『唯一郎句集』 レビュー #5
『唯一郎句集』 レビューの第 5回目。前回のレビューに付けられた alex さんのコメントにレスを付けていて気付いたのだが、唯一郎の句は、かなり新感覚派的なところがある。
歌い込まれた視点の転換のしかたが、とても新鮮なのだ。リアリズムの常道ではなく、急に思いがけないところに視線が飛ぶ。
前回紹介した「白足袋白き 屋根の雪明かりたり」という句は、胡座をかいた自分の足許から、急に窓の外の屋根に積もった雪明かりに視点が映る。白つながりとはいえ、急展開だ。私は川端康成の『雪国』冒頭の、「夜の底が白くなった」という表現を思い出した。
彼が自由律の俳句を始めた大正 3~4年頃は、まだ「新感覚派」という言葉すら生まれていなかった時期である。新感覚派の母体となった文芸同人誌 「文芸時代」 の創刊は大正 13年。とすると、唯一郎の俳句手法は当時、かなり衝撃的なところがあったろう。「天才少年」と言われたわけもわかろうというものだ。
今回も引き続いて「朝日俳壇」時代の作品である。前回同様、冬の季節感が漂う。酒田の冬は、それほど深い雪にはならないが、地吹雪になる。景色は墨絵のようにモノトーンだ。そんなような光景と、日々の暮らしを表現している。
湯豆腐つつく箸先の光りこの夜
湯豆腐は、普通の鍋物とは少し感覚が違う。すき焼きや寄せ鍋は、数人が鍋を囲んでつつき合うが、湯豆腐は案外独りで食うのが似合ったりする。
家人が仕事で遅くなった夕べなど、唯一郎は独りで湯豆腐をつつくことがあったのだろう。白米の飯と湯豆腐。モノトーンの食材を湯気が包み、その湯気の中で箸先が光る。
「箸先の光るこの夜」ではなく「光りこの夜」としたところが、不思議な余韻を残す。
裸木はかなく照り 水鳥つくろへり
川岸に立つ木は、葉を落とし裸の姿で乾燥している。冬の長くは続かない弱々しい日を浴びている。その下の水面に浮かぶ鳥は、嘴で羽根を繕う。不思議な対象。「水鳥つくろへり」という思い切った省略が潔い。
踏みしむる枯葉鳴り水鳥の面 (つら)
川岸を歩くと、靴底で降り積もった枯葉がカサコソと鳴る。湿り気の表面のみの乾燥を表わす微妙な音。水面には水鳥が、関係のない顔をして浮いている。
関係のないはずの水鳥の顔を、唯一郎は枯葉の鳴る音にひょいと関係づけてしまった。
切り餅焼く夜の母の火鉢に寄らず
酒田は丸餅文化圏である。切り餅はどこか他の土地からの到来物だろう。文芸面の知人から届けられたものだろうか。
餅を焼くのは男の仕事だが、ましてや到来物の餅だけに、母はどこかよそよそしく、火鉢に寄りつかないのかもしれない。
今日はこれぎり。
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コメント
別の言い方をすれば
彼は、575という字数による俳句世界の限界を取っ払ったただひとりの人、または575を最大限に活用した人・・・と言うことも出来るかな?
575をこういう使い方をした人はいない
投稿: alex99 | 2009年2月 9日 03:11
う~~ん
酔っぱらってもブログは書けますが、酔っぱらっての俳句の鑑賞はむずかしい
私の書いた事、意味は通じますか? (笑)
575という字数制限のなかで、すごく言葉を有効に使って制限があるとは思えないような表現をなしえている・・・様に思います
投稿: alex99 | 2009年2月 9日 09:44
alex さん:
真夜中に飲んでいらっしゃるようで ^^;)
まあ、五七五の定型ではないんですが、ずいぶん思い切った手法を取り入れているなあという気がしますね。
若さの勝利みたいなところもあると思いますが。
投稿: tak | 2009年2月 9日 10:28