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2008年12月に作成された投稿

2008年12月31日

「徳山托鉢」 を考えてみる

大晦日なので (どうして「なので」なのかはどうでもいい)久しぶりの「無門関」ネタである。今日は第十三則「徳山托鉢」だ。

この公案は、実はまったくもってよくわからんのである。わからないのだけれど、何となく想像力を刺激されて、ちょっと楽しくなってしまう話で、私は好きなのだよね。

ある日、徳山老師が托鉢して(食器をもって)ノコノコと食堂の方に降りてきた。すると、食堂係の筆頭、雪峰という生意気盛りの禅僧が「まだ食事の時間じゃないっすよ。合図の鐘も太鼓も鳴らしてないのに、一体どこに行らっしゃるわけ?」となじった。すると、徳山老師は何も言わずに、素直にそそくさと自分の部屋に帰って行った。

この徳山という人は、実はすごい人で、若い頃は「徳山の棒、臨済の喝」と言われたほど、厳しい指導をする禅師だったのである。そのすごい人をやりこめちゃったので、雪峰は得意になって、先輩の巌頭に 「どんなもんだい」と自慢した。巌頭はそれを聞いて「ふぅん、あのじいさんも、まだ末後の句をものにしてないみたいだね」と言った。

巌頭は、徳山の跡継ぎになったほどの偉い坊さんなのだが、どういうわけか、こんな乱暴なことを言ったのである。「末後の句」というのは、悟りの最終段階の言葉というような意味らしい。つまり「さすがのじいさんも、まだ悟りが足りないのかもね」と言っちゃったのだ。

そんな話を聞き及んだ徳山老師は巌頭を呼びつけ、「お前、一体どういうつもりじゃ」と問いただした。すると巌頭は徳山老師にひそひそと耳打ちした。すると徳山老師、なんだかしらないが納得してしまった。

その翌日の陞座(しんぞ: 講壇での説法)で、徳山老師の説法が尋常ではなかった。この「尋常とは同じからず」というのが、「いつもよりずっと素晴らしかった」という解釈と、「ボケボケで居眠りしてしまった」という解釈とがあるようなのだが、私はどっちが正しいんだかわからない。どっちもありと思う。

で、この尋常じゃない説法」に接した巌頭は、拍手、大笑いして「老師は末後の句をものにしたぞ。今後、誰も老師に敵わない」と喜んだというのである。

そして無門和尚はこれを評して、いつもの辛口で「こんなのが末後の句というんなら、大したことないね」と言っている。「安っぽい人形芝居みたいなもんじゃないか」と。

この無門和尚の評から類推すると、徳山と巌頭は、近頃ちょっと生意気の過ぎる雪峰をやりこめるために、一芝居打ったんじゃないかという気もするのである。演出は巌頭。素晴らしい天然アドリブによる主演は、徳山老師。

徳山老師、歳のせいで食事の時間を間違えちゃって、それを指摘されたら素直に引き下がった。このあたり、「棒の徳山」なんて言われていた頃と違って、すっかり丸くなっていたようなのだ。

何か言われたら何倍にもして言い返すという臨済禅のメソッドを超越したのか、単にボケが入ってたのか、どっちだかわからないが、ともかく間違いは間違いとして素直に認める度量を身につけていたわけだ。

というような状況で、雪峰はそのあたりに思いをいたさず、「あの徳山をやりこめちゃった俺が、ここにいる」てな感じで舞い上がってしまったわけだ。こいつ、全然まだまだなのである。で、巌頭は徳山老師に耳打ちして、「明日はちょっといいとこ見せてやってください」とかなんとか言ったのかもしれない。

そんなことがあった翌日の陞座、徳山老師は素晴らしい説法をしたんだか、ぐうぐう居眠りしちゃったんだかしらないが、まあ、どっちにしても、他に真似のできないパフォーマンスをした。それを見て、巌頭は「やってくれちゃったね!」と、大笑いして喜んだというわけなのだ。

私は、徳山老師が壇上で堂々と居眠りしちゃったという説の方がおもしろいと思う。「じいさん、近頃めっきりボケちゃったね」と思われてるんなら、いっそボケボケ・パフォーマンスでたたみかけた方がいい。悟りもいい加減深まっちゃうと、こんなにもこだわりがなくなるもんだという、最高の表現だ。

まあ、この天然ボケパフォーマンスを評して、無門和尚は「人形芝居みたい」と言ったのかもしれないが、その裏には、徳山老師と巌頭禅師の深い信頼関係があると思う。「師匠のボケボケは、並のボケボケじゃない。私はそこに深い意味を見出しちゃうよ」ってな感じだ。

こういうの、私は好きだなあ。「末後の句」は、それまでの人生の中で既に語られているのである。

というわけで、みなさん、よいお年を。

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2008年12月30日

『唯一郎句集』レビュー #1

9月 27日の記事で、私の祖父(母の実父)が自由律の俳人だったことを書いた。当時は天才とまで呼ばれていたらしい。

句集は長く私の実家の本棚にあったのだが、先日帰郷した際に、「じっくり読んでみたいから貸して」と、つくばの地に持ってきた。折を見てちょっとずつレビューしてみたい。

祖父は俳号を「唯一郎」と称した。本名が「猪一郎」だからそれにちなみ、「唯一」 (uniqueness) という意味もかけてこの俳号にしたんだろうと思う。ちょっとしたセンスだ。

生まれたのが明治 36年で、17~18歳ぐらいの時に、朝日俳壇に投稿を始め、10~12句が掲載される中で、いつも欄頭の 4~5句を占め、「地方都市に天才現る」と騒がれたらしい。

ところが、唯一郎が句作に没頭したのは 25歳ぐらいまでのことで、そのキャリアは 10年に満たない。自身も句帳というのをもたず、作りっぱなしだった。「私の俳句は排泄物に過ぎない、その場限りのもので、書き残すことも、記憶に留める用のないものだ」と言っていたと聞く。

句作を男子一生の仕事とも思っていなかったようで、20歳で父を亡くしてからは家業の印刷屋を継ぎ、自身も昭和 20年の終戦の年に 48歳で死んだ。昭和 27年生まれの私は、だから祖父の顔を句集に載っているたった 1枚の写真でしか知らない。なかなかハンサムで、どこか母に似ている。

生前の同人が中心になって、昭和 36年に「唯一郎句集」が自費出版された。遺族の家業が印刷屋なのだから、印刷そのものはお手の物だが、なにしろ、句帳を持たない人だったので、作品はあちこちに散逸していて、集めるのが大変だったらしい。

その中で、"「朝日俳壇」時代" (大正 10年頃と思われる)というカテゴリーにある俳句の中から、「これはとくにいいな」 と思ったものを以下に挙げてみよう。

湯豆腐つつく箸先の光りこの夜
うすら淋しきは淡雪の日の暦はぐり
冴えし夜の四つ角にて嘘を言ひしが
若い神楽師が何か淋しくて祭りの街中
ひそかに蚕室に入ればわが命いみぢく
桑の葉一枚摘み桑の葉かたかりけり
夏の海を見下ろしてから階段を飛ぶように下り

私は基本的には、自由律俳句というのはあまりぴんと来ない。何しろ、別宅サイトの和歌ログで、歴史仮名遣いの歌を詠んでいるぐらいで、どちらかといえば様式美が好きなのだ。

しかし、そうした偏見なしに改めて句集を読み返すと、なるほど、いい句がたくさんある。その中でとくに気に入ったものを、今回は七句選んでみた。まだ二十歳前のみずみずしさの中に、どこか老成したような透明感も漂っている。

「桑の葉~」 の句のように、何でもない即物的な言葉の中に感慨を込める手法というのは、なかなかのものだ。このレビューを繰り返すうちに、私の和歌の方もなんだか影響を受けてしまいそうな気がする。血がつながっているのだから、受けて当たり前という気もするが。

ちなみに、「和歌ログ」の方では近頃、自分の三十一文字を英訳したバージョンを加えるという試みを始めた。英訳版では、一応きちんと韻を踏むことを優先しており、そのせいで元の和歌とは似て非なるものになって、我ながらおもしろい。これなんか、国際版自由律和歌かもしれない。

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2008年12月29日

住みやすさもいろいろ

昨日の記事で、庄内平野の地吹雪の凄さについてまたしても書いてしまったら、 alex さんから「素朴すぎる疑問」(と、ご自分でおっしゃってる)のコメントがついた。

「それにしても、どうしてわざわざ、そういう苦難の土地に住むのでしょうか」とおっしゃるのである。

仕事で関西方面にも縁の深い私からみると、関西人は東北地方をものすごく辺鄙な土地と思っていらっしゃるようだ。彼らから見ると、日本の主要部分は北九州から関東までの間で、関東より向こうはクマとサルとカモシカの住処というイメージのようなのだ。あるいは、北海道に行くまでの長い長い廊下のようなものとか。

しかし実際は、東北というところは、気候的には案外住みやすいところなのである。とくに庄内地方は、冬の地吹雪さえ堪え忍べば、あとは本当に快適だ。夏は 33度を滅多に越えないし、冬も時々マイナス 3~4度になることがあるという程度のものだ。

何年かに一度ぐらい、フェーン現象で気温が滅茶苦茶上がることもある(過去に一度、40度超を記録した)が、そんな時は湿度が低いので、蒸し暑いというのではないし、二日は続かない。

それに冬でも湿度がさほど下がらないので、お肌が乾燥しない。庄内美人は、素肌美人である。

私に言わせれば、京都の方がずっと住みにくい。夏は日除けの帽子をかぶり、一日にペットボトルを 3本以上消費する覚悟で歩かないと、確実に熱中症になってしまうし、冬は冬で気温はそんなに低いわけじゃないのに、妙に骨身にじーんと応える寒さだ。

あの街は、体に悪い。定住する街ではないと思う。たまに行くからいいのだ。ただ、春と秋の気候のいい時期は、観光客でごった返すので、私はいつも夏の一番くそ暑い時期に行くという巡り合わせになるのだが。

どうして人間は、過ごしやすい気候の土地ばかりでなく、極寒の北極地帯や灼熱の砂漠や、むせかえる熱帯雨林にも住むのかというと、これはもう「住み分け」としか言いようがないと思う。

植物にしても、もっとも条件のいい春から夏にかけて咲く花ばかりではない。彼岸花などは、他の花が大方咲き終わって地面が空き始めたお彼岸頃に、満を持して咲く。他の花が嫌う冬に咲く山茶花なんていうのもある。人間でいえば、人混みが嫌いなタイプなのだろう。

人間も大勢の中で競合しながらあくせく暮らすよりも、気候的には多少苦労してもいいから、ゴタゴタや競合にはあまり巻き込まれずに、自由きままに暮らしたいという人種がいる。太古の昔、彼らがあちこち移動するうちに「よっしゃ、ここで暮らしてみるか」という気になった土地に落ち着いたのだろう。

それにしても京都というところは、気候的には決して住みやすいところではないのに、長らく日本の都だったのである。都として長かっただけに、人間関係でも気苦労の絶える間がなかっただろう。自然と人間関係の両面でのストレスが、あんなに大きそうな街はない。

それでも住み続けた公家や京都商人という人種は、なかなかおもしろいメンタリティがあったのだと思わざるを得ない。単純志向の武士という人種は、都には到底付き合いきれず、鎌倉や江戸に幕府を構えたというのに。

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2008年12月28日

庄内の冬の思い出

降雪、車両トラブル…各新幹線で運休・遅れ相次ぐ」 なんていう記事をみると、ついに本格的な冬になっちまったような気がしてきた。

確かに近頃、関東でもちょっと寒い。北西の風が国境の山のあたりで雪を濾し取られ、冷たさだけになって吹き下ろしてくる。「空っ風」とはよく言ったものである。

28日、長野、山形、秋田新幹線はさんざんだったようだ。長野新幹線はブレーキ故障によるものだったようだが、山形新幹線は積雪、秋田新幹線は強風による運休だ。まさに冬である。

とはいえ、上越新幹線はきちんと走ったようで、さすがに計画当初から雪を計算に入れて建設しただけのことはある。めちゃくちゃ雪の深いあたりはトンネルで切り抜け、越後湯沢、長岡あたりになれば、それほどの影響を受けないようになっているようだ。

それに、不思議なことに、越後の国は長岡を越すとだんだん雪が少なくなり、新潟に着いてしまうとほとんど積雪ゼロということが多い。私は新潟市は雪の少ないところと思っている。関東の人には意外なことのようだが。

そして、新潟で羽越線特急いなほに乗り換えると、まただんだん雪が深くなる。とはいえ、県境を越えてしまえば庄内平野で、豪雪地帯というほどではない。山形県で雪が深いのは、内陸にはいったところだ。

米沢の近辺に行くと、今でも道路から住宅の玄関に辿り着くまで、トンネルみたいに雪を掘った道を下らなければならないところがあると聞く。ああ、そんな面倒なところに生まれなくて良かった。

庄内平野の冬は、雪よりも風がすごいのである。これは何度も書いたことだが、庄内は、人がフツーに都市生活をしているところとしては、世界一のブリザード地帯なんだそうだ。3年前には、特急いなほが強風に煽られて脱線するという大事故を起こしてしまったほどだ (参照)。白鳥が薙ぎ落とされてしまったということもある。

今のところ、庄内 Cam の画面を見ても、酒田市内は積雪しているというようには見えない。雪は酒田に積もらず、山際と、それを超えた内陸にまで吹き飛ばされてしまうのだ。

酒田で高校まで通った私は、地吹雪でほとんど視界の効かない中を、勘を頼りに学校までたどり着いたということが何度もある。関東であんな地吹雪になったら(まあ、なるはずがないが)、確実に休校だ。そうでないと、子どもたちが途中で遭難する。

小学校では、だるまストーブに火を入れるのは用務員さんの仕事とされ、子どもが勝手にやってはいけないという、一応の規則になっていたが、用務員さんが各教室に廻ってくるまで待っていては、凍えてしまう。なにしろ、窓の隙間から吹雪が吹き込んでくるのだから。

だから、小学校の 1~2年の頃から、生徒が自主的に火を付けていた。新聞紙、細い薪、太い薪、石炭の順にくべていって、最終的にストーブの横腹が赤くなるほどガンガンに火を強くするのである。

この火付けの技術が、秋の芋煮会のたき火に応用されたのは言うまでもない。今の学校は集中暖房だろうから、最近の子たちは、たき火の火起こしには難儀しちゃってるんじゃあるまいか。それとも、スーパーで売る「芋煮会セット」に、火のスターターも入ってるんだろうか?

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2008年12月27日

テレビも変わっていくだろう

三日前の記事のコメントで、バラエティ番組などはビデオに録って CM とうっとうしい繰り返し部分を飛ばせば、1時間番組を、多分 40分ぐらいで見られそうと書いた。

このメソッド、とくに大晦日の格闘技にはものすごく有効だ。CM とくだらない「アオリ」を飛ばせば、半分以下の時間で見られる。

近頃のテレビ番組の CM の入れ方は、付き合いきれないものがある。普段ほとんどテレビを見ない私だが、たまに気が向いてバラエティ番組なんかをみることがある。しかし、20分もみないうちに嫌になるのである。

ちょうどいいところで、気をもたせるように CM になる。しかたがないからトイレに行ったり、コーヒーを入れたりする。CM が終わって本編に戻ると、一度見た場面が延々と繰り返されて、ようやくさっきの直接の続きにたどり着く。たどり着いてみれば、とくに何の変哲もないオチだ。

こんなのを見させられると、もうどうでもいい気がしてくるが、どうしても見たかったら、録画して余計なところを飛ばせば、ストレスなく見られるだろう。あるいは近頃のビデオは録画しつつ時間差で再生できるらしいから、15分遅れぐらいで見始めても見終わるのは番組の終わるのと同時なんて芸当もいけるだろう。時間の節約ができる。

それにしても癪に障るのは、大晦日の格闘技中継である。中継といっても録画を見るわけなのだが、CM とどうでもいい「アオリ」が半分以上で、試合だけみたいと思っても延々と何時間も付き合わされる。これこそ、録画して見ればいいという代表的な番組だ。

こういうテレビの見方が広まると、番組スポンサーにとっては悩ましいことになる。せっかく大金を払って CM を流しても、視聴率で計算された人数よりずっと少ない人数しかそれを見てくれないということになるからだ。

長い目で見れば、テレビの番組配信のメソッドそのものが変わっていくことになるのだろう。視聴者は自分の見たい番組だけダウンロードして、PC 上で見るということになるかもしれない。

テレビ番組なんて、リアルタイムで見る必要があるってわけじゃないから、これで十分だろう。自分で録画する手間が省けるのだから、番組 1本につき、数十円ぐらいの金は払ってもいい。

日がな一日テレビ点けっぱなしというテレビ好きは別として、見たい番組だけ見るという人には、これが一番かもしれない。なにしろ、これならハードウェアとしてのテレビもビデオも買わずに済む。PC さえあれば、DVD もテレビ番組も、見たい時に見られる。

そうなると、ますますテレビのスポンサー離れは加速するだろう。だが、それでいいのである。日本のテレビを見ていると、くだらない内容に金をかけすぎだ。米国に出張して、ホテルのテレビを点けると、あまり金のかからないニュースショーみたいな番組ばっかりで、かえって見入ってしまうことがある。

年に数本の「渾身の力作」以外は、テキトーに安上がりな番組を作って流しておけばいいじゃないか。どうせスポンサーの数も、出してくれる金額も減っているんだし。それに、その方が日本人もテレビ以外にまともな楽しみを見つけられる。

ちなみに、近頃 PC に直接接続できる地デジチューナーが発売されたというので、私も購入を検討してみたのである。

しかし、録画と再生の制約がやたらと面倒くさい上に、そもそもどうしても見たい番組なんてそんなに多くないということに気付いた。買うほどのものでもないという結論に達するのに、それほどの時間はかからなかったのである。

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2008年12月26日

小便臭いプールで、誰が泳ぐものか

「分煙は、多くの人が泳いでいるプールの一部をトイレにするのと同じ」と、厚労省の受動喫煙対策に関する委託研究の主任研究者、産業医大教授の大和浩氏は言う (参照)。

受動喫煙を防ぐには、分煙程度ではあまり効果がなく、全面禁煙しかないのだそうだ。へぇ、思い切ったことをおっしゃるなあ。

私はかなり手ごわい嫌煙派だと自分では思っているが、世の中すべてを全面禁煙にしろとまでは思っていない。大和先生は、新幹線の喫煙車両と禁煙車両の区別もあまり意味はないとおっしゃっているようなのだが、私は個人的には現状でも一応満足ではある。

飲食店などでも、喫煙席の煙が禁煙席に流れてき放題というのは論外だが、煙も臭いも漂ってこない造りになっていさえすれば、私は面倒なことを言うつもりはない。あくまでも「個人的には」ということだが。

というのは、私のスタンスは受動喫煙による健康被害について声高に叫ぶというものではないのだ。私はひたすら、タバコの煙と臭いが嫌いなのである。煙と臭いが届かないところで喫煙してもらいさえすれば、空気中の粒子量とかガス状成分とかがどうこうとまで言おうとは思わない。

そのかわり、さっきまで煙がもうもうと立ちこめるところでタバコを吸っていたオッサンに近くに来られるのは御免被る。そのオッサンの服や髪の毛からは、タバコの臭いがプンプンするからだ。臭いが発散し尽くすまで(小一時間ほどかかるだろうが)、気安くこっちに来るなといいたい。

上野駅の常磐線快速電車のターミナルホームでは、11両目付近に喫煙所があって、オッサンたちは 11両目の車両の座席に図々しくカバンなんかを置いて座席を確保してから、発車間際までもうもうと煙を上げてタバコを吸っている。(カバンを盗まれてもしらんぞ)

だから私は、11両目には決して乗らない。発車寸前にヤニ臭いオッサンたちがどっと乗り込んできて、鼻が曲がりそうになるからである。煙さえ出さなければ迷惑はかからないと思っているのは、大きな了見違いである。

それから、自分は喫煙者のくせに、他人の煙が嫌だからといって特急の禁煙車両に乗り、時々喫煙車両のデッキまで出張してタバコを吸って戻ってくるなんていうことも止めてもらいたい。そのオッサンに隣の席に戻ってこられるだけで、こっちはヤニ臭さで息がつまる。

タバコの迷惑は、煙だけじゃないのである。あのヤニ臭さも大変な迷惑なのだ。禁煙車両にタバコの臭いを持ち込むんじゃない。

その代わり、煙が漂ってこなくて臭いもしないならば、空気中に多少の粒子やガス状成分があったとしても、私は別に気にしない。そんなことを気にする以前に、我々は空気の汚れた都会で暮らしているのである。タバコのガス状成分がなくても、他の有害成分はどこからか漂ってくる。そこまで気にしてはいられない。

プールの中で誰かがこっそりオシッコをしていたとしても、わたしは泳ぎたければそのプールに飛び込む。以前読んだ記事によると、5割近い女性はプールでオシッコした経験があるのだそうだ。まったくもう、知らぬが仏である。

それでも、プールの外に一応使いやすいトイレが設置してあり、ほとんどの人がそこでオシッコするようになっていれば、私としてはそれでいい。プールの水が小便臭いのでなければ、私は気にしないで泳ぐ。

そりゃ、世の中が全面禁煙になればありがたいが、すべての人間がそこまで合理的思考をするのを期待するほど、私は世間知らずでもない。プールの中でこっそりオシッコする人がいるぐらいなのだから、タバコを止められない人間がいるぐらいは、当然のことだ。タバコ 1箱が 1,000円になっても、吸う人は吸うだろう。

ただ、禁煙車両や飲食店の禁煙席にヤニ臭さや煙を持ち込むのは、プールの水を小便臭くするのと同じほどの暴挙なのだと、私は言っておきたいのだ。小便臭いプールなんかで、誰が泳ぐというのだ。

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2008年12月25日

今後のブログは「小ネタ」の勝負

ブログの世界がちょっとつまらなくなってきたと言われて久しい。私のブログも、一時の右肩上がりが続いていれば、今頃は 1日に3,000ヒットぐらいしていてもいいのだが、勢いが止まってしまっている。

この原因に近頃気がついた。これは、「大ネタ」 が語り尽くされてしまったからである。

ブログ勃興期は「大ネタ」がほとんど手つかずのまま残されていたから、多くのブロガーがそれについて熱く語ることができた。大ネタには多くのコメントがつき、それがさらに発展して、それぞれの新たなブログ記事になるという拡大再生産が行われた。

ところが今や、大ネタは語り尽くされたのである。政治問題、経済問題、社会問題などなど、いろいろな大ネタが既にいろいろなブロガーに取り上げられ、それぞれの視点から語られた。今さら何を言っても、それらの二番煎じになるだけである。

新しいニュースにしても、それに類したことは既に何度も報じられているから、個別のニュースついて論じてもいつものパターンになってしまう。二番煎じに変わりはない。あるニュースに個々のブロガーがどんな反応をするかは、読む前から大体想像がついたりしてしまう。

二番煎じだから、コメントも盛り上がらない。そうなると拡大再生産も行われない。縮小に向かうのみである。アクセスも減る。ブロガーは、ただでさえネタに困っているのにアクセスも減ってしまうのだから、書き甲斐がなくなってしまう。自然に更新頻度が減る。そしてますますアクセスが減る。

ちょっと話は変わるが、今、文学博士になるのはとても難しい。文学博士に比べれば、理学博士や工学博士は比較的容易だと言われる。それは、理工学の分野は日進月歩なので、画期的なテーマの博士論文がいくらでも書けるからである。一方、文学の世界は大ネタは論じ尽くされていて、新しいテーマがなかなか出てこないので、書きにくいのだ。

そうなると文学博士になるためには、これまであまり論じられなかったニッチなテーマを、ちまちまと掘り下げて論文を書くしかない。しかし文学を志すような人のこととて、そんなつまらないことはあまりしたくない。もっとおもしろい仕事がいくらでもある。自然、文学博士になるための論文なんて書く人が減るのである。

ブログの世界は今、文学博士論文と似たような状況になりつつあるんじゃあるまいか。論じておもしろそうな大ネタが、決定的に不足しちゃってるのである。そうなると、これからもブログを書き続けようという人は、エッジの立った洗練された小ネタを「ウリ」にする方がいいかもしれない。

それに気付かず、手垢の付きすぎた大ネタばかり繰り返していると、ブロゴスフィアは停滞してしまうだろう。

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2008年12月24日

ビキニのおねえさんの広告

近頃目立つのが、「バイアグラ格安販売」というスパムメール(英文が多い)と、スポーツ紙の精力剤の広告だ。

スポーツ新聞だけかと思っていたら、近頃は一般紙にまで、ビキニ姿のおねえさんが思わせぶりな視線を送る広告が載り始めた。世相だなあと思うばかりである。

この現象の背景には、昨今の不況と、団塊の世代のおじさんたちがそろそろ還暦を越えているということが挙げられるだろう。「いけいけどんどん」でやってきたおじさんたちが、この時期になって経済的にも身体的にも、かなりお疲れになっているようなのだ。

なにしろどこのマスコミ媒体も、広告の減少には頭を悩ませている。テレビ CM でも背に腹は替えられぬとばかり、これまでは自粛していたパチンコ店や高リスク金融商品(FXなど)の CM が解禁されている。スポーツ紙や一般紙だって、広告を出してくれるというなら業種を選ぶなんて余裕はないのだろう。

電車に乗ると、あかひげ薬局の「オットピン」だかなんだかの広告に見入っているおじさんが結構いたりして、なんとなく悲哀を感じてしまうのである。「もうそろそろ、卒業したら?」なんて言ったら、気分を害してしまうだろうか?

いずれにしても、テレビ、一般紙、スポーツ紙の広告の動向は、彼ら自身のメディアとしての品位を、ちょっとだけ下げるという方向に向いていると思う。貧すれば鈍するというのはこのことだろうかと思ってしまうのである。

今の時期、広告料金はかなり割引でオファーされるだろうから、期待できる新規ビジネスにとっては少し有利かもしれない。広告は今や、売り手市場じゃなくなったのだ。

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2008年12月23日

英語の授業と東京タワー

教育現場の今のトレンドは 「脱ゆとり」 だそうで、高校の英語の授業は原則英語で進めるということになるんだそうだ。

それに対して現場の教師は「正直・無理」と言っているという。生徒の英語理解力と教師自身の英会話力の両方の意味で、「無理」と言っているようなのである。(参照

私の中学・高校時代、英語の授業は本当につまらなかった。使えない英語ばかり教えられて、その教え方もまったく魅力のないものだった。私が英語に対する興味を失わないで済んだのは、中学時代に通った英語塾の先生のおかげである。この先生の手法を踏襲すれば、英語の授業を英語で進めるのは、無理なくできると思う。

私は学習塾というものにはほとんど興味がなかったので、通ったのはこの英語塾と書道塾だけだ。書道塾は小学校 4年の時に「あまりにも落ち着きがないので、少しは落ち着くように」と通わされ、1年半ぐらい通った覚えがあるが、それ以上は続かなかった。英語塾だけは、中学校の 3年間、案外まじめに通った。

その塾は、酒田東高校で校長を務めた上野先生という方が引退してから始めた塾だった。当時としては画期的なことに、生徒全員がイヤフォンでネイティブ・スピーカーの発音を繰り返し繰り返し聞くことのできる設備を備え、先生の打ち鳴らすカスタネットで、リズム感のあるリーディングを叩き込まれた。

この塾は、小学校卒業間際の 3月頃から始まった。そして最初の授業では、まず身につけるべきたった 3つの単語が示された。"Look" "Listen" "Repeat" である。その際に「今、覚えられなくてもいいよ。どうせこれからずっと言い続けるから、嫌でも覚える」と言われた。

ただ、"look" "listen" の "L" と "repeat" の "R" は、全然別の発音なのだということはしつこく言われた。そして自分の体でわかるまで何度も繰り返し発音させられた。この時点で、英語をカタカナでしゃべるという発想からは自然に解き放たれた。

上野先生の授業では、"look at my mouth" "listen to me carefully" "repeat after me" という言葉が何十回となく繰り返され、それはいちいち「私の口を見て」とか「注意深く聞いて」とか「私の後について繰り返して」とか、日本語に訳さなくても、1ヶ月もしないうちに、そのまま英語として条件反射的に理解されるまでになった。

そうこうしているうちに、授業はどんどん英語で進められるようになり、上野先生の英語の質問に、習ったばかりの構文を使って英語で答えるのが楽しみになった。この頃には、英語で考えて英語でしゃべるというのが可能になっていた。

田舎の事とて、中学校 3年生の春、修学旅行で初めて東京に来た。団体で東京タワーの展望台に昇ると、それまで生で見たことのない外国人がたくさんいた。

「あの外人と英語でしゃべれるか?」と誰ともなく言いだし、私が「できると思う」と言うと、みな「ウソだ!」と信じなかった。私としては、その時点で 2年半近くも英語を習ったのだから、ちょっとした会話ぐらいできないはずがないと思っていた。実際、いつも上野先生と英語で問答していたし。

というわけで、それが決してウソじゃないことを証明するために、手近にいたアメリカ人のオバサンに "May I speak with you a little?" と話しかけると、彼女は日本人の少年が案外まともな英語を使うのに興味を覚えたらしく、快く応じてくれて、ずいぶんいろいろな話をした。

彼女がシカゴから来たとか、私は日本の田舎町から修学旅行で東京に来たのだとか、日本の伝統的な神社仏閣がステキだとか、これから京都に行くのが楽しみだとか。それから、東京タワーの展望台から見える建物や山の説明までさせられた。ほとんどは他愛のない内容だったが。

この時、あまりにもまともに会話になってしまったので、私自身が驚いた。クラスメイトたちは、不思議なものを見るように私たちを取り囲んで注目していた。最後にそのオバサンが文通をしようと言いだして住所を交換し、その年のクリスマスに、米国からプラモデルのプレゼントが届いた。私は感激して礼状を書いた。

文通自体はそう長くは続かなかったが、私はその時の経験から、英語のコミュニケーションなんて、全然特別なことじゃなく、まったく軽い気持ちでできるものなのだということがわかったのだった。

英語の授業を英語で進めるというニュースと、東京タワー 50周年というニュースが同じ日に伝えられたので、こんなことを思い出した。今さらながら、今は亡き上野先生に感謝を捧げたい。

 

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2008年12月22日

心と体のシンクロが取れてないようだ

汗ばむ陽気の冬至からたった一日経った今日、遅ればせながら、やっと冬の寒さを感じる日になった。

先週からの風邪が、まだ治りきっていない。当人としてはもうほとんど大丈夫と思って、普段通りに動いているのだが、いかんせん、誰が聞いても明らかな風邪声らしいのだ。

久しぶりに会う人は皆、「うわぁ、ひどい風邪声ですね、大丈夫ですか?」と言う。こちらは「大丈夫」 と言いたいところだが、それを言うとしらを切ってると思われそうなので、ちょっと口惜しいが、仕方なくお付き合いみたいな形で「うん、ちょっと長引いちゃってますね」なんて言う。

風邪を引いているというのは確かにその通りのようなのだが、どうも自分の体と心とがあまり合致していないような気がする。心のあずかり知らないところで、体の方がチマチマと風邪と戯れているようなのだ。

早く心持ちと体具合をシンクロさせたいところである。もちろん、心持ちの方に体を合わせる形で。まあ、一日ぐっすり寝ていれば治りも早いのだろうが、何の因果か、土日も祝日もない生活で飛び回っているので、ゆっくり治していくしかない。

というわけで、今日は早く寝ることにしたいので、これにて失礼。

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2008年12月21日

ガソリン価格の乱高下

ガソリンの価格が、暫定税率が失効していた今年 4月頃の値段をあっさりと割り込み、今や久しぶりの リッター当たり 90円台にまで下がってしまった。

リッターあたり 180円台にまで上がり、200円になるのも確実なんて言われていた今年夏の状況は、一体何だったんだろう?

先週の木曜日(18日)に酒田に向かうため、ガソリンを満タンにした時は、リッター当たり 102円だった。それでも「ずいぶん安くなってしまったなあ」と驚いた。ところが 2泊 3日の酒田滞在を終え、つくばの地に戻ってきたみたら、95円だという。

私は今年の 7月 9日に「今ではむしろ、ガソリンがどんどん上がれば環境にはいいかもしれないなんて思うまで、すっかり開き直っている」と書いた(参照)。この時点では、ガソリンはリッター当たり 200円台にまで上がってから、180円ぐらいに下がって落ち着くんじゃないかと思っていた。

この頃私は、原油価格高騰は「供給不足に投機的な要素が輪をかけて」しまった結果だと思っていた。供給不足が主で、投機的要素は従だと思っていたのである。ところがここまで値下がりしてしまうと、それはむしろ逆だったのだとわかった。投機的要素こそ、あの原油価格高騰の主原因だったのである。

投機的な理由で値上がりしてしまった商品は、どこかでそのバランスが崩れてどっと値下がりするに決まっている。今回も結果がそれを証明している。

驚くのは、原油価格が一時の半分以下に値下がりしてしまうほど、一時は投機によって価格がつり上げられていたということだ。そんなに不自然なレベルまで上がってしまうと、つり上げていた側にも持ちこたえる力がなくなって、あとは坂道を転がり落ちるように値下がりする。

心配なのは、今は下がりすぎているんじゃないかということだ。値段が下がりすぎると、産油国が生産調整をして出し惜しみをする。するとまた少し値上がりする。そこで落ち着いてくれればいいが、買い控えの傾向に拍車がかかると、今度はまた生産調整が行なわれる。

そんなこんなで、実際の需給バランス以外のところで、つまり単なる値段の動向という机の上だけの要素でますます価格の乱高下に拍車がかかると、迷惑なのはユーザーだ。最近はガソリンに限らず、いろいろな商品の値段が思惑だけで動きすぎだ。

いわゆる金融資本主義の行きすぎによるうっとうしさは、こんなところにまであらわれている。

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2008年12月20日

実家の E-mobile 接続が可能になった

今回の帰郷では、これまで難儀していた E-mobile の接続が問題なくできるようになっている。ありがたいことである。

お盆に帰郷した時は、E-mobile カバーエリアのど真ん中であるはずの私の実家が、なぜか「圏外」だったのだ。隣の公園のベンチで、辛うじてアンテナが 1本立つ程度だった。

私の E-mobile は @nifty 経由のサービスなので、nifty の相談窓口に苦情のメールを出したところ、「地域の事情によって接続できない場合もある」と、木で鼻をくくったような返事が返ってきただけだった。

そんなことは言われなくても事実としてとっくにわかっている。苦情の真意は、「カバーエリアの中で接続できないポイントがあるということを知らせているのだから、ピンポイントで対策をとってもらいたい」ということなのである。

期待としては、@nifty 側から接続できないポイントがあることを知らせ、そして E-mobile としては、実家の付近に中継ポイントを 1カ所作ってくれるのではないかということだったので、その返事にはちょっと失望した。

ところが今回試してみたら、部屋によって 1本だったり 3本だったりするが、きちんと実家の中でもアンテナ表示が立ち、難なく接続できた。酒田が E-mobile のカバーエリアに入ったと公表されてからほぼ 9ヶ月目で、名実共に接続可能になったわけだ。これでメールの受発信もブログの更新もサクサク行える。

これまでの経験では、日本中の県庁所在地の市街ではほとんど問題なく接続できるし、それ以外の主要都市でも接続が可能なところが多い。東海道新幹線では、トンネル以外のほとんどのところで OK だ。

これからますますカバーエリアが拡大しそうなので、さらに使いやすくなりそうだ。モバイルでのインターネット接続が必要な人には、オススメしておこう。

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2008年12月19日

白鳥の世界も世知辛くなった

私の生まれた酒田市の最上川河口は、例年 1万羽近くの白鳥が飛来する。その数は日本一だそうだ。今年も既に 6500羽以上が飛来しているという。

ところが、今年は鳥インフルエンザ対策として餌付けが中止となり、出羽大橋下のスワンパークもがらんとしていた。

母の墓参りに行ったついでに、スワンパークに行ってみたのだが、白鳥に餌をやることや近づくことを禁止するという看板があり、がらんとしていた。例年通り餌をもらえることを期待していた白鳥はがっかりしたかもしれない。

白鳥は朝から夕方頃までは、十羽ぐらいの群れになって庄内平野の田んぼのあちこちに飛んで行き、落ち穂などをついばんでいる。だからスワンパークに残っている数十羽は、あまり遠くに行きたがらない無精な白鳥なのかもしれない。(本日付の和歌ログに、写真掲載あり)

ニュースによると、見物客が白鳥に近づけないようにロープを張り巡らせたということだったが、今日行ったところでは、そのロープには気付かなかった。もっと別のところに張られていたのか知らん。

それにしても、いくら白鳥との接触を禁止しても、白鳥はあちこちの田んぼに飛んでいってそこで餌をあさっているのだから、あまり意味がなさそうな気がするがなあ。まあ、市としては規制せざるを得ないのだろうが。

ただ、餌付けが行われないとすると、少しは飛来数が減るかもしれない。もう 1万羽近くが来るというのは期待できないかもしれない。白鳥の世界もなんだか世知辛いことになってきたようだ。

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2008年12月18日

病気には呑気な私

先週末からの風邪がようやく快方に向かってきた。とはいえ、今日から田舎に帰るので、父にうつさないようにマスクをして出かけよう。

今回の風邪っ引きの経緯をみると、自分がいかに楽天的な性格かと、我ながら驚く。それはまあ、楽天的というより「呑気」に近いのかもしれないが。

まず、2日前の 15日の記事の書き出しからしてこんな具合である。

鼻づまりで頭がぼうっとするので、「今どき、何のアレルギーかいな?」と思っていたのだが、どうやら風邪を引いてしまったようだ。

ここまではっきりした症状の風邪を引くのは久しぶりなので、かえって風邪とは思わなかった。風邪ってどんなものだか忘れていたというのは、幸せなことなのかもしれない。

呑気なことである。この日は、今から思えば寝込んでもいいぐらいの症状だったのだが、何のことなくいつものように都内まで出て仕事をしていた。決して悲壮な感じでもなく、ごくフツーである。そして、その日の夕方頃にはかなり激しく咳き込むようになった。

咳が出始めたら出始めたで、「ああ、排出作用が働いている。もうじき治るだろう」なんて思いつつ、帰宅する。家について念のため熱を計ると、37度 5分である。私は こちら で書いているように、平熱が 36度あるかないかだから、けっこうな熱だ。

それでも、「ああ、この熱のおかげで治りが早い」なんて喜びながら早めにベッドに入った。そして一夜明けた昨日、だいぶよくなったような気がした。ただ、当人はずいぶんよくなったような気がしているのだが、家族にはそれほど変わらない症状に映ったらしい。

そして今日である。当人としては「もう全然大丈夫!」と思っている。本当に大丈夫だかどうだかしらないが、当人がそう思えばそれでいいのである。先日記事にした『ガンをつくる心 治す心』という本によれば、こういう性格って、ガンになりにくいような気がする。

これから車で出発なので、今日はこれにて失礼。

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2008年12月17日

ハンコ・元号・縦書きについて

池田信夫氏がブログで 「ハンコ・元号・縦書きをやめよう 」 と主張され、それに対して松永英明氏が「絵文録ことのは」上で、 やんわりと反論(参照)しておられる。

伝統的保守派を自称する私としては、自分のサイトでは元号を使っている。ブログの方は、西暦がデフォルト仕様で仕方ないのだが。

まあ、私のサイト上の表記にしても、「平成〇年〇月〇日」という形式ではなく、「H〇年…」という略式なので、偉そうなことは言えない。7年近く前のサイトのスタート時に、なんで 平成」と書かずに「H」なんていう略式にしたのかという理由は、全然思い出せない。ふと気が付くと、こんな表記になっていた。

MS-DOS 時代の何でも省略してファイルサイズを小さくしたがる習慣から脱皮していなかったんじゃなかろうかとも思うが、行きがかり上、そのままで通している。私はその程度の「ゆるい」元号派といっていいだろう。

で、なんで私が「ゆるい」とはいえ元号派なのかというと、元号のもつ感覚が好きだからである。「平成〇年」という方が、なんとなくしっくりくる。さらに「安政〇年」とか「寛永〇年」とかの古文書なんかをみると、心が躍る。

それから、高校時代に(労働者でもなかったのに)たまたま聞きにいった某労組のオルグ集会で、「我々労働者は、元号という因習は廃して西暦を使わなければならない」なんて演説していたオッサンが嫌な感じのやつだったので、「元号のどこが因習なんだ?」と反感を覚えたことも、理由の一つかもしれない。

余談だが、若き日の私は自ら進んで労組のオルグを聞きに行くぐらいに左がかっていたこともあったのだが、左がかった人の話を聞けば聞くほど、そっちの世界に嫌気がさしてしまったのだった。

話を戻す。独自の年号を使うのは世界でも少数派だというが、それならかえって、その独自性を大事にしたいものである。レアものは、大抵値打ちがある。私の場合は、自分のサイトで元号を使っても、ブログが西暦表示してくれるので、変則的な「元号・西暦併記」になっているから、勝手によしとしておこう。

それからハンコに関しては、「ハンコにはハンコの便利さがある」と言っておこう。

サインでなければならない西欧型の外資系企業だと、「上司が 2週間の海外出張中」とかだったりすると、どうでもいい形式上だけの決済がもらえなくて、案件が滞ってしまったりする。これがハンコだったら、上司が出張先から秘書にメールを入れて、「ハンコ押しといて」と頼めば案件はサクサク進む。

私は団体勤務の経験が長いのだが、年次総会議事録を管轄官庁に提出する場合など、30数人の理事全員のサインが必要だなんていったら、大変なことになる。実際には全員のハンコ(もちろん三文判だが)を事務局で預かっているので、機械的に捺印して提出できる。こんなの、どうせ形式上だけのことだし。

ハンコ文化というのはいかめしいようでいて、結構ゆるい。この「ゆるさ」のおかげで、形式的などうでもいい部分は、サクサク運んで効率がいい。おかげで、手続きが単なる形式だけに流れがちで実体が伴わないというのは、また別の問題になるが。

縦書きについては、私は「和歌ログ」なんてこともやっているので、本来ならインターネットにおいても標準で縦書きをサポートしてもらいたいぐらいのものだ。

「和歌ログ」の横書きは、私としては不本意なことなのだが、無理矢理縦書きに変換するのは毎日のこととて面倒だから、横書きのままなのである。この辺りも、わたしのやり方 「ゆるい」と言えそうだ。

私としては、横書きの文章を読むより縦書きを読む方が、目が疲れないと思う。人間の目は、視線を左右に振りながら徐々に下に向かうより、(普通の本のサイズなら)上下に振りながら徐々に左に向かう方が楽なようにできているんじゃなかろうか。まあ、これは個人的印象なので、「俺は違う」という人がいても不思議はないが。

ただし、「人間の目は横長なので、横書きの方が目が疲れないはずだ」なんていう寝言は止めていただきたい。瞳孔が横長というなら納得するが。

さらに、手書きの場合、見るからに「達筆」というのは縦書きに限る。横書きの字を上手に書けても、きちんとした字のくずしかたができる人は少ない。やはり歴史仮名遣いの縦書き草書に親しんでおく方が、日本語の本質に迫れると私は思っている。

とはいいながら、ハンコの場合を除いて、究極的には好きずきの問題なんじゃなかろうかと私は思う。その上で自分の趣味としては、元号と縦書きを大切にしたいということだ。

ハンコの場合を除くというのは、こればかりは「好きずき」では済まないだろうからだ。日本社会がハンコを止めて完全にサイン文化になってしまったら、急にはまともに機能しなくなってしまうだろうと思う。

数年前のことだが、ある店でクレジット・カードで買い物をしてサインしたところ、店員に「これでは読めないので、ちゃんと読める字でお願いします」と言われ、目が点になるほど驚いたことがある。人格を否定されたような気がした。

「だって、それが私のサインなんだもの。ほら、カードの裏のサインと同じでしょ」と言うと、その店員は「上からの指示で、読みやすい字で署名していただけるようお願いしております」と言い張る。馬鹿な「上」がいるものである。

あまりのことにあきれ果てて、「どうしてもというなら楷書で書いてもいいけど、後になってから『それは私のサインじゃない』と言って、支払い拒否しちゃうよ。それでもいいんだね」と言ったのだが、どうも理解できてないようだった。

その時、もちろん私は自分のサインで押し通したのだが、言われるままに楷書で署名し直した人もいたに違いない。そして、その場合でもきちんとクレジットの支払いは行なわれていたわけだ。でもそれじゃ、サインの意味が全然ないじゃないか。

ハンコを廃して、サインの文化を日本に本当に根付かせようとしたら、かなり時間がかかるだろう。なにしろ signatureautograph の区別もついてない人が多いんだから。

【2022年 1月 25日 追記】

生まれてから長い時間が経って、昭和、平成、令和の年号を経験してしまうと、数字に弱い私としては、「あれ、今年は令和何年?」なんてわからなくなってしまうことが多いので、最近は諦めて西暦を多用するようになってしまっていることを報告させていただく。

 

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2008年12月16日

クロスジェンダーを巡るさらなる冒険

五木ひろし版 「テネシーワルツ」 のチョンボ について最初に書いた時は、「スタッフの誰か一人ぐらい、間違いに気づいてほしかったなあ」 ぐらいの軽い気持ちだった。

ところがそこから、CGP (クロスジェンダー・パフォーマンス) なんていう話になり、日本独特の文化にまで話が飛躍してしまった。

どのくらい日本独特かというと、英語のスタンダード・ナンバーを歌う場合、歌い手のジェンダーによって歌詞に出てくる三人称のジェンダーを勝手に変えていいのかといった疑問のコメントが、いくつか寄せられたことでもわかる。

日本では、先だっての森進一の「おふくろさん騒動」があったりしたので、「著作権の同一性保持権」 の観点から、問題にならないのかという心配をする向きもあった。

結論。全然問題にならないのである。むしろ、歌詞のジェンダーを変えない方が問題視されるだろう。というか、変えるのがあまりにも当然なので、変えないで歌うなんていう発想すらないだろう。敢えて変えないで歌ったりしたら、「キワモノ」扱いになるだろうと思う。

例えば "Yesterday" の原詩のサビの部分、"Why she had to go, I don't know, she would't say" (なぜ去らねばならなかったのか、彼女は言わないだろう) を、女性歌手が "she" のまんまで歌ったとしたら、ポール・マッカートニーは自分の作った歌がレスビアンの歌にされてしまったような気がして、むしろ驚いてしまうだろうと思う。

何度も書いているが、「テネシーワルツ」の本家本元みたいに思われているパティ・ペイジのバージョンでは、"I introduced her to my loved one" と歌われている部分を、男性歌手が歌うとごく当然にも、"I introduced him..." に変わる。そうしないと、「ふざけてオカマの歌にしてしまってる」なんて思われるだろう。

五木ひろしのように、おふざけではなく、いかにもシリアスに "I introduced her to my loved one" と歌われると、今度は「気持ち悪い」ということになる。だから私は、聞いた途端に「ぞくっ」としたのである。

とにかく、そういう文化の違いがあるということなのだ。欧米人はむしろ、日本の男性歌手が女言葉で女心を歌うという、クロスジェンダー・パフォーマンスが、決してパロディやアンダーグラウンドではなく、表舞台でシリアスに行われているということの方を珍しがる。

例えば「ホテル」(作詩:なかにし礼 作曲:浜圭介) という歌がある。立花淳一という男性歌手が女言葉で女心(妻子ある男への切々たる恋心)を歌うという、典型的なクロスジェンダー・パフォーマンスだ。この歌に次のような歌詞がある。

ごめんなさいね 私 見ちゃったの
あなたの黒い電話帳
私の家の電話番号が
男名前で書いてある

かなり前のことだが、この歌を聞いた米国人の友人(日本語がかなりイケる)が、私に 「日本では、どうして男の歌手が女の歌を歌うのか?」 と、素朴な疑問をぶつけてきたことがある。

私は当時、「クロスジェンダー・パフォーマンス」についての十分な答えを用意していなかったので、苦し紛れに「この歌の主人公は、実はゲイで、電話帳に書いてあった男名前は、そいつの本名なんだよ」と答えておいた。

彼は「ジョーク以上の意味を含んだ、素晴らしい答えだ!」と、大喜びしていた。「ボクが日本の伝統的文化について質問しても、大抵の日本人は『わからない』『知らない』としか答えないけど、tak は一度も『知らない』と言ったことがない」

かくも過分に褒められたせいで、私は「クロスジェンダー・パフォーマンス」という言葉は知らなかったけれど、これが日本の伝統文化に連なる独特なものだと思い至ったのである。

日本には文楽という芸能がある。人形芝居に合わせて太夫が義太夫節を語る。そして、女の登場人物のセリフの部分は、急に女になりきって語る。身をよじらせ、裏声で、自らの身体をシリアスに女性化させてまで、女になりきるのである。これは、浪曲でも同じだ。さらに言えば、歌舞伎の女形はその代表的なものである。

米国のスタンダップ・コメディ(1人でジョークを語るトーク芸)でも、女のセリフを言う時があるが、あれは単に、女であることを示すために高い声を使っているだけで、義太夫とか浪曲のように、シリアスな「身体化」まではしない。そんなことをしたら、観客は引いてしまって笑えないだろう。

ことほど左様に、「クロスジェンダー」に関する西欧文化と日本文化の差は大きい。そして、日本文化に置ける「クロスジェンダー・パフォーマンス」は、シリアスな意味で非常に重要な要素なのだ。

「折れた煙草の 吸い殻で あなたの嘘が わかるのよ」 と、甘ったるい声で歌う中条きよしの「うそ」という歌は、女性歌手のオリジナルを中条きよしがクロスジェンダー的にカバーしたというわけではない。中条きよしのクロスジェンダー・パフォーマンスの方がオリジナルで、この歌を女性歌手がカバーするという発想は、むしろないと言っていいだろう。

逆に、水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」とかを、男性歌手が歌ってもあまり意味がない。女が男の歌を歌うからいいのである。

それから、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美) なんかは、歌の途中でジェンダーが入れ替わる。歌い出しが男言葉で、後半は女言葉になる。これを一人の女性歌手が歌う。英語の歌だったら、あの ポールとポーラ の 「ヘイ・ポーラ」 のように、掛け合いで歌うところだ。

英語のスタンダード・ナンバーのラブソングなどで、男女どちらが歌っても不自然にならない場合は、歌詞の三人称のジェンダーを入れ替えて歌われ、スタンダードとしての裾野をさらに広げる。

日本の「ムード歌謡」と呼ばれる流行歌においては、ある意味、クロスジェンダーこそが「ウリ」という要素があり、独特の市場を形成している。

この違いの背景には、英語の場合、男言葉と女言葉の違いがほとんどないが、日本語の場合は、「~だぜ」「~なのよ」というように、言葉遣い自体に差があるということがあるだろう。

最後に告白しておくが、私は歌舞伎についての論文で修士号を得ているほど、日本の伝統文化にはどっぷり浸っているつもりなのだが、演歌とかムード歌謡のクロスジェンダーは、申し訳ないが、ちょっと「気持ち悪い」と思ってしまう。多分、あの「お水っぽさ」が性に合わないんだと思う。

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2008年12月15日

鼻風邪を巡る冒険

鼻づまりで頭がぼうっとするので、「今どき、何のアレルギーかいな?」と思っていたのだが、どうやら風邪を引いてしまったようだ。

ここまではっきりした症状の風邪を引くのは久しぶりなので、かえって風邪とは思わなかった。風邪ってどんなものだか忘れていたというのは、幸せなことなのかもしれない。

鼻がつまって困るのは、どうしても口呼吸になってしまうことである。寝ている間、ずっと口を開いて呼吸していたようで、朝目が覚めたら、口の中がからからに乾いていた。口の中って、あれだけ乾くとまともな感覚がなくなる。

それに、口呼吸だと風邪を引きやすいとも言われる。風邪を引いてしまってからそれを言っても手遅れだが、やはり、喉がからからになるので、治りにくいだろうという気がする。いずれにしても、メシを食う時としゃべる時と笑う時以外は、口は閉じている方がいい。

風邪を引いているのは私だけではないようで、朝の電車の中は鼻をすすり上げる音があちこちから聞こえてきた。私は鼻をすする音が苦手である。気になってしょうがない。自分が鼻をすすり上げたくなったら、それより先に、まず鼻をかむ。

ところがこの国では、人前で鼻をかむのを控えたがる人が多いようだ。それはそれで、まあ、いいのだけれど、そのせいで目の前で延々と鼻水をすすり上げられると、はっきり言ってものすごく不愉快になってしまうのだよね。「さっさと鼻かめよ!」と言いたくなってしまう。

何でもかんでも欧米を見習えというのは、私の趣味ではないが、この点に関しては、欧米の方が理にかなっていると思う。とくにドイツ人なんかは、人前だろうがレストランだろうが、「ビ~~ム!!」 と、ものすごく盛大な音を立てて鼻をかむ。あんなに大きな音を立てるのもどうかと思うが、延々と鼻水すするよりは、ずっとましだと思うのだ。

今日は頭がぼうっとしているので、この程度で失礼。

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2008年12月14日

テネシーワルツの CGP

昨日の記事の続きである。五木ひろし版「テネシーワルツ」で、 "I introduced her to my loved one" と歌われる(参照)のを聞いた私は、それだけで反射的に 「ぞくっ」 と気持ち悪くなってしまったのだった。

彼は男性歌手なのだから、本当は "I introduced him..." と歌うべきなのである。

私がこう言っても、「歌詞を勝手に変えて歌っていいの?」 なんて思われる向きがあるようなので、昨日のコメント欄にも書いたが、その証拠を挙げておく。

パット・ブーン版
サム・クック版
エルヴィス・プレスリー版

以上、3人の男性歌手は、全員 "I introduced him..." と歌っている。この 3人だけではない。何人挙げても同じだ。それが当たり前なのである。

最も有名なパティ・ページのバージョンは、女性歌手なんだから当然 "I introduced her..." で、五木ひろしが採用した江利チエミ・バージョンも当然そう歌っているのだが、男が歌ったらほぼ自動的に "I introduced him..." になるものなのだ。

テネシーワルツだけではない。例えば、ビートルズの名曲 "Yesterday" にしても、女性歌手が歌えばあのサビの部分は "Why he had to go, I don't know, he would't say"と、"she" が "he"に置き換わる(証拠は こちら のアリナ・タン版)。これも、言うまでもなく当然なのだ。

その常識を前提として聞いたものだから、私は五木ひろしのテネシーワルツの "♪ I introduced her..." には、瞬間的に 「ぞくっ」 ときてしまったのである。これはもう、生理的な反応といっていい。

ところが考えてみると不思議なことに、同じ五木ひろしが歌う「よこはま・たそがれ」には、まあ、全然 「ぞくっ」 としないわけじゃないけど、彼のテネシーワルツほどには抵抗を感じない。あんなに徹底的に女の立場で、女言葉で女心を歌っているのに。

そういえば、「ムード歌謡」といわれる歌には、男性歌手が女の立場で女心を歌うものが多い。あの類の歌は、カラオケで歌えと言われても私は絶対にごめん被りたいが、他人が歌う分には、まあ、見過ごせる。繰り返しになるが、全然「ぞくっ」としないわけじゃないけど。

このように男性歌手が女歌を歌ったり、女性歌手が男歌を歌ったり(水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」など)するのを、クロス・ジェンダー・パフォーマンス (CGP) というのだそうだ。とくに日本の演歌といわれるジャンルではとても一般的な現象で、こちら のページで詳しく論じられている。

CGP というのはどうやら日本特有の文化のようで、少なくとも英語のスタンダードナンバーにはほとんど見られない現象だ。だから、五木ひろしが「よこはま・たそがれ」を女言葉で歌っても見過ごせるのに、英語のテネシーワルツで、"♪ I introduced her..." とやっちゃうと、どうしても気持ち悪いのである。

これはもう、文化の違いというほかない。

そもそも、日本の文化というのは、クロス・ジェンダーにとても寛容というか、それにかえって魅力を感じてしまったりするのである。歌舞伎の女形、宝塚、ゲイバーなどなど、クロス・ジェンダーをこんなにフツーに受け入れている国は、ほかにないだろう。あるとしたら、タイぐらいか。

この問題は、「女装と日本人」(三橋順子・著、講談社新書、税込 945円)に詳しく出ている。この本、とてもおもしろいのでオススメだ。日本がいかにクロス・ジェンダーを文化的に受容してきたかがよくわかる。

ただ、そのコンセプトをそのまま英語の歌に適用してしまうと、やっぱり「ぞくっ」ときてしまうのである。

いや、五木ひろし版 「テネシーワルツ」 は CGP というより、多分、単なるチョンボだと私は今も思っているのだが。

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2008年12月13日

五木ひろし版 「テネシーワルツ」 のチョンボ

昨日の朝、カーラジオで 「大沢悠里のゆうゆうワイド」 を聞いていたら、五木ひろしが 「テネシーワルツ」 を歌い、CD を発売したとのことで、その歌を流してくれた。

で、残念なことに、五木ひろしはこの歌の歌詞を間違えているのだった。下の YouTube 動画で試聴してみれば、わかる人はすぐにわかる。

テネシーワルツというのは、ざっと次のような筋立ての歌である。

ある日、私は恋人とテネシーワルツを踊っていたら
昔からの友達と出会い
私は友達を恋人に紹介した
そして彼らが踊っているうちに
友達は私から恋人を盗んでしまったのだ

今でもその夜に流れていた
テネシーワルツを忘れられない ……

で、3行目の「私は友達を恋人に紹介した」というところを、五木ひろしは "I introduced her to my loved one" と歌っているのである。直訳すると、「私は彼女を私の恋人に紹介した」ということになる。そして、その 「彼女に」 恋人を取られてしまったのだ。

するてぇと、何かい? お前は、恋人を女に寝取られたというのかい? お前の恋人は、実はレズビアンだったってのかい?

いや、種明かしをすると、実はまったくの間違いというわけでもないのである。五木ひろしが "I introduced her to my loved one" と歌ったのは、これは女性歌手が歌う場合のバージョンなのだ。そうすれば、取られた恋人は男だから、恋人を取った友達は「彼女」ということで OK である。

で、テネシーワルツを男の歌手が歌う場合は、"her" を "him" に置き換えて歌うのものなのである。つまり、"I introduced him to my loved one" になるのだ。テネシーワルツに限らず、英語のスタンダードナンバーで恋人を三人称で表わすときは、男が歌う場合は "she/her/her" に、女が歌う場合は "he/his/him" にするものなのである。

(テネシーワルツの場合はちょっと複雑で、ここに出てくる he とか she は、恋人ではなく、恋人を寝取った友達なので、歌い手と同性になる)

まあ、同性愛を歌う場合はその逆になるのだろうが、少なくともテネシーワルツは、斬新な新解釈をしない限り、そういう歌じゃない。どうやら五木ひろしは、いにしえの江利チエミ・バージョンを、そのまま歌ってしまったようなのだ。

それにしても、五木ひろしが気付かなかったとしても、レコーディングの現場に居合わせたスタッフの誰一人、この間違いを指摘できなかったというのは、信じられないチョンボだと思うのである。

それとも彼は、日本の演歌によくある、男が女の立場で歌う「女歌」として(あの 「よこはま・たそがれ」 みたいに)歌ったんだろうか? それにしても、ちょっとなあ。

※ このテーマは思わぬ広がりをみせて、続編を書いていますので、ご覧ください。

テネシーワルツの CGP
クロスジェンダーを巡るさらなる冒険
『夜明けの歌』と、クロス・ジェンダー・パフォーマンス

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2008年12月12日

「マーフィの法則」を巡る冒険

世の中には「マーフィの法則」というのがある。この法則の定義は諸説あるが、一般的には「失敗する余地があるなら、失敗する」という至ってシンプルなものだ。

発展型として、「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」というのもある。

この素晴らしい定義は、Wikipedia の説明のしょっぱな辺りに紹介されている (参照)。この他にもいろいろなことが言われているが、私としては、「起こってほしくないことは、起こってほしくないタイミングで起こる」という風に定義している。

「1円玉マーフィー」ということについては、2003年 3月 9日の記事として書いた(参照)。コンビニやスーパーで買い物をすると、持ち合わせの 1円玉が、10回に 8回は 1枚足りないという法則である。以下に引用する。

コンビニでミネラルウォーターを買う。レジのお姉さんが 「136円です」 と言う。財布の中には、小銭は一杯あっても、5円玉は 1枚だけで、普段はあれだけ邪魔になる 1円玉が、そのときに限って 1枚もない。あぁ、1円玉がたった 1枚あればすっきりするのにと、ちょっとくやしい思いがする。

しかたなく、140円出して、4円のお釣りをもらう。財布の中には、小銭が 789円貯まる。かさばって仕方がない。しかし次は半端な金額でも大抵は払えるぞ。

お昼に讃岐うどんを食う。奮発して、トッピングにかき揚げと春菊天と玉子を付ける。そして、レジのオバサンいわく 「790円です」

このオバサンは悪魔である。仕方なく 1000円札を出して 210円のお釣りをもらう。これで、財布の中の小銭は、999円。次の買い物こそ、どんな半端な金額でも、気持ちよく、ちょうどの金額を払えるはずだ。

帰りにスーパーに寄り、ケータイで妻に頼まれたしょうゆと胡椒を買う。レジのお姉さんいわく。「ちょうど1000円です」

ことほど左様に、人生というのはなかなか機微に満ちたものなのである。さらに近頃、私は、「狭い道で対向車が来るタイミングのマーフィ」 というバリエーションも発見した。

私は朝、常磐線取手駅の近くに借りた駐車場まで車で行く。県道は混雑するので、田んぼの中の抜け道を通る。距離にしたら少し長くなるが、信号がなく渋滞しないので、時間的にはずっと早く着けるからだ。

ただ、この道は狭い。そしてところどころ、自転車通学の高校生たちが走っている。この自転車の一群は、普通はあっさりと追い越せるのだが、向こうから対向車が来るとそうは行かない。

そして、不思議なことに、この自転車の一群を追い越そうとするときに限って、必ず対向車が来るのである。田んぼの中の、がらがらに空いた道なのに、対向車は私が自転車の一群を追い越そうとするのを見計らったように現れるのだ。

そしてさらに、その対向車は私が無理矢理はみ出してきはしないかと用心するらしく、極端にスピードを落として、なかなか行き過ぎてくれないのである。私は「さっさと行けよ!」と心の中でつぶやきつつ、しばらく自転車の一群の後ろに付いてのろのろ走ることになる。

それだけではない。田舎道とて、ところどころ路肩が崩れて少し陥没している。その部分は左端を走るのが危険なので、真ん中に寄らなければならない。しかし、そんなときも必ず、見計らったように対向車が来るのである。私は陥没地点の直前で徐行し、対向車が行き過ぎるのを辛抱強く待たなければならない。

そしてこんな時も、対向車は私が徐行するのを見て、とりあえず用心するらしく、自分もスピードを落とす。私はまたしても「 さっさと行けよ!」と心の中でつぶやくことになる。マナーの悪い車は、対向車に急ブレーキをかけさせてまで障害物をよけて真ん中に寄りたがるので、向こうも用心するのだろうから、しかたがないのだが。

これらは時間にすればほんの数秒なのだろうが、朝の急いでいる時間帯だけに、妙にイライラしてしまうのである。そしてこの程度のイライラだからこそ、「マーフィの法則」とか言って、ちょっとだけ楽しめるのである。

ところが、命に関わるような重大な問題は、あまり「マーフィの法則」とは言わない。逆に、ちょっとした巡り合わせのおかげで、大怪我や事故死に至るのを救われた経験が、私には少なからずある。

そういえば、例の地下鉄サリン事件の時だって、私はその前年に転職して勤務先が変わっていたために、被害に遭わずにすんだ。妻はあの時、私と連絡が取れるまで死ぬほど心配したらしいが、私は妻からの電話を受けるまで、事件についてまったく知らずにいた。

「マーフィの法則」と言いたくなるようなほんの小さな不運は、大きな幸運を得るため、あるいは大きな不運を避けるための貯金みたいなものかもしれない。そう思えば、それほどイライラしなくても済む。

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2008年12月11日

「付和雷同」 を巡る冒険

そういえば、昔は「不和雷同」という誤字をよく見かけた(というか、誤字の方が多かった印象さえある)が、最近は「付和雷同」という正しい表記が圧倒的多数になった。

これは国語教育が徹底したからというより、単にワープロで書くので、IME が自動的に正しい変換をしてくれるからだと思う。

ワープロを使った公式文書ではきちんと「付和雷同」と書いている人に、試しに手書きで同じ四字熟語を書かせてみたい。「不和雷同」と書いちゃう率がかなり高いんじゃあるまいかと思う。

これは多分、「絶体絶命」についても言えることで、ワープロで「絶体絶命」と書けても、手書きだと「絶対絶命」になっちゃう人が結構いると思う。ワープロは便利だけれど、無意識に使っていると、いつまでも自分の誤りに気付かない。

かく言う私も「付和雷同 (○) - 不和雷同 (×)」については、中学か高校の頃に、「どうして『安易に他人に同調する』という意味なのに 『不和』 なんて文字を使うんだろう」とふと疑問に思い、辞書を調べて初めて自分の誤りに気付いた。偉そうなことは言えない。

さらに我ながらいい加減だなあと思ってしまうのだが、その時はそれで済んでしまって、「付和雷同」という四文字熟語の語源まで調べようとはしなかったのである。それで 40年以上も 「なんだか、わかったようでわからん言葉だなあ」と放りっぱなしにしてきたのだ。

それで今頃になって、この言葉の語源も知らないうちに一生を終えるのも、なんだか気持ち悪い話のような気がしてきて、先ほどちょっとインターネットで調べようとしたのである。ところが意外なことに、この言葉の語源について触れているサイトが見当たらないのだ。

例えば Goo 辞書(三省堂 『大辞林』)で「矛盾」を引くと、よく知られた語源まできちんと説明されているが、「付和雷同」は語義が説明されているだけで、語源はしっかりと無視されている。

こうなると、「地下鉄をどこから地下に入れるか」なんていう疑問よりもずっと眠れなくなっちゃうような気がして、他のサイトにも当たってみたのである。すると、「くろご式 慣用句辞典」 という超労作サイトに以下のような記載が見つかった。(参照: 恐縮ながら フレーム内ページにリンク

・付和雷同(ふわらいどう)・附和雷同 《四熟》 しっかりした主義・主張を持たず、他人の説に安易に賛成すること。 類:●尻馬に乗る●一鶏鳴けば万鶏歌う ★「付和雷同」の出典は、中国古典には見当たらない。 「雷同」の出典:「礼記-曲礼・上」「正爾容、聴必恭。毋勦説、毋雷同」 ★「雷同」は、雷が鳴ると物がその音に共鳴して音を出すこと。人の意見などに簡単に同調してしまうことの喩え。

「付和雷同の出典は中国古典には見当たらない」というのが重要ポイントである。ふぅむ、すると、いつどこで誰が使い始めた四文字熟語なのか、よくわからないということだろうか。

じゃあ、二文字ずつ分解してしまうと、まず、下の方の 「雷同」 だが、上記のサイトには 「雷が鳴ると物がその音に共鳴して音を出すこと」 とある。念のため、Goo 辞書で引いても、以下のように同様の説明がある (参照)。

(名)スル
〔雷がなると万物が応じて響く意〕自分自身の考えがなく、すぐに他人の説に同調すること。
「付和―」「百人―する者あれば忽ち数千の随従者あり/緑簑談(南翠)」

なんだ、ということは、別に 「付和」 という二文字を付けて四文字熟語にしなくても、「雷同」 だけで十分に意味は通じるんじゃないか。じゃあ、「付和」 は一体何なんだ? ということになるが、ことのついでに同様に Goo 辞書で調べると、次のように説明してある (参照)。

(名)スル
自分に決まった意見がなく、無批判に他人の説に従うこと。
「これに―する群衆は/うづまき(敏)」

再び「なんだ」である。ヘビーな字面で煙にまかれてしまったが、要するにほとんど同じ意味の熟語を重ねて四文字熟語にしてしまっただけじゃないか。拍子抜けである。中国古典に出典が見当たらないのも道理だ。

例えば 「整理整頓」 なら、「整理」の方は必要なものを残して不要なものを捨てるという含みがあり、「整頓」は使いやすいように整えるということで、意味が少し違うから、重ねて使うことに意味がある。ところが「付和雷同」は一見もっともらしいだけで、その実、あまりにもベタすぎだ。「エアコン空調」と言ってるようなレベルである。

ここまでわかってしまうと、「付和」 の一語だけで (「雷同」 の方を使ってもいい) 通す方がスマートのように思えるけど、今となっては 「付和雷同」 と言わないと意味が通じにくいだろうなあ。

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2008年12月10日

即物的 「読み・書き・算盤」 の限界

小学 4年と中学 2年を対象に基礎学力を測る 「国際数学・理科教育動向調査 (TIMSS)」 で、日本の子どもは文章題と記述解答を求める問題に弱い傾向があるとわかったという。

詳しい話は こちら に飛んで読んでいただくとして、私は日本人が文章題と記述式に弱いのは、今に始まったことじゃないと思うのだ。

日本人の教養というのは、遙か江戸の昔から「読み・書き・算盤」というのが連綿と継承されてきた。江戸時代から寺子屋というシステムがあったので、日本人は庶民に至るまで文盲率が低く、計算もできるということで、教育基盤は世界的にもトップクラスだったのである。

ただ、問題は「読み・書き・算盤」というのは、単に「文字を読み書きでき、四則計算ができる」ということでしかないということだ。即物的なのである。「文章を読んで解釈し、わかりやすい文章を書き、問題解決のために的確で論理的な計算を行う」という実践的なレベルまでは、あまり明確に要求されてこなかったのだ。

単純な「読み・書き・算盤」と、「文章解釈・文章表現・論理的計算能力」というのは、実は似て非なるものである。 単なる「読み・書き・算盤」は、ユングの気質分類に沿っていえば、「論理」よりも「感覚」の領域に属するものなのだ。「論理的に思考しなくても、ぱっと見てぱっと把握できる」という能力である。

例えば我々は、犬を見て「犬だ」と判断するのに、わざわざ論理的思考はしない。猫との違いを子細に検証したりしなくても、犬は犬だとわかる。これが「感覚的」判断というもので、即物的な「読み・書き・算盤」も、それと似たところがある。

文字を読むのに、いちいち文字の成り立ちから論理的に類推して読んだりはしない。「あ」という文字は「ア」と読むものと、既に感覚的に理解している。算盤の珠を弾くのに、いちいち論理的に考えていては、読み上げ算について行けない。

算盤が得意な人が論理的思考ができるかといえば、必ずしもそういうわけではない。逆にいちいち論理で考えるタイプは、算盤が苦手である。算盤というのは、論理で考えなくても感覚的にサクサクと計算結果を出すための道具なのだから、当然といえば当然である。

論理はプロセスが遅く、感覚や直感は速いのである。その代わり、感覚や直感は間違いが多いが、論理はまっとうに突き詰めさえすれば、的はずれに陥る危険性は小さい。で、日常的な些細なことは感覚優先でサクサク処理し、重要な問題は論理優先で突き詰めるというのが、フツーのやり方である。

ところが、日本人はこの「論理的思考」が苦手なのである。多分、日本語が「感情・感覚・直感」を表現する方向で進化してきて、論理思考に向いた言葉とならなかったということも関係していると思う。

例えば、以前の上司は、「A=B、B=C、故に A=C」 という三段論法を理解できない人だった。A=B なら理解できる。そして B=C もわかる。だが「故に A=C」となると、「なんでそう決めつけるんだ。やってみなきゃわからないじゃないか!」となるのである。

例えば、彼が A というプロジェクトを提案したとする。ところがそれは、明らかに過去の B1、B2、B3 …… といったプロジェクトの単純な焼き直しである。そして元になった過去のプロジェクトは、ことごとくある要件がネックになって期待通りの成果が上がらなかった。

そこで私はその上司に率直に言う。

「そのプランは、過去にもつまづいた○○要件にひっかかりますね」

すると、その上司はこう答える。

「どうして君は、何もしないうちから、そう後ろ向きなことを言うんだ。やってみなきゃわからないじゃないか。やればできるんだ」

恐縮だが、私は決して後ろ向きな人間ではない。むしろポジティブな方である。だからこそ同じやるなら、失敗要因とわかりきっている部分をきちんとクリアしてから着手すべきだと言いたいのである。ところがその上司は「やればできる」と、竹槍で B29 的な姿勢に固執する。

事実、その上司はなかなか行動的な人で、過去の同様のプロジェクトでも自ら額に汗して飛び回り、無理矢理に一定の売上げを叩きだしたという実績を持つ。だからこそ、自信を持って「やればできる」と言い張るのだ。

ところが彼の売上げは、それとほぼ同額のコストをかけて達成されたもので、こういうのを日本語では「経費倒れ」というのである。

彼は、「売上げが上がった」という事実は理解できる。というか、それこそが自慢の種だから、積極的にこだわりたいところである。そして、年次決算で支出が増加したという事実も、単純数字だから理解できる。

その支出増の要因については、他の部署は経費をできるだけ切りつめていて、増えているのはあんたのところだけだと、事実として突きつけられて、ようやく理解する。ところが「それは必要な経費だったんだ。自分は額に汗してかけずり回ったのだ」と言い張る。

その売上げが会社全体の利益にほとんど貢献していないどころか、他にさくべき人的資源と時間を浪費しただけということには、決して気付かない。そして会社としても、あまりそれについては追及しない。なにしろ、見かけ上の売上げは上がっているので。

かくのごとく、日本のビジネスは、論理ではなく各自の感情論で遂行されているところがある。

それは即物的な数字を即物的に計算するという単純能力の育成には力を入れるけれど、実際の課題を解釈し、解決し、それをわかりやすく表現するという論理的な教育が軽視されているからということも、背景にあるだろう。

そしてその教育的背景自体も、とりもなおさず社会の実情から発しているわけで、堂々巡りなのだが。

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2008年12月 9日

近くで喫煙されると、フツーに息できないし

神奈川県の検討している 「受動喫煙防止条例(仮称)」の素案では、小規模店舗への配慮から、100平方メートル以下の飲食店で 3年間適用が猶予されるそうだ (参照)。

条例に反対する飲食店は、3年間のうちに、ヘビースモーカーの常連に配慮して、タバコを吸わない客を失うことになるわけだ。

最近はある程度の規模の飲食店では、分煙が常識となりつつある。店に入るとまず、店員が「タバコはお吸いになりますか?」と聞いてくる。吸わないと答えれば、禁煙席に案内してもらえる。ありがたいことである。

ところが先日あるレストランで信じられない経験をした。いつものように店員にタバコを吸うかと聞かれ、吸わないと答えた。ところが禁煙席は満席で、一方、広大な喫煙席はがらがらだ。

すると店員は、「空いている喫煙席にご案内させていただきます」なんて、ふざけたことをいうのである。これにはむっとしてしまい、「冗談じゃない」と、すぐにその店を後にした。もうこの店に入ることは二度とないだろう。メシを食うところぐらい、他にいくらでもある。

この店は、明らかに 2つの考え違いをしている。

まず基本的に、この店は喫煙席こそがスタンダードで、禁煙席は恩情措置ぐらいに思っている。だから「禁煙席が満席なら、喫煙席にどうぞ」なんて、馬鹿なことを当然のように言い出すのである。

また、せっかく分煙しているのに、禁煙席と喫煙席の配分比率を明らかに間違えている。禁煙席が満席で、喫煙席ががらがらというのは、どうみてもばかばかしい話だ。ノンスモーカーの数と存在自体を軽視しているとしか思えない。それで私のような客に対応できず、みすみす機会損失を生じる。

この店の経営者は、タバコを吸う人なのだろう。だからこんな考え違いをするのだ。この考え違いを改めれば、この店の利益率がアップすることは明白なのだが。

さて、問題なのは、スモーカーとノンスモーカーの入り交じったグループで飲食するときである。昼食ぐらいなら、スモーカーに我慢してもらって、禁煙席に座る。そのくらい当然である。それが嫌なら、単独で喫煙席に行けばいいだけのことだ。

困るのは、夜の酒席の場合だ。とくに個室を予約した場合などは問題である。

個室に入ってすぐに換気設備の位置を確認し、風下の席にまとまって座ろうなんてことを考える「空気の読めるスモーカー」はごく少ない。ヘビースモーカーが何の考えもなく、「序列」なんてどうでもいい慣習に沿って風上にどっかり座ったりすると、その宴席は苦痛に満ちたものとなる。

単純な事実として、タバコの煙はノンスモーカーには大きな迷惑なのである。気分としての迷惑だけではすまない。煙がたなびいてくるとまともに呼吸できないのだ。むせちゃうから。

スモーカーは案外知らないだろうが、我々ノンスモーカーの多くは、スモーカーと同席すると、実に頻繁に息を止めている。目の前を煙が流れる間は、止めざるを得ないのである。あまり頻繁に息を止めると頭がぼーっとしちゃうのだが、それでも止めないとむせちゃうから、仕方ないのである。

某養老なんとかいう人は、受動喫煙による被害は証明されていないなんて言って(参照)、自分の喫煙を正当化したがっているが、そんなことを云々する以前に、ノンスモーカーは、近くで喫煙されると、呼吸という生存のための最も基本的な権利を妨害されて、リアルタイムで苦しいのだよ。素潜り名人じゃないんだから。

もし仮に受動喫煙が健康に何の害もないとしても、それ以前の話として迷惑は迷惑なのだ。そこに思い至らず、「禁煙運動はナチズム」なんておっしゃる某養老なんとかさんは、ナチ以下ということになる。

スモーカーは現実に大きな迷惑の発生源なのだから、ノンスモーカーと同席する時はタバコを遠慮するとか、どうしても我慢できないなら、風下で遠慮がちに吸うとか、きちんと気を遣うべきだ。迷惑をかける方が迷惑を受ける方に気を遣うのは、タバコに限らず、世の中で当然のことなのである。

「俺が好んで吸ってるんだから、漏れた煙をお前も吸え」というのは、本来ならば非常に失礼な話なのだが、その当然の理屈が、悲しいことに現場ではなかなか認識されていない。

タバコの話をする時、私はいつも、電車の中のヘッドフォン・ステレオからもれる音を引き合いに出す。自分の発生する煙には全然無頓着なヘビースモーカーが、電車の中で隣の若者のヘッドフォンから漏れてくる「シャカシャカ音」に眉をひそめるのを、私は「勝手なものだなあ」と思う。

音も煙も、垂れ流しということに関しては同じなのだ。そして、某養老なんとかさんの言っているのは、「ヘッドフォンから漏れるシャカシャカ音が健康に害をもたらすとは立証されてないから、迷惑だから音を小さくしろというのは、ナチズムだ」と言うのと、根底では同じことである。

それから付け足しだが、分煙されたファミレスに入ると、禁煙席に座っているのは大人同士のグループがほとんどで、喫煙席には、あろうことか小さな子どもを含む家族連れが多い。タバコの煙がもうもうと漂う席で自分の子どもに食事させる心理を、私は理解できない。

こうした光景を見るにつけ、私のスモーカーへの偏見は強まる一方なのである。

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2008年12月 8日

恐るべし、フォトショップの魔力

サンスポ、実写ヤッターマンの記事に女優の“修正前画像”を載せてしまう」という「痛いニュース」の記事に、私は感動してしまった。

化粧品のポスターはすっぴんのモデルを撮影して、CG で化粧を「描いたもの」というのは以前に書いた(参照)が、女優のプロポーションまで「描いてしまう」もののようなのだ。

詳しい話は「痛いニュース」の記事に飛んでいただければわかるが、要するにヤッターマンの実写版に登場する女優の写真が、修正前のサンスポ掲載版と、修正後のオリコン掲載版で、一見して明らかに違いすぎるというのが話題になっているのである。

実際に比べると、確かにウェストラインを初めとして、目のぱっちり具合、口の周りのシワなど、細かいところまで修正の施されているのがわかる。恐るべし、フォトショップの魔力。

ただ「サンスポ  ~~ 載せてしまう」というタイトルで記事にしてしまうと、いかにもサンスポのミスのように思われてしまうだろうが、私の知る限りの常識に照らし合わせると、それではサンスポに気の毒だと思うのだ。

だって、写真の配給元がわざわざ「修正前版」と「修正後版」の 2種類の画像を配信し、「ご使用にあたっては、修正後版をご利用ください」 なんてことをいうはずはないと思うのである。

これは、配給元の方がまちがって修正前版を送ってしまったと考える方が自然だ。きっと誰か土下座して謝ってるんじゃあるまいか。

こうした記事を見せつけられると、今後、いろいろなポスターなどでウェストの無茶苦茶くびれた女性タレントの姿を見せられても、「どのくらい修正してるんだろう」とか「元のウェストラインって、どのくらい外側にあるんだろう」とかいうのが話題になりかねない。

昔から、見合い写真なんかは写真館のオヤジの技術でかなりの修正を加えるのが当然みたいになっていて、「実際に会ってみてびっくり」 なんていう話がよくあったが、デジタル画像の時代になって、修正技術はそれどころではない進歩を遂げているようなのだ。

世の中、油断も隙もならないのである。

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2008年12月 7日

オバサンたちの不思議な世界

先月 13日の "消費者からの不思議な電話" というエントリーでもちょっと振れたが、世の中には、"「お友達と同じ服が欲しいの」という女性" が結構多いようなのだ。

わざわざ品番を控えて、店に探しに行く。店で見つからないと、メーカーに電話してまで「どうしても同じのが欲しいの」なんて言う。

で、私は件の記事で、そうしたタイプの女性とは「あまりお近づきになりたくない」と書いた。だってそうだろう。「あなたの着てるそのお洋服、素敵ね」と言われたらうれしいだろうが、「同じお洋服、私も欲しいから、どこで買ったのか教えて」と言われ、あまつさえ、服をひっくり返してケアラベルに表示された品番まで調べられて、うれしい人がいるだろうか。

そもそも私は、「お友達と同じ服が着たい」というメンタリティからして理解できないし、信じられないのである。普通は、「お友達と同じ服は避けたい」と思うものじゃないか。

ところが、私は最近になって気付いたのである。「お友達と同じ服を着たい」と思うメンタリティは、もしかしたらあり得るのかもしれないということに。

私が以前ちょくちょくお邪魔していたブログ(今は消滅)を書いていた女性は、洋服を買うとき、店員に「これなんか、今、よく売れてますよ~」なんて言われた途端に、「いくら気に入ったデザインでも買う気がしなくなる」と書いていた。

それを読んだ私は、「それこそ普通の感覚」と思った。だって、他の多くの人と同じ格好なんて、したくないではないか。しかしよく考えると、それは「普通の感覚」ではなく、「ちょっとしたこだわり感覚」と言っていいぐらいのものかもしれないということに、最近になってようやく気付いたのである。

もしかしたら彼女は、「私はファッションに関しては、ちょっとこだわり派だからね」ということを、言外に表現したかったのではあるまいか。そのあたりをくみ取れなかったというのは、私はちょっとぼんやり過ぎたのかもしれない。

ただそれは別として、そもそも「今、よく売れてますよ~」というセールストークが頻繁に使われ、しかもそれが効果的なものであると多くの店員に信じられているということ自体、「他の人と同じ服を着たい」と思っている女性が多いということの証左なんだろう。

まあ、確かにそのシーズンのトレンドに乗ったスタイルをしたいという欲求はあるだろう。店員としては、「これが流行ですよ」という意味で言っているだけで、その言葉に乗ってしまえば、安心して服が買えるということはあるのだろう。

そして、「あなたの着てるのと同じお洋服、私も欲しい」というのは、そうしたメンタリティがちょっと高じたものなんじゃあるまいかと思い当たったのである。あるいは、そう言うことで、相手のファッション・センスを褒めたつもりになるのかもしれない。

ただ問題は、自分は 「あなたと同じお洋服、私も着たい」と思っても、相手の方が「同じ服をお友達に着られるなんて、嫌だわ」と思っているかもしれないということを、そうしたメンタリティの人は理解していないということである。その無神経さは、困ったものだと思うのである。

で、この問題に関する考察はここまでで一件落着だと思っていた。ところが、私の想定を遥かに超えるケースが、それほど珍しいことではないと最近知って、目が点になるほど驚いてしまったのだ。

というのは、「私の買ったお洋服をお友達 3人が気に入っちゃって、どうしても同じのが欲しいって言うから、売ってちょうだい」なんて、お店に言ってくる女性が結構いるらしいのだ。俄には信じられないが、本当らしい。

そのお店で売り切れだったりすると、案の定、今度はメーカーにまで電話して「同じ服を 3着売ってちょうだい。在庫がないなら、また作ってちょうだい」なんて言ってくるのである。

ちなみに、アパレルメーカーに直接電話して「服を売ってちょうだい」なんて言うのは、前にも書いたように、森永製菓本社に電話して「キャラメル売ってちょうだい」とか、ソニー本社に電話して「テレビ売ってちょうだい」とかいうのと同じナンセンスなのだが、オバサンとしては、そんなことお構いなしである。

話が横道に逸れかかったが、要するに私は、「あなたと同じ洋服が欲しい、着たい」 というお友達の不思議な要請を快く受け入れ、自ら店に掛け合ったり、メーカーにまで無茶なことを言ってきたりする女性が少なからず存在するということに、心の底から驚いてしまったのだ。このメンタリティをどう説明したらいいのか、私にはわからないのである。

もしかしたら「それ素敵ね。私も同じの欲しいわ」と言われることで、自分のファッション・センスが褒められたと思って舞い上がり、さらにお店やメーカーにまで掛け合うことで、「何て面倒見のいい私!」と、一種の女王様的陶酔感を味わうことができるのかもしれない。しかし、この程度の試論では、説明しきれているようには思えない。

こうしたケースを生じさせるオバサンの心理を上手に説明できる人がいたら、ぜひコメント欄に書き込んでもらいたいと、最後にお願いしておこう。

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2008年12月 6日

やっぱり「既にぶっ壊れてた」 自民党

今年の 4月 29日に、「既にぶっこわれている自民党」 という記事を書き、さらに 9月 3日に 「挫折したのは福田さんじゃなく、自民党」 という記事を書いた。

10月 12日には「麻生さん、案外長持ちしちゃったりして」なんてことも書いちゃったが、それももうそろそろおかしくなってきたようだ。

私は基本的には、今の自民党はもうダメだと思っている。既に歴史的使命を終えたということに関しては、加藤紘一氏のいうことに珍しく賛成だ (参照)。

ただ加藤さんは「ねじれ国会」で、次の衆院選では自民党が 3分の 2 以上の議席を得ることが絶望的だとして、「超党派による協議が必要」とコメントしているが、部外者としてノー天気なことを言える私は、「超党派による協議」なんて生ぬるいことではなく、政界再編成につながればいいなあなんて思っている。

今、既に従来の「保守王国」と呼ばれた自民党の地方基盤はガタガタになっている。繰り返しの繰り返しになるが、"近頃「いい目」を見てなかった保守王国" という昨年 7月 30日の自分の記事から引用しよう。

田舎は最近、全然いい目を見ていないのである。大都会との格差は広がるばかりで、さっぱりいいことがない。自民党が天下を取っているうちは安心だとばかり思っていたが、どうやら、この頃の自民党は「改革」なんてきれい事を言い出して、都会志向ばかりしているように思われる。

(中略)

「改革」を推進しないことには、日本が危ない。しかし、それをやりすぎると、自民党が危ない。ある状況でうまくできすぎていたシステムは、その状況が変わると、とてつもなくしんどいことになる。

安倍、福田と続いた内閣は、ある意味、小泉政権が壊しすぎた自民党の屋台骨を修復しようとしていたように見える。しかし、小泉さんの壊し方が半端じゃなかったようで、なかなか思うようにいかなかった。とくに、手垢まみれの手法でなんとかなると思っていた福田さんなんて、まったくお呼びじゃなかったのである。

そこで、麻生さんである。新しそうで古そうで、またその間を自由自在に行き来してくれそうで、何とかなるなんてことも思わせ、事実、すぐにでも行なわれるはずだった総選挙を、とぼけにとぼけ、延ばしに延ばしてここまでやってきた麻生さんだが、「もはやこれまで的」 な状況になってきた。

おじいさん譲りのプラグマティック手法で、揺れ動きつつなんとか持って行ければなんてことも少しは期待されたが、その「揺れ動き方」が、野党の民主党のみならず、身内からの批判の種となってしまうのは、まことにもってお気の毒である。

党内掌握が全然できていない。毎晩ホテルのバーで飲んでも、全然無駄のようなのだ。一体誰と飲んでどんな話をしているのやら。

こんな風に、内部が自分の都合だけでバラバラに勝手なことを言い始めるのは、つぶれかけた会社とか、大規模リストラを目前に控えて疑心暗鬼に陥った会社とか、まあ、要するに終わりかけた組織が共通してみせる現象である。私はそんな例をくさるほど見てきた。

小泉改革で従来の自民党支持基盤がぶっ壊れ、それではあんまりだとばかりに、振り子の揺り戻しをしようとすると、今度は小泉さんの獲得した新たな支持層から見放される。どっちに振れてもマイナスにしかならないのは、やはり自民党は既にぶっ壊れているからなんだろう。

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2008年12月 5日

『ガンをつくる心 治す心』 という本

ガンをつくる心 治す心』(主婦と生活社・刊、土橋重隆・著、本体1,300円+税)という本を読み終えた。

近頃やたら忙しいので、行き帰りの電車の中でしか読めなかったが、それでも 1日半でサクサクっと読み終えた。非常に読みやすく、その上、含蓄に富んだ本である。

私がこの本に興味をもったのは、表紙に記された 「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」というキャッチコピーのせいである。で、かなりカルト的なものなのかと思ったら、著者の土橋重孝さんという方はれっきとした医学博士で、しかも内視鏡手術の第一人者だというのである。

そのプロ中のプロのお医者さんが、ガンについて「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」と言い切っておられるのである。「なんて率直なお医者さんなんだ」というのが、最初の印象だった。私は率直な人というのは、たいてい信頼に足ると思っているのである。

この本の主要な論点を私なりにまとめると、次のようなことになると思う。

  • 西洋医学においては、医者の仕事の 8割は「診断」であり、正しく診断されさえすれば、治療法は同じようなものになる。
  • 診断に際しては、病気という「起きてしまった現象」のみに注目し、その原因、とくに患者の内面的なことまで踏み込むことはほとんどない。
  • とくに進行ガンは西洋医学で「完治」することはなく、「5年生存率」をいかに上げるかに終始している。
  • しかし、末期の進行ガンが治ってしまうということが、現実にある。それらのケースはすべて、病院の治療とは別のところで起きている。本人の心が変わったことで治ったとしか思われない。
  • 多くのガンは「心身症」として捉えられるべきであり、内面の変化、すなわちガンになった心理的原因が取り除かれることで完治する可能性がある。
  • ガンが治るには、それまでの生活習慣、心的傾向などを「改善」するのではなく、思い切って「リセット」することが必要だ。

これ以上のことを知りたい場合は土橋さんのウェブサイトに行かれるのがいいし、よりダイジェストでお知りになりたいというなら、船井幸雄ドットコムのインタビューページを読むのが手っ取り早いだろう。

「船井幸雄」と聞いただけで、「トンデモの疑似科学はごめんだ」 と敬遠したくなる人も少なくないと思うが、このページだけは読んで損はないので、オススメしておく。

私が面白いなあと思うのは、この本の著者の土橋氏ご本人が、長年「西洋医学という科学」の最前線に立って素晴らしい実績を上げておられながら、自ら「科学的でない」というメソッドでガンというものを見つめておられることだ。

「科学的でない」といっても、トンデモの疑似科学というわけでもない。臨床と患者自身へのインタビューの積み重ねによって、データ分析した結果には違いないのである。ただ物理的とか化学的とかいうものではないので、ご当人は「科学的でない」とおっしゃっているのだろう。

確かに、物理や化学のように厳密なものではなく、「解釈のしかた」 という問題もあるので、「トンデモ」 と思ってながめればそんな風に見えるという人もいるだろう。この辺りはもしかしたら、「科学」と「疑似科学」のクロスオーバーしてしまう領域かもしれないので、機会があれば、改めて慎重に書いてみたい。

なにしろ、私は一部には「疑似科学側の人間」と思われているフシがあるので、少しは注意しなければならない。

土橋氏は末期ガン、進行ガン治療の現場という、もっとも患者に近いポジションにいたため、これまでの西洋医学的発想にはない「ガンになった内面的原因」を患者自身に聞くというインタビューを数多くこなされた。

これによって収集された多くのケースを分析し、ガン患者にはある心的傾向があり、そして患者の受けたストレスの種類によって、ガンになる部位にもある傾向が生じることを発見されたのだ。心と体というのは、かくも密接な関係があるようなのだ。

そして、そのガンをつくる心的傾向を「リセット」あるいは「フルモデルチェンジ」することで、医者が見放した末期ガンが治ることがあるという事実を紹介されているのである。

いや、この言い方は少し正確でないかもしれない。というのは、ガンが治った患者は「ガンを治すために、それまでの心的傾向を、強い意志をもって、無理矢理に変えた」というわけではないようなのだ。

どちらかというと、「ガンを治そう」なんてことはしなかったのである。それよりも、自然にもっと別の方向に心が向いたのだ。

例えば、病気のことは忘れて自分以外の誰かのために尽くそうとしたり、感謝を捧げたり、どうせ死ぬならと、それまでのあくせくした生活をさらりと捨てて、残りの人生を楽しむことにしたり、とにかく「ガンと闘う」なんてことは全然しなかったようなのだ。

土橋氏によると、ガンを治そうとしたり、闘おうとしたり、あるいはさらに進んで、ガンにならないように、日常生活でも極力気を付けたりするというのは、ガンをつくった心的傾向と同じなのだそうだ。そうした「真面目な心」が、ストレスをつくり、ガンをつくるというのである。だからガンが治るには、「ガンを忘れる」 ことなのだそうだ。なるほどね。

で、「真面目な心」の人がガンになりやすいということは、裏返せば「いいかげんな人」はガンになりにくいということのようなのである。それを読んだ私は、「ああ、いいかげんな男でよかった」と、胸をなで下ろしたのであった。

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2008年12月 4日

築地市場の外国人観光客対応

<東京・築地市場>外国人観光客、マナー悪い 競り見学中止--年末年始、繁忙期1カ月」というニュースに、目が点になった。

これまでは、「邪魔なんだけど、言葉も通じないから」とか言って仕方なく黙認してきたが、いきなり見学を受け入れないことにしたのだそうだ。「なんだかなあ」と思うのである。

このニュース、リンク先がいつ削除されるかわからないので、とりあえずリードの部分だけ下に引用しておく。

東京都中央卸売市場(築地市場、中央区築地5)のマグロの競り場に、外国人観光客が多数押し掛け業務に支障が出ているとして、都は各国大使館やホテル、旅行会社に、12月中旬から約1カ月間、競り場の見学中止を通知した。築地のマグロ競りは外国人の間でも「ツナ・マーケット」と呼ばれ、秋葉原、浅草と並ぶ3大人気スポット。早朝から500人近くが訪れる日もあるが、マナーを守らない人もいて関係者から不満の声が出ていた。

この「都は各国大使館やホテル、旅行会社に、12月中旬から約1カ月間、競り場の見学中止を通知した」というのが、ちょっと問題だと思うのである。いつ通知したのか知らないが、それが先月末頃だったとしたら、半月以下の周知期間しかないではないか。それだと急すぎる話である。

記事には「競り場は基本的に見学者の立ち入りは禁止だが、外国人観光客が多いため市場側がスペースを設けて黙認してきた」とある。このあたりの対応のあいまいさが、基本的に問題だろう。だから抜本的対策が取れないのだ。

日本に観光旅行に行くのに、急に思い立って半月先のスケジュールを決めるという人は少ないだろう。ほとんどの人は、多分 1ヶ月以上前から予定を立てているに違いない。そしてその中には、あの「スシ」のネタになるマグロの競りを見学するのを楽しみにしている人もいるだろう。

なにしろ「ツナ・マーケット」は、秋葉原、浅草と並ぶ 3大人気スポットだとあるじゃないか。市場側が外人観光客用のスペースまで設けているというのだし、観光客としては、当然のごとくやってくる。

ところが実際に来てみたら、「いきなり中止」ということになるのである。楽しみにしてきた観光客は、まあ、死ぬほどではないにしろ、かなりがっかりすることだろう。

日本は外国からの観光客が少ないとして、「観光庁」なんてものを新設してまで観光プロモーションを強化しているんじゃなかったのか。それなのに、都は場当たり的にいきなりこんなことをする。どうしてもっときちんとした方策を取らないのだろうか。

この記事には、"都内のあるホテルは「以前から競り場への立ち入りはできないと説明しているが、築地への行き方を聞かれれば教えないわけにはいかない。お客様の判断に任せるしかない」と困惑している" とある。

ことほど左様に、「ツナ・マーケット」は既に貴重な観光資源になってしまったのである。それは認めるほかない。なにしろ 500人からの外人観光客が来る日もあるというのである。邪魔と思えば邪魔かもしれないが、視点を変えれば貴重な観光客ではないか。

どうしてこれを活用しないんだ? この観光客たちにファンタスティックな体験を提供し、築地でしっかり金を使わせることを考えるべきではなかろうか。

「それをやりすぎたら、ますます見学者が増えて邪魔になってしょうがない」という声もあるだろうが、そうなったらどうせキャパシティは限られているのだから、入場制限すればいい。その措置に必要なコストは、観光客自身に落としてもらえるように考えるべきだろう。

どうせ午後の時間帯はがらがらなのだから、有効利用しようと思えばできないはずがない。都心の一等地なのだから、二毛作しなければ損ではないか。そして数年後に予定されている市場移転の際に、観光客対応をしっかりと考慮した設計にすべきだろう。

外国人観光客のマナーに関しては、各国語での案内標識やパンフレットを作ってガイダンスを徹底すべきで、それをするのは東京都の責任である。まあ、中にはそのガイダンスに従わない「本当にマナーの悪い外国人」も一定程度いるだろうが、それは築地に限った話じゃない。秋葉原でも浅草でも同じだ。

で、東京都の「市場別見学案内」というページをみると、見学申込書に記入して FAX で送れなんて、木で鼻をくくったようなことが書いてあるだけで、実態に即したまともな案内になっていない。お役所だなあ。

件の記事には "仲卸業者の野末誠さん(72)は「言葉が通じず注意もできない」と話す" なんてあるが、おそれながら野末さんに教えてさしあげる。言葉が通じなければ怒ればいいのである。仕事の邪魔をされて怒るのに遠慮はいらない。

怒ってもあまりこじれないように、「国際問題にならない効果的な怒り方マニュアル」なんてものがあってもいいだろう。要するに外国人に安心して怒れるノウハウがないから問題なのだ。

いずれにしても、東京都がリードして状況を少しでも改善できるような方策を検討すべきだろう。これまで黙認してきて、いきなりだめというのでは、ちょっと不親切すぎだし、観光の視点からみてももったいない。

あるいは繁忙期は見学者を受け入れないということを、年間スケジュールとしてかなり前から告知しておくのも手だ。それでもどさくさ紛れに入ってくる観光客はあるだろうが、少なくともその数は減るだろう。今回の措置にしたって、どうせ観光客の見学がまったくゼロになるとも思えないのだし。

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2008年12月 3日

「アラフォー」を巡る冒険

今年の流行語大賞は、「アラフォー」と「グ~!」だそうだ。

「グ~!」 は、エドなんとかさんの、ある意味人生をかけたギミックのようだから、少しはリスペクトしてもいいけど、「アラフォー」というのは語感が好きじゃないなあ。ここで言っても始まらんけど。

2ch の住人の多くは、あまりテレビを見ないようで、「アラフォー」という言葉そのものを知らない人が多かったようだ。のっけから「アラフォー……?」「初耳なんですが」なんていうコメントが寄せられたりしている。(参照

かく言う私も今年の夏頃まで「アラフォー」なんて言葉は聞いたことがなくて、阪神の金本選手が何かのインタビューで「我々アラフォーが……」とか言ってたのをちらっと聞いて、「そりゃ、一体何じゃ?」と思って調べてみたのだった。

それで "around forty" を略して「アラフォー」ということが初めてわかったのだが、そういえば、一時アパレル業界で 30歳前後の消費者ターゲットを称して、秘かに(でもないか?)「アラサー」 なんて言われてたなあと思い出した。この言い方も、「おいおい」なんて思ったものだが。

アパレル業界が「アラサー」と称していたのは、いわゆる「団塊の世代ジュニア」である。今まさに 60歳前後になった団塊の世代の子どもたちが、人口ピラミッドでみるとちょっとだけ突出した数になっていて、マーケティング的にはそこを狙わないという手はないという話だったのだ。

それにしても、「アラサー」とはねぇ。アラ、エッサッサーじゃあるまいし。

で、「アラサー」と言われていた頃にふと思ったのだが、アパレル業界のマーケティングって、どうしても一時的なものになりがちなのである。

「団塊の世代ジュニア」 の呼称なら、彼ら、彼女らをずっと追い続けながらマーケティングすることができる。しかし、「アラサー」と言ってしまうと、4~5年経てばマーケットの中身が入れ替わってしまうのだ。まあ、どうせ長いスパンのマーケティングができる業界じゃないから、それでいいといえばいいんだけど。

それから、最近は「アラカン」なんていう言葉まで生まれているんだそうだ。嵐寛寿郎 のことではない。「アラウンド還暦」つまり 60歳前後のことだそうだ。なんだ、つまりこれこそ「団塊の世代」そのものじゃないか。だったらそう言えばいいのに。

まあ、今の世の中は、同じことをいろいろな言葉で言い換えて目先の新しさを偽装し、商売の種にしていかなければならないということなのだ。どうせすぐに忘れ去られることに心血を注ぐというのは、まことにもってご苦労様なことなのである。

そういえば、私も次のロンドン・オリンピックの年には還暦になるんだった。ということは、「アラカン」なのかなあ。団塊の世代ではないんだけど。

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2008年12月 2日

"Fast Forward" の意外性を楽しむ

百式」に "「このページを見た人はこのページも見ています」を実現するFirefoxのアドオン『Fast Forward』" という紹介があったので、早速試してみた。

このアドオンの名称 "Fast Forwad" は、日本語で言えば「早送り」。インストールサイト は英語表示だけだが、簡単に処理できる。

サイトには、このアドオンの機能が次のように端的に説明されている。

It's like Amazon recommendations for webpages - "People who viewed this page also viewed this other page next".

"アマゾンの 「この商品を買った人はこんな商品も買っています」 というオススメをウェブに当てはめたようなもの" ということだ。なるほど、うまく言い得ている。だが、問題はその機能が本当に役に立つかどうかである。見当はずれなものをすすめられても困るから。

で、さっそくインストールしてみたのである。途中でどっちの設定を選ぶかみたいな選択画面 (パーソナライズするかどうかみたいなことだったかな? 急いでたので忘れた。ごめん) があったが、面倒だからデフォルトのまま進めた。

インストールが終わって Firefox を再起動すると、見慣れたナビゲーションツールバーの 「戻る/進む」 のボタンの右隣に、早送りボタンが追加されたのが確認された。

で、この 「早送り」 を実行するとどんなページが表示されるのか、ちょっとだけ試した結果は以下の通りである。

民主・小沢氏「政権たらい回しあり得ぬ」 (Nikkei Net)
 >> 創業者の再登板はなぜあまり成功しないのか 勝間和代 (Nikkei Net)

早大セクハラ相談リストが流出 (Goo ニュース)
 >> 経営理念 ザ・リッツ・カールトン ホテル カンパニー 「紳士淑女をもてなす紳士淑女の集団」

NHK衝撃、超エリート管理職が万引き (デーリーニュース)
 >> Yahoo ファンタジーサッカー 選手検索

知のヴァーリトゥード (私の本宅サイト)
 >>" In Defense of Japan's Case 1 & Case 2"(Vol.
1 & 2)
(@nifty 内)

うぅむ、上の 二つは少なくとも関係ないとも言えないけれど、下の二つは一体どういうことなんだろうか。

とくに、私の本宅サイトのトップページから、かつて日本には戦争責任がないと論じたインドのパル判事の文章を、獨協大学の中村粲教授 (当時) が編集・注釈したテキストを、志水一夫さんという方が紹介したページに飛ぶというのは、腰が抜けるほど驚いた。

何しろ、私自身が初めてお目にかかるページだし、中村粲氏というのも、"Akira Nakamura Prof.of Dokkyou Univ." というのを頼りに、Wikipedia で探し当てたほどだ。探し当ててみたら、なんと右派の牙城、「正論」 の論客で、日本教育再生機構 の発起人なんだそうだ。

うぅむ、私のサイトは、ネット上で客観的にみると、かなり右派系というポジショニングなのかなあ。まあ「伝統的保守派」を自称しているのだから、左でないのは確かなんだけど、「ネット右翼」 (参照) とは一線を画しているつもりである。

それから、このページを運営していらっしゃる清水一夫さんという方は、なかなか膨大なウンチクを驚異的なマルチリンガルで語っておられるようで、興味を感じられたら、彼のサイトのトップページ をご覧いただきたい。

結論。この Fast Foreward というアドオンは、ある程度の意外性を楽しむツールとしてはなかなか面白い。

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2008年12月 1日

すれっからしの読書

近頃、読書量が減っている。決して本を読まないというわけじゃないのだが、若い頃に比べると、「激減」と言っていいかもしれない。

若い頃はとにかく、よく本を読んだ。暇さえあれば読書していた。学生時代なんてインターネットはおろか、テレビももってなかったから、情報は本から得るしかなかったのである。

40歳になる前までは、徹夜の読書も平気だった。必要な情報なら、分厚い本を一晩で読んででも身に付けたものである。あの頃は、本当に体力があった。読書に必要なのは、もしかしたら知力よりも体力なのかもしれない。

近頃は、それができなくなったのである。まず、眠い。徹夜ができなくなった。本を読んでいるつもりで、ふと気付くと眠ってしまっていたりする。それに、1時間以上活字を追っていると、目が疲れてしまう。しょぼしょぼになってしまって、文字が読めなくなるのだ。

ああ、一晩ぶっ続けで活字を追ってもしゃっきりしていた頃の視力が欲しい。それさえあれば、どんなに新しい仕事にチャレンジできるだろう。

読書量が減ったのには目と体力の要因の他に、インターネットがある。活字を読まなくても、かなりの情報が瞬時に入手可能なのだ。つまり、読書の必要性が、相対的に少しだけ低くなっているともいえる。

しかしまとまった体型的な情報を得るには、やはり読書が一番である。だから、私だって本は買わないわけじゃない。図書館から借りないわけでもない。ところが、最初に述べたような事情なので、なかなか完読ができないのである。読みかけの本のみがどんどん溜まる。

そして幸か不幸か、読みかけでも案外大丈夫なのである。途中まで読んでしまうと、筆者のいいたいことは大体わかってしまうのだ。

本の内容というのは、最初に肝心の部分が提示され、あとはその詳しい説明が延々と続くか、あるいは、最初にいろいろなデータが次から次に提示され、最後に「だから、これこれこういう結論だ」というのが多い。

最初に肝心の部分が提示されてしまうと、大体それでわかってしまう。そしてそれは、最初に詳細から入るスタイルでもあまり変わりない。いろいろなケースの紹介を読んでいるうちに、筆者の言わんとすることは大体わかってしまう。その前提のたて方のうちに、結論はほとんど含まれている。

人間、長く生きていると、一を聞いて十を知るというほどじゃないが、すべて読まなくてもわかってしまう能力が発達してしまう。「ああ、これ、知ってる」って感じなのである。

そんなわけで、うまくしたものである。目が疲れて読めない部分は、経験の力でなんとかなってしまったりするのである。すれっからしの読書である。体力を経験で補うのだ。

まるで住宅ローンを返済するのに、最初のうちは利息ばっかりだが、そのうち元金の比率が高まるように、ある程度経験を積んでくると、同じ読むのでも効率がずっとよくなるような気がする。大抵のことは既に知っていたりして斜め読みがきく。

すれっからしの読書を裏切ってくれるのは、やはり小説だ。よくできた小説は、読み進むほどに私の予感をいい意味で裏切ってワクワクさせてくれる。だから小説は止められない。しかし、とくに長編小説を読むには体力がいる。

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