自己嫌悪と感傷と、土壌改善
産経新聞の一面、題字横に、「朝の詩」 というのがあって、読者の作ったらしい詩のようなものが載せられている。
少し前の「朝の詩」の中で気になるフレーズを見つけた。「自己嫌悪はいい/いけないのは感傷だ」とかいうものだったと思う。私は「なんだ、そりゃ?」と驚いた。
私自身の感覚としては、自己嫌悪しているやつに、付き合っておもしろいやつはいないと思っている。そりゃ、ナルシシズムの強すぎるのも付き合いきれないが。人間、基本的に自分が嫌いでは具合が悪かろう。
そして、時にはちょっとした感傷に浸ることもいいじゃないかと思うのである。感傷は人生の潤滑剤だ。レイモンド・チャンドラー作のあのハードボイルドな探偵フィリップ・マーロウだって、根は案外センチメンタリストである。
ところがこの「朝の詩」の作者は、私の感覚とはまったく逆のことを言っているのである。言わんとすることは、感傷なんかに浸っていないでがんばれということらしい。自己嫌悪すれば、嫌悪しなくてすむ自分になるようがんばれるという文脈のようなのだ。ほほう、そういう考え方もあるのか。
これを読んだ直後に、例の秋葉原の事件があった。そして加藤智大容疑者に関する記事を読むと、こいつはどうも、「自己嫌悪」というのをあまりしていないようだ。どちらかというと、悪感傷に浸っている。
彼のロジックでは、悪いのは自分ではなく、親と世の中である。そして、たまたま不細工な容姿に生まれついたせいで彼女ができないとか、職場で不当な扱いを受けるとかの不運にしか見舞われない自分が不憫でならないという、妙な感傷を抱いているようなのだ。
なるほど、「自己嫌悪はよくて、感傷はいけない」という論理にも、一理あるかもしれないと思った次第なのである。しかしよく考えると、問題は少し別のところにある。どれがよくてどれがよくないという問題ではなく、変な言い方かも知れないが、要するに「運用次第」なのである。
例えば、「お金そのもの」は、ニュートラルである。いいものでも悪いものでもない。それは「金にきれいか、きたないか」という人間次第の要因で、よくも悪くもなる。そして、世の中のほとんどは、そんなようなものである。
「上手な自己嫌悪」というものがあるかどうかしらないが、もしそれをすれば、「朝の詩」の作者の言わんとするように、自分が好きになれるように努力できるかもしれないし、うまく感傷的になれば、人に優しくもなれるかもしれない。
根っこの部分でポジティブな方向を向いているか、ネガティブな方向を向いているかの違いだろう。
加藤智大容疑者は、根っこの部分でネガティブな方を向いてしまったみたいなのである。それを修正するには、土壌(つまり、周囲の心配りかな?) から改善しなければならなかったんだろうが、それに気付いてくれる人が身近にいなかったのだろう。こういうのは、いたちごっこになりやすい。
ここまで考えて、今、一応幸せと感じていられる人は、自分の周囲の土壌改善に少しだけ気を配ってあげられるといいなあと、遅ればせながら気付いた。七面倒くさい議論で時間つぶしするよりも、その方がずっと役に立つだろう。
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