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2008年12月23日

英語の授業と東京タワー

教育現場の今のトレンドは 「脱ゆとり」 だそうで、高校の英語の授業は原則英語で進めるということになるんだそうだ。

それに対して現場の教師は「正直・無理」と言っているという。生徒の英語理解力と教師自身の英会話力の両方の意味で、「無理」と言っているようなのである。(参照

私の中学・高校時代、英語の授業は本当につまらなかった。使えない英語ばかり教えられて、その教え方もまったく魅力のないものだった。私が英語に対する興味を失わないで済んだのは、中学時代に通った英語塾の先生のおかげである。この先生の手法を踏襲すれば、英語の授業を英語で進めるのは、無理なくできると思う。

私は学習塾というものにはほとんど興味がなかったので、通ったのはこの英語塾と書道塾だけだ。書道塾は小学校 4年の時に「あまりにも落ち着きがないので、少しは落ち着くように」と通わされ、1年半ぐらい通った覚えがあるが、それ以上は続かなかった。英語塾だけは、中学校の 3年間、案外まじめに通った。

その塾は、酒田東高校で校長を務めた上野先生という方が引退してから始めた塾だった。当時としては画期的なことに、生徒全員がイヤフォンでネイティブ・スピーカーの発音を繰り返し繰り返し聞くことのできる設備を備え、先生の打ち鳴らすカスタネットで、リズム感のあるリーディングを叩き込まれた。

この塾は、小学校卒業間際の 3月頃から始まった。そして最初の授業では、まず身につけるべきたった 3つの単語が示された。"Look" "Listen" "Repeat" である。その際に「今、覚えられなくてもいいよ。どうせこれからずっと言い続けるから、嫌でも覚える」と言われた。

ただ、"look" "listen" の "L" と "repeat" の "R" は、全然別の発音なのだということはしつこく言われた。そして自分の体でわかるまで何度も繰り返し発音させられた。この時点で、英語をカタカナでしゃべるという発想からは自然に解き放たれた。

上野先生の授業では、"look at my mouth" "listen to me carefully" "repeat after me" という言葉が何十回となく繰り返され、それはいちいち「私の口を見て」とか「注意深く聞いて」とか「私の後について繰り返して」とか、日本語に訳さなくても、1ヶ月もしないうちに、そのまま英語として条件反射的に理解されるまでになった。

そうこうしているうちに、授業はどんどん英語で進められるようになり、上野先生の英語の質問に、習ったばかりの構文を使って英語で答えるのが楽しみになった。この頃には、英語で考えて英語でしゃべるというのが可能になっていた。

田舎の事とて、中学校 3年生の春、修学旅行で初めて東京に来た。団体で東京タワーの展望台に昇ると、それまで生で見たことのない外国人がたくさんいた。

「あの外人と英語でしゃべれるか?」と誰ともなく言いだし、私が「できると思う」と言うと、みな「ウソだ!」と信じなかった。私としては、その時点で 2年半近くも英語を習ったのだから、ちょっとした会話ぐらいできないはずがないと思っていた。実際、いつも上野先生と英語で問答していたし。

というわけで、それが決してウソじゃないことを証明するために、手近にいたアメリカ人のオバサンに "May I speak with you a little?" と話しかけると、彼女は日本人の少年が案外まともな英語を使うのに興味を覚えたらしく、快く応じてくれて、ずいぶんいろいろな話をした。

彼女がシカゴから来たとか、私は日本の田舎町から修学旅行で東京に来たのだとか、日本の伝統的な神社仏閣がステキだとか、これから京都に行くのが楽しみだとか。それから、東京タワーの展望台から見える建物や山の説明までさせられた。ほとんどは他愛のない内容だったが。

この時、あまりにもまともに会話になってしまったので、私自身が驚いた。クラスメイトたちは、不思議なものを見るように私たちを取り囲んで注目していた。最後にそのオバサンが文通をしようと言いだして住所を交換し、その年のクリスマスに、米国からプラモデルのプレゼントが届いた。私は感激して礼状を書いた。

文通自体はそう長くは続かなかったが、私はその時の経験から、英語のコミュニケーションなんて、全然特別なことじゃなく、まったく軽い気持ちでできるものなのだということがわかったのだった。

英語の授業を英語で進めるというニュースと、東京タワー 50周年というニュースが同じ日に伝えられたので、こんなことを思い出した。今さらながら、今は亡き上野先生に感謝を捧げたい。

 

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント


>生徒の英語理解力と教師自身の英会話力の両方の意味で、「無理」 と言っているようなのである

中にはアルファベットが分かる程度の生徒もいるから無理だという意見も読みましたが、そんなレベルで高校かい? (笑)

私は私立の小中学校に通っていたので英語の授業がありました
その効果は果たしてあったのかどうかは判断がつきません

私の高校のある英語教師の発音は、カタカナよりひどい「ひらかな」でした
う~~ん
余計な発音を吹き込まれた (笑)

一応は高校の英語の教師をつとめるのですから、この程度の授業さえ無理というのが理解できません

発音とリスニングの授業だけは、小学校から始めた方がいいと思います

戦後関西では、米軍放送がありましたが、ある時期から放送が無くなりました
大学入学で東京に来てみるとその米軍放送がまだあった
ただし、米国人から「米軍放送のアナウンサーの英語は、かなり無教養なレベルの英語である」という事をいわれてがっかりしました
かなり耳に染み込んでいたので (笑)

投稿: alex99 | 2008年12月24日 02:32

alex さん:

>中にはアルファベットが分かる程度の生徒もいるから無理だという意見も読みましたが、そんなレベルで高校かい? (笑)

私が高校受験したとき、英語の試験に 「アルファベットを大文字で A から Z まで書け」 というのがあって、愕然としました。

あれでは、「数学は苦手だけど、英語はものすごく得意」 という受験生にものすごい逆ハンディですね。

>私の高校のある英語教師の発音は、カタカナよりひどい「ひらかな」でした

うちにも 「ひらがな発音」 の英語教師がいました。

"I met an old lady." を

「あいめったん のーるどれいでぃ」 (正確にひらがなで発音しないと、イメージがわかりませんので、よろしく) というので、

「あいめったん」 と呼ばれていました。

>一応は高校の英語の教師をつとめるのですから、この程度の授業さえ無理というのが理解できません

まさに。

>発音とリスニングの授業だけは、小学校から始めた方がいいと思います

挨拶と買い物、道案内程度なら、いいでしょうね。

>米国人から「米軍放送のアナウンサーの英語は、かなり無教養なレベルの英語である」という事をいわれてがっかりしました

私の発音がそうです。きっと ^^;)

投稿: tak | 2008年12月24日 08:42

ここ数日、この件に関する色々な意見を見ていて思ったのですが、おそらく「脱ゆとり」→「指導要綱の変更」という思考パターンが皆さんに不安がられているのではないでしょうかね。「受験戦争」→「ゆとり」という流れとなんとなく相似形が感じられるから。

「今までのやり方では(平均的な生徒にとっては)到達できる水準も不十分で、そこに至る効率も非常に悪い」という問題認識は誰も異論のないところでしょう。したがって、文部省や「ナントカ審議会」の第一の仕事は「どのような語学力を身に付けることを目指すべきなのか」に関して国民的なコンセンサスを得るかということではないかと思います。そうしたキャンペーンが全く不十分です。

また、具体的な政策としてはどうすれば良いのか?
文部省による指導要綱の変更というのは極めて評判が悪く、「ゆとり教育」などの事例を見るとむべなるかなです。今回の措置に関し、所詮大学入試が従来通りであれば、生徒や学校も従来通りの受験英語に執着するであろうという意見をよく見ます。私もそれはその通りだろうと思います。
しかし、逆に言うと、大学入試において実効性の高い語学力を問うようにすれば、自ずと受験産業や多くのまともな高校は語学教育のやり方を変えてくるでしょう。生徒のモチベーションもかなり違ってくるでしょう。波及効果で中学校や小学校も変わって来るでしょう。
つまり、日本の学校制度の特徴を考えると、ピンポイントで大学入試を改革すれば、あとは役人が考えるよりもはるかに優れたイノベーションが生まれたり、生徒自身を含む色々なひとの知恵が働くはずだと思うのです。それを邪魔せずにサポートする政策も必要でしょうけど。

takさんの体験は、何を身に付けるべきかというビジョンの大切さや、それに基づく現場での知恵や努力の有効性を鮮やかに証明していると思うのです。

長文かつ数日遅れのコメントで失礼しました。

投稿: きっしー | 2008年12月26日 15:57

きっしー さん:

>日本の学校制度の特徴を考えると、ピンポイントで大学入試を改革すれば、あとは役人が考えるよりもはるかに優れたイノベーションが生まれたり、生徒自身を含む色々なひとの知恵が働くはずだと思うのです。

言えてますね。
大学入試のありようを変えれば、あとはオートマチックだと思います。

役人の言うことに従ってうまく行ったという実例を、私は知りません。

投稿: tak | 2008年12月26日 23:15

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