« 挫折したのは福田さんじゃなく、自民党 | トップページ | Apple の新しいユーザー・インターフェイス »

2008年9月 4日

「子どもに優しい製品」 を高く買う

子供が安心して扱える「キッズデザイン」に関する経済産業省の調査によると、過半数の親たちが「子どもに優しい製品なら 5%割高でも買う」と答えたという(参照)。

 

「子どもに優しい」製品を高く買うよりも「別に危険でないものをフツーの値段で買いたい」というのは、案外フツーじゃないようなのだ。

「安全・安心なデザインの商品」が高くなってしまうのは、今の世の中にフツーに流通している商品が「よく考えると危険なところのあるデザイン」であるにもかかわらず、それがある意味デファクト・スタンダードみたいになっていて、そのデザインを変えようとするとコストがかかったりするからである。

それからもう一つ、「よく考えると危険」というデザインの方が、一見とても可愛らしく見えたりして、親がつい子供に買い与えたくなってしまうことがある。とくに子供服なんかは「実はちょっと危険」の方が、売れちゃったりするのである。

で、なんでまた「よく考えると危険なところのあるデザイン」がこれまで何の疑いもなく受け入れられてきたのかというと、これまでは、その危険性に誰も気付かなかったか、気付いたとしても、実際に事故が起こるのはデザインの危険性よりも「不注意」という要因の方が大きいと勘違いされて、あまり声高に指摘されなかったからということがある。

例えば子供服の場合、いりもしないフード(食べ物じゃなくて、頭にかぶるやつね)とか、ドローストリングス(引き紐)とかが満載だと、滑り台を滑り降りるときなんかにボルトの出っ張りなどの突起物に引っかかったりしたら、首が絞まってしまうおそれがある。

近頃、あちこちの遊園地で子どもの遊具を注意して見ているのだが、かなり危ないものばかりで、ぞっとすることがある。

いかにも「フードや紐を引っかけて窒息してください」といわんばかりの、最後まで締めないで頭の部分がすっかり飛び出した状態でペンキで固定してしまったボルトとか、急な上にステップの幅が狭くて、途中で落っこちるためにあるような階段とか、地面との間の空間が狭すぎて、下敷きになって死ぬために設計されたようなボックス型ブランコとかである。

こうしたものは、あまりまともに考えないで、やっつけしごとで造られてしまったとしか思われない。こうした危険な遊具と子どもが着ている上着の危険な長さのドローストリングスがコラボしちゃったら、かなり危ない。

大事には至らなかったが、いわゆる「ヒヤリ、ハット」のケースになったというのは結構報告されていて、実際にはその何十倍、何百倍ものケースが、世の中で発生しているとみられる。そして、その中の希なケースとして、実際に死んじゃうとかいう事件が発生する。

アパレル業界でも、近頃「安全安心な子供服」というコンセプトが重視され初めて、東京都は全国に先駆けて検討を行い、「身のまわりの危険から子どもを守りましょう - 身に付けるもの編」というガイドブックを作成した。

この中でも、フード、ドローストリングス、ジッパーに関する問題が重要視されている。しかし、最近の子供服デザインの 「かわいらしさ」 というのは、フードやいろんなドローストリングスやジッパーで表現するという傾向がある。

「ウチの子供服は、フードとドローストリングスとジッパーでできてるんで、それを使うなと言われてもねえ」 なんていうメーカーも多いが、要は使うなというのではなく、さじ加減の問題である。

ジッパーに関しては、上げるときに首やあごをはさんでしまうことがあるが、こればかりは注意で防ぐしかない。もっとも、ジッパーで指を切断したとか死んだとかいうのはあまり聞いたことがないから、一度ぐらい失敗して学ぶというのも大切である。

大人だって、もっと大事なモノをはさんで冷や汗かくこともあるし。

【参考】

実は、昨年の今頃も、同じような問題を別の視点で論じているので、お暇があれば、こちら をどうぞ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« 挫折したのは福田さんじゃなく、自民党 | トップページ | Apple の新しいユーザー・インターフェイス »

育児」カテゴリの記事

コメント

わっしらの頃は、年上のニイサマ達にもみくちゃにされながら、遊び場に潜む危険個所や、力の加減を身体で覚える環境でした。
 時には危険個所(ブルドーザーの上とか、建築廃材の山とか)で遊ぶという、今では“無謀”なこともやりましたし…。

 そのうち日本中が、『良い子はここで遊ばない』貼り紙で、埋め尽くされそうです。

投稿: オッチャン | 2008年9月 4日 12:14

オッチャン:

>わっしらの頃は、年上のニイサマ達にもみくちゃにされながら、遊び場に潜む危険個所や、力の加減を身体で覚える環境でした。

昔はそれが可能な環境がありましたね。
今は、子どもが少ないからなあ。

そのうえ、親も学んでなかったりするし。

投稿: tak | 2008年9月 4日 12:24

 個人的にはすでに行き過ぎた責任追及と責任逃れの悪循環だと思いますね。

 公園の遊具からシーソーや、カゴ状の回転する遊具はとうの昔に撤去されてしまっているし、近頃はもう公園には子供の遊具らしい遊具は殆どないような状態になってます。学校はもっと早い段階で完全撤去したんじゃないかと思います。

 ちょっと異常だと思いますね。

 体験し、経験して学ぶ子供にとってその機会をオトナがどんどん剥奪してしまっている。それは大人達がいろいろな事について億劫になってしまっているからなのかもしれませんね。
 本来、経験しながら怪我をしなくなっていく。危ない事を理解していく訳だけれど、そういう機会が殆どないからいきなり大きな怪我や事故が引き起こされる。そして、親は”これはこんな危険を看過していた行政が・・・”みたいな事態になるから、いっそのこと撤去しちまえって流れですよね。

 世の中の人がみんなプロ市民になってきてるのかもしれません。”うちの子がアホだから怪我したんですよ”っていう親はもうじき天然記念物になっちゃいますね。

投稿: きんめ | 2008年9月 4日 13:14

きんめ さん:

> 個人的にはすでに行き過ぎた責任追及と責任逃れの悪循環だと思いますね。

> 公園の遊具からシーソーや、カゴ状の回転する遊具はとうの昔に撤去されてしまっているし、近頃はもう公園には子供の遊具らしい遊具は殆どないような状態になってます。学校はもっと早い段階で完全撤去したんじゃないかと思います。

> ちょっと異常だと思いますね。

それは私も感じます。

要は、危なくないように、あるいは、ちょっとやんちゃに遊んでも、致命傷に至らないように、危険な出っ張りや、圧死するような狭い空間を是正し、足を踏み外しやすいカーブした階段 (カーブ部分の内側は、かなりステップが狭く、踏み外しやすい) では、狭い部分に脚をおけなくするとか、基本的な対策をきちんとすればいいだけです。

それをしないで、遊具自体を撤去してしまうというのは、行政の怠慢ですね。

本文でも、ジッパーに関連して書きましたが、「一度失敗して学ぶ」 ということが重要で、その軽い一度の失敗すらできなくなるというのは、問題です。

投稿: tak | 2008年9月 4日 14:00

お祖父さんの漕ぐ自転車の荷台に乗って楽チン楽チンとか思ってたら、いきなり右足を怪獣にでも噛まれたような圧迫感と痛さを感じて「ギャー」と泣き喚いた時にはすでに右足甲が自転車後輪のスポークとフレームの間に挟まってました。明治生まれのお祖父さんは、孫が大怪我しているにもかかわらず、「ちゃんと乗ってねぇーからだべ!このチクショ!」と頭をボッカリ叩かれて、まさしく泣きっ面に蜂の私の記憶が思い浮かびました。

建築も意匠を凝らせば危険が増すけど、危険を危ないかもしれないと察知する能力が減ってるのでしょうか?いいえ!そんな事はないですね。食詰めた冴えない弁護士が、すわ訴訟という騒ぎを起こすから、身を持って覚えるという事が失われてしまうのでしょうね。

膝っ小僧に傷のある子供って減ってますね。ま、私はスネに傷がありますが・・・様々な意味で・・・。

投稿: やっ | 2008年9月 4日 14:00

きんめさん:

この部分だけ。
>世の中の人がみんなプロ市民になってきてるのかもしれません。”うちの子がアホだから怪我したんですよ”っていう親はもうじき天然記念物になっちゃいますね。

それはどうでしょうか。
私(小学校低~中学年の親)の周りの親は「うちの子がアホだから・・」が多数派です。
そうではない声の大きい親御さんもたまにいますが、声が大きいから目立つのです。

遊具の撤去もノイジーマイノリティの声によるものが大きいと思います。
行政としても「多少怪我をしてでも体験、経験して学べ」とは言いにくく、
撤去という事になるのでしょうね。

投稿: リュウT | 2008年9月 4日 14:11

やっ さん:

>孫が大怪我しているにもかかわらず、「ちゃんと乗ってねぇーからだべ!このチクショ!」と頭をボッカリ叩かれて、まさしく泣きっ面に蜂の私の記憶が思い浮かびました。

切なくも剛毅な思い出ですね ^^;)
考えてみれば、昔の子どもはたいていそうやって育てられました。

それに私も、一歩間違えば命を落とすような、かなり危ない遊びしましたからね。
(あれで死んでたら、完全に、私が馬鹿でした ^^;)

「安心・安全」 と、危険察知能力の兼ね合いというのは、つきつめるとかなり難しいですね。

個人的には、致命傷とか、腕や脚が一本なくなるとか、大きな危険は困りますが、ちょっとした失敗で擦り傷、切り傷になるぐらいの経験は、ふんだんにすべきだと思います。

投稿: tak | 2008年9月 4日 14:23

リュウT さん:

>遊具の撤去もノイジーマイノリティの声によるものが大きいと思います。
>行政としても「多少怪我をしてでも体験、経験して学べ」とは言いにくく、
>撤去という事になるのでしょうね。

「ノイジーマイノリティ」 には、最近はやりの 「モンスターペアレント」 も含まれそうですね。

致命傷さえ避けられれば、失敗して学んだ方が後々のためになるんですけどね。

投稿: tak | 2008年9月 4日 14:28

リュウTさん

>そうではない声の大きい親御さんもたまにいますが、声が大きいから目立つのです。

 そうですね。ちょっと言い過ぎでした。

 ただ、声の大きな少数の人の意見が、多数のゆるやかな認識を超えて作用してしまっている現状を見るに付け、今後は小さな声をみんなで出す事が難しくなっていくのかなと思ったりはしています。
 ノイジーマイノリティに対抗して反対の姿勢を打ち出すのは面倒で骨が折れる。いっそ黙ってしまうという図式が定番化しなければいいのだけれどと願います。

投稿: きんめ | 2008年9月 4日 14:38

きんめ さん:

>ただ、声の大きな少数の人の意見が、多数のゆるやかな認識を超えて作用してしまっている現状を見るに付け、今後は小さな声をみんなで出す事が難しくなっていくのかなと思ったりはしています。

大声の極端な意見が通るようになると、医者も学校の先生も、なり手がなくなって、結局は自分たちの不利益になりますね。

そのためにも、「すべて失敗して学べ」 ではなく、商品設計上の、ある程度の 「ガイドライン」 というのが必要になります。

ガイドラインは、致命傷を避けるための、常識的なものであればいいわけです。
(「絶対に」 首やあごを挟み込まないジッパーなんてあり得ないし、無理矢理作ったとしても、ものすごく使いづらいジッパーになります)

このガイドラインに沿った製品であるにもかかわらず、常識はずれの馬鹿なことをして大怪我したとか、死んだとかいうことになったら、端的には、「気の毒だが、あんたんとこのガキが馬鹿だから」 で済ませる部分も生じます。

例えば先日、学校の屋上の採光窓の上でジャンプし、落下して死んだ子がいましたが、この場合でも、窓の廻りに囲いをして、「危ないので入らないこと」 といった表示をしておけば、完全に 「気の毒だが、あんたんとこのガキが馬鹿だから」 ということになります。

投稿: tak | 2008年9月 4日 14:56

やはり残念でなりません。

責任だ何だと一方的な意見があって、『最も静かに納まる』手法しか選択しない(と思われる)行政。

クレームに心血注ぐ方々は、刹那の対応(いい加減や中途半端では油を注ぎますが…)に満足します。しかしながら、今後広く万民に有益な手法とは言い切れません。

>「ウチの子がアホやから」

うっかりそんなことを言うと、余計な攻撃を受けそうで…。

>本文でも、ジッパーに関連して書きましたが、「一度失敗して学ぶ」 ということが重要で、

子どもにしても大人にしても、『経験の有無』が重要と…。

…すみません。かなり酔いが回って来ました。
それこそ中途半端にて恐縮ッス!

投稿: オッチャン | 2008年9月 5日 00:27

家の子どもの保育園は、家が田舎にあるのもありますが、園長先生の方針もあって、保育園の
裏山で自由に遊ばせたり、昔ながらのポンプ井戸を作って遊ばせたりと、結構自由にさせてい
ます。

もちろん、園の先生はきちんと見てくれているので(園の先生の配置数も法定より多い)、つい
ぞ大けがになったというのは、聞きませんでしたが、あっちこっちすりむいたり、打ち身になっ
たり日常茶飯事です。

おかげで、平気で蛇やカエル、バッタや蝉を捕まえてこれるようになりました。(娘も!)

昔って、結局余裕があったんですよね。サザエさんが近所の子どもを怒るように。
諸事、余裕がなくなってちょっとしたミスでも、許されない環境になったりするのかなって思
います。

それにしても、子どもを自由にさせること、大人が子どものために注意を払ってあげることの
さじ加減手難しいですね。

長文すみません。

投稿: 雪山男 | 2008年9月 5日 09:02

オッチャン:

>やはり残念でなりません。

>責任だ何だと一方的な意見があって、『最も静かに納まる』手法しか選択しない(と思われる)行政。

「ヒヤリ、ハット」 対策に関しては、人間工学的視点で、かなり研究が進んでいます。

その過程で、「絶対に危なくないもの」 なんて存在せず、失敗によって学ぶ部分がないと、かえって危ないということは、認識されています。

重大な結果に陥らずに、軽い失敗をして学ぶことができるスペックというのも、かなりわかってきていて、その筋では常識化しています。

問題は、そうした常識を知らないモンスターペアレントの馬鹿な大声に、研究成果を知りもしない木っ端役人が短絡的に反応してしまうことです。

投稿: tak | 2008年9月 5日 11:19

雪山男 さん:

いい保育園があって、幸せですね。

そういう教育方針というか、コンセプトというか、そうしたものが、地域で 「有益なもの」 と受け止められるという共通認識があれば、問題は起きにくいと思います。

>それにしても、子どもを自由にさせること、大人が子どものために注意を払ってあげることのさじ加減手難しいですね。

問題はそこですね。
子ども向け商品に関して言えば、例え目を離しても、重大事故は起こりにくいというデザインにすることが、それに当たると思います。
(おもちゃなどで、なめることはできても、飲み込むのは物理的に不可能とか、たとえ飲み込んでも、息がつまらないような形状のデザインにするとか)

投稿: tak | 2008年9月 5日 11:25

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「子どもに優しい製品」 を高く買う:

« 挫折したのは福田さんじゃなく、自民党 | トップページ | Apple の新しいユーザー・インターフェイス »