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2009年1月21日

堅い道と柔らかい土壌 Part 3

このテーマの Part 1 で私は、堅く踏みしめられた道への信頼を述べ、Part 2 では一転して、堅く整った道ではなく、柔らかな土壌こそ、「いのち」の躍動の場と述べた。

この矛盾に、私は迷ってしまったのである。「仏性」を内在し、本来悟っている存在であるはずの私が、ずいぶんと迷ったのである。

迷ってみて気付いたのは、仏性を内在し、本来悟っているはずの人間というのは、本来悟っているからこそ、悟りに強制されるような受け身の存在ではなく、かなり自由に任されているようなのだということだ。悟った風に生きようが、迷った風に生きようが、それは自由なのである。

「お前は本来悟っているのだから、ちゃんと悟った風に振る舞え」と、お釈迦様に首根っこをひっつかまれて、蓮の台(うてな)に座らせられるなんてことはないようなのだ。本来悟っているからこそ、自由に躍動することが保障されているようなのだ。

無理やりに蓮の台に座らせられてしまったら、いくら悟っているといっても、これほどつまらないことはないだろう。悟りとは不自由の別の言い方というようなことになってしまう。悟っているからこそ、自由にいろいろな表現をするものなのだろう。

だから、堅く踏みしめられた保障の効いた道さえ辿ればいいはずなのに、人間は柔らかだがリスキーな未踏の土壌に一歩を踏み出して、自由な生命の躍動を体験してみたくなるのである。これは一見すると道に迷っているように見えるのだが、実は迷っているのではない。いのちが躍動しているのである。

どんなに迷っているように見えても、「悉有仏性」だもの、本来仏性を内在しているのだもの。迷っているのではない。だから、その気になればいつでも堅い道に戻ってストイックな修行を積むこともできる。自由に踊り出したくなったら、いつでも柔らかな土壌で、土にまみれて踊ることもできる。

本来悟っているのだもの。道が堅いだの、土壌が柔らかいだのは、実は超越してしまっているのである。柔らかい土壌で戯れながら、同時に堅い道を辿ってもいるのである。禅定三昧とは、そうした境地を言うのだろうという気がする。

最後は下手な禅問答じみてしまったというより、尻切れトンボ気味になってしまったようで、まだ何だか言い足りないところがあるのだが、とりあえずこのテーマは今日でおしまいということにする。これ以上掘り下げすぎると、まだ手に負えないところがあるので。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

謹んで拝読いたしました。
 歌舞伎などの“守・破・離”という言葉を思い出しました。

 先人の過ち経験やひらめきから、踏み固められた“道”が続くものと。
 情報の即時化や嗜好の多様化、柔らかいところにどんどん足を踏み入れる時代なんですね。抜けられなくなってるヤツも当然いるんでしょうね。

 老子の“道”も、同様の考え方なのでしょうか?(生兵法は怪我の元なのでココまで)


 ま、せめて、頭(思考)は固くならないように、心がけます。

投稿: 乙痴庵 | 2009年1月21日 12:45

乙痴庵 さん:

>歌舞伎などの“守・破・離”という言葉を思い出しました。

“守・破・離”は、芸道一般に用いられますね。元々は兵法の分野から来たとも聞きますが、よくわかりません。
いずれにしても、「武芸」 と言いますから、芸道一般と言っていいと思います。

私なぞは、「習うて、それを忘れよ」 なんて教わりました。
基本をしっかりやって、しかる後に、それから離れて自由自在になることだと。

前に書いた 「十牛図」 とも共通するところがあると思います。

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2007/06/post_25bc.html

投稿: tak | 2009年1月21日 16:21

今回のお話が古道のお話からだったので、何となくですが種田山頭火の「分け入つても
分け入つても青い山」という句と、種田山頭火自身の人生が思い浮かびました。
生きているからこそ、リスキーな道ではないところを歩くのですね。
まだ私は気付かないだけで、泥まみれになりながら脇道にそれて歩いているかもしれ
ませんね。
一生気付かないかもしれませんが。。。

投稿: 雪山男 | 2009年1月21日 17:15

雪山男 さん:

>生きているからこそ、リスキーな道ではないところを歩くのですね。

魯迅が 「もともと地上に道はない。歩く人が多くなればそれが道となるのだ」 と書いていますね。

逆の見方をすれば、どんなところでも道になり得るんでしょうね。

投稿: tak | 2009年1月22日 10:39

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