庄内の昔話
7日の立冬以後、初冬っぽい空模様になってしまった。そう感じるのは、東北日本海側の生まれで、「冬はどんよりしたグレーの空」と刷り込まれてしまっているからかもしれない。
何しろ冬のイメージは、私の生まれた庄内平野と大学入学以後に住んでいる関東平野の間で、あまりにも違いすぎる。
昭和 46年、私が 18歳で上京した年は、沖縄返還とか学費値上げとかの問題の度にキャンパスが大荒れになって、しまいにはロックアウトされてしまうのだった。そのため授業なんてほとんどない大学よりも、アルバイトに通う日の方がずっと多いという暮らしだった。
時は知らないうちに経ってしまい、ふと気付いたら、大学は冬休みに入っていた。どうせ授業にはあまり出ないから、ロックアウトなんだか、ストライキなんだか、公式の休みなんだか、ほとんど区別がつかない。
街に流れ始めたクリスマス・ソングで、初めて冬になったのだと気付いた私は、東京の空を見上げてこうつぶやいた。「まったくもう、東京ってところは、冬なのになんでこんなに天気がいいんだ?」
18歳まで育った庄内平野は、冬になれば地吹雪の国である。たまに雲の切れ間から青空がちらりとのぞくことがあるが、基本的には毎日ずっしりとした重苦しい曇り空で、時々雪が舞い、西高東低型の気圧配置が強まると、猛烈な地吹雪になる。とにかく庄内平野は、人がフツーに住んでいる土地としては、世界一のブリザード地帯なんだそうだ。
家から高校まではほとんど一本道だったから、学校への行き帰り、身体の半分だけが雪で真っ白になり、反対側はパンパンに乾いている。傘なんか強風で役に立たないが、どうせ辿り着いてからぽんぽんと払い落とせば、雪は落ちてしまう。
屋根の下で暖まるまでは、頬と唇が凍えていて、まともな発音ができない。「北国は寒くて口を開けないから、ズーズー弁になる」なんて言われるが、冬の季節に限定してしまえば確かに実感である。
生まれて 5歳まで住んだ家には、水道がなかった。生活用水は、裏の井戸でバケツに汲み、台所に運ぶのである。水道がないくらいだから、風呂は当然ない。トイレも家の外にある。こんな話をすると、「あんたは、明治大正の生まれか?」なんて言われるが、昭和 30年代初頭の東北の地方都市には、こんな家がいくらでもあった。
夜中に小便がしたくなると、泣きたい気持ちになる。布団から抜け出して外の便所に行くのは、子どもにはほとんど命がけだ。銭湯の行き帰りだって、そりゃもう、着ぶくれ重装備である。
先日、仕事の関係で 30歳ぐらいの若い連中と食事をする機会があり、こんな話をしたら、とんでもない昔話を聞いているような顔をされた。私は団塊の世代より後に生まれているというのに、東京生まれの団塊の世代は DDT を振られたこともないという。私なんか、小学校で毎週、真っ白になるまで DDT を振られていたのに。
庄内平野と関東平野では、地域的な違いに加え、相当なタイムラグまであるみたいなのだ。そう、この 2つの平野では、時空が違うのである。私の深層的な部分は、現代の関東平野ではなく、別の時空に生きているらしいのだ。
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コメント
takさん
私の母はtakさんよりひと回りくらい上の世代(戦中生まれ)ですが、母の幼少の頃の話も似た様な物でした。母は北海道の富良野で生まれ育ったのですが、零下30度の厳冬でも、姉妹で近くの小川へ水を汲みに行くのが日課だったそうです。
外便所も当然の事で、極端な話、穴が開いているだけに等しい代物だったとのことで、子供心に落ちたら助からないし、そもそも夜は尋常ならざる怖さであったと云います。
私もふた昔以上前(母が過ごした時代より遥か後年ではありましたが)厳冬の富良野に赴いた際には、幼少の母の境遇を想像して絶句するしかありませんでした。夏は長閑な農村地帯ですが、真冬ともなれば全てが凍てつくのではと、その時は本当に思いました。>富良野
生乾きの髪が瞬時に凍るとか、鼻毛が凍るなんて経験はそれまで東海甲信越地方ではした事が無かったので尚更で。
(厳冬の白樺湖周辺では昔は零下20度以下になったこともあったようですが・・・)
ですから、私はtakさんの話を伺っても別に明治大正の話だとは思えないのですね。
それに、中学高校くらいできちんと日本史(現代史)を習って憶えてさえいれば、明治大正期の農村地帯の惨状は記録写真だけでも理解できそうな物ですが・・・(嘆)
とは云え、イマドキの30歳そこそこの衆の記憶は、1980年代、と云うことは下手すりゃ昭和60年代からのそれでしょうから、無理も無いことなのかもしれませんね。
>DDT
我々の世代だと、プロレス技ですか~?というチャチャが入ってしまいます。もちろん、始祖であるジェイク・“ザ・スネーク”・ロバーツで。
技名の由来は勿論『殺虫剤』です。(笑)
投稿: 貿易風 | 2008年11月11日 01:39
私はDDTをかけられて事なんて無かったですね
びっくり
私の父も北陸生まれですが、昔は雪が大量に降って、二階から出入りしたということです
私も米国の東海岸では、冬季に零下20度以上(以下?)の温度を経験しましたが、帽子をかぶらないと頭の芯が痛くなるぐらいで、特にどうってことはありませんでした
欧州でも寒さには慣れていたので防寒具をしっかり着用していたからかも知れません
日本で寒さを言うのは、衣服の関係からかも知れません
投稿: alex99 | 2008年11月11日 01:51
>>夜中に小便がしたくなると、泣きたい気持ちになる。
縁側から立ちションベンしてました。(笑 寝る前、庭に一斗缶を設置して、寝ボケ眼で狙いを定めて発射ってなもんでした。
今のようにサッシュなどあるはずもなく、戸板の雨戸で、縁側に面した居室の戸は障子で、夏場などは、戸板を閉めず障子越に月明かりが差し込んで、子供ながら、なんとなく雲に隠れては出る月をロマンチックに感じたものでした。縁側なども、今のように化粧合板とか洒落たものじゃなく、無垢の板で経年劣化で木のささくれが拭き掃除の時に刺さったりして。
昭和38年生まれですが、DDTの経験はありません。虫下しの薬は学校で配給されて飲まされました。
酒田のブリザードは、本当に凄いですね。雪が地ベタから湧き上がってくるという事を経験してビックリ。一瞬じゃなく延々と続くから驚きです。冬場の抑揚重機作業は博打と呼ばずになんと呼んだらよいものか。
投稿: やっ | 2008年11月11日 07:47
貿易風 さん:
>母は北海道の富良野で生まれ育ったのですが、零下30度の厳冬でも、姉妹で近くの小川へ水を汲みに行くのが日課だったそうです。
庄内平野は、そこまで気温が下がることはないのですが、何しろ季節風がすごいので、体感温度は相当低かったと思います。
それでも、零下30度というのは、すごい。
私は八ヶ岳山麓で零下25度というのを経験しましたが、かなりのものですね。
プロレス技の DDT の由来が 「殺虫剤」 とは知りませんでした。
一つ利口になった ^^;)
投稿: tak | 2008年11月11日 08:52
alex さん:
>私はDDTをかけられて事なんて無かったですね
>びっくり
こっちもびっくりです。
大変なタイムラグ!
>私も米国の東海岸では、冬季に零下20度以上(以下?)の温度を経験しましたが、帽子をかぶらないと頭の芯が痛くなるぐらいで、特にどうってことはありませんでした
暑いのは大変ですが、寒いのは対策をしっかりすれば、案外平気ですね。
身体が慣れてしまうのでしょう。
>日本で寒さを言うのは、衣服の関係からかも知れません
庄内平野の冬は、寒さよりも地吹雪がえらいことなんですわ ^^;)
投稿: tak | 2008年11月11日 09:00
やっ さん:
>>夜中に小便がしたくなると、泣きたい気持ちになる。
>縁側から立ちションベンしてました。(笑 寝る前、庭に一斗缶を設置して、寝ボケ眼で狙いを定めて発射ってなもんでした。
実を言うと、私も便所まで辿り着けず、適当なところで立ちションしてました。
雪がジョボジョボっと黄色くなります ^^;)
昔の縁側、よかったですね。
今の日本の住宅から消えかかっているのが、本当に残念です。
>冬場の抑揚重機作業は博打と呼ばずになんと呼んだらよいものか。
街中で、フツーにホワイトアウトしちゃいますもんね ^^;)
投稿: tak | 2008年11月11日 09:05
父の実家である、会津の風景がまさにtak様のおっしゃっている風景と同じです。水くみは父の仕
事だったし、風呂もトイレも外で雪の日だと大変だったようです。
今でこそ少なくなりましたが、冬の積雪がすごくて屋根の雪落としも大変だったと聞いています。
昭和40年代以降急速に整備されていくんですよね。父の実家に行く度に「新しく道ができた、
コンビニができた。」と驚いた記憶があります。
職場に中国からの研修生がくる度に必ずおっしゃるのが、「日本では農村部までインフラが整
備されていて、びっくりした。」ということです。
中国では、農村部はまだまだtak様の子どもの頃のままなんでしょうね。(それ以前かもしれません)
投稿: 雪山男 | 2008年11月11日 09:32
書き忘れましたが、便利になるのはいいことかもしれませんが、中央資本のコンビニができ、
ショッピングモールや量販店ができ、全国統一的なロードサイドになっていわゆる田舎がなく
なってしまうと、何か日本人として大事な物がなくなってしまうかもしれないような気がします。
投稿: 雪山男 | 2008年11月11日 09:37
雪山男 さん:
>父の実家である、会津の風景がまさにtak様のおっしゃっている風景と同じです。
日本の田舎の風景って感じですよね。
私の生まれた家は、街場だったんですけど、それでも、裏庭があって、無花果とかの木があって、ちょっとした畑がありました。
高校時代は通学路が舗装されてなかったので、雨の日や雪解けの頃は、ズボンのうしろに泥のすっぱねが飛んで、大変でした。
デューク更家の 「正しい歩き方」 なんかしたら、ズボンの後ろが泥で固まっちゃいます ^^;)
>職場に中国からの研修生がくる度に必ずおっしゃるのが、「日本では農村部までインフラが整備されていて、びっくりした。」ということです。
日本は、エライ先生が出たところから順に、不必要なほど整備されましたね。
越後なんか、田んぼの中を流れる小川にかけられた橋の数が、半端じゃありません。
>ショッピングモールや量販店ができ、全国統一的なロードサイドになっていわゆる田舎がなくなってしまうと、何か日本人として大事な物がなくなってしまうかもしれないような気がします。
うちの田舎なんか、子どもたちがきれいな共通語です。
庄内の子たちの言語順応力というのはすごいもので、千葉や茨城よりずっときれいな話し方をします。
多分、本来の庄内弁は、全然別の言語体系みたいなものなので、影響されないんでしょうね。
千葉や茨城は、なまじ近いので、訛る ^^;)
でも、じいさん、ばあさんとの会話に、親の世代が通訳しなけりゃいけません。悲しいことです。
投稿: tak | 2008年11月11日 10:05