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2008年11月30日

変わるものと変わらざるもの

今日は、朝のうちに和歌ログの方の更新に取りかかったところ、ついのってしまって、いつになく長文になり、Today's Crack
の方の更新をしている時間がなくなってしまった。

たまった仕事に追われているので、今日は和歌ログの記事をこちらにも使うという裏技で勘弁してもらいたい。

以下、和歌ログからの転載である。

Wakalog_081130 今日は久しぶりに、どこにも出かけなくていい日である。そうかといって、仕事がオフなのかといえば、そういうわけでもなく、家に籠って仕事をしなければならないという日である。

朝からいい天気で、遠くの山がきれいに見える。少し冠雪した日光の山並みまで望まれる。そして、筑波山は稜線に立つアンテナまで識別できる。(写真をクリックして拡大表示にするとはっきりわかる)

我が家の階段の踊り場から、再び筑波山が望めるようになった。最近まで筑波山の景色を遮っていたケヤキが、切り倒されてしまったようなのである。この間の事情は、一昨年の一月十九日の和歌日記 (この時の写真には、切り倒される前のケヤキが映っている) に書いていて、繰り返しになるが念のため、もう一度記す。

二十六年前にここに引っ越してきた頃は、階段の踊り場から筑波山がきれいに見えた。それがいつの間にか見えなくなって、しばらくは 「おかしいなあ」 ぐらいにしか思っていなかったのだが、そのわけがわかったのは、三年前の初春である。その時の視界は、こんな感じ だった。

我が家と筑波山の直線上にあったケヤキが、いつの間にか大きくなって、筑波山の姿を隠してしまっていたのだ。ところがそのケヤキが二十年ほどの間にさらに成長し、枝の生茂っていた部分がさらに高くなったため、秋から春にかけての葉を落としている季節になると、筑波山の姿が見えるようになったのだ。

そしてさらに、そのケヤキがあまり大きく育ちすぎて手に負えなくなったためか、切り倒されてしまったようなのである。これで、これからは春から秋にかけても筑波山の姿が望めるようになった。

ところが、写真の左側のケヤキが以前より大きくなったので、筑波山の男体山 (二つある頂のうちの、向かって左側) が隠されてしまい、残念なことに頂が二つならぶ姿としては望めない。この左側のケヤキがさらに大きくなってくれればいいのだが、その頃にはまた新たな木が大きくなって、視界を遮るだろう。

高校を出るまでの間に、私の実家は酒田市内で二度引っ越しをしている。さらに大学に入ってから独り身の状態で三度引っ越し、妻と暮らし始めてからまた三度引っ越した。その三度目の引っ越しで、ここに来たのである。

同じところに十年以上続けて住んだことがない私としては、二十数年定住したというだけで、驚異的なことだ。そして、我が家から見える筑波山の姿の変容を語るだけで、その時の流れが偲ばれるのである。

それにしても、私の故郷から見える鳥海山の姿(参照)と筑波山は、相似形のように見える。私はよくよく頂の二つある山に縁があるようだ。二つの峰は、変わらない私と、変わる私を象徴しているようにも思える。

ちなみに、筑波山の二つの頂の、男体山はイザナギの神で、女体山はイザナミの神に見立てられている。陰陽を象徴するといわれ、また神の名前の「イザ」に続く「ナギ」は「凪ぎ」(鎮まり、不動の状態)を、「ナミ」は「波」(変化する状態) を表わすとも言われる。

そして、今日の和歌日記に記した歌は、次のようなものである。

 筑波嶺の動かぬ姿望みゐる変はらぬ我と変はり来し我

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

 

 

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哲学・精神世界」カテゴリの記事

コメント

実家は海浜開発区だったため、
潮風にやられて木々が弱々しかったのですが、
最近帰省してみたら、力強く茂っていて、
あぁ、変わったんだなぁって思いました。
どこか物寂しさのあった町が温かな町に変わっていて、
喜ぶべき事なんですが、郷愁というか昔への思いで、
悲しくもありました。

今日も明日も区別なく同じ日が続けばと願う一方で、
確実に近づく死に怯えて、もがく日々です。

大げさかな(笑)

投稿: 夜の指揮者 | 2008年11月30日 21:56

夜の指揮者 さん:

思い出というのは美化されるので、久しぶりに訪れる故郷などは、なかなか複雑な情景となって迫ってきたりします。

記憶が美化されるのを私は 「ノスタルジアの法則」 なんて言ってます。

>今日も明日も区別なく同じ日が続けばと願う一方で、
>確実に近づく死に怯えて、もがく日々です。

若い頃は、「死」 というのはかなり抽象的な概念でしかありませんでしたが、最近はちょっと具体的なものになってきちゃいました。

まだまだ死にそうにはありませんが。

投稿: tak | 2008年11月30日 22:38


静岡空港の私有地の立木も、県側の言うように、あっという間にあの高さになったのでしょうか

投稿: alex99 | 2008年12月 1日 02:08

alex さん:

>静岡空港の私有地の立木も、県側の言うように、あっという間にあの高さになったのでしょうか

月日の経つのは 「あっという間」 ではありますが ^^;)

「設計変更は税金の無駄遣いなんだから、さっさと切り倒せよ」
という意見と、
「そもそも、空港建設そのものが税金の無駄遣い」
という意見の衝突ですね。

投稿: tak | 2008年12月 1日 10:01

今日の話題には、私も共感するところがあります。

福島市にしても、会津若松市にしても盆地ですので、東西南北どこを見ても山を見ることができ
ます。
福島市であれば、種まきウサギで有名な吾妻山、会津若松市であれば、民謡でおなじみの
会津磐梯山と象徴的な山があります。

私は、長い間盆地の底からそれらの山を見続けているので、なんか悩んだりすると、ふと山に
目を向けて一休みしたりします。
陳腐ですが、大自然の前のちっぽけな自分ってところでしょうか?

だから、新幹線で大宮の先を越えると、地平線にビルになってしまうので、何となく落ち着かない
気がするのですが。

投稿: 雪山男 | 2008年12月 1日 12:24

雪山男さん:

>私は、長い間盆地の底からそれらの山を見続けているので、なんか悩んだりすると、ふと山に目を向けて一休みしたりします。

ふるさとの山というのは、なかなかありがたいものですね。

私も、田舎に帰って鳥海山がみえてくると、時々うるっとくるほど懐かしかったりします。

投稿: tak | 2008年12月 1日 15:29

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