「二の矢」 を受けない河野さん
松本サリン事件の被害者、河野澄子さんが8月 5日、事件後ついに一度も意識を回復することなく、亡くなったと報道された。
その夫で、事件後ずさんな操作とマスコミの思いこみで犯人扱いされた河野義行さんは、ただ「ありがとう」の言葉のみを発し、恨みがましいことは一切口にしていない。
彼のオフィシャル・サイトのトップページには、自身の著書『命あるかぎり』(第三文明社・刊 の中から、次のような言葉が記されている。
私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。
彼のこのような潔い宗教的とまでいえる態度は、一部には反感もあるようだが、一般には感動的なものとして受け入れられている。凶悪犯罪被害者の遺族として、どちらがいいとか悪いとかではなく、光市母子殺人事件の被害者遺族、本村洋さんとは対照的な存在といっていいだろう。
たまたま、つい最近も死刑ということに書いた(参照)私としては、このことについて触れないわけにはいかなくなったような気がする。私は死刑について、上記のエントリーで、次のように書いている。
私は決して死刑廃止論者ではないが、積極的に死刑を求めるわけではなく、それはたとえ自分が被害者家族の立場に立ったとしても変わらない
それに先だって昨年秋に「死刑で罪は償えるのか」という記事を書いたときには、「自分が被害者なら、やはり加害者を死刑にしたい」というトーンのコメントが多く寄せられた。そして私は、「それでも死刑は望まないだろう」というようなレスを書いた。
そして今、河野さんのコメントを読んで、「そうか、私も妙に客観的すぎる言い方をするより、河野さんのようにはっきりと言い切るべきだったのか」と、密かに思っている。まあ、こうして書いちゃったから、既に「密かに」 ではなくなってしまったが。
だから私は、河野さんにとても共感するが、あえて賞賛しようとまでは思わない。私にとってはそれが「当然の態度」だからだ。当然のように当然の態度でいられるというのは、素晴らしいことではあるが。
何度も繰り返すが、私は被害者遺族が執拗に加害者の死刑を要求することの方にこそ、非常に強い違和感を覚える。断っておくが、これは前述の光市の本村さんの一連の発言が「恨む」という想念から発したのかどうかは、まったく別としての話である。
仏教に「二の矢を受けず」という言葉があり、それは自分の心を整えて、様々な感情に執着しなくて済むようにするということだ。私もそれについて、発端は別件だが今年の春に書いている(参照)。
「恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくない」というのは、至言である。河野さんは「二の矢」を受けることをよしとしない生き方を選択されたのだ。
私が「もし自分が凶悪犯罪被害者の遺族だったとしても、ことさらに死刑を要求するようなことはしたくない」というのも、つきつめれば「二の矢」を受けたくないからなのである。そんなものを受けて、残りの人生を落とし込めたくないのだ。
河野さんが選択されたように、亡くなったものへの感謝のうちに生きて、それによって世の中にポジティブな発信をすることの方が、尊いと思うのである。
最後に、河野澄子さんのご冥福を祈りたい。
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コメント
河野さんの本、第三文明社刊なんですね
ふ~ん
投稿: alex | 2008年8月 7日 17:12
alexさんに乗っかって、
ふ〜ん…。
ナントナ〜ク…、ふ〜ん。
投稿: オッチャン | 2008年8月 7日 18:31
alex さん、オッチャン:
それは、私も 「ふ~ん」 なんですけどね。
このエントリーを書く前に、それなりに調べを入れたところ、河野さん、少なくとも創価学会員じゃないみたいです。
投稿: tak | 2008年8月 7日 23:58