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2008年5月31日

「信仰」と「信心」は似て非なるもの

「信仰」と「信心」とは、どうやら似て非なるもののようなのだ。読売新聞の調査によると、日本人のうち、特定の宗教を信仰しているのは 26%で、無宗教は 72%なのだそうだ。

そのくせ、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人は 56%と、半数以上を占めたという。(参照

私は 3年近く前に「投票と信心」という記事を書いている。「支持政党なし」という比率と、「宗教を信仰していない」という比率が、とても似通っているということに注目して、「日本人は旗幟鮮明にすることを好まない」と書いたものだ。

この時の記事の元にしたデータは、NHK 放送文化研究所の 『放送研究と調査』 (1999.5) からの孫引き(参照) だが、それによると具体的に信仰する宗教をあげた人は 35%で、宗教を信仰しない人は 56%だった。

とすると、このほぼ 10年の間に、日本人はより不信心になったようにみえる。ところがそのくせ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人は 45%に止まり、そうは思わない人が 49%となっている。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は 94%に達し、前述の如く「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も 56%と多数を占めた。

私はこのブログを書くにあたって、日本人の宗教心について触れるときには「信仰」という言葉を使わず、特別な理由がない限り「信心」ということにしている。これは、かなり意識してのことである。

多くの日本人は「信仰深い」とは決して言えないが、「信心深い」日本人はいくらでもいるのだ。これは単なる言葉のアヤではない。

今回の読売新聞の調査について、宗教学者の山折哲雄氏は紙上で次のように解説している。

日本人の信仰は多くの神々を信じる多神教だ。日本の豊かな自然は人間をその懐に包みこんで、神や仏といった人間を超えた存在を感じさせる力を持っている。日本人は唯一の超越的な神を信じる一神教を求める必要はなかった。

多神教が「感ずる宗教」だとすれば、一神教は「信ずる宗教」だと言える。

なるほどうまい表現である。

その上で山折氏は、日本人が明治以降キリスト教的な考え方を受け入れてきたために、「宗教を信じることとは、一神教を信じることなのだ、という価値判断をしてしまっている」と指摘し、「この尺度は改める必要があるのではないか」と述べておられる。

そして、「今回の調査からは、日本人の高い宗教心、信仰心がうかがえると言ってよいのではないか」としている。かなり意表を突いた逆説的結論だ。

ただ、「日本人の高い宗教心、信仰心」と言ってしまうと、違和感を覚える人が多いと思われる。そこで私は、「信心」と言い換えているわけだ。日本の神道というのは、「信仰する宗教」ではなく、「信心する宗教」なんだと思うのである。

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