即物的 「読み・書き・算盤」 の限界
小学 4年と中学 2年を対象に基礎学力を測る 「国際数学・理科教育動向調査 (TIMSS)」 で、日本の子どもは文章題と記述解答を求める問題に弱い傾向があるとわかったという。
詳しい話は こちら に飛んで読んでいただくとして、私は日本人が文章題と記述式に弱いのは、今に始まったことじゃないと思うのだ。
日本人の教養というのは、遙か江戸の昔から「読み・書き・算盤」というのが連綿と継承されてきた。江戸時代から寺子屋というシステムがあったので、日本人は庶民に至るまで文盲率が低く、計算もできるということで、教育基盤は世界的にもトップクラスだったのである。
ただ、問題は「読み・書き・算盤」というのは、単に「文字を読み書きでき、四則計算ができる」ということでしかないということだ。即物的なのである。「文章を読んで解釈し、わかりやすい文章を書き、問題解決のために的確で論理的な計算を行う」という実践的なレベルまでは、あまり明確に要求されてこなかったのだ。
単純な「読み・書き・算盤」と、「文章解釈・文章表現・論理的計算能力」というのは、実は似て非なるものである。 単なる「読み・書き・算盤」は、ユングの気質分類に沿っていえば、「論理」よりも「感覚」の領域に属するものなのだ。「論理的に思考しなくても、ぱっと見てぱっと把握できる」という能力である。
例えば我々は、犬を見て「犬だ」と判断するのに、わざわざ論理的思考はしない。猫との違いを子細に検証したりしなくても、犬は犬だとわかる。これが「感覚的」判断というもので、即物的な「読み・書き・算盤」も、それと似たところがある。
文字を読むのに、いちいち文字の成り立ちから論理的に類推して読んだりはしない。「あ」という文字は「ア」と読むものと、既に感覚的に理解している。算盤の珠を弾くのに、いちいち論理的に考えていては、読み上げ算について行けない。
算盤が得意な人が論理的思考ができるかといえば、必ずしもそういうわけではない。逆にいちいち論理で考えるタイプは、算盤が苦手である。算盤というのは、論理で考えなくても感覚的にサクサクと計算結果を出すための道具なのだから、当然といえば当然である。
論理はプロセスが遅く、感覚や直感は速いのである。その代わり、感覚や直感は間違いが多いが、論理はまっとうに突き詰めさえすれば、的はずれに陥る危険性は小さい。で、日常的な些細なことは感覚優先でサクサク処理し、重要な問題は論理優先で突き詰めるというのが、フツーのやり方である。
ところが、日本人はこの「論理的思考」が苦手なのである。多分、日本語が「感情・感覚・直感」を表現する方向で進化してきて、論理思考に向いた言葉とならなかったということも関係していると思う。
例えば、以前の上司は、「A=B、B=C、故に A=C」 という三段論法を理解できない人だった。A=B なら理解できる。そして B=C もわかる。だが「故に A=C」となると、「なんでそう決めつけるんだ。やってみなきゃわからないじゃないか!」となるのである。
例えば、彼が A というプロジェクトを提案したとする。ところがそれは、明らかに過去の B1、B2、B3 …… といったプロジェクトの単純な焼き直しである。そして元になった過去のプロジェクトは、ことごとくある要件がネックになって期待通りの成果が上がらなかった。
そこで私はその上司に率直に言う。
「そのプランは、過去にもつまづいた○○要件にひっかかりますね」
すると、その上司はこう答える。
「どうして君は、何もしないうちから、そう後ろ向きなことを言うんだ。やってみなきゃわからないじゃないか。やればできるんだ」
恐縮だが、私は決して後ろ向きな人間ではない。むしろポジティブな方である。だからこそ同じやるなら、失敗要因とわかりきっている部分をきちんとクリアしてから着手すべきだと言いたいのである。ところがその上司は「やればできる」と、竹槍で B29 的な姿勢に固執する。
事実、その上司はなかなか行動的な人で、過去の同様のプロジェクトでも自ら額に汗して飛び回り、無理矢理に一定の売上げを叩きだしたという実績を持つ。だからこそ、自信を持って「やればできる」と言い張るのだ。
ところが彼の売上げは、それとほぼ同額のコストをかけて達成されたもので、こういうのを日本語では「経費倒れ」というのである。
彼は、「売上げが上がった」という事実は理解できる。というか、それこそが自慢の種だから、積極的にこだわりたいところである。そして、年次決算で支出が増加したという事実も、単純数字だから理解できる。
その支出増の要因については、他の部署は経費をできるだけ切りつめていて、増えているのはあんたのところだけだと、事実として突きつけられて、ようやく理解する。ところが「それは必要な経費だったんだ。自分は額に汗してかけずり回ったのだ」と言い張る。
その売上げが会社全体の利益にほとんど貢献していないどころか、他にさくべき人的資源と時間を浪費しただけということには、決して気付かない。そして会社としても、あまりそれについては追及しない。なにしろ、見かけ上の売上げは上がっているので。
かくのごとく、日本のビジネスは、論理ではなく各自の感情論で遂行されているところがある。
それは即物的な数字を即物的に計算するという単純能力の育成には力を入れるけれど、実際の課題を解釈し、解決し、それをわかりやすく表現するという論理的な教育が軽視されているからということも、背景にあるだろう。
そしてその教育的背景自体も、とりもなおさず社会の実情から発しているわけで、堂々巡りなのだが。
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コメント
フランスの教育は、文学を読んでも、作者の意図とか、社会的意義とか、どんな哲学が背景にあるか?などと先生が質問を投げかけ、極めて知的だそうです
個々人の思考に迫る
日本人の教育は、ある事象を知っているか、知らないか、にとどまる
私もたまたま昨日のブログでこう書いたのですが
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>あまり「なぜこうなるのか?」とか「ではどうしたらいいのか?」とかいう事を、キッチリ示そう、キッチリ求めよう、という番組は少ない
国防問題だって、憲法第9条問題だって、論じるだけにとどまって、結論なんていつまでも出ないし、出す気持ちも無さそうだし、ましてや自分なりの行動計画を示す人も少ない
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日本人は感覚的に問題をなでさするだけですね
感慨を述べるにとどまる
俳句ですね
投稿: alex99 | 2008年12月10日 17:09
alex さん:
日本では、「私の意見はあなたと違う」 と言っただけで喧嘩になりかねません。
お互いの意見を尊重して、その上で議論しようという風土がありません。
困ったものです。
でも、フランス人も時々、「私の意見はあなたと違う」 と言うだけのために、消耗な議論をふっかけてきたりします。
「そうね、その通りね」 というだけでは馬鹿だと思われるという気がしてるんじゃないでしょうか。
フランス人と付き合うと、その辺が疲れます。
投稿: tak | 2008年12月10日 23:37
義経が屋島の戦いで、「(退却するときのために)艪を二つ付けてはどうか」との進言に対して「そんな後ろ向きでどうする」と一喝したという逸話を思い出します。
失礼ながら、そのかつての上司の方は、この義経の「とにかく死ぬ気でやってみろ精神」を半端に受け継いでしまっているのでしょうね。
いくさという極限の状況ではともかく、ビジネスでは義経的超越主義よりもtakさんのような論理的・合理的思考の方が遙かに有益ですよね。
いや、ビジネスも戦争かも知れませんが(^^;
投稿: Adrienne | 2008年12月11日 00:10
東条英機大将が戦時中国民学校だったか、幼年学校で、
「敵の飛行機はどうやって撃墜するのか?」
と生徒に聞いたところ生徒は、
「高射砲を用いて落とします」
と答えたところ、
「君、精神力で落とすんだよ。」
と東条大将が答えたのは、人口に膾炙した話です。
戦時下の非常時ということや訓話的な側面ということを差し引く必要がありますが、
非常時だからこそ、トップやリーダーには論理的思考が求められるのですね。
投稿: 雪 | 2008年12月11日 08:47
Adrienne さん:
「背水の陣を布いてこそ ……」 という精神論は、そうするしかないときにのみ有効です。
フツーは有利な陣地を確保するか、保険をかけるかしますよね。
投稿: tak | 2008年12月11日 08:51
名前が雪だけになってしまいました。
すみません。
投稿: 雪山男 | 2008年12月11日 08:54
雪 さん:
>「君、精神力で落とすんだよ。」
精神力がなければ、高射砲の威力も十分に発揮できないという意味でなら、理解できます。
本当に精神力があれば、死ぬことを前提にして戦争に行くなんてことにはなりません。
投稿: tak | 2008年12月11日 08:57