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2008年11月に作成された投稿

2008年11月30日

変わるものと変わらざるもの

今日は、朝のうちに和歌ログの方の更新に取りかかったところ、ついのってしまって、いつになく長文になり、Today's Crack
の方の更新をしている時間がなくなってしまった。

たまった仕事に追われているので、今日は和歌ログの記事をこちらにも使うという裏技で勘弁してもらいたい。

以下、和歌ログからの転載である。

Wakalog_081130 今日は久しぶりに、どこにも出かけなくていい日である。そうかといって、仕事がオフなのかといえば、そういうわけでもなく、家に籠って仕事をしなければならないという日である。

朝からいい天気で、遠くの山がきれいに見える。少し冠雪した日光の山並みまで望まれる。そして、筑波山は稜線に立つアンテナまで識別できる。(写真をクリックして拡大表示にするとはっきりわかる)

我が家の階段の踊り場から、再び筑波山が望めるようになった。最近まで筑波山の景色を遮っていたケヤキが、切り倒されてしまったようなのである。この間の事情は、一昨年の一月十九日の和歌日記 (この時の写真には、切り倒される前のケヤキが映っている) に書いていて、繰り返しになるが念のため、もう一度記す。

二十六年前にここに引っ越してきた頃は、階段の踊り場から筑波山がきれいに見えた。それがいつの間にか見えなくなって、しばらくは 「おかしいなあ」 ぐらいにしか思っていなかったのだが、そのわけがわかったのは、三年前の初春である。その時の視界は、こんな感じ だった。

我が家と筑波山の直線上にあったケヤキが、いつの間にか大きくなって、筑波山の姿を隠してしまっていたのだ。ところがそのケヤキが二十年ほどの間にさらに成長し、枝の生茂っていた部分がさらに高くなったため、秋から春にかけての葉を落としている季節になると、筑波山の姿が見えるようになったのだ。

そしてさらに、そのケヤキがあまり大きく育ちすぎて手に負えなくなったためか、切り倒されてしまったようなのである。これで、これからは春から秋にかけても筑波山の姿が望めるようになった。

ところが、写真の左側のケヤキが以前より大きくなったので、筑波山の男体山 (二つある頂のうちの、向かって左側) が隠されてしまい、残念なことに頂が二つならぶ姿としては望めない。この左側のケヤキがさらに大きくなってくれればいいのだが、その頃にはまた新たな木が大きくなって、視界を遮るだろう。

高校を出るまでの間に、私の実家は酒田市内で二度引っ越しをしている。さらに大学に入ってから独り身の状態で三度引っ越し、妻と暮らし始めてからまた三度引っ越した。その三度目の引っ越しで、ここに来たのである。

同じところに十年以上続けて住んだことがない私としては、二十数年定住したというだけで、驚異的なことだ。そして、我が家から見える筑波山の姿の変容を語るだけで、その時の流れが偲ばれるのである。

それにしても、私の故郷から見える鳥海山の姿(参照)と筑波山は、相似形のように見える。私はよくよく頂の二つある山に縁があるようだ。二つの峰は、変わらない私と、変わる私を象徴しているようにも思える。

ちなみに、筑波山の二つの頂の、男体山はイザナギの神で、女体山はイザナミの神に見立てられている。陰陽を象徴するといわれ、また神の名前の「イザ」に続く「ナギ」は「凪ぎ」(鎮まり、不動の状態)を、「ナミ」は「波」(変化する状態) を表わすとも言われる。

そして、今日の和歌日記に記した歌は、次のようなものである。

 筑波嶺の動かぬ姿望みゐる変はらぬ我と変はり来し我

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2008年11月29日

「やる気のスイッチ」というものがあるらしい

日経ビジネスのメルマガにあった "「やる気のスイッチ」を入れるには" というタイトルに興味を覚えてしまって、ついクリックしたら、漆紫穂子さんという人のコラムに遭遇した。

この方、品川女子学院という学校の校長さんで、この学校、近年やたらと評価が上がっているんだそうだ。

品川女子学院という学校に興味を覚えてしまった方は、学校のウェブサイトWikipedia の紹介 をご覧になればいいし、漆紫穂子さんの考え方に興味を持ってしまったなら、日経ビジネス Online の、彼女のコラムを全部お読みになればいい。インデックスは、こちら だ。

私は別に、学校教育を語ろうとしているわけではない。品川女子学院という学校も、漆紫穂子さんという人の名も、上述のウェブサイトで初めて知っただけで、それ以上の予備知識があるわけじゃない。ここではあくまで 「やる気のスイッチ」 を入れるための方法として挙げられている 3つのポイントについて、私なりに考察してみようと思う。

漆さんの挙げておられる 3つのポイントとは、

1) できないと思っていたことができた時
2) これはみんなのためになると思えた時
3) 自分のやりたいこと、目標ができた時

というものである。より手っ取り早く言えば、"成功体験、「誰かのために」、自分の目標" の 3つなのだそうだ。

まず、成功体験というのは本当に大切である。私はちょっと前に、"成功体験を重視する「グッピー理論」" というコラムを書いていて、そこで 「勝ち癖をつけること」の重要性について触れている。私の言う 「勝ち癖」 とは、別に相手を打ち負かすことではなく、達成感の喜びを知ることだ。

一度達成感という喜びを知ると、大抵のことはできるという気になる。心理学的にいっても、物事を成し遂げるコツというのは、「いい意味で "なめてかかる" こと」なんだそうだ。初めから「これは難しそうだ」とか「できるかなあ」なんてことは思わずに、「これくらい、できるさ」と、軽い気持ちで取りかかる方がいい。

しかし、そうした気持ちで取りかかれるようになるには、やっぱり何度かの成功体験を持っているということが強みになる。「やった!」とか「できた!」とかいう経験を何度か積むと、自信がついてしまって、「できない」なんて発想がなくなる。

それから、「自分以外の誰かのために」というのも、かなり重要ポイントである。こんなことを言うと、もしかしたら偽善ぽく聞こえるかもしれないが、人間、自分だけのために働くよりは、「誰かのため」に働く方がずっと力を出せるものである。利己的な動機だけで動くと、そのうちきっと空しくなる。

とりわけ「愛する誰か」のためというのが、最もがんばれる条件である。恋人のためとか、妻のためとか、子どものためとかとなると、火事場の馬鹿力みたいな力が出る。だったら、世界を愛してしまえばいい。世界のために働ける。

最後に、「自分の目標」というのも、案外大きい。考えてみると、私がここ何年もブログの毎日更新を続けていられるのは、「毎日更新する」ことを自分に課しているからだ。

そりゃもちろん、書くことが楽しいからでもあり、大上段に振りかぶって「目標」などと突き詰めているわけでもないが、年が変わるごとに「今年もずっと更新を続けよう」と思っているのは、「目標」と言ってもいいのかもしれない。

そして、この「目標」は、ある日急に思いついたわけではない。「ほぼ毎日更新」という状態を 1~2年続けているうちに、「いっそ、掛け値なしの毎日更新をしてみよう」と思い立ち、自然にそうなったのである。

つまり目標というのは、他から課せられた「ノルマ」だったり、自分を縛り付けるためのものだったりしてはならない。楽しんでやっているうちに、自然に湧いてくるものこそ、「励み」になる。そうでないものは「苦行」でしかない。

つまり、「やる気」のスイッチを入れるには、「やったぜ!」という喜びの延長線上にあり、それが自分だけではなく他の人たちの喜びにもつながり、それゆえに自然に「もっとやったる!」という気持ちになっていくというプロセスが理想的だと思う。

首根っこに縄附けて無理矢理に引っ張るみたいなことでは、「やる気のスイッチ」なんて、決して入らない。逆に嫌になるだけである。

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2008年11月28日

化粧とは 「描く」 もののようなのだ

朝、常磐線取手駅から快速電車に乗る。取手は快速電車の始発駅だから、大抵座れる。とくに平行して走るつくばエクスプレスが開通してからは、座れる確率が高くなった。

若い女性の多くは座席に着くとバッグから何やら取り出し、パカッと開く。ケータイも化粧用コンパクトも、ここまでは動作が同じだ。

動作が分かれるのは、ここから先である。一方はメールチェックに余念がなく、チェックが終わるとすぐに返事を書いている風情である。そして残るもう一方は、化粧にとりかかる。その比率は、ざっとした印象では 6 対 4 ぐらいである。

やや少数派の化粧派の中には、かなりシリアスな女性もいる。ちょいちょいとお顔を整えるなんていうレベルではない。膝の上に化粧セット一式を置き、ファンデーション作りから入念に始める人もいる。その形相たるや、鬼気迫るものがある。

かなりの時間をかけて大体のメークアップが終わると、今度はコンパクトをのぞき込みながら、大変な表情をなさる。極端な上目遣いでコンパクトをのぞき、頬の筋肉を大げさに上げ下げし、挙げ句の果てに鼻の下を思いっきり伸ばして鼻毛チェックをする。

そのあまりの素晴らしいパフォーマンス (?) に思わず見とれると、突然ものすごい形相でにらみ返されるからあぶない。

ちょっと前のことだが、化粧品業界の人に、化粧品のポスターはすっぴんで撮影するのだと聞いた。すっぴんの写真の上に、コンピュータ・グラフィックで化粧を 「描いていく」 のだそうだ。化粧品会社のポスターのモデルは、化粧でではなく、IT 技術できれいになっているのである。

というほど、化粧というのは 「描く」 ものということのようなのだ。

今年の夏頃、常磐線の電車の反対側の席に、一人の女性が座った。こう言っては何だが、私よりは完全に年上のように見える。多分、還暦前後だろう。

還暦が若い格好をしてはいけないなどと言うつもりは毛頭ないが、その女性のファッションは、ティーン向けのファッション雑誌から抜け出してきたような出で立ちである。スタイルだけはそんなに崩れてはいないが、超ミニスカートとぴたぴたのタンクトップが、申し訳ないが大層な違和感で、「ものすごく無理してるなあ」 という印象だ。

その女性は、席に着くなり膝の上に化粧道具一式を取り出し、化粧を始めた。かなり入念な作業をなさっている。途中で電車が混んできて、その女性の姿は見えなくなってしまったが、上野駅で降りるときにふと見ると、何と彼女は、立派なティーンに変身しているではないか。

それはまさに 「変身」 「メタモルフォーゼ」 というにふさわしい変わりようだった。化粧とは、「描く」 ものだと、心の底から納得した瞬間だった。

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2008年11月27日

死んだのは米国のライフスタイルかも

alex さんが 「ビッグスリーはもう死んでいる」 と書いておいでだ。健全な企業として生き返る望みがほとんど絶たれているのだから、そう言い切った方が正解なのかもしれない。

もっと言えば、米国人のライフスタイルが死にかけているのだと私は思う。ここのところから変えないと、米国は生き返れないだろう。

端的に言えば、米国のスタンダードはただ単純に大きすぎるのである。車だけではない。住居、家具、家電、食い物、すべてが大きすぎだ。地球上に暮らす一人の人間として取っていいと思われるシェアを超えすぎている。これでひずみの生じないはずがないではないか。

以前、片岡義男が自分の乗りたい車について書いていた。米国生まれの彼らしく、フルサイズの車でなければ全然魅力を感じないという。クラウンでもだめらしい。50年代のオールズモビルみたいなので、ゆったりとクルージングしたいと書かれていたように思う。それって、エンジンフードの上で相撲を取れるぐらいの車である。

これを読んだ当時の私はまだ、東京杉並区の狭いアパート暮らしで、「軽自動車ならあってもいいかも」 とは思っていたが、フルサイズの車を欲しいとは絶対に思わなかった。今でもまったく思わない。

押し入れのような冷蔵庫、お尻がすっぽりと埋もれてしまって立ち上がれなくなるようなソファ、どうせあんまり使わないくせに、行水ができそうなほどシンクの大きいキッチンセットなんかもいらない。

アメリカ人の住居も、どうみても大きすぎだ。子どものベッドルーム (要するに 「子ども部屋」 ね) が 10畳敷きぐらいあるというのは、トゥーマッチというものである。

以前、日本人の住居が「ウサギ小屋(rabbit hutches)」と言われたことがあった。確かに米国人のどでかい家と比べたら、ウサギ小屋程度のものかもしれないが、日本人の住居が世界で特別狭いというわけではない。こちら の統計をみればわかる。米国の家がやたらとでかいだけだ。

そもそも、"rabbit hutches" は、元々の EC の白書(フランス語)にあった "cage a lapins" を直訳したもので、"cage a lapins" の本来の意味は「集合住宅 (アパート)」という意味だそうだ。

こちら にも書かれているが、その EC の白書を書いた人物が "apartment" という一般的な単語を使わずに、あえてもってまわった風に "cage a lapins" なんて語を使ったのには、かなり含むところがあるとしか思われないのだが、それに関してはこの記事の主旨から外れるので、あえて触れないでおこう)

話を戻そう。米国を旅行してレストランで食事をすると、食い物責めにされているような気がする。そして、目を剥くような量の食事を、となりのテーブルについたフツーのオバサンが軽い気持ちでぺろりと平らげる。ありゃ、どうみても食い過ぎだ。

サブウェイのサンドイッチでいえば、私はハーフサイズで十分なのだが、米国でそう注文すると、「本当にそれでいいの?」 という感じで聞き直されることがある。廻りをみれば、若い女の子たちが、ワンフット・サイズ (つまり、約 30センチ) のどでかいパンに肉をどっさりはさんだヤツを、当然のごとく注文して食らいついている。

米国人は、日本人にとってのフツーの量の食事を出されると、大変な寂寥感におそわれるらしい。普段が食いすぎだから仕方がない。

長々と書いてしまったが、要するに私は、米国人のライフスタイルのスタンダードは、何につけても大きすぎると、繰り返し繰り返し言いたいのである。右肩上がりの時代にはそれでよかったかもしれないが、そうでない時代にはうまくいくわけがない。

そのひずみが最初に現れたのが、オイルを使って走る自動車のマーケットである。日本は太平洋戦争で巨艦主義を捨てきれなかったせいで敗れたが、米国は、21世紀の自動車市場でフルサイズ主義を捨てきれずに敗れる、いや、既に敗れたのである。

オバマ氏は経済再建のためにエコ・ビジネスに期待するといっている。だが、京都議定書をスルーしちゃった米国人が、チマチマしたエコ・ビジネスに注力できるのだろうか? できたら、大したもんだと思うのだが。

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2008年11月26日

少し色褪せた 「正常化の偏見」

国交省と消防庁が実施した全国の個室ビデオ店実態検査で、事業者の約 87%に消防法違反が見つかったという。(参照

こうしたニュースに接すると、「そんなに危険なのか」 と驚く人が多いかもしれないが、私の印象では、「へぇ、90%越えてないんだ」 と、逆の意味で意外な気がした。

この検査は、先日の大阪市の個室ビデオ店火災を受けて実施されたものだという。私は新聞などでフロアに小さなブースがごちゃごちゃと並ぶ見取り図を見るにつけ、こういうところは、消防法にしっかり準拠した店の造りなんて難しいだろうなあという気がしていた。

もしかしたら残りの 13%は、事前に検査が入るという情報をどこからか入手して緊急対策を取ったのかもしれないなんて、へそ曲がりの私は勘ぐったりする。というのは、消防法に完全に従うなんていうのは、個室ビデオ店だけでなく、一般の事業所でもけっこう難しい話なのだ。

ビルの中にテナントとしてオフィスを借りている会社に勤務している人は、たいてい覚えがあると思うが、ビルの管理者から時々、何月何日に消防署の検査が入るので、対策を取るように」 という通知が回ってくる。非常口付近に荷物を置くなとか、出入り口のドアを開けっ放しにするストッパーをはずしておけとか、まあ、その場限りの対策を要請されるのだ。

で、入居する事業者は検査の日だけ緊急対策を実施し、済んでしまえば元に戻ってしまう。自分のところだけは大丈夫という、あまり根拠のない信念によるものだ。このあまり根拠のない信念を、「正常化の偏見」(英語では "normalcy bias")という。これについて私は、2年半前に「自分だけの都合による偏見」というタイトルで書いている。

人は宝くじで大もうけして、海外旅行をしたり家を買ったりすることを強烈に思い描いても、自分が今日にも交通事故で死ぬかもしれないとは、あまり考えない。しかし人の一生で交通事故に遭って死亡する確率は、宝くじの 1等に当選する確率より高いのだそうだ。

日本という国はとても安全な国だから、この 「正常化の偏見」 はもしかして他の国より強いかもしれない。駅のプラットフォームに荷物を放り出したまま、ちょっと先の KIOSK で買い物をするなんてことは、他の国では考えられない。

しかし、さしもの強烈な日本の正常化の偏見も、近頃少し色褪せつつあるかもしれない。宝くじの売上げが近頃どんどん落ちているのだそうだ。その要因は、主力購入層の中高年が年金生活に入ってしまい、宝くじを買う余裕がなくなったためと見られるのだが、要するに 「買ってもどうせ当たらない」 ということに、日本人が気付き始めたのだろう。

その上、例の厚労省次官らの殺害事件である。妙なとばっちりで、わけもなく命を取られる危険性がある世の中になったのである。ここにきて、セキュリティ会社の株価が上がっているそうだ。

手許の金の使い道は、「夢を買う」なんて呑気なことを言うより、当座の生活費に充てる方が賢明だ。そして、火が出たら逃げられそうにないような怪しげな店には、入らない方がいいようなのである。

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2008年11月25日

私は伝統的保守派なんだけど

産経新聞だけは執念で追うのだが、他紙は全然興味を示さないというネタを「産経ネタ」というのだそうだ。

産経新聞の福島香織記者によると、"「国籍法」や「対馬問題」は各社から「産経ネタ」とよばれ" ているらしい(参照)。ふぅむ、よくわからん話である。

確かに「国籍法」と「対馬問題」に関するニュースは、産経新聞以外ではあまり目にしない。つまり、かなりのレベルでスルーされちゃってる。

しかし、これってそんなに軽視していいネタなんだろうか ?  例えば「国籍法」に関して、私は「国籍法改正(彼らは「改悪」と言っているのだが)絶対反対」という人もあまりよく理解できないが、それ以上に理解できないのは、それをちゃっかりとスルーしちゃうマスメディアだ。

巷で、あるいは 2ch 界隈で、これだけ論議を呼んでいるのだから、もう少しまともに解説するということがあってもいいだろうにと思う。

今、マスメディアの主流派の中で言われているのは、「お父さんが日本人なのに、その子を産んだお母さんと結婚していないからというだけの理由で、日本人として暮らせない子どもがいるのは、かわいそう」という人情論系の「法の下に平等であるべし」という論調である。

それに対して産経的論調は、現行の国籍法を変えることは国家の根幹に関わることであるとともに、「認知を金で買う」という好ましからざるビジネスが横行することにもつながり、それによって「好ましからざる日本人」が増加するおそれがあると警鐘を鳴らしている。

かなり乱暴な譬えで申し訳ないが、私は大相撲の世界で「強けりゃどこの国の出身者だって横綱になっていいじゃないの」という理屈が、あの曙が横綱に昇進するまでは、なかなか通らなかったことを思い出す。

そして横綱が外国人ばかりになってしまった今、「品格問題」などが取りざたされて、「やっぱり外国人横綱ではダメだ」という論調が根強く残っているといったような事情も、きちんと考慮されなければならないと思う。

最も日本的な世界と思われていた大相撲の世界で、今、外国人力士の比率が高まっている。表面的にはそれで大きな問題はないようにも見える。ところが、時々大麻を吸っていただの、横綱としての品格に欠けるだの、ゴチャゴチャした問題が発生する。

国籍法改正という問題においても、これと似た構図が発生するだろう。今どき血統とか「純血」とかにこだわるのはどうかと思う。しかし、安易に日本人(日本国籍をもつ人)を増やしすぎたら、やはりいろいろな問題は増えるだろう。

私自身の立場を言えば、自分では伝統的保守派だと思っている。とくに文化的にはその傾向が強い。私の「和歌ログ」を見てもらえば、歴史仮名遣いによる文語の歌を詠んでいるほどだから、その看板に偽りはないとわかってもらえると思う。

しかし、私は一方ではアバンギャルド派でもある。歴史仮名遣いの文語の和歌の中に、突如カタカナを多用し、あまつさえ英語のスペルをそのまま持ち込んだりもする。

葉を落とし只立ちて在り銀杏 (いちやう) の木 naked (ネイキッド)てふ潔さもて

なんていう歌(平成 15年 師走 7日の歌)を平気で読んでしまうという、括弧付きの「伝統的保守派」でもあるのだ。

とまあ、こんな男である私は今回の国籍法改正に関しては、諸手を上げて賛成というわけじゃない。しかし、あえて首相官邸に FAX をじゃんじゃん入れて反対の意思を表明するというほどには、熱狂的な反対者というわけでもない。

外国人の母親から生まれた日本人が増えて、日本の伝統文化がスポイルされると嘆くのならば、日本人同士の父と母から生まれた子供だって、今や「伝統的日本人」としての資格をほとんど喪失していることをどう見ればいいのか。

私は血筋がどうだろうが、歌舞伎を、文楽を、落語を、和歌を、神社仏閣を理解する人がこの国に増えてくれれば、それで嬉しい。ただそれは難しい話だろうとも思うので、私は今回の国籍法問題においては、態度を保留している。最近の私は、政治的には「保留」ばっかりで、まったく潔さというものがない。

私は「愛国者」を自称し、たまたま九段辺りに用があると、ついでに靖国神社を参拝したりする「伝統的保守派」である割には、政治的にはややリベラルであったりもする。こんなのは、国際的な目で見ればごくフツーだったりすると思うのだが、日本という国では、なかなか居心地のいい席が見当たらない。

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2008年11月24日

旅の空続きで、ネタ不足

先週の木曜日から旅の空が続き、ようやく今日は一日家にいることができる。とはいえ、たまりにたまった仕事を片付けるだけで精一杯で、ゆっくり休むわけにもいかない。

というわけで、ブログを更新しようにもまともに更新するだけのネタが仕入れられていないので、ちょっと呆然としている。

今朝は寒かった。外を見れば、今にも降り出しそうな雲行きに変わってきている。晩秋はとっくに過ぎて、既に初冬の領域に足を踏み入れたのだと思う。東北日本海側の生まれとしては、ただただ冬支度に精を出すべきで、ブログなんてものを書いている時期じゃない。そんな体なので、ますますノリが悪いのかもしれない。

冬支度というのは、基本的にはエネルギーを内側に蓄積するということだ。冬眠前の動物だって、秋にはさんざん食いまくって体脂肪を蓄える。そして長い間のエネルギー源にする。

エネルギー源ばかりでなく、情報にしてもそんなところがあるのかもしれない。ところがここ数日、旅行状態だったので、情報補給源に恵まれず、蓄積不足である。ただでさえ蓄積しておきたい時期に補給不足では、呆然としてしまうのも当然かもしれない。

それに今日はたまった仕事に時間を取られるので、ゆっくりブログを書いているわけにもいかない。というわけで、今日はこの程度でお茶を濁しておくことにする。

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2008年11月23日

フツーでない動機の殺人事件

このところ、旅の空で忙しかったので、まともにニュースに接していない。新聞をざっと斜め読みして、見出しをちょいちょいと確認しておけば済む程度のニュースがほとんどだし。

そうした中で、見出しちょいちょいではさっぱりわからないのが、例の厚労相元次官関連の連続殺傷事件である。

もっともこの事件、記事の本文をじっくり読んでもさっぱりわからない。元々、フツーに理解可能なレベルでの動機による犯行ではないようだ。当然のごとく「精神鑑定が必要」みたいなことが言い出されるのだろう。

ただ、動機がまともでない割には、犯行はまともに計画されすぎているように思われるので、印象としては精神鑑定をしてどうこういうほど、精神を病んでいる人間とも思われない。ただ、「かなり変わった男」という感じである。

問題は、変わった男がフツーでない理由で、綿密に計画して人を連続殺傷してしまう世の中だということだ。この事件で我々が嫌あな感じを受けてしまうのは、そういうことなのである。わけのわからない理由で、ちょっと変わったやつに襲いかかられるかもしれないのだから。

世の中では、報道された「動機」があまりにもエキセントリックなものだったため、「謀略説」まで取りざたされている。どこかに真犯人がいて、今回自首した男は身代わりだというのである。

しかし、私にはこの謀略説の方がよりエキセントリックに感じられる。多分、この男が真犯人なんだろう。そして必要なのは「この男の精神鑑定」というよりは、むしろ「フツーでない動機で、フツーに殺人事件が起きる」社会的病理の方の鑑定だ。

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2008年11月22日

助けるべきは成長産業か斜陽産業か

今、日本で流通している衣料品の 7割以上が中国製品だと言われている。私がアパレル業界でのキャリアをスタートさせた20数年前は、逆に 7割以上が日本製だったのだが。

今、日本国内の縫製業界はガタガタである。昔は地方の国道を車で走ると、縫製工場の看板が目立ったが、今は極端に減った。

田舎に車で帰る時、東北地方の国道を走ったら、5km に 1件は縫製工場の看板があった。いわゆるアパレル・メーカーは自前の生産設備を持つところが非常に少なく、大抵は国内の縫製工場に生産を託していた。アパレルメーカーは下請けの縫製工場を「工場さん」といい、工場はアパレル・メーカーを「アパレルさん」と呼んでいた。

今はその「工場さん」が中国に行ってしまったのである。中国の縫製工場が日本のアパレルメーカーを「アパレルさん」と呼んでくれているかどうかは知らないが。

バブル経済華やかなりし頃、国内の縫製工場は隆盛を極めていた。高い技術さえあれば、営業活動などはしなくても、注文は続々と入ってきた。あの頃、洋服は今の倍の値段で売れたから、工賃はほぼ言い値で取れた。

縫製工場の社長は肩で風を切って歩き、都市のアパレルメーカーに顔を出す時は、黒いメルセデスベンツに乗って行くのだった。

しかし、バブル崩壊以後はアパレル市場の様相が変わってしまった。まず、洋服の値段が約半分になった。5万 6千円で売れたメンズ・スーツは、今、3万円以下である。婦人服なら、郊外のショッピングセンターに行けば、ジャケットとスカートのセットで 2万円以下だ。バブルの頃は、少なくとも 3万 8000円はしたのに。

これだけ安くなったら、国内生産では対応できない。中国で作るしかないのだ。衣料品は「安かろう悪かろう」の品物になった。昔の日本の衣料品は「品質はヨーロッパのブランド品以上で、値段はその半分で済む」と言われていたが、今は値段と引き替えに品質を捨てたのだ。

「値段の割には安心品質の製品」というのは、衣料品に限らず、日本の工業製品の代名詞みたいなものだったが、今、それは夢と消えた。品質管理が売り物の工業製品の供給元は、日本から隣国に移ってしまったのだから、どうしようもない。それが大きな問題だ。

日本の製造業の「空洞化」を危惧する声はどこでも聞かれるが、経済の法則がそれを促進しているのだ。それを人為的に止めようとしても、うまく行くはずがないではないかと思う。

日本はそれよりも別の分野に生きる道を求めるべきだとの指摘は、もっともである。例えばハイテク、エコ技術など。しかし、今まで洋服の縫製で生きてきたおじさんたちに、いきなりハイテクをやれと言っても、それは無理だ。少なくとも世代交代が必要なのである。

世代交代が完了するまでのつなぎとして、既存の斜陽産業を補助することも、一つの方策だろう。しかしそれをやれば、新しい成長産業を育成するための金が減るのである。

しかし、政府が大金を注ぎ込んで育成しようとしたプロジェクトなんて、大抵成功しないのだから、新産業の成長なんて言うのは民間に任せ、政府は斜陽産業のソフトランディングに集中すればいいという見方もある。それも道理だが、それではさみしすぎるようにも思える。

そんな意味で私は、この方面でどうすればいいかという判断を、保留せざるを得ないのである。

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2008年11月21日

すべてのニュースは良いニュース

日経 BP に「経営とIT」サイト編集長の谷島宣之氏が 「悪いニュースが嫌いな人たちへの良いニュース」 という一文を寄せている。

マスメディアには今、悪いニュースがあふれているが、それによってますます悪循環が加速される。氏は今、無闇な「コスト削減」ではなく「コスト最適化」すべしと強調する。

氏は冒頭で、インターネットビジネスの起業家、ジェイソン・カラカニス氏の発言の次のような発言を紹介している。

「(前略) …そういう悪いニュースを毎日読んでいると、気持ちが縮む。そして世の中の調子がもっと悪くなる。見出しはちらっと見る程度でいい、すぐ仕事に戻り、自分の製品やサービスをひたすら磨くべきだ。大きなイノベーションは、不景気の時に起きている」

矢島氏はカラカニス氏へのインタビュー時にこの発言を聞き、「全くその通り」と相槌を打ったそうだ。私も「その通り!」と、膝を叩きたい。

実は私も、近頃は「新聞の見出しはちらっと見る程度」である。本文まで根掘り葉掘り読むなんてことは、ほとんどしない。読んでもつまらないし、本当に必要な情報なら、別にことさら求めなくても自然に入ってくる。こちらから求めてまで悲観漬けになる必要はない。

本当に近頃、人と会いさえすれば「景気が悪い」「最悪」「バブル崩壊の時よりひどい」といった話でもちきりだ。そんな中で、「そんなに悪いかなあ」なんて言ったら、怒られそうな勢いである。

私はちょっと前にも書いたことがあるが、経済的には「ウハウハいうほどいい目を見た」という経験がほとんどない(参照) ので、いつでも 「悪いときには悪いなりに、しこしこやっていく」というスタイルを確立している。というか、そのスタイルしか知らないのだ。だから、ことさらに「悪い、悪い」という発想もない。

IT ビジネスにしても、これまでがずっとバブルの様相が強すぎただけなのだと思えばいい。これからようやく「最適化」の時代に移れるのである。最適化の時代になったら、中小企業の出番である。

何しろ、世の中の会社の 8割以上は中小企業であり、中小企業は、今世の中で注目されているようなタイプの IT システムなんか必要ないのである。それらのほとんどは、大企業のビジネスに最適化されたものだからだ。

で、中小企業が本当に身の丈にあったシステムを開発してもらおうとしても、大手ベンダーは、そのニーズに対応できないのである。単に、大手ベンダー自身の高コスト体質のために。そんなわけで、これまでは、軽自動車で済むような企業も、大型トラックを買わされてきたのである。

軽自動車が欲しい中小企業に軽自動車を提供してあげられるのは、中小ベンダーである。これまで大型トラックが買えなかった企業に軽自動車を提供してあげれば、少なくとも市場はそんなに落ち込むことはない。

私はできれば、「すべてのニュースは良いニュース」と思いたいぐらいのものなのだが、実際にそう思えるまでには、修行が至っていない。

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2008年11月20日

「男性用ブラ」 って ?

"「やさしくなれるんです」――男性用ブラが人気 楽天市場で売れ筋1位に" という記事に目が止まった。頭の中に疑問符が 3つぐらいわき出てしまった。

いや、私は別に、「気持ち悪い」とか「変態じゃないの?」なんて思ったわけじゃない。そのあたり、私は結構理解あるのだ。

私が疑問に思ったのは、純粋に「男性用ブラ」という言葉に対してである。「男性用ブラ」ってことは、多分、男性でも無理なく(?)着用できるように、女性用ブラよりもサイズが大きいんだろうと思ったわけだ。

で、そのサイズの大きいブラの用途なのだが、これってやっぱり、「女装」のためなんだろうなあと思ったわけである。浅はかながら、私の脳裏には、男性がブラをする目的といえば、それ以外に浮かばなかったのだ。

だったら、どうして「女装用ブラ」ではなく、「男性用ブラ」なのだ? これが私の頭に浮かんだ 3つぐらいの疑問符の根源である。それって、一体何なんだ?

記事を読み進むと、これは、必ずしも女装用ではないみたいなのだ。こんな風に書いてある。(以下 引用)

楽天市場のページによると、「どうしてメンズブラはないの?」という客の声を聞いて作ったという。着用のメリットについては「やさしくなれるんです。安心できるんです。そんな “気持ち” が大切なはず」と説明しており、気持ちを引き締めたいときや、女性の気持ちが知りたいときなどに使うことをすすめている。

ユーザーレビューページには 「リラックスアイテムとして必要性を感じ購入した」「肌触りが良いです」といったコメントが寄せられているという。ふぅむ、「リラックスアイテム」ねぇ。

で、ちょっとググってみたら、なんと読売新聞の記者が「ブラ男」を体験したレポート記事があったらしく、こちらのブログ に、その記事が紹介されている。コメント欄には実際にブラを付けてフツーに生活している男性からのコメントが寄せられていて、なかなか興味深い。

ところで私は近頃、パソコン作業のしすぎで右肩がぱんぱんに張ってしまい、そんな時に冷房や木枯らしで肩が冷えると、寝苦しくなるほどの肩こりになってしまうことがある。それを防ぐために、時々肩用のサポーターを着用している。(こんな ようなの)

右肩だけを覆い、伸縮性のあるマジックテープ付きのストラップで胸の周りで固定するのだが、このおかげで肩こりがかなり軽減されて心地よい。もしかしたら、これって「ブラ男」のいう「リラックス効果」と通じるところがあるのだろうか。

あるのかもしれないし、全然見当外れなのかもしれない。

ちなみに私は今、『女装と日本人』(三橋順子・著 講談社現代新書)という本を読んでいて、これがなかなかおもしろい。ただ、この本で述べられているところの「女装」と「ブラ男」は、似て非なるものという気がしている。

どう違うのかというのは、まだまだ考察が足りないが。まともに考察するには、私も一度、ブラ体験をしないといかんかなあ? 妻に 「ちょっとブラ貸して」なんて言ったら、彼女はノー天気だから「伸びちゃうから、嫌よ」なんて言うだろうなあ。

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2008年11月19日

「過去の一番手前が現在」 という試論

山形県では、私の出身地である庄内ではあまり聞かないが、内陸の方では電話に出て名乗る時、「はい、○○でした~」 と、なぜか過去形で言うことが多いようだ。

「○○です」だと、なんとなくきつすぎて、最後に「!」が付くような気がするらしい。そこで、過去形で婉曲的ニュアンスにするわけだ。

庄内でも、電話で名乗る時は言わないが、近所の家を訪問する時など、玄関先で「こんにぢはぁ~、今日は旦那さん、いましたがぁ~?」(いましたか?)なんて、過去形で聞く。「いますか?」なんて言ったら、それこそ詰問調になるような気がしてしまうのだ。

山形県だけではない。「ですます調」で話すとき、現在のことを言うのでも過去形の「○○でした」「○○ました」と言うのは、東北各地で聞かれる。実に柔らかい口調で「私はぁ、3人兄弟でした~」なんて言うから、既に 1人か 2人は死んじゃったのかと思うと、実は 3人とも健在だったりするから、注意が必要だ。

こうなってしまったのは、まず「ですます調」なんていう文体は、元々の東北弁にはなかったからということがある。明治以後の近代教育で教え込まれた口調なのだが、新しく教わった「です」「ます」という言い切り型には、どうも馴染めないものがある。そこで、過去形で婉曲的なニュアンスにし、ようやく日常生活に取り込まれたのだ。

ところが、もう一つの問題がある。それは「そもそも、どうして過去形にするとしっくりくるのか?」ということである。

そこで私は、一つの試論を述べたいと思う。日本人のメンタリティにおいては、「現在」というのは「一番手前の過去」であるということだ。日本語においては、西欧語的な意味での「現在形」というのはない。現在形と思われているのは、単に「原型」である。

庄内弁では、現在進行中を表す言い方は過去形に非常に近い。例えば「食べている」は「食った」(くった)である。「今、メシくった」といえば、「今、メシを食っている」という意味だ。じゃあ「食べた」はどう言うのかといえば、「食た」(くた)である。促音かそうでないかの違いだ。

同様に「走っている」は「走った」、「走った(過去形)」は 「走た」、「寝ている」は「寝っだ」、「寝た(過去形)」は 「寝だ」である。ほとんどの動詞をそのように活用する。

元々の形を推定すると、現在進行中を表す 「○っだ」 は、「○していた」 ということの短縮形だと思われる。今の考え方からすれば、現在進行形ではなく過去進行形だ。それでもそれは現在のことを表すのである。「食った」(「食っていた」という現在進行)は、「食た」(「食べた」 という過去形)と、微妙だがきちんと区別されるのだ。

前述の 「今日は旦那さん、いましたがぁ~?」にしても、元々の庄内弁だと、「今日は旦那さん、いっだがぁ~?」になる。だからそれを、ですます調でていねいに言おうとすると、「いますか?」ではなく、ごく自然に「いましたがぁ~?」になる。これは伝統文化というものである。

やはり「現在」というのは、「過去の中で一番手前にあるもの」でしかないのである。「現在」という時制は独立したものではなく、どちらかといえば、「過去」の範疇に属するのだ。

一方、英語では(私は西欧の言葉は英語しかわからないので、英語を例にとるしかない)、現在形と過去形の違いはとても明確だ。逆に、未来を表す時に、現在形に助動詞を付けるという手段を使っている。つまり、現在と未来の方が近い。「未来の一番手前」が「現在」である。

それでも英語だって、人に者を頼む際にていねいなニュアンスを表現したいときなんかは、"Woud you ~ ?" なんて過去分詞を使う。"Will you ~?" というよりていねいなのだ。そのあたりは、私の こちらの記事 に書いてある。

どうも、過去に振る方が無難という気がするのは、人類共通のメンタリティなんじゃないかという気がしてきた。

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2008年11月18日

黒森歌舞伎による観客論

近頃、JR 東日本の電車内の吊り広告に、ウチの田舎の「黒森歌舞伎」が紹介されている。雪の降る真冬、地元の人たちが神社の境内で演じるものだ。

ポスターに映っているのは、多分、忠臣蔵の討ち入りの場である。実際に降りしきる雪が抜群の効果になっている。

Crack_081118_2 私は一度だけ、実際の現場で黒森歌舞伎を見たことがある。多分、30年ぐらい前のことだと思う。酒田からバスで 30分ぐらいの黒森で降りると、そこに大きな日枝神社があり、まさに芝居が始まらんとするところだった。

観客席なんてものは無論ない。みんな思い思いに地面に敷物を敷き、縦より横幅の方が広いぐらいの厚着をして、芝居の始まるのを待っている。そのぐらいの厚着をしないと、寒くて凍えてしまう。私は冬山用の寝袋を持参して、それに入ったまま見物した。

観客席がないというのは、神社仏閣で奉納される芸能の常である。芸能というのは本来、神仏に奉納するもので、「お客様は神様です」というより、「神様がお客様です」という方が近いものだった。

「近い」と書いたのは、「神様がお客様」というのもまた、正確な表現といえず、本来は、演者もまた精進潔斎して神の資格で芸能を演じるのであり、ということは、神様同士が楽しむものであったという方がよりよい表現だと思っている。

だからその芸能を見物する人間というのは、本来は「観客」ではなく、単に神様同士の楽しみのご相伴にあずかる余計者だったのだ。折口信夫は、影でこっそり盗み見する精霊が、今の観客だったというようなことを言っている。

だから、雪の中で凍えそうになりながら、時にはホワイトアウトして舞台がよく見えなくなりそうな、芝居見物には最悪の条件の中でも、観客は文句もいわず、着ぶくれして、重箱のごちそうをつまみながら、一日地べたに座っているのである。(黒森歌舞伎は序幕から切りまで通し狂言で演じるから、朝から日暮れまでかかる)

もしかして、芸能の堕落は、お金を払ってくれる人間の方を本来の「客」と勘違いしたところから始まっているのかもしれない。

それから、ちょっと蛇足かもしれないが、この JR のポスターの 「山形は、男前」 というコピーが、私は気に入らない。その隣の「新潟は、粋な華」というコピーとのシリーズなので、そういうことにしたのだと思うが、黒森のある庄内は本来は山形じゃないのである。

これは私がいつも言っていることだが、庄内人は「山形県人」と言われるのは渋々ながら受け入れるが、「山形人」と言われるとかなりの違和感を覚える。山形と庄内は、別の国なのである。廃藩置県直後は、「酒田県」という独立した県だったのだが、あろうことか、すぐに山形県に併合されてしまったのだ。

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2008年11月17日

津軽と南部

八戸への出張を終えて、東北新幹線 「はやて」 に乗った。日はとっくの間に暮れ、窓の外の明かりがまばらなので、トンネルだかなんだか、区別がつけにくい。

八戸は青森県とはいえ、津軽ではなく南部である。南部の人は、津軽人との違いをかなり意識している。

どうやら、青森県は西の日本海側と東の太平洋側とでは、別の国らしい。津軽と南部は仲が悪いなんてことはよく言われるが、仲が悪いとまではいかなくても、少なくとも南部の人は津軽人に対してある種の違和感をもっているようだ。

「距離的には青森市の方がずっと近いけど、盛岡市に行く方がずっと気楽な気がする」という。県は青森県と岩手県に分かれていても、南部同士の方がずっと親近感があるようなのだ。

八戸の人は一様に、「津軽弁は、何を言ってるんだかわからない。半分しか理解できない」「津軽弁でまくしたてられると、喧嘩腰に聞こえる」などと言う。確かにおっとりした南部弁と機関銃のような津軽弁は、かなりの違いである。

「津軽人と口喧嘩をしたら勝てない。何を言われてるんだかわからないけど、とにかくこっちが負ける」「八戸の人が津軽で三年暮らしたら津軽弁に染まってしまい、帰ってきても津軽弁が取れないけど、津軽の人は何年こっちで暮らしても、津軽に帰ればすぐ津軽弁に戻る」

八戸にも「三社大祭」という重要無形文化財に指定されるほどの見事な祭りがあるのだが、青森県の祭りといえば、津軽のねぶた祭りばかりが有名になっている。南部は観光宣伝では完全に津軽の後塵を拝しているようだ。

どうも、南部の人は津軽に対して「あいつらにはかなわん」というような思いを含む錯綜した感情を抱いているらしい。そこには歴史的ないきさつもあるというのだが、どうやら、実際に接した上での実感でもあるようだ。

で、申し訳ないのだが、山形県庄内地方生まれの私は、津軽弁がけっこうよくわかるのである。ちょっと似てないこともないし。もしかしたら、津軽弁ヒアリングは南部の人よりずっと上手かもしれない。

そして、関東で 40年近く暮らしても、庄内に帰ればすぐに庄内弁に戻るのは、津軽の人と同様である。庄内弁、とくに北庄内の言葉は津軽弁に迫るぐらいの色の濃さを持っているのかもしれない。

ということは、私も周囲の人間に「あいつにはかなわん、何を言ってるんだかわからんけど」なんて感慨を持たれないように、あまり傍若無人なマイペースを貫きすぎないよう、注意しなければならないかもしれない。

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2008年11月16日

妻に先立たれた男は、長生きできない?

よく男は妻に先立たれると、5年も経たないうちに自分も死ぬが、女は夫に先立たれると、かえって長生きするなんて言われる。

確かにそうした傾向はあるようだが、すべてがそうとは限らない。例えば、私の父と妻の父は、どちらも妻に先立たれたが、ちゃんと元気で生きている。

とくに、妻の父などは大したもので、今年、自分の妻の十七回忌の法要を営んだ。妻の十七回忌をする夫なんて、世間ではあまり聞いたことがない。妻がよほど若いうちに亡くなって、旦那の方がしっかり長生きしているというのでなければ、なかなかできることではない。

私の父も、今年母の三回忌の法要を営んだ。「五回忌までは俺がやるが、その後はよろしくな」なんて言っているけれど、とくに病気という病気もしていないので、まだまだ生きそうだ。少なくとも七回忌ぐらいまでは安心じゃないかと思っている。

私の周囲には、妻に先立たれながら元気でやっている男が結構多い。そうした人に共通しているのは、「妻が生きているうちから、妻にあまり甘えていなかった」と思われる点である。

妻に甘えている男というのは、仕事方面での甲斐性なしか、家庭生活で自立してないかのどちらかである。私の印象では、夫は妻に甘えたいのに、妻の方で甘えさせてくれないという関係だと、夫は甲斐性なしになりやすい。

男というのは案外単純で子どもっぽいから、家庭でしっかり甘えさせてもらえないと、仕事方面ですねるのである。「ふんだ、いいもん、誰が仕事なんかに精出すもんか」なんて思ってしまうのだね、きっと。

「酒ばっかり飲んだくれてないでよ!」なんて妻に言われれば言われるほど、「ふん、お前なんかに俺の気持ちがわかってたまるか」とばかり、かえってすねて飲んだくれる。こんな亭主は、うまくおだてれば結構真面目になったりするものである。男なんて、前述の如く単純なものだから。

一方、家庭でうまく甘えさせてもらってる男は、外ではバリバリ仕事をして、かなりの地位まで昇りつめたりすることもある。ところが、あぶないのはこのタイプだ。妻が早死にしてしまうと、家庭ではもはや甘えさせてくれる存在がないので、意気消沈してしまう。息子の嫁なんかには邪魔者扱いされるしね。

こんなタイプが、「妻が死んでから 5年生きられない男」になる。もっともこうしたタイプにとっては、一人残されて長生きするのが幸せとも限らないから、それはそれでいいのかもしれないが。

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2008年11月15日

急にアクセスが増えちゃって

昨日、"Today's Crack" へのアクセスがやたらに多いのでリンク元を調べたら、「日刊ココログガイド」 の 「2008年11月14日のおすすめ」 で当ブログが紹介されていたのだった。

こんな紹介ページができていたなんて、全然知らなかった。紹介された効果は、まあ、大手ニュースサイトより下というところだ。

Crack_081115_3紹介されたのは、一昨日の「消費者からの不思議な電話」という記事だ。記念だからちょっとスクリーンショットを撮っておいた。(クリックすると拡大する)

せっかく紹介してもらって文句をいうわけではないが、「少しは考えた? 消費者からの不思議電話に企業も辟易」というコピーには、ちょっとひっかかるものがある。「少しは考えた?」って、一体、誰に向かって、問いかけてるんだろう? よくわからんのである。

私は別に、読者に向かって「少しは考えろよ!」なんていうつもりで書いたわけではないので、そのあたり誤解のないよう、よろしくお願いしたいところである。

ココログのポータル的なサイトで紹介してもらったおかげで、昨日のアクセスはかなり増えた。いつもの 3倍以上である。これが嬉しくないというわけではないが、ブロガーとしてもそろそろすれっからしの部類に入ってきた私としては、もはや手放しで喜ぶなんてことはないのである。

昨日当ブログに来てくれた人たちの多くが、今日も来てくれるなんてことは、まずない。まあ、まったくないというわけではないのだが、その確率は多くて 10パーセントぐらいのものだ。

つまり、たまたま来てくれた 2000人のうち、明日も来てくれるのは、200人以下で、それもだんだん減っていき、常連として残ってくれるのは、10人以下というところだろう。過去のデータが如実に物語っている。

うちのブログがニュースサイトに取り上げられて、1日に 4000とか 5000とかのアクセスを記録したことが、前にも何度かある。初めのうちは、その異常なアクセスの 1割でも常連になって毎日来てくれたらなんて期待したが、そんなことは全然なかった。それがあったら、ウチのアクセスなんて今頃、1日 1万以上になっていてもいい。

というわけで、昨日の昼頃、異常なアクセスに気付いたので、私は意識してクールダウンすることにしたのである。

本当は昨日のエントリーのタイトルは、「麻生首相の怪しい願望」 みたいなものにするつもりでいたのだが、敢えてそうしたセンセーショナリズムは避けて、"「言い間違い」を巡る冒険" なんていう当たり障りのないものにしたのである。「~を巡る冒険」 というのは、常連の方はおわかりだと思うが、当ブログの定番タイトルである。

派手で思わせぶりなタイトルで釣ると、こう言っちゃなんだが、お子様が集まりすぎてしまうおそれがある。だって、件の 「日刊ココログガイド」 の 「コネタマ」 というネタ提供ページの 「オススメ」 なんてのをみると、なんとなくお子様っぽい雰囲気なのだよ。こんな具合。

08年「今年の漢字」、あなたは何にする? イベントも開催!
2008年秋ドラマ、あなたのイチ押しはどれ?
内緒で買ったもの
ボーナスが出たら買いたいガジェットは?
あなたが注目する美男・美女アスリートは誰?

うぅむ、うちのコメント欄がこんな感じの色に染められちゃったりするのは、できれば避けたい。そんなわけで、私はアクセス増加を歓迎しないわけではないけれど、それはゆったりしたペースで実現したいものだと思っているわけなのである。

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2008年11月14日

「読み間違い」 を巡る冒険

『精神分析入門』 の中でフロイトは、「錯誤行為」についてものすごく多くのページを割いていて、それは人間の無意識の欲求の現れであることが多いと強調している。

典型的な錯誤行為には、物忘れ、ついしてしまう誤行動、言い間違い、書き間違いなどがあり、当然にも、読み間違いも含まれる。

読み間違いには、元々正しい読み方を知らずに誤読してしまっているというケース(「重複」を「じゅうふく」と読んじゃうのがポピュラーかな?)のほか、「知っているのに、つい読み間違えた」というのがある。フロイトのやり玉に上がりやすいのは、後者の方だ。

フロイト流の精神分析の手法に沿えば、正しい読み方を知っているのについ読み間違えるというのは、単なる「うっかり」では済ませられないものがある。人間の行動を深い部分で左右する「無意識」の力は、ごく普通の日常生活において、「うっかりしたはずみ」を利用して現れるからだ。

ある意味、「うっかりしたはずみ」を利用して、あまり表に出したくない無意識的欲求のガス抜きが行われるから、人間は臨界点を越えるほどのストレスを溜め込まずに済むとも言える。だから「よくあるよね」というレベルの錯誤行為なら、必要以上にとやかくいう必要はない。

とやかく言う必要はないのだが、つい詮索してみたがる悪趣味な人間もいる。私のような人間である。

最近話題になったのは、麻生首相の読み間違いである。当人は「ん、そうですか。単なる読み間違い。もしくは勘違い、はい」で済ませている(参照)ようだが、悪趣味な人間としては、それで済ませては、いかにももったいないような気がしてしまうのである。

まず、「村山談話を踏襲する」の「踏襲」を「ふしゅう」と読み違えてしまったそうだ。麻生さん、いくらなんでも「踏襲」は「とうしゅう」だと知っていただろう(と信じたい)。ただ、ややもすると読み違えそうな熟語ではある。それをやってしまった。

で、私は麻生さんの無意識を探りたくなるのである。

内心では、村山談話なんてうっとうしいと思っているに違いない。「フン!」という感じなのか、あるいは「そんなもの、踏んづけてやりたいぜ」ってことなのかもしれない。「腐臭を放ってるぜ」なんてところまで想像したたら、それはちょっとうがちすぎというものだが。

それから、日中青少年友好交流年閉幕式で日中首脳の往来が「頻繁」というのを「はんざつ」と読んじゃったらしい。これなんか、わかりすぎである。「もう、本当に、ただでさえ忙しいのに、会いたくもない連中としょっちゅう顔を突き合わせなきゃならんのは、うっとうしいぜ」と、内心では思ってるんだろうなあ。

とまあ、下手に読み違えると余計な詮索をされるので、気を付けなければならない。ただ前述の如く、錯誤行為によってガス抜きをしているという部分もあるので、それがなくなると無意識のストレスが溜まりすぎになる。几帳面な人ほど心に重荷を抱えがちなのは、こういうことにも起因する。

だから、時々は自分の心の深い部分までしっかり見つめて、いやなことでもきちんと向き合い、解決(意識的なガス抜き)しておかなければならない。これが、とりもなおさず精神分析的療法なのだが。

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2008年11月13日

消費者からの不思議な電話

昨年の今頃、"「お友達と同じ服が欲しいの」という女性" という記事を書いた。友達の着ている服のラベルに記載された品番を控えて、店に探しに行くという女性が案外多い。

店で見つからないと、わざわざメーカーにまで電話して「同じ服を売ってちょうだい」と言ってきたりする。大した執念だ。

で、私としては「そのお友達の方が、友人に同じ服を着られることに抵抗があるかもしれないということを、想定しないのだろうか?」と疑問を呈し、他人の着ている服の内側の縫いつけラベルまで調べたがる図々しい女性とは、あまりお近づきになりたくないと書いた。

それに、わざわざメーカーに電話して「服を 1着売ってちょうだい」なんていっても、それは森永製菓本社に電話して「キャラメル 1箱売ってちょうだい」と言うとか、ソニー本社に電話して「テレビ 1台売ってちょうだい」と言うのと同じで、そもそも常識はずれの行為なのである。

電話を受けたアパレルメーカーとしては、本来ならば当然にも、「お店でお買い求めください」とか、「お店で『お取り寄せ』の依頼をなさってください」とかの対応をすることになる。

しかしそういう客というのは、「じゃあ、どこのお店に行けばいいの?」とか、「お店に行っても『品切れ』と言われたから、わざわざ直接メーカーに電話してるのよ!」とか、さらにうっとうしいことを言ってくるに決まっていて、際限がなくなる。

そこでメーカーとしても暇じゃないので、一応品番なんかを聞いて、ちょっとだけ調べたふりをして「申し訳ありません、その商品は品切れです」とかなんとか言って、断るのが常である。

いや、実際、ファッション商品なんていうのは足が速いから、すぐに在庫切れになる。だから大抵の場合、とくに好評な商品であればあるほど、調べるまでもなく、本当に品切れなのだ。ましてや、「お友達は、去年の夏に買ったと言ってたわ」なんて言われたら、そんな前のシーズンの在庫が残っているわけがない。

いつまでも在庫が残るようでは、この大変な時期、利益が上がらない。売れ筋ならば、フォロー生産すればいいとも言われるが、生産体制がしっかりしていないと、できあがる頃にはシーズンが終わっているのだから、それも難しい。これが内情である。

「また作ってよ」なんていう人もいるが、正直なところ「あなたが 200着ぐらいまとめて買ってくれるというなら、喜んで作りますが」と言いたいところをぐっと怺えて、「もぉ~~しわけございません」と、丁重に電話を切ることになる。

とまあ、企業や団体には、正直言ってうっとうしい問い合わせ電話が入ることが結構多い。これはアパレル関係に限らない。

某有名洗剤メーカーには、「お宅のシャンプーとリンスを 3年使ってるけど、テレビ CM でやってるみたいに、きれいにファサァ~ってなびく髪に、全然ならないじゃないのよ!」といったクレーム電話が、けっこう頻繁にはいるらしい。それに対応するというのは、本当に本当にご苦労なことである。

そんなことを思っていたら、私自身がたまたま受けた電話に、ちょっと不思議なものがあったので、ちょっと紹介する。 (電話の本人に配慮して、ほんのちょっとだけ脚色済み)

相手は「ちょっと心配な点があって、相談したいんですけど」と言う。「どんなことですか?」と私。

彼は「最近買ったタオルなんですけど、直接肌に触れても大丈夫でしょうか?」という。

タオルは私の専門じゃないんだけどなあと思いながら、一応、ごくフツーの答え方をする。

「タオルというのは、直接肌に触れるための商品ですから、普通は大丈夫です」
「でも、洗う前に触れても大丈夫ですか?」
「もし気になるんでしたら、洗ってから使用してください」
「いや、私が聞いてるのは、洗う前でも大丈夫かということなんです」

うぅむ、そんなに気になるなら、私んとこに電話なんかする前に、フツーはとりあえず洗うだろうけどなあ。もしかしたら、どうしても新品のタオルを使いたいというタオルフェチか? あるいは、洗わずに使い続けたいというタイプのタオルフェチか? 疑問が頭の中を駆けめぐる。

「何がそんなに気になるんですか?」
「いや、前に、染料には重金属が使われることがあると聞いたので、このタオルには重金属が使われているかどうか、確かめたかったんですけど、どこに聞いたらいいのかわからないので、そちらに電話しました」

やれやれ。

「そのタオルに使われている染料に重金属が含まれるかどうかを調べるには、ちょっと時間がかかると思いますが、万が一、重金属が使われていると判明したら、どうなさるおつもりですか?」
「その場合は、洗ってから使います」

おいおい。

「洗ったぐらいでは、容易には溶け出ないと思いますよ」
「…… それなら、かえって安心です」

おいおい。

「…… はい、これで不安は解消しましたね。いずれにしても、洗ってから使われることをおすすめします」
「聞きたかったのは、洗う前のことなんですが、まあ、それならそれで、一応納得します」

先方はまだ何か割り切れないみたいな様子だったが、電話は切れた。この人の心配って、根本的には何だったんだろうという疑問を、私に残したまま。

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2008年11月12日

「田母神論文」問題を巡る冒険

田母神論文」問題で、世間は不思議な騒ぎ方をしている。擁護する側も批判する側も、おっかなびっくりなのだ。

東京新聞は、"『持論、なぜ悪いのか』自民部会 田母神氏に擁護論" の見出しで、自民党内部に田母神論文に共感する空気があることを伝えている。

報道によると、「(自衛隊の) 歴史認識を教育するなんてことを言ってもらったら困る」「田母神氏の持論がなぜ悪いのか分からない」「(防衛省が)歴史観を対象に懲戒処分しようとしたのは問題」など、田母神氏擁護論が相次いだという。

私は八日前のおちゃらけ記事でもちらっと触れたのだが、今回の問題で一番クールな態度を崩していないのが田母神氏本人で、周囲は当たり障りのない建前論で逃げるか、田母神論文をヒステリックに否定しようとするか、はたまた、ある種靴の上から足を掻くみたいにオロオロしているかというのがほとんどのように見える。

麻生首相も田母神論文に関して、「幕僚長としては不適切」と述べているだけで、論文の主旨、内容そのものに関しては、一歩も踏み込んでいない。踏み込んでしまったら、多分自己矛盾に陥ってしまうとわかっているから、ただでさえ面倒くさいこの時期に、そんなことはしたくないのだろう。

東京新聞の記事では、党内の不満に対して沢徳一郎元防衛庁長官が、「稚拙な知識で論文を書いていることが問題だ」なんて、とんちんかんな釈明をしている。これは、例の論文コンクールの審査員長をつとめた渡部昇一氏を侮辱したことになると思うがなあ。それに、博学的知識で同じ主旨の論文を書けばいいということにもなりかねない。

私は前のおちゃらけ記事で、「『この程度でも、賞って取れるんだ』と思ってしまった」なんて書いているが、それは文章があまり上手じゃないとか、出典がほとんど示されていないとか、テクニック的なこを言っているのであって、内容そのものについてはほとんど批判していない。基本的には、「そういう見方があってもいいよね」という態度である。

歴史とは、限りなく多くのうんざりするような要素がとぐろを巻くようにからまりあって、こけつまろびつ進むものである。一つの単純な歴史観で割り切れるようなものなら、誰も苦労はしない。

日本は一方的な侵略国だったことも、一方的な被害者だったこともないのである。だから、村山見解も田母神論文も、ある一つの見解であって、それですべてを言い切ることなんてできるわけがない。それは、5日前に書いた "栃木の 「モロ」 の教訓" とも共通する。

田母神論文を否定する立場の人は、彼の論旨の中のいろいろなポイントを取り上げて、鬼の首でも取ったように批判しているが、自分の論旨の中にも逆に批判されてもいいポイントは山ほどあるということを、是非忘れないでいてもらいたいなあと思うのである。

ただそれだけに、私のように 「いろいろあるよね」 なんて言っているだけでは不十分で、具体的にいろいろな見解が提示され、しっかりした見識を持って検証されることはもちろん必要だ。どちらかが他方を無闇に、あるいはヒステリックに抹殺しようとしたり、くだらない泥仕合に堕することは、避けたいものなのである。

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2008年11月11日

DDT を巡る冒険

昨日の記事で、「小学校で毎週、真っ白になるまで DDT を振られていた」と書いたら、私よりずっと(でもない?)年上の alex さんに驚かれてしまった。

大阪ベースの alex さんは、「私は DDT をかけられた事なんて無かったですね/ びっくり」 とおっしゃる。私の方がびっくりである。

私は、小学校 4年ぐらいまで、毎週(あるいは隔週ぐらいだったかな?) DDT を振りかけられていた。学校の授業の最中に、白衣を着た保健所の職員が来て、生徒全員に DDT を振りかけるのである。つまらない授業が中断されるので、子どもたちはどちらかといえば喜んでいたように思う。

廊下で列を作り、順番に DDT まみれにされる。まず、ピッチャーマウンドにあるロージンバッグの親玉みたいなので、頭をバホバホやられる。すると、いたいけな子どもなのに、頭が真っ白になる。その後、首筋に噴霧器の先っちょを差し入れられ、背中にブシュブシュやられる。これが妙に気持ちよくて、みんな「ひょ~~」なんて奇声を上げていた。

1クラス全員が DDT を振りかけられるのに、10分ぐらいのものだが、学校全体の作業は 1日がかりだったろう。そして市内の学校をすべて巡回するにはかなりの日数がかかるだろうから、当時の保健所にはそれ専門の職員がいたんだと思う。

この話をすると、東京や大阪など、都会で育った団塊の世代の年齢の人でも、一様に「俺は、DDT を振りかけられたことなんか、1度もない」と言う。そして、何度も DDT を振りかけられたという私を、未開人を見るような目つきで見るのである。

都会と庄内平野のタイムラグは、かなりのもののようなのだ。ベトナム戦争が終わったのは私が大学 4年の時だが、alex さんは商社マンとして戦時下のベトナムに赴任し、バリバリに仕事をした経験をお持ちである。

ということは、庄内と大阪の DDT に関するタイムラグは、ざっとみて 10年近いものということになる。まあ、DDT に限らず、全般的にそのくらい、あるいはそれ以上のタイムラグというのはあるかもしれない。

「DDT を振りかけられた」なんていうと、さも猛毒を浴びせられたかのような印象をもたれて、「それで、よく生きていられたね」なんていう人もいるが、実感としては、そのせいで健康を損ねたとかいうことは全然ない。

よく調べてみると、DDT の毒性というのは、印象ほどには強いものではないらしい。そりゃ、体にいいわけはないが、Wikipedia には "一時期、極めて危険な発癌物質であると評価されていたが国際がん研究機関発がん性評価ではグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」に分類されている" と記述されている。(参照

このページにはまた、"DDT にかわる農薬(パラチオンなど)は、食べても死なない DDT に比べて圧倒的に毒性が強く、それによる死者や被害者は DDT を圧倒的に上回る。DDT の禁止は、危険な農薬による被害を多数発生させる結果になった" とある。

私は決して DDT の肩を持つわけじゃないが、中国ではつい最近までパラチオンを生産していて、それに汚染された餃子が日本人の口に入ったなんてニュースを聞くにつけ、ちょっと複雑な思いがするのである。

念のため付け加えておくが、当時、少なくとも私のクラスでは、頭にシラミがたかってるなんていう子どもは、一人もいなかった。だから本来なら、生徒を DDT まみれにする必要性なんてなかった。

多分、一度決定した生徒への DDT 適用を中止する決定が遅れただけか、大量にある DDT 在庫を処分するために、だらだらと続けていたかのどちらかだと思う。つまり、お役所仕事の産物だろう。

そして皮肉なことに、近頃は都会でシラミが増えているらしい(参照)。

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2008年11月10日

庄内の昔話

7日の立冬以後、初冬っぽい空模様になってしまった。そう感じるのは、東北日本海側の生まれで、「冬はどんよりしたグレーの空」と刷り込まれてしまっているからかもしれない。

何しろ冬のイメージは、私の生まれた庄内平野と大学入学以後に住んでいる関東平野の間で、あまりにも違いすぎる。

昭和 46年、私が 18歳で上京した年は、沖縄返還とか学費値上げとかの問題の度にキャンパスが大荒れになって、しまいにはロックアウトされてしまうのだった。そのため授業なんてほとんどない大学よりも、アルバイトに通う日の方がずっと多いという暮らしだった。

時は知らないうちに経ってしまい、ふと気付いたら、大学は冬休みに入っていた。どうせ授業にはあまり出ないから、ロックアウトなんだか、ストライキなんだか、公式の休みなんだか、ほとんど区別がつかない。

街に流れ始めたクリスマス・ソングで、初めて冬になったのだと気付いた私は、東京の空を見上げてこうつぶやいた。「まったくもう、東京ってところは、冬なのになんでこんなに天気がいいんだ?」

18歳まで育った庄内平野は、冬になれば地吹雪の国である。たまに雲の切れ間から青空がちらりとのぞくことがあるが、基本的には毎日ずっしりとした重苦しい曇り空で、時々雪が舞い、西高東低型の気圧配置が強まると、猛烈な地吹雪になる。とにかく庄内平野は、人がフツーに住んでいる土地としては、世界一のブリザード地帯なんだそうだ。

家から高校まではほとんど一本道だったから、学校への行き帰り、身体の半分だけが雪で真っ白になり、反対側はパンパンに乾いている。傘なんか強風で役に立たないが、どうせ辿り着いてからぽんぽんと払い落とせば、雪は落ちてしまう。

屋根の下で暖まるまでは、頬と唇が凍えていて、まともな発音ができない。「北国は寒くて口を開けないから、ズーズー弁になる」なんて言われるが、冬の季節に限定してしまえば確かに実感である。

生まれて 5歳まで住んだ家には、水道がなかった。生活用水は、裏の井戸でバケツに汲み、台所に運ぶのである。水道がないくらいだから、風呂は当然ない。トイレも家の外にある。こんな話をすると、「あんたは、明治大正の生まれか?」なんて言われるが、昭和 30年代初頭の東北の地方都市には、こんな家がいくらでもあった。

夜中に小便がしたくなると、泣きたい気持ちになる。布団から抜け出して外の便所に行くのは、子どもにはほとんど命がけだ。銭湯の行き帰りだって、そりゃもう、着ぶくれ重装備である。

先日、仕事の関係で 30歳ぐらいの若い連中と食事をする機会があり、こんな話をしたら、とんでもない昔話を聞いているような顔をされた。私は団塊の世代より後に生まれているというのに、東京生まれの団塊の世代は DDT を振られたこともないという。私なんか、小学校で毎週、真っ白になるまで DDT を振られていたのに。

庄内平野と関東平野では、地域的な違いに加え、相当なタイムラグまであるみたいなのだ。そう、この 2つの平野では、時空が違うのである。私の深層的な部分は、現代の関東平野ではなく、別の時空に生きているらしいのだ。

 

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2008年11月 9日

「音楽の泉」 と、日本人の身体

NHK ラジオ(第一放送)の「音楽の泉」は日曜朝の長寿番組としてお馴染みだ。現在は三代目の解説者、皆川達夫氏 が格調高くクラシック名曲を紹介してくれている。

とてもいい番組なのだが、個人的な印象としては、曲解説のスタイルが、昔から何となくなじめない気がしているのだ。

いや、気に入らないというわけじゃない。昔からなかなか格調高くて、既に定着したスタイルとなっているので、今さら急に変えろと言っているわけでもない。ただ、フツーの日本人にはちょっとぴんと来ないレトリックなのだよね。

例えば、「この曲は、第一楽章が印象的なアレグロの軽快な主題が繰り返され、次第に民族的なメロディを取り入れたものに変化していきます」みたいなことを言われても、「それがどうした?」みたいな気がしてしまうのだ。

実際に曲がかけられて聞こえてきてから、「あぁ、西洋音楽でいうところの『軽快な主題』って、こんなようなものなのね」と思う。そう思いながら心の底では「軽快なんて言っても、別に、フツーじゃん」みたいに思う。

そりゃ、クラシック音楽の「軽快」だから、今のポピュラー音楽に慣れてしまった耳には、「鈍重ってわけじゃないね」ぐらいにしか聞こえない。それに「中近東的なイメージの民族的主題」とか言われても、聞いてみれば「別に、西洋音楽じゃん」なんてことになってしまう。

こうした印象って、我々の身体の中の DNA が、西洋人じゃないからということもあるんだと思うのだ。私なんか、かなりクラシック音楽が好きな方なんだけど、やっぱり、後で学んでわかるようになったというような気がしている。

亡くなった武智鉄二氏は、日本人の「身体性」から発する芸術論に関連して、「子どもの頃、クラシック音楽を聴くと変な気がしたでしょ」とよく言っていた。「小学校の音楽の時間で、クラシック音楽鑑賞なんていってレコードをかけても、それを聞きながらクスクス笑いが止まらない子がいたでしょ。それって当たり前なんです」

日本人の身体には、西洋のクラシック音楽が「奇妙」に聞こえるのだ。年齢を重ねて聞き慣れてしまえば普通に鑑賞できるようになるのだが、子どもの頃は、なんだかむずがゆいような感覚でしかない。どうしても「クスクス笑い」が止まらなくなってしまう。

「音楽の泉」の解説は、この「クスクス笑い」感覚を完全に無視した格調高さなのだが、日本人の身体性からすると、ちょっと上滑り的な感覚もしてしまうのだ。「何とかの主題がどうのこうの」より、まずは聞き慣れることの方が大切という気がしてしまうのだよね。

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2008年11月 8日

栃木の「モロ」の教訓

先日、ちらっとテレビをみたら、「栃木県では『モロ』という魚を食べる」という話題が、おもしろおかしく取り上げられていた。

栃木県民はみんなモロが大好きなのだが、その正体が、宮城県産の「ネズミザメ」という鮫であることを知る人は、ほとんどいないというような話だった。

その番組は実際に栃木県まで出かけて取材していて、街頭でマイクを向けられた人は皆、「モロ知ってる、大好き~」 と答えていた。居酒屋のメニューにも大きく「モロ唐揚げ」なんていうのがあり、お客は「モロ、うまい!」と盛り上がっていた。まるで、「栃木県でモロを食わないやつはモグリだ」と言わんばかりのノリである。

さらに、栃木以外ではモロはあまり食べられないと指摘されると、彼らは「え?、そうなの? こんなおいしいものをねぇ!」と驚き、それが鮫の切り身であることを知ると、「えぇっ? それは知らなかった。モロって、鮫だったの?」と、ますます驚いていた。

こんな場面を続けざまに見せられると、栃木県民はみんな、モロという食材をこよなく愛していて、まるで「県民食」と言ってもいいぐらいのレベルなのだが、県民はその正体を誰も知らないのだと、そのくらいまで思いこまされてしまう。

念のため説明すると、モロというのは上記の如く、「ネズミザメ」という鮫の一種で、多くは宮城県の気仙沼で水揚げされている。フカヒレを取ったあとは、ほとんどかまぼこなどの原料にされるという。

しかし鮫は日持ちがいいので、「海無し県」の栃木では、昔からその切り身が重宝されてきたのだそうだ。ちなみに、番組で気仙沼の漁師に「どうして、モロを食べないんですか?」と聞くと、「あんなもの食わなくても、ほかにもっと旨い魚がいくらでもあるから」と答えていた。

ところが今朝、TBS ラジオの「永六輔 その新世界」で、レポーター役のラッキー池田さんが実際に栃木県に出向き、「栃木県民はモロが鮫であると知っているのか」というテーマで、駅前を歩く人に、手当たり次第にインタビューしていたのである。

ラッキーさんが「モロって、知ってます?」と聞くと、「知らない」「聞いたことがない」という答えが意外に多い。あれ? テレビでは「栃木県民はみんなモロが大好き」と言ってたが、話がずいぶん違うじゃないか。

「モロを知ってる」という反応の多くも、「こないだテレビで見たから」とか、「知ってるけど食べたことはない」というものだ。印象としては、「別にそれほど好きってわけじゃない。ただ『モロは鮫』というのは、最近テレビで見て初めて知った」という反応が一番多い。

恐るべし、テレビの影響力。人気番組で「栃木の人はみんなモロが大好きだけど、それが鮫であることを知らない」というような情報を流すと、日本中の人がそう信じてしまうのだ。実際はちょっと違うかもしれないみたいなのに。

今朝のラジオは生放送なので、編集のしようがなかったのだが、テレビでは「モロ、大好き~」という画像ばかりを編集してつないだのだろう。情報というのは、どうにでも操作できるもので、えてして極端な方向に振れがちなのである。

「納豆には、ダイエットにちょっとだけ効果があるかもしれない成分が、ちょっとだけ含まれる」というちょっとした事実が、テレビで(意識的に、不当に)増幅されて放送された翌日には、日本中の店頭から納豆が消えるのである。あまり鵜呑みにしてはいけない。

バラエティ番組で(そして、ニュース・ショーでさえ)、ちょっと一方的な感じの情報を目にしたら、「相当苦労して編集したんだね、ご苦労さん」と思うぐらいにしておけばいい。

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2008年11月 7日

レクサスのエンブレムに替える心理

一昨日の記事で、「レクサスのエンブレムがダサイ」 という話を紹介したが、世間には、自分の乗ってるトヨタ車のエンブレムだけでもレクサスにしたいという人がいるらしい。

レクサスのエンブレムはカーショップやネットオークションでも売られてるらしいのだ。いやはや、買う人がいるから売るんだろうね。

そういえば、いつも通る道に面した駐車場に停められている「ハリアー」には、レクサスのエンブレムが付いている。初めは米国から逆輸入したのかなあと思っていたが、ハンドルの位置が右側だ。

それで、ついにハリアーもモデルチェンジもしないままに、レクサス・ブランドに移管されちゃったのかとも思ったが、そうじゃない。これはどうみても、エンブレムだけ付け替えたみたいなのだ。まあまあ、ご苦労なことである。

で、ちょっとググって見たら、そのくらいのことは大分前から知る人ぞ知るという世界だったようで、2年前の J-CAST ニュースに、「レクサスのエンブレム オークションで人気の裏側」 という記事が見つかった。それを売ってるサイトもある(例えば こちら)。蛇の道は蛇とは、よくぞ言ったものである。

レクサスのエンブレムに替えたくなるトヨタ車の代表格は、アリストとハリアーらしい。中には 「カローラにレクサスのエンブレムを付けていたらカッコ悪いですか?」 なんて考える人もいないわけではないみたいだが。

で、当然のごとく湧いてくるのが、「なんでこんなことまでしたいかなあ」という疑問だ。ちょっと考えると、偽物のブランド品を買いたがる心理と同じように思えるが、よくよく考えると、それもちょっと違う。

何しろ、エンブレムの付け替えなんて、偽物鑑定なんていう技術がなくてもちょっと知ってる人がみればすぐにばれることであり、そして、知らない人にとっては何の意味もないことだ。ということは、これは、他に対してのアピールというよりは、かなり自己満足という世界の行為であるに違いない。

「ここまでやっちゃう俺が好き」という感覚と言ったらいいのだろうか。

どうせやるなら、ベンツのスリーポインティッドスターや、フェラーリのお馬のマークを付けたらどうだということになりそうだが、それをやったらお笑いのレベルになっちゃうから、「ここまでやっちゃう俺が好き」にはならないんだろうな。とくにフェラーリのエンブレムなんて、入手しにくいだろうし。

こうした世界も、なかなか微妙なところがあるようなのだ。

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2008年11月 6日

米国がずっと謝らなくてもいいように

4年前の秋、米国の多くのリベラルたちは、全世界に "Sorry, everybody" (ごめんね、みんな)と謝り、「米国の約半分は、ブッシュを支持したわけじゃない」と言い訳した。(参照

そして今年の秋、彼らはハッピーだろう。米国人が圧倒的にバラック・オバマを支持したので、再び謝る必要がなくなったからだ。

こう言っちゃなんだが、キャンペーン中のマケイン氏の姿は、「私が大統領になっても、何も変わりませんよ」という言葉にならないメッセージを、体中から強烈に発していた。よく言えば「古き良きアメリカ」の体現者だが、今、その幻想にすがる者はごく少ない。

彼は、自らが発散するイメージが今やマイナスにさえ作用するようになったことに気付かず、気付かなかったが故に、負のメッセージにストップをかけることができなかった。あれじゃ、勝てない。いや、彼は本当にいい人なんだろうけどね。

一方、オバマ氏は違っていた。彼の演説がいかに具体性に欠け、単に理想を説くだけのものだったとしても、それは、米国民に何らかの希望を与えた。とくに、これまでは「俺たちゃ、選挙なんか知ったことじゃねぇよ」と思っていた黒人たちがこぞって、初めて選挙人登録というものをし、バラック・オバマに投票した。このことの意味は大きい。

米国の本音の顔は、既にずっと前から全然 WASP っぽくなんかなかったのだが、今回の選挙を期して、この国はオフィシャルにも WASP の国じゃなくなるのである。おめでとう、アメリカ。

願わくは、米国民がこれからもずっと世界に対して謝らなくてもいいように、より正確な言い方をすれば、謝らなきゃいけないようなことをしでかさなくてもいいようにしてもらいたいものなのだ。

そのために、これまでの因習的な米国的システムは、果たしてきちんと変わるんだろうか。問題はそこだ。

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2008年11月 5日

「ボケ」かと思ったら、「マジ」だった

前に覗いた 2ch の「レクサスはなぜ売れない?」 のスレ(正確なスレ名は忘れた)に、"「レ」 の字のエンブレムが、ダサいから" といったようなコメントがあった。

あれはアルファベットの "L" じゃなくて、カタカナの「レ」らしい。「レクサス」だもんね。後世に残したいほどの「ナイス・ボケ」である。

パナソニックのモバイル PC、Let's Note の新機種に、キャリングハンドル付きというのがある。「F8」という機種だ(参照)。このニュースをみたとき、私は「これはパナソニックがボケかましたに違いない」と思った。

「さすがパナソニック、こんなボケかましてくれるなんて、余裕あるなあ」と思ったのである。ところが、詳しい情報をみると、これは「ボケ」ではなく、かなり「マジ」なんじゃないかと思われてきて、「余裕あるなあ」という感慨はますます深くなったのであった。

私は自宅兼オフィスの仕事部屋では、Dell のデスクトップを使っているが、モバイル用としては Let's Note CF-W7 というのを使っている。店頭で 24万円ぐらいした。Eee PC なんていうのが 5万円台で買える今どきとしては、ちょっとした贅沢品である。

贅沢品ではあるかもしれないが、これを選ぶにはそれなりの理由がある。まず、小型軽量である。これは必須条件だ。「堅牢」という触れ込みについては、Let's Note の上に座ったり、床に落としたりしたことがないので、実証的にはわからないが、確かに丈夫そうなイメージはある。

バッテリー駆動時間が長いのは、外で使うには本当にありがたい。電源管理機能もしっかりしていて、過充電にならないための「エコノミーモード」というのがあり、バッテリーの耐久性が飛躍的に高まる。目立たないけれど、これも本当にありがたい機能だ。

さらに、余計なソフトが入っていないのもいい。他のメーカーの PC を買うと、100年に 1度も使わないようなソフトがゴチャゴチャ入っていて、それを消すのに手間取る。ただでさえモバイル PC の HD 容量は大きくないのだから、余計なものは邪魔でしかない。

と、このように、軽くて質実剛健がウリの Let's Note だが、キャリングハンドル付きを売り出したというので、我が目を疑ったのである。余計なものをくっつけるというのは、Let's Note らしくない。

いろいろなニュースをみたら、パナソニックは「ハンドルがほしいといったのはユーザー」という姿勢らしいのだ。「長時間バッテリー駆動」「軽量」「堅牢性」というニーズには既に対応しているので、新機種ではそれに加え、「持ち運びやすさ」「CPU、HDD、メモリ容量」「ディスプレイ解像度」の項目を満足させることを考慮したというのである。

よく読んでみると、モバイルが売りの Let's Note だが、上位機種になるとデスクトップ的な使用もあり、社内のみで他の書類なんかと一緒に持ち歩くという必要性が出てきたので、それに対応したというのである。

う~ん、そうだとしたら、「長時間バッテリー駆動」「軽量」という項目は犠牲にしてもいいから、もっと安い値段にしてもらいたいところだ。価格.com で調べたら、Let's Note F8 の最低価格は 257,988 円だった。27万から 29万円台というのもある。これじゃ、ちょっと高過ぎて、企業としては導入しづらい。

Dell なら、MS-Office を入れても 8万円以下で買えるノート PC がある。F8 の値段の 3分の 1 以下だ。私なら、社内で使うならこっちを選ぶ、キャリングハンドルなんか別にいらないから。

余計なことをしない質実剛健の Let's Note が余計なことをしだしたら、利益率落ちるだろうになあ。

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2008年11月 4日

田母神さんって、誰かに似てる

昨日までの秋の三連休、せっかく雨も降らずにもったというのに、私はたまりにたまった仕事を片付けるのにヒイヒイいってたので、頭の中がすっかり疲れてしまった。

というわけで今日は、例の田母神俊雄前航空幕僚長ネタだが、中身はもう本当に軽~い、おちゃらけたお話である。

何かというと、私はテレビで田母神さんの顔を見て、「に、似てる!」 と驚いてしまったのだ。誰にって、あの公明党の太田昭宏代表にである。なんとなく、雰囲気までそっくりで、「実は兄弟」 なんて言われても信じてしまいそうだ。

どうだろう、似てないかなあ。

公明党では今回の問題について、山口政調会長が「自衛隊は再教育が必要」なんて言っているが、そんなこと、無理じゃないかと思う。大体において、自衛隊幹部の多分 8割以上は、田母神氏と似たような考えだと思うし、酒場のオヤジたちのダハダハ政談でも、多分「田母神、よく言った!」という論調の方が主流だろう。

田母神氏の論文というのをざっと読んでみたが、内容的には、それほど滅茶苦茶なものじゃない。ただし、巷の右の方の人間の主張を手短にまとめたようなもので、独自性といったようなものは薄い。文章的にもお世辞にも上手とはいえなくて、「この程度でも、賞って取れるんだ」と思ってしまった。

それにしても、今回の問題に対する政府や野党やマスコミの反応というのも、あまりにも絵に描いたようなステロタイプばかりで、この方面の議論というのはいつも不毛だと思うばかりである。

田母神氏的な論調は、戦後日本においては常に裏街道しか歩けないもので、これまでは、やや感情的な右からの論調が、表通りに出たとたんに、冷静な建前論で打ち消されるという繰り返しが演じられてきた。

ところが、今回の状況はこれまでとちょっと違うような気がする。どちらかといえばクールなのは田母神氏の方で、マスコミの方がやや感情的になっているようにさえ見える。時代というのは、変わるものなのである。

あ、「おちゃらけ」 なんて言った割には、最後に、ちょっとだけマジになってしまった。

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2008年11月 3日

私は怒るのが苦手

世の中の風潮やお上の施策に、怒ってばかりという人がいる。怒ることでしか、自分の正義感を満足させられないといわんばかりだ。

そういう人をみると、まことに申し訳ないけれど、「ああ、怒っていられるだけ呑気でいいなあ」と思ってしまう。私はどちらかというと、怒るのが苦手な人間である。

以前、会社勤めをしていたとき、仕事の進行が他部署からの余計なお世話ともドジともいえる横やりで、おじゃんになりかけたことがあった。私は血相変えて、その仕事の復旧にとりかかった。

当時の上司は「あいつはまったく、とんでもないことをしやがって」と、カンカンになって怒っている。あまりカンカンなので、すぐそばで冷静に仕事の復旧に集中している私まで気に入らないらしい。

「お前はどうして、そんなに冷静でいられるんだ? 怒れよ、もっと怒れよ!」とわめくのである。あまりうるさいから、私はついに、こう一喝した。

「今は、呑気に怒ってる暇なんかありませんよ。こっちも必死なんですから、ちょっと静かにしててください!」

こう一喝したときだけ、私はちょっと怒っていたかもしれない。どうせ必死になって尻ぬぐいをするのは、私なのである。上司はそばで怒ってさえいればいい。まったく呑気なものである。

長距離ドライブをしながらラジオを聞いていると、政府の施策などについて、聴取者にアンケートを取り、その反応を紹介する番組がある。ちょっと極端なことを言わせてもらうと、そうした番組にわざわざ電話をかけて自分の意見を言いたがる人なんていうのは、基本的に暇な人が多い。

で、さらに極端に言うと、暇な人ほど世間に不満を抱いている。だから、そうしたアンケートの反応の大体 65%以上は、お上の施策に否定的なものである。そして否定的な答えをした半数ぐらいは、ただ単に、感情的に怒っているだけである。

今回の麻生さんのホテルのバー通いなんかがテーマだと、「麻生さんはどうせ金持ちのぼんぼんだから、我々庶民がいかに生活に困っているかなんて、わかろうはずがない。そんな人には何の期待もできない。さっさと辞めてもらいたい」というような、怒りにまかせたコメントが必ず紹介される。

あまりにも予想通りの、ステロタイプの極みみたいな論調なので、つい苦笑してしまうほどだ。「そんなに生活に困ってるんなら、呑気にラジオ局に電話して愚痴なんか言ってないで、もっと生産的なことでもしたら?」なんて思ってしまう。

はっきり言って、呑気に怒っていられるのは、当事者意識がないからである。悪いのは他の誰かさんであって、自分には責任がない。自分は善人であり、弱者であり、一方的な被害者である。だから、どんどん怒る権利がある。彼らはそう思っている。

逆に、当事者意識があると、呑気に怒ってなんかいられない。怒るより先に「何とかしなきゃ」と思う。何とかならない場合は、自分の力不足を痛感してしまうので、他に対して怒りを向けることもできない。

いや、私は怒る人全てを非難しているわけじゃない。「怒ってみせる必要がある時」というのも、確かにある。そのことについての一端は、こちら にちょっとだけ書いてある。つまり、「怒ってみせないと通じない鈍感な人」には、怒ってあげないといけないのである。

世の中には、そうした「怒りの専門家」みたいな人もいて、それはそれで存在価値がある。ただ、感情にまかせて愚痴を怒りに転化させるのだけは、みっともないから止めとくほうがいい。

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2008年11月 2日

個別の落とし前と、全体の利益

そういえば、世の中は秋の三連休なのだと思い当たった。私はといえば、そんなのは全く関係なく、バタバタの 3日間になりそうである。

今日も朝から自宅の仕事部屋の PC に向かいっぱなしで、ふと窓の外を見れば、もう秋の日は暮れてしまっているのである。明日も多分こんな具合で暮れるだろう。

明日、文化の日は昔から有名な晴れの特異日で、毎年大体晴れる。晴れるのがわかっている連休なのに、仕事が重なってどこにも出かけられないというのは、残念だがまあ仕方ない。そのうちしっかりと、あちこち出かけよう。

ところで、「お産を扱う病院が、1年で 8%減少」というニュースには、ちょっと驚いた。産科医不足という話は前々から聞いてはいたが、1年で 8%減少となると、ちょっと異常だ。外科と産科医はリスキーだからなり手がないというが、極端すぎる数字である。

最近は医療関連でも、何かあるとすぐに訴訟沙汰になる。それに嫌気がさして、リスキーな外科と産科は敬遠される。すると、ますますこの分野の医療のリスクが高まる。困った悪循環だ。

だったらごく単純に言えば、医療関係の事故では訴訟しなければいいのである。訴訟がなくなれば、少しは産科医と外科医のなり手が増える。そうすれば、医師不足による過労に紛れた事故も減る。

実際問題として、医療事故で肉親が死んでしまったら、慰謝料を取りたいのは人情である。それをいかんというつもりはない。それなら、医者がそれなりの保険に入って、何かあればさっと慰謝料を払えるようにしたらいい。

刑事事件にしないで、保険会社が粛々と代理交渉をして、さくさくと相場の慰謝料を払うというシステムにしてしまえば、問題はかなり減ると思うんだがなあ。

患者を殺したくて殺す医者はいないだろう。いちいち警察が出しゃばって刑事事件にしてしまうと、話はかえって面倒になる。詳しい法律的問題は知らないので、これ以上は言えないんだけれど、なにか難しい規制でもあるんだろうか?

あるいは、問題なのは遺族のウェットなメンタリティなんだろうか。遺族が「金の問題じゃない、医者の責任を追及したい」なんてことを言い出したら、日本の産科医不足は解消しない。

個別の落とし前にこだわりすぎると、全体の利益が損なわれる。

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2008年11月 1日

低価格モバイル PC で考える

近頃、低価格モバイル PC というのが話題である。値段の安さで大注目なわけだが、それほど大騒ぎするほどのことか?

単に安い PC が欲しいだけなら、DELL などのサイトに行ってみればいい。Asus の Eee PC よりずっと高性能の PC が、ほぼ同程度の価格で買える。

DELL のちょっと大きめのノート PC ではなく、Eee PC を選ぶ理由は、その「小ささ」だろう。常に持ち歩いてインターネットに接続する必要のある人には、その携帯性と低価格は大きな魅力である。

とくに、最近大手量販店なんかで見かける「Eee PC と Emobile のセットで 100円」というのは、私なんかもついくらっと来て買いそうになってしまった。私は既に Let's Note と Emoble のセットで、がしがしモバイルしているので、いくら 100円でも意味がない (Emobile の通信料がダブルになってしまう) と思い直し、辛うじて踏みとどまったが。

客観的にみると、低価格モバイル PC のメリットは、「価格」と「小ささ」で、さらにいえばそれしかないわけだが、よくよく考えると、この 2つは案外別々のニーズである。

安ければいいというニーズは、別に携帯性を必要条件としていない。家にいて気楽にインターネットに接続できればいいという層は、外出時のネット接続は、ケータイで充分なのだ。だから小さい必要はない。DELL の普及版を買う方が利口だ。

一方、PC に携帯性を求めるのは「外出時でもオフィスと同レベルの PC 環境が欲しい」というニーズだが、そうなると、Eee PC ではちょっと力不足だ。何しろ、Office ソフトを入れるだけの空き容量がない。

しかたがないので、Google オフィスか何かで作業して、作成したデータは無料 Web ストレージに保存しておくというような使い方になるだろう。それでいいなら、充分 OK なのだろうが、高度の作業にはちょっともの足りない。

HD タイプで容量に十分な余裕があるものもあるが、今度は価格が中途半端になったり、バッテリー駆動時間が短かったりする。安くて長時間駆動しないと意味がないんだから、それは困る。いづれにしても、現状の低価格モバイル PC は、まだ中途半端だ。

というわけで、現時点での低価格モバイル PC を買うとしたら、Eee PC と Emobile のセットを 100円で購入してインターネットを楽しみ、時々レポートを書くぐらいの軽い用途に使うというのがベストなんじゃなかろうかと思う。

とはいえ、今後の PC のトレンドは、昨今の経済情勢もあるので、ますます「低価格」というのがキーワードになるだろう。PC のコモディティ化は否応なく促進する。そうなると、ハードとともにソフトのコンセプトも変わらなければならない。

大体、PC ユーザーのほとんどは、インターネット接続さえできれば、あとは簡易ワープロとお小遣い帳程度の表計算、そして年賀状作成とちょっとした画像管理のソフトさえあれば充分な層である。その程度のニーズに MS Office なんて過剰すぎるというものだ。

MS Office の Word と Excel のフル機能がなければ、日々の業務ができないなんていう人がいたら、お目にかかりたいぐらいのものである。MS は、カローラでも充分すぎるというユーザーに、大型トラックを押し売りしているのである。

現状は、大型トラックを安く売りまくるために、それだけを大量生産し、本来最も売れるはずのカローラを作らないでいるようなもののような気がする。

そして、低価格モバイル PC というのは、エンジンに相当する OS だけ、やたら大きなものを搭載している軽自動車のようなものだ。だから、これは過渡期の製品だと思うほかないのである。まあ、PC そのものが常に過渡期にあるわけなのだが。

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