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2009年1月19日

堅い道と柔らかい土壌 Part 1

4年前の 1月 29日、私は別宅サイト「和歌ログ」で、「いにしへの人の歩みのありてこそ頼もしきかな堅きこの道」と詠んだ。

私は自称「伝統的保守派」なのだが、その心情のベースには、こうした感慨がある。いにしえからずっと人が歩み続けた道(伝統) は、信頼するに足ると思うのだ。

和歌ログを始める遥か前、20代の頃も「草深き峠の道も靴底に伝はる堅さ我を導く」という歌を詠んだ。これは実感というもので、昔よく山登りをしていた頃、あまり人気のない峠道などでは、道が草に埋もれてしまって、迷ってしまいそうに見えることがある。

しかし、なかなかよくしたもので、草に埋もれてしまった道でも、そこを少しでも外れると踏み固められていないので柔らかい。昔からの峠道とは、靴底に伝わる感触が全く違うのである。だから踏みしめられた「堅さ」を自分も踏んで行きさえすれば、道には迷わずに済むのである。

こうした実感から、私は「いにしへ人」の知恵に対して、とても大きな信頼をおいているのだ。「先達はあらまほしきもの」であり、そのあらまほしさは、伝統の中に確固として存在すると思っている。

禅宗(もしかしたら禅宗に限らないかもしれないが)の世界で昔から発せられる問いに、「仏性ある人間が、なぜ迷うのか? 悟りを得るために、なぜ修行をしなければならないのか?」というものがある。

仏教では「悉有仏性」という。すべての存在の内に仏性(仏の悟り)はある、あるいは、あらゆるものは、仏性の顕現であるというのである。ならば、既に悟りを内在する人間がなぜ迷うのかというのは、当然の疑問である。人間が元々仏であるならば、改めて仏になるために修行する必要などないのではないか。

この問いに間して私はいつも、全ての者の中に仏性はあるので、その仏性が自ずから先達の付けてくれた道を歩むのだと思っていた。心を空にして歩めば、仏性を内在する菩薩の辿るべき道は、靴底を通して自ずから示されるのだと思っていた。なぜならば、仏性は仏性に感応するからだ。

この問題はなかなかややこしいので、今日のところは Part 1 としてこの程度にとどめておこう。続きは明日になるか、来週になるかわからないが、必ず書くということで。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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