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2008年7月に作成された投稿

2008年7月31日

大人の半ズボン

「痛いニュース」で、「大人の半ズボン」が話題になっている。書き込みをみると、悪評フンプンなのだが、「オフィスで半ズボンはけたら、いいなあ」と思う私は、変なのだろうか?

ただ、この記事の写真のように、半ズボンにジャケット、ネクタイ、ビジネスシューズを合わせるというのは勘弁してもらいたいが。

私は「クールビズ」なんていう言葉が作られるずっと前から、自主的にクールビズである。ネクタイをする日なんて、年に 10日もないし、仕事着だって、夏はポロシャツにチノパンと決めている。それで苦情を言われたことは一度もない。

その上、夏になったら仕事以外ではほとんどショートパンツである。さすがに、仕事着としてはショートパンツは控えているが、それでいけたらどんなに楽だろうと思う。私はすね毛が薄いし、わが家の娘が 「お父さん、美脚だね」 と言ってくれるほどだから、そんなに見苦しくはないと思うのだ。

それでも、さすがに仕事でのショートパンツを控えてしまうのは、どうはきこなしていいかわからないからである。これまでフツーのチノパンでやっていた男が突然ショートパンツをはいたら、やっぱりバランスがおかしいだろう。背景が山の中とか海辺とかなら別だが。

「痛いニュース」に掲載された写真だって、はっきりいって滑稽である。当人たちは進んだファッションのつもりだからいいが、やっぱりまだ「枯れて」いない。

ビジネスではく「大人の半ズボン」は、まだまだ「用途限定」の特殊なファッションなのだろう。「用途」というのは、ここに登場したセレクトショップの広報部門など、まあ、「ちょっと変わった格好」が「許される」というより「少しだけ求められてもいる」といったような職場か、そっち方面のフリーランスだ。

実際にはファッション関係とか、一部のマスコミ関係に限られるだろう。Tシャツにジーンズが当たり前という、よほど服装に自由な社風の会社でも、ウールジャケットにネクタイ、半ズボン、ビジネスシューズなんていう格好で現れたら、周囲がきょとんとしてしまう。

ちなみにウールジャケットにネクタイという格好に合わせたエアコンの設定だと、脚の膝から下が冷えるだろうなあと、余計な心配をしてしまうのである。膝掛けを用意するようだと、まったくのナンセンスになってしまうし。

やっぱり、半ズボンにウールジャケットというのは、私としてはあざとすぎると思うほかないのである。

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2008年7月30日

決して使いたくない言い回し

世の中ではよく聞くけれど、なぜかどうしても違和感があって、個人的には決して使いたくないという言い回しがある。

その代表的なのが、例を挙げるときの 「○○であるとか、××であるとか ……」 という 「~であるとか調」 である。聞いているだけで、なんだか気恥ずかしい。

単に 「○○とか、××とか ……」 と、フツーに言えばいいのに、なんでまたご大層に、いちいち 「である」 を挿入しなければならないのか。単なる 「とか」 だけでは軽すぎるので 「である」 を付けるのかもしれないが、結局 「とか」 と言っちゃうのだから、その 「軽さ」 感が 「である」 とのギャップでますます増幅される気がする。

似た言い回しでも、 「○○ですとか、××ですとか ……」 だと、それほどの違和感は覚えない。多分、「である」 と 「とか」 の組み合わせがいけないのだと思う。口語の中に突然 「である」 なんていうご大層な言い回しをはさむから、妙にエラソーで気持ち悪いのだ。

そして、「であるとか調」 に抵抗がない人というのは、ことさらにその使用頻度が高いように思う。多分、口癖に近いのかもしれない。そういう言い方をすると、個人的に心地よいのだろう。なんとなくインテリっぽい気がするとかね。

ただ私としては、頭の中の CPU クロック数が低いので、次の例を口に出すまでの微妙な時間稼ぎを 「であるとか」 でしているだけという気がして、かえって 「インテリ印象度」 が下がってしまうのだよね。多分思い過ごしだろうけど。

それ以上に抵抗があるのが、「日本人の悪い癖」 という言い回しである。何か好ましからざることが発覚すると、決まって 「こういうところが、日本人の悪い癖なんですよね」 なんてエラソー に言う人がいる。

私なんか、そうした言い方を聞く度に、「そりゃ、別に日本人に限ったことじゃあるまいよ」 と思う。それどころか、「そういうことに関しては、日本人はずっとましな方だぜ」 と思うことさえある。

本当に日本人特有の問題なら甘んじて受けるけれど、そんなわけでもないことでそんな言い回しをされたときは、最近は 「欧米か!」 とつっこんで、ジョークに帰してあげることにしている。これはひとえに私の親切心からである。

それから、誤用のチャンピオン、「すべからく」 というのがある。先日の 「オールナイトチョメチョメ」 で、立川吉幸さんが 「"すべからく" はあぶないから、"おしなべて" と言うといいと教わりました」 と言っていた。なるほど、なかなか有効な言い換えメソッドである。

「すべからく」 が 「すべて、総じて」 の格調高い言い方だと思って、誤用する人が後を絶たないが、それは 「すべて」 とは全然関係のない言葉で、「すべきであるように」 といった意味の漢文の常套句である。

正統的な掛かり受けとしては、「すべからく~すべし」 ということにならなければならない。3年ちょっと前にも書いているが (参照)、正しく使ってしまうと、当たり前すぎておもしろくも何ともない言葉である。

この時にも書いているように、私は一生に一度でいいから、「すべからく」 を正しく、しかも一ひねりきかせた形で使ってみたいと思っているのだが、未だに果たせないでいる。

そうそう、「すべからく」 で思い出したが、「すべき」 を終止形として使うのが一般化してしまったことにも、私はまだ気持ち悪い思いがする。新聞などで 「~すべき」 なんて見出しを見ると、頼むから 「すべし」 と書いてくれと願ってしまう。

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2008年7月29日

ネット接続ツールとしての PC

私はほとんど常に、モバイルノートを持ち歩いている。Let's Note CF-W7 という機種だ。これに E-mobile をつないで、インターネットにもブロードバンド接続できる。

しかし世の中では、ネット接続のためのツールとして、PC はピークを過ぎて、ケータイにシフトしつつあるというのである(参照)。

そういわれてみれば、若い連中はケータイ依存度がいかにも高そうだ。電車に乗っても、ケータイ画面に見入っている姿がやたらに多い。確かに、ケータイでインターネットに接続すれば、かなりのことができそうなのである。

天気予報、電車の路線案内などは、ケータイで十分用が済む。私だって、外出先で明日の天気予報や帰宅の終電に間に合わせるには、何時に退出すればいいのかを調べるときは、わざわざ PC を取り出して起動させたりはしない。

しかし、道案内はケータイでは不便だ。不案内な街に行って、近くで車を停めて食事のできるレストランを探そうとすると、確かにケータイでも検索できるが、それが本当に役に立つかというと、必ずしもそうではない。

ケータイの小さな画面に表示された地図を見ても、自分が今どこにいて、どっちに向かって行ったらいいのか、ちんぷんかんぷんなのである。全然わからない。そうなると、おもむろに PC を起動させて道案内サイトにアクセスする。すると、さすがに大きな画面はわかりやすい。個人的には、ケータイの道案内はあまり役に立たないと思う。

また、ブログや SNS の更新をケータイでするなんていう人もいるが、私はそんなことをしたら気が狂いそうになる。ケータイでまともなテキストを入力しようなんて、想像もできない。家族にちょっとしたケータイメールを出すにもイライラしてしまうのに。

まあ、世の中には、ケータイで小説を書くという人もいるのだから、慣れ次第かもしれないが、私としては、そんなことに慣れるために、貴重な時間を使いたくない。

というわけで、私は現状の モバイル PC のサイズの画面と、QWERTY キーボードがどうしても必要なのである。まだまだケータイでなんでもかんでも済ましてしまうというスタイルに移行するわけにはいかないようなのだ。

ただ、ある程度の画面サイズと QWERTY キーボードさえ使えるのなら、別に PC である必要はない。もっと軽くて手軽なツールが開発されたら、いつでも乗り換える用意はあると、態度表明しておこう。

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2008年7月28日

「さわり」 という言葉の意味

4年前にも書いたこと (参照) なのだけれど、当時に比べてこのブログへのアクセスが 10倍以上になった今、改めて書く。「文化庁こそ言葉の意味を取り違えてるぞ!」 と。

毎年話題になって、毎年ツッコまれている、例の 「国語に関する世論調査」 で、「さわり」 の意味が誤解されているという話である。

文化庁によると、「さわり」 という言葉の意味は、正しくは 「話などの要点」 なのだが、そのように回答した人は 35.1%で、「話などの最初の部分」 との誤答が 55.0%と、半数以上を占めたというのである。(参照

だが、「さわり」 が 「話などの要点」 とする文化庁的理解こそ、はっきり言って間違いなのである。以下に、Goo 辞書の 「さわり」 の項の説明をコピーしておく。(参照

〔動詞「触る」の連用形から〕
(1)手や体でふれること。また、ふれた感じ。多く他の語と複合して用いられる。
「手―」「肌―」
(2)浄瑠璃用語。
(ア)〔他の節(ふし)にさわっている意。普通「サワリ」と書く〕義太夫節以外の先行の曲節を義太夫節に取り入れた箇所。
(イ)曲中で最も聞きどころ、聞かせどころとされている部分。本来は口説きといわれる歌謡的部分をさす。
(3)〔(2)が転じて〕(ア)話の中心となる部分。聞かせどころ。
(イ)演劇・映画などの名場面。見どころ。
「西部劇の―を集めて編集した映画」
(4)三味線の特殊な仕掛け。一の糸を開放弦として弾くときに、複雑なうなり音を出すようにしたもの。また、その音。琵琶(びわ)の仕組みが取り入れられたもの。

ご覧のように、どこにも 「話などの要点」 なんていう説明は出てこないのである。私は 4年前に、以下のように書いているが、悲しいかな、文化庁のお役人の誰も私のブログを読んでくれなかったようで、4年経ってまた同じ間違いを犯している。

「さわり」に関しては、「話などの要点」という「正解」よりも、「話などの最初の部分」という誤答が多かったと報告されている。

しかし、これは文化庁のチョンボだ。「さわり」という言葉の意味の「本当の正解」は、 「話の要点」ではなく、「話のクライマックス」である。

元々は「さわり」というのは、文楽・義太夫(人形浄瑠璃の語り物)の一番の「聞かせどころ」のことを言うのであって、決して
「要点」という意味ではない。 「さわりだけ聞かせてよ」と言ったら、本来は「時間がないから、前の方は端折って、一番グッとくる最高潮のところを演ってよ」という意味合いである。

それを「話の要点」と言ってしまうと、「かいつまんだ要約ポイント」というニュアンスが強い。「一番いいところ」を演じてもらいたくて、「さわりだけ、お願い」と言っているのに、「話の要点」を淡々と聞かされたら、しらけ果ててしまう。

まったくもう、文化庁関係者の、一体誰が "「さわり」 の意味は 「話などの要点」" だなんてあほなことを言ってくれているのだ? 困ったものである。文化庁さん、お願いだから、4年後にまたしても同じことをしでかさないようにしておくれではあるまいか。

そして、4年前に書いて、もう一度書くけど、「マスコミも、このくらい気付けよ」とも言いたいのである。なんで、こんなことを垂れ流し的に、何の批判もなく報道するのだ。

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2008年7月27日

真夏の落雷ショー

実は、昨日の昼前から下界の暑さを避けて、涼しい山の中にいた。茨城県の北の端、福島県に近いあたりの山の中で、キャンプをしていたのである。

キャンプといっても、まったくの遊びではない。半分は仕事だ。それでも涼しさを満喫できたのはありがたかった。

昨日は、水戸あたりでも気温が 27度までしか上がらなかったようだ。それでも、今日の昼過ぎに山から下りてきたら、蒸し暑く感じた。多分、山の中は最高でも 22~23度ぐらいにしかならなかったのだろう。午前中は 10度台だったと思う。やはり、山の中は別天地である。

インターネットの常時接続さえできれば、夏の間はずっと山の中の掘っ立て小屋にでも住みたいと思うほどだ。まあ、それのできないのが浮き世のしがらみだが。

夕方頃に車でつくばの地に帰ってきたら、高速道路を降りたあたりから、雲行きがかなり怪しくなった。カーラジオがガリガリ鳴り始める。雷の前兆だと思っていると、とたんに大雨になった。フロントガラスのワイパーを高速で往復させても、前が見えにくい。

周り中で稲妻が光り、間髪をおかずに雷鳴がとどろく。至近距離に落雷すると、周りが一瞬真っ白に感じられるほど明るくなり、ほとんど同時に 「ゴロゴロ」 ではなく 「バリバリ」 という感じの音がして空気が震える。そんなことが連続し、道路の低いところは冠水してしまう。

我が家に近付くと、5秒に 1度は落雷による稲光で世界が明るくなる。遠くで消防車のサイレンが聞える。有線放送が 「落雷により、家屋が 2軒延焼中」 と告げている。こんな大雨で消えない火って、どんな火なんだ?

酒田に母の看護の手伝いに行き、帰ってきたら落雷で、PC、ルーター、ステレオ、エアコン、風呂釜など、総計 100万円以上が死んでしまっていたのは、一昨年の今頃である (参照)。それを思い出して心配になったが、帰宅してみると我が家は無事だった。

次女が部屋の灯りを消して、窓の外に広がる稲妻ショーを興奮して見ていた。大変な見ものだったそうである。

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2008年7月26日

「暑い、暑い」 と、敢えて言う

あまり暑い暑いと言うと、なおさら暑くなるというが、言わなくても暑さに変わりはないので、この際、どんどん言う。「暑い、暑い!」

交通事故で脊椎骨折した経験のある人が言っていた。「あの時は、ベッドの上で 『痛い痛い』 と絶えず言ってないと、痛みに耐えられなかった」と。ならば私も言う。「暑い、暑い!」

ただ、「暑い、暑い」という言葉を、自分の内側に向かって言うと、その暑さをますます抱え込むことになる。「暑い、暑い」と言いつつ、自分自身にダメージを与えないコツは、「暑い」と言うたびに 外に向かって「暑さ」をカラリと脱ぎ捨てることである。

脊椎骨折してベッドの上でのたうち回っていた私の知人も、「痛い、痛い」と繰り返しながら、その傷みを外部に放出していた。口では 「痛い」 と呻きつつ、心の底では 「大丈夫だ、絶対に治るから。今、既に治りつつあるから。痛いのは、治りつつある証拠だから」と、固く信じていたという。

彼は今、後遺症もなく、元気でピンピンしている。

妙な言い方だが、暑いときはあたかもウンコをするように「暑い、暑い」と言って、暑さを排出するのである。「痛い、痛い」と言いつつ、痛みを排出する如くに。

このブログの 21日の記事を既に読まれた方は、私が何を言いたいのか、察してくれるだろうと思う。嫌なことは、内に溜め込まない方がいいのである。

溜め込まない方がいいとはいえ、排出の際に、あまりに自己憐憫の情を込めてはいけない。それをすると、せっかく排出したものがすぐにまた取り込まれてしまって、下手をすると拡大再生産されてしまう。

排出してしまったら、もう関係ないのである。ウンコをいつまでも自分のものだなんて思うやつがいないように。

ところで、現実の暑さの話に戻るが、去年の今頃はまだ梅雨が開けていなかった。「気象庁の猛暑予想は外れるかも」なんて言っていたのだが、8月になると一転して、あの猛暑になった。日本のあちこちで 40度を超えちゃったのだから。

このままの調子で 8月になったら、今年は一体どうなってしまうんだろう。それとも、暑さが息切れして少しはしのぎやすくなってくれるだろうか。

ところで、今日は私の 56回目の誕生日のようなのである。そんなに生きてきたような自覚症状は、ほとんどないのだが。

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2008年7月25日

ワークライフバランスの裏表

ワークライフバランス」 という言葉が、にわかに注目されてしまっている。内閣府の調査によると、この言葉も内容も知っている人は、10%しかいなかったんだそうだが (参照)。

私もそんな言葉知らなかった。そりゃ、言われればざっとした内容の想像はつくけど、そんなにオフィシャルな言葉だったなんてね。

これ、なんとなく和製英語っぽいが、さにあらず、元々は欧米で言い出された言葉らしい。で、こういうケースでありがちなのは、言葉だけ輸入して、意味とかニュアンスとかが変わってしまっているというか、こっちの都合だけで変えてしまってるというか、まあ、そんなことが多いということだ。

英語から輸入されて日本語のカタカナ語になったとたんに、微妙に意味が変わった言葉には、最近では「カミングアウト」や「メタボ」なんていうのがある。やや古いところでは「カウチポテト」である。あれ、「寝椅子でポテトチップスを食べながらビデオを見ること」ということになってしまっていた。なんだかなあ (参照)。

内閣府主導の 「ワークライフバランス」キャンペーンは、もろ直訳の「仕事と生活の調和」を謳っていて、だったら初めから日本語でそう言えばいいじゃないかと思うのだが、まあ、目新しいカタカナにしないとそれらしくないという意識があるんだろう。

で、このキャンペーンは内閣府のサイトをみると実に総花的な意義を網羅していて、なんだかピントがぼやけている気がするのだが、一般的には「少子化対策の柱の1つ」とみられているようなのだ。

実際の運用では「カエル! ジャパン」キャンペーンが飛び抜けて訴求されているという印象だ。要するに、「残業ばかりしてないで、さっさと家に帰って、やることやれ!」ということに行き着くようなのだ。これが「ワークライフバランス」 の日本的意味らしい。

それでは、本家米国の「ワークライフバランス」はどんな意味合いなのか?

つい、「本家米国」と書いてしまったが、Wikipedia によると、この言葉が最初に登場したのは、1970年代の英国なのだそうだ。米国で使われ始めたのは 1986年で、以後、仕事と家庭生活の区別が薄れるにつれて、この言葉への注目が高まっているという (参照)。

しかしアメリカ人の多くは元々、自分の生活の方が大切で、仕事というのは金を稼ぐために仕方なくやっているという意識が強い。だから 「残業ばっかりしないように」なんて、言う必要がない。そうでないのは、アメリカの仕事人間たち、キャリア層である。

彼らの中には、「日本人は勤勉で働き者」なんて寝言にしか聞こえなくなるほどの「ワーカホリック (仕事中毒)」が多い。嘘だと思ったら、マンハッタンのホテルで早起きして窓の外を見てみるがいい。朝の 6時前から仕事に没頭するビジネスパーソンのオフィスの煌々と明かりのついた窓が、あちこちに見える。

さらに、「ワークライフバランス」のコンセプトが定着してしまった米国社会においては、彼らビジネスパーソンは、寝る間を惜しんで仕事をするだけでは社会的に評価されないという風潮になっている。「仕事もできて、なおかつ家庭も大切にする」ということでないといけないみたいなのだ。

フツーの労働者にとっての「ワークライフバランス」は、日本も米国もそれほど大きな違いはないみたいだが、米国のビジネス社会(つまり高所得者層ね)においては、仕事も必死にやって、家庭生活も必死でないといけない。大変なことである。

つまり、ちゃんと週に一度以上は夫婦でレストランで外食して、時々は話題のミュージカルなんかにも足を運び、きちんと子供の送り迎えをして (米国では子供が一人で歩いて学校に行くなんてありえないので)、夫もちゃんと皿洗いして、クリスマスや結婚記念日のプレゼントにも気を遣って …… などなど。

なにやら、米国のビジネスパーソンの「ワークライフバランス」というのは、かなり大変なことのようで、ますますストレスが貯まってしまいそうな感じなのである。

で、Google なんかでは社員が会社の中で充実した生活まで送れてしまうように、社員食堂がめちゃくちゃ安くてうまかったり、福利厚生に大変な力を入れていたりする。これはこれでまた、「なんだかなあ」という気がするのである。

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2008年7月24日

地震の縦揺れと横揺れの謎 2

日付の変わる直前に、ばったりと気絶するかの如き眠りに入ったので、未明の地震にはちっとも気付かなかった。

妻が「ずいぶん長く揺れるわねぇ」と声をかけたら「うん」と返事をしたというのだが、全然記憶にない。朝に地震のニュースを聞いたときは、狐につままれたような気がした。

テレビを見ていたら地元局の女子アナが、現地の人にインタビューしたところ「最初に大きな横揺れがあって、その後、縦揺れが長く続いた」 と話していたと、興奮気味に伝えていた。しかし、これってあり得ない話である。

今さら言うまでもなく、地震で最初に伝わるのは P波といわれる縦波で、やや遅れて S波の横波が来る。縦波は進行方向の揺れだから、地表では縦方向の揺れになり、横波はそれとは垂直方向の揺れだから、横揺れになる。

だが今回に限らず、地震報道を聞いていると「最初に横揺れがあって、次に縦揺れが続いた」という地元住民の証言の紹介されることが少なからずあり、そのたびに首をひねってしまう。このことは、実は 3年前の 2月にも書いている(参照)。

地震の巣窟と言われる茨城県南西部に住み、年に何度も震度 4クラスの直下型地震を体験する私は、「最初に来るのは縦揺れ」と断言する。直下型であるほど、下からズーンと突き上げるような縦揺れがまずあり、その後、おもむろにユッサユッサと横揺れに移行する。

震源地から離れると、最初の縦揺れはそれほど大きなものではなく、横揺れが追いついてくるまでのタイムラグも長い。だから、私は突き上げるような縦揺れがあると、「あぁ、いつものやつだ」と、かえって安心する。

小さな縦揺れが長く続いた後に、それなりの横揺れが来ると、どこか遠くで大地震が発生したという場合が多いから、実家のことが心配になって、すぐにラジオのスイッチを入れる。これは身に付いた習慣にまでなっている。

それだけに「初めに横揺れがきて、その後に縦揺れが続いた」という話を聞くと、「あまりの揺れの大きさに、頭の中が相当に混乱しちゃってるんだろうなあ」と、同情さえしてしまうのである。

実際、ユッサユッサとかなり大きく横に振れる地震が収まったばかりの時に、「いやあ、『縦揺れ』がすごかったねぇ」なんて言い出す人もいて、「この人、決して嘘つきじゃないんだろうけど、今後は言ってることをあまり真に受けないようにしよう」なんて思ったりする。

感覚と言葉というものは、きっちりと定義づけてリンクさせておかないと、同じことでも人によってバラバラの話になり、わけがわからなくなる。

3年前のエントリーを、私は以下のように結んでいる。

「あれって、自分の体の向きの、左右に揺れたら『横揺れ』、前後に揺れたら『縦揺れ』って言ってるだけじゃないか」なんて言う人もいる。確かに、体の前にあるものにつかまったら、「縦方向の揺れ」 と錯覚することもあるかもしれないが、ちょっとなぁ。

この時は「ちょっとなぁ」と疑問を呈しているが、今回のコメントを聞いて、もしかしたらあり得るかもしれないと思ってしまった。

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2008年7月23日

「今、いのちがあなたを生きている」

昨日、京都の東本願寺を参拝したら、「今、いのちがあなたを生きている」 というキャッチフレーズが大きくフィーチャーされていた。なかなかいいコピーだと思った。

しかしこれ一見すると、文法的には「破格の用法」っぽい。だから、英語に訳すのはちょっと難しい。

07life

このキャッチフレーズは、"Now, Liife is living you" と英訳されている。「いのち」を表す文中の "Life" が大文字で始まっているので、この「いのち」は、ただごとではないものだということがわかる。

「生きる」というのは、本来自動詞で、他動詞は「生かす」という形になる。「○○としての人生を生きる」などといった他動詞的使い方もあるが、この他には「○○の命を生きる」など、かなり限定された使い方になる。目的語が「生きる」という動詞とほとんどイコールで重なり合うような場合の、やや文学的表現である。

07life2

「花のいのちを生きる」などというフレーズがあるが、これは「花は」という主語が省略されている。花が花のいのちを生きるのであって、主語と目的語がかけはなれてしまったら、甚だ不自然なものになる。事実上、あり得ないと言っていいだろう。

英語の live も基本的には自動詞で、他動詞的に用いられる場合は、日本語と同様の使われ方をするのが普通だ。主語と目的語がかけ離れていることはあり得ない。

これが今回の最重要ポイントである。主語と目的語が同じということだ。

私は初め、このキャッチフレーズは "Now, Budda's Liife is living within you" (今、仏の命があなたの中で生きている)と、やや説明的に英訳されるべきなのだろうと思った。大文字で始まる "Life" は、普通の命ではなく、仏の無量寿と解釈すべきだろう。

「不生不滅」 と表され、改めて生まれ出ることもないので死ぬこともない、ただ、ありありてあり通す、仏の無量寿である。それだけに、"Now, Liife is living you" という思い切った英訳を見て、ちょっと驚いた。はたしてこれでちゃんと通じるのかと、心配になった。

しかし、よく考えればこれでいいのだと納得した。英語の "live" を辞書で引くと、「送る, 過す; (理想などを)実行[実現]する; (俳優などが役を)真に迫って演ずる.」(参照) という他動詞の意味も出てくる。

つまり、「仏の命があなたとして過ごす」 「仏の命があなたを演ずる」 ということでもあるのだから。そして何よりも、このキャッチフレーズの言いたいことは、「仏のいのち」と「あなた」が、本来的には別物ではないということなのだろうから。

少し前に確認したように、主語と目的語が同じなのである。この場合は、「いのち = 大文字で書き始める Life = 仏の無量寿」 が、「あなた」 と同じなのである。罪悪深重の凡夫、すなわち「あなた」と呼びかけられた私も、この穢土を離れさえすれば、仏の無量寿そのものなのだ。

そう思えないとしたら、それは単に、自覚が足りないのである。"within you" などと英訳して、人間とは別ものである仏の無量寿が人間の中に宿るというように表現しようとした、私自身も含めて。

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2008年7月22日

京都で歴史を思い、時間を忘れる

京都に来ている。今日に予定されている仕事のためだが、昨日が祝日だったので、前泊ということにした。

真夏の京都の暑さは、これまでにも嫌と言うほど経験しているので、本当は貴船とか大原とか、京都の北の方の涼しいところに行きたかったが、時間的余裕がない。

それに、貴船には一昨年、大原は昨年に行ってしまったので、昼過ぎに京都入りして飛んでいくほどのモチベーションもない。いっそのこと、夏の京都の暑さをしっかりと経験するのもいいかと、午後 1時過ぎに新幹線京都駅のホームに降りて、そのまま西本願寺を目指した。

わが家の宗旨は浄土真宗大谷派なので、京都に来るたびにできるだけ「お東さん」(東本願寺)には行くようにしているのだが、考えてみれば、そのすぐ近くの「お西さん」には、これまで一度も行ったことがないのだった。

京都駅から東西の本願寺までは、地下鉄やバスに乗るほどの距離ではない。しかしながら、歩いてすぐというわけでもない。かなり中途半端なのだが、とにかく一泊分の荷物を背負って、猛烈な日差しの下をとぼとぼと歩き始める。

汗が噴き出す。くらくらする。京都タワーを過ぎ、七条の通りを西に向かって、ようやく西本願寺に着いた。着いてみると、向かって左側の御影堂は今、平成の大修復の真っ最中で、阿弥陀堂しか入れない。東本願寺と同じで、こんなところで歩調を揃えているのかと思う。

阿弥陀堂に十分ほど座って、近くの島原遊郭の跡を歩いてみようと思う。だが、歩き始めてすぐに後悔した。

暑すぎる。やばい。このまま歩き続けたら、ほぼ確実に熱中症になる。ペットボトルの「おーいお茶」を飲みながら、その飲んだお茶がすぐに汗になって噴出するのを感じる。

頭がぼうっとなりながら京都駅前に戻り、とにかく、冷房の効いた乗り物に乗らなければと思う。ふと、自分はまだ大徳寺に行っていなかったことを思い出し、A3 乗り場からバスに乗り、大徳寺を目指す。

バスの中は、さすがにエアコンのおかげで少しは涼しい。ようやく人間に戻ったような気持ちになる。それだけのことで「ああ、人間ていいな」なんて思ってしまう。幸福とはスタティックな状態ではなく、ダイナミックなベクトルである。

大徳寺というのは、広大な境内に 21の塔頭がある。大徳寺という名前の大きな本堂があるというわけではないみたいなのだ。そして 21の塔頭のうち、4つに拝観できる。境内に足を踏み入れると、急に涼しくなる。

入り口の総門に近い龍源院は、最後に寄ろうと思い、瑞峯院、大仙院、高桐院の 3つの塔頭を順に参拝する。単純に見れば、どこも侘びさびの極致みたいな建造物と枯山水がいい。しかし心してみると、500年前の諸大名、千利休、一休和尚のさまざまな軋轢も偲ばれる。

千利休も、ただただ無心に侘びさびの境地を追求していればいいというわけでもなかったのだろう。なにしろ、パトロンは野心に燃えた大名たちである。その中を上手に泳ぎつつ、自分の哲学的境地を磨くのは、なかなか大変なことだったろう。最後には秀吉に切腹を命じられてしまったのだし。

そんなことを思い、そしてしまいには忘れ、座ってぼうっと茶室、書院、枯山水を眺めているうちに、いつの間にか 4時半になり、時間切れ。これだから、京都のお寺巡りは、いくら時間があっても足りない。奈良は靴を脱いで上がるお寺さんが少ないからサクサク廻れるが、京都は長っ尻になる。

というわけで、4つの塔頭のうち、龍源院には寄れなくなってしまった。残念。また別の機会に来てみたい。

ホテルに入ってテレビのニュースをみると、京都の気温は 35度を超えていたらしい。道理で頭がクラクラするわけだ。時間の計算も忘れるわけである。

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2008年7月21日

父親を殺すことで自分を罰した少女

中学 3年の少女が寝ている父親を刺殺したという埼玉の事件は、一見わけがわからないだけに、複雑な要素を多く含んでいる。

他人からばかりでなく、母親から見てもごく普通の父と娘という関係だったというのだが、ここまでの「ハードランディング」をしたからには、それなりの背景があるはずだ。

刺殺事件を「ハードランディング」 と表現したのには、わけがある。私のブログの過去記事に、今回の事件のために書いたかのようなエントリーがある。3年前の 1月の、「自然も人間もハードランディング」 という記事だ。

気象予報士の森田正光さんによると、「自然はいつもハードランディング」なのだそうだ。「最近、自然界がおかしいんじゃないの?」と言う人が多いが、森田さんに言わせると、それは「おかしい状態から普通の状態に戻る動き」かもしれないというのである。

例えば長時間かかってゆがみの蓄積された地殻が、ついに耐えきれなくなり、かつてのバランスを取り戻そうとして、溜まったエネルギーを一気に放出する。それが地震である。そして、私はこの記事の中で次のようにも書いている。

あるいは人間もそうなのかもしれない。病理というのは症状に現れたものを指すのだろうが、本当は、症状というのは蓄積された身体的・精神的ストレスを解き放そうとしている姿かもしれない。症状の原因は、健康だと思っているうちに、無意識のうちに蓄積されていたのだろう。

「素直でおとなしいいい子」と思われていたのに、ある時から急に問題行動を起こし始める子がいる。これも「素直でおとなしい子」であった時に、じわじわとストレスが溜まっていたのだ。

ニュースを読む限りでは、今回の女子中学生は周囲の多くの人に、まさしく「素直でおとなしいいい子」と思われていたようだ。その「いい子」の姿を周囲に印象付けているうちに、彼女の中では大変な地殻変動を起こすエネルギーが、着々と蓄えらていたのである。

彼女の心の中にあった地殻のゆがみが、どんなものであったのかは、情報量も限られているのでわからない。わからないけれども、かなり大きなゆがんだエネルギーを、それまで小出しに放出することもなく溜め込んでいたというのは、結果が示す通りである。

限られた情報量の中で、私がまず奇異に感じたのは、彼女の両親が別々の寝室で寝ていたらしいということである。Asahi.com の記事から少し引用してみよう。

午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、……(中略) 長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

殺された父親は、12歳の長男と同じ部屋で寝ていたようなのである。殺される前日は、父親と 2人の子供だけで買い物をし、父と娘が 2人でカレーを作っている。どうも母親の影が見えない。自分の夫と娘の間の目に見えないストレスに満ちた関係に、少しも気付いていなかったというのも、アンテナが鈍すぎるという気がする。

これらの限られた情報だけから判断するのが危険だというのは重々わかった上で、敢えて言うのだが、この家族の関係は、ちょっとだけフツーじゃなかったんじゃないかと、私なんかは思ってしまう。

ここから先は、私の創作したフィクションである。

少女は潜在意識的には、むしろ父親にとても同情していた。だからこそ、「父親が家族を殺す夢を見た」 のである。自分の潜在意識の中にある母親を殺したいという衝動が、そうした夢に形を変えて顕れたことに、彼女は動転した。

彼女が父親を殺したのは、むしろ自分を罰したのである。自分の分身である父親を殺すことで、彼女は自分を死刑にしてしまったのである。

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2008年7月20日

クールビズのパラドックス

"クールビズ「28度では能率低下」 … 日本建築学会調査" というニュースを読んで、「ほらみろ、やっぱりそうだろう」と言いたい気持ちになった。

というのは、あちこちのお役所に行くと、むっとする暑さの中で、職員がぼうっとした顔で呆けているからである。

私はエコにはかなり熱心な方だと自認しているが、自宅で仕事をするときには、エアコンの設定温度を、環境省お薦めの 28度ではなく、恐縮ながら 26~27度にして、その上で扇風機の風が天井に当たるように、斜め上に向けてかけている。

なぜなら、そうでないと PC の前の温度は多分、優に 30度を超えてしまうだろうからだ。そうなると頭がぼうっとして、とうてい仕事に身が入らない。

エアコンの設定温度を 28度にしたところで、室内の体感温度は場所によってかなりの違いが出る。とくに PC の前ではかなり高めの温度になってしまう。PC はストーブみたいなものだからだ。本体の背面から (ノート型だと、横っちょからが多いかな?)猛烈な熱風が排出され、さらに液晶画面はさながらパネル・ヒーターの様相を帯びる。

PC を使って仕事をしている限り、エアコンの設定は 26~27度にして、そして扇風機で室内の空気を強制的にかき混ぜない限り、実際の体感温度は、絶対に 28度を上回ってしまう。

今回の調査を行った日本建築学会が、「換気や送風を組み合わせ、作業能率を下げない省エネ方法が必要だ」と提言するのも道理である。

ただ、冷気や送風だけではまだ足りない。室内のデスク配置の問題もある。多くのオフィスではなぜか必ず、エアコンの冷気が直接当たるあたりに、OL のデスクがあり、課長や部長の暑がりなオッサンたちのデスクは、エアコンから最も離れ、しかも最高の日当たりのところにある。

そのせいで、OL たちはカーディガンを羽織り、首にスカーフをまいて、さらに分厚い膝掛けをかけ、それでも青ざめた顔で震えているのに、オッサンたちは真っ赤な顔をして扇子をパタパタさせていたりするのである。

このお笑いぐさを、何とかしなければならない。

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2008年7月19日

記憶力というもの

今月初め、脳科学者の茂木健一郎氏がキング・オブ・サヴァンといわれるキム・ピーク氏を訪ねるというテレビ番組を見た。

キム・ピーク氏は映画「レインマン」のモデルになったといわれ、なにしろ、とてつもない記憶力の持ち主なのだが、ちょっと見は、かなりエキセントリックな人物である。

キム・ピーク(Kim Peek)氏に関する叙述は、Wikipedia の日本語版にはないようだが、英語版にはみつかった(参照)。かなり長いけれど、それほど難しい英語ではないので、彼について知らない人は、時間があったら読んでみていただきたい。英語を読むのが面倒くさかったら、一番手っ取り早いのは、こちらのサイトである。

なにしろ彼は、しょっちゅう町の図書館に通って、そこにある電話帳をすべて記憶しているのだという。

いや、彼の記憶しているのは電話帳だけじゃなく、これまで読んだ全ての本、経験したすべての出来事を詳細にいたるまで、まるで精密画像のビデオと、それを OCR しちゃったデータベース・システムのごとくに覚えているのだ。

しかし、この驚異の能力と引き替えするかのように、彼には日常的な能力が欠けている。自分でシャツのボタンも留められず、靴下もはけず、他の人とのコミュニケーションを普通にとることもできない。彼の能力を知らない人には、極度の自閉症にしか見えない。

この番組を見て、私は自分の記憶力について考えてみた。

実は私は、即物的な記憶力はかなり悪い。人の顔と名前を一致させて覚えるのが苦手だし、電話番号は語呂合わせにしなければ覚えられないし、同じ所に 3回行かないと道順を覚えられない方向音痴である。

逆に、一度会った人はすぐに覚えるという、営業マンにはかけがえのない能力を持ち合わせている人や、電話番号は何百件も記憶しているという人、一度行ったところの道順は明確に記憶しているという人も、私は何人も知っている。

私はこうした記憶を「即物的記憶」と呼んでいる。私はこの「即物的記憶」というのが、どうも苦手なのだ。

しかし、物事に意味を見いだし(あるいは与え)、それを抽象的に整理して覚えることは、自慢じゃないがとてつもなく得意である。だから私は物事の傾向を見定めて分類し、普遍的な意味に沿って脳みその中の引き出しに整理しておくというのは、とくに意識しなくても、日常的に常にやっている。

人の顔と名前を覚えるのが得意な人は、私のようなタイプをみると、「なんて物覚えの悪いやつ」と思うようだが、私からすれば、即物的記憶のみの発達して、それ以上の判断がからきしできない人と接するとイライラしてしまうということを、ここに告白しておく。

なまじ即物的記憶のいい人は、自分を「物覚えのいい人」と思っていて、あまつさえ「頭がいい」なんて思いがちでもあるようなのだが、それだけでは、決して「頭がいい」というわけじゃない。単なるカメラか録音機みたいなものである。それだけじゃ、やっぱり足りないのだ。

私にも即物的記憶の能力がまったくないわけじゃない。昔、繊維業界紙の記者をしていて、東京コレクションを毎シーズン取材していた頃は、その日見たファッション・ショーを、あたかもビデオで再生するように、脳内によみがえらせることができた。必要に迫られて鍛えられた能力である。

しかし私の脳内ビデオは、それを再現し、記事として文章化してしまうと、すぐに消滅してしまうのだった。即物的、映像的記憶は、文章化してメタフィジカルな「意味」に変換してしまうと、それによってほとんど上書きされてしまい、ボロボロになってしまう。

やっぱり、私は「即物的記憶型」の人間ではないようなのだ。

私のような人間でも、多分、潜在的にはものすごい即物的記憶力をもっているのだろうが、それに脳内リソースを取られすぎると、私の望むようなスタイルの日常生活がおくれなくなるので、敢えてその能力を制限し、次から次へと忘れてしまうようにしているのだろう。

そしてあまり忘れすぎるのも考え物なので、データを圧縮するごとくに、抽象的な「意味」として整理するということを学んだのだろうと思うのである。ただ、この圧縮された抽象的な記憶を、解凍して再現するのは至難の技で、圧縮の仕方にも各人のクセがあるので、なかなかやっかいなのだが。

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2008年7月18日

ジョークが通じないタイミングのジョーク

最近、殺人予告と見まごうようなジョークをネットの掲示板に書き込んだだけで、あっさり逮捕されてしまうケースが連続している。

埼京線の上野駅で人を殺す」とか「小女子を焼き殺す」とかの、ちょっと注意して読めばジョークとわかる書き込みでも、時節柄、警察は容赦してくれないみたいなのだ。

これも皆、例の秋葉原の事件以後の過剰反応である。過剰反応には違いないが、警察としても、このタイミングではそのくらいの反応をせざるを得ないという事情がある。そうでないと、もしかしたら連鎖的に起きたかもしれない犯行を防げなかったとして、世間の非難の的になる。それだけに、保険と見せしめの、二つの意味があるのだろう。

ただそれにしても、「埼京線の上野駅」のケースはちょっと首をひねってしまう。ニュースでは、調子に乗りすぎた馬鹿者がおかしな書き込みをしたために逮捕されたということしか伝わらなかったが、実際のところはちょっと違っているらしい。書き込みの文脈は、以下のようなものだったというのだ。

658 名前: ガンシップ(埼玉県)[sage] 投稿日:2008/06/28(土) 12:14:28.43 ID:DOYnutuv0

馬鹿だなぁ
私が逮捕されない犯行予告ってのを教えてやる
今日の午後3時に、埼京線の上野駅で人を殺しまくります!

786 名前: テト(埼玉県)[sage] 投稿日:2008/06/28(土) 19:30:01.95 ID:unsEW7Oj0

馬鹿だなぁ
もっかい私が逮捕されない犯行予告ってのを教えてやる
今日の午後9時に、埼京線の上野駅で人を殺しまくります!
まぁ、犯行予告にみえるってだけだけどなw

申し訳ないが、こちらからの孫引き

どうも、これを見る限りにおいては、「埼京線の上野駅」 という実在しない駅にしておけば、ジョークになるから「逮捕されない」ということを「教えて」やっているという文脈であり、「犯行予告」そのものではない。

しかし時節柄こうしたことに関しては、世間が、というより警察がかなりナーバスになっているので、ジョークもへったくれもなく逮捕されてしまったということのようなのである。どうも、昨今はこうした話題では冗談が通じなくなっているのだ。

結果的に、この人は誤った情報を「教えて」しまったということになる。警察を甘く見ては行けない。知ったかぶりは禁物である。

「小女子を焼き殺す」というのも、逮捕された当人は、「小女子は 『コウナゴ』 と読み小魚の意味」と言い張っているようだが、こっちの方は 「埼京線の上野駅」のケースより救いがたい印象だ。大体において、「コウナゴ」 は普通、焼く前に既に死んでるし。

「殺人の犯行予告」ではないのは、よく見ればわかるとしても、悪いタイミングで悪のりしすぎると、やっぱりそれ相応の報いを受けてしまうということのようなのである。まあ、実刑を食らうことは多分ないだろうけど、あまり自己主張しすぎると、「反省がない」 なんてことで、高い罰金を科せられかねない。

それが嫌なら、裁判をしてとことん「不当逮捕」を訴えれば、もしかして勝てるかもしれない。ただ、大変余計な手間になってしまうことに変わりない。

警察というのは冗談が解らなくても恥にならない組織なので、マジになったらとことんマジになる。だから、わざわざ今のタイミングで余計な書き込みをしなくてもいいだろう。「どこまで書いたら逮捕されるか」を調べるための身体を張った実験というなら別だが。

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2008年7月17日

PC と肩凝り

一日中 PC に向かって仕事をする人の多くは、肩凝りに悩まされてるんじゃあるまいか。かくいう私も、年中肩凝りである。

この肩凝りの原因はもちろん、PC に向かいっぱなしの姿勢にあるのだが、そもそも、なんでまたこんなに、日がな一日 PC に向かっていなければいけないんだ?

と、そこまでさかのぼって考えてみると、PC というツールを使えば、事務的な仕事はほとんどなんでもできてしまうということが問題なんじゃないかと思うようになった。いや、これはかけがえのない便利さの完璧な裏返しなのだが。

PC のない昔は、いろいろな仕事をこなすのに、それぞれ別の姿勢を取ることが多かった。書類を書くときはペンを握って紙に向かっていたし、小難しい計算をするときは電卓を叩いていた。調べものをするときは、片っ端から辞書や資料のページをめくっていたし、ハサミと糊で切り貼りをすることもしょっちゅうだった。

郵便を出すときには書類を慎重に三つ折りして封筒に入れ、切手を貼って、近くのポストまで歩かなければならないかった。全身運動とまではいかないが、同じ姿勢で長時間固まっているなんてことは、あり得なかったのである。

ところが、今ではこれらの作業は PC であっという間にできてしまう。そして言うまでもないが、それが全部同じ姿勢なのである。これで肩が凝らなかったらおかしい。

肩凝りが嫌だからといって、昔の手書きの時代のやり方に戻るのは、まっぴらごめんである。だったら、PC というツールのユーザー・インターフェイスを変えるしかないだろう。そろそろ、現在のキーボードとマウスのあり方を考え直してみてもいいかもしれない。

かといって、例のタッチスクリーンなんていうのも、あまりそそられない。キーボードとマウスを操作するのでさえ肩が凝るのに、どうしてそれよりもっと遠くにあるスクリーンまで手を伸ばさなければならないのだ。それにタッチスクリーンだと、両腕を浮かしておかなければならない。ますます肩凝りしちゃうじゃないか。

ケータイやカーナビ、小型ミュージック・プレイヤーなどであれば、タッチスクリーンも悪くないと思う。しかし、日がな一日、PC の画面にペタペタ触りまくろうという気には、到底なれない。スクリーンがすぐ汚れてしまって、掃除が大変そうだし。

キーボードというのも、どうにかしてもらいたい。私は以前は 「親指シフト・キーボード」 というのを使って、快速入力していた。ところがこれは、ついにまともに普及することなく超マイナーの地位から浮上できないので、JIS 配列以外の選択肢は事実上ないに等しい。

私は 6年近く前に、JIS キーボードは日本語入力に徹底的に不向きと言っている。そして、親指シフトを採用してもアルファベットの配列はほとんど変わらず、絶対多数を占めるローマ字入力派には影響しないのだから、親指シフトが普及しない理由がわからないと嘆いている (参照)。

私は元々、QWERTY キーボードには英文タイプから入ったので、ローマ字入力は習わなくてもできる。普段は親指シフトで入力できれば、地上最強、鬼に金棒なのだがなあ。

ただ、親指シフトにしても、キーボードには違いない。世の中にはキーボードを打つのに抵抗があって、音声入力を望む声もある。しかし、私はこれもあまりそそられない。

考えてもみてもらいたい。オフィスのあちこちで、PC に向かってぶつぶつつぶやきっぱなしのやつが溢れている光景というのは、かなり気持ち悪い。それでなくても、PC 操作をしていると、知らず知らずのうちに独り言が多くなるのに。

加えて、声を出してしゃべり続けるというのは、かなり疲れるものである。そうでないオバサンもいるけど。

こうしてみると、PC のユーザー・インターフェイスというのは、根本的にはなかなか変えにくいもののようなのだ。だったら、ちょっとしたデザイン変更とかで、もっと使いやすいものにしてくれてもいいような気がするが、この業界というのは、人間工学的アプローチにはとことん無関心のようなのである。

テンキーが右側にあるのは、マウスのない時代の悪しき遺産で、現状では右手でマウス操作をする邪魔をしているだけということにも、気付いている人は少ないみたいだし (参照)。

 

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2008年7月16日

「差し水」 という迷信

そうめんや冷や麦の季節になった。いや、それに限らなくても、そば好きの私は、家でもしょっちゅう乾麺のそばを茹でて食べる。

ところで、麺類の袋に書いてある「茹で方」に、吹きこぼれそうになったら「差し水」 をするとおいしく茹で上がると書いてあったりするが、私としては、これは迷信だと思っている。

「差し水」は「びっくり水」ともいって、麺をおいしく茹で上げるために必要と、もっともらしく書かれているものがある。ネットの世界でも、例えばこちらなどは、「絶対必要」と言い切っている。「麺の外側を締め、中まで均一に茹で上げる為に絶対必要です。びっくり水を忘れると、コシのない、だらっとした素麺になってしまいます」というのである。

まあ、そう信じておられるなら、「びっくり水」をするぐらいは大した手間でもないので続けていかれればいいのだが、私個人としては、そんなことをしなくても「コシのない、だらっとした素麺」になるなんてことはないと、長い経験によって知っているので、やらない。

単純に考えれば、「差し水」「びっくり水」は、薪などの燃料しかなかった昔、火力調節が簡単にできなかったので、吹きこぼれを防ぐために水を足していたというだけの話なのだと思う。ガスコンロなどを使っていれば、火力調節は簡単にできるので、ちょいとつまみで調節すればいいだけのことだ。

差し水に麺の外側を締める効果があるといっても、沸騰する湯の中にちょっと水を差したところで、湯温がそれほど劇的に下がるわけでもない。その程度のことで麺が締まるなんていうのは、幻想だろう。

たとえ、微妙の上にも微妙に締まるなんてことがあったとしても、そもそもそれは一瞬のことで、またすぐに沸騰してしまうのだから、ほとんど意味がない。

確かに麺を「締める」ということは重要である。しかし、そのためには、茹で上がってからいかに素早く冷水に浸すかということの方が、ずっと重要だ。それに尽きる。

あらかじめ大きなボウルに冷水をたっぷり用意しておくのは当然だが、ざるですくい上げた麺をそれに浸す前に、思いっきり水道水をかけ、その後にボウルの水に浸すと、効率よく冷えてよく締まる。ボウルの水は最低でも 2回、うどんのように太めの麺なら、3回以上換えて締めなければならない。

専門店では氷水でキンキンに冷やしたそうめんや冷や麦を供してくれるところもあり、真夏の昼などにはとてもうれしい。しかし、そばの場合はそこまで冷やしてしまうと香りの立ち上るのが犠牲になるので、やりすぎだと思っている。

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2008年7月15日

学生が読むなら留年覚悟の 50冊

やや旧聞になってしまうが、6月 23日付の Yahoo ニュースに、「学生が読むべき 50冊」 というシンポジウムの記事がある。

東海大学湘南キャンパスで、文学部文芸創作学科の教員 5人と芥川賞作家の川上未映子さんをパネリストとして、古今東西の名作の中から、50冊を選出したのだそうだ。

その 50冊は、リンク先に飛べばわかるが、いつ削除されてしまうかわからないので、念のため、下にコピペしておく。

【日本】
 万葉集▽源氏物語(紫式部)▽平家物語▽徒然草(吉田兼好)▽おくのほそ道(松尾芭蕉)▽歎異抄(唯円/親鸞)▽心中天網島(近松門左衛門)▽山椒大夫・高瀬舟(森鴎外)▽吾輩は猫である(夏目漱石)▽たけくらべ(樋口一葉)▽武蔵野(国木田独歩)▽金色夜叉(尾崎紅葉)▽瘋癲老人日記(谷崎潤一郎)▽病床六尺(正岡子規)▽きりぎりす(太宰治)▽堕落論(坂口安吾)▽遠野物語(柳田國男)▽様々なる意匠(小林秀雄)▽豊饒の海(三島由紀夫)▽富士日記(武田百合子)▽第七官界彷徨(尾崎翠)▽春宵十話(岡潔)▽「いき」の構造(九鬼周造)

【海外】
 紅楼夢(曹雪芹)▽千夜一夜物語▽イリアス(ホメロス)▽聖書(旧訳・新訳)▽ハムレット(シェークスピア)▽嵐ケ丘(エミリー・ブロンテ)▽インドへの道(フォースター)▽フィネガンズ・ウェイク(ジェイムズ・ジョイス)▽ナイン・ストーリーズ(サリンジャー)▽タイタンの妖女(カート・ヴォネガット)▽幸福論(アラン)▽危険な関係(ラクロ)▽感情教育(フローベール)▽赤と黒(スタンダール)▽夜の果ての旅(セリーヌ)▽失われた時を求めて(プルースト)▽ファウスト(ゲーテ)▽資本論(マルクス)▽ブッデンブローク家の人々(トーマス・マン)▽精神分析入門(フロイト)▽変身(カフカ)▽ドン・キホーテ(セルバンテス)▽ゴッホの手紙▽魅せられた旅人(レスコフ)▽白痴(ドストエフスキー)▽カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)▽戦争と平和(トルストイ)

いやはや、すごいエントリーである。これらを全部読もうと思ったら、学生時代の 4年間は、合コンも何もできないんじゃないかと思う。それどころか、『源氏物語』と『失われた時を求めて』もきちんと読破しようなんて思ったら、きっと留年しちゃうことになるだろう。『大菩薩峠』まで入っていたら、人生終わっちゃうところだった。

ここに挙げられた 50冊のうち、自分はどのくらい読んでいるだろうかというのが気にかかって、ちょっと数えてみた。結果は以下の通りである。

●読了したもの
【日本】
▽徒然草▽心中天網島▽山椒大夫・高瀬舟▽吾輩は猫である▽遠野物語
【海外】
▽ハムレット▽嵐ケ丘▽タイタンの妖女▽幸福論▽感情教育▽赤と黒▽精神分析入門▽変身▽カラマーゾフの兄弟▽戦争と平和

う~ん、50冊のうち、全部読み終えたのは 15冊しかない。しかし、読了してはいないものの、かなりの部分まで読み進んだものというなら、他にもあるので、以下に挙げてみよう。

●未読了
【日本】 ▽武蔵野▽堕落論▽「いき」の構造

【海外】
▽聖書(旧訳は読破したが、新訳はまだ読んでいないところが残っている)▽ファウスト

あぁ、これらを足しても、20冊。まだまだ半分にも満たない。じゃあ、おまけして、ちょこちょこ拾い読みしているというのも足してみよう。

●ちょこちょこ拾い読みしたもの
【日本】
▽万葉集▽源氏物語▽平家物語▽おくのほそ道▽歎異抄▽金色夜叉▽病床六尺
【海外】
▽千夜一夜物語▽イリアス▽失われた時を求めて▽資本論▽ドン・キホーテ

これで、合わせて 32冊。ようやく 3分の2 近くというところである。思い返してみれば、これらのほとんどは 30代前半までに読んだ。ということは、それ以後はかなり読書量が減っているということになってしまう。

それ以上にショックなのが、1行も読んだことがないどころか、初耳のタイトルというのが結構あるということだ。それにしても、識者という人たちが寄ってたかって選んでしまうと、こんなエントリーになってしまうのかと、ちょっとため息が出てしまう。

私が学生諸君に薦めるとしたら、相当違ったものになるだろうなあ。

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2008年7月14日

「懲りない軽さ」という貴重なキャラ

一昨年の秋、Goo ニュース 「山本モナアナ民主イケメン議員と路上キス」という見出しに、「モナアナってなんだ?」とたじろいだという記事を書いた (参照)。

で、またぞろ、そのモナアナさんが話題だ。今度のお相手は、民主党ではなく、読売ジャイアンツのイケメンだという。

業界はモナアナさんのあまりの「軽さ」に非難ごうごうのようで、まあ、ニュースを読めば私も「かなり軽いなあ」と思わないわけじゃないが、どうしてそんなに寄ってたかって叩かなければならないのか、よくわわからないのである。

基本的には、単にプライベートな浮いた話ではないか。放っておけばいいじゃないか。放っておいても、いずれ当人にその報いは自動的にやってくる。例えば、容貌の衰えとともに仕事が激減するとか。

あるいは、容貌が衰えても仕事が減らないようにしたいならば、逆にその「懲りない軽さ」という貴重なキャラを生かすしかない。だったら、報道番組のキャスターなんていう柄に合わない仕事はとっとと諦めて、別の道を探す方が身のためだ。

今回の悲劇(悲喜劇?)は、元々柄に合わない仕事に無理してしがみつこうとした、モナアナさん自身の混乱によって引き起こされているとしか思われない。ここまできたら、自分の本来の天分をきちんと自覚するしかないだろう。

聞けば、ハッスルの高田総統が、モナアナさんをインリン様の後継者として熱烈勧誘しているそうだ。これ、おもしろいかも。

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2008年7月13日

「夕立」「朝立」 を巡る冒険

夏の夕方にどっと降る雨のことを「夕立」というのはご存知の通りだが、その反対語を軽い気持ちで口にしてはならないというのは、放送業界に限らず、日本の常識と化している。

「朝立」 というのもれっきとした気象用語と聞いたことがあるが、これはまだ十分に裏が取れていないので、やはり注意が必要だ。

インターネットで調べてみると、随所に朝に降るにわか雨のことを「朝立」というというような記述がみられる。さらに、このページには、以下のような信頼すべき記述があるので、引用させていただく。

【朝立】(あさだち)

1.朝早く旅立つこと。早立ち。⇔夜立ち。
2.朝方に降るにわか雨。⇔夕立ち
<国語大辞典(新装版)小学館 1988.

ただ、残念ながら我が家には小学館の国語大辞典がなく、手持ちの辞書をすべて調べてみても、1. の意味ばかりで、2. の意味は載っていなかった。また、気象庁のサイトには朝に降るにわか雨 を「朝立」というという記述は見当たらない。

それだけに、私はこの言葉に関してはまだ慎重さを捨てるべきではないと判断している。さらに「朝早く旅立つこと」という意味で用いるにしても、表記は「朝発ち」としてくれれば、無用な誤解を防げるのにと思う。一部ではますます重大な誤解を招くとの指摘もあるが。

大体において「夕立」というのは 「夏の午後から夕方にかけ、にわかに降り出すどしゃぶり雨」のことをいうのであって、雷を伴うことも多い(参照)。 「ちょっとした夕立」なんて言う人がいるが、それは本来の意味からすれば、あり得ないのである。

そして、「朝ににわかに降り出すどしゃ降り」なんていうのもかなり珍しい現象なので、「夕立」という言葉は普及しても、「朝立」という言葉は、雨を表す言葉としてはあまり一般的ではないということになっているのだと思う。

「夕立」の語源は「夕方に降る雨」ということではなく、「夕立」は当て字とする説もみられる。こちらを初めとして、いくつかのページでは、「彌降り立つ(いやふりたつ)雨」が省略されて「やふたつ」になり「ゆふだち」になったと説明されている。

しかし、私はこの説はあまりにもこじつけっぽい眉唾と思っている。「夕立」の語は既に『万葉集』にも見られ、万葉仮名の表記は「暮立」である(参照)。この事実からしても、「夕立」は当て字というより、本来の意味とみる方が妥当だろう。

ところで「朝立」に戻るが、この生理現象はレム睡眠時に起きる一般的現象なんだそうだ。レム睡眠時に起きるものといえば、いわゆる「金縛り」がある(参照)。つまり、あれは「ちんちんの金縛り」のようなものなのだね。なるほど。

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2008年7月12日

庄内人のため息

えぇと、あの「北朝鮮に戻すべきだった」みたいな発言(参照)をした加藤紘一氏、あれ、庄内の人なのだ。生まれは私の故郷、酒田市の隣、鶴岡市なのだが、ちょっと恥ずかしい。

私が子どもの頃は、父親の加藤精三という人が選挙に出ていて、あの人は、多分世襲の二代目なんだと思う。

一時は小泉さんや山崎さんとともに「YKK」なんてもてはやされていて、うちの田舎でも「庄内から総理大臣が出るかもしれない」なんて期待も少しはあったが、宮沢派を禅譲される平成 10年頃からやることなすことはずれまくりで、今では庄内人もため息をついている。

悲しいことに、選挙のたびに対立候補として出てくるのが、社民党とか共産党とかの人ばかりで、まともな選挙戦にならず、苦労なく当選してしまうので、それがかえってあのぼうっとした感じのキャラを醸造してしまったのかもしれない。

今回の「北朝鮮に戻すべきだった」発言は、当人としては何を狙って言ったんだかわからないが、言うだけ逆効果だったというのは、結果が示すとおりである。大した成果がなかったとはいえ、洞爺湖サミットのタイミングを見計らって言ったとみられることに関しても、わけのわからん人である。

「YKK」のうち、小泉さんだけが抜け出してしまって、後に残された「YK」は、さんざんな有様である。とくに加藤さんは、大事なところの状況判断で大失敗ばっかり繰り返していて、「YK」じゃなくて「KY」なのかなんて、親父ギャグにもならない悲哀を醸し出している。

多分、人望がないのかもしれない。周りに本気で彼のためを思ってくれている人がいれば、マスコミに紹介されるときの顔写真だけでも、もうちょっとまともな写真を撮ってもらうとか、配りまくるとかできるはずだ。あんな寝起きのオッサンみたいな写真じゃなくて。

この人は今、日朝国交正常化推進議員連盟という組織の顧問をしているようなのだが、一体どんな利権があるのだろう。

子どもの頃、酒田の街では、夕方過ぎまで海岸で遊んでいると、「北朝鮮の船にさらわれてしまう」と言って怒られたものだ。それは冗談ではなく、本当にシリアスなリスクだったということが、今、明らかになっている。

公式に北朝鮮拉致被害者として認定された人以外でも、北朝鮮にさらわれたんじゃなかろうかと思われている行方不明者は少なくない。私の死んだ母の友人の娘さんも、ある日突然、何の前触れもなく行方不明になってそのままだ。

隣町の鶴岡は、そんなふうな感覚って、なかったんだろうか。それとも、生まれたのは鶴岡でも、ずっと東京でお坊ちゃん育ちしたので、そんなことは身につまされるほどの問題じゃないと思っているのだろうか。

民主党さん、次の選挙で山形 3区にまともな候補を立てたら、国会議員が一人増えると思うよ。

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2008年7月11日

それは大分だけじゃない

大分県の教員採用試験に関する汚職が、一大ニュースとなっているが、多分、というより確実に、それは大分県だけの問題じゃない。

私の親戚の子も、大分以外の某県で、教員になるのに大変な苦労をした。親戚に県会議員や公務員や教師がいれば、そんな苦労はせずに済むというのは常識のようである。

誤解を恐れずに言ってしまうけど、私はコネ採用を一概に否定してはいない。コネにだってそれなりのメリットはあるのである。いくら成績だけがよくても、トンデモ的なキャラだったりしたらヤバイが、コネならある程度の安心感がある。とりあえず、無茶をすることはないだろう。

変な言い方になってしまうが、あまりに公明正大な採用制度で教師を作ってしまうと、どこやらのように、卒業式で国歌を歌う歌わない程度の話で大騒ぎを演じるような教師が増える。

そうしたリスクを避けようと思えば、ある程度のコネ採用をする方が安全だ。それは、これまでは暗黙の了解のようなことになっていたのだと思う。

ところが、この暗黙の了解も、ごくつつましやかに運用していればそれほどの問題にならなかっただろうに、管理側の既得権としてあまりにも肥大化しすぎると、今回のようなことになる。どんな制度でも悪のりしすぎるとろくなことにならないのである。

賄賂をもらったり、成績上位者の点数を減らしてお馬鹿の方にゲタをはかせるなんていう操作をするようになったら、それは誰が見ても「腐敗」というものである。ものすごくひいき目に見て、「腐敗」と断じることを避けても、「行き過ぎ」というのは日本全国でみられることだろうと思う。

だって、政治家と公務員と教師は、かなりの部分でほとんど世襲みたいな状態になっているじゃないか。特定郵便局長ほどじゃないにしても、先生の息子は先生というケースが異常に多い。それは日本全国であまり変わらない状態だろう。

何かの操作が行われていないはずがないのである。ゴキブリを 1匹見かけたら 100匹いると考えればいい。100匹いて、初めて 1匹見つかるのである。

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2008年7月10日

「あさぎ色」 を巡る冒険

私は歌舞伎者だから、「あさぎ色」といえば鮮やかな水色だとばかり思っていた。「チョンと柝が鳴って浅黄幕が落ちると、お軽と勘平の道行」というのはお馴染みの光景である。

そして、この「浅黄幕」というのは、空を表す水色の大きな幕であり、定式幕が開いた時に舞台全面を覆っているのである。

ところが、世の中はわからないもので「薄い黄色」、つまりベージュ系の色を指すという場合も、確かにあるようなのである。業界によっては、「あさぎ色」といえばこっちの方という場合もあり、何がなんだかわからないのである。

そこでふと思い立って調べてみたら、意外なことが判明した。単に「あさぎ色」と言っても、実は「浅葱色」と「浅黄色」という異なった二つの色を指すようなのである。で、私のイメージの中にある水色っぽいのは、「浅葱色」の方で、薄い黄色というのは「浅黄色」ということのようなのだ。

だが、これでもまだ済んだわけじゃない。ことはもっとずっとややこしいのである。

なにしろ、私の中にある「あさぎ色」のイメージを決定づけている歌舞伎の 「あさぎ幕」は「浅葱色」からきているのだが、一般的には 「浅黄幕」と表記される。かなりごっちゃになっているのだ。このあたりからして、困りものなのである。

MSN 相談室の「浅黄色って」という質問の項には、以下のような説明がある(参照)。

古くから浅葱と浅黄の混同はあったそうです。広辞苑を引いてみても、「浅黄の項に『淡い黄色』『浅葱に同じ』の二つの意味が掲載されています。
また一説に「葱」が当用漢字ではないために「浅黄色」という書き方が一般的なのだ、というものあります。

ここまで調べてみて、ブルー系の「浅葱色」と、ベージュ系の「浅黄色」が混同され、ブルー系の幕までも「浅黄幕」と表記されるほどの混乱状態にあるというのは、なるほどよくわかった。困ったことだが、そういう状態だということは、とりあえあず理解しなければならないだろう。

ところが、これで終わりというわけでもないというのが、この問題のすごいところである。私のイメージの中にある「鮮やかな水色」は、本来の「浅葱色」というわけでもないようなのである。ああ、面倒くさい。

日本伝統色名の由来」 というサイトでは、「浅葱色」は「葱に因んだ色であるが、実物の葱より青み勝ちの浅い緑青色を言う」と説明されている。ターコイズブルーに近い色だ。そして、いわゆる「浅黄幕」の水色は、「水浅葱(みずあさぎ)」というらしいのだ(参照)。

このページをさらによく探すと、同じ仲間に「錆浅葱(さびあさぎ)」というのもあって、ややくすんだ浅い緑青色である。

そして、さらにだめ押し的なややこしさについて記す。ベージュ系の「浅黄色」は、本来は「うすきいろ」と読んでいたらしいのだ。それが「浅黄色」という表記に引きずられて「あさきいろ」「あさぎいろ」に変化してしまったらしい。

「おいおい、いい加減にしてくれ」と言いたくなってしまうではないか。どうやら、混乱の元はこのあたりにありそうだ。

シヅキログというブログの記事によると、「浅葱色」と「浅黄色」の混乱は既に平安時代の末には生じていたという、由緒ある混乱のようなのだ(参照)。以下に引用させていただく。

よくよく調べてみると、一説には「浅黄」を「あさぎ」と読み、現在の「浅葱」をさす色名として定着していた時期もあったと言います。そして時を経るにつれて、緑みの青は「あさぎ(浅葱)」色、薄い黄色は「浅黄(うすき)」色と読みと表記が別れたと言うのですが、何しろ1000年ほど前の事ですから資料に乏しく (以下略)

前々から薄々感じていたことだけれど、日本人の色彩に関するアティテュードは、めちゃくちゃアバウトである。いや、色彩感覚そのものは十分に繊細なのかもしれないが、色名を規定するにあたってのコンセプトが、情緒はあるけどアバウトすぎる。青と緑の区別が曖昧であることをとっても、それは疑いようがない。

というわけで、我々は単に「あさぎ色」と耳で聞いただけでは、いや、さらに「浅黄色」という字をみただけでは、頭の中に浮かぶ色を早まって 1色に限定してはならないようなのである。

少なくとも、ターコイズブルー、水色、ベージュ系の、3つの候補をイメージしておき、あとは行きがかり上とか、話の展開上とか、なりゆきとかで、実はどの色なのかを判断しなければならないわけだ。

だめ押しのだめ押しとして、同様の混乱は、なんと 「もえぎ色(萌葱色、萌黄色)」にもあるようなのだ。これについては、もうほとほと嫌んなっちゃったから書かない。興味のある方は、こちらをご覧いただきたい。

本当に面倒だが、あるいはこれも日本文化に奥行きを与える一興なのかもしれない。

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2008年7月 9日

原油価格高騰について考える

原油価格高騰のせいで、ガソリン価格も上がりまくりである。リッター 150円になったのはつい今年初めのことで、「3,000円払っても、20リットルしか入らないのか」と嘆いていた。

それがあれよあれよという間に、170円突破である。一昨日は、わずか 30リットル入れてもらうのに、5,220円も払った。嘘みたい。

私は現在、1,300cc のマツダ・デミオというコンパクトカーに乗っているので、燃料タンク容量も 40リットルそこそこである。昨年の春頃は、燃料切れ警告ランプがついた時点で満タンにしてもらっても 5,000円も払わずに済んでいた。

セルフ式 GS で、30リットル限定で給油しても、楽に 5,000円オーバーというのは、かなり辛い。私のようにカントリーサイドに自宅をもち、車で移動しないとどこにも行けない暮らしをしている者にとっては、年間にすると相当の負担増になってしまう。

子どもたちが小さかった頃は 3列シートが必要だったから、トヨタのエスティマ・ルシーダ (2500cc) の、しかも 4WD なんていう燃費の悪い車に乗っていた。もし、同じ車に乗り続けていたら、ガソリン代は今のほぼ倍になっているはずだ。考えるだに恐ろしい。

一時は「暫定税率廃止しろ」なんて息巻いた(参照)が、所詮叶わぬことで、それはとっくに諦めた。今ではむしろ、ガソリンがどんどん上がれば環境にはいいかもしれないなんて思うまで、すっかり開き直っている。

ガソリン価格上昇の影響は、悪いことばかりではない。無駄なドライブが控えられるだろうから、CO2の排出が減る。食い物でもやたら遠くで取れたものを運んでくるとコストがかさむから、地産地消が増える。買い物に遠くまででかけるのも馬鹿馬鹿しいから、シャッター通りになりかけた地元商店街が、もしかしたら再活性化するかもしれない。

それにしても、この原油高騰の原因がよくわからないのである。経済の専門家たちも、やれ供給不足が主因だの、いや投機的なものだの、見方がそれぞれ違う。私としては中を取って、供給不足に投機的な要素が輪をかけてるんだろうなと思うばかりである。

だったら、これも経済原則に沿って動くだろう。株安でどっと原油相場に流れた金も、あまりに行き過ぎて経済がずたずたになってしまっては元も子もないから、次の方向に向かうだろう。今はまだそこまで行き詰まっていないということだ。

いくら高くても、石油は使わざるを得ないという経済構造になっているのだ。米の飯と似ている。米の値段が上がったからといって、一挙にパン食に変わることもできないみたいなものだ。

ということは、ガソリン価格はこれからもまだ上がり続けるだろう。リッター 200円になったらどうなるかわからないが、そこまでは行きそうな気がする。それに、オイルピークは既に過ぎているという見方もあるし、経済構造の方が変わるべき時にきているのだという気がする。

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2008年7月 8日

ビジネス文書を手書きしろって?

関係先の団体のスタッフが、いくら経費を請求してものらりくらりと逃げ回る某社に、内容証明で通告書を送付するため、郵便局にどうすればいいのか聞きに行ったという。

郵便局では、文具店で専用の用紙を購入し、手書きのカーボン複写で、同じものを 3部作成しろなどと、大時代的なことを言われた。

「内容証明郵便を出すって、ずいぶん面倒くさいんだなあ。今どき、こんなもので手書きの複写しなけりゃいけないんだってよ」 彼は、帰りがけに文具店に寄って買ったご大層な内容証明用紙を前にして、溜息をつく。

私も 20年前に、あることで内容証明郵便を送ったことがあり、地元の郵便局で同じ説明を受けた。当時、既にほとんどの文書をワープロで作成していた私は、それを聞いて呆れ果て、「ワープロで 3部プリントアウトすればいいじゃないか」と言ったが、郵便局員は「日本法令の専用用紙で、手書きのカーボン複写が決まり」と譲らなかった。

手書きでないと、正本の複写かどうか証明できないというのである。それをきちんと見定めて割り印を押して証明するのが、あなたたちの仕事だろうと言っても通じなかった。手書きなら無条件に正本の複写と判断できるという理屈もよくわからないし。

その不合理が 21世紀の今の世の中になっても変わっていないことに、私は改めて驚いたのである。今どき、ビジネス文書を手書する会社が、どこにあるというんだ? まあ、おじいちゃんが社長という零細企業にはあるかもしれないが。

差出人と郵便局が保管する分と、宛先に届ける分の合計 3部の複写が必要というのは、当然のこととしてわかる。しかし、どうせ郵便局で割り印をして、正本の複写に相違ないと証明するのだから、カーボン複写だろうがワープロ文書のプリントだろうが、どちらでも構わないじゃないか。

大体、手書きなんかだと、文書を訂正するたびに二本線を引いて訂正印を押し、「○字訂正」とか、うっとうしいことを書き込まなければならない。馬鹿馬鹿しいったらないのである。

ちょっとむっときて、インターネットで検索して調べてみると、インターネットで内容証明郵便を作成して送る「電子内容証明 (e 内容証明)」というサービスのあることがわかった。しかし、これもよく調べると、利用者登録だの専用ソフトのインストールだのと、面倒な手続きがある。

しかも料金を支払うのに、クレジットカードがない場合は、「後納制度」の審査申請なんてものをしなければならない。個人ならクレジットカードは普及していても、中小企業でコーポレートカードを使っているところはごく少ない。

だが、後納制度を使おうとすると、たかだか 500円とか 1,000円とかの支払いのために、面倒な申請書類を作成しなければならず、さらに審査が済むまで数日待たされる。これじゃ使い物にならない。ますますむっとくる。

念のためさらに調べてみると、なんと実は、手書きのカーボン複写なんてする必要は全然なくて、ワープロで作成した文書を 3部印刷すればいいということがわかった。こちら のサイトだけではなく、多くの司法書士のサイトに行けば、ちゃんとそう書いてある。極端に言えば、メモ用紙に書いたものをコピーしてもいいんだそうだ。

じゃあ、なんで郵便局は、内容証明専用用紙を買って、手書きしろなんていう大時代的なことを言うのだ? 今どきの世の中なのだから、「ワープロで作成した文書を 3部プリントアウトしてください」という方が、ずっと一般的じゃないか。どうして、そうした当たり前の情報を提供できないんだ? 株式会社日本法令とつるんでるのか?

郵便局が民営化されてから、以前に比べてずいぶんサービスが行き届いてきたなあと、私は感心していたのである。ところが、やっぱりところどころにお役所の体質が残っているようなのだ。

体質改善というのは、本質的な部分まで行うにはかなり手間がかかるということがよくわかった。これは、自戒の意味も込めて言っていることである。

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2008年7月 7日

蚊と風呂上がりのビールの怪しい関係

蚊の季節になった。わが家は田園地帯にあり、しかも家の裏手に川が流れていて、その土手は草が生い茂っているので、蚊には非常に恵まれた立地である。

網戸を閉めていても、2匹の猫が勝手にグリグリこじ開けて出入りするので、その隙間からどんどん進入してくる。たまったものじゃない。

こちらとしても、蚊を無闇に憎んでいるわけじゃない。子孫を残すために蚊のメスが人間の血を吸わなければならないというなら、ちょっとぐらい吸われたところで急に貧血になるわけじゃあるまいし、多少は提供してあげてもいいとさえ思う。

ただ問題は、あの痒みを生じさせる物質をこちらの体内に残して行ってしまうことだ。それさえなければ、こっちだって、腕に止まった蚊を条件反射的に叩きつぶしたり、ベープマットなんか炊いて嫌がらせしたりはしないのである。

ただ、あの痒みを残す物質を残していってくれないと、こちらは蚊に対してとことん無防備になってしまい、吸われ放題血を吸われてしまって、冗談じゃなく貧血になったり、伝染病がどんどん広まってしまったりするに違いない。

そんなことになって、血を吸わせてくれる人間が滅亡してしまっては、蚊としても長期的には困るだろう。痒みを生じさせるというのは、その意味で妥協の産物なのかもしれない。ただ、蚊としてはそれで済むかも知れないが、あのイライラする痒みに悩まされる人間にとっては大迷惑なのだが。

R25.jp に「蚊に刺されやすい人、刺されにくい人の違いって何?」という記事がある。元東京大学農学部教授で蚊研究の第一人者の池庄司敏明さんという方のお説なので、信用してもよさそうな気がする。

池荘司先生によると、蚊は比較的 O型の血液を好み、次に B型、AB型と続き、A型になると若干嫌う傾向があるのだそうだ。血液型の違いを生じさせる抗原物質の味がそれぞれ異なるためだという。

おかしいなあ、うちの家族は 4種類の血液型すべてを網羅しているが、AB型の私が一番蚊に刺されやすい気がする。確かに、A型の次女は射されにくいようだが、一番好まれるはずの O型の妻は、私ほど蚊に刺されないみたじゃないか。

それは、蚊が人に近づくきっかけは人が発する物質によるもので、血の味とは別だからなのだそうだ。蚊を誘引する物質は、体の新陳代謝が活発なとき大量に発散されるので、運動、飲酒、入浴後の人や、体質的に汗っかきな人が蚊を誘引しやすいのだそうだ。

なるほど、酒を飲んだ後は、確かにかなり蚊を呼び寄せているような気がする。私が家族で一番蚊に刺されやすいのは、ただひたすら晩酌のせいだったのかもしれない。

そういわれてみれば、今年はあまり蚊に刺されなくなったような気がする。それは近頃飲酒の習慣が薄れてきて、酒と名の付くものは一滴も飲まずに寝る日が多くなってきたせいかもしれない。

考えてみれば、私は今年に入ってから、ビールとか発泡酒とかいうものを、缶ビール換算で 10本飲んでいないと思う。そうか、去年まで蚊を呼んでいたのは、風呂上がりのビールであったのか。

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2008年7月 6日

ナイス・ボレーキック!

68歳男、病院で灯油撒く→ライター投げる→警官、空中でライターを蹴飛ばす」 というのがネット上で話題だ。火災を防いだ 「ナイス・ボレーキック!」というわけである。

私もこのボレーキックを決めた警官の技には拍手を送りたいが、実際のところは、ライターが床に落ちても大丈夫だったろうと思う。

読売新聞の記事によると、京都市山科区の病院で、過去の治療に不満をもった 68歳の男が、「火をつけるぞ」と言ってロビーに立てこもったのだそうだ。そして、駆けつけた山科署員らの説得を拒否して灯油約 10リットルを床にまき、火をつけたオイルライターを投げたが、同署員がそのライターを空中で蹴って着火を防いだという顛末である。

この警官、昔はサッカー部員だったとかいうんじゃあるまいか。かなりカッコいい。このキックが決まらなかったとしても、多分病院炎上という事態にはならなかったのだが、それでも、やっぱり拍手には値する。

私は学生時代、毎年大学の近くの燃料店で灯油配達のバイトをした。だから、灯油の扱いについてはちょっとだけ詳しかったりする。その上でいうのだが、床にまいた灯油にライターやマッチの火を落としたぐらいでは、常温では発火しにくい。ガソリンなら別だが。

灯油も布などにしみ込ませた状態で火を付けると、簡単に燃え上がる。旧式の灯油ストーブが、灯油をしみ込ませた芯に点火するのは、そのためである。

病院の床が、高級ホテルみたいにウォール・トゥ・ウォールのカーペット敷きだったら危ないが、政治家がやばくなると逃げ込むような高級病院(?)でも、ロビーがカーペット敷きなんていうのはあまり見たことないから、多分大丈夫だったろう。

ただ、現場では男が床にまいたのが灯油かガソリンかなんていうのは咄嗟には判断できないだろうから、ライターをボレーキックした警官の判断と技量に対する評価が割引されるというわけでは決してない。

だから私は前述の如く「かなりカッコいい」と素直に思うわけである。その場に居合わせてキックの瞬間を見たかったと思うほどだ。

ところで、明日から洞爺湖サミットが始まる。首都圏ではどこを歩いても警官の姿が目に入るという物々しい厳戒態勢だが、私としては、正直なところやっぱりテロは怖い。サミット期間中は、ランドマーク的なところにはあまり近付きたくないと思う。この期間に新幹線や飛行機での出張がないのは、精神衛生上ありがたい。

アルカイダのテロは、ボレーキック程度では防げないだろうし。

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2008年7月 5日

落書きと千社札と手水場の小銭

「世界遺産への落書き問題」で、イタリア側の反応がやけに寛容だなあと思っていたら、なんとそのドーム(イタリア語では「ドォモ」ってぇの?)は、落書きの名所なんだそうだ。

入り口で怪しげな現地人が、「ここに名前を書けば幸せになりますぜ」なんて言って、やけに高い油性ペンを売りつけるらしい。

そして、そのドォモとやらの中に入ると、一面イタリア語や英語、日本語の落書きだらけというコーナーがあるらしい。道理で、イタリア側が日本の処分の重さに驚いているわけだ。イタリア人の文化財に関する感覚って、かなりユルユルみたいなのだ。

そこら中が歴史的建造物だらけだと、そんなふうになっちゃうのかしらん。私はイタリアには行ったことがないので、よくわからんけど、もしかしたら、イタリア人にとっての大聖堂での落書きは、日本人にとっての千社札みたいなものなのかもしれない。

でも、フィレンツェ同様世界遺産だらけの京都では、南禅寺の三門が千社札だらけになるなんて、あり得ないよなあ。それを思えば、いくらフィレンツェの落書きの名所だからといって、まともな常識のあるやつなら、そんなことしないだろうよ。

ちなみに例の高校野球部監督の解任処分だが、仮に解任ではなく 1ヶ月の謹慎程度で済んだとしても、「新婚旅行で浮かれて、かみさんとハート印の落書きなんかした軽いやつ」 というレッテルを貼られてしまっては、今後の示しがつかないだろう。

高校のスポーツ関係は、指導者次第で強くもなり弱くもなるというところがあるから、「実は軽いやつ」という正体がバレてしまった監督の下では、甲子園出場はおぼつかない。処分が厳しすぎるかどうかは別としても、遅かれ早かれその高校を去ることになるだろう。

そんなことより、私が腹を立てているのは、神社仏閣の手水場(ちゃんと「ちょうずば」と読んでね)の水の中に、小銭を放り込む馬鹿者が後を絶たないということだ。あの水は手を洗い、口をすすぐためにあるのだから、手垢にまみれた銭なんか沈めないでもらいたい。

トレヴィの泉じゃあるまいし、お金なら賽銭箱に入れろというのだ。フィレンツェの世界遺産で監督の地位を棒に振るやつがいるなら、日本の神社仏閣でこういう馬鹿なことをするやつも、きちんと処分すればいいだろうにと思うのである。ぷんぷん。

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2008年7月 4日

食品の産地とブランドについて

飛騨牛とか国産ウナギだの、産地偽装の発覚が題になっている。電車内の「週刊文春」の吊り広話告は、「信州そば、越前ガニ、芦ノ湖ワカサギ」も疑えと煽っている。

「だったら、『讃岐うどん』 はどうなるんだ?」と、私は言いたいのである。今、「讃岐うどん」 は日本中で作られてるじゃないか。

この問題に関しては、2年前に書いている(参照)。地域名と商品名を合わせた商標登録を積極的に認める「地域団体商標制度」というのがあって、この制度では、「松阪牛」は保護されるが、「さぬきうどん」は除外だという。あまりにも知名度が高くて一般名詞化されているので、伊勢エビやさつまいもと同じ扱いなんだそうだ。

私は「そりゃ、ないだろう!」と、疑問を呈しているのである。讃岐うどんは讃岐の国の業者の努力の成果でこんなにも知名度を上げたのだ。他の地域の業者が「讃岐うどん」を名乗るのは、そりゃ文字通り名前のただ乗りじゃないか。努力の成果が徒になってしまうようでは、困りものである。

まあ、商品名やブランドと、産地表示はまた別物なので、「青森県産の讃岐うどん」というのも許されるというわけなのだが、私としては釈然としないのである。この釈然としない感覚を許す風土が、飛騨牛だの比内鶏だのの偽装を軽い気持ちでやっちゃうというメンタリティを生んでいるんじゃないかと思うのだ。

いずれにしても、食品に関しての表示は、私は昔からあまり信用していない。なにしろ、シシャモじゃないシシャモとか、魚沼産コシヒカリがちょっとブレンドされただけの魚沼産コシヒカリとか、わけのわからないものが多すぎる。

そして、ブランドだけでだまされて「さすがにうまいね!」なんて言って喜んで食うやつが多すぎる。団塊の世代以前の人間なんて、どうせ子供の頃にまともなものを食ってないんだから、いくらグルメを気取ってもまともな味覚をもっているのは珍しいのである。

さらに、若い連中はファーストフードとレトルト食品で育ってるんだから、ますます味覚がおかしくなっている。「やわらか~~い!」なんていうだけで美味しいと感じる程度のものなのである。

だまされるやつばっかりだから、だますやつも出てくるのである。だが、本物の讃岐うどんはさすがに違うのだから、がんばってもらいたいのである。ヘンな結論だが。

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2008年7月 3日

コンパクト・デジカメで十分なんだけど

デジタル一眼レフが売れているんだそうだ。昨年は国内出荷台数が前年比 48.6%も伸びて、今年も昨年同期比で 31.2%増と、数字だけ見ると、なんだか絶好調である。

そういえば知人の S氏も最近「僕もこの歳になったら、まともな趣味をもちたくて、一眼レフに挑戦したい」なんて言っていたなあ。

もしかしたら、団塊の世代が定年にさしかかって、まともな趣味のひとつも持ちたくなり、そのニーズにぴたりと合ったのがデジカメ写真ということなんだろうか。定年になったら、それまでのように公費で接待ゴルフするわけにもいかないから、「趣味は、とりあえずゴルフ」なんていう人生からは遠ざかってしまいそうだし。

そうなったら、これまでみたいなコンパクト・カメラで子どもや旅行先のスナップ写真ばかり撮るのじゃなく、落ち着いて「背景のきれいにぼけた玄人っぽい写真」というのを、自分でも写してみたくなるというのも、わかるような気がする。

なにしろ、近頃のデジタル一眼レフは値段が下がって、コンパクト・デジカメに 2~3万円プラスすれば、入門機とはいえ結構まともなのが買える。だったら、そろそろ手持ちのデジカメも買い換え時だし、思い切って、いや、そんなに思い切らなくても買えちゃう一眼レフにしちゃおうかと、まあ、そんなところなんじゃないかと思うのだ。

「そんなところなんじゃないか」と、軽く言い切ってしまうのは、「一眼レフは売れても、肝心の交換レンズが売れない」というデータがあるからである。実際、一眼レフの販売は伸びていても、交換レンズは前年割れが続いているのだそうだ。

日経ビジネス・オンラインの「デジタル一眼、ブームの代償/カメラの販売は好調も交換レンズは前年割れ」という記事に、次のような記述がある。

 メーカーが多少無理をしても価格を引き下げているのは、自社のシェアを高めておけば、いずれ交換レンズ販売という恩恵にあずかれるからだ。これはフィルム時代から続く一眼レフカメラのビジネスモデルだが、これまでのところ、思惑通りには進んでいない。

なるほど、インクジェット・プリンタを安く売って、インク・カートリッジで儲けようというのとあまり変わらない構図が、カメラ業界にもあるのだな。キャノンなんて、両方やってるし。

しかし、プリンタをあまり使わなければインク・カートリッジをそんなに買わなくても済むようなもので、せっかく買った一眼レフも、そんなに凝った使い方をしなければ、買ったときに付いていた標準レンズだけあれば十分ということになる。

私なんかは完全にコンパクト・デジカメ派で、一眼レフを買おうという気には全然なれない。専門のフォトグラファーじゃあるまいし、一眼レフは、持ち歩くには大きすぎるのだ。

私はもう一つのサイト、「和歌ログ」で、毎日和歌を一首詠んで、それにその日に写した写真を添えている。毎日の暮らしで、でかけた先々でちょっとした写真を撮るのだから、一眼レフを持ち歩くのは大袈裟すぎる。コンパクト・デジカメをひょいと取り出して、ぱちりと撮るというのが一番いい。

だから、デジカメを買い換えることになっても、滅多に使わない一眼レフじゃなく、毎日気軽に持ち歩けるコンパクト・デジカメを選択することになる。私としては、その方がデジカメという道具の機能をずっと生かせるからだ。

それに、近頃ではコンパクト・デジカメだってなかなか機能が進化していて、毎日撮りまくっていれば、たまにはこの程度の写真なら撮れることもあるのである。要は、数をたくさん撮って、手持ちのカメラと仲良くなることだ。

フィルムが要らないのだから、いくら撮っても金はかからないことだし、大事にしまっておくようなものじゃない。

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2008年7月 2日

居酒屋タクシー余談

昨日の 「居酒屋タクシー」 に関するエントリーに、中央官庁勤務経験のある風花さんから、現場視点の貴重なコメントをいただいた。

風花さんは一時期、中央官庁にいらして、深夜にタクシーでの帰宅を余儀なくされることもあったが、「居酒屋タクシー」というものは知らなかったとおっしゃっている。

風花さんによると、タクシーチケットに表記されたタクシー会社に電話して車をまわしてもらい、それに乗るのが普通だったという。だから「客待ちの列」なんてものはなく、タクシー側も個人営業でなく「タクシー会社所属」のはずということである。

さらに、風花さんの記憶によれば、深夜帰宅のためにはタクシー会社所属のタクシーを使い、業務上でやむを得ず近距離の移動をするときに個人タクシーを使っていたいうことで、次のように書いておいでだ。

そんなわけで、会社タクシーは帰宅(長距離)、個人タクシーは会議場等(近距離)というイメージなのです。
タクシーチケットの管理・払い出しをしてる部署に帰宅用のチケットをもらいに行っても、原則として個人タクシーのは貰えませんでした。

かなり奇々怪々なお話である。もしかしたら、省庁によって運用が違うのかも知れないと思い、Google でそれらしい情報を検索してみると、「現役雑誌記者によるブログ日記!by オフイス・マツナガ」に「居酒屋タクシー  これが実態」という興味深い記事がみつかった。

この記事によると、居酒屋タクシーを利用するのは、基本的にノンキャリア組なのだそうだ。彼らの官舎は埼玉だの三多摩のはずれだの、霞ヶ関から遠いところにある。いっぽう、キャリア組の官舎は、都心近くにあるので、タクシー側にとってもあまりうまみはない。

すこし前述の記事から引用させていただく。

 役所では基本的にタクシー券の使用は深夜終電がなくなったから使うことになっている。
 にもかかわらず個人的な都合で繁華街で飲み、帰宅には役所が出すタクシー券を使う猛者もいるそうだ。

(中略)

 酷いのはあの国交省だ。ノンキャリ・ダラカンのボスともなればタクシー券を数十枚、束で持っている。それを飲み会などで遅くなったとき「おい、お前はこれ」などと「タクシー券」をカッコよく子分の小役人へ渡しているのだそうだ。人の金なんだから平気。
 また、同僚の分として2~3枚要求しながら同僚に渡さずポケットにしまい込み、私的な飲み会などで使うやつもいる。

とまあ、かなり管理がユルユルみたいなのである。中でも国交省の管理はめちゃくちゃユルイみたいで、ちょっとしたインチキをすれば使い放題だったようだ。風花さんは悪事に手を染めることなく過ごされ、恭敬の至りである。

さらに面白い(と言っては語弊があるかも知れないが)のが、日刊ゲンダイの「居酒屋タクシー処分で財務省ノンキャリア組の反乱が始まった」という記事だ。キャリア組がほとんど無傷で、ノンキャリだけが槍玉にあがっているのに、どえらい反感があるのだそうだ。

役人にとっては、処分されたという事実は今後の出世に致命的な妨げになる。そして、役人というのは、三度の飯より出世がお好きな種族なので、これにはカンカンになって怒っているのだそうだ。「だったら、これからは定時に電車で帰る」なんて言い出しているので、下手すると、来年度の予算編成に支障をきたすおそれもあるという。

逆ギレもいいところだが、無駄な残業をしないで「定時に電車で帰る」というのは、ぜひ実行してもらいたいものである。どうせ口だけなのかもしれないが。

まあ、とにかくお役人の世界というのはかなりの魑魅魍魎なのである。官僚上がりで選挙なんかに打って出るのは、定期的な人事異動の際に受け入れたがる部署がなくて浮き上がってしまった、生意気なやつが多いなんていうウワサもあるしね (誰とは言わないけど)。

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2008年7月 1日

「一ひねり」なしで呆れてしまった

「居酒屋タクシー」 というもののニュースを聞いて、「そんなのがあるなら、私も乗り合わせたいものだ」 と思っていたら、どうやらそんな簡単なものでもないらしいのである。

夜中に 霞ヶ関から埼玉の果てぐらいまで乗るヘビーユーザーの類しか、その恩恵にはあずかれないようなのだ。

それを聞いて「そりゃ、そうだろうな」と納得した次第なのである。せいぜいワンメーターとか、乗っても 1,000円とか 2,000円程度の客に缶ビールを 1本サービスしていたら、儲けが出ないだろう。私は永久に居酒屋タクシーでビールをごちそうになれそうにない。

で、私は正直なところ、ヘビーユーザーがビールを 1本ごちそうになるぐらいは、そんなに目くじらを立てるほどの問題じゃなかろうと思っていたのである。そのくらいは、サービスとして認めてあげてもいいんじゃないかと。

ところが、問題は缶ビール 1本程度のことではすまないというのだ。出てくるわ出てくるわ、米だの現金だの、商品券だの、もらい放題だったというのである。こうしていろいろな便宜をはかってあげて、次からはケータイで直接呼び出してもらい、客待ちの列に並ばずにこっそり乗っけることにしていたというのが、私がつい最近知った真相だ。(参照

何しろ、月末はなんだかんだと忙しかったので、情報不足の極致にあり、そんなことも知らずにいたのだ。「たまたま乗った客に現金だの商品券だのをあげて、どんな見返りがあるのだろう?」 と不思議に思っていたのである。

で、知ってしまって初めて「それって、立派な、いや、決して立派とは言えないが、完全に『収賄』じゃん!」 と、今さらながら呆れてしまったのである。居酒屋タクシー側は「贈賄」ということになる。

前述の参照先の MSN 産経ニュースには「公務員が特定の運転手と癒着することになり、行き過ぎると、汚職の温床にもなる」なんて呑気に書いてあるが、誰が考えたって、これ自体既に「行き過ぎ」であり、既に「汚職」ではないか。

ああ、そうか、新聞記者やテレビ関係者諸君も、たまにこうした恩恵にはあずかっているので、あまりまともには書いたり言ったりできないのかもしれないね。下手すると、我が身に火の粉が降りかかる。

ヘビーユーザーにそれなりのサービスを提供するのは、そりゃ、お店のスタンプカードだってあることだし、そんなに悪いことじゃないと思うが、「役人が税金で乗ったタクシーで現金なんかもらうのは、やっぱりヤバイだろう」と、とっても当たり前のことを今さらながら思っているのであった。

このブログは「一ひねり」きかせた書き方を身上としているつもりなのだが、この件に関しては、私としたことが何のひねりもなしに、ただ素直に呆れてしまったのである。

気の毒なのは、まともな商売をしていたタクシー会社で、公務員が急にタクシー券を使いづらくなったために、水揚げが大幅に減ってしまっているだろう。まあ、これまでが野放図に使いすぎだったといえば、その通りなのだが。

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