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2008年10月に作成された投稿

2008年10月31日

コーヒー派? それとも、紅茶派?

昨日は缶コーヒーをさんざんけなしてしまった(参照)が、私は別に缶コーヒーに恨みがあるわけじゃない。ただ、自分で金出して買う気がしないというだけのことである。

で、その記事のコメント欄に、「紅茶が好き」という書き込みがあった。実は私の妻も、かなり紅茶が好きらしい。

私は個人的には断然コーヒー派である。紅茶は決して嫌いというわけじゃないのだが、取り立てて好きというほどでもない。それにお茶は日本式の飲み方が一番うまいと思っているので、発酵なんて余計な手間をかけることに、少しだけ心理的な抵抗感があったりする。

そういえば私は、この 20年ぐらい、紅茶というものを飲んでいないと思う。コーヒーか紅茶かのチョイスでは、「別に嫌いじゃない紅茶」よりは、いつも「好きなコーヒー」の方を選択するし、お茶を飲むなら緑茶を飲んでしまうので、紅茶の入り込む余地がないのだ。

国際線の飛行機で、フライトアテンダントのお姉さん、あるいはおばさんが、飲み物をサーブしに廻ってきてくれると、私はほぼ自動的に "coffee, please" と頼む。何しろ、私は こちらの記事 で告白しているように、飲んだり食べたりするものを選択するという行為が、ものすごく苦手なのだ。だから、いつも決まり切ったものしか注文しない。

ただ、帰りの機内での最後のサービスだと里心がついてしまっている頃なので、つい "Japanese tea, please" と頼んじゃったりしてしまう。まあ、私の選択のバリエーションなんて、この程度のものなのだ。

ちょっとネット上で調べてみたら、昨年 4~5月にアメーバニュースがネット上で行った「コーヒーと紅茶、どちらが好き?」という投票企画の結果が発表してあって、それによると、51%対49%という僅差で、コーヒー派が上回ったそうだ。

その投票企画の結果記事には、コーヒー、紅茶、それぞれを好きな理由というのが紹介されていて、これがちょっと面白いので、以下に引用しておこう。

「コーヒー」と答えた人の理由として、「軽い麻薬」「日常すぎてこれしか考えられない」「香りが良い」「眠気覚ましに一杯」「甘くないから!!!!」「にがみがいい!」「むくみがとれる気がするから」「中毒だから」「黒いから」「紅茶入れるのめんどくさい。茶殻の始末もイヤ」「うんちがすぐ出るから」「男は黙ってコーヒーだ」という声があった。

一方「紅茶」と答えた人は(中略)「お茶が好きだから」「崇高な紅茶様をドブ水と比較するんじゃない!」「コーヒーは息がくさくなる」「コーヒー飲めないので」「あややがCMしてるから」「コーヒー苦い」「コーヒー飲むと夜眠れなくなるから」「おしゃれ」「コーヒーは胃がもたれます」「男は黙ってアッサムのストレート」と理由を挙げている。

「紅茶入れるのめんどくさい。茶殻の始末もイヤ」という回答は、「こいつ、インスタントか缶コーヒーしか飲んでないな」というのがばれる。レギュラーで飲んだら、コーヒーだって出しがらが出る。

ただ全体的なトーンとして、コーヒー派は「コーヒー飲むのが日常」と「苦みがいい」というややハードボイルドな理由に集約され、一方、紅茶派は「コーヒー苦手だから」と「紅茶の方がおしゃれ」という、ちょっとソフトな理由に大別されるように思われる。

こうしたコーヒーと紅茶のイメージについて、私は 3年半前に「英国人の紅茶離れ」というエントリーに、「紅茶は上品でコーヒーは庶民派みたいな感覚があるが、もとはと言えば、それは英国の負け惜しみだったという説がある」と書いている。

詳細は面倒だから、元記事に飛んで読んで頂きたいが、要するに、英国は 18世紀のコーヒー利権争いでオランダに負けたので、仕方なく、ここ、敢えてもう一度繰り返すが、仕方なく、インドから大量に入ってくる紅茶に乗り換えたということである。

で、この説について私なんぞは「さもありなん、そりゃ、コーヒーの方が美味しいもの」と、あっさり納得してしまっているわけなのだ。紅茶派には申し訳ないけど。

世の中には、いろいろなものを幅広く楽しまなければ損だと思っている人がいる。しかし私は、余計なことに手を出して一番好きなものを楽しむ機会の減る方が損だと思うタイプのようなのである。

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2008年10月30日

コーヒーと缶コーヒーは全然別物

世の中ではかなり大量に流通しているのに、個人的には一度も買ったことがないという商品が、誰でも一つや二つはあると思う。

私の場合、その代表的なのが「缶コーヒー」というものだ。昨日の話題の「カップ麺」は年に 1度ぐらい買うこともあるが、缶コーヒーだけは買ったことがない。

そりゃ、飲んだことはある。最初に飲んだのがいつかというのはとっくに忘れてしまったが、とにかく かなり若い頃である。何かのイベントに参加し、飲み物として配給されたものを飲んだのだと思う。

一口飲んで、「うっ、あまっ!」と思った。残しては処理に困るので、仕方なく飲みきったが、もう二度と飲むことはあるまいと思った。

私は Mikio さんのように商売にしてしまうほどのこだわりではないが、一応かなりのコーヒー好きである。コーヒーショップではホット・コーヒー以外のものを注文するという発想がない。多い日は、1日に 5杯も 6杯も飲むことがある。そして、飲むときはほとんどブラックである。

たまに気が向いてミルクを入れることもあるが、砂糖は絶対に入れない。基本的に「どうして苦みのおいしい飲み物を甘くして飲む必要があるのだ?」と思っている。それに砂糖なんか入れたら、後で口の中がべとべとして不愉快になるじゃないか。

その後、10年ぐらい前に、また何かのイベントで缶コーヒーを配給された。缶には「微糖」と書いてある。これなら飲めるかもしれないと思い、一口飲んでみたが、やっぱり甘すぎる。世間ではこの程度で「微糖」というらしい。じゃあ、普通の缶コーヒーなんて、どんなに砂糖が入っているかしれたものではない。恐ろしい限りである。

さらに、4~5年前に「無糖」というのを配給された。砂糖が全然入っていないなら大丈夫と思い、一口飲んだら、今度は「まずい」のである。出がらしの味しかしない。何が悲しくてこんなものを飲まなければならないのかというような味である。

というわけで、私は自分の金を出して缶コーヒーなる商品を買おうという気には、全然なれないのである。

私はこれまで、コーヒー好きの中の一部が缶コーヒーを買うのかと思い、それが不思議でしょうがなかったのだが、その認識がどうやら間違っていたようだと、近頃思い当たった。コーヒーと缶コーヒーは別のカテゴリーに属するものだと理解する方が、世の中の不思議な現象を解釈しやすい。

実際には「ブラックコーヒー好き」「フツーのコーヒー好き」「缶コーヒー好き」というのがいて、2番目と 3番目は少しはオーバーラップするかもしれないが、基本的にはそれぞれ別の人たちなのではなかろうか。

ブラックコーヒーと缶コーヒーの両方好きな人というのがいるとしたら、それは多分、まったく別の飲み物と割り切っているのだろう。缶コーヒーをコーヒーと思っていては、到底手が出せない。

表示を見ても多くは 「乳飲料」 になってるみたいだしね。念のため Wikipedia で缶コーヒーの表示の定義を調べたら、次のように説明されていた。(参照

製品内容量100グラム中の生豆使用量

コーヒー
5グラム以上
コーヒー飲料
2.5グラム以上5グラム未満
コーヒー入り清涼飲料
1グラム以上2.5グラム未満

喫茶店などで供されるコーヒーの場合、100グラム中の生豆使用量は約10グラム程度とされるため、濃度規格をもっと上げるべきだという意見も挙げられていた。しかし、飲用するシチュエーションが異なる缶コーヒーとレギュラーコーヒーを同列で比較するのは無理があるという観点から、当範囲内に収めるのが妥当という結論に至っている。

「コーヒー」 と表示された商品でも 「生豆使用量 5グラム以上」 と規定されているということは、かなり太っ腹に使ったとしても 7グラムいくかいかないかだろう。フツーの喫茶店は 10グラムというのだから、半分もけちっては、出がらしの味しかしないのも道理である。

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2008年10月29日

庶民感覚とマーケティング感覚

「カップ麺の値段を聞かれてすぐに答えられるほどの庶民性」というのが、この国の総理大臣の人気を左右する条件のようなのだ。

だが、カップ麺の値段なんて私だって知らなかったし、今回の茶番劇のせいで「カップ麺は 170円」という根拠の乏しい固定観念が一人歩きしちゃう方が問題だと思うがなあ。

昨日の参院外交防衛委員会で、民主党の牧山弘恵氏が麻生首相にカップ麺の値段を知っているかと質問し、麻生首相は 「日清食品が最初(「カップヌードル」を) 出したときはえらく安かった。今、400円ぐらい? そんなにはしない? いろいろ種類が出ていることは知っている」と述べたという。(参照

それに対して牧山氏は「170円ぐらい」と指摘した。首相の庶民感覚のなさを満天下に暴き立てたつもりになったということなんだろう。

カップ麺の値段には詳しくない私だが、それでも客観的にみると、このやりとりは、実は引き分けなんじゃないかと思う。

麻生首相は、具体的な値段は知らなかったが、「いろいろ種類が出ている」という事実は知っていたし、「400円とは言っちゃったけど、そんなにはしないかなあ」というニュアンスはのぞかせている。それに対して牧山氏は、「いろいろ種類が出ている」ことは無視して、ずいぶん乱暴に「170円ぐらい」なんて言っている。

で、インターネットでちょっと調べてみた限りでは、カップ麺の値段もピンキリで、120円ぐらいから 300円ぐらいまであるということがわかった。さすがに 400円のカップ麺というのは見つからなかったが、「カップ麺は、いろいろあるけど 400円ぐらい?」というのと、「カップ麺は 170円ぐらい」というのを比べれば、はっきり言ってどっちもどっちなのである。

170円ぐらいというのは、平均的値段なのか、最も売れ筋の値段なのかがわからない。平均的値段だとしたら、その平均値はどのようにして算出したのかもわからない。

さらに私は、カップ麺メーカーが新たな商品を企画する際に、この「170円ぐらい」というのが余計な足かせになりかねないというのを憂慮する。いずれにしても、業界にとっては迷惑だ。

世間では「参院外交防衛委員会の場で、どうしてカップ麺の値段なんていう次元の低い話をするのか?」なんて言われたりしているが、次元の高い低いは置いといても、質問した側も、もうちょっとましな正解を用意しておいてもらいたかったなあ。

確かに麻生首相は庶民感覚が薄いかもしれないが、一方の牧山さんはマーケティング感覚がない。それに「カップ麺は 400円?」発言は、石原都知事の「山谷は 200円、300円で泊まれる宿がいっぱいある」発言(参照)ほどのぶっ飛び加減でもないし。

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2008年10月28日

足腰は大切に … と言いつつ

実は、半月前ぐらいから右膝の具合がおかしくて、先週末などは、立ったり座ったり、あるいはちょっと段差のあるところを歩いたりすると、かなりしんどかった。

見るからに歩きにくそうだったようで、「脚、どうしたの?」 なんてよく聞かれたが、今日は大分治ってきていて、あまりバレていない。

そういえば、先月末ぐらいからオーバーワーク気味で、脚の筋肉痛があったのだが、お構いなしにガシガシ動き回り、運動をしすぎてしまったようだ。「ちょっと膝が痛いかも」なんていうのを無視して、100回のヒンズースクワットなんてのを毎日続けてしまって、ついにパンクしてしまった。もう、若い頃のような無理はきかないのかもしれない。

先週末から仕方なく、右膝の廻りに湿布を貼りまくり、テーピングをして負担を減らしている。で、ヒンズースクワットは無理だし、必要以上に歩くのも控えている。すると、当然にも運動不足になり、せっかく落とした腹の廻りの脂肪も少し戻ってきたような気がする。あぶない、あぶない。

近頃ふと気付いたのだが、次のオリンピックを、私は還暦で迎えるのである。我ながら信じられないが、紛れもない事実なのだ。廻りでは「50代には到底見えない」なんて言ってくれる人もいるが、やはり昔のようにはいかない。

いくら歩いても疲れず、ヒンズースクワットを千回やっても全然限界が見えず、口から心臓が飛び出しそうなほどの激しい運動をしても 3分休めば回復し、いくら食っても体重が増えるなんてことは考えられなかった若い頃が、自分にもあったのである。

そんな頃がついこないだのような気がしているから、つい無理をしてしまうのである。

70歳を越えた知人が、「近頃は座布団につまづいたりしてしまう」 なんて言っていた。そんなだから、走ったり早足したりは、なるべく控えているんだそうだ。走ったり早足したりできないのでは、私は「いらち」だから、ずいぶんストレスが溜まってしまうだろうなあ。

何しろ今もかなり回復してきてはいるが、膝が本調子ではないので、思いっきり早足で歩けない。それでストレスなのである。この膝が治ったらまたきっちりと鍛え直して、どんどん走って早足して、ストレス解消したいと思っている。

全然懲りていないようなのが、自分でもこわい。

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2008年10月27日

「野沢菜昆布しょうが入り」 というのが旨い

どうということはないのだが、それでもやっぱり「これは旨い!」と感動してしまった。「野沢菜昆布しょうが入り」というベタなネーミングの総菜である。

製造元は、新潟県新発田市の片山食品 (株) という会社。、「国内産原料使用」 との表示があり、それは一応信じたいと思う。

どんなものかというと、細かく刻んだ野沢菜に、これも細く刻んだ昆布としょうがを混ぜただけという、至ってシンプルなものだ。その辺のスーパーで売られている。商品紹介のページは こちら

味付けは醤油味がちょっと濃いめ。だから、ほんの少しあればご飯が進む。野沢菜のぴりっとした味に、昆布のとろみとしょうがの風味が加わって、口当たりは絶妙だ。

ご飯のおかずだけじゃなく、酒のつまみとしてもなかなかいける。動物質が入っていないので、ベジタリアンにもおすすめだ。

それにしても、野沢菜に昆布としょうがを加えるなんて、誰が考えたんだろう。やってみればこんなに旨いのに、どうして今まで気付かなかったんだ?

近頃私は、松阪牛とか上トロとかいうジャンクフード(と言い切ってしまう!)よりも、こうしたシンプルな食い物の方がずっと旨いと思うのである。タダで食わせてあげるから、どっちを選ぶ? と言われても、私は、牛肉や上トロよりこっちを選びたいと思う。

片山食品という会社は、エコ意識も高くて、割と早い時期に ISO 14001 を取得しているようで、そのあたりも好感をもってしまった。えぇと、別に片山食品から宣伝料をもらっているわけじゃなく、単純に 「旨い!」から出発した紹介なので、そのあたり、よろしく。

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2008年10月26日

結局はキャラ勝負だし

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の 50万ヒットは、昨日めでたく達成された。キリ番をゲットしてくれたのは、あの、中森明菜を語らせたら日本一の、まこりんさんである。

まこりんさんのサイトに一度行ってみるといい。余人の追従を許さぬ絶対的分野をもつって、すごいことだと思わされるから。

とはいえ、あまり褒めすぎると、向こうもむず痒くなっちゃうといけないからこのくらいにして、私のサイトのお話である。私の場合は、まこりんさんとは対照的に、「広く浅く」のごった煮主義である。

ウェブサイト勃興期に、「サイトは性格を絞り込んで製作しなければ成功しない」なんていわれたが、私は初めからそれに反旗を翻して、「ごった煮」主義でサイト構築をしてきた。その心意気は、5年以上前に、本宅サイト内の このページ に書いているので、よかったら読んでみていただきたい。

で、私のサイトは 「何でもあり」 ということなのだが、それでも、気付いている人は気付いているかもしれない。「tak-shonai は、いろいろ幅広い話題を語っているように見えるけれど、最終的に言いたいことは、煎じ詰めてみると、いつも大体決まり切ってるんじゃないか」 と。

 

そんな視点でまこりんさんのサイトをみると、「歌謡曲」中心の音楽と少女漫画にカテゴリーを絞り込んでいるにもかかわらず、それをダシにして結構幅広いことを語っていて、それでもやはり最終的にぐぐっと集約された「まこりん的地平」に連れて行かれたりするのも、結局は同じようなものなのかもしれない。

間口なんて広げようが狭めようが、結局はキャラクターの勝負ということであり、そのキャラクターも、長くやっているうちに、ふと気付いてみると少しずつ進化しちゃてるというのが、個人サイトと長く付き合うおもしろさだと思う。

首尾一貫してはいるけれど、何年経ってもまったく変わらなすぎというのも、やっぱりつまらない。ずっと変わらぬ完成度なんていうのは、桂文楽の「明烏」ぐらいになってから言われればいいことだ。

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2008年10月25日

ダウン・コートを買うときの注意

本宅サイト「知のヴァーリトゥード」の 50万ヒットが、日曜日に達成されそうと書いたら、普段はブログだけ読んでる人も本宅を見に来てくれたようで、妙にアクセスが増えている。

そのため、到達予想は「本日中」ということに変更されたので、キリプレ和歌狙いの人はよくウォッチしていただきたい。

ところで今日はダウン・コートのお話である。中国製のダウン(羽毛)が安く入手できるので、昨年の秋冬シーズンから、婦人物のダウン・コートがずいぶん市場に出回っている。暖冬傾向で、特別寒いわけじゃないのに、流行りというのは怖いものである。

このダウン・コート、買うときは注意して頂きたい。あまり安いものを買うと、着ているうちに生地の表面からダウンが飛び出してきて、大変なことになる。表からも裏からも飛び出すので、コートの下に黒いセーターなんか着ていると、飛び出したダウンがこびりついて、目も当てられなくなる。

昨年暮れから今年の初春にかけて、アパレル・メーカーにはこの手の苦情が相次いだ。実際にクレームをつけるのは購入した人の一部で、多くはがっかりして着るのを諦めたか、バホバホに飛び出した羽毛に無頓着のまま着続けるかしたわけだが。

前々からダウン・パーカなんかを作ってきたスポーツウェアのメーカーは、取り扱いに慣れているので、目の詰んだナイロン生地を使うだけでなく、さらに念を入れて、ダウンを一度不織布などで包み、それをパーカの生地の中に詰め込んだりする。だから、ダウンの飛び出しは皆無というわけじゃないが、かなり防げる。

しかし、単に流行に乗って作ってみたという一部の婦人服メーカーは、ダウンの取り扱いに関するノウハウがないので、安物の生地に軽い気持ちで直接ダウンを詰め込んでしまう。すると、生地の縦糸横糸の隙間から、ダウンがどんどん飛び出してきてしまうのだ。

今度の秋冬シーズンは、量販店が大挙してダウン・コートの取り扱いを増やすらしい。柳の下のドジョウを狙っているわけだ。だが、流行りに乗りやすい層は昨年既に買っちゃったし、今年買うのは 1年遅れで流行を追う層だから、ますます安物買いに走る人たちである。

そうなると、ダウン飛び出しの苦情が昨年以上に増えるんじゃないかと心配だ。

ダウンコートを買う際には、よ~く手で触って感触を確かめていただきたい。頼りなげな薄い生地の内側に、いかにも直接ムニュムニュの羽毛の感触のあるやつは、ちょっと危ないので避ける方が賢明だ。なんとなくゴワゴワめの感触のある方が安心なのである。

それから、今年もフードの縁に毛皮が使われているタイプが流行りそうだが、私は個人的には毛皮は嫌いである。PETA という団体があって、ちょっと過激な活動もしているのだが、「毛皮を着るぐらいなら、裸の方がまし」 という主張だけは、ちょっと共感してしまう。いや、本当に裸で街を歩けというわけじゃないんだが。

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2008年10月24日

「知のヴァーリトゥード」 50万ヒット達成目前

ここのところちょっと忙しさが続いて、あまり意識していなかったのだが、昨夜、本宅サイト「知のヴァーリトゥード」のカウンターをふとみると、49万9200ヒットを越していた。

ということは、私のサイトの常として週末はアクセスが減るとしても、遅くとも日曜日には 50万ヒットを達成してしまいそうだ。

「知のヴァーリトゥード」というサイトは、平成 13年の終わり頃、我が家のある地域がようやく ADSL 接続可能となり、我が家のインターネット接続を ISDN から ADSL に変えたのを機に、年明けの 1月 16日に開設した。

だから今、6年と 10ヶ月を越えたところで、来年早々 7周年を迎える。この間に、我が家のインターネット接続は光ファイバーに変わった。この分野の流れは速い。

開設当初は、敢えてよほど親しい友人以外には知らせず、ひっそりと運営していたので、アクセスは微々たるものだった。1日のアクセスが 50を越えるようになったのは、翌年の 平成 15年になってからである。

それが、昨年の夏頃には、1日当たりのアクセスが 10倍の 500以上に増えた。ところが、このまま伸び続けるかと思ったらそういうわけでもなく、近頃は 400内外まで減ってきている。「インターネット離れ」 なんてことが言われているが、多分そんなこともあるんだろう。昨年はきっと、「インターネット・バブル」の様相を呈していたのだ。

ただ、私のサイトへのアクセスが全体として減っているのかと言えば、またまたそういうわけでもなく、ブログの "Today's Crack" への直接アクセスと合計してみると、昨年からほぼ横ばい傾向だ。なんのことはない。本宅を経由せず、直接ブログに来てくれる人が増えただけみたいなのである。

確かに、アクセス数だけをみれば、いまや  "Today's Crack" は本宅の 2倍以上の集客力をもっている。それで、本宅は 6年 10ヶ月でようやく 50万ヒットだというのに、ブログの方は、4年で 100万ヒットをあっさり越えてしまった。これも世の習いである。

で、恒例のキリプレである。本宅サイトの 50万ヒット目をゲットされた方は、メールか BBS でお知らせ頂きたい。いつものように、和歌を捧げさせていただくことになっている。これまで 7名の方に和歌を捧げた。(参照

今どき、和歌を捧げられるなんて機会は滅多にないので、よろしければ狙ってみていただきたい。本日朝の時点での単純計算での到達予想は日曜日の夕方頃だが、キリ番狙いが増えると、ずっと早まる傾向があるのでご注意。

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2008年10月23日

静かな文化と、にぎやかな文化

毎日新聞某地方版の記者が、「韓国の電車内は携帯電話自由でとてもにぎやか 日本でも思う存分通話してもいいのでは」と署名記事を書いて、話題になっている。(参照

元記事削除のため、オリジナルは確認できないが、毎日新聞、時々「飛んで火にいる夏の虫」的役割を演じるのがお好きなようだ。

私は何と、韓国には一度も行ったことがない。中国本土にもない。アジアで行ったことのある外国は、返還前の香港に数度行っただけである。だから、韓国の地下鉄の中の事情なんて、全然知らなかった。

ただ、香港の庶民的レストランの圧倒的喧噪を(参照)知っているので、ソウルの地下鉄もそれほど遠くないという事情も、なんとなく想像できる。毎日新聞の記事によると、こんな様子らしいのである。

ソウルの地下鉄に乗ると、大声で女性用のストッキングなどを売り歩く男性らがいて、とてもにぎやか。寝入った2歳の息子を抱いて乗車すると、席を譲ってくれる男性がいて、さりげない心遣いに感心させられた。

車内では、若者からお年寄りまで携帯電話でおしゃべりしていた。日本には静かに乗車するよう努める暗黙のルールのようなものがあり、電車内で通話すると、他の乗客の冷たい視線を浴びるが、韓国の習慣では問題がない様子。

そして、記者はすぐにこう続ける。

日本でも「せっかく外出時に重宝する道具なのだから、思う存分、通話してもいいのでは」と思った。

ちょっと細かいことを言えば、後の方は、文章のプロのくせに、「日本でも」 という言葉の位置とカギ括弧の使い方が適切ではないので、「韓国で通話するのは OK だと、日本に帰ってきてからも思った」みたいに受け取られかねないが、記者の本意は「日本人も電車で思う存分ケータイで話してもいいんじゃないか」ということのようなのだ。

それに対して、2チャンネルでいろいろな意見が書かれている。ざっとみると「どうして韓国に合わせる必要があるのか」といった否定的なものが圧倒的に多いが、「電車内の会話は OK なのに、どうしてケータイがいけない?」「電車内のおばちゃん同士の声高な会話の方がうるさい」といった問題提起的なものもある。

基本的なことを言えば、同じ程度の声の大きさなら、ケータイでしゃべるのを聞かされる方が、普通の会話に比べてずっと癇(かん)に障る。ある聞き取り調査でもそんな結果が出たという記事を読んだ覚えがある。それは、実感に即しても理解できる。

ケータイで話す一方通行的な言葉は、そばで延々と聞かされると、やはり不自然でイライラする。ただ、大声の会話は OK だが、ケータイは小声でもうるさいというわけじゃない。大声の会話は、「今、電車内なのでかけ直します」という数秒間の控えめで小声の通話より、当然にもずっと迷惑である。

要は程度問題で、小声のケータイ通話でも延々とやられると、声のボリュームの割にはかなり迷惑ということなのだ。これぐらいのことは、誰でも実感しているんじゃないかと思う。

ただ、ソウルの地下鉄の場合は、基本的な環境がかなり違っているようなのだ。何しろ、地下鉄内で物売りがにぎやかにモノを売り歩いているらしい。そして、周り中ケータイで遠慮なくしゃべりまくっているようなのだ。

そんな環境の中で、「ケータイの話し声が癇に障る」なんて言ったら、神経過敏扱いされる。とにかく全体的ににぎやかなので、ケータイで何をしゃべろうが、そのにぎやかさの中に埋没してしまうということのようなのだ。

毎日新聞の記者さんのチョンボは、その基本的な「環境」、言い換えれば「文化」の違いを無視して、「せっかく外出時に重宝する道具なのだから、思う存分、通話してもいいのでは」なんて、ノー天気に書いてしまったことである。

世界には「静かな文化」と「にぎやかな文化」というのがある。どちらがいいとか悪いとかではなく、基本的には慣れと好きずきだ。日本はどちらかといえば「静かな文化」圏に入り、祭りとか酒を飲んだときに、急に「にぎやか文化」に振れてバランスを取っている。

この「ハレ」と「ケ」の区別というのはなかなか重要なもので、それをごっちゃにすると大変なことになる。日本の電車の中は、祭りでも酒場でもないので、そこに急に「にぎやか文化」を持ち込まれたら、そりゃ、一悶着起ころうというものである。

毎日新聞の記者さんの言い分は、「電車内でもケータイで思い切りしゃべりまくりたいから、日本文化を捨ててしまえ」と言ってるようなもので、まともなマスコミとも思えない暴論なのだが、問題は、書いた当人もデスクも、それに気付いていないらしいことである。

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2008年10月22日

「疲(つか)らす」だなんてねぇ

文化庁文化審議会国語分科会の漢字小委員会というところが、常用漢字の見直し原案をまとめたそうだ(参照)。お疲れ様である。

「私」の読みに 「わたし」 を追加するほか、「委(ゆだ)ねる」 「育(はぐく)む」 「応(こた)える」 なども追加し、「疲(つか)らす」 は削除するのだという。

わたしは自分のサイトで、「私」を一人称として採用しており、暗黙のうちに「わたし」と読んでもらえるものと期待していて、多分実際にそう読んでもらえていると思っている。「わたくし」と読んでもらっても、別にいいけど。

小学生の頃に読んでいた「毎日小学生新聞」の漢字学習のコーナーに、「私」の訓読みは「わたくし」しかなくて、「わたし」とは読まないと書いてあった。子供心に「そんなアホな」と思った記憶があるが、そのアホな話がさらに今まで 40年以上も生きていたとは知らなかった。

それだけでなく、「委(ゆだ)ねる」 「育(はぐく)む」 「応(こた)える」 なども認められていないということも知らなかったし、そうかと思うと、「疲(つか)らす」 なんて、文法的に明らかに間違った読みをこれまで認定していたなんてのも、初めて知った。一体どういう神経していたんだろう。

「疲らす」は、明治頃の擬古文調の文章なんかには慣用的と思われる用例が (「文豪」とか「大家」と称せられる人の文章にも)なくもない(注)が、正しくは古語の「疲る」も下二段活用だから、「つからす」にはならない。それに、現代語ではほとんど使われない。

これ一つ取ってみても、常用漢字表というのは、あんまりまともに信頼しすぎるとあぶないものだとわかる。何しろ文化審議会国語分科会というのは、「さわり」の本当の意味も知らないところなんだし。(それについては過去に 2度書いているので、こちらこちら を参照)

常用漢字なんて、元々「目安」ということで作られたもので、罰則なんてないんだから、我々としてはこれまで通り、フツーに使い続ければあまり問題はない。こんなのにこだわりすぎると、日本語がおかしくなる。

A-TOK を信頼する方が、ずっとまともな文章がかける。試しに「つからす」と入力して、いくら変換キーを叩いても「疲らす」になんて変換されなかった。

注 「疲らす」 と文豪、大家

こちらこちら を参照の上、「疲らす」でページ内検索していただきたい。

常用漢字の読みとして認められてきたのは、制定当時の文化審議会の偉い先生が、「漱石や露伴も使ってるんだから」 と、ごり押しして認めさせたんだろうと想像される。

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2008年10月21日

歌舞伎座を建て替えるなら

建て替えのため取り壊されることになった歌舞伎座で、来年 1月から 16ヶ月間ぶっ通しで「さよなら公演」が行われるんだそうだ。

再来年 4月の公演が終わったら、取り壊して新しい歌舞伎座を建て始め、平成 25年に完成予定だという。建て替え中の 3年間は、新橋演舞場を中心に公演が行われるらしい。

今の歌舞伎座は、めちゃくちゃ大きな銭湯みたいな正面といい、なかなかの風情があって、6年前に国の登録有形文化財になっている。それだけに、日本建築学会が一昨年に「歌舞伎座の保存に関する要望書」を提出するなど、観客からも保存を求める声が上がっている。

建て替え後はビルと劇場の複合施設になるというので、今のような風情のある外観は望めないだろう。ちょっと残念な気もするが、耐震構造やバリアフリーの問題もあるので、いずれにしても今のまま使い続けるのは無理がある。

何しろ、今の歌舞伎座はお客に優しくないのだ。歌舞伎座に行ったことのない人には信じられないだろうが、客席は三階席まであるのに、エスカレーターもエレベーターもない。階段を昇るしかないのだ。いくら若い観客が増えつつあるなんていっても、歌舞伎座はやっぱり年寄りが多いから、三階席まで辿り着くのにふうふう言っている。

それに座席が狭く、その間隔も狭い。あれは戦前の日本人の体格に合わせて作られている。私なんか図体がでかいので、前の座席の背にぶつかる膝を窮屈に折りたたんでいなければならない。半日あそこに押し込められるのは、かなりの苦痛なのである。

どう考えても、もう少し観客に優しい構造に造り替えてもらわないことには、歌舞伎座の未来はないのである。

それと、もう一つ希望がある。

歌舞伎座の公演は 1日 2交替制で、昼の部は午前 11時、夜の部は午後 4時半開演というのが基本になっている。だがはっきり言って、夜の部が 4時半開演というのは、勤め人にはあんまりではないか。せめて 6時開演、9時半終了みたいなスケジュールにできないのか。

今月の公演を例に取れば、夜の部は 4時半から「本朝廿四孝」。それが終わると 35分の幕間があり、6時半から 「雪暮夜入谷畦道」。そして 15分の幕間を挟んで、7時 53分から舞踊の「英執着獅子」があって、8時 24分に閉幕となる。

これを 6時開演に繰り下げて、一幕目の後の 35分の幕間を 15分に短縮すれば、計算上、9時34分に終われる。これだと年寄りにきついというなら、5時半開演にして、9時 4分にはねるのも可能だ。

初日から三日目ぐらいまではどうしても時間が押せ押せになる(注 参照)が、それでも、10時頃には終われるだろう。早く帰りたい向きは、4~5日目以降に足を運べば、芝居もこなれていてちょうどいい。

こうしたスケジュールにできないのは、ひとえに劇場内の食堂が、外に出られない客に高い昼食と夕食を食わせたいからである。歌舞伎座 2階の吉兆の弁当なんか、6,000円以上するのもある。あれって、えらい既得権益だ。決して失いたくないだろう。

しかし考えてみれば、6,000円もする弁当を、たった 35分の幕間に食わせるというのもずいぶん乱暴な話だ。食ってる時間は正味 20分もなかろう。そんなことなら、開演前とか後に、劇場の外でゆっくり食わしてくれる方がずっとありがたいではないか。

劇場内の食事は、ほんのスナック程度でいいだろう。そうすれば、食事のための 35分の幕間を短縮できるので、時間の節約にもなる。観劇ついでに贅沢な食事をしたければ、幕がはねてからビル内のレストランでゆったりと食えばいい。

建て替え後は、劇場と商業施設の複合ビルになるというから、是非そんな形にしてもらいたいと思うんだがなあ。そうでないと、歌舞伎は暇人と年寄りのものでしかなくなってしまう。

注 「三日定法」

初日から三日目ぐらいまでは、役者にセリフが入っていない場合があるので、黒衣が陰に隠れてプロンプターになる。そのため、どうしても間が延びて時間もかかる。それを称して 「三日定法」 なんていう。

(時々、結構離れた席まで黒衣のセリフを付ける声が聞こえて、しらけちゃうこともある)

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2008年10月20日

芋煮会って都会向きの行事じゃない

芋煮会」の季節である。といっても、18歳で庄内を離れた私は、もう 40年近くも芋煮会をしていない。ああ懐かしい。

高校時代は、10月の声を聞いたら毎週日曜日は芋煮会だった。クラスの芋煮会、部活の芋煮会、サークルの芋煮会、近所の芋煮会 … などなど。

土曜と日曜が休みの近頃の高校生諸君は、秋のシーズンに芋煮会を何度しているんだろう?

ちなみに、私にとっての芋煮会は庄内の芋煮会であるから、肉は豚肉で、味噌を使い、場所は主として庄内浜である。庄内砂丘はだだっ広いから、見回してみても、芋の鍋を煮るたき火の煙の立ちなびくのがぽつんぽつんと見えるだけで、場所取りなんてことは全然必要なかった。

それに、ゴミの問題で頭を悩ませた記憶もない。大体、浜辺に穴を掘ってたき火をするのだから、燃えるものは全部燃やして埋めてしまう。全員若い時分だから、残飯だって絶対に出ない。食えるものは、全部胃袋の中に納めてしまう。

だから「芋煮狂騒で怒りグツグツ 場所取りやごみ 仙台」というニュースを見たときは、かなり違和感を覚えてしまった。今や、仙台は芋煮会をするのに場所取りで大騒ぎをし、近くの込み集積所に大量のゴミを捨てて帰る輩が増えているらしい。

芋煮会というのは、元々東北の地方都市や田舎の行事なのである。場所取りなんてことは無縁のもののはずだったのだ。ところが、東北でただ一つ、大都会が生まれてしまっている。それが仙台である。

大都会で田舎の行事をすれば、無理が生じるのも当然なのだ。今や、仙台の芋煮会は芋の子洗い的な様相なのだそうだ。気の毒に。

花見の時期、朝の上野公園を散歩すると、そこはひたすらゴミの山である。日本人は世界基準から見れば、極端なほどに清潔好き、きれい好きの国民なのだが、なぜか、酒が入るとものすごくだらしなくなってしまう。

それだけじゃなく、普段はきれい好きな分、時々、酒を飲んでだらしなくなりたいという欲求が、ものすごく強くなるみたいなのだ。というわけで、花見の時期に一挙にその欲求剥き出しで、蕩尽の限りをつくす。そして、東北ではもう一度、秋に芋煮会となる。

ただ、伝統的な芋煮会はたき火をするだけに、それほどだらしなくはなれなかった。とはいいながら、イベントが都会的になり、たき火から卓上コンロやキャンプ用のガスバーナーなんかに変化してしまうと、問題は複雑になる。

火の扱いが楽になるので、その分、酒を飲んでだらしなくなれる。そして、たき火じゃないと、ゴミを燃やして帰るわけにも行かない。ああ、芋煮会って、本当に都会向きのイベントじゃない。

都会向きにアレンジしたエコロジカルなスタイルの芋煮会を考えないと、秋の広瀬川は大変なことになってしまう。

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2008年10月19日

駄々をこねる中国という強者

海賊版使用率 84%! マイクロソフトの一掃策に 8割が反対なワケ ― 中国」という長い見出しの記事に、いろいろなことを考えさせられてしまった。

根本的問題は、国際基準とこれだけのギャップをもつ国が、国際的影響力をこれだけ持ち始めているということである。

記事は、マイクロソフトがこのほど打ち出した 海賊版一掃措置に対して、中国の大手ポータルサイトが実施した調査では反対者が大多数を占めたとして、その理由を「中国青年報」が分析したというものである。

この調査では、回答者 6万人のうち、海賊版の使用者は 84.2%だったというから、すごいなあと思うのである。ただ、記事が OS である Windows の画像を大きくフィーチャーしているので、中国では 8割以上のユーザーが Windows の海賊版を使っていると思いこみたくなりそうだが、冷静に読めばそうではない。

OS 以外のプログラムを含めて、「海賊版の使用者は 84.2%」と言っているので、案外驚くには当たらないのかもしれない。一昔前の日本だって、海賊版に限らず、「1本のソフトを会社全体で使った」 とか、「友達同士でコピーしまくった」とかいうのを含めれば、それと似たような数字だっただろうと思うし。

ただ、今回の MS の措置を支持しない人が 83.5%に上り、「海賊版を追放し、正規版の権利を守ることは正しい」としながらも、「ユーザーも責任は免れないが、強硬措置を取るべき対象はユーザーでなく、海賊版製作・販売側だ」とする態度が大勢という分析には、ちょっと驚く。

海賊版を製作・販売するのは、それだけニーズがあるからだという市場原理を、中国のユーザーは理解していないみたいなのである。海賊版を作って売るやつがいるから、仕方なくそれを買って使っているのだと言わんばかりである。

こうした「弱者の傲慢」ともいうべき論理が、これだけ世界的影響力を強めた中国において、今でも堂々とまかり通るというのは、なかなか怖い話だとも思ってしまうのだ。

そりゃ、「MS のソフトは高すぎる」という不満もわかる。しかしそれならば、フリー・ソフトを使えばいいのである。中国ぐらいの市場規模があれば、「国策としてリナックス使用を促進するぞ」とか言って MS にプレッシャーをかけることぐらいできるだろうに。

国内の格差がいくら大きいといっても、中国はもはや「弱者」ではないのである。知的所有権というものの基本をさっぱりわかっていないみたいな IT 製品の情報開示強制(参照)など、世の中、強いものに駄々をこねられるのが、一番やりにくいのである。

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2008年10月18日

ポジティブ思考と負け惜しみの差

大分前に、朱鷺子さんがセルフのガソリンスタンドに、ガソリンタンクのキャップを置き忘れてきた話を書いておられた (参照)。

それを読んで、私は正直なところ 「朱鷺子さんたら、もう、そそっかしいなあ」 なんて思ってしまったのである。実にまあ、申し訳ないことを、心に浮かべてしまったものなのである。

というのは、他でもない、私自身がそれとまったく同じ事をしでかしてしまったのだ。一昨日の夜、出張から帰ってきて、ガソリンを入れようと、いつものセルフサービスのガソリンスタンドに車を乗り入れ、給油口を開けたら、なんとキャップがないではないか。「人の振り見て我が振り直せ」とは、よくぞ言ったものである。

私は近頃、たいていそのガソリンスタンドで給油しているので、店員に「キャップの忘れ物はなかったか」と訪ねたら、いろいろな大きさのガソリンキャップがゴロゴロ入ったプラスチックの箱を取り出してくれた。まあ、朱鷺子さんや私だけでなく、世の中にキャップを忘れる人は多いらしい。

ところが、その中に私の車に合うキャップはなかったのである。よく思い出してみると、その前に給油したのは、水戸の先のセルフのガソリンスタンドだったのだ。あの時はかなり急いでいたから、つい忘れてしまったようだ。しかし、そこは 70~80キロ先なので、取りに行くのは大変だ。

そこで私は昨日の朝、ディーラーに電話してわけを話し、キャップを取り寄せてもらうことにした。すぐに返事の電話が来て、今日の朝には届くから、定期点検がてら来てもらいたいというのであった。

そこで今日の 10時過ぎに、ディーラーに寄ってキャップを受け取り(1900円だった、高い!)、ついでに定期点検をしてもらったのだが、こういう時というのは、とことん間が悪いものである。点検が終わるのを待っている間にケータイに連絡が入り、急に水戸の先まで行かなければならない用事ができてしまった。

それで、ついでだから件のガソリンスタンドに寄ってみると、先週 12日に忘れた私のキャップが、造作なく見つかったのである。あぁ、こんなことなら、わざわざ取り寄せるんじゃなかった。1900円損しちゃったじゃないか。

しかし、私はポジティブ思考の人間である。だから今日も前向きに思い直したのである。「よし、これでどんなに遠くのガソリンスタンドにキャップを忘れても、予備のキャップができたから大丈夫!」

客観的にみると、ポジティブ思考と負け惜しみの差は、限りなく小さい。

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2008年10月17日

マルチ商法って、どうなんだろうねぇ

今さらながら世間を騒がせている「マルチ商法」だが、個人的には「うぅん、あれって、どうなんだろうねえ」と言うにとどめておこう。

私も過去に商売上の義理みたいなこともあって、マルチ商法のサプリメントを試しに買ったことがある。念のため改めて強調しておくが、「ただ試しに買っただけ」である。

私自身がマルチ商法をやったことは一度もないが、買ったことはあるのだ。私がそのサプリメントを買ったのは、仕事上の知人からである。ある日、所用でその知人の自宅兼オフィスを訪問したところ、彼は用が済むか済まないかといううちに、「とてもよく効く画期的なサプリメント」 の話をし始めた。

話の内容はほとんど忘れたが、アマゾン地域に生育する何とかいう植物とか、とくに厳選したローヤルゼリーとか、とにかく大変な希少素材だけを使用して画期的なメソッドで作られているので、とてもよく効くんだそうだ。毎日飲んでいるだけで疲労回復、体力増強の効果が著しく、風邪も引かなくなるという。

さらに、アレルギー、肩凝り・腰痛、高血圧、腎臓病、肝臓病、冷え性、近視・乱視、婦人病、頻尿、下痢、便秘など、ありとあらゆる持病に対応したサプリがある。それだけではない。ガンの進行が止まるとかいうのまである。サプリだか薬だかわけがわからない。

幸いにもガンとか高血圧とか下痢・便秘とかいう持病はないので、やたら高そうなのは丁重にお断りしたが、あまりに熱心に薦められるので、疲労回復・体力増強用と肩凝り解消とかいうのを、「本当に効けば儲けもの」と、軽い気持ちで買ってみた。まあ、その時は仕事上の「お付き合い」ということもあったしね。

値段は、正確なところは忘れてしまったが、決して安くなかったことだけは覚えている。コンビニやドラッグストアで買うサプリメントと比べても、ずっと高かった。「ああいう大量生産のものとは、わけが違う」というのだが、実際のところはわからない。

金を払ったらどこかから品物が自宅に配達されるのかと思っていたら、彼の自宅の廊下の突き当たりが製品倉庫になっていて、大量に積み重ねられた段ボール箱の中からすぐに品物を出して渡してくれた。個人であれだけの在庫をもったら、かなりのリスクだろう。よっぽど気を入れて売りまくらないと追いつかない。

で、買ってしまったものは仕方ないので、毎日真面目に飲んでいたのだが、とくに疲れにくくなったとか、肩凝りがなくなったとかいう気はしないまま、1ヶ月ぐらいで全部消費してしまった。

「ちっとも効かない」なんて言ったら、「もっと続けて飲まなければ効果が現れない」とか言って継続を薦められるのが見え見えだから、それっきりにして、それから後は彼との仕事も敬して遠ざかることになってしまった。

風のうわさでは、私も知っているガンになった知人に「ガンの進行が止まる」という高いサプリを飲ませたりしたようだが、その甲斐もなく、しばらくしてその人の葬式に出た。効果の程は、多分、人によるということになっているのだろうね。

私の経験したのはたった 1社のものだけだから、それだけで全てのマルチ商法を語ろうとは思わない。ただ、飲んだだけで確実にガンの進行が止まるサプリがあるのなら、世界中の病院で採用されているだろうが、そうはなっていない。

だから、私はごく控えめに「うぅん、どうなんだろうねえ」というにとどめておいて、あとは行間を読み取ってもらうことにするのである。

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2008年10月16日

余った金は、ちゃんと消える

衣料品の価格でよく引き合いに出されるのが、男物の背広の値段の 10分の 1 が、シャツとネクタイの値段ということだ。

最近のシャツとネクタイの値段の主流は、2,900円から 4,900円というところである。ということは、背広の値段は 29,000円から 49,000円がボリュームということである。

30年ほど前、私が大学を出て就職しようとしていた頃、背広の値段は 46,000円から 56,000円というのが相場だった。当時、大卒の初任給は 15万円ぐらいだったような気がする。ということは、背広 1着の値段は、初任給のほぼ 3分の 1 といったところだったろうか。

これが、バブルの頃には 68,000円から 73,000円というところまではね上がった。これがボリューム価格で、ちょっと贅沢をすれば、20万円とか 30万円とかいうブランド・スーツが、大学出たての若いサラリーマンでも手が届いたという時代が、つい最近あったのだ。

ところが、それからどーんとバブル崩壊という事件が起きた。それを機に、衣料品に法外な金を払える層はごく一部の金持ちだけとなり、フツーのサラリーマンの買う背広は、上述のごとく、29,000円から 49,000円というところに落ち着いたのである。

この値段を可能にしたのは、中国で縫製するという「オフショア・ビジネス」である。しかし、いくら人件費の安い国で作るとはいえ、すごい落差である。なにしろ、30年前の値段より安いんだから。

モノの値段は 30年前からそれほど上がっていないのである。むしろ、背広みたいに下がっているものもあるぐらいなのだから。ところが、日本人の収入は多少は上がっている。じゃあ、余った金はどこに消えるのか?

ざっと言えば、「モノ」じゃなく「サービス」に消えたりしているわけだが、それだけじゃなく、余った金を注ぎ込んで、金をさらに余らせてしまおうという行為に向かったりしている。エンデは「パンを買う金と株を買う金は違う」と言ったというが、個人的には実感として理解できるのだよね。

誤解のないようにちょっとだけ触れておこう。ちょっと前に書いた「ネズミ講とどこ違うの?」という暴論に fn.line さんが付けてくれたコメントのように、「堅実な物作りをしている○○社のごく一部を所有し、事業が継続できるようにごくささやかに応援し、銀行の利息より少しましな利益に預かる」というまっとうな投資もある。

しかし、「余った金で金を買って、さらに金を余らせる」というタイプの投資(投機?)も、確かにある。

バブルの時期には、余った金は、株だ、土地だ、ゴルフの会員権だと、あまり実体のないものにつぎ込まれ、バブル崩壊で、多くは紙切れに変わってしまった。どうせモノに向かう使い道のない「余った金」だから、天の配剤でうまく処分してもらったのだ。

最近、私は経済についてトーシロ流の乱暴な言い方ばかりしているが、ついでに今回もその調子で乱暴を承知でさらに言ってしまおう。米国の金融バブルで余ったお金も、このようにして消えたのである。

余った金を実体のないところにつぎ込みすぎると、ちゃんとその実体をなくしてもらえるのである。かくして、金融立国の総元締めみたいな国も、少しは軌道修正を余儀なくされているわけだ。

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2008年10月15日

百貨店というお仕事

例の金融不安の余波で、ラグジャリー・ブランド商品の売り上げが落ちているようだ。

先頃資本・業務提携を発表した高島屋・エイチ・ツー・オー リテイリングによると、8月までの半期の売上げが前年同期比で、ルイ・ヴィトンが 10%、コーチが 15%、シャネルに至っては 20%以上落ち込んだという(参照)。

日本の百貨店では、業務提携というのはずっと前からあったが、近頃、資本提携ひいては経営統合によるグループ化が進んできた。百貨店がいくつかの有力グループに色分けされるという、米国みたいな様相にようやくなってきたようなのである。

これで競争力を高めようということなのだが、ちょうどそんなときに、米国の金融バブルがはじけて、世界中のラグジャリー市場に大打撃を与えることになった。百貨店の商品ラインはかなり贅沢品にシフトしているから、影響は大きいだろう。

私自身、近頃は百貨店で服を買うことは滅多にない。こんな言い方をして申し訳ないが、百貨店というのはもう終わりかけている業態だと、個人的には思っている。

百貨店の売場をみればわかることだが、あれは今や、ほとんど「場所貸し業」である。百貨店独自にマーチャンダイジングをしているフロアも少しはあるが、ほとんどは、メーカーに売場を貸しているだけだ。

百貨店の洋服売場の店員というのは、全てではないが、百貨店の社員ではなく、アパレル・メーカーから派遣された店員である。だから、消費者がほかの洋服を気に入っているようでも、自社の洋服を無理矢理試着させようとしたりする。

そして「こちらの方が映りがおよろしいように思います」なんて、わかったようなわからないようなことを言って、何とか自社の洋服を買わせようとする。そりゃそうだ。彼女らは、百貨店の店員ではなく、特定のアパレル・メーカーの人間なのだから。

「売れりゃ何でもいい」というわけじゃない。自社の洋服が売れないと困るのだ。だから、百貨店の店員の言うことを、あまり信じすぎてはいけない。

つまり、百貨店の洋服売場のほとんどは、アパレル・メーカーが自前で販売員を派遣して、自前で商品管理をして……、つまり、アパレル・メーカーが百貨店から場所だけ借りて、ほとんど自前で売っているのである。

ところが、不思議なことに、アパレル・メーカーがほとんど自前で売っているにもかかわらず、百貨店で売られる商品というのは、手続き上は、アパレル・メーカーから百貨店に卸して、百貨店が消費者に小売りしているという形になっているのである。

つまり、「アパレル・メーカーから百貨店」、そして「百貨店から消費者」という、2つの「売上げ」が、名目上は、発生しているのだ。実際上は、ほとんどメーカー側のオペレーションでまかなっているのに。

傍目から見れば、そんなややこしいことは止めて、百貨店はアパレル・メーカーから「テナント料」だけを取るということにすれば、経理上の面倒な手続きが消え、やたらややこしいコンピュータ・システムもすっきりして、ずいぶん合理化されるだろうと思う。しかしどういうわけか、そういう話は全然もちあがらない。

なぜかといえば、それは百貨店が「名目上の売上げ」という数字を欲しがっているからである。単なるテナント料だけをもらうのでは、この数字がぐっと下がる。すると、日本最大規模の売上げを誇る」という枕詞を付けてもらえなくなるのである。それが痛い。

だが、今どきこんな不思議な、無駄の多い商売をしていたのではどうにもならないので、百貨店も最近は「リスクを負った自前のマーチャンダイジング」というのを志向している。ところが、これもなかなか進まない。

この点で進んでいるのは、「東の伊勢丹、西の阪急」なんて言われているが、私からみると、両方とも立地に恵まれている(後背地に日本最大級の水商売地帯)ことが大きいという気がする。日本中の百貨店がそれを見習っても、仕方ないと思うがなあ。

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2008年10月14日

仕事のスタイル

近頃私は「ネズミ講とどう違うの?」など、経済についての暴論じみた記事を続けざまに書いたりして、もしかしたら、かなりの誤解を植え付けてしまったかもしれない。

念のために断っておくが、私は経済についてトーシロではあるが、いくら何でも、それほど無茶苦茶な経済音痴ってわけでもない。

トーシロはトーシロなりに、フツーの経済記事ぐらいはちゃんと理解して付いていくぐらいの基礎知識がないわけじゃない。私の主たるキャリアは繊維業界のジャーナリストとして積んだものだから、経済面の記者には遠く及ばないにしても、経済がどう動けばビジネスがどうなるかぐらいの最低限の知識もあるとだけは言っておこう。

ただ、どうしてもマクロな経済学からみるのではなく、ドブ板を渡りながらの虫瞰図(鳥瞰図とは逆)的な実感視点からみてしまう習性が身に付いていて、さらに繊維やアパレル業界というのはどちらかというと、今やマイナーな産業になってしまっているので、「いけいけドンドン」的な方向には傾きにくい体になってしまっているのだ。

というわけで、私は経済に関してはかなりの慎重派である。なにしろ、何十年もウハウハ言うようないい目を見たことがない。

学生時代は「高度成長」という美名に隠れた超インフレ期で、いくらバイトで稼いでも使いでがあるほどの金は貯まらなかったし、いざ卒業という頃には、オイル・ショックで、文学修士なんて肩書きは、就職には何の役にも立たなかった。

ようやく潜り込んだ繊維業界は、1985年のプラザ合意以後の円高で、一気に斜陽産業となり、一息つくはずだったバブル期には、外資系の団体に所属していたために、何の恩恵にもあずかれなかった。円高がどんどん進んでいたから、いくら外貨で資金を増額してもらっても、円に換えた途端にがくっとシュリンクしてしまうのだ。

こんなキャリアのおかげで私は、私は極々慎ましやかな金の稼ぎ方を身につける他なかったのである。周囲にちょっとした利益を生じさせたり、無駄を省いたりするお手伝いをしてあげて、そのおこぼれを頂戴するというスタイルだ。

コンペチターからシェアを奪ったり、潰したりするやり方ではないので、周囲の誰にも損はさせない。恨みも買わないから、何とか仕事も廻ってくる。これまでだって、大きく儲けることもなかったが、その代わりいきなり大損することもなく、それなりに食ってきたのだ。ということは、大正解ではなかったかもしれないが、大失敗でもなかったのである。

このスタイルを続ければ、最期には割ときれいに死ねるのではないかと思っているわけなのである。

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2008年10月13日

麻生さん、案外長持ちしちゃったりして

麻生さんが新首相になって、すぐに衆議院解散、そして総選挙と思われていたのだが、あれって結局、根拠のない「気分」に過ぎなかったのね。

麻生さんが案外しれっとしちゃったので、今ではみんな、「選挙どころの情勢じゃない」なんて言い始めた。

世界恐慌になりそうなこの重大な時期に、政治的空白を作るべきじゃないとか、追加経済対策をとりまとめてからでないととか、来年度予算を決めるまではとか、言い出せばいつまで経っても解散なんてできなくなってしまう。

そのココロは、今解散して総選挙なんてやったら、民主党が勝つに決まっているからだ。負けるに決まっている戦を喜んでやるバカはいない。解散するほかないまでに追い込まれたような気分になっていたのは、前の福田さんのときで、麻生さんは自殺行為をしないで済ませようとしている。

麻生さん、もしかしたら、案外長持ちしてしまうかもしれない。小泉さんが長持ちしたのも「モノをはっきり言った」からだ(参照)。国民は政策がどうこうよりも、「わかりやすい」(ような気がする)政治をしてくれるリーダーなら、支持してしまうのである。

本来なら政策をみて支持、不支持を決めるべきなのだが、日本の政治家はこれまで、政策なんてものをはっきり明示してこなかったから、ふと気付いてみると、「わかりやすさ」が判断基準になってしまっている。

肝心なことを回りくどく言うくせに、どうでもいいところでぶち切れて子供じみたことを言う福田さんでは、支持されようがなかったのである。

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2008年10月12日

オバマさんに関する四方山話

バラック・オバマの支援のため、グレイトフル・デッドが 13日に 1日限りの再結成コンサートを開くというニュースを聞いた(参照)。ああ、なんて懐かしい名前だ。

でも、ジェリー・ガルシア(1995年死去)のいないグレートフル・デッドなんて、「クリープを入れないコーヒー」(古い!)じゃないか。

グレイトフル・デッドといえば、ジェリー・ガルシアである。そして、数々のライブ盤の、1曲でものすごく長く引き延ばした演奏のボーカル部分の、ぶっ飛びすぎて微妙にハモっていない頼りないハモである。

オーソドックスなコーラスだと、あんなに頼りなく狂いまくったハーモニーを聞くと気持ち悪くなるが、グレイトフル・デッドのだと、なぜか気持ちいいのである。とにかく不思議なバンドだったのである。

この不思議なバンドが、今年 2月に続いて、またもやバラック・オバマ支援のコンサートを行うというのである。ジェリー・ガルシアもびっくりだ。

で、急に話題はずれるが、私は、日本で主流になっているらしい「バラク・オバマ」という表記に、ずぅっと前から割り切れない思いを抱いていた。だって、彼の本名の英文表記は、"Barack Hussein Obama, Jr." である。"Barack" だよ。どうして「バラック」じゃなくて「バラク」なんだ?

もしかしたら、「バラック」と表記しちゃうと「掘っ立て小屋」(barracks) のイメージに邪魔されるということで、「バラク」が多数派になってるんだろうか。と思いつつ、念のため調べたら、Wikipedia では「バラック・オバマ」になっていた (参照)。

英語では日本語的な促音というコンセプトがないから、確かに微妙なところではある。だが、私の感覚では「バラック」と表記する方が、英語本来の発音のリズム感に近いと思う。そして、さらに問題なのはアクセントである。

日本のニュース・アナウンサーの多くは、「バラク」を平板で発音し、さらに「オバマ」の「オ」にアクセントを置いている。が、これだと通じないということだけは知っておいた方がいい。本来のアクセントは、「バラック」の「ラ」、「オバマ」の「バ」にある。

さすがに、NHK のアナウンサーは「オバマ」の「バ」にアクセントを置く人が多いという印象がある。スペースシャトルの「エンデバー」も、ちゃんと「デ」にアクセントを置いていた。

「エンデバー」 を頭高型アクセントで言われると、庄内地方出身の私は、「いいんだってば!」と言われているような気がするのである。

(注: Wikipedia はその後、いつの間にか 「バラック・オバマ」 から 「バラク・オバマ」 というページに転送される設定になっていた)

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2008年10月11日

額に汗する人と心臓に冷や汗かく人

米国的な行きすぎた資本主義のコンセプトが揺らいでいると、ついに言われ始めたが、私に言わせれば「揺らぐほどの実体もなかったんじゃないの?」ということである。

元々実体がなくて、人は夢まぼろしに浮かれすぎていただけなんだから、フツーに戻るだけではないか。

「額に汗して働く」ことが軽視されていると言われて久しい。ところが近頃私は、「額に汗して働く」なんてことはあまりない。エアコンの効いたオフィスで、キーボードを叩いて収入のほとんどを得ているので、お恥ずかしい限りである。

とはいえ、株や先物の取引きで儲けているというわけではなく、それなりにまともな実体を反映した仕事をしているというつもりである。だから、やはりあちこち出向いて取材をし、セールストークもする。ただ、あちこち出歩いても、夏の都会を歩くのでない限り、「額に汗する」 までにはなかなか到らない。

それでも分類すれば、私の仕事は決して肉体労働というわけではないが、「額に汗する仕事」の方に入れてもらえるんじゃないかという気がする。「額に汗する」というのは、即物的な物言いではなく、象徴的な言い方だ。

同じ「汗をかく」なら、私は額に汗する方を選ぼうと思う。クリック一発で大金を動かすような仕事は、額に汗をかかない代わりに、「心臓に冷や汗をかく」のである。これは体に悪い。いや、それ以上に精神衛生にも悪い。

クリック一発で大金を得るデイトレーダーだって、機関投資家だって、それなりに情報収集にエネルギーを使っているのだろう。だから象徴的な意味で「額に汗」してないわけじゃないと反論されるかもしれない。

でも、ありゃやっぱり「心臓に冷や汗」の部類だというのが、私の印象である。乱暴な言い方をしてしまえば、「一体、何がおもしろいんだろう?」と思う。まあ、彼らからみれば「大して金にもならんことをこつこつやって、何がおもしろいんだろう?」ということだろうから、お互い様だが。

このエントリーは、多分に「好きずき」というコンセプトで書かれている。そりゃ好きずきだから、人にまで押しつける気はないが、私個人としては「心臓に冷や汗をかく」タイプの人間には、なりたくないのである。やろうと思えばやれないことはないだろうが、そうなろうとは決して思わない。

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2008年10月10日

ネズミ講とどこ違うの?

私は経済問題に関しては完全な素人で、自分がトーシロだとしっかり認識しているから、株だの先物取引だの、わけのわからないものには全然手を出したことがない。

わけのわからんものに手を出す気になれないのは、機械音痴の私の父が、パソコンをやる気になれないのとまったく同様である。

今では田舎で一人暮らしになってしまった父に「インターネットをやると、世界が広がるよ。刺激を一杯受けて、脳が若返るよ」といくらすすめても、「この年になって、どうして今さらわけのわからん機械に触らなきゃいかんのだ」と、いっかな乗ってこないのである。

同様に、「株をやっておく方がいいよ。確実な株だってあるから、老後のためにもいいよ」なんてことを、いくらすすめられても、私は「そんな面倒なこと、やりたくないよ」と、一向にそそられないのである。本音を言えば、「あれって、ネズミ講とどこ違うの?」なんて聞きたいほどなのだ。

とかなんとか言っているうちに、米国のサブプライム・ローン問題に端を発した金融不安が世界に波及してしまった。ああいうのって、やばい債権とわかっていても、次から次に売り渡してしまうので、最後にはババつかまされる。で、日本でも株価下落で大騒ぎになってしまっている。

私は株に手を出したことがないので、ほとんど人ごとだ。「経済が停滞すれば、一般企業や個人の生活も悪影響を受ける」というのは、人に言われるまでもなく当然理解しているが、実感としては、やっぱり人ごとなのである。

経済の浮き沈みで大きな影響を受けるのは、それに大きく関わっている人であり、私はほんの小さくしか関わっていないから、影響も最小限なのだ。急にウハウハ言うほど大もうけをすることがないかわりに、突然大損をこいて青くなるということもないのである。

景気停滞の影響は広く誰でも被るのだといっても、それならそれでお互い様だから、回復するまで我慢してさえいればいいではないか。投資なんかに手を出さない方が、気楽でいられるだけ得だと思っているわけなのだ。

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2008年10月 9日

いくら山谷でも 2~300円では泊まれない

「山谷は 200円、300円で泊まれる宿がいっぱいある」という石原都知事の発言に、台東区長が「重大な誤認」として抗議している。

そりゃそうだろう。今どき 200円とか 300円とかで泊まれる宿があるはずない。私が学生時代(ということは、30年以上前)だって、そんな安い宿は、知る限りではなかった。

もっとも、私は山谷には泊まったことがない。学生時代は東京でアパート住まいしていて、幸いにも追い立てを食らうようなことはなかったから、別に山谷の簡易宿泊所に泊まる必要がなかったのだ。だから、山谷についてはほとんど知らない。

ただ、旅先では何度か泊まった。リュックを担いでの貧乏旅行だから、まともな宿には泊まれない。駅の待合室、公園のベンチなどなど、横になれるところならばどこででも眠って夜を明かした。

そうした中で、比較的まともに眠れたのは、地元の大学の寮だ。夏休みなどは寮生が帰省しているので、部屋はがらがらである。今はどうなっているのか知らないが、そこに安い値段で泊めてもらえた。ただ当時のこととて、学生運動の強い大学だと、何とか派の活動家が議論を吹っかけてくるのには閉口したが。

その次になんとか眠れるのは、簡易宿泊所である。ただ、はっきり言って、当時の簡易宿泊所はものすごく臭いがきつかった。汗くささと酒臭さと煙草臭さの入り交じった臭いなのだが、それでも臭いというのは案外慣れてしまうもので、一晩寝るだけならなんとでもなった。

あんまりはっきり覚えていないのだが、宿泊料は、大学寮で 500円ぐらいの謝礼(学生運動に流れたのかなあ)、簡易宿泊所は、ランクによって 400円から 800円ぐらいまでの差があったと思う。まあ、当時のアルバイトの時給よりちょっと高いぐらい(2倍まではいかない)が相場だったような気がする。

で、ちょっとググって調べてみたところでは、今でもそうしたレベルの宿泊料が多いようだ。ただ、外国人観光客の宿泊も増えて、簡易宿泊所の設備も、当時より少しはこじゃれた感じになっているらしいから、時給の相場の 2倍以上というところも増えているようだが。

まあ、大したリサーチをしなくても、いくらなんでも 200円や 300円で人間 1人泊めるんでは、商売にならないことぐらいわかるだろう。石原さん、その辺の感覚はないみたいなんだなあ。

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2008年10月 8日

"You had better ~" という言い回し

教科書英語では 「~した方がいい」 を "You had better ~" と教わったが、それを実際の会話で使う場合は注意が必要ということが、最近ようやく少しは知れ渡ってきた。

これはかなり強い言い方で、下手すると 「~する方が身のためだ」 といった強制・脅迫的なニュアンスまで含まれる。

日本語の「~した方がいい」というそれほどきつくないニュアンスを表現するには、通常は、"You should ~" という言い回しをする方が無難だ。学校英語では、これは命令的言い回しであると教わったが、命令的なニュアンスは  "You had better ~" の方が比べものにならないほど強い。

また、人にものを頼むときは "Will you ~" と言えばいいと教わったが、私は実際の場面ではこの言い回しを使ったことがない。丁寧に頼むときは、大体  "Would you ~" や   "Could you ~" を使う。大抵の場面ではその方が確実に無難みたいなのだ。

とまあ、ことほど左様に学校英語は注意が必要だ。私は原則的には、別に英会話スクールなんかに通わなくても、学校英語だけでも十分いけるとは思うのだが、時として実際の会話の場面では使えない言い回しを、しかつめ顔で教えられていたりする。

で、 あまり使わない方がいい "You had better ~" という言い回しだが、私は過去に一度だけ、確信的に使ったことがある。

以前、外資系の団体に勤めていたときのこと、韓国支部からかなりべっぴんの若いキャリア・ウーマンが日本に出張してきた。ある日、仕事が終わって彼女を含む数人で食事をしたとき、彼女に "Do you like it?" (おいしい?) と英語で聞くと、彼女はなんと、「ミャー」 と答えたのである。

一瞬、眼が点になってしまい、"Who told you that word?"(その言い方、誰に教わった)と聞くと、「名古屋支局の I さん」という。やっぱり! よくよく聞いてみると、I さんは彼女に、"delicious"(おいしい)のお洒落な日本語は「ミャー」、"very delicious" (とてもおいしい) は「ドェリャミャーテカンワ」だと教えたらしい。

私は躊躇することなく(もちろん、冗談めかしてだが)、"You'd better forget that." (それは忘れた方が身のためだ)と彼女に言ってあげた。"Because, I-san can't be serious after five." (なぜならば、I さんは、5時を過ぎたら真面目でいることのできない男だからである)

あの場面では、あのくらいしっかりと言っておいた方がよかったと、私は今でも思っているわけなのである。

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2008年10月 7日

モノ地獄からの脱出

朱鷺子さんが「病室隅っこの生活」という記事を書いておられる。以前、ご主人が入院されたとき、20日間ほど病室に泊まり込んだときの経験だ。

ベッドと壁の隙間にせんべい布団を敷き、洗面器一つですべてが間に合ってしまう生活というのも、なかなかいいものである。

私は若い頃にしょっちゅう、背中にバックパックを背負ってあちこち放浪したり山登りをしたりしていたので、本当に「モノは少ない方がいい」と思っている。

日常生活だって、食器なんて箸と皿 1枚、カップ 2つあれば十分だ。あとは、下着 3セット、夏冬用の衣類各 3セット、布団があればいい。願わくはノート PC とインターネット回線が加われば、それほど不自由なく暮らしていける。

ところが、モノというのは魔物である。特別なことは何もしていないのに、知らぬ間に増える。収納しきれないほど増える。捨てても捨てても増える。それに、これが人間の業というものか、滅多に使わなくても、「愛着」なんて称して捨てられないものもいくつもある。

以前、実家の引っ越しをするときのことを書いた(参照)。あれには参った。昨年死んだ母が寝込んでしまう前にやや認知症っぽくなり、同じモノを何度も何度も買い込んでいたせいで、押し入れと納戸の奥が大変なことになっていたのである。以下にちょっと引用する。

一度納戸の奥にしまいこんでしまうと、その品物は「ない」ということになってしまって、また新たに買い求めてしまう。そしてその新たに買ったものをまた押入れの奥にしまい、またまた「ない」ということになってしまって、さらに同じものを買う。

かくして、引越しのときには、あちこちから同じようなものが、次から次に発掘されることになる。充電式小型掃除機、スリッパ山ほど、魔法瓶型の水筒、タオルケット、毛布、小鉢セット、湯呑みセット、土鍋、卓上コンロ、座布団カバー、目覚まし時計、灰皿、花瓶、旅行バッグなどなど。

その他、いかにも贋作っぽい掛け軸十数本、武者小路実篤の「仲よきことは美しきかな」の額、中元で貰ったタオルが熨斗紙付きのまま百数十本、結婚式の引き出物で貰った陶器、漆器の類は数知れず、何とか友の会の積み立てで買ったまま、使いもしない電気毛布、健康器具の数々。

ああ、モノがありすぎるというのは、一種の地獄である。モノ地獄である。あるいは、今の日本自体が、地獄の様相を帯びているのかもしれない。モノは溢れるほどあるのに、それを維持するために金を使わなければならない。それで「貧困」なんて言っている。「モノ持ち貧乏」だ。

娘たちがすべて嫁に行ったら、夫婦二人で慎ましやかに暮らしたい。最小限の鍋釜、食器、衣類、寝具、本ぐらいのものさえあればいい。今ある家の部屋の半分は、たまの来客が泊まれるように、がらんどうにしておきたい。

ちょっと考えてみると、慎ましやかに暮らすためには、PC は有力なツールである。これさえあれば、モノはかなり減らせる。まず既に、百科事典なんてものは要らなくなった。私の本棚を見ると辞書類だけでも相当並んでいるが、これだって 4分の 1ぐらいに減らすべきだろう。

リビングルームに鎮座ましましている大型液晶テレビだって、あんなものは要らない。テレビを見たかったら、PC で見ればいい。音楽だって PC と iPod でいける。書類の山は、デジタル化しておこう。

デジタル・ファイルはそんなに長持ちしないという説もあるが、どうせ一つのメディアが主流から消える時には、必要なものだけ新しいメディアに保存し直すのだから、あまり気にしなくてもいいと思っている。10年経っても必要なファイルなんて、そんなにあるものじゃない。

食事は、でっかい中華鍋と小鍋がいくつかあれば米だって炊ける。食器もあんなにたくさんの種類はいらない。日本人は和洋中でそれぞれ食器を変えたがるが、別にそんなことをする必要はない。

私の身体の中には禅坊主の血が流れているので、「起きて半畳、寝て一畳」というライフスタイルへのあこがれがある。強烈にある。ああ、それなのに、周りを見ると、モノ、モノ、モノである。こんなにモノがあるというのは、肩の荷が重すぎるということだ。

ああ、今日から要らないモノは処分することを心がけよう。とはいえ、最近は捨てる時でさえ金がかかる。再利用してもらうために、フリーマーケットが盛んになってくれるといい。

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2008年10月 6日

「自民党の看板」と「麻生の暖簾」

自民党は今度の総選挙を「麻生ブランド」で戦おうとしているようだ。「麻生が~」というメッセージを前面に押し出している (参照)。

これは トヨタがラグジュアリーカー市場で 「トヨタ」 ブランドを隠し、「レクサス」 の名前でマーケティングしているようなものだが、そのレクサスだって、いい加減苦戦しているしね。

トヨタが敢えて歴史(そんなに長くもない歴史だが)と信頼に裏付けられた「トヨタ」というブランドを隠して「レクサス・ブランド」でマーケティングしようとしているのは、基本的には、トヨタが自信を持っていないからである。

大衆車から「上の下」に到るまでの市場では、トヨタは圧倒的な強みを発揮している。しかしラグジュアリーカー、つまり「上の中」以上の市場 (フェラーリなんかは 「特」 としておこう)では、メルセデスや BMW へのコンプレックスを払拭できない。だから、自ら素性をちょっとだけ隠して、目新しいブランドに頼ろうとしているのだ。

今回の自民党の戦略も、根底ではそれと似ている。この何十年もの間、選挙における「自民党」の名は、スーパーウェポンだった。とくに保守王国といわれる選挙区では、「唯一無二」ともいえる超強力なブランドだったのである。

ところが、そのブランド価値が近頃急速に色褪せてきた。もはや「自民党」の名で戦ったのでは、民主党に負けることがほぼ確実という情勢にまでなっている。そこで、「自民党」の看板を「麻生」の暖簾で隠そうという、姑息な手法を取っているのである。とっても広告代理店的な発想だ。

そういえば、ちょっと前にもこれと似たことがあった。「小泉チルドレン」がバカバカ当選してしまった、3年前の総選挙である。あの時も、自民党は小泉さんのイメージに頼って戦った。

しかし当時は「自民党」を隠す必要まではなかったのである。たまたま、「自民党」のブランドよりも「小泉」というブランドの方がずっと強いタイミングだったので、それを利用しただけだ。だから、従来の自民党の実力プラス小泉人気で圧倒的な勝利を収めた。

あれから、たった 3年で自民党の看板の威力はここまで力を失った。力を失わせたのは、ある意味では小泉さんご本人である。自民党の看板の力の落ちた分を、麻生の暖簾の力でいかにごまかせるかというのが、今度の選挙の焦点になる。

よっぽどうまくやらないとごまかしきれるものではないと、私個人は見ているけれど。

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2008年10月 5日

首都高とこんにゃくに関する備忘録

土曜の朝に泊まりがけの仕事にでかけ、日曜の夜にようやく帰ってきた。これで、近頃押せ押せだったスケジュールがようやく一段落。

日曜の更新は夜の 9時過ぎにようやくとりかかったが、疲れと眠気とで、まともなことを書く気になれないのである。で、今日も備忘録程度ということで。

なにしろ、ウチのサイトは土日、祝日のアクセスが極端に少ない。月曜日にちゃんとしたまともなことを書くので、今日のところは、ご勘弁を。

あ、そうだ、今日の昼過ぎ、首都高の電光掲示板に、1カ所も渋滞箇所がないというのを、生まれて初めてみた(夜中とかを除く)。高井戸から三郷まで、あっという間に通り抜けることができた。

首都高もこのくらいスムーズなら、お金を払う意味もあるのだが。来週 3連休なので、今週は出控えが多かったのかな。

あ、もう一つ。今日、たまたま、こんにゃくゼリーというものを食う機会に恵まれた。

息が詰まらないように、覚悟して食った。あれがなくなると困るというダイエット中の人や糖尿病の人がいるようだが、もしなくなったら、こんにゃくを食えばいいと思った。山形県ならどこに行ってもある玉こんにゃくの方が、ずっとおいしいぞ。

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2008年10月 4日

実はお宝

先週、インターネット接続困難な僻地に 4泊 5日も滞在してしまったので、今週からは仕事が押せ押せである。私は土日も祝日もないので、今日と明日はさらにばたばただ。

というわけで、今日はほんの備忘録程度である。ウチは土日のアクセスが少ないし、ちょっとお許しいただきたい。

さっき、車の運転をしながら、TBS ラジオの「永六輔その新世界」を聞いていたら、タレントの松本明子がゲストで出ていた。彼女の告白によると、堀越学園時代、渡辺プロダクションの寮の倉庫にほったらかされていた品物をこっそり持ち出し、国立駅前ののみの市で売りさばいて、学費に充てていたそうである。

その品物とは、小柳ルミ子のデビュー当時の衣装とか、芸能人水泳大会で着られた水着とか、いろいろあったそうだ。当時に国立駅前でちょっと変わった衣装を買った人、それは、実はお宝の可能性があるぞ。私は別に興味ないけどね。

以上。

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2008年10月 3日

非常識の裾野

例のこんにゃくゼリーの問題で、いろいろな意見が出ている。餅で死ぬ人の方がずっと多いとか、それでもやっぱり、危険な食品を野放しにしておくべきではないとか。

私は自分なりの結論を用意しているわけじゃないが、この問題を考えるときに、餅と一緒にすべきじゃないとだけは言いたいと思う。

私は餅という食べ物のリスクを結構重要視していて、このことについて、過去に 2回書いている (参照 1参照 2)。昨年正月の記事には、"元日付のニュースでは、東京消防庁によると、「70-90歳代の男性 7人と女性 2人の計 9人が病院に運ばれ、うち 5人が重体」となっている" と紹介している。

たった 1日足らずの間に 9人も病院に担ぎ込まれて、5人が重体になり、翌日付のニュースでは、そのうち 2人が死んでしまっているのである。このことからもわかるように、正月の餅というのは、フグなんかよりもずっとリスキーな食品なのだ。

ただ、正月の餅が「フグなんかよりもずっとリスキー」というのは、一人の人間が食べるとして、餅とフグとではどっちが危ないかという問題ではない。餅という食品のマーケット的な広がりを含めての話である。

考えてみるがいい。正月になれば、日本人の多くが餅を食う。非常に少なく見積もっても、おそらく 3人に 1人は食べるだろう。ということは、日本中で何千万人の人が一斉に餅を食うのである。

一方、フグなんてフツーの人の口には滅多に入らない。生まれてから一度もフグを食ったことのない人だって、いくらでもいる。私の周囲にも何人もいる。分母が違うのだ。

同様に、餅は食ったことがあるが、こんにゃくゼリーを食ったことのない人だって、いくらでもいる。現に私がそうである。これを考えれば、「こんにゃくゼリーより餅の方がずっと危険」というのは、正しくもあり、間違いでもある。視点によるのだ。

と考えれば、こんにゃくゼリーはそれほど多くの人が日常的に食べているわけでもないのに、時々死者が出ちゃうというのは、「やっぱり、ちょっとやばいかも」と思うのも自然のことと思う。

さらに実際に死んでしまうのは、息がつまって「うっ、やべ!」と思ったけれど、なんとか吐き出すか飲み下すかして助かった人の数の何十分の一、何百分の一だろうと想像すれば、ちょっとどころか「けっこう、やばいかも」となってもいいかもしれない。

しかし、その「やばさ」は既にかなり広く知られていて、パッケージにも注意書きがある。今回久しぶりに出た死者というのは 2歳にもならない子どもで、おばあちゃんに凍ったものを与えられて食べたのだという。この非常識さを勘案すると、あまりヒステリックに言い立てるのもどうかという意見にもうなずける。

しかし世の中には、赤ん坊に凍ったこんにゃくゼリーを食べさせるおばあちゃんみたいな、命知らずの非常識人間が、いくらでもいるのである。先日も、小学校の屋上の採光窓の上でジャンプして、ガラスを突き破って墜落死した子どもがいたではないか。

そこまで行かなくても、休日のファミレスの禁煙席は大人同士が多く、煙がもうもうと漂う喫煙席は小さな子どもを含む家族連ればかりということなどを見ても、世の中というのは小さな非常識程度なら平気でまかり通るところなのである。

こうした「小さな非常識の大きな裾野」があればこそ、極端な非常識だって生まれるのだ。今、言われているのは、そうした極々少数の「極端な非常識人間」を救うために、こんにゃくゼリーを世の中からなくしていいのかという問題である。

冒頭にも書いたように、私はこの問題の結論を持っていない。ある意味「小さな非常識の裾野」を小さくすれば極端な非常識だってずっと減るだろうが、いつまでたってもゼロにすることはできない。それが難しいところである。

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2008年10月 2日

7年前の Google で遊ぶ

米 Google が創立 10周年を記念して、10月末までの期間限定で、"2001 Google search" というサービスを提供している。

2001年、つまり 7年前の時点のウェブの世界が検索されるというものだ。インターネット・アーカイブにもリンクされていて、そこに当時のページが保存されていれば表示される。

ちょっとしたタイムマシン気分を味わえるが、2001年版の Google のトップページは、今の目で見るとややもっさりしている。そういえば、近頃ロゴのフォントがスリムになったなあとは思っていたが、改めて比べてみると、一目瞭然だ。

7年前の Google トップページには、"Search 1,326,920,000 web pages" と、高らかに表示されている。当時は、Google に載っかったウェブページが、13億2692万ページしかなかったということがわかる。

一方、今年 7月末に Google は、固有のURLを持つウェブサイトの数が 1兆を突破したと発表している。これはページの数ではなく、サイトの数なので、ページ数でいったらどのくらいになるのか、見当が付かない。

何しろ一説によると、1日に数十億ページのペースで増加しているというのだから、もはや天文学的数字である。それで、Google もいつの頃からか、検索されるページ数の表示なんてしなくなった。しても意味がないから。

ところで、私の本宅サイト「知のヴァーリトゥード」は、2002年の 1月 16日にスタートしていて、Google に載るようになったのは、確か その年の春先だったと思う。というわけで、2001年の時点の Google では、惜しいところで検索できない。

いや、もし検索できたとしても、アーカイブで当時のトップページを見ると今とくらべてずいぶんダサダサのデザインなので、あまり嬉しくない。それにしても、ずいぶん長い間、個人サイトを運営してきたような気がしているのだが、まだ 6年ちょっとでしかないのだ。

ちなみに、首相官邸の今のトップページは、こんな だが、7年前のは、こんな だった。小泉さんが首相になったのはこの年の 4月だったのだが、やっぱり、今よりちょっとださい。今なんて、麻生さんの動画まであるし。

10月末までの間に、この 7年前の Google でいろんなキーワードを検索してみるとおもしろいかもしれない。例えば、「ちょい悪」は、わずか 54件、「麻生太郎」 は 1,890件で、「キムタク」 の 39,600件に比べても、あまりにもさみしい。

愕然としたのは、「ブログ」でググっても僅か 1,510 件だけだったことである。しかも、「ジョブログ」など、他の単語の一部を拾ったものが多く、さらに 「プログラム」 の最初の文字をミスタイプしたために引っかかったものも多い。本来の「ブログ」に関するページはごく少なく、しかもそのほとんどは「ウェブログ」と表記されている。

わずか 7年で、世界はこんなにも変わってしまったのである。例えばもし、「俺は小泉さんが首相になるのを、ブログで予言していた」なんてヤツがいたら、「特攻機のボイスレコーダー」 の教訓 を思い出してもらいたいぐらいのものである。

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2008年10月 1日

笹川さんの 「フェミニズム」

米金融安定化法案が「女性議長だから破裂した」という笹川尭自民党総務会長の発言を巡り、「Wikipedia には 『フェミニズム政策に積極的』とあるのに」と、話題になっている。

で、笑わせてくれることに、その記述の部分には「要出典」の注意マークが付いている。Wikipedia も、信用しすぎると危ない。

笹川氏の発言は、「そんなことを言って、何の得になると思ったのか?」と問い詰めてみたくなるほどだ。地元の講演会か何かで俗な「ウケ」をねらったわけでもなく、記者団に囲まれてぽろっとしゃべったというのだから、馬鹿馬鹿しすぎる。

何をどう言えば失言として叩かれるかなんて、ちょっと考えればわかるはずなのに、ワキが甘すぎだ。何年政治家をやっても、その辺り、ちっとも学んでいない人が多すぎる。

これが中山前国交相の日教組発言みたいに、「確信犯」というのなら、辻元さんなんかとバトルさせると面白いだろうが、「フェミニズム政策に積極的」という印象をもたれていたらしいのだから、語るに落ちる。

笹川氏がフェミニズム政策に積極的と思われた要因は、「夫婦別姓」を支持しているということ以外に、探しても見つからない。何しろ、Wikipedia が 「要出典」 と下駄を預けているぐらいだから。

じゃあ、「夫婦別姓」がフェミニズムかというと、そうとも言い切れない。お隣の中国と韓国は元々夫婦別姓の国だが、それをフェミニズムに立脚しているなんて考える人はいないだろう。

むしろ基本的なコンセプトとしては、父系的制度の中で妻は単に子孫を作るための道具であり、西欧的な意味合いでの「ファミリー」の一員としては認められていないのだということのような気がする。

もしかしたら笹川さん、こっちの方のコンセプトのもとに夫婦別姓を論じてきたんじゃあるまいか。

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