「天皇陛下万歳」か、「おかあさん!」か
あの太平洋戦争で、兵士は死ぬ際に「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬように教育されていたが、実際に死ぬときには、そんな風に叫んだ者はいないという人がある。
兵士が実際に死ぬ時には、「天皇陛下万歳」ではなく、みな「おかあさん!」と叫んだのだというのである。
この説は、とても魅力的である。「天皇陛下万歳」という「建前」が、いよいよ自分が命を落とすときになって崩壊し、その瞬間に心の底から湧いてきたのが「おかあさん!」という叫びだったというのは、戦後民主主義的で、しかも泣かせるほどセンチメンタルだ。
「皇国史観」という、ある意味とてもセンチメンタルな要素もある価値観を覆すには、それよりももっとセンチメンタルなツールが必要になる。とすると、「おかあさん!」の叫びは、圧倒的かつ最強のツールである。
しかし、私はこのツールがぐうの音も出ぬほどに最強であるように見えるからこそ、「実際に死ぬときに『天皇陛下万歳』と叫ぶ兵士はなく、皆『おかあさん!』と叫んだのだ」という主張には、「それは伝説でしかないだろう」と言うしかないと思っている。
ある意味、これは最強の都市伝説である。伝説というほかないのは、死に赴く兵士はおしなべて「おかあさん!」と叫んだと決めつけるだけの決定的なエビデンスをもった人は、一人もいないはずという理由による。
玉砕の現場に立ち会った兵士は、ほとんど死んでいるのである。特攻機に乗っていた者は、ただ一人だけなのである。周囲のほとんどが死んだケースにいて、奇跡的に自分だけ助かったという兵士がいたとしても、全体を語るだけの体験は持たないだろう。
戦闘で瀕死の重傷を負い、野戦病院の治療によって命からがら生還したという知人に個人的に聞いたところでは、「あの時、周囲では何人も死んでいったが、『天皇陛下万歳』と言って死ぬ者はいても、『おかあさん!』と言って死ぬのは聞いたことがない」ということだった。
その価値観、そして本音か建前かは別問題としても、この証言は重いと思っている。兵士は皆「おかあさん!」と言って死んだのだという主張は、この一言だけで十分に否定された。
私としては、「おかあさん!」と叫んで死んだ兵士がいたとしても、まったく不思議ではないと思う。だからといって、「『天皇陛下万歳」 と叫んで死ぬ者などなかった」というのは、どうみても極論に過ぎると思う。
人生いろいろだから、死ぬ際にもまた、いろいろなことを言って死ぬのが当たり前である。人はみな、死ぬときには「おかあさん!」と叫ぶのだというのは、あまりにも無理がある。だから、臆面もなくそうしたことを言う人間を、私は信用しないことにしている。
彼の主張が平和主義から発するものであったとしても、その主張のためにそうした作り話を言うのは、「目的さえ正しければ、手段は選ばない」というやり方である。それは平和主義というより、こざかしい政治主義の産物である。
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コメント
むろん「お母さん!」といって戦死した兵士も皆無とは言えないでしょうが、そういう説がそれなりに信憑性を持ちうるのは、やっぱり日本男児にはマザコン的心性が強いからではないでしょうか。
そういう説を流布している人というのも、たぶんそうなのでしょう。しかし、それでは「お父さん」の立場がありません。
特攻や無謀な突撃などのような場合には、やはり自分を奮い立たせ納得させるための「大義」というのも必要でしょう。「天皇陛下万歳!」とは、まさにそのような呪文なのでしょう。「スターリン万歳!」とか「祖国万歳!」などというのも、同じようなものです。
ただ、戦闘ではない餓死や病死などのような緩慢な死の場合は違ってくるでしょう。うちの父はビルマに行っていましたが、マラリアで意識が朦朧とした中で、母の声が聞こえたといっています。もっとも、かなり山っ気の強い人でしたから、本当かどうかは分かりませんが。
投稿: かつ | 2008年9月25日 00:47
>兵士が実際に死ぬ時には、「天皇陛下万歳」 ではなく、みな 「おかあさん!」 と叫んだのだというのである。
テレビで、死に際に「おかあさん」と叫ぶのは、万国共通だということを聞きました。
でもキリスト教の方なら、「神よ~!」になるのかなぁ、とその内容をいぶかしく考えていた経験があります。
もし、アタクシが衝撃的な死に遭遇したら…。
自らを鼓舞するために、裂ぱくの気合で、言葉にならない雄叫びを上げるんだろうな…、とセンチメンタルになった昼下がりのひと時。
投稿: オッチャン | 2008年9月25日 12:35
息子と娘の名前を叫びたくなる私は異常?
交通事故を起こした時、幸いにも命には別状の無い骨折程度の怪我だったのですが、もう、自分は死ぬんだ!と思った瞬間、母ちゃんの顔や父ちゃんの顔など浮かばず、妻の顔なんて瞬間、忘れてしまったが、息子・娘の顔だけがビッシビシと浮かんでは消え、消えては浮かびでした。二の腕の骨を折っただけなのに事故の瞬間は、本当に死んだ!と思った。スローモーションであたりが動くのに避けれない悲しさ。
特攻隊で死に行く人々の中に、自分の子供の名前を叫んで突っ込んだ兵士が居るという事を希望します。
投稿: やっ | 2008年9月25日 17:48
かつ さん:
>特攻や無謀な突撃などのような場合には、やはり自分を奮い立たせ納得させるための「大義」というのも必要でしょう。「天皇陛下万歳!」とは、まさにそのような呪文なのでしょう。
私もそう思います。
同じ死ぬなら、大義のために死ぬ方が、この世に未練を残さずきれいに死ねるように思います。
決していいとか悪いとかではなく、妙な未練があると成仏できそうにないので、そう言った意識もあったと思いますよ。
>うちの父はビルマに行っていましたが、マラリアで意識が朦朧とした中で、母の声が聞こえたといっています。
それもまた、わかるような気がします。
それにしても、大変な苦労をされたんですね。
投稿: tak | 2008年9月28日 20:46
オッチャン:
>テレビで、死に際に「おかあさん」と叫ぶのは、万国共通だということを聞きました。
それは確実に、言い過ぎだと思います。
マッチョな米国人が、死に際に 「マミ~~~~!」 と叫ぶのを、生き残りに聞かれたらと考えたら、そうは叫べませんよね ^^;)
投稿: tak | 2008年9月28日 20:50
やっ さん:
>もう、自分は死ぬんだ!と思った瞬間、母ちゃんの顔や父ちゃんの顔など浮かばず、妻の顔なんて瞬間、忘れてしまったが、息子・娘の顔だけがビッシビシと浮かんでは消え、消えては浮かびでした。
お子さんを愛してらっしゃるんですね。
>特攻隊で死に行く人々の中に、自分の子供の名前を叫んで突っ込んだ兵士が居るという事を希望します。
う~ん、幼い子どもを残しての特攻というのは、辛かっただろうなあ。
投稿: tak | 2008年9月28日 20:54
「おかあさん!」 と叫んで死んだとは考えにくいなあ
「天皇陛下万歳」と叫ぶと「国のために死ぬぞ!」っていう気になるけど 「おかあさん!」 と叫ぶと家族のこととか思い出して「やっぱりシニタクナーイ!」って逃げ出しそう
投稿: black | 2011年3月 8日 15:43
black さん:
>「おかあさん!」 と叫んで死んだとは考えにくいなあ
まあ、いろんな人がいたんでしょう。
私が言いたいのは、兵士はみんな 「おかあさん」 と叫んで死んだという主張が、あまりにもこざかしすぎる作り話としか思えないということです。
「おかあさん」 と叫んで死んだ人もいないわけじゃないんでしょうが、「みんなそう叫んだ」 なんて、よく言うよと。
投稿: tak | 2011年3月 9日 00:52
父はニューギニアで戦死した。生還した兵士たち何十人もに会って話を聞いてきたが「天皇陛下万歳!」を叫んだ兵士は誰もいなかったという。死に際に「お母さん」とか妻や子の名前を呼んで息を引き取ったものが多かったそうだ。当たり前のように思えて安堵した記憶がある。
投稿: hisaharu | 2014年1月 5日 17:10
hisaharu さん:
なるほど、つまり、まさにいまわの際となった時には、母、妻、家族の名を呼んでこと切れるということが多かったということは、十分に理解できます。
その時には、「天皇陛下万歳!」と叫ぶ力は残っていなかったでしょうし、最も原初的な愛情の対象が思い浮かぶという状態になっていたのは、当然のことです。
ただし、「天皇陛下万歳!」 とは、誰も叫ばなかったというのは、やはり言い過ぎです。それは本文中に
>戦闘で瀕死の重傷を負い、野戦病院の治療によって命からがら生還したという知人に個人的に聞いたところでは、「あの時、周囲では何人も死んでいったが、『天皇陛下万歳』 と言って死ぬ者はいても、『おかあさん!』 と言って死ぬのは聞いたことがない」 と言うことだった。
と書いたように、正反対の証言もあるということで、十分だと思います。
ただ、私が 「兵士はおしなべて 『天皇陛下万歳!』 と叫んで死んでいったはずだ」 と言いたいわけではないことは、本文を読んでいただければおわかりいただけると思います。
この記事で言いたいのは、「物事にはいろいろなケースがあり、一つのパターンで決めつける言辞は信用できない」 ということです。
投稿: tak | 2014年1月 5日 19:52