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2008年9月に作成された投稿

2008年9月30日

「特攻機のボイスレコーダー」 の教訓

28日付の「特攻機のボイスレコーダー」という記事は、意外な展開を見てしまった。先方の該当記事が削除されてしまったのである。私は攻撃したつもりは毛頭ないんだがなあ。

当初は、先方のブログの管理人さんが、後世の創作物(ドラマか何か)の録音を勘違いされたんだと思ったのだが。

ことの顛末を手短に記そう。

あるブログ(今となっては、あえてリンクしない)の、今は削除されてしまった「戦争の真実」という記事に、自衛隊基地内の一般公開されていない「資料館」を、特別に紹介してくれる関係者がいたおかげで見学することができたという記述があった。

その記述によると、太平洋戦争末期の特攻隊が搭載していた「ボイスレコーダー」が奇跡的に回収され、それがガラスケースに入れられて陳列されていたというのである。そして、直接ではないが、ダビングされた録音でその内容を聞くことができた。

その録音は発進基地での出撃前のセレモニーの様子から始まっていたという。プロペラの音がして、最後の激突の衝撃音の前に、特攻隊員が 「おかあさん」と言う声が、確かに録音されていたというのである。

この記事の筆者は、それ以上のことに言及しているわけではない。「あの戦争で死んだ兵士はみな、最後に『天皇陛下万歳』なんて叫んだのではなく、『おかあさん』と叫んだのだ」という都市伝説を強弁しているわけでもない。ただ、この録音を聞いて感動したという慎ましい記述である。

確かに感動的な記事である。しかし、へそ曲がりな私は、ついこの記事に疑問を抱いてしまった。太平洋戦争末期の特攻機に、ボイスレコーダーなんて搭載されていたはずがないじゃないかという疑問である。しかし、28日の時点ではその辺りの調べが不十分だったので、「にわかには信じられない」と書くにとどめておいた。

私の 28日の記事には、ちょっとした数のコメントが寄せられ、私自身も録音技術の歴史などを調べてみた結果、当時の飛行機に録音機器が搭載されていた可能性はほとんどないということがわかった。

そういえば当時の録音技術なんて、あの玉音放送ですら音盤録音だったのである。しかも、たかだか 5分間の玉音が 1枚の音盤に収まりきれず、2枚になったぐらいである。そんな時代に、戦闘機に録音機器を搭載するなんてできるはずがなかったのだ。

結論を言おう。太平洋戦争末期の特攻隊員が、自身の乗った特攻機に積載された録音機に自分の最期の声を録音したという可能性は、ゼロである。だから「戦争の真実」 という記事は、何らかの勘違いか、そうでなければ何らかの意図による作り話であると断定せざるを得なくなったのである。

この奇妙な顛末から導かれる教訓を、以下に記そう。

まず、今のハイテク時代の常識は特殊なもので、いくら最近の歴史でも、そのまま適用してはとんでもない勘違いをしてしまうということだ。いくら近い過去にあたる歴史でも、ハイテク時代の常識で作り話をすると、すぐに破綻するのである。

もう一つの、そして最も大切な教訓は、まこりんさんのコメントの言葉を借りれば、「歴史はこのようにして物語化される」ということだ。そして、いわゆる「歴史」の中にも、多くの「物語」が混入していないはずがないのである。我々は歴史を読むときには、せいぜい行間を読み取らなければならない。

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2008年9月29日

失言問題の象徴する不毛な構図

非公式な酒席での話や他愛ない世間話としてならかなりの(あるいは圧倒的な)共感を呼ぶが、公式発言として口に出すと、途端にバッシングの対象になるというテーマがある。

中山元国交相の「失言」による辞任騒動はまさにそれである。惜しむらくは、公式発言の際のレトリックの稚拙さである。

今回彼が追及された「失言」は、「日本は単一民族」「成田空港闘争はゴネ得」「日教組解体」の 三つである。もっとも、今挙げたのは、センセーショナルな表現が好きなマスコミの見出しに沿ったもので、中山氏の実際の発言における文脈は、例によって無視されている。

冷静に見ると「日本は単一民族」という発言は、やはり問題がある。私自身も、日本人が単一民族であるとは思っていない。少なくとも、アイヌ、琉球民族は、一線を画してもいいと思っている。ただ、中国や東欧などのように、民族問題が大きな問題になっていないだけである。

そして、成田に関する「ゴネ得」というのは、これはちょっと認識が甘すぎるというものだ。フツーの道路建設などの際に決まって発生する、いわゆる「ゴネ得」とは、明らかに次元が違う。ここでは「もう少し勉強してからモノを言ってもらいたい」と言うにとどめる。

ところが、日教組問題に関しては、私は中山氏がそれほど間違ったことを言っているとは思わない。当人も、この点に関してだけは「撤回しない」と頑張っているようだ。それでマスコミは「確信犯」などと、さらに煽り立てている。

中山氏が間違えたのは、日教組に関する批判そのものでなく、レトリックだろうと思う。彼は公式の席で、酒席での世間話に準じたレトリックを採用してしまった。それがいけなかったのだろう。我が先輩、alex さんも、そのような指摘をしておられる(参照)。

もう少し論理的な言い方をすればよかったのだろうが、ただ悲しいかな、日本における政治講演会においては、それでは聴衆に受けないのである。それで、つい迎合して下卑た言い方を多用することになる。政治家の講演会なんて、録音しておけば後で使えそうなツッコミどころ満載なのである。

つまり、フツーの「政治好き」なオッサンが、「酒席での世間話」を公式の場で大臣から引き出し、それを単なる建前好きのマスコミが叩くのである。しかも田中真紀子流のおばさん的ポピュリズムに乗っかった上での下卑た話はあまり問題にされないのに、ちょっと硬派なおっさん的世間話になると、途端にバッシング対象になる。

これは日本の政治を象徴する不毛な構図である。

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2008年9月28日

特攻機のボイスレコーダー

24日付で "「天皇陛下万歳」か、「おかあさん!」か" という記事を書いた。「実は、兵士はみんな、『おかあさん!』 と叫んで死んだのだという「都市伝説」への疑問である。

この「最強のセンチメンタリズム」をもっともらしく主張する人を、私は信用しないと書いたのである。

インターネット上に、自衛隊基地内部にある原則非公開の「資料館」で、「特攻でアメリカ軍に突撃していった戦闘機から奇跡的に回収されたボイスレコーダー」に録音された特攻隊員の声を聞いたという話がある。

それは、「戦争の真実」というブログ記事だ。

その記事には、「テープの最後に残された激突時の衝撃音。その音の直前にはっきりとおかあさん!という声が入っていた」 (改行調整済み) とある。

このブログの管理人がでたらめを書いているとは思えない。また、「兵士はすべて『おかあさん!』と叫んで死んだ」というような極論を述べておられるわけでもない。しかし、私は自分自身の知識不足からと思うのだが、とても割り切れない感想を抱いてしまった。

まず、太平洋戦争末期において、ボイスレコーダーが使用されていたのだろうかと、疑問に感じたのである。この疑問に直接答えてくれそうな記述は、残念ながら発見できなかったが、Wikipedia で「ボイスレコーダー」を調べると、次のような記述があった (参照)。

この機器は、古くはエンドレス・テープレコーダー(始点と終点の無い輪になったテープを巻いて用いる)を密閉容器に組み込んだ物であったが、磁気テープが熱に弱く、また長時間利用すると劣化しやすい事から、近年ではフラッシュメモリーを発泡樹脂で包んで記憶媒体とし、(以下略)

つまり、フラッシュメモリーが開発される前は、テープレコーダーを使用していたということだ。では、テープレコーダーはいつ頃から実用化されていたのかと、また Wikipediaで調べると、ちょっと長くなるが、次のようにある (参照)。

この磁気記録の媒体をより扱いやすく耐久性のあるプラスチックテープにしたのは、ドイツ人のフロイマー(Frits Pfleumer)で、1928年に原型を完成した。以後電機メーカー・AEGの手で改良され、1935年に「マグネトフォン(Magnetophon)」の名で市販されたものの音質が悪かった。

その後、化学メーカーBASF社の協力によるテープ材質の改良(アセテート樹脂)と、1938年の永井健三、五十嵐悌二による交流バイアス方式の発明で、1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、実用に耐える長時間高音質録音が可能となった(電気録音)。

この結果、第二次世界大戦中にはドイツの対敵放送に有効活用され、フルトヴェングラー指揮によるベルリン・フィルの演奏もテープ録音された。

この記述からすると、太平洋戦争末期の日本軍の戦闘機に、貴重品であるテープレコーダーが搭載されていたとは、にわかには信じられないのである。何しろ物資不足で、ボルトの本数までけちって組み立てたという、哀しい戦闘機にである。

いや、もしかして 1939年~1941年までの間に飛躍的に進んだという技術開発で、1945年頃の特攻実施時期までに、テープレコーダーは戦闘機のボイスレコーダーとして広く採用されるまでに普及していたのかもしれない。それは否定しきれない。

しかし、敵艦に激突することが目的の特攻機に、ボイスレコーダーは不要である。ましてや、航続距離を伸ばすために、少しでも無駄なものは積まないようにしていたという特攻機に、当時貴重であったはずのボイスレコーダーを搭載していたとは、これまた、にわかには信じられないのである。

私はここでは「にわかには信じられない」としか言えない。この疑問が私の無知故のことでしかないことを願う。どなたか、「なんだ、お前はそんなことも知らなかったのか」と指摘してくれたらありがたい。

【追記】

陰でコソコソ言うのは嫌いなので、紹介したブログ記事にトラバを送ろうとしたが、どうも先方はトラバを受け付けていないようなのだ。どうしたものかなあと思ったが、コメントでお知らせ申し上げた。

 

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2008年9月27日

母方の祖父のこと

私は父方の祖父と同様、母方の祖父にも会ったことがない。ずいぶん早死にしてしまった人のようだ。

母方の家は印刷業を営んでいて、当時、田舎ではなかなか羽振りがよかったらしい。父方が田舎の貧乏寺だったので、経済的にはえらい違いである。

二日前にも書いたように、私の母はこの羽振りのいい家で生まれたものの、今から思えばずいぶん乱暴ないきさつから、私の実家の養女になった。私の実家の祖父母は貧乏人だったが、母の生まれた家から経済的な援助があったのかどうか、私は知らない。

それについては聞いてみたこともないが、印象としては、たとえ援助があったとしても、大したものではなかったと思う。何しろ、我が家はかなり貧乏だったから。

で、今日の本題の、母方の祖父の話に移る。

と言っても、私は母方の祖父は私が生まれる前になくなっているから、まったく縁遠い。どんな人だったかも知らない。ただ一つの手がかりは、祖父が亡くなって 16年後に縁者たちが出版した「句集」である。自費出版だが、なにしろ家業が印刷屋だから、お手の物である。

その句集に寄せられた「故人の思い出」のような文章を読むと、祖父はなかなかの文才で、若い頃から全国紙の俳句欄に投稿して、しょっちゅう入選していたらしい。その才能を見込まれて一時は東京に出て俳句の修行も志したようだが、やはり家業を継がねばならぬとて、俳句で身を立てるのはあきらめたという経歴のようだ。

印刷屋になってからは、あまり俳句は作らなくなったようである。もったいないなあ。

で、その俳句のスタイルというのが、伝統的な五・七・五の定型ではなく、自由律というものなのである。自由律俳句というのは、今ではあまりやる人がなくなっているが、大正から昭和初期にかけてはけっこう盛んだったらしい。山頭火がその代表格である。

句集は、我が家にも一冊あるのだが、実家にあるので、今は気軽に手に取ってみることもできない。高校時代に初めてじっくり手にとって読んでみたが、正直言って、自由律というのはあまりぴんと来なかった。

私は「和歌ログ」という別サイトで、下手くそながらネット歌人もやっているのだが、歴史仮名遣いにこだわって、一見伝統派である。しかし、そのくせ時々、歌の中にカタカナを多用したり、下手すると英語をアルファベット表記そのままで使ってみたりして、伝統破壊をしている。このあたりは、自由律の血が流れているせいなのかもしれない。

句集の中で、印象に残っている句は、こういう句である。

種蒔ひて土覆へば種隠れたり

う~む、これにはちょっとかなわないなあ。

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2008年9月26日

父方の祖父のこと

昨日付で、私には祖父母が 3人ずつ、合わせて 6人いるということを書いたが、この 6人すべてに会ったことがあるわけではない。

会ったことがあるのは、実家の (血のつながりのない) 祖父母と父方の祖母の 3人だけである。母方の祖父母と父方の祖父は、私が物心つく前に亡くなっていた。

で、3人の祖父のうち、私が毎日顔をつきあわせていた実家の、血のつながりのない祖父は、まあ、大酒飲みだけが取り柄のお人好しのじいさんだったのだが、父方と母方の祖父というのは、なかなかに偉い人であったようなのだ。

父方の祖父は曹洞宗の和尚だったというのは昨日もちょっと触れたが、母方の祖父は地元ではちょっとは名の知れた俳人だったらしい。私の身体の中には、宗教者と文芸人の血が流れているというわけだ。

で、今日は父方の祖父である和尚さんについて少し書いてみようと思う。

父方の祖父は金銭欲、名誉欲の全然ない人だったらしい。「そりゃ、坊さんなんだから当たり前」 と言われるかもしれないが、決して当たり前じゃない。それは、廻りを見ればわかることだろう。世の中には欲丸出しの坊さんがずいぶん多いじゃないか。

私の父は、「俺の父親は、好んで貧乏した人だった。坊主は貧乏でいいんだという考えの人だった」 とよく述懐する。曹洞宗の総本山である永平寺で長年修行して、坊さんとしての位は結構高かったらしいが、わざわざ選んで田舎の貧乏寺の住職になった。

お経を読ませたら皆がうなるほどの朗々たる名調子で、近所のお寺の坊さんも、「あんなにお経の上手な人はいなかった」 と述懐する。それに、「慈悲喜捨」 を絵に描いたような人で、自分の寺がいい加減貧乏なのに、困った人があれば自分を捨てても助けようとする。

とにかく、毎晩水分の方が多いみたいなトロトロのお粥しか食えなかったのだが、ある日、近所のもっと貧乏な家の人が 「今夜食う米がない」 と泣きついてきたらしい。すると、和尚は炊きたてのそのお粥を釜ごと、「持ってけ」 と言って与えてしまった。

驚いたのは私の父を含めた家族である。そのお粥を人にあげてしまったら、今度は自分の家で食う米がない。「いくら坊主でも、なんてことを……」 と思ったが、和尚は悠々たるものである。「心配するな。坊主は托鉢すればその日の米は手に入る」 と言って、しばらく外出したかと思うと、少しばかりの米をもって帰ってきたという。

まあ、永平寺で修行してた頃から、托鉢には慣れていたということなんだろうが、見事な話である。

この祖父が亡くなったのは、私の生まれる前のことである。亡くなったとき、近郷近在の曹洞宗の寺の和尚が集まって、「世の中に坊主は多いが、彼こそは、本当の坊主だった」 と、口を極めて賛嘆してくれたという。

祖父は冗談に 「俺が死んだら、戒名は 『一生貧乏残念居士』 と付けてくれ」 と言っていたという。しかし、父は 「とんでもない、ありゃ 『一生貧乏満足居士』 だよ」 と、今でも言う。

というわけで、私は父方の祖父に直接会ったことはないが、その系譜にあるというのは内心とても誇りに思っている。私如きは祖父にも父にも敵わんと思っているのだが、できれば少しは近づきたいと思うのである。

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2008年9月25日

祖父母が 3人ずついる私

世の中の多くの人は、父親と母親が 1人ずついて、祖父と祖母が 2人ずついるということになっている。少なくともそうでないと、自分という人間はこの世に出現できない。

ところが、世の中の少なからぬ人が、それより多い数の父母、祖父母を持っている。世の中、一筋縄ではないのである

私にも、祖父母が 3人ずついる。父方と母方、そして、実家の祖父母である。この間の事情を説明すると、まず私の実家の祖父母には、子供がなかった。生まれなかったわけではない。生まれてもすぐに死んでしまうのである。

ちょうどその頃、田舎のちょっとした旧家に生まれた女の子が、私の実家の祖父母に預けられた。その女の子の実母は産後に体調を崩してしまったので、子供を亡くしたばかりで乳が出た私の実家の祖母に預けたのである。昔よくあった「乳母」というシステムだ。

ところが実家の祖父母は、預かった女の子に完璧に情が移ってしまい、金輪際返したくなくなった。そして 10年以上その女の子を連れてあちこち逃げ廻った。むちゃくちゃな話で、今の世の中なら「誘拐」である。それでも昔は警察沙汰にならなかったようなのだ。

そしてさんざんねばった末、その女の子が高等女学校に入る前に、無理矢理話をつけて養女として引き取ってしまったのである。その女の子が、去年の 5月に亡くなった、私の母である。

そして、その母と結婚したのが私の父である。貧乏寺の四男として生まれた父は、母の名字を継ぐことになった。いわゆる婿養子である。というわけで、私は養女と婿養子のカップルの間に生まれた子供で、父と母は 1人ずつだが、祖父母が 3人ずついるのである。

「うちって、親戚がやたら多いなあ」という気は、ずっとしていた。そして、小学校 6年生の頃に、「今一緒に暮らしている祖父母は血のつながった祖父母ではない」と、母に初めて知らされた時も、驚きはしたが、それほどのショックではなかった。

そして、それ以後も実家では一緒に暮らす祖父母の孫として、自然に振る舞えたので、何の問題もなかった。血がつながっていないぐらいのことで、ことさらコンプレックスに感じようなんていう気にはなれなかった。私は、うっとうしいことは嫌いなのだ。

こうした例は珍しいものかと思っていたが、聞いてみると、私の周囲にもいくらでもあるのである。私の大学時代の友達も、実の母は彼が 3歳の頃に亡くなっていて、私の知っている彼の「母」は継母だったのだそうだ。

私の父方の祖父は曹洞宗の和尚だったが、私の生まれる前に亡くなっていた。近隣中から慕われた徳の高い宗教者だったという。私はこの和尚だった祖父にも見えない愛情は注がれているという実感がある。祖父母が 3人ずついるので、普通の 1.5倍の愛情を注いでもらえて、得したような気さえしているのである。

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2008年9月24日

「天皇陛下万歳」か、「おかあさん!」か

あの太平洋戦争で、兵士は死ぬ際に「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬように教育されていたが、実際に死ぬときには、そんな風に叫んだ者はいないという人がある。

兵士が実際に死ぬ時には、「天皇陛下万歳」ではなく、みな「おかあさん!」と叫んだのだというのである。

この説は、とても魅力的である。「天皇陛下万歳」という「建前」が、いよいよ自分が命を落とすときになって崩壊し、その瞬間に心の底から湧いてきたのが「おかあさん!」という叫びだったというのは、戦後民主主義的で、しかも泣かせるほどセンチメンタルだ。

「皇国史観」という、ある意味とてもセンチメンタルな要素もある価値観を覆すには、それよりももっとセンチメンタルなツールが必要になる。とすると、「おかあさん!」の叫びは、圧倒的かつ最強のツールである。

しかし、私はこのツールがぐうの音も出ぬほどに最強であるように見えるからこそ、「実際に死ぬときに『天皇陛下万歳』と叫ぶ兵士はなく、皆『おかあさん!』と叫んだのだ」という主張には、「それは伝説でしかないだろう」と言うしかないと思っている。

ある意味、これは最強の都市伝説である。伝説というほかないのは、死に赴く兵士はおしなべて「おかあさん!」と叫んだと決めつけるだけの決定的なエビデンスをもった人は、一人もいないはずだからだ。

戦闘で瀕死の重傷を負い、野戦病院の治療によって命からがら生還したという知人に個人的に聞いたところでは、「あの時、周囲では何人も死んでいったが、『天皇陛下万歳』と言って死ぬ者はいても、『おかあさん!』と言って死ぬのは聞いたことがない」ということだった。

その価値観、そして本音か建前かは別問題としても、この証言は重いと思っている。兵士は皆「おかあさん!」と言って死んだのだという主張は、この一言だけで十分に否定された。

私としては、「おかあさん!」と叫んで死んだ兵士がいたとしても、まったく不思議ではないと思う。だからといって、「『天皇陛下万歳」 と叫んで死ぬ者などなかった」というのは、どうみても極論に過ぎると思う。

人生いろいろだから、死ぬ際にもまた、いろいろなことを言って死ぬのが当たり前である。人はみな、死ぬときには「おかあさん!」と叫ぶのだというのは、あまりにも無理がある。だから、臆面もなくそうしたことを言う人間を、私は信用しないことにしている。

彼の主張が平和主義から発するものであったとしても、その主張のためにそうした作り話を言うのは、「目的さえ正しければ、手段は選ばない」というやり方である。それは平和主義というより、こざかしい政治主義の産物である。

【業務連絡】

28日までインターネット接続困難なところに滞在しますので、コメントへのレスは帰ってからになります。なお、この間、当ブログは予定稿で自動更新されます。

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2008年9月23日

私物 PC を仕事に使うなと言っても

日経コンピュータと日経 BP コンサルティングが 6月に実施した「仕事とノート・パソコンに関する調査」によると、6割以上が私物 PC を仕事に使っていると回答している (参照)。

その理由は、「会社からノート PC が支給されていない」が最も多かったという。ああ、日本の産業界って、まだこんなレベルなのだ。

多くの大手企業は今、情報漏洩対策にことのほか力を入れている。パスワード設定の徹底はおろか、私物 PC を社内に持ち込むことを禁止し、そればかりでなく、USB スティックなどの記憶媒体も持ち込み禁止、また、添付ファイル付きメールの制限など、かなり不自由な規則を制定しているところが多い。

聞けばその名を誰でも知っている某社は、社員が自宅で使っている PC のハードディスクの中身の調査を行ったそうだ。社員の一人一人の自宅に管理スタッフが訪問し、プライベートで使っている PC の中身をチェックしたという。しかも、社員個人の PC だけでなく、家族が使っている PC までチェックしたというから怖ろしい。

こんなことをしたら明らかにプライバシー侵害にあたるだろうが、「それが嫌なら、会社辞めろ」ってなものだったのかもしれない。逆に考えれば、会社の情報を自宅の PC に保存していた社員がそれを嫌って会社辞めちゃう方が怖い気もするが。

一方、中小企業は呑気なものである。社員は私物 PC を仕事に使い放題だ。それは上述の調査結果にあるように、「会社がノート PC を買ってくれないから」である。しかし会社に言わせると、「社員が好きで買った PC を使っているんだから、それでいいじゃないか」ということになりがちだ。

結局、私物 PC を使う社員の「ボランティア精神」ということになってしまっている。これは中小企業の IT 化の経緯を辿ってみてもわかる。

中小企業、とくに小規模な企業の多くは、IT 化の初期、社としての方針で進めたわけではなく、いわゆる「パソコン好き」の社員の個人的資質に依存して、ある意味「ボランティア」的に進行したという経緯がある。そのメンタリティが、今でも引き継がれているのだ。

IT に弱い経営者からすると、「社員が自主的に(本音は 「勝手に」)やったこと」 と思っているのだが、社員の側からみれば「経営者が何もしてくれないから、仕方なく必要に迫られてやった」のである。

そして今では、経営者からみれば「社員が勝手に」構築したシステムが、業務上、必要不可欠になってしまっていたりする。ところが、いくら必要不可欠のシステムでも、元は個人が作ったものだから、その社員がいなくなってしまったらブラックボックスになりかねない。

それどころか、社員が辞めるときに「これは私の私物ですから」と、会社で使っている PC を引き上げてしまったら、明日から業務に困ることになってしまったりする。

もしかしたら「ボランティア」で会社の業務システムを構築した社員は、その功績に対して正当な報酬がないので、会社の情報をそっと持ち出すぐらい、ごく当然の見返りと思っているかもしれないではないか。

とまあ、中小企業の世界では「私物 PC を仕事に使うな」というルールは、大手の世界では想像も付かないほどに非現実的なのである。下手したら情報はダダ漏れなのだ。

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2008年9月22日

「乳児用粉ミルク」を英語でいうと

何年英語と付き合っても、ふとした言葉を知らなかったりする。9月 20日付の「RNN 時事英語辞典」でびっくりしたのは、「乳児用粉ミルク」を英語でどう言うかである。

"Powedered milk for babies" では、ちょっと長すぎるかもしれないと思って調べたら、なんと "baby formula" なんて言うんだそうだ。

私は "formula" なんて言ったら「公式」とか「規格」とかいう意味しか思い浮かばなかったから、"baby formula" にはびっくりした。普段の会話でそんな言葉が出てきても、頭の中に「?」のマークが 10個ぐらい浮かぶだけだったろうと思う。

ちなみに、"powedered milk" という言葉もあるのだが、wikipedia で調べると、ケーキやお菓子を作る際に使うものという、「産業用」のイメージが強い(参照)。日持ちが良くて輸送コストもかからないという、コスト面でのメリットが強調されている。

"Baby formula" というのは米語らしい。じゃあ、英国ではどういうのかというのは、調べがつかなかったが、"infant formula" という言葉が見つかったので、もしかしたら、こういうのかもしれない。

いずれにしても、日本語で 「粉ミルク」 というと赤ちゃん用というイメージが強いが、英語圏では産業用途のイメージが強いようなのだ。それと区別するために、"baby formula" とか "infant formula" とかいうのかもしれない。

そういえば、日本語では「牛乳」と「ミルク」は微妙に違うようなのだ。「牛乳」というと、パックに入った生のミルクで、「ミルク」と言ってしまうと、ちょっと加工したイメージが強くなるような気がする。

日本では「粉ミルク」と言えば、あるいは単に「ミルク」と言っただけで赤ちゃん用というイメージが強いので、わざわざ「ベビー・フォーミュラ」なんていうごっつい言葉を輸入しなくて済んだのだろう。産業用は「粉乳」という別の言い方が一般的だし。

こんな感じで、本来は同じ意味でも、元々の日本語とカナカナ語ではニュアンスが違うという言葉は、かなりある。

身近な例では「メール」といえば、今どきはほとんど "E-mail" のことになってしまうが、本来は郵便のことである。「戸」と「ドア」、「茶」 と「ティー」も違う。一説によると、お椀に盛ってあるのが「ご飯」で、皿に盛られたら「ライス」なのだそうだ。

私の生息するアパレル業界では、「輸入物」というと、何も言わなくてもほとんど「中国製」で、「インポート物」というと、それはヨーロッパ、とくにフランス、イタリア、英国から輸入したものということになっている。

カタカナ語同士でも、序列がある。「チョッキ」よりも「ベスト」の方がお洒落で、さらに「ジレ」はもっとファッショナブルになる。仏和辞書で "gilet" を引くと 「チョッキ」 とあるのは痛恨だが。

辞書的には同じ意味でも、ニュアンスは文化圏によってずいぶん違う。

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2008年9月21日

「ねんきん特別便」 が届いた

社保庁から 「ねんきん特別便」 が届いた。年金の加入記録に 「もれ」 や 「間違い」 があるかもしれないので、十分確かめて必ず回答をくれろとある。

恐る恐る確認したら、幸運にも (こういうの、「幸運にも」 と言っていいのか?)、「もれ」 も 「間違い」 もなく、とりあえず安心した。

伝え聞くところによると、転職の回数の多い人は  「もれ」 や 「間違い」 が発生する確率が高いらしい。私は転職が多いので、その辺りはちょっと心配だったのである。ざっと数えると、私は 3つの会社と、3つの団体に籍を置いたことがある。この間、ずっと厚生年金だったかというとそうではなく、途中に 2回、短期間だが国民年金に移行していた時期がある。

そして今は、自分で会社をやってはいるのだが、面倒なので年金は国民年金にしている。だから、学校を出てずっと定年まで一つの会社にいたなんて人と比べると、年金記録はけっこう複雑だ。ちゃんと記録されていて、やれやれである。

私の場合は、複雑な経緯にもかかわらず、なんとか間違いがなかったわけだが、だからといって、全面的に信頼していいかというと、そういうわけでもなかろうという気がする。だって、私は途中まで、年金手帳を 2冊持っていたのだ。

若い頃に転職した際に、新しい年金手帳を渡されたのである。私は転職したらその度に新しい年金手帳をもらうことになるのだと解釈して、不思議とも思わずにそのまま 2冊持っていた。

そして、その次に転職した際に、総務の女の子が 「年金手帳を提出してください」 というので、「はいよ」 と 2冊提出したら、「なんで、2冊も持ってるんですか?」 とびっくりされたのである。「前に会社変わったから」 と答えたら、「会社を変わるたびに年金手帳が増えてたら、わけわからなくなるでしょう!」 と、呆れられてしまった。

しかし、呆れる相手は、私ではなく社保庁である。私は発行された手帳を受け取っただけなのだから。1人の人間に、何の疑いもなく 2冊目の年金手帳を発行するという役所の管理のずさんさこそが問題なのだ。

そして、総務の女の子が 2冊の年金手帳を社保庁にもっていったら、あっさりと 1冊にまとめてくれたそうである。で、そのまとめた際に、前の手帳の記録がすっかり落っこちてしまっていたんじゃないかと、私は今日の日まで不安な気持ちだったのだ。

まあ、私の場合はちゃんと 1冊に 「まとめられていた」 ので、問題はないが、中には、年金手帳を 2冊もらって、1冊目の分がどこかに行ってしまって、35年払った年金の、半分しか記録されてないなんて人もいるかもしれないのである。

なんだか、サブプライム・ローンの債権がたらい回しされているうちに、にっちもさっちも行かなくなってしまったという米国の金融市場を思い出させるようなところがある。「いつかきっと、取り返しのつかないほどズタズタになる」 と、わかっている人はわかっていたはずなのだ。

破綻する前に定年になり、ちゃんと退職金もらって社保庁を退職した人は、胸をなで下ろしているかもしれない。でも、後輩に気の遠くなるような面倒を押しつけた 「ツケ」 は、形を変えて、どこかできっと払わなければならないぞ。

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2008年9月20日

間の悪い CM

iGoogleに Can Cell Phones Contribute to Male Infertility? というNews Week の記事が見つかった。「ケータイは男性機能の不毛化につながるか?」 というような意味である。

アクセスしてみると、Is That A Phone In Your Pocket? (それは、ポケットの中の電話のせいじゃないか?) という見出しの記事である。

小見出しは、"A new study finds that the radiation emitted by cell phones can lower sperm quality" (最新の研究によると、携帯電話から発する電磁波は、精子の質を低下させる可能性がある) という、ちょっとショッキングなものだ。

とはいえ、私がここで問題にしたいのは、このニュースの中身そのものではない。ウチには娘だけだが 3人も子どもがいるし、この歳になってこれ以上子作りしようなんていう気もないから、たとえこのニュースが深刻なものだったとしても、個人的には別に深刻にならずに済む。

私がこのニュースを取り上げたくなったのは、News Week のサイトでこのニュースを報じたページの右側にある 広告スペースのせいである。そこには、BlackBerry というスマートフォンの広告が表示されていたのである。ブラックベリーさん、気の毒に。これじゃ、逆宣伝になりかねない。

まあ、News Week はアクセスするたびに広告スペースに表示される商品が頻繁に変わってしまうから、再び BlackBerry の表示されるタイミングでアクセスするのは難しいかもしれない。そんなこともあろうかと、こちら に魚拓をとっておいたので、ご参照頂きたい。(魚拓はファイルサイズ縮小のため、モノトーンの GIF にて失礼)

私はあまりテレビを見ないのだが、それでも時々スポンサーが気の毒になるようなタイミングで CM が流れる時がある。その時は 「あぁ、気の毒ぅ!」 なんて思っても、すぐに忘れてしまうことが多いのだが、今でも強烈に印象に残っているのがある。

それは、赤道直下のジャングルにすむチンパンジーの生態を映した、ちょっとショッキングな映像だった。チンパンジーは案外凶暴なところがあって、樹上生活しながら自分より小さな猿を捕まえては、いきなり腕や脚を引きちぎってむしゃむしゃ食ってしまうのである。

遠景とはいえ、そんな場面を見るだけでもちょっと気持ち悪いのに、その直後に流れたのがケン○○キー・フライド・チキンの CM だった。幸せそうな家族がニコニコしながらバスケットの中からフライドチキンをつまみ、引きちぎっておいしそうに食らいつくのである。

さすがの私も、あれを見てから 2~3日は、フライドチキンを食う気になれなかった。ケン○○キーには恐縮だが。

この他にも、バラバラ殺人事件のニュースが流れた直後に、刃物研ぎの CM になって、研ぎ終わった刃物で骨付きの鶏肉をドン!と切る場面が流れたという報告が、Yahoo 知恵袋に見つかった (参照)。

その紹介のすぐ下に、「子供に勉強勉強と言ってはいけない」 と言う特集の後に、島田紳助の中央出版の CM があったという報告もある。

どんないいものでも、間が悪いと逆効果になる。世の中、タイミングというのはなかなか大切なのである。

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2008年9月19日

"winmail.dat" の一番簡単な開き方

時々 "winmail.dat" という名前の添付ファイルのついたメールを受け取ることがないだろうか? これは発信者が、Outlook 2003 または 2007 をメーラーとして使っている場合に発生するらしい。

Outlook 同士だと問題なく開けるが、他のメールソフトだと開けないようなのである。

その間の事情は、MS のサイトの こちら のページにくどくどと書いてある。あまりにもくどくどと書いてあるので、慣れない人はさっぱりわからないことだろう。

よく読んでみると、Outlook 以外のメーラーを使っている人に添付ファイルを送る場合は、送信者側で設定をし直さなければならないようなのだ。だから MS にはむかつくのである。わざわざ方言をデフォルトにして、標準語を話そうとすると、面倒な設定を要求する

一番簡単な解決法は、世界中の人間が Outlook をメーラーとして使うことなんだろう。MS としては、そうしてもらいたいんだと思う。そのために、わざわざ Outlook でしか処理できない方言でメールを送付しているんだろう。

しかし、使ってみるとわかるが Outlook というのは重い。重い上に、メールの送受信以外にもいろいろと余計な機能が付いているので、うっとうしい。というわけで、実際に Outlook をメールソフトとして使っている人なんて、ごく少数派だと思う。

見たところ、一番多いのは Outlook Express を使っている人だ。しかし、以前にも書いたように(参照)、このソフトは問題ありすぎだ。私は、到底ビジネスに使える代物ではないと思っている。というわけで、私は Thunderbird を使っている。しかし、これでは例の "winmail.dat" を開けないという問題は残る。

Outlook 以外のメーラーを使いつつ、"winmail.dat" を開きたい場合は、それなりの専用ソフトが開発されているので、それを使えば何とかなる。一番手頃そうなのは、Winmail Opener というソフトだ。フリーソフトなので、インストールしておいてもいいだろう。

自分の PC にあまりいろいろなソフトをインストールしたくないという人には、ちょっとした裏技がある。Google の Gmail か Yahoo! メールのアカウントを持っていたら、そこに転送してしまうのだ。これらのウェブ・メールで受信すると、あ~ら不思議、あれほど扱いに困っていた "winmail.dat" が、雑作もなく開かれてしまっているのである。

私は Gmail のアカウントをもつ意味のひとつは、 "winmail.dat" を読むことにあると思っているぐらいのものである。

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2008年9月18日

やっぱり「人ごと」のリーマンブラザーズ

サブプライム問題から広がったとされる米国の金融不安の、世界経済への影響はものすごく大きいというのだが、それでも私は、人ごとみたいにのほほんとしている。

米国経済がこんな風になるのは、はっきり言って何年も前から見え見えだったじゃないかとも思うのである。

米国の銀行システムというのは、思いの外にいい加減なものらしい。米国人というのは「小切手」というシステムを当たり前のように使う。企業だけじゃなく、個人でもパーソナルチェックというものを、軽い気持ちで使う。

で、その小切手が不渡りになってしまうケースが、しょっちゅう発生するのだそうだ。英語では "bounced check" (跳ね返っちゃう小切手) というのだが、本当に、一度入金された小切手の支払いが、「やっぱり先方が残高不足でした」というわけで、また引き落とされちゃったりするので、「跳ね返っちゃう」というわけなのだ。

これって、一体どういうことなのかと思っていたら、こういう 事情なのだそうだ。リンク先に行って読んでみると、フツーの日本人はあきれてしまうと思う。米国の金融社会というのは、この程度のテキトーなコンセプトで動いているのである。

で、あまりにも小切手制度の信用が低すぎるので、保証サービスみたいなビジネスが存在する。ファクタリング会社なんていうのがあって、日本でいえば手形割引みたいなことをしているのだが、それがものすごく当たり前に機能している。

手形なら 90日だの、下手すると 120日だのというのがあって、到底待ちきれないから、割引も仕方ないかもしれないが、小切手なんて、翌日にでも銀行に持って行けばいいはずなのに、それがファクタリングをかませなければいけないほどに、信用がないのである。考えるだに恐ろしい。

問題のサブプライムローン問題にしても、根っ子の部分にこうした「チョーいい加減」なコンセプトがあるから、こんなにも傷が深くなったとしか思われない。信用の低いものを証券化して、次から次に渡していくから、必ずどこかでババつかみをするやつが出てくる。わかりきった話である。そしてババが一度出たら、それが連鎖して次々に顕在化する。

「金が金を生む」なんて言っても、実体なんかないのだから、どこかで「今まで生んだ分をまとめて払わされる」ことになるのだ。

まあ、リーマンブラザーズなんて、億万長者か機関投資家しか相手にしていないから、今のところは、青くなっているのは大金持ちだけである。廻りのオッサンたちに、「あんた、リーマンブラザーズと取引があったの?」なんて聞いても、そんな人、いるはずない。

一般庶民にも影響が大きい AIG はとりあえず救済されるらしいし、まあ、どこまで行っても、私には 「人ごと」 である。

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2008年9月17日

バーチャルなデスクトップはきれいなのに

実は自宅の仕事部屋で使っているデスクトップ PC のハードディスクがいかれてしまって、修理に出していたのが 15日に仕上がった。

で、再セッティングするにあたって、縄のれんのようになって「わけわからん状態」の電源コードやケーブルと、ついでに机の上の書類の山の整理をしたのである。

これが思いの外に難作業で、夜の 10時過ぎまでかかってようやく終わった。電源コードも大整理をして、雷が鳴り出したら電源コードを 2本抜けば、そこから枝分かれする PC 関係の安全がすべて確保されるようにした。

私の場合、元々 PC 画面のバーチャルな方のデスクトップはものすごくすっきりしていて、ハードディスクの中身も人に自慢できるほどすっきり整理されているのだが、現実のデスクトップ(机の上)は、恥ずかしいほどごちゃごちゃだったのだ。

まことにもって、形と重さのある現実のファイルや書類、ケーブルやコードの整理というのは、 PC の中のディジタルな符号と違って、ものすごく時間がかかる。

PC の中のファイルを捨てるには、ゴミ箱にドラッグ・アンド・ドロップすればいいだけなのに、本物の不要書類は、重ねて紐で十字にしばらなければならない。それで済まないものは、我がオフィスの貧弱なシュレッダーに 2~3枚ずつ入れてやって裁断する。やれやれだ。

それに本棚や書類棚に一見きれいに整理されているものも、実はやっかいなのである。眼をつむっても取り出せるような特等席に鎮座ましましている書類や本は、考えてみれば、この 2~3年、触ってもみなかったような年代物だ。つまりそのほとんどは、「もはや必要なくなったモノ」 なのである。

資料を作成した、あるいは入手した当時は貴重なものだったのだが、このドッグイヤーの世の中では、翌年になれば使い物にならないお古と化してしまうのだ。ああ、あんなに苦労して作ったり手に入れたりしたのに。

一方、近頃頻繁に使う書類や資料などは、机の上のうず高い堆積の中のどこかにある。探し出すのに手間がかかるうえに、下手すると地滑りを起こしかねない。ああ、バーチャルなものや脳内コンセプトの整理ならお手のものなのに、実際に形と重さのあるものの整理はダメダメな私。

こうしたものの整理を終えて、夜中近くになってほっとしてコーヒーを飲むと、なんだかまったく新しい環境に引っ越したような気分にさえなった。これで仕事の効率が上がればいいのだが。

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2008年9月16日

ウルグアイの金融危機だって?

私はそっち方面にはうといので、冗談じゃなく、マジで「リーマンブラザーズ」というのは、サラリーマン兄弟という意味のお笑いコンビだ思っていた。もっとずっと若い頃の話だけど。

で、米国では日本のバブル崩壊のときのような「公的資金導入」なんてことはせず、結構なハードランディングをするわけだ。

「潰れるなら、勝手に潰れろ」ということのようなのである。かなり突き放した対応だ。リーマンブラザーズとしては、日本のような救済策を少しは期待していたのかもしれないが、甘くはなかったようなのである。

うちは朝、テレビではなくラジオでニュースを聞く習慣なのだが、NHK の解説委員が「ウルグァイの金融危機が世界恐慌につながるリスク」という解説をしていた。私は 「ほほう、ウルグァイの金融危機がそんなに世界に影響するのか」と驚いて聞いていたが、いくらなんでもなんだかおかしい。

話の中身は、リーマンブラザーズだのメリルリンチだのと言っている。そのあたりから察すると、どうやら「ウルグアイ」の話ではなく「ウォール街」の話のようなのであった。それにしても、この解説委員、口跡悪すぎ。どう聞いても「ウルグアイ」にしか聞こえない。

テレビだと字幕が出るが、ラジオはその点、きちんと想像力を働かせないとまともな情報を受け取れなかったりする。

個人的には、どうせ金融取引なんかしていないので、経済が上向こうが下落しようが、一喜一憂するほどの影響はない。だから、はっきり言って人ごとである。

サブプライムローン問題に端を発した今回の騒動が、「金が金を生む」だけではなく、「金が金を消す」こともあるのだということに、人々が気付くきっかけになれば、それなりの意義はあるのだと思っている。

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2008年9月15日

画像ファイル救出に成功

一昨日から一泊で富山県の黒部市と魚津市に出張してきて、大変旨い魚をたらふく食べて満足したのだった。

しかし、これは和歌ログにも書いた(参照)のだが、ちょっとしたトラブルがあった。魚津で気合いを入れて撮りまくったデジカメの画像が、ごっそりと消えてしまったのである。

魚津には埋没林博物館というところがある。2,000年前の温暖化による海水面上昇によって水面下に没した杉の原生林の樹根が、昭和 27年に発見され、一部そのままの状態で保存されている。

発見された状態のままでその上に建物を造り、一部をプールにして保存してあったりする。なかなか神秘的なもので、私は感動してしまい、何枚も写真を撮った。

埋没林博物館のあるあたりの海岸は美しい海岸で、蜃気楼の名所でもある。季節柄蜃気楼は見えなかったが、それでもなんとなく水平線がもやもやして見えて、時々白い光の帯が走る。あの光の帯がずっと消えないような条件が整うと、蜃気楼になるんだろうという気がする。

その海もしっかりと写真に納めた。ところが帰りの特急でパソコンに移そうとしたら、そのあたりの画像がごっそりと消えていたのである。これはちょっとしたショックだった。

似たようなことは、先々月の信州に出張したときにもあった。帰り際にちょっと時間があったので、松本城に寄り、バシバシ撮りまくった写真が消えてしまっていたのである。誠に残念なことだった。

で、今回は諦めきれず、データ復元ソフトを買ってきて、何としても復元させてみようと試みたのである。その名も「完全復元」という名のソフトをインストールして、デジカメを接続した G ドライブをスキャンする。

するとまあ、出てくるわ出てくるわ、ずっと前に消去した画像までどんどん拾われる。ほんの数十枚復元させたいだけなのに、1800枚近い画像が復元され、自動的にハードディスクに保存されてしまった。

「一体、なんでこんな画像が残ってたんだ?」と不思議に思うような古い画像までしっかり復元されている。しかし、どうせ一度は意識的に消した画像である、せっかく生き返ってもらったところを恐縮だが、再びどんどん消しまくる。

最後の最後のあたりで、最近撮って最近消した覚えのある画像がちょこちょこと現われる。「おぉ、もうすぐだ!」 と思い切りスクロールすると、なんとうれしいことに、消えたとばかり思っていた画像が、半分以上しっかりと復元されていた。

どうして画像が消えてしまったのか、状況を思い出してみると、松本城のときと共通しているのは、どんどん数を撮りまくり、途中で再生してみて、気に入らない画像をどんどん消去していたのである。つまり、撮影と消去を頻繁に繰り返していた。

これをやると、もしかしたら、消したくない画像まで消えてしまうなんてことが起こるのかもしれない。これからは用心のため、途中でちょこちょこ消去するというのは控えようと思う。あとでまとめてやればいい。

で、一番気に入った写真を、今日付の和歌ログにアップしておいたので、よかったらご覧いただきたい。(参照

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2008年9月14日

「あなたとは違うんです」 という発想の仕方

富山県の黒部市に出張し、昨夜は魚津市のホテルに泊まった。魚好きの私であるからして、昨日の昼から今日の昼まで、4食おいしい魚を食べまくり、非常に満足である。

ただ、睡眠と情報不足のため、今日の記事のネタに苦労して、帰りの新幹線でネットを検索していたら、興味深い記事が見つかった。

"[間歇日記]世界Aの始末書" というブログの " href="http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2008/09/post-28e4.html">「あなたとはちがうんです」って、どう英訳します?" という記事である。管理人の冬樹蛉さんが、福田首相の「あなたとはちがうんです」という捨てぜりふが、外国のメディアでどんな翻訳で紹介されているかを調べてくれている。彼が挙げている例を引用しよう。

I can see myself objectively, as opposed to you. (telegraph.co.uk

I can see myself through an objective perspective. I am different from you. (Asia Times Online

I am able to view myself objectively and that is my strength. (Business Week

I am able to look at myself in an objective manner. I am different from you in that respect.  (Asian Gazette

I can see myself objectively. I'm not like you. (Reuters > Yahoo! News

ご覧のように、「あなたとは違うんです」を、アジア系の 2紙は "I am defferent from you" と、和英辞書的直訳で済ませていて、欧米系 3紙はそれぞれ別の言い方に訳しているのがおもしろい。これについて、冬樹蛉さんは次のように分析しておられる。

欧米的な indivisualism が無意識にでもベースにあると、AさんとBさんとが different であるのはあたりまえのことであって、different では「おれはおまえより上等な人間なのだ」という倣岸なニュアンスが出ない。しかし、英語を外国語として学習したアジア人が読むと、たしかに福田さんの言いたいことは different でわからんでもない。

なるほど、言えてる。英語が話される社会における基本的なコンセプトからすれば、 "I am defferent from you" という英文は、「当たり前すぎて言うまでもないこと」で、それをもっともらしく言ってしまっては、「それがどうした?」になってしまう。

ちなみに 私自身が試しに英訳しようと試みた際にも、お陰様で "defferent" という単語は発想に浮かばなかった。「私はあなたと違う」という日本語はあり得るが、それを英語に直訳したら、まともに落ち着かなくて、ちょっと気持ち悪い。

まあ、Asian Gazette の翻訳は、"in that respect" (「そうした点では」 って感じかな)が付いているだけ違和感が和らげられているから、いいんだけど。

私としては、"I always see myself objectively. Can you do that?" というような英語になるんじゃないかと思ったのである。直訳すると、「私はいつも自分自身を客観視するんです。あなたはそれができますか?」ということになる。言外に「できないでしょ?」というニュアンスを含む。

冬樹蛉さんは、ロイターの翻訳について、「“I'm not like you” というのは、じつにうまい」と評価しておられる。なるほど、確かにキレがいい。元の日本語のニュアンスに最も近いだろうと思う。

件の捨てぜりふの翻訳に "different" という単語を使うか使わないかというのは、とりもなおさず、「みんな同じさ」というアジア的発想と、「1人ずつ違って当然」という欧米的発想のギャップと言っていいだろう。

英語を学ぶ意義として最も大切なのは、この両方の発想を、身体的なレベルで理解できるようになることだと思うのである。

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2008年9月13日

農水省のやり口は、一大スキャンダルだ

例の「事故米」の件で、昨日付のエントリーの「追記」として夕方頃に書いたことなのだけれど、早いうちにアクセスされた方は読んでないと思うので、改めて今日付で書く。

農水省の「工業用糊や、木材の合板や集成材の接着剤の原料使用に限り販売を許可」という言い訳がでたらめなのである。

私はニュースで農水省のこの言いぐさを聞いた時から、「馬鹿言うんじゃないよ。今どき、コメから工業用糊を作ってるとこなんて、ないだろうよ」と言っていた。糊に関してはまったくの素人の私でも、農水省の言いぐさが浮世離れしているのは、フツーの常識でわかる。

そして、昨日付の J-Cast ニュースの記事で、私の直感が正しかったことが裏付けられた。日本では米を原料にして工業用糊を製造している会社なんて、少なくとも大手としてはなかったのである(参照)。

つまり、ありもしない、あるいは控えめに言っても、無視できるほどでしかない「工業用糊需要」なんてものを前提に、農水省はその奇怪千万な流通を黙認していたのである。実は工業用途以外のところで、つまり、とりもなおさず食品業界で流通するしかないだろうというのは、ちょっと考えればわかったはずではないか。

素人の私にさえ、すぐにバレバレだった程度のことを、中央官庁の役人が知らなかったとは言わせない。もし本当に知らなかったのだとしたら、国の行政を任せるには無能すぎたということである。

さらに問題なのは、ガットの関税化で米輸入を押しつけられたために、(多分)農家の不満を逸らすための抜け道として、使い道のない「事故米」を輸入し、「まぼろしの需要」を隠れ蓑に、市場に流通させていたのは、他ならぬ農水省自身だったということである。

農水省としては需要のない「事故米」を輸入したものの、そんなもの、いつまでも倉庫に眠らせておくわけにもいかず、テキトーな理由を付けて、早いところ民間に払い下げてしまいたかっただけなのだろう。それが、インチキ米商社の利害と一致した。これって、どうみても一大スキャンダルである。

おかしいのは、この「幻の需要」問題をまともにニュースとして取り扱っているのが、J-Cast ニュースのサイトしかないということだ。他の大手メディアは、大田農水相のいつもながらのノー天気発言を大々的に取り扱っているが、肝心の問題には口をつぐんでいる。

この際、本当に問題にすべきなのは、大臣のどうでもいい発言なんかではなく、農水省が「売ってから先のことは、知らん」とばかりに、工業用以外にしか流れようのないことを(多分、いや、確実に)知りながら、危険な事故米を市場に垂れ流ししたことである。

大手メディアが口をつぐんでしまうような、結構ヤバイ問題であろうと、これは草の根レベルで、一大スキャンダルとして取り上げるべきだろうと思う。農水省のどっかの課長が首を吊って済まそうなんて、さらに馬鹿な考えをおこさないよう願いつつ。

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2008年9月12日

芋焼酎はあんまり好きじゃないけど

まったくもう、毒入り餃子の中国に文句言えないじゃないか。三笠フーズの事故米転売騒動を見ていると、本当にそう思ってしまう。

お米の業界というのは、かなりいい加減なんだろうなあとは、昔から薄々感じてはいた。「混米」とかいって、新米に古々米を混ぜて売るなんて、日常茶飯事だと言うし。

そもそも「魚沼産コシヒカリ」と称する米が、あちらにもあるこちらにもあるという状況がおかしいのである。多分、袋の中に魚沼産が少しでも入っていれば、そう表示しちゃうんだろう。米と鰻の産地表示は、悪いけど私は元々信用していない。

魚市場とか野菜市場とか、単純な流通経路しか通っていない場合は、まだ偽装しにくい(「決してできない」というわけじゃない)だろうが、なんとか商事とか、かんとかフーズとか、途中にいろいろな商社や問屋が入ったりすると、わけがわからなくなる。はっきり言って、偽装し放題だろう。

そういう意味で、米と輸入食材に関しては、すべてしっかりとまともな表示がされているとは、到底思えないのである。スーパーの店頭に並んでいるウナギの蒲焼きが、「国産ウナギ使用」ばっかりというのも、うさんくさすぎるし。

それにしても、芋焼酎に米を使うなんていうことは、このニュースのおかげで初めて知った。主原料はイモでも、麹は米麹を使うのが主流なんだそうだ。すべてをイモだけで作る技術というのは、最近になって開発されたため、極めて少ないらしい。

ということは、ぶっちゃけた話、麹に使っただけなら健康被害はそれほど大きくはないだろうが、だからといって、明るみに出てしまった以上はそのまま流通させておくわけにもいかないので、メーカーの被害は甚大だろう。気の毒な話である。

それよりも気の毒なのは、これまでばれないで食品業界に流通していた事故米でできた製品を、知らずに飲んだり食ったりさせられていた消費者である。まったくもう、我々は何を食わされてるか、わかったもんじゃないようなのである。

私は芋焼酎はあの独特の臭いがあんまり好きじゃないので、ほとんど飲んだことがない。ああ、芋焼酎ファンでなくてよかった。しかし、芋焼酎以外でもいろいろな食品に、事故米が混入していないという保証はない。知らないうちに口に入っちゃってるかもしれない。くわばらくわばら。

ここまで流通と消費者の信頼関係が崩れてしまうというのは、不幸なことである。

【追記】

農水省と消費者との信頼関係もおかしくなってきた(というか、前からおかしいけど)。

当初の報道では、"農水省は「事故米」を、工業用糊や、木材の合板や集成材の接着剤の原料使用に限り販売を許可している" とされていたが、私はそれを聞いて、「今どき、米で工業用糊作ってるとこなんか、ないだろうよ」と言っていたのである。

そんなこと、フツーに考えれば「そんな需要なんてあるわけないじゃん」というのは、容易に推定される。

そして、J-Cast ニュースの調べで、やっぱり日本では米を原料にして工業用糊を製造している会社なんてないということがわかった(参照)。ということは、農水省は、素人が考えてもバレバレの「ありもしない需要」を隠れ蓑にして、流通を黙認していたことになる。

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2008年9月11日

女心/男心と秋の天気/天気予報

「女心と秋の空」とも「男心と秋の空」とも言うが、近頃、天気そのものは安定してきているのに、天気予報の方がコロコロ変わってしまって、戸惑っている。

今時の天気は予報しにくいのだろうが、「女心(もしくは、男心)と秋の天気予報」と言い換える方がよかったりして。

一昨日までは、関東の天気は週末まで安定しているとの予報だった。ところが、昨日になったら急に「南海上の熱帯低気圧が関東に接近するので、11日の午後からは雨になる」という予報に変わった。

ところが今朝の天気予報では、熱帯低気圧が関東から離れたところを通過するので、雨は降らない」ということになっていた。「なんだか、天気予報がコロコロ変わるなあ」なんて言いながらも、8月後半からの豪雨と雷にはうんざりしていたので、ほっとしていたのである。

ところが、しばらくしてからお天気キャスターのおねえさんが、「千葉や茨城の関東沿岸では、わずかに雲がかかるかもしれない」と、微修正コメントを言い出した。「気象庁発表では、今日は晴れということですが、もしかしたら、沿岸では少しぱらつくかもしれませんので、用心してください」と言うのである。

天気予報というのは、気象庁発表の基礎的な予報に、気象予報士の判断でちょっとした微修正を加えてアナウンスすることもあるようなのだ。まあ、しかるべしと言っておこう。

とはいえ、ただでさえコロコロ変わるのに、またまたいろんなことを言われると、さらに混乱してしまいかねない。「沿岸からはちょっと離れてるんだけど、夕方まで洗濯物干しといて大丈夫なのか?」なんていう判断は、素人にはむずかしい。玄人でも外れてしまうんだし。

実は週末に仕事で富山県に行く。沖縄の向こうに台風 13号が近づいているのが気がかりだったが、ずいぶん動きが遅くて、週末には中国本土の方に向かうようだ。しかしこれとて、急に進路が変わってしまわないとも限らない。

季節の変わり目というのは、天気予報がとても難しいらしい。そういえば春先と夏の終わりから秋にかけてというのは、「晴れときどき曇り、ところによって一時雨」 みたいな、玉虫色の予報が多い。

とかなんとか書きながら、昼の 12時半過ぎにふと窓の外を見ると、かなりまともな雨が降っている。いやはや、本当に今の季節の天気予報は難しいもののようだ。気象予報士もなかなか大変である。

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2008年9月10日

AC の CM についてなんだけど

今日の記事は、「揚げ足取り」 に近いものである。しかし、私の感覚としては、書かずに済ますのは気持ち悪いので、書いてしまう。

それは AC(公共広告機構)のラジオ CM である。AC は近頃、環境キャンペーンに力を入れているようで、別にそれをどうこういうわけじゃない。ただ、言葉の使い方の問題である。

近頃、車を運転して帰宅する頃、よくこのラジオ CM を聞く。そして、聞く度に「この CM 、おかしいぞ」と思ってしまう。CM の趣旨はいいんだけど、聞く度にその論理の流れが気持ち悪いので、せっかくの趣旨が飛んでしまいそうだ。

それはこんな CM である。

(「ドサッ、ガチャガチャ」 という音)

なんの音か、わかりますか?
今あなたが想像したものは、ごみの音ではありません。
資源です。
なくなるといいな、「ごみ」という言葉。
3R 推進団体連絡会
♪ AC~

冒頭の「ドサッ、ガチャガチャ」という音だが、初めて聞いた人の多くは、まずなんの音だかさっぱりわからないだろう。だからその直後に、「なんの音か、わかりますか?」なんて言われても、「わかりません」というほかない。

強いて想像しろと言われたら、私だったら、夫婦げんかで茶碗が飛び交う場面や、地震で棚から食器が落ちる場面を思い浮かべる。ゴミを投棄するときの音だなんて、すぐにわかる人はごく少数だろう。

で、いきなり「今あなたが想像したものは、ごみの音ではありません」とたたみ込まれる。そんなことを急に言われても、「いや、別になにも想像できてないから」と反応するほかない。いや、もっと言えば「お前、どうして俺の想像をのぞいてるつもりになってるんだ?」という反応の方が正解かもしれない。

それに、この部分の言葉遣いが、論理的におかしい。ラジオを聞いている者が、たとえごみを投棄する場面を思い浮かべたとしても、それは 「ごみ(とフツーには思われるもの)の"音"」を「想像した」わけじゃない。想像したのは「音」ではなくて、「場面」のはずである。

「ごみ(とフツーには思われるもの)の"音"」 そのものは、「想像」なんてするまでもなく、まさに聞かされたばかりなのである。冒頭にそれを聞かせたのは、AC、お前自身じゃないかと言いたくもなるではないか。

だから、この CM を聞いて「ごみ(とフツーには思われるもの)の"音"」を「想像した」人なんて、一人もいないのである。繰り返すが、ほとんどはごみ(とフツーには思われるもの)の音とは知らずにではあるが、「想像した」のではなく、「聞かされた」のである。

「ごみ(とフツーには思われるもの)の"音"」を「想像する」としたら、それは、音以外の情報からでなければならない。「音」を聞かせておいて、言外に "「音」を想像しちゃったでしょ" みたいな、論理的不整合を押しつけがましく言われ、さらに「~ではありません」なんて、勝手に否定されたら、気持ち悪くなるばかりである。

だから、この流れをきちんと論理的に言うとしたら、

「今あなたが想像したものは、ごみの音ではありません」  ではなく、、

「今お聞かせしたのは、ごみの音ではありません」

あるいは、

「ごみの音だと思われたかもしれませんが、実は、それはごみではありません」

のような流れにならなければならないだろう。その上で、「これまでごみと思われていたものは、実は『資源』なのである」というようなことを続ければいい。

AC の CM って、ほとんどはなかなかいいんだけれど、ときどき、上滑りしちゃってるのがある。ミッションの崇高さに、作り手が酔いすぎてるのかもしれない。

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2008年9月 9日

ギターを弾ける人の数

ちょっと前の話だが、地域のボランティア活動で、子どもたちの集いをしている人に、「みんなで歌う歌のギター伴奏をしてもらいたい」と依頼された。

こちらも暇な身ではないので断りたかったが、是非頼むという。それにしても、私がギターを弾くことをどうして知ったんだろう?

初めは「こんなオッサンでなくても、今どきギターの上手な若い人ぐらい、近所にいくらでもいるでしょう」と言ったのだが、なんと、近所では見つからなかったのだそうだ。まあ、「見つからなかった」ということが即ち「存在しない」ということとイコールではないのだろうが、それでもちょっと信じられない思いがした。

私は「ギターぐらい、誰だって弾けるだろう」と思っていたのだが、世の中ではそれはまだ特殊技術のようなのだ。

試しに楽器演奏人口という視点でググってみたら、「総務省統計によると、20歳以上の楽器を演奏する人は約 400万人」といった記述があちらこちらで見つかった。オリジナルの総務省統計は見つからなかったので、半信半疑だが、まあとりあえずこれをベースの数字としてみよう。

一方で、マイコミジャーナルがヤマハを取材した記事では、次のように記述されている。(参照

同社によれば、音楽演奏人口は子供も入れると約700万人で、人口比でいうと6%程度しかいないが、楽器をやりたい人は6~7割いるといわれており、「強い潜在マーケット」(同社)と見られている。

子どもを入れると、一気に 300万人も増えるというのが驚きだが、まあ、学校教育とか「お稽古ごと」などを勘定に入れれば、それに近い数字になるのかもしれないと、一応納得しておこう。

で、その同じヤマハだが、別のトピックの文脈では「ヤマハの調べでは、国内のギター演奏人口は 650万人となっており ……」(参照) ということになっている。人口比率だと、5.4%である。ということは、ほぼ 18~19人に 1人はギターが弾けるということだ。

「ふ~ん、まあ、そんなところなのかなあ」とも思ったが、よく考えるとそれもちょっと怪しい。国内の楽器演奏人口が 700万人で、ギター演奏人口が 650万人だったら、楽器を弾ける人のうち、ほぼ 93%がギターを、あるいはギターも弾ける人ということになってしまう。

いくらなんでも、それはおかしい。身近にも、「ピアノは弾けるけど、ギターは弾けない」という人がいくらでもいるし。となると、この 700万人とか 650万人とかいう数字も、ちょっと「主催者発表」じみたものかもしれない。やっぱり、ギターを弾ける人間というのは、20人に 1人はいないのかもしれないなあ。

というわけで、実際に子どもの歌の伴奏をしてあげた時は、付き添いのお母さんたちに「やっぱり生伴奏はいいわねえ!」なんて、精一杯のお世辞を言われたが、こちらとしては、昔と比べると腕が落ちたことに、かなりのショックを感じたのであった。

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2008年9月 8日

体力勝負

「夏風邪を引いた」 という話をあちこちで聞く。ブログでも、そんなような話題がちらほら見られる。もしかしたら、私も夏風邪を引きかけてるのかなあ。

なんとなくかったるい。ちょっと喉がいがらっぽい気がする。頭痛というほどじゃないが、すっきりと気が晴れない。

私はあまり病気をしない方である。寝込むなんてこともほとんどない。毎日ブログを 2つ更新して 5年近く ("Today's Crack" だけなら、6年以上) なるのが、健康の証拠である。寝込んでしまったら、写真入りの 和歌ログ まで毎日更新するなんて芸当はできない。

自分のブログの中身を探してみると、昨年 8月 1日のエントリーに、「本当に久しぶりで本格的な風邪をひいて、まだすっかり治っているというわけじゃない」なんて記述がある(参照)。しかし、同時期の和歌ログで確認すると、前々日には名古屋に日帰り出張している (参照) し、その前の日は、町内会の一斉草刈りで大汗を流している (参照)。

こんなんで、一体どうして「本格的な風邪」なんて言えるんだ? なんて、自分でも面はゆい気がしてしまう。まあ、本格的な風邪を引いても、大汗かいて草刈りをしたり、台風の洪水の中を名古屋まで日帰り出張できるほどの体力があることに、感謝しなければならないだろう。

小学校の 5年生頃までは虚弱体質で、しょっちゅう下痢をし、運動会ではいつもビリから 2番目だった (もっと遅いのが、一人だけいた) なんて言っても、今となっては信じてくれる人がいない。古い友人が、「そういえば、お前、小さい頃はヒョロヒョロだったよなあ」なんて思い出してくれるぐらいのものである。

で、昨年の夏は、本格的な風邪を引いてもなお体力勝負でいけたのだが、今年は、「風邪を引きかけているのかなあ」程度で、ちょっとしんどい気がしてしまっている。たった 1年足らずで急に老け込んだというわけでもないだろうから、これはちょっと、疲れが溜まっているんだろうと思う。

思えば、春頃からほとんど休日なしで、まともに休めたのは、お盆過ぎの 8月 17日の日曜日ぐらいのものだ。それにしても、お盆の強行軍の疲れを取りきれないうちに、8月後半の大雨と雷の日々に突入してしまったのである。

なんとか何もしないで休める日を確保したいものだと思っていたが、15日の敬老の日に、ようやく一日休めそうだ。べつに老人になったわけじゃないが、この日でないと休みが取れそうにないのである。

13日の土曜日に福井県に出張の予定があって、一泊して翌日に帰ってくることになっている。当初はもう一泊して黒部峡谷を見物してこようかと思っていたのだが、さすがに世間は三連休である。15日の帰りの切符が取れなかった (13日の行きの切符も、自由席なのだが)。

それで、泣く泣く連休中日の 14日に帰ってくることにしたのだが、今となっては、そのおかげで 15日はゆっくり休めそうだ。天の配剤と思うことにしよう。ありがたい、ありがたい。

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2008年9月 7日

日本の道路の制限速度って遅すぎない?

発表されたのは昨年の 11月だが、内容的には決して古くなっていない記事を見つけた。「道路の制限速度は 誰がどうやって決める?」というものである。

「環七は制限速度 40km/h!」という副タイトルまで付いていて、「確かに、ちょっとねえ」と思わせられる。

ちなみに、「環七」というのは、首都圏在住の方にはお馴染みだろうが、そうでない読者のために一応説明しておくと、本来の名称は「東京都道318号環状七号線」というもので、東京 23区内の一番外側をぐるっと回っている。なかなか利用しがいのあるルートである。

この環七の制限速度が、40km/h なんだそうだ。へぇ、そうだったのか、知らなかった。

はっきり言って、環七は昼間はいつも渋滞していて、物理的に 40km/h 出せないということも多い。それに、どうやら信号の設定自体が 40km/h に合わせてあるようで、それ以上の速度を出しても、信号のたびに頻繁に停められてしまうようになっている区間も多い。

それでも空いてくると、大抵の車は 60km/h とか、それ以上のスピードを出していて、うまくタイミングが合うと、先の信号でも止まらずに済んで、どんどん先に行くことができる。

ということは、環七があんなに渋滞するのは、常識的なスピードで走ると、信号のたびに停められてばっかりだからということもできそうな気がする。件の記事を書かれた星野陽平氏は、ちょっとおとなしめに以下のように結んでいる。

明らかに制限速度が遅すぎると感じることが多い日本の道路事情ですが、騒音や公害などにも配慮しなければならないし、環七の40km/hもしかたないのかもしれません。

しかし、星野さんほどおとなしくない私は、「しかたないのかもしれません」とは思えない。むしろ環七の制限速度が 60km/h ぐらいで、信号がそれにうまく同期してくれれば、あんなに混まなくても済むんじゃなかろうかと思う。

制限速度をそんなに低く抑えなくても、どうせ渋滞すれば 40km/h 以上出せないんだし、スムーズに走行できる条件下ならば、60km/h は出させてもらう方が、ずっと効率がいい。信号のたびに停められて、青信号に変わるたびにアクセルをふかして加速するということになると、かえって騒音はひどくなるし、CO2 排出も増えるし、燃費も悪くなる。

ちなみに、件の記事の参考として添えられた 「各国の制限速度事情」 という表は、かなりおもしろいので、ここにも転載させていただこう。

日本の一般道の(高速道もだけれど)制限速度って、ずいぶん遅すぎるみたいな気がするのだ。

それに、フツーは制限速度の 10キロぐらいオーバーして走らないと、後ろからあおられてかえって危なくて、ただし「目に余ると捕まる」という恣意的運用も、ちょっとなあという気がするし。

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2008年9月 6日

茨城空港がらみでいろいろあるようだ

このほど茨城県議会が議会の撮影などに関する傍聴規則を改正して規制を強化したのだが、その発端は、県議会を傍聴した男性が自分のブログで県議の「居眠り写真」を掲載したことなんだそうだ。(参照

茨城県在住の私としては、「はぁ?」という感じで、ことがよく飲み込めないのである。

よく飲み込めないのは、この問題が「茨城空港」とやらに関連しているためということもある。なんだか知らないが、今、自衛隊の百里基地に新たな滑走路を造って、民間供用するプランが進行中で、その「居眠り写真」は、その茨城空港関連の質疑の最中に撮られたものなんだそうだ。

となると、その「居眠り写真」をブログに載っけた男性というのは、さぞかし茨城空港計画に批判的な人なんだろうと思い、そのブログ(参照)にたどり着いてみたら、むしろ原則的には茨城空港賛成の立場で書かれてるとしか見えないブログだったので、ますますわからなくなった。

このプロジェクト、ほじくってみると、まあまあ本当にいろいろあるようで、ありすぎて書ききれないほどなのだ。だから、ややこしいごちゃごちゃについては、ここでは敢えて触れない。

とにかく大分前から「茨城空港建設計画」というものがあるらしいということは知っていた。そんなもの、どうせぽしゃるに決まってると思っていたのだが、なんと、2010年 (ということは再来年じゃないか) 3月に開港予定(参照)と知って、仰天してしまった。

この分だと、ますますハエ取りリボンの需要が増えそうなのである (参照)。

私自身、飛行機は出張などで年に数回利用する。そのときには、国内出張ならば羽田空港に行く。決して近くはないが、絶望的に遠いというわけでもないので、それほど不便は感じていない。

茨城空港なるものができたら、そりゃ抜群に近くなる。それに駐車場は何日停めといても無料だと宣伝されているから、その点でも便利である。しかしトータルな視点からしても便利かといえば、それは疑問だ。

どこに行くにも、一日にせいぜい 2~3便しかないとなったら、考え物だ。空港までは近くて便利だが、都合のいい時間帯に目的地に到着する便がなければ、行った先で中途半端な時間つぶしをすることになる。それだったら便数の豊富な羽田から発つ方が、結局便利だったりすることもある。

茨城空港のサイトでは、水戸からアクセスする場合は、羽田に行くよりも交通費が 22,000円も安くなって、時間は 120分も短縮されると書いてある(参照)。またまた仰天してよくみると、それは家族 4人が移動する場合の往復分だとある。おいおい、フツーは一人分を基準にするだろう。

それに、このサイトは、水戸から羽田までのアクセス時間は特急スーパーひたちを使って 150分(水戸駅までの 10分を含む)としているが、ナビタイムで調べると、昼間の時間帯なら大体 120分前後で行ける。水戸駅までの 10分とやらを足しても、150分はかからない。

さらに、件のサイトには水戸から茨城空港までは、車で 30分しかかからないと書いてあるが、それは真夜中の空いた国道をぶっ飛ばすのでなければ到底無理だ。不動産屋の広告よりひどいサバ読みと言わせていただこう。

試しにナビタイムで調べると、水戸駅から百里基地までの道のりは 26.8kmで、所要時間は 1時間 24分と表示された。実際にはそんなにかからないだろうが、水戸周辺は信号も多いし、昼間は混雑するから、少なくとも 1時間前後はかかるだろう。

それに車で行くのでなければ、最寄り駅の石岡駅から 20kmほどタクシーに乗らなければならない。ということは、交通費はかえって余計にかかる。とにかく、鉄道の駅から遠いのが痛すぎる。メリットはそれほどないというのが、ごくフツーの考え方だろう。

それに、日航も全日空も、茨城空港への乗り入れには全然乗り気じゃないようだし、開港したとしても、一日数便の発着しかないなんてこともあり得る。そんな空港を使うよりは、やっぱり羽田に行くだろう。

よっぽど画期的なアイデアを盛り込んでくれない限り、税金の無駄遣いに終わりそうな気がするんだがなあ。

【追記】

この日の記事を更新して、確認してみたら、百万ヒット目を自分で踏んでしまった。証拠写真は こちら

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2008年9月 5日

Apple の新しいユーザー・インターフェイス

Apple が新しいユーザー・インターフェイスに関する特許を出願したというニュース (参照) に、ちょっと興味を覚えた。

なんでも、音声認識、指識別、注視方向認識、顔の表情の識別、デバイスの動き、生体認証などを利用したマルチタッチ入力だそうで、タッチスクリーンよりは使えそうだ。

ユーザー・インターフェイスの入力部分は、キーボードとマウスがあれば十分だと思っていた。タッチ・スクリーンなんて、銀行の ATM とか iPhone のような小型デバイスならいざしらず、デスクトップ PC の液晶画面まで手を伸ばして撫で回すなんて、最悪ではないか。ただでさえ肩凝りがひどいのに。

というわけで、入力に関してはキーボードとマウスが当面のベストだと、ずっと信じてきた。しかし今回のニュースをみて、「Apple のいう "マルチタッチ入力" とやらで、妙なエラーもなくサクサク動くなら、あるといいかも」 と思ってしまった。

もっとも個人的には、音声認識というのは最後の手段と思っていて、できるだけキーボードを使い続けたいと思っている。ただでさえ、PC 操作をしていると、「うりゃ」とか「ありゃ」とか「早く開けよ!」とか「しまった!」とか、ちょっとしたつぶやきが多くなる。これ以上、ずっとつぶやき続けていようとは思わない。

しかし、現在マウスで行っている作業、つまり画面上のある部分を選択したり、スクロールしたりするという動作は、注視方向認識という技術でまかなえるだろう。長文のテキストを読むときに、視線に沿って自動的にスクロールされたらどんなに楽だろうと思う。

今回の特許出願というのは、基礎技術の部分での話だろうから、それを実用化させるにはまだ時間がかかるだろう。ある程度の時間がかかってくれないと、現在の PC のスペックでは、重すぎてまともに動かないだろうし。

私が後期高齢者になって、マウス操作もおっくうになり始めた頃に、この技術が十分に使い物になってくれていたらいいなあという程度の期待はしたいと思っている。

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2008年9月 4日

「子どもに優しい製品」 を高く買う

子供が安心して扱える「キッズデザイン」に関する経済産業省の調査によると、過半数の親たちが「子どもに優しい製品なら 5%割高でも買う」と答えたという(参照)。

 

「子どもに優しい」製品を高く買うよりも「別に危険でないものをフツーの値段で買いたい」というのは、案外フツーじゃないようなのだ。

「安全・安心なデザインの商品」が高くなってしまうのは、今の世の中にフツーに流通している商品が「よく考えると危険なところのあるデザイン」であるにもかかわらず、それがある意味デファクト・スタンダードみたいになっていて、そのデザインを変えようとするとコストがかかったりするからである。

それからもう一つ、「よく考えると危険」というデザインの方が、一見とても可愛らしく見えたりして、親がつい子供に買い与えたくなってしまうことがある。とくに子供服なんかは「実はちょっと危険」の方が、売れちゃったりするのである。

で、なんでまた「よく考えると危険なところのあるデザイン」がこれまで何の疑いもなく受け入れられてきたのかというと、これまでは、その危険性に誰も気付かなかったか、気付いたとしても、実際に事故が起こるのはデザインの危険性よりも「不注意」という要因の方が大きいと勘違いされて、あまり声高に指摘されなかったからということがある。

例えば子供服の場合、いりもしないフード(食べ物じゃなくて、頭にかぶるやつね)とか、ドローストリングス(引き紐)とかが満載だと、滑り台を滑り降りるときなんかにボルトの出っ張りなどの突起物に引っかかったりしたら、首が絞まってしまうおそれがある。

近頃、あちこちの遊園地で子どもの遊具を注意して見ているのだが、かなり危ないものばかりで、ぞっとすることがある。

いかにも「フードや紐を引っかけて窒息してください」といわんばかりの、最後まで締めないで頭の部分がすっかり飛び出した状態でペンキで固定してしまったボルトとか、急な上にステップの幅が狭くて、途中で落っこちるためにあるような階段とか、地面との間の空間が狭すぎて、下敷きになって死ぬために設計されたようなボックス型ブランコとかである。

こうしたものは、あまりまともに考えないで、やっつけしごとで造られてしまったとしか思われない。こうした危険な遊具と子どもが着ている上着の危険な長さのドローストリングスがコラボしちゃったら、かなり危ない。

大事には至らなかったが、いわゆる「ヒヤリ、ハット」のケースになったというのは結構報告されていて、実際にはその何十倍、何百倍ものケースが、世の中で発生しているとみられる。そして、その中の希なケースとして、実際に死んじゃうとかいう事件が発生する。

アパレル業界でも、近頃「安全安心な子供服」というコンセプトが重視され初めて、東京都は全国に先駆けて検討を行い、「身のまわりの危険から子どもを守りましょう - 身に付けるもの編」というガイドブックを作成した。

この中でも、フード、ドローストリングス、ジッパーに関する問題が重要視されている。しかし、最近の子供服デザインの 「かわいらしさ」 というのは、フードやいろんなドローストリングスやジッパーで表現するという傾向がある。

「ウチの子供服は、フードとドローストリングスとジッパーでできてるんで、それを使うなと言われてもねえ」 なんていうメーカーも多いが、要は使うなというのではなく、さじ加減の問題である。

ジッパーに関しては、上げるときに首やあごをはさんでしまうことがあるが、こればかりは注意で防ぐしかない。もっとも、ジッパーで指を切断したとか死んだとかいうのはあまり聞いたことがないから、一度ぐらい失敗して学ぶというのも大切である。

大人だって、もっと大事なモノをはさんで冷や汗かくこともあるし。

【参考】

実は、昨年の今頃も、同じような問題を別の視点で論じているので、お暇があれば、こちら をどうぞ。

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2008年9月 3日

挫折したのは福田さんじゃなく、自民党

時事通信によると、独紙南ドイツ新聞が、「福田首相が挫折したのではなく、自民党のシステムが崩壊過程にある」と論評している (参照)。おぉ、よく見てるじゃないか。

確かに福田さんの辞め方はみっともないが、2人も続けてみっともない辞め方をさせる自民党自体が、さらにみっともない。

時事通信の記事から、南ドイツ新聞の論説をもう少し引用する。

同紙は、現在の自民党について「特定のイデオロギーや政治方針、住民グループを代表しておらず、権力やそれがもたらす金にしがみついているだけだ」と批判、長期政権による弊害を強調した。

外から率直な目で見れば、現在の自民党政権というのは、そんな風に見えるということだ。別に、外からの率直な目でなくても、内から見ても私にはそうとしか見えないのだけれど。

特定のイデオロギーや政治方針、住民グループを代表していない、つまり、なんだかよくわからん政党が政権を担当すると、ある意味、どこにも偏らない、平均的で妥当に見える政策を実行することができるだろう。「均質社会」と(幻想的に)言われてきた日本には、ベターな選択だったかもしれない。

しかし、これだけ長期に渡ってしまったら、「権力やそれがもたらす金にしがみついているだけ」ということになるのは、世の習いである。特定個人が県知事や市町村長を 4期 16年ぐらい勤めたら、その地域の政治はほぼ間違いなく停滞する。

停滞を打破するための有効な提言をしても、「あのオッサンがトップにいる間は、どうにもならんから、しばらく我慢してくれ」なんて言われるようになる。

それに類した状態を、我々は国のレベルでは何十年も続けているのである。これは、よく考えると驚くべきことなのだ。まあ、途中でどさくさ紛れの政権交代はあったが、短すぎて機能しなかったし。

私は今年 4月に「既にぶっこわれている自民党」という記事を書いた。自民党だけでなく、自民党を核としたこの国のシステム自体が、もうほころびで一杯になっている。いろいろな不祥事が続出するのも当たり前だが、変な言い方だけれど、ぶっこわれ方が中途半端なので、なんとかもっているのである。

民主党に政権交代しても、どうせ中身は「元自民党」なんてのが多いから、代わり映えしないかもしれない。その上、彼らは政権から離れて長いから、感覚が鈍っていてかえって混乱するかもしれない。それでも、少なくとも政権交代がフツーに行われる国にならなければ、この膠着した状態は変わらないと思うのだ。

福田さんは会見前に「日本は大きすぎて、動きがとれない」と嘆いたと聞くが、この点に関しては、その通りだと思う。前にも書いたが、日本は、自由主義を標榜する先進国で、人口が 1億人をはるかに越えていながら、地方分権が進んでいないという点では、世界でも超レアというより、唯一のケースなのである。(参照 1参照 2

他は大抵、連邦制を採用している。今の日本の「大男、総身に知恵が回りかね」という状態も、自民党を核とした中央集権システムの弊害である。連邦制が無理なら、早く「道州制」に移行しないと、「大事なことが何も決まらない」という福田さんの嘆きを延々と繰り返す国になる。

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2008年9月 2日

誰にもおいしいところをあげない福田さん

「何にもせんだろうけど、そこがかえって安心」と思われていた(典型的にはこちら)福田さんが、「野党が非協力的で、何にもさせてくれんから、ボク辞める」 と言い出した。

過熱し混迷した政局に冷却期間をおく役割の人が、冷やしすぎた上に、さらに氷水をぶっかけてトンズラするのである。すごいなあ。

霞ヶ関の官僚たちの反応を見ても、一様にびっくりしている様子だから、今回の辞任会見は、正真正銘、突然の話だったんだろう。マスコミも、この急な会見を予想して準備していたという形跡がない。福田さん、歴代首相の中でもっともサプライジングな辞め方をした人ということになるかもしれない。

というわけで、麻生さんとしては、「藪から棒にそんなことを言われてもなあ」というところなんだろう。後継首相になったとしても、どうせすぐに衆議院を解散するということになるだろうから、おいしくもなんともない。下手したらそのまま選挙で負けて、民主党に政権を奪われてしまうかもしれないし。

そう考えると、福田さん、その辞め方は意地悪すぎるだろうよと言いたくもなる。誰にもおいしいところをあげないという、かなり不毛な辞め方である。自民党内部だけでなく、民主党にとっても、国民にとってもおいしくない。煮ても焼いても食えない人である。

「総理の会見が国民には人ごとのように感じるとよくいわれる」 という記者のツッコミに対して、「私自身は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです」なんて答えた福田さんは、本当は子供っぽい人なのかもしれない。

「あなたは自分自身を客観的に見ることができない」と言われたに等しい記者 (中国新聞の記者らしい)は、ちょっとむっときただろうなあ。その前の「私の先を見通す目の中には ……」なんていう言い方も、ちょっと神懸かりっぽくてすごいけど。

以前、官房長官時代に記者会見で、円周率を 3としか教えない「ゆとり教育」の弊害について語った際に、「私は、もっと言えますよ、3.14159265358979 ……」なんて自慢げに(嫌みに)言ってたのを見ても、そう感じた。(私なんて、『寿限無』を最後まで言えるぞ!)

自分の都合だけでいろんな自慢や言い訳が用意できるというのを、「自分自身を客観的に見る」とは言わないものである。本当に自分自身を客観的に見ることができたら、もっと別の言い方がある。

これ以上はまだ見えないので、きょうのところはこれにて。

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2008年9月 1日

ツクツクホウシがまだ鳴かない

ちょっとだけ気にかかっていることがある。この夏、つくば周辺と東京都心では、まだツクツクホウシの鳴き声が聞こえないのだ。

私の別宅サイト「和歌ログ」をみると、昨年 8月 19日のログで、「ツクツクホウシの鳴き声が目立ってきた」 と書いている (参照)。例年、八月中旬には鳴き始めているはずだ。

「和歌ログ」は、自然を詠み込むことが多いので、去年、あるいは一昨年の夏は、どんな夏だったのかと思い出すときに、とても助けになる。なにしろ、山形県人は日本一天気予報を気にする(この記事のコメント参照)人たちだそうだから、山形県生まれの私も、季節のうつろいがとても気になるのだ。

それで、過去 4年間の和歌日記をたどってみても、つくば周辺のツクツクホウシは、やはり遅くとも 8月中旬には鳴き始め、下旬に至ってはとてもにぎやかになる。それで、「ツクツクホウシの修練」なんていう記事を書いてみたくもなるわけなのだ。

ツクツクホウシというのは、本当によくかんでしまうのである。ほかの蝉よりも少しばかり複雑な鳴き方をするせいだろうが、一定の鳴き方で延々と鳴き続けるということができない。すぐにかんでしまう。決してかまないツクツクホウシなんて、いないんじゃなかろうか

私はこのかんでしまってからの鳴き声が、「暑いよー、暑いよー」と聞こえる多分、自分の感覚を投影しちゃってるんだろうが。

いずれにしても、ツクツクホウシというのは、自分で選択した鳴き方なのに、ぶきっちょにしか鳴けないのだ。それも無理からぬ話で、地上に出て鳴き始めたら、たかだか 1週間とか 2週間とかの生命なので、修練して立派な鳴き方ができるようになるには、時間が足りないのだろう。ウグイスだって、初めは「ケキョケキョ」としか鳴けないんだし。

で、今年はこのすぐかんでしまうツクツクホウシの鳴き声が聞こえない。いつもの年なら、今頃はもうツクツクホウシの雨あられで、私はそれを聞きながら、「あ、またかみやがった」なんて心密かにツッコミを入れているはずなのだ。それがいっこうにできないことを、私はいぶかっているのである。

去年の夏が暑すぎたんだろうか。暑すぎて、本来なら今年に羽化するはずの幼虫まで、フライングして昨年のうちに地上に出てしまったんだろうか。だが、それだとしたら、他のセミだって今年は少なくてもいいような気がするが、アブラゼミとミンミンゼミとヒグラシは、いつも通りぎんぎんに鳴いているのだから、げせない。

いや、そういえば、昨年の夏は 8月になってから急に暑くなったので、夏の後半に鳴くツクツクホウシだけが影響を被ってしまったのだろうか。あるいは、今年は 8月初めは暑かったのに、お盆を過ぎて急に不安定になったので、ツクツクホウシの幼虫が羽化のタイミングを失ってしまったんだろうか。

そうだとしたら、来年はまた元に戻るだろうか? 来年も少ないとしたら、地中にはいったいどんな変動が起きてしまっているんだろうか? なんだか気にかかってしまうのである。

他の地域はどうなんだろうか。コメント欄で各地の様子を知らせてもらえたらありがたい。

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