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2008年11月27日

死んだのは米国のライフスタイルかも

alex さんが 「ビッグスリーはもう死んでいる」 と書いておいでだ。健全な企業として生き返る望みがほとんど絶たれているのだから、そう言い切った方が正解なのかもしれない。

もっと言えば、米国人のライフスタイルが死にかけているのだと私は思う。ここのところから変えないと、米国は生き返れないだろう。

端的に言えば、米国のスタンダードはただ単純に大きすぎるのである。車だけではない。住居、家具、家電、食い物、すべてが大きすぎだ。地球上に暮らす一人の人間として取っていいと思われるシェアを超えすぎている。これでひずみの生じないはずがないではないか。

以前、片岡義男が自分の乗りたい車について書いていた。米国生まれの彼らしく、フルサイズの車でなければ全然魅力を感じないという。クラウンでもだめらしい。50年代のオールズモビルみたいなので、ゆったりとクルージングしたいと書かれていたように思う。それって、エンジンフードの上で相撲を取れるぐらいの車である。

これを読んだ当時の私はまだ、東京杉並区の狭いアパート暮らしで、「軽自動車ならあってもいいかも」 とは思っていたが、フルサイズの車を欲しいとは絶対に思わなかった。今でもまったく思わない。

押し入れのような冷蔵庫、お尻がすっぽりと埋もれてしまって立ち上がれなくなるようなソファ、どうせあんまり使わないくせに、行水ができそうなほどシンクの大きいキッチンセットなんかもいらない。

アメリカ人の住居も、どうみても大きすぎだ。子どものベッドルーム (要するに 「子ども部屋」 ね) が 10畳敷きぐらいあるというのは、トゥーマッチというものである。

以前、日本人の住居が「ウサギ小屋(rabbit hutches)」と言われたことがあった。確かに米国人のどでかい家と比べたら、ウサギ小屋程度のものかもしれないが、日本人の住居が世界で特別狭いというわけではない。こちら の統計をみればわかる。米国の家がやたらとでかいだけだ。

そもそも、"rabbit hutches" は、元々の EC の白書(フランス語)にあった "cage a lapins" を直訳したもので、"cage a lapins" の本来の意味は「集合住宅 (アパート)」という意味だそうだ。

こちら にも書かれているが、その EC の白書を書いた人物が "apartment" という一般的な単語を使わずに、あえてもってまわった風に "cage a lapins" なんて語を使ったのには、かなり含むところがあるとしか思われないのだが、それに関してはこの記事の主旨から外れるので、あえて触れないでおこう)

話を戻そう。米国を旅行してレストランで食事をすると、食い物責めにされているような気がする。そして、目を剥くような量の食事を、となりのテーブルについたフツーのオバサンが軽い気持ちでぺろりと平らげる。ありゃ、どうみても食い過ぎだ。

サブウェイのサンドイッチでいえば、私はハーフサイズで十分なのだが、米国でそう注文すると、「本当にそれでいいの?」 という感じで聞き直されることがある。廻りをみれば、若い女の子たちが、ワンフット・サイズ (つまり、約 30センチ) のどでかいパンに肉をどっさりはさんだヤツを、当然のごとく注文して食らいついている。

米国人は、日本人にとってのフツーの量の食事を出されると、大変な寂寥感におそわれるらしい。普段が食いすぎだから仕方がない。

長々と書いてしまったが、要するに私は、米国人のライフスタイルのスタンダードは、何につけても大きすぎると、繰り返し繰り返し言いたいのである。右肩上がりの時代にはそれでよかったかもしれないが、そうでない時代にはうまくいくわけがない。

そのひずみが最初に現れたのが、オイルを使って走る自動車のマーケットである。日本は太平洋戦争で巨艦主義を捨てきれなかったせいで敗れたが、米国は、21世紀の自動車市場でフルサイズ主義を捨てきれずに敗れる、いや、既に敗れたのである。

オバマ氏は経済再建のためにエコ・ビジネスに期待するといっている。だが、京都議定書をスルーしちゃった米国人が、チマチマしたエコ・ビジネスに注力できるのだろうか? できたら、大したもんだと思うのだが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント


ご紹介深謝

ほんとうは続編を書かなければいけなかったのです
というのも、米国議会は9月に自動車業界に対して8メーカーと部品など周辺メーカーに対して)「省エネカー開発」用に25億ドルの予算を承認していて、私はそれを見逃したのです
しかし、研究開発というものは長年の蓄積です
予算をもらったからと言って、直ぐに日本車並みのものが作れるわけでもない

それに、米国は前々から巨大な財政赤字と貿易赤字を抱えて本来なら身動きできない窮地に陥っていたわけです
それにもかかわらず、世界の消費大国を続けるために、確信犯的に金融バブルを作り続け、株式を高騰させ、世界中の金を集めた
レバレッジを使ってね
その虚構がついにサブプライムローン破綻をきっかけに破綻した
まだ書きたいのですが、また (笑)

投稿: alex99 | 2008年11月27日 15:26

alex さん:

レスが遅れました。申し訳ありません。

>しかし、研究開発というものは長年の蓄積です
>予算をもらったからと言って、直ぐに日本車並みのものが作れるわけでもない

まさにその通りですね。
金をもらっても、人をもらうわけじゃないし。

ただ、日本の補助金事業よりは多少は効率がいいんじゃないかとも思います。
日本の場合は、もらった金で余計な人をたくさん加えたコンソーシアムを作って、「調整」 と称して、肝心な決定のスピードを遅らせるだけですから。

>それに、米国は前々から巨大な財政赤字と貿易赤字を抱えて本来なら身動きできない窮地に陥っていたわけです
>それにもかかわらず、世界の消費大国を続けるために、確信犯的に金融バブルを作り続け、株式を高騰させ、世界中の金を集めた

本来なら、昨年あたりにサブプライムローンがどうのこうの言われ始めたあたりから、徐々に逃げ始めて、なんとかソフトランディングする手もあったんだろうにと思いますが、一度ついた勢いは止められなかったんでしょうね。

投稿: tak | 2008年11月28日 12:15

takさん

全くの私見ですが・・・

米国の科学技術水準は今だ侮ることが出来ないのではと考えます。
というのも、宇宙を行き来したり、ヒコーキを自在に(と云うと大袈裟ですが)を作って飛ばせるレベルにある国家がどれくらい在るかと云う点においてです。

クルマなら、滅茶苦茶な形をしていても走るだけなら走りますが、ヒコーキは形も機能の内ですから滅茶苦茶な形をしていれば飛ばないか、さもなくば墜ちます。

この点で日本はロクなヒコーキは作れないで(飛ばせないで)きた訳ですし、宇宙に至っては衛星の打ち上げすらままならない状態ですね。
(勿論、そうならざるを得なかった歴史的経緯がありますが。)

一方、米国はステルス機(F-117戦闘機、B-2爆撃機)を見てお判りの通り、傍目に見てもどうして飛ぶのだろう?と思うような機体を(極少量ではありますが)実用化して軍備投入してきた実力があります。
(F-117、B-2は既に旧世代の退役機体で、次世代機にバトンタッチ、もしくは開発中となっています。)
宇宙に至っては、スペースシャトルの運用を見れば言わずもがな、でしょう。

現在のクルマ技術について、レシプロ航空機であれば第二次大戦中に採用、実用化されているものが多々あります。
過給機(ターボチャージャー等)技術はその最たるもので、制御技術の進歩で漸くクルマへの(実用的な)搭載が可能になったというものです。

(通常、内燃機関は一定出力=一定回転数での使用が効率が良く制御もしやすいとされますが、クルマやバイクは内燃機関の回転数=出力を変動させての使用が前提となるため、諸条件で過酷であるといえます。)

80年代にも似たような幻想が蔓延したような印象がありましたが、現在でも決して日本車が世界一のクルマ・プロダクトになった訳ではありませんし、米国車がローテクの塊な訳でもありません。

しかしながら、現在の米国車一般が急激にマーケット指向(嗜好)から乖離しているのは事実ですし、販売実績がそれを如実に物語っているのもご承知の通りです。
日本製品であってもフルサイズプロダクト(ピックアップトラックや大型バイク等)は同様ですが・・・。

ま、技術力だけではどうにもならないことはひと昔前に仏公団に救済された某国自動車会社の件もありますし(以前から技術の○○と標榜していた)、ビッグスリーを救済できる白馬の騎士も皆無に等しいというのが客観的な見方でしょうが、さりとて国家の基幹産業たる自動車産業であれば迂闊に潰すわけにも行かないでしょう。

前述の某国自動車会社の救済を一番喜んだのは、実は某国政府だったのではという見解もございましたから。自動車産業が潰れるような事があれば自国経済に大打撃は間違いのないところですが、さりとて当時は財政難で公的救済を施す余裕は無かった事も明白でしたから。>某国政府

そういう意味では次期大統領を含めて、米国の今後の対応を注視せざるを得ないですね。好むと好まざるとに限らず、米国経済が世界に多大な影響を及ぼしている事は認めざるを得ませんから。

takさんが仰る通りで、米国が芸風を変えられるか否かは定かではありませんが・・・
順応してくれば、怖い存在になることは間違い無いでしょうね。
それまで、生産基盤を保持できているかという問題も勿論あるのですが。

投稿: 貿易風 | 2008年12月 4日 00:59

貿易風 さん:

レスを忘れていて、7年遅れの亀レス、恐縮です。

米国の技術力そのものは、確かに今でも世界一流であることは事実です。しかし、サステイナビリティという意味では、その目指すところが変わらなければならないのでしょうね。

米国流ライフスタイルがいつまでももたないことを、そろそろ米国民も悟り始めたような気がしています。

投稿: tak | 2015年12月25日 17:25

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