に冷やした水を飲んだら、よっぽど軟水と硬水の差でもない限り、区別するのは難しい。

感覚というのはこれほどまでに曖昧なものなのだから、自分でサイドストーリーを作ってしまったら、それに影響されて、大したことのない水でも極上の水に感じられたりしてもちっとも不思議じゃない。

そして一番簡単なギミックは、水に語りかけて、すっかり感情移入してしまうことだ。そうすれば簡単に「おいしい水」、あるいは「おいしいと感じられる水」になる。「おいしい」と感じさえすれば、それは彼にとっての「おいしい水」なのだから、「文句あるか」である。

A, B, C 3種類の水の、A だけに思い切り感情移入し、それを第三者がこっそりすり替えて、「あなたが思いを注ぎ込んだ水ですよ」として B の水を差し出したら、多分、満足しておいしく飲めるだろうとさえ思う。

要は「気分の問題」なのだが、だからといって、軽々しく扱ってはならない。世の中というのは、案外「気分」で動くものだというのは、日常的に感じることだし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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世間話」カテゴリの記事

コメント

疑似科学は徹底的に悪態をつきたくなる。矛盾してるようですが、気を込めて造る食事は美味しくなるという事は否定しません。

>>「よ~し、よしよし、おいしくなれよ~」

とパン造りに励めば、一次発酵、二次発酵と細心の注意を払って焼く工程管理がビシッと出来てるから美味しいものが出来るのは当たり前。その反対に「あぁー、手造りのパンが食いてぇーだって? あのスットコドッコイが、面倒臭いわねぇー」とか言いながら昼のワイドショーを見ながら適当に造ればフックラ美味しいパンなのか、これって?ベーグル?のような半端なものが出来てしまうのは当然至極の事だと思います。疑似科学と気持ちを込めて造る料理とは、このへんからして根本的に違ってると思う。

付き合い始めたばかりの妻が始めて造ってくれた料理(焼きソバ)が最高に旨かった。あれから20年以上経た今の方が料理の腕は上達しているだろうに、あの焼きソバ以上の味は無い。気がこもって無いのか?。食う方も、失礼な話、食を楽しむというより、エサ的な食い方をしているから味なんて、ショッパイか甘いか苦いかしか感じなくなってしまったのか?。どんなに旨い料理を出されようが、あの当時の、うわぁ!嬉しい。っていう気持ちは起こりません。

おいしい水に関しては、国際単位で、kg/m3と表す密度というものが限りなく1に近い温度の4℃が一番おいしいと言われてますが、真冬の寒風吹きすさぶ中で4℃の水は不味いです。というよりこめかみあたりが痛くなります。それが真夏のキンキン照りの下で飲むと旨い。条件にあったものを出すということは、いわゆる気持ちがこもってるから出来る事で、疑似科学とは、またく別な事象の事。

>>おいしいと感じれば美味しい

だから行列の出来るラーメン店の存在があるのではないでしょうか?。東北育ちの塩っぱい食品で育った味覚の持ち主には、博多とんこつラーメンが美味しいとは感じ難いはずだと思うが、行列に空腹を堪えて並んで食う博多とんこつラーメンは、至極旨く感じる。たぶん、気の持ちよう?。だって、どんな旨いラーメン店でも、行きつけの地元の小汚いラーメン店の老夫婦が造るラーメンを頭の片隅に置いて食ったら、さほど旨くないと思う。

気の持ちようとは本当に大切で偉大だと思う。そこにあたかも、それらしく疑似科学を持ち込む人々の心情を疑います。重ねて道徳教育に持ち込むなんて言語道断。

「ベリーグッドです」とうキャッチフレーズで有名だったムッシュ村上こと帝国ホテルの元総料理長・村上信夫氏は、東京オリンピックの時に選手村の料理を任され、各国の選手の料理を各国のレシピにあわせて忠実に造ったのだが、すこぶる不評だったそうです。いろいろ考えて選手の発汗度合いに気がつき塩分を多めにしたら、その料理は絶賛を浴びたそうです。これも、レシピという教科書以外に気持ちがあったから出来た事。

気持ちは大切ですね。

いや、ご祝儀などは気持ちより金額優先ですが・・・。気持ちは要らないから金をくれぇー!って感じです。

投稿: やっ | 2008年5月 6日 23:35

やっ さん:

コメント、ありがとうございます。

私の記事の言い足りてないところを、見事に補足してくださって、感謝です。

奥さんのお料理に関しては、まったく共感です。
私も、初めて作ってもらった、ベーコンとキャベツのスープ、今でも忘れられないほどおいしかったなあ。
(あれ、彼女は 「クインシー・ジョーンズのスープ」 と呼んでるんですが、その謂われは聞いたことありません。今、ググってみましたが、わかりませんでした。家に帰ったら聞かなきゃ)

ムッシュ村上さんのエピソードで、以前見た漫画を思い出しました。
(「美味しんぼ」 だったかなあ?)

工場のとなりのラーメン屋で、塩味が濃くて、スープのぬるいラーメンを出しているんですが、店員の少年が、店主の留守に、塩味を抑えて、熱いスープのラーメンを出してしまうんですね。よかれと思って。

ところが、そのラーメンが甚だしく不評。

工場の従業員は肉体労働をしているので、塩味の濃いのを求めていて、さらに、昼休みに手っ取り早くすすりこむために、あんまり熱いのは困るんです。

なぁるほどねぇと思いました。気遣いですね。

私も急いで済ませたいときに、ことさらに、これでもか!とばかりに熱いスープのラーメン (前もって熱湯を注いで暖めてあったらしく、器の縁まで熱くしてある!) を出されると、ちょっと腹立ちます。

猫舌だし。

>いや、ご祝儀などは気持ちより金額優先ですが・・・。気持ちは要らないから金をくれぇー!って感じです。

以前、従姉妹の結婚式で、「金 五千円也」 と書いてあるのに、金を入れ忘れたらしく、祝儀袋が空っぽだったということがありました。

「空っぽでした」 と言って、改めて請求するわけにもいかず、それなのに引き出物は持ってかえってもらうことになるので、割り切れない思いがしました。

(その一方で、「そうか、この手があったか!」 なんて思いましたが、実行はしていません ^^;)

投稿: tak | 2008年5月 7日 10:33

takさんやっさんの仰るとおり、重要なのは作る人が『食べさせたい!食べてもらいたい!』と思う気持ちです。

 食べる人の『受け止める』気持ちと、調理する人の『食べさせたい』気持ちが尊重しあうから、見事な一食が出来上がります。その積み重ねが、各地にある“名店”になったと思います。

 話がグッとズレてしまいますが、現在は『(漫然と)旨いものを喰う』ことが優先されて、ベリー高額なお食事や、喰わせてやるという驕った気持ちの調理人がメディアに登場するようになりました。その姿からは、ともすれば、「金を払うから、旨いものを食わせてくれ」という気持ちの動きしか見えてきません。
 調理にどんな工夫や苦労があったか、そんなことはお構いなしで喰い散らかすことが、ステータスみたいです。

 その料理の出来栄えを計る方法は、どんな器具でも計算式でも金額でもなく、喰った人が心から思う『うまいっ!』の一言です。

 …だから、食の世界においては、その気持ちを操作する機械の存在など許されないのかもしれません。

投稿: オッチャン | 2008年5月 7日 13:03


 エセ科学と、プラシーボの違いというか、ようするに立脚する所の違いと言ってしまえばそれまでなんでしょうけれど。

 美味しいと思えば美味しいと感じるという、人の持つ感覚の曖昧さについては、いかようにも実験して実証する事が出来るでしょうし、逆に水に美味しいと言って成分的な変化が認められないことも簡単に実験できる事ですからね。

 心理的作用によって、水は美味しくなるという立場は当然あり得る立ち位置というか、むしろ一番自然な立ち位置かもしれませんね。

 水伝に関係なく、私たちはいつだって美味しく感じる為に、季節感や器や盛りつけなんかに情熱を注いでいるんですから、世の中の殆どの人は心理的作用によって水は美味しくなるという立場にいると言ってもいいかもしれませんね。

投稿: きんめ | 2008年5月 7日 14:35

好きな人とごはん食べるとおいしいですねえ。
接待で高級料亭なんぞにいってもなんもうまくない。
ご飯茶碗で飲むブルーマウンテンよりお気に入りの珈琲茶碗で飲むネスカフェのほうがおいしい。
気の持ちようなんだから、こんな科学でもなんでもないでしょう。

投稿: osa | 2008年5月 7日 23:50

オッチャン:

おっしゃる通り、「気持ちが大事」 ですね。

ただ、「気持ちが大事」 ということを言うために、分子や結晶がどーたらこーたら言うから、話がややこしくなるんでしょうね。

そして、それを批判すると、水伝派は 「気持ちの大事さ」 まで否定されたような気になってすねてしまう。

そんなに 「気持ちが大事」 なら、すねなきゃいいのに。

投稿: tak | 2008年5月 8日 06:59

きんめ さん:

>エセ科学と、プラシーボの違いというか、ようするに立脚する所の違いと言ってしまえばそれまでなんでしょうけれど。

私は、結局は 「好きずき」 と思ってます。
これを大きな声で言いすぎると、また 「水伝シンパ」 扱いされちゃいますけど。

投稿: tak | 2008年5月 8日 07:02

osa さん:

>気の持ちようなんだから、こんな科学でもなんでもないでしょう。

「気のもちよう」 の方を科学してくれればよかったのに、水の結晶の方をどーたらこーたら問題にしたがるから、面倒なことになるんだと思うんですよね。

科学派は科学派で、「気のもちよう」 というテーマには、あまり触れたがらないようだし。

物理学や化学と心理学って、分野が違いすぎるのかなあ。それでも、近頃は 「脳科学」 という分野も出てきてるのに。

「クォリア」 なんて怪しすぎという純粋科学派もいるし。

投稿: tak | 2008年5月 8日 07:05

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